~毅然として対応した南西航空混成団~
昭和46年に沖縄が日本に復帰してからもう30年が経過した。沖縄は先の大戦中、唯一の地上戦が行われ、多くの住民が被害にあい、軍に対しては、特別な感情を持っている人の声が大きいようで、復帰後、移駐した自衛隊員の住民登録、子弟の学校への入学や、成人式への参加拒否など、多くの嫌がらせを受けたとのことである。しかし、現在では離島からの急患輸送、不発弾の処理など、自衛隊は沖縄県民のために汗を流しており、以前ほどの反対運動はなくなったそうである。
ところで、産経新聞に沖縄復帰30年の特集として「最南端の防人たち」が連載されていたが、その中で、沖縄県石垣市に属する尖閣諸島を巡る、緊迫した事態があったことが紹介されている。
それは、平成8年10月7日に、日本の政治結社が尖閣諸島の北小島に灯台を建設したことに反発する台湾、マカオなどの活動家が40隻の漁船で尖閣海域に侵入し、尖閣諸島の一つである魚釣島の岩礁に4人が登り、中国と台湾の国旗を立てたことに刺激された台湾空軍のOBが、ヘリコプターで魚釣島上空に侵入して、国旗の投下を計画していることが明らかになったことから始まったそうである。
尖閣諸島は、歴史的にも日本の領土であることは間違いないが、付近の海域で有望な海底資源があることが分かると、中国や台湾が急に領有権を主張し始めてから、この島を巡る紛争が起こっている。
そのような情報が、那覇市に指令部を置く航空自衛隊南西航空混成団に入ると、当時の佐藤守司令(空将)は、即座に対領空侵犯阻止に向け、青森県三沢基地から非常呼集したE-2C(早期警戒管制機)5機と航空自衛隊那覇基地所属のF-4戦闘機で、常時、尖閣諸島周辺空域を警戒する対処方針を決定し、実施したとのことで、そのため台湾空軍のOBの計画は実現せず、事態は沈静化に向かったとのことである。
当時の橋本首相は、靖国神社を参拝したことで、中国から抗議を受けていたことから、尖閣問題で中国を刺激するのは得策ではないとの思惑から、この航空自衛隊の戦闘機の行動は公表されることはなかったとのことである。
私は、この記事の中にある、航空自衛隊南西航空混成団の佐藤守司令の名前を見て、やはり信念を持ち、骨のある人はやることが違うと思ったのである。佐藤守司令は、すでに退任されているそうだが、昭和60年8月12日に発生した日航機が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落した時に、自衛隊の救助活動が遅いと批判するマスコミに、痛烈な批判をする論文を、防衛庁航空幕僚監部広報室長という現職自衛官でありながらミニコミ誌に反論をされる覚悟で投稿した勇気ある方であったからである。私はその論文を読んでいるが、マスコミのあまりにも無知で、裏をとらない記事に呆れかえってしまったが、マスコミは反論もせず無責任にも沈黙してしまった。
その論文の中で、昭和46年7月30日に岩手県雫石上空で起こった全日空機と航空自衛隊の戦闘機との空中衝突事故の件が述べられており、佐藤氏は、全日空機側が訓練空域に侵入して、前方の見張りを怠っていた全日空機が、戦闘機に追突したと述べているが、その論文を読んで、日航機事故では、反論することができなかったのか、早速噛みついたのが当時の田岡俊次・朝日新聞編集委員であった。
田岡氏は今でも、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」などに軍事評論家気取りで時々出ているが、その田岡氏が現職自衛官である佐藤氏に、「なぜあんなことを書いた、訂正文をどう書くか教えてやる。お前を飛ばすのは簡単だ」と暴言をはいたと言う。この件は、昭和61年の「文芸春秋・新年特別号」に大久保昭三氏による「日航事故・ある自衛官の涙と殺意」に詳しく書かれている。
