私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

有事法制と自衛隊が感謝されることを嫌う左翼

2002年04月29日 22時07分21秒 | 防衛省・自衛隊・安全保障
~自衛隊員に名誉と任務に誇りを与え、国民の支持と信頼を得るために~

 政府は、今国会に有事法制関連三法案を提出し、今国会での成立を図るようである。有事法制は昭和50年代のはじめより、防衛庁によって研究がなされていたが、25年以上も経っているのに、我が国は外敵の侵入という緊急事態に対応する際の法整備がいまだに行われていないという戦慄すべき状態が続いていた。

 独立国であれば、このような法整備を平時に行っておき、緊急事態に備えることは当然であり、このような法律がないまま、わが国は自衛隊を保持しているという奇妙が状態であった。

 なぜ奇妙かというと、外敵の侵入から国民を守るという任務のある自衛隊が、そのような事態の際に、どのように行動するか、また国民は、その時は何をしなければならないのか、あるいは何をしてはならないのかを、あらかじめ取り決めた有事法制がない国が、とても独立国家と言えないからである。

 あの戦争が終わり、50年以上も経過し平和が続くと、穏やかな毎日の生活が当たり前になり、これからも何事もないだろうと誰もが思うようになっても不思議ではない。しかし、そんな穏やかな日々が続いていたわが国でも、いつかは恐れていた外敵の侵入という事態がこないとも限らない。

 この有事法制に反対する連中は、左傾マスコミや進歩的文化人、社民党、共産党などである。私はそのような連中が、この法律に反対することに特に驚いていない。彼らの考えは、まず一つに我が国は平和憲法があるので大丈夫だという空想的平和主義があり、また国民の基本的人権は絶対的なもので、いかなる事態になろうと侵害してはならないと思っているからである。また自分達の存在感を示すために彼らのいう国家権力(左翼用語であって、普通の国民は使ってはいけないが)と対決し、常に批判の対象にしたいからだ。

 であるから、彼らのいう国家権力の象徴である自衛隊が、侵略という事態に至っても国民の自由や権利を侵害し行動することは許せないと考えており、だから基本的人権を制限することになるというこのような法律に反対するのは当然で、自衛隊は今後も永遠に、その活動が国民から感謝されてはいけないと思っている訳である。

 有事の際に、我々国民はどうしなければならないのか事前に認識をしておかなければ、自衛隊の行動は制約されてしまうであろう。普通の国民であれば、自由や権利が多少制限されたとしても、私達を守ってくれる自衛隊の行動が容易になるように協力するのは当然であると考える。

 有事法制に反対する人に、一々反論するのも疲れるが、有事でも普通の市民生活が優先されると考えていて、「そんな法律は、私には関係ない」と言って、車を運転して、仕事や買い物に出かけたり、自宅で静かに過ごせると思っているのであろうか。それとも出動した自衛隊の車列を妨害する行動に出るのか。

 また、与党の国会議員の中で、その必要性は認めつつ、まだ時期が早いとか、言っている人もいるが、すでに25年も研究を続けているのに、まだそんなことを言っているのは奇妙としか言いようがない。この法律が成立すると困ることでもあるのかと勘ぐりたくなる。

 今まで自衛隊は、このような法がないまま良くやってきたと思う。自衛隊員に名誉とその任務に誇りを与え、国民の支持と信頼を得るための法整備が一日も早くなされることを私は望んでいる。
(2002/04/29)

この記事は「私の主張」第107号
「有事法制と自衛隊が感謝されることを嫌う左翼」
~自衛隊員に名誉と任務に誇りを与え、国民の支持と信頼を得るために~
としてHPに掲載されていたものです。


むなしさを感じる無罪判決

2002年04月26日 16時56分56秒 | 偏向マスコミ
 ~少年たちに徹底否認を教唆した人権屋弁護士~

 三審制度をとっているわが国では、最高裁で行われる上告審での判決で刑が確定すれば、被告人は、刑罰に服さなければならない。しかし、再審の申し立て制度もあり、一度最高裁で確定した刑罪であっても、全国では無罪を主張して、何人もの服役中の受刑者が再審請求をしている。

