私の主張・ひとりの日本人として

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朝鮮人は証拠がなければ作れば良いと思っている

2021年10月23日 18時20分05秒 | 韓国関連

長崎に韓国人原爆犠牲者の慰霊碑 来月6日除幕式

2021/10/21

【東京聯合ニュース】長崎への原爆投下で犠牲になった韓国人を追悼する慰霊碑が長崎市の平和公園に建立され、来月6日に除幕式が開かれる。長崎韓国人原爆犠牲者慰霊碑建設委員会と在福岡韓国総領事館が伝えた。

 1945年8月9日の長崎市への原爆投下では、約7万4000人が死亡。このうち朝鮮半島出身者が数千人から1万人程度含まれていたと推定される。

 日本の植民地だった朝鮮半島から長崎に強制動員された労働者などが巻き込まれた。

 同じく原爆が投下され多くの犠牲者が出た広島市には、韓国人原爆犠牲者慰霊碑が建立されており、毎年、広島に原爆が投下された前日の8月5日に犠牲者を追悼する慰霊祭が開かれているが、長崎にはまだ韓国人犠牲者の慰霊碑がない。 

 そのため2013年に在日本大韓民国民団(民団)の長崎県本部を中心に建設委員会が構成され、慰霊碑の建立が推進された。

 ただ韓国人原爆犠牲者が発生した歴史的背景を説明する強制徴用に関連した碑文の内容や慰霊碑のデザインなどを巡り市側が難色を示し、建設許可がなかなか得られなかった。

 市当局のこのような態度はインターネット上での署名活動などを通じて慰霊碑の建設を阻止しようとした団体があったことと無関係ではないとみられる。

 また同市の端島(通称・軍艦島)などで構成される産業革命遺産の世界文化遺産への登録を巡り、韓日の間であつれきが生じたこともあり、市が政府の顔色をうかがったものとみられる。

 慰霊碑建設委と総領事館による交渉の末、今夏に建設許可が出された。

 碑文の内容については、市が反対した「強制徴用」という表現の代わりに「本人の意志に反し」という文言が使われることになった。

 ただ慰霊碑の説明は韓国語、日本語、英語で記述され、英文では「強制的に労役させられた(forced to work)」という表現が使われた。 

 現在、長崎市の平和公園には1979年に在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の主導で建設された小さい「朝鮮人犠牲者追悼碑」があるものの、韓国政府の支援を受けて民団の主導で建立される慰霊碑は初めてとなる。

 建設委は除幕式に姜昌一(カン・チャンイル)駐日大使など韓国側の関係者だけでなく、長崎県知事や長崎市長などを招いた。
(朝鮮日報)

(引用終了)


  朝日新聞が、東日本大震災で大きな被害があった宮城県女川町において元慰安婦だった在日朝鮮人が、住んでいた自宅が津波で流されたために支援者らによる後押によって東京での避難所生活を始めて、その後、大阪市福島区で開かれた講演で「いっそ津波に流されりゃ良かった気もする」「戦争した補償は日本の国としてするべきだと言っても多くの政治家は無関心。どういうことだ」と怒りを示したと報じていた記憶がある。
 
  日本政府を相手にした謝罪と賠償を求める裁判で敗訴しているとしても、確か韓国は東日本大震災で被災した在日朝鮮人に対して義援金を送っている筈だが、そのことは黙っていて、日本政府から何度も賠償を取ることは忘れていないようだ。この元慰安婦の件が報道された時に本当に宮城県女川町に住んでいたのかと疑問を持ったし、住んでいて自宅が津波で流されたと言えば同情されるとでも思ったかも知れず、何せ息を吐くように嘘を付く民族だからで、支援者らも、この元慰安婦が嘘を付いていないか知らべた方が良いのではあるまいか。
 
  東日本大震災の被災地に住んでいた元慰安婦だった在日朝鮮人の話とは異なるが、かっての戦争末期に広島で被爆し、その後に長崎でも被爆した朝鮮人がいたと報道されたことがある。その朝鮮人が元慰安婦であったかどうかまでは覚えていないが、2回も被爆したとはついていないと言う他はないし、本当であれば、被爆の影響で長生きが出来なかったであろうが、実際は戦後50年以上経過してから出てきた話であり、この話も日本政府を相手とする賠償を得るための作り話である気がしてならない。
 
  朝鮮日報によれば、長崎への原爆投下で犠牲になった韓国人を追悼する慰霊碑が長崎市の平和公園に建立され、来月6日に除幕式が開かれるそうで、この原爆投下によって約7万4000人が死亡。このうち朝鮮半島出身者が数千人から1万人程度含まれていたと推定されると報じている。もし1万人ならば、死亡者の13%が朝鮮人となるが、当時、長崎に1万人も朝鮮人がいて、強制的に連れて来られたと言うのであればば、帰国させよと要求する朝鮮人によって長崎市内は混乱していたと予想されるが、そのような記録はあるのか。
 
  現代とは異なり、朝鮮半島から日本への渡航は船舶による方法しかない訳で、それも本人の意に反する渡航となれば、逃げ出さないように監視人がいたであろうし、その方法は船倉に閉じ込めて、日本に着いたならば、強制的に収容施設に入れられ監視されていた筈だが、朝鮮半島と行き来している船舶が着いた港に収容施設らしいものはないとなれば、どのような方法で、逃走防止の措置が取られていたのか知りたいものである。
 
  建立された慰霊碑には原爆投下で犠牲になった朝鮮人は、長崎市が反対した「強制徴用」という表現の代わりに「本人の意志に反し」という文言が使われることになったそうで、要するに長崎で被爆した朝鮮人は来たくもない日本に連れて来られたことにしないと日本に謝罪と賠償を要求出来ないとして、その証拠となるように長崎市を脅迫し慰霊碑に刻まさせたとしか思えず、朝鮮人は証拠がなければ作れば良いと思っており、だから、「強制徴用」の証拠は、慰霊碑に書いてあるではないか言い出して、慰安婦、徴用工に続いて自称原爆犠牲者が日本政府相手に謝罪と賠償の要求を開始するであろう。
(2021/10/23)


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