私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

台湾産のパイナップルが爆売れしているのは

2021年03月07日 22時05分43秒 | 台湾関連

台湾産「自由パイナップル」が中国の圧力に勝利、日本も支援

2021/03/03

<中長期的には、輸出の中国依存を脱却しなければいつまた突然禁輸措置を突きつけられるかわからない>

台湾の市民と企業は、収穫の開始直前に中国税関から無期限の禁輸措置を受けた国内のパイナップル生産者を一丸となって支援している。

地元のバイヤーだけでなく、日本などの近隣諸国が、今年中国市場向けに生産したパイナップル4万トン以上を「ものすごい勢いで」買ってくれた、と台湾の陳吉仲(チェン・ジィゾン)農業委員会(農林水産省)主任委員は、2日に語った。

3月1日から台湾産パイナップルの輸入を停止するという中国税関総局の通知を台湾政府が受けたのは、禁輸開始3日前の2月26日のことだった。理由は、昨年以来、台湾産農産物からさまざまな有害生物が発見されたからだという。

台湾行政院農業評議会(COA)は、2020年に中国向けの輸出貨物6200件のうち13件に有害生物がいたという報告を受け、対処していた。そして同評議会は、中国政府が昨年10月に改正輸入規則を導入して以降、有害生物の苦情は受けていない、と述べた。

台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は、行き場を失ったパイナップルに対処する政権の計画を発表するフェイスブックの投稿で、土壇場で禁輸を通知した中国政府のやり方を「不意打ち」と非難した。蔡政権閣僚をふくむ政府当局者は、与党民主進歩党の支持者が多い南部の農民をターゲットにした中国による政治的な動き
とみて、批判している。

いち早く日本が反応

COAのデータによると、台湾から輸出されるパイナップルのほぼすべてが中国向けで、台湾の年間産出量41~43万トンの約10%を占めている。昨年は4万1000トン以上が中国に輸出された。

台湾政府の計画では、余った5万トンものパイナップルの60%を日本、アメリカ、シンガポールなどに輸出し、残りの40%は国内加工食品メーカーに地元産パイナップルの使用を奨励することで消費するつもりだった。

しかし、蔡政権が主導し、有名人や大企業が支援を呼びかけを始めると、パイナップルの需要は急増した、と陳主任委員は語った。

中国政府の通知から約96時間後の2日正午までに、海外市場への5000トンを含む4万1687トンのパイナップルが売れた、と陳は記者らに語った。この数字は昨年の中国への販売量を上回っている。

世界で最も厳しい食品輸入基準のある日本も、最も速く反応した国のひとつだった。台湾政府のパイナップル推進キャンペーンの初日に、日本からの受注は62%増加した、と陳は言い、今年の対日輸出量は前代未聞の5000トンに達すると予測した。

台湾政府はまた、国外在住の台湾市民からの需要の増加にも対応しようとしている。そのなかには、今のところ台湾からの生の果物の輸入を許可していない国が含まれている。

(以下略。全文はリンク参照。ニューズウィーク日本版)

写真:中国から突然禁輸を通告されたパイナップルを宣伝する台湾の蔡英文総統(3月3日)

(引用終了)


 知り合いの年寄りに食料品の買い物を頼まれることがあり、買って来て欲しいものが書かれているメモを持ってスーパーなどを回るのだが、いつも気を付けていることは製造者の記載がないものや、生産国が支那や韓国であれば、どんなに安くとも購入しないことにしている。

 なぜかと言うと何せ食べるものなので、支那や韓国で製造されたものは安全性に問題があるからであり、支那の場合は毒入り餃子事件の記憶が新しいし、韓国では日本向けの食品にタンやツバ、小便などを混入している疑いがあり、それらしい画像がネット上にあったし、日本人に嫌がらせをすることを自慢している国だからである。だから自分自身でも、また頼まれて買い物をする場合でも支那や韓国の食品は購入しないことを伝えており、そのために国産や他の国のものが見つかるまで、スーパーのはしごをするようになってしまった。

 支那と言えば前述したように日本に毒入り餃子を輸出した国であり、まさに嫌がらせをすることに掛けては支那が世界で1番ではなかろうか。その支那がまた台湾に嫌がらせをしたようで、ニューズウィーク日本版によれば、台湾産のパイナップルの輸入を収穫の開始直前になっていたにも関わらず3月1日から突然停止したとのことで、チャイナリスクとはまさにこのようなことではないか。

 だが、台湾の蔡英文総統が、支那の禁輸措置で行き場を失ったパイナップルに対処する政権の計画を発表するフェイスブックの投稿すると、世界中から「台湾を助けよう」との声が上がったようであり、支那の禁輸措置通知から約96時間で、海外市場への5000トンを含む4万1687トンのパイナップルが売れたとのことで、この数字は昨年の支那への販売量を上回っているそうである。
  
 日本としても、10年前の東日本大震災では、世界最大の義援金を送ってくれた台湾に恩返しをしなければならないし、既に台湾が日本から受注した量は62%増加したとのことで、スーパーに行っても、パイナップルと言えばフィリピン産が多かったが、これからは台湾産も増えるとなれば食べ比べが出来るので嬉しくなる。

 わが家でも、さっそく台湾産のパイナップルを購入したが、女房が「どうしたの」と聞くので、「台湾への恩返しだ」と答えておいた。台湾で大きな災害があったり、困ったことが起きれば、助けるのは日本国民の義務と言っても良いし、それだけ台湾には恩があると言えるだろう。