 確かに罪を犯した覚えがなく、服役している受刑者にとって、再審制度は有り難い制度であろう。もし犯人が別にいるのにもかかわらず、その犯人と間違えられ無実の刑に服しているとすれば、こんな重大な人権侵害はない。

 最近、死刑囚が再審請求により、無罪の判決が下され、釈放になるケ-スがあるが、いずれも別に犯人がいて、無実であること分かり無罪判決がおりて釈放になるのではなく、証拠を子細に検証した結果、有罪とする決め手が弱いので、無罪としているケ-スがほとんどである。であるから、被告人(受刑者)が起訴された罪を犯した疑いがないではないが、有罪とするには証拠が少ないということである。

 裁判官は検察官からの起訴を受け、有罪か無罪が決めるの訳だが、有罪でなければ無罪しかないので、灰色有罪とか灰色無罪というのはないのである。

 マスコミの報道を見ていると、死刑囚が再審請求により、無罪の判決が下されると、今までの〇〇受刑者が、〇〇さんと変わり、本人やその支援者たちの嬉しそうな様子を報道し、マスコミは手のひらを返すように捜査の杜撰さを追及しはじめる。これで事実や真犯人が分からなくなったことがそんなに嬉しいのか。また死刑判決を受けたものが、再審で次から次へと無罪になることがそんなに嬉しいかと言いたい。一転して無罪となった死刑囚の中には、犯行を否認し、嘘をつき、騙し、知っているこを話さず、裁判官、検察官、警察官あるいは弁護士までも騙し、上手に罪を免れたケ-スがあるのではなかろうか。  

 数年前に殺人事件で無罪となって釈放された者が、再び殺人事件を起こしたこともあったが、その事件を担当した人権屋と言われた弁護士のにがみをつぶしたような顔を見ると、今でも腹が立つ。「あなたは、騙されていた。それでも弁護士なのか」と言いたい。

 ところで3月20日の新聞報道によると山形県新庄市の市立明倫中で起きたマット死事件で、最高裁において事件への関与を認定した少年審判の判断が確定しているのに、犯行当時は少年であった元生徒7名に対する被害者の遺族から出された損害賠償請求について山形地裁は原告の訴えを棄却して、少年たちにアリバイが成立するので、賠償請求を却下する判決を下した。山形地裁は最高裁の判断は間違いだと言っている訳である。

 原告である被害者の親にとって、最高裁が少年らの事件への関与を認定しているのに、全く納得できない判決であろう。少年たちは、事件直後に逮捕され、涙を流して犯行を自供したとのことだが、人権屋と言われる弁護士がついた途端に否認に転じたとのことで、人は涙を流しても「私はやっていない」と逆に嘘をつくことができる。事実は事実として認め、その中で情状酌量を求めるというのが正しい弁護活動をであると私は思う。人権屋弁護士が、少年達に「徹底否認を貫け、何も話すな」と教唆したとすれば、こんなおかしい弁護活動はない。また一度少年達が犯行場所の体育館にいたことを証言した同級生などが次々と供述を翻した理由は何であろうか。供述を翻せざるを得ない人権屋弁護士による圧力があったのではないかと勘ぐってしまう。

 さすがのマスコミも、今回の判決を批判している。私には事件の真実は知り得えないが、今回の無罪判決となる損害賠償請求の棄却はなんとも割り切れない。これで民事事件の方で、もし上級審で無罪が確定したら、真実はどうなのか永久に分からなくなってしまう訳であり、こんなむなしい無罪判決はない。
(2002/04/26)     

