~今年も相変わらずダメな社説に始まりダメな社説に終わるか~
平成16年元旦の朝日新聞社説は「節目の年明けに??「軍隊」を欲する愚を思う」である。何が節目なのかと言うと、今年は日露開戦からちょうど100年目であり、また自衛隊の発足から50年目だからなのである。そのようなことは朝日から教えられなくても承知しているが、だから何だと言うことになる訳で、社説は「日本人の多くは長いこと自衛隊や軍隊に強い関心をもたずにきた。しかし、今年ばかりはそうも行くまい。節目の年明けに、そのことを考えたい。」としてイラクへ自衛隊を派遣することは「人道支援が主眼だとはいえ、初めて戦火のやまぬ国へ、危険を覚悟の派遣である。折しも小泉首相は自衛隊を名実ともに軍隊にしたいと言い、自民党は改憲案づくりを始めた。」言っているのである。
さらに朝日「二つの原爆投下とともに軍の時代は終わり、行き着いたのは新憲法による軍隊との決別だった。だが、理想にも限界がある。やがて現実とのはざまで生まれた自衛隊は、海外に出ず、自国の防衛に徹することで、戦争放棄の憲法9条と共存してきた。」として「日本の防衛を補ってきたのは日米安保条約だが、戦後60年近く、日本が一切の戦争に加わらずにすんだのは、やはり憲法のお陰が大きかろう。」と日本が正規の軍隊を保有していなかったことと戦争放棄の憲法9条があって良かったと言っているのである。
憲法9条があったお陰で、日本は戦争に巻き込まれずに済んだとは空想的平和主義者が朝から晩まで言っていることだが、その国の最高法規の憲法に戦争放棄をうたえば戦争はなくなるし、戦争に巻き込まれないというのは幻想であり、世界はみんな良い人で、話し合えば何でも解決することが出来るという世界の七不思議に加えても良い夢のような思想と言えるだろう。しかし安全保障は、夢のような思想では国民は不安でたまらないし、「もしも」と言う事態を想定していないのだから、空想科学小説に出てくる実験国家のようである。
たしかに戦後、日本が一切の戦争に加わらずにいたのは、良いことかもしれないが、それは偶然であったのではなく、朝日の言う「日本の防衛を補ってきた日米安保条約」と自衛隊による抑止力であったと考えるのが当然ではないか。そして朝日は自衛隊は自国の防衛に徹することであり、海外に出て行くことは憲法9条のためにしてはならないし、それを9条が今まで阻止して来たのではと言うのであろう。
日本は朝日の思う通り「日本は特殊国家である」「日本は一国平和主義を貫く」として、過去の戦争による甚大な被害から日本は「戦争はこりごりだ」と戦争のことを考えることすら拒否してきた。旧社会党が「有事法制が出来ると戦争が始まる。そんな事考えなければ戦争はない」と言っていたが、以前なら「それはそうだな」と同調する人もいたので旧社会党はそれなりの勢力を維持してきたようだ。
しかし、湾岸戦争あたりから、このような日本の「一国平和主義」は世界の批判を浴びることになった。「日本は国際社会の平和維持にはなんら貢献はしない」としてきた方針を貫くことが出来なくなったのは至極当然の流れであったのである。そして、湾岸戦争後に憲法違反だとの左翼の反対の中で掃海艇が派遣され、その後PKO法の成立により自衛隊が海外に出るようになり、日本は特殊国家から普通の国家に、また一国平和主義から世界平和のために貢献するというやや前進した政策をとるようになったのである。
だが、日本はまだ臆病であったため「危険な所には行かせないし、行かない」との方針を堅持し、日本はずるい国で、危険なことは他国に押しつけてきた。そんな理念もない日本を侮り、北朝鮮は日本人を拉致し、支那は沖縄近海において軍事的は圧力を加えてきても、国家としての対応が出来ないという気概もない状態であり続けたのである。
小泉総理が「日本人の精神が問われている」として自衛隊のイラク派遣を決断した訳だが、もし朝日の主張の通り自衛隊のイラク派遣を中止したとしたら、「日本は一国平和主義を貫く」とした特殊国家にまた戻ってしまうという屈辱を味わうことになる訳であり、自衛隊によるPKO活動の成果がすべて無になってしまうことになる。
社説の最後は「専守防衛」に誇り持てとして、憲法9条がなかったらアメリカから「(日本の自衛隊が普通の軍隊としてイラク)開戦のときから派兵を求められていたのではないか」として9条のお陰で自衛隊を普通の軍隊にしておかなかったことは良かったと言うのである。そして小泉総理が「(自衛隊を)いずれ憲法でも軍隊と認め、しかるべき名誉と地位を与えるべき時期がくる」と語ったことに「軍隊になることがそんなに名誉なのか。自衛隊では名誉がないのだろうか」として、今でも自衛隊として名誉があるのに軍隊にならなくても良いではないかと抗弁するのである。