田岡氏のことなど、無視をし、尖閣諸島の件に話を戻すが、佐藤氏は、上部機関である航空総隊からの指示が、「1、武器は一切使ってはいけない」「2、戦闘機は尖閣諸島に近づこうとするヘリなどに近づきすぎてはいけない」との条件が付けられたことに、「誰がそんな寝言を言っているのか」と隊員の生命にもかかわる指示に憤慨して、声を荒らげ、毅然として戦闘機による示威飛行を行い事態を沈静化させたとのことである。 佐藤司令は、その指示が、当時の橋本首相周辺から出たものであることが後から知ることになるが、政府には自分の国や身を自分で守るという気概や戦略がないことにおそらく愕然としたことであろう。いまでも尖閣諸島周辺海域で領海侵犯をした中国や台湾の漁船があっても、抗議するだけで、政府は実力行使による対処を控えている。
もし、将来、同じような事態が起こった場合、瀋陽の日本総領事館の亡命者連行事件での政府の煮え切らない、お粗末な対応や、中国を刺激するなと考える外務省のチャイナスクールの妨害により、それが抑止出来るか、まことにもって不安である。
その後も中国は、日本は抗議するだけで、それ以上のことはしないと思い、わが方の出方を探りながら、海洋調査船が日中中間線を越えて、勝手に沖縄近海で海洋資源の調査をしている。中国人民解放軍はすでに尖閣諸島周辺で日本の海上防衛ライン突破を想定した本格的な机上シミュレーション(想定戦)を実施しており、であるから沖縄近海で海洋資源の調査と言っても、将来の軍事行動に備えた準備であると思われる。わが国の主権を侵害する行為は中国であれどこの国であれ、毅然とした対応をしなければ、韓国に竹島を占領されたように、今度は尖閣諸島が危ないと言わざるを得ない。
(2002/05/31)
この記事は「私の主張」第116号
「尖閣諸島を守った航空自衛隊」
~毅然として対応した南西航空混成団~
としてHPに掲載されていたものです。
昭和46年に沖縄が日本に復帰してからもう30年が経過した。沖縄は先の大戦中、唯一の地上戦が行われ、多くの住民が被害にあい、軍に対しては、特別な感情を持っている人の声が大きいようで、復帰後、移駐した自衛隊員の住民登録、子弟の学校への入学や、成人式への参加拒否など、多くの嫌がらせを受けたとのことである。しかし、現在では離島からの急患輸送、不発弾の処理など、自衛隊は沖縄県民のために汗を流しており、以前ほどの反対運動はなくなったそうである。
ところで、産経新聞に沖縄復帰30年の特集として「最南端の防人たち」が連載されていたが、その中で、沖縄県石垣市に属する尖閣諸島を巡る、緊迫した事態があったことが紹介されている。
それは、平成8年10月7日に、日本の政治結社が尖閣諸島の北小島に灯台を建設したことに反発する台湾、マカオなどの活動家が40隻の漁船で尖閣海域に侵入し、尖閣諸島の一つである魚釣島の岩礁に4人が登り、中国と台湾の国旗を立てたことに刺激された台湾空軍のOBが、ヘリコプターで魚釣島上空に侵入して、国旗の投下を計画していることが明らかになったことから始まったそうである。
尖閣諸島は、歴史的にも日本の領土であることは間違いないが、付近の海域で有望な海底資源があることが分かると、中国や台湾が急に領有権を主張し始めてから、この島を巡る紛争が起こっている。
そのような情報が、那覇市に指令部を置く航空自衛隊南西航空混成団に入ると、当時の佐藤守司令(空将)は、即座に対領空侵犯阻止に向け、青森県三沢基地から非常呼集したE-2C(早期警戒管制機)5機と航空自衛隊那覇基地所属のF-4戦闘機で、常時、尖閣諸島周辺空域を警戒する対処方針を決定し、実施したとのことで、そのため台湾空軍のOBの計画は実現せず、事態は沈静化に向かったとのことである。