この記事は「私の主張」第106号
「むなしさを感じる無罪判決」
~少年たちに徹底否認を教唆した人権屋弁護士 ~
としてHPに掲載されていたものです。


オウム真理教に適用しなかった破壊活動防止法

2002年04月23日 21時15分30秒 | 裁判・事件
~理解出来ない公安審査委員会の人権感覚~  

 松本や地下鉄サリン、殺人、拉致、銃器の製造など数々の事件を起こしたオウム真理教は、わが国のみならず、世界に衝撃を与えた。このようなテロリスト集団が平和に酔いしれていた日本から生まれたことは、不謹慎な言い方だが「面白い」と言わざるを得ない。なぜ、そのような言い方をしなければならないかと言うと、あの戦争が終り、50年以上も経つと、これからもわが国は侵略されることもなく、永遠に平和が続き、戦争による混乱が起こるとは、考えられないと多くの国民が思っていなかったからである。

 オウムが何トンものサリンの製造を完了していたとしたら、それを押さえ込むことは不可能であった訳で、まさに、わが国は内からのオウムという敵に侵略されてしまったことであろう。このようなテロリスト集団に対し、警察はあらゆる法令を適用し、自衛隊と協力して、その組織の壊滅作戦を行い、多くの者を逮捕した。

 しかし、私には理解できないことだが、殺人もいとわない教義を持つオウムが団体名を変えたとは言え、宗教法人としての解散はしているが任意団体として、いまだに現存していることある。

 山梨県上九一色村にあったオウムの施設の一つ「第7サティアン」は、サリンなどを大量に製造可能な化学兵器製造工場であったことは、国連による内部調査の結果で明らかになっている。オウムの教祖である麻原彰晃は、教団内で法皇内庁長官と呼ばれ、サリンの大量生成方法を完成していた中川智正にサリン70トンの製造を命じたのことだが、この第7サティアンでサリンなどの化学兵器製造プラントが本格的に稼働して、多量に製造されたならば、オウムはわが国を意のままに支配していたことであろう。

 オウムに対する強制捜査のきっかけになったのは平成7年(1995年)2月28日の起きた目黒公証人役場の仮谷清志さん拉致、監禁致死事件であった。また、もしこの仮谷清志さん事件がなかったら、もし警視庁管内での事件でなかったら、オウムに対する強制捜査は後6ヶ月遅れ、オウムはサリンの大量生産に成功していたと言われている。

 このようなオウムに対し破壊活動防止法により、当然、解散の指定がなされるものと思っていただけに、公安調査庁長官からの請求により、その審査をした公安審査委員会は、それを却下してしまった。わが国の法秩序を破壊しようとした団体が解散することもなく、また解散させることもできず、のうのうと生き延びている。

 大量殺人を計画し、実行寸前であったオウム真理教を団体として解散指定せず、その組織を温存させ、その幹部であった者が、服役後もほとんどオウムに戻っている現状や、化学兵器製造工場であった第7サティアンを見ても、オウムを解散させることをためらい、松本や地下鉄サリン事件ほか数々の事件で殺され、また被害に会われ、今でもその後遺症に苦しむ人々の声を無視した僅か数人の公安審査委員会の人権感覚に私は到底理解出来ないのである。 
(2002/04/23)

この記事は「私の主張」第105号
「オウム真理教に適用しなかった破壊活動防止法」
~理解出来ない公安審査委員会の人権感覚~
としてHPに掲載されていたものです。


富士総合火力演習を見学して

2002年04月16日 16時58分43秒 | 防衛省・自衛隊・安全保障
~ないないづくしの自衛隊の演習~        

  毎年8月の下旬か9月の上旬に、静岡県御殿場市にある東富士演習場畑岡地区にて、富士総合火力演習が行われる。この演習は、わが国の陸上自衛隊の装備と実弾を使用した戦闘行動が展示される陸上自衛隊の最大のイベントだ。

 5日間の演習期間中の最後の2日間は一般にも公開されるので、往復はがきなどで見学希望の申し込みをして、抽選により当たれば入場券が郵送されてくる。だが毎年、人気があって倍率が高く、なかなか当たらないそうであり、私も3年位当たっていない。