朝日にはそのようなことを言う資格はあるだろうか。朝日は自衛隊の名誉について、小泉総理が自衛隊のイラク派遣を決断した時に「国民は危険を承知でイラクに赴く自衛隊に感謝と敬意で送り出して貰いたい」との話を聞いている訳だが、それを聞いてどのように感じたのであろうか。朝日が中心となり先頭を切って自衛隊に言われなき批判を加え、貶め続けてきたことをすっかり忘れて「自衛隊では名誉がないのだろうか」とは「自衛隊で十分で軍隊として認めることはない」とし、自衛隊は外国に出れば軍隊として処遇されているのに朝日は認めないと言う事であろうか。
日本国民からは正規軍として認知されず、外国からは自衛隊を正規の日本軍として認知されている状態は異常であり、それでも朝日は自衛隊には十分に名誉があるのではないかと言っているのである。
軍人の名誉とは国民からの支持、また感謝と敬意を受けることである。だからこそ国民のために命を投げ出し犠牲となる覚悟を持っているのである。そのような軍人が万一犠牲となった時は、その国の元首が代表して弔意を表すことが普通ではないか。朝日は「(自衛隊は)普通の軍隊でないことに誇りをもつのがいい」として日本国民からは正規軍として認知されていないまま誇りを持てと言う訳であり、社説の最後は「もとより外国での戦闘には一切加わらない。そういう哲学を堂々と語る。それで安心し、評価もするアジアの国は多いはずだ。」「米国だけを頼みとするのでなく、アジアの平和づくりにしたたかな外交を展開していく。過去を振り返り、未来を思いつつ、それが日本のとるべき道だと考える。」とはアジアのどこかの国が安心し、評価しなければ自衛隊を普通の軍隊にしてはいけないし戦争をした日本の過去からして、日本のとるべく道は「アジアの平和づくりにしたたかな外交を展開していく」というのだから分からなくなってくる。
今年も朝日はお正月から「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と言う憲法前文を大事にしているのか、アジアには「平和を愛する諸国民」ばかりではなく、同胞を拉致誘拐するような恐ろしい国があり、まともに話合いが出来ないのに、どうやって「平和づくりにしたたかな外交を展開していく」のであろうか。また今年一年カラスが鳴かない日はあっても朝日の社説が批判されない日は一日もないだろう。以前読んだ本に「日本の良識をダメにした朝日新聞」というのがあるが、今年も相変わらずダメな社説に始まりダメな社説に終わることになるだろう。
(2004/01/01)
この記事は「私の主張」第195号
元旦の朝日新聞社説を読んで
~今年も相変わらずダメな社説に始まりダメな社説に終わるか~
としてHPに掲載されていたものです。
平成16年元旦の朝日新聞社説は「節目の年明けに??「軍隊」を欲する愚を思う」である。何が節目なのかと言うと、今年は日露開戦からちょうど100年目であり、また自衛隊の発足から50年目だからなのである。そのようなことは朝日から教えられなくても承知しているが、だから何だと言うことになる訳で、社説は「日本人の多くは長いこと自衛隊や軍隊に強い関心をもたずにきた。しかし、今年ばかりはそうも行くまい。節目の年明けに、そのことを考えたい。」としてイラクへ自衛隊を派遣することは「人道支援が主眼だとはいえ、初めて戦火のやまぬ国へ、危険を覚悟の派遣である。折しも小泉首相は自衛隊を名実ともに軍隊にしたいと言い、自民党は改憲案づくりを始めた。」言っているのである。
さらに朝日「二つの原爆投下とともに軍の時代は終わり、行き着いたのは新憲法による軍隊との決別だった。だが、理想にも限界がある。やがて現実とのはざまで生まれた自衛隊は、海外に出ず、自国の防衛に徹することで、戦争放棄の憲法9条と共存してきた。」として「日本の防衛を補ってきたのは日米安保条約だが、戦後60年近く、日本が一切の戦争に加わらずにすんだのは、やはり憲法のお陰が大きかろう。」と日本が正規の軍隊を保有していなかったことと戦争放棄の憲法9条があって良かったと言っているのである。
憲法9条があったお陰で、日本は戦争に巻き込まれずに済んだとは空想的平和主義者が朝から晩まで言っていることだが、その国の最高法規の憲法に戦争放棄をうたえば戦争はなくなるし、戦争に巻き込まれないというのは幻想であり、世界はみんな良い人で、話し合えば何でも解決することが出来るという世界の七不思議に加えても良い夢のような思想と言えるだろう。しかし安全保障は、夢のような思想では国民は不安でたまらないし、「もしも」と言う事態を想定していないのだから、空想科学小説に出てくる実験国家のようである。
たしかに戦後、日本が一切の戦争に加わらずにいたのは、良いことかもしれないが、それは偶然であったのではなく、朝日の言う「日本の防衛を補ってきた日米安保条約」と自衛隊による抑止力であったと考えるのが当然ではないか。そして朝日は自衛隊は自国の防衛に徹することであり、海外に出て行くことは憲法9条のためにしてはならないし、それを9条が今まで阻止して来たのではと言うのであろう。