当時の橋本首相は、靖国神社を参拝したことで、中国から抗議を受けていたことから、尖閣問題で中国を刺激するのは得策ではないとの思惑から、この航空自衛隊の戦闘機の行動は公表されることはなかったとのことである。
私は、この記事の中にある、航空自衛隊南西航空混成団の佐藤守司令の名前を見て、やはり信念を持ち、骨のある人はやることが違うと思ったのである。佐藤守司令は、すでに退任されているそうだが、昭和60年8月12日に発生した日航機が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落した時に、自衛隊の救助活動が遅いと批判するマスコミに、痛烈な批判をする論文を、防衛庁航空幕僚監部広報室長という現職自衛官でありながらミニコミ誌に反論をされる覚悟で投稿した勇気ある方であったからである。私はその論文を読んでいるが、マスコミのあまりにも無知で、裏をとらない記事に呆れかえってしまったが、マスコミは反論もせず無責任にも沈黙してしまった。
その論文の中で、昭和46年7月30日に岩手県雫石上空で起こった全日空機と航空自衛隊の戦闘機との空中衝突事故の件が述べられており、佐藤氏は、全日空機側が訓練空域に侵入して、前方の見張りを怠っていた全日空機が、戦闘機に追突したと述べているが、その論文を読んで、日航機事故では、反論することができなかったのか、早速噛みついたのが当時の田岡俊次・朝日新聞編集委員であった。
田岡氏は今でも、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」などに軍事評論家気取りで時々出ているが、その田岡氏が現職自衛官である佐藤氏に、「なぜあんなことを書いた、訂正文をどう書くか教えてやる。お前を飛ばすのは簡単だ」と暴言をはいたと言う。この件は、昭和61年の「文芸春秋・新年特別号」に大久保昭三氏による「日航事故・ある自衛官の涙と殺意」に詳しく書かれている。
田岡氏のことなど、無視をし、尖閣諸島の件に話を戻すが、佐藤氏は、上部機関である航空総隊からの指示が、「1、武器は一切使ってはいけない」「2、戦闘機は尖閣諸島に近づこうとするヘリなどに近づきすぎてはいけない」との条件が付けられたことに、「誰がそんな寝言を言っているのか」と隊員の生命にもかかわる指示に憤慨して、声を荒らげ、毅然として戦闘機による示威飛行を行い事態を沈静化させたとのことである。 佐藤司令は、その指示が、当時の橋本首相周辺から出たものであることが後から知ることになるが、政府には自分の国や身を自分で守るという気概や戦略がないことにおそらく愕然としたことであろう。いまでも尖閣諸島周辺海域で領海侵犯をした中国や台湾の漁船があっても、抗議するだけで、政府は実力行使による対処を控えている。
もし、将来、同じような事態が起こった場合、瀋陽の日本総領事館の亡命者連行事件での政府の煮え切らない、お粗末な対応や、中国を刺激するなと考える外務省のチャイナスクールの妨害により、それが抑止出来るか、まことにもって不安である。
その後も中国は、日本は抗議するだけで、それ以上のことはしないと思い、わが方の出方を探りながら、海洋調査船が日中中間線を越えて、勝手に沖縄近海で海洋資源の調査をしている。中国人民解放軍はすでに尖閣諸島周辺で日本の海上防衛ライン突破を想定した本格的な机上シミュレーション(想定戦)を実施しており、であるから沖縄近海で海洋資源の調査と言っても、将来の軍事行動に備えた準備であると思われる。わが国の主権を侵害する行為は中国であれどこの国であれ、毅然とした対応をしなければ、韓国に竹島を占領されたように、今度は尖閣諸島が危ないと言わざるを得ない。
(2002/05/31)
この記事は「私の主張」第116号
「尖閣諸島を守った航空自衛隊」
~毅然として対応した南西航空混成団~
としてHPに掲載されていたものです。