 東富士演習場畑岡地区は、国道246号線を東京方面から来ると、御殿場市内の川島田という交差点を右折し、しばらく行くと、左手に陸上自衛隊の板妻駐屯地が見えるので、その前の交差点を右折し、登り坂になる道をしばらく行って印野の集落の中を抜け、未舗装の道に出た所で急に視界が開けるが、そこが東富士演習場畑岡地区だ。

 真正面に富士山を望み、その前面には演習場となっているススキの原が広がり、左手には愛鷹山が見える。演習が行われない日はまことに静かで、鳥のさえずりが聞こえ、のんびりとした光景が続く。

 そこが、演習の日には、砲弾の炸裂音、爆風、煙、戦車や装甲車のキャタピラの音、ヘリコプターや戦闘機の爆音が響き、普段は静かな富士の裾野が一変する。この演習は富士教導団を中心に全国各地の部隊の協力を得て実施されるもので、最新装備が観閲式のようにパレードするだけでなく、実弾を使用して展示されるため、毎年見学を楽しみにしている方も多いことでしょう。

 私は、この演習を今まで数回ほど見学しているが、初めて見学される方は、その迫力に驚き、何度も見ている方は「今年は、昨年より良かった」「いや良くなかった」とか感想を持つことであろう。

 私は、その演習を何度か見学しているうちに、このような装備を自衛隊が保有していることに、感動すら覚え、感涙したこともあった。どうか、この装備が訓練以外に使われることがないように、内外にその圧倒的な火力を示し、わが国を侵略しようとする勢力に、その意図をうち砕く、大きな抑止力になっていただきたいと思っている。

 しかし、陸上自衛隊が全力を上げて行う最大のイベントが、この程度で満足しても良いのかと思う。演習場の制約のため、りゅう弾砲などの最大射程射撃が出来ず、戦車や装甲車などの走行中の射撃が出来ず、戦闘機の爆弾投下も出来ない、予算の関係で弾薬使用量の制限など、ないないづくしなのである。

 以前、韓国の火力演習を見学したことがあるという自衛隊の方に伺った話だが、自衛隊の演習に比べて、あまりの迫力とその火力に驚いたとそうである。「自衛隊の火力演習の状況を恥ずかしくて話ができなかった」と話していた。また、東富士演習場のことも、「以前はもっと広かったが、だんだん狭くなっている。だから、戦闘機からの爆弾投下は、昔は実施していたが、今では、あらかじめ地上にセットされた、火薬を爆発させて、その状況を再現しているだけ」と言っていた。

 このように、正面装備、演習場の広さ、弾薬の備蓄量、訓練の制約などがある中、「いや凄い迫力だ」「自衛隊も大したものだ」と言って満足して良いのかと思う。政府として国民の安全確保を最重点政策としなければならないのに、一部野党やマスコミの自衛隊を悪者として、虚仮にすることに影響され、このような自衛隊にしてしまったのである。それで、いざという時に大きな期待を持たされ、スーパーマン的な活動を要求される自衛隊員は、たまらない。このような状況を、自衛隊を応援する一人として憂うものである。
(2002/04/16)

この記事は「私の主張」第104号
「 富士総合火力演習を見学して」
~ないないづくしの自衛隊の演習~
としてHPに掲載されていたものです。

それでも、あなたは日本人ですか?

2002年04月14日 18時12分02秒 | 売国奴・反日日本人
~国旗・国歌を拒否し、侮辱し、引きずり降ろす日本人~  

 毎年春になると、各学校では卒業式や入学式が行われ、卒業を期に社会に出る者、あるいは進学する者、また新しく学の場に入る者など、長い人生の間で、本人にとって思い出が残る緊張した時であろう。また、本人はもとより、その両親にとって、わが子の晴れ姿と、成長の喜びをかみしめたい厳粛な式にして貰いたいと学校当局に期待したいであろう。  

 教育の場において、卒業式、入学式などの際は国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは、数年前に成立した国旗・国歌法により定められ、文部科学省も学習指導要領により、各地の教育委員会を通じ指導に努めている。