日本は朝日の思う通り「日本は特殊国家である」「日本は一国平和主義を貫く」として、過去の戦争による甚大な被害から日本は「戦争はこりごりだ」と戦争のことを考えることすら拒否してきた。旧社会党が「有事法制が出来ると戦争が始まる。そんな事考えなければ戦争はない」と言っていたが、以前なら「それはそうだな」と同調する人もいたので旧社会党はそれなりの勢力を維持してきたようだ。
しかし、湾岸戦争あたりから、このような日本の「一国平和主義」は世界の批判を浴びることになった。「日本は国際社会の平和維持にはなんら貢献はしない」としてきた方針を貫くことが出来なくなったのは至極当然の流れであったのである。そして、湾岸戦争後に憲法違反だとの左翼の反対の中で掃海艇が派遣され、その後PKO法の成立により自衛隊が海外に出るようになり、日本は特殊国家から普通の国家に、また一国平和主義から世界平和のために貢献するというやや前進した政策をとるようになったのである。
だが、日本はまだ臆病であったため「危険な所には行かせないし、行かない」との方針を堅持し、日本はずるい国で、危険なことは他国に押しつけてきた。そんな理念もない日本を侮り、北朝鮮は日本人を拉致し、支那は沖縄近海において軍事的は圧力を加えてきても、国家としての対応が出来ないという気概もない状態であり続けたのである。
小泉総理が「日本人の精神が問われている」として自衛隊のイラク派遣を決断した訳だが、もし朝日の主張の通り自衛隊のイラク派遣を中止したとしたら、「日本は一国平和主義を貫く」とした特殊国家にまた戻ってしまうという屈辱を味わうことになる訳であり、自衛隊によるPKO活動の成果がすべて無になってしまうことになる。
社説の最後は「専守防衛」に誇り持てとして、憲法9条がなかったらアメリカから「(日本の自衛隊が普通の軍隊としてイラク)開戦のときから派兵を求められていたのではないか」として9条のお陰で自衛隊を普通の軍隊にしておかなかったことは良かったと言うのである。そして小泉総理が「(自衛隊を)いずれ憲法でも軍隊と認め、しかるべき名誉と地位を与えるべき時期がくる」と語ったことに「軍隊になることがそんなに名誉なのか。自衛隊では名誉がないのだろうか」として、今でも自衛隊として名誉があるのに軍隊にならなくても良いではないかと抗弁するのである。
朝日にはそのようなことを言う資格はあるだろうか。朝日は自衛隊の名誉について、小泉総理が自衛隊のイラク派遣を決断した時に「国民は危険を承知でイラクに赴く自衛隊に感謝と敬意で送り出して貰いたい」との話を聞いている訳だが、それを聞いてどのように感じたのであろうか。朝日が中心となり先頭を切って自衛隊に言われなき批判を加え、貶め続けてきたことをすっかり忘れて「自衛隊では名誉がないのだろうか」とは「自衛隊で十分で軍隊として認めることはない」とし、自衛隊は外国に出れば軍隊として処遇されているのに朝日は認めないと言う事であろうか。
日本国民からは正規軍として認知されず、外国からは自衛隊を正規の日本軍として認知されている状態は異常であり、それでも朝日は自衛隊には十分に名誉があるのではないかと言っているのである。
軍人の名誉とは国民からの支持、また感謝と敬意を受けることである。だからこそ国民のために命を投げ出し犠牲となる覚悟を持っているのである。そのような軍人が万一犠牲となった時は、その国の元首が代表して弔意を表すことが普通ではないか。朝日は「(自衛隊は)普通の軍隊でないことに誇りをもつのがいい」として日本国民からは正規軍として認知されていないまま誇りを持てと言う訳であり、社説の最後は「もとより外国での戦闘には一切加わらない。そういう哲学を堂々と語る。それで安心し、評価もするアジアの国は多いはずだ。」「米国だけを頼みとするのでなく、アジアの平和づくりにしたたかな外交を展開していく。過去を振り返り、未来を思いつつ、それが日本のとるべき道だと考える。」とはアジアのどこかの国が安心し、評価しなければ自衛隊を普通の軍隊にしてはいけないし戦争をした日本の過去からして、日本のとるべく道は「アジアの平和づくりにしたたかな外交を展開していく」というのだから分からなくなってくる。
今年も朝日はお正月から「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と言う憲法前文を大事にしているのか、アジアには「平和を愛する諸国民」ばかりではなく、同胞を拉致誘拐するような恐ろしい国があり、まともに話合いが出来ないのに、どうやって「平和づくりにしたたかな外交を展開していく」のであろうか。また今年一年カラスが鳴かない日はあっても朝日の社説が批判されない日は一日もないだろう。以前読んだ本に「日本の良識をダメにした朝日新聞」というのがあるが、今年も相変わらずダメな社説に始まりダメな社説に終わることになるだろう。
(2004/01/01)
この記事は「私の主張」第195号
元旦の朝日新聞社説を読んで
~今年も相変わらずダメな社説に始まりダメな社説に終わるか~
としてHPに掲載されていたものです。