 しかし、毎年のように、わが国では、「国旗の掲揚はあったか」「国歌の斉唱はあったか」などの各市町村別の統計が発表され、昨年より、掲揚率や斉唱率が上がったとか下がったとか言って、一喜一憂している現状だ。

 国旗の「日の丸」、国歌の「君が代」に拒否反応を示す人は、まだまだ多く、昨年夏に陸上自衛隊富士学校の開校祭を見学した時、式典の初めに国旗掲揚があるが、かなりの人が、座ったり、寝転がったりしたままで、自衛隊員の方は、帽子をかぶったまま、挙手の敬礼をしていたが、私たち普通の国民は、そんな敬礼をする訳にはいかないので、私は帽子を脱いで胸に手を当てて、掲揚ポ-ルに注目していた。自衛隊の式典を見学に来る人でさえもこんな状態だから、他はもっとひどいのではなかろか。  

 もし、私たちが外国に行った時、スポ-ツの試合開始前の同じような国旗掲揚の場で国際儀礼に従い、帽子を脱いで胸に手を当てて、掲揚ポ-ルに注目しないと、マナ-がない日本人だとして笑われてしまう。

 そのような国際儀礼を教える場でもある学校の先生の一部には、国旗・国歌に対して拒否反応を示し、色々と訳の分らぬ難癖をつけて、「強制するのはおかしい」とか言って、生徒に拒否することを押しつけている。式の最中に「君が代は歌いません」と大声を出して会場を出て行ったり、着席したままの先生もいるようだ。また保護者の中には、学校当局に、いずれも実施しないように圧力を掛けたり、式の最中に、君が代の斉唱がはじまると、すっと着席し、まわりを一瞬シラけせたりする人もいる。

 国旗・国歌を拒否する人は「自分だけは正しい」と思っているだろう。しかし、私の日本国民としての正しさは、国旗に敬礼し、日本人としての誇りのために国歌を歌うが当たり前であると思う。 国旗・国歌を拒否する人、侮辱する人、掲揚されている国旗を引きずり降ろす人、それでも、あなたは日本人ですか?
(2002/04/14)

この記事は「私の主張」第103号
「それでも、あなたは日本人ですか? 」
~国旗・国歌を拒否し、侮辱し、引きずり降ろす日本人~
としてHPに掲載されていたものです。

地下鉄サリン事件と国を守った自衛隊の化学防護隊

2002年04月13日 18時24分47秒 | 防衛省・自衛隊・安全保障

~オウムは日本を支配する寸前だった!~

  平成7年(1995年)3月20日の朝、世界を震撼させた「地下鉄サリン事件」が発生した。その前から、私は、当時社会から注目をされていた「オウム真理教」関連のニュースをビデオで録画していたが、当然、そのニュースも録画し、今でも時々再生して、サリン中毒の恐ろしさに驚愕している。

 その前年の6月27日、松本サリン事件が発生して、ご存じの通り、事件発生場所のそばに住む、Kさんが農薬の配合中、サリンが偶然出来て、それが拡散して多くの死亡者を出したとの疑いがかかり、K宅が捜索を受ける事態となってしまった。それが誤りであったことは、大分後になってからで、捜査担当者が、当時はサリンという人を殺すことしか使い道がないにもの対する知識がなく、普通の市民でも少し知識があれば簡単にサリンが製造出来ると思っていたようである。

 わが国では、サリンとこれに対する防護の研究をしているのは埼玉県大宮にある自衛隊の化学学校であり、松本サリン事件の際に、「農薬の配合を誤って、サリンが偶然にできますか?」と照会していれば、「猿の前にワープロを置いた所、短編小説を作った位の確率であり、だから、そんなことはあり得ない」との回答を得ていただろう。「猿が~」というのは、どこかの本で読んだ化学学校の教官の話で、事件後、テレビに出ている化学専門の学者のコメントに「でたらめを言っているなあ~」と思ったそうである。であるから、松本サリン事件の時、同学校に所属する化学防護隊が出動していれば、Kさんが犯人にされるような事態にはならなかったであろう。

 その化学防護隊が、化学防護車、除汚車などを帯同して史上初めて出動する事態が地下鉄サリン事件であった。化学学校や化学防護隊があることはあまり知られていなかったが、社会党や一部マスコミが「化学兵器に対する防護の研究することは、こちらが化学兵器を研究開発して使うつもりがあるからだ」とか「こちらが、化学兵器に対して無防備ならば、相手は使わない。国際条約でそのような兵器の使用は禁止されている」と言って同校の廃校を要求していた。

 しかし、自衛隊では、国民の安全を考え、黙々と化学兵器に対する研究を続け、装備や、知識など対処能力を維持してきた。 もし、社会党や一部マスコミの言うとおり、同校が廃校になり、警察や消防には対処能力がない化学兵器が使われる事態が発生した場合は、除汚はおろか、捜査自体が出来ない訳で、そうなれば、化学兵器を持っている者が、わが国を支配することが出来た訳である。 麻生幾著の「極秘捜査 警察・自衛隊の対オウム事件ファイル」(文藝春秋刊)中にあるように、「オウムは日本を支配する寸前だった!」のだ。

 サリンが残留するかもしれない地下鉄構内に誰も入れず、警察、消防、駅員はおろおろするばかりで、そこへ災害派遣要請を受け戦闘用防護衣や化学防護衣を着用した化学防護隊が到着すると「おお!」と言う歓声とともに「待っていたぞ!」と声が掛かったとのこと。その後、隊員はサリンの汚染区域になっている地下鉄構内に果敢にも突入し、まさに命がけの除汚作業を行い、その様子は、テレビでも紹介されたので、ご存じの方も多いであろう。 

 麻生幾著の同書の中で紹介されているが、化学学校の教官である近藤一尉は、除汚作業を終了したものの、「安全を確認しなければ」との責任感から地下鉄構内で防護マスクを脱ぎ、体を張って安全を確認したことから、現場では、その勇気ある行動を讃える大きな拍手が沸き起こったとのことである。  

 不審船、テロ事件、武装ゲリラの侵入など、わが国周辺でも予想される様々な事態に対処できるように、政府として危機管理にしっかりと取り組んでもらいたいものだ。 社会党や一部マスコミの誹謗中傷にめげず、黙々と化学兵器に対する防護を研究し、対処能力の向上に努め、命を掛けて国の安全を守ってくれた自衛隊の化学学校と化学防護隊の皆様に感謝申し上げる。
(2002/04/13)

この記事は「私の主張」第102号
「地下鉄サリン事件と国を守った自衛隊の化学防護隊」
~オウムは日本を支配する寸前だった!~
としてHPに掲載されていたものです。


あさま山荘事件から30年

2002年04月10日 10時40分03秒 | 偏向マスコミ
~極左暴力集団を支援し、同情的な報道をくりかえしたマスコミ~  

  昭和47年2月に発生した連合赤軍による「あさま山荘事件」から、もう30年が経過した。今年5月には全国東映系で、この事件を映画化した「突入せよ!『あさま山荘』事件」が公開されるとのことである。

 40歳以上の方であれば、銃撃戦の様子が、朝から夕方まで民放では異例のコマ-シャル抜きで生中継されたことを覚えていることであろう。 全国を震撼させた、この事件は人質となった山荘管理人の妻の無事救出と、警察官2名の殉職と多数の負傷者、また一般人1名の死亡という悲劇的な結末で幕を閉じた。

 当日は誰もが仕事が手につかず、テレビにくぎづけになり、家庭の主婦までも昼食や夕食を作らず、店屋物の出前を頼んだ人が多かったとのこと。 その事件を報じる新聞の見出しを今でも覚えているが、「人質の無事救出」が大きく、警察官2名の殉職は小さくなっていた。何か変だなと思った記憶がある。  

 当時のマスコミは、連合赤軍をはじめ、このような極左暴力集団を過激派と呼び、同情的な報道が目立った。また同情的どころか、成田空港反対闘争では、マスコミの車が、そのような暴力集団が使用するためのゲバ棒(角材)を運搬しているところを発見されたり、昭和46年8月に埼玉県の陸上自衛隊の朝霞駐屯地で起きた自衛隊員が殺害された事件では、犯人をかくまった新聞記者がおり、裁判で有罪判決を受けているので、マスコミは、このように暴力集団をまさに支援していた訳である。  

 映画化された「突入せよ!『あさま山荘』事件」の原作となった「連合赤軍『あさま山荘』事件の著者・佐々淳行氏は、その突入作戦の陣頭指揮をとった方で、同氏によると、取材するマスコミから「なぜ強攻策に固辞するのか」「犯人たちを逃がせば人質は助かる」と食ってかかられたとのこと。

 あさま山荘に10日間籠城した犯人は、母親の説得にライフル銃でこたえるなど、投降を呼び掛けても聞く耳を持たず、警察は最後の最後まで強攻策をとらない平和的な解決策を思案したが、策が尽き、クレーン車につるした鉄球によって山荘の壁を破壊して強行突入し、人質の救出を図るという強攻策をとらざるを得なかったのである。

 「犯人たちを逃がせば人質は助かる」と言ったのは、どこの新聞記者か分からないが、もし突入せず犯人たちを逃がせば、犯人たちは人質と一緒にライフル銃を持ったまま逃げることであろうから、もっと多くの犠牲者が出たことは間違いない。 また、逮捕された連合赤軍5人の顔写真が新聞に掲載され、いずれも氏名等を黙秘して年齢などもわからない訳だが、「犯人の中に少年がいるかもしれないのに顔写真をなぜ掲載した」と騒いだ進歩的文化人もいた。 このような暴力集団を、支援し、同情的な報道をくりかえした当時のマスコミを思い出すと、今でも憤りを覚える。

 最後に治安の礎となられた2名の警察官のご冥福を祈るとともに、マスコミの理不尽な報道の中、身の危険を顧みず、果敢に、このような凶悪集団と戦った多くの警察官の勇気を称えたい。
(2002/04/10)

この記事は「私の主張」第101号
「あさま山荘事件から30年」
~極左暴力集団を支援し、同情的な報道をくりかえしたマスコミ~
としてHPに掲載されていたものです。

自衛隊をこけにする人がのさばる国

2002年04月07日 19時38分22秒 | 防衛省・自衛隊・安全保障
~首長に反自衛隊の感情を持った自治体の不幸~  

 平成7年1月17日に発生した阪神大震災から、もう7年以上が経過した。私は、その日はちょうど仕事休みで、朝8時ころ目覚めて、寝ぼけまなこで1階の居間に降りていくと、女房が「神戸が地震ですごいよ」というので、テレビを見ると「いやこれはひどい」と思わず声を出してしまった。ビルや高速道路が倒壊したり、火災が数十個所で発生している映像が映し出されており、私は「こんな状態ではおそらく 1.000人以上の死者が出ていると直感した。実際は6.000名以上の方が亡くなっているのだが、同じテレビ画面をみていたであろう政治家は、緊急事態であるとは思わなかったのであろうか。  

 当時は、反対することばかりで対案を示さない社会党が自民党と連立政権を組んでいた時期であり、「緊急事態を想定することさえもいけない」との考えの方が首相であった不幸が加わり、対策が後手後手となり、多くの犠牲者を出してしまった。

 大きな災害が起きた時は、自己完結能力がある軍隊の活動が最も優れていることはいうまでもないが、わが国では自衛隊に対して、今だにアレルギーを持つ人がおり、それが自治体の首長であると、その市町村に住む住民は不幸である。

 当時の兵庫県知事も、そのような人であったようで、自衛隊に災害派遣を要請する手順も知らず、地震発生から4時間以上経った午前10時に自衛隊側からの催促でしぶしぶ要請をしたようである。災害派遣を要請する決断がこれほど遅れるとは、日ごろ自衛隊との連絡調整が良く出来ていればこのようなことにはならないであろう。

 私の住む地域は静岡県駒門にある陸上自衛隊の第一特科連隊が担当地区になっているそうだが、 自治体の首長であれば、自分の町の担当はどこ部隊か当然知らなければならないし、自衛隊との普段のコミニケーションも必要であることはいうまでもない。  

 当時の報道によると、神戸港に入港しようとした緊急援助物資を積載した自衛隊の艦艇までも阻止されたとのことで、その後、それは事実ではないとの報道がなされていたが、後日、自衛隊の方から伺った話では入港を阻止されたのは事実であるそうである。

 救援に駆けつける自衛隊の部隊を見て、「自衛隊などいらない」と普段思っていた方が、「消防や警察を見ても感じなかったが、自衛隊がこんなに頼もしい存在とは思わなかった」と話されたり、続々と救援の駆けつける部隊の車列に拝むように手を合わせる方がテレビに出ていたが、それが普通の市民の感情ではないであろうか。

 反自衛隊感情がある方は、その時、自衛隊が設営した風呂に入ったり、食事の世話にはならなかったのか。まあ、惚けてお世話になったことであろう。自分達を守ってくれる軍隊(自衛隊)をこけにする人がのさばる国がまともである筈がない。
(2002/04/07)         

この記事は「私の主張」第100号
「自衛隊をこけにする人がのさばる国」
~首長に反自衛隊の感情を持った自治体の不幸 ~
としてHPに掲載されていたものです。


私はこんな人を絶対に信用しない

2002年04月04日 19時46分28秒 | 社民党
~多数の犠牲者を出した反対運動の先頭に立った社会党の責任

 千葉県にある成田空港は、4000メ-トルの滑走路1本で運用してきたが、本年4月からは暫定滑走路が新しく完成し、運用開始となるそうである。写真を見ると、滑走路と平行している誘導路の一部がヘの字に曲がっているのが見える。その理由は、買収に反対している農家の未買収の土地があるから、このような曲がった誘導路になってしまったようである。  

 誘導路は緊急時には滑走路となるもので、これで大丈夫かなと思うし、ヘの字の部分の誘導路を航空機が通っている時は滑走路が使用出来ないそうで、その訳はヘの字に曲がった誘導路が滑走路の方に張り出し、航空機同士が衝突する危険があるからとのこと。

 そのような新聞記事を読んでいて、正直言って、まだ反対農家があるのかと思ったのである。昭和40年代初め頃から、成田闘争がはじまり、最大の悲劇は昭和46年9月16日に警備に当たっていた警察官3名が反対派により殺された事件であった。

 当時の反対運動の先頭に立っていた社会党の人は、「成田空港は軍事空港になる」「土地を取り上げられる農家はかわいそうだ」「もし空港が出来ても、絶対に利用しない」とか言っていたが、今では手を振ってタラップを登り飛行機に乗っている。  また、水と油のような関係であった自民党と社会党が手を組んで村山政権が出来た時、反対運動の先頭に立っていた人が成田空港を所管する運輸大臣になり、「立派な空港を作ります」などと広言していた。

 いままで、あなたは何をやって来たのか?。何を言って来たのか?。人間として恥ずかしくないのか?。いや恥というものがあれば運輸大臣などならないであろう。そのようなことはコロッと忘れたのか。いや忘れておらず、とぼけているだけだ。私はこんな人を絶対に信用しない。  

 反対運動を扇動し、無駄な時間費やし、また多くの税金を投入せざるを得ない状態となり、さらに多数の犠牲者を出した責任を感じてもらいたい。反対なら反対で、信念を貫き、成田空港は絶対に利用しないで貰いたいものである。
(2002/04/04)

この記事は「私の主張」第99号
「私はこんな人を絶対に信用しない」
~多数の犠牲者を出した反対運動の先頭に立った社会党の責任~
としてHPに掲載されていたものです。