 支那では昨年、大洪水があり、大きな被害が出たようで、支那共産党からの要請がなかったからかも知れないが、国際社会は救援のために動いた様子もないし、おそらく口には出さなくとも国際社会は「ざまあみろ」との認識で、支那がどんなに困っても助けたいとは思わなかったのではあるまいか。

 台湾産のパイナップルが爆売れしているのは支那のおかげだったと言う訳で、今後も禁輸措置を継続して欲しいし、そもそも、支那人にパイナップルは似合うとは思えず、だから食品類は輸入せず、毒入りの自国生産品だけで暮らした方が良いし、武漢肺炎ウイルスの発生国ありながら謝罪しない支那を排除しようとの動きが国際社会から出始めているのは大変良いことである。
(2021/03/07)


台湾の人々は100年前の恩を未だに忘れず

2020年05月12日 21時46分44秒 | 台湾関連

台南で八田與一慰霊祭 ゆかりの地にマスク100万枚などを寄

2020/05/10

 【台南(台湾南部)=矢板明夫】日本統治時代に台湾の水利事業に貢献した日本人技師、八田與一(はった・よいち)の慰霊祭が8日、八田が建設を主導した台南の烏山頭(うさんとう)ダムの近くにある八田夫妻の墓前で行われた。今年は新型コロナウイルスの世界的流行で、日本からの参加者はいなかった。台湾側の関係者は慰霊祭の後、八田ゆかりの石川県金沢市、加賀市などにマスク計100万枚、防護服1000着を寄贈する方針を決めた。

 毎年5月8日の八田の命日に合わせて行われる慰霊祭だが、今年は新型コロナ感染予防のため、参加者をいくつかのグループに分けて行われた。午前10時の部には約60人が参加し、八田の銅像に一人ずつ献花した。日本台湾交流協会台北事務所の泉裕泰所長(駐台湾大使に相当)も駆け付けた。毎年必ず参加するという地元出身の企業家、黄崑虎(こう・こんこ)氏(89)は「八田さんがダムを作ってくれたおかげで、周辺の農地の収穫が2倍以上に増え、たくさんの人が餓死せずに済んだ。今でもお米を頂くと八田さんのことを思い出す」と話している。

 烏山頭ダムは1920年に着工、今年はそれから100年に当たる。地元関係者らは、昨年から盛大な慰霊祭を計画していたが、新型コロナの蔓延(まんえん)により断念した。訪台できなかった八田氏の遺族は手紙で慰霊祭を主催した台湾側の関係者に感謝の意を表した。

 台湾の民間団体、八田與一文化芸術基金会とスポンサーの南六企業は「日本に対する恩返しの一環」として、八田ゆかりの地などに医療物資を寄贈することにした。基金会理事の邱貴(きゅうき)氏は「私たちはすでに日常生活を取り戻しつつあるが、日本のみなさんはまだ新型コロナと戦っている。少しでもお役に立てられたらうれしい」と話している。
(産経新聞)

写真:8日午前、台湾の烏山頭ダム近くで行われた八田與一の慰霊祭で、八田の銅像に献花する参列者(矢板明夫撮影)

(引用終了)


 朝鮮人は、かっての日本による朝鮮半島統治を屈辱の歴史と考えており、だから、日本が遺した統治時代の都合が悪いものを破壊し、その歴史を消そうとしている訳である。日本のおかげで近代国家になったことに感謝する気はないし、また朝鮮半島統治とか併合などとは言わず、搾取するだけの植民地支配だったとして「日本の支配がなかったならば朝鮮半島はもっと素晴らしい近代国家になっていた筈だ」とまで言っている。
   
  日本が朝鮮半島に遺したものは道路・鉄道・学校・病院・上下水道・送電網・港湾・ダムなど多岐にわたり、それも日本からの投資によって行われた訳で、欧米列強によって植民地支配されていた国と、日本が統治した朝鮮半島や台湾を比較すれば、今どちらが発展しているか言わなくとも分かるであろう。
   
  北朝鮮には、日本の統治時代に建設された水豊ダムが今も残っており、当時世界最大級の発電量を誇っており、北朝鮮の電力供給のほとんどを、この水豊ダムに頼っているとのことである。だが、日本が建設したダムのお陰だなどと朝鮮人が思う訳がなく、自国民には建設したのは金日成将軍様と嘘を教えているから、さすが歴史を捏造するのを得意とする朝鮮人らしいと言えるだろう。
   
  朝鮮半島から伝わってくる日本に関する話題で心温まるものはないが、同じように日本の統治時代があった台湾からは未だに日本に感謝する声があるようで、日本の周辺国でまともなのは台湾だけだと言われているは正解ではなかろうか。だから高校生の修学旅行先として台湾が増えているのであろうが、日本は悪いことしかしなかったと教えられてきたのに、台湾では韓国などとは異なり日本人がなぜ歓迎され感謝されるのかを勉強してきて欲しいものである。
   
  産経新聞によれば、日本統治時代に台湾の水利事業に貢献した日本人技師、八田與一(はった・よいち)の慰霊祭が8日、八田が建設を主導した台南の烏山頭(うさんとう)ダムの近くにある八田夫妻の墓前で行われ、台湾側の関係者は慰霊祭の後、八田ゆかりの石川県金沢市、加賀市などにマスク計100万枚、防護服1000着を寄贈する方針を決めたと報道されている。
  
  毎年必ず参加するという地元出身の企業家、黄崑虎(こう・こんこ)氏(89)は「八田さんがダムを作ってくれたおかげで、周辺の農地の収穫が2倍以上に増え、たくさんの人が餓死せずに済んだ。今でもお米を頂くと八田さんのことを思い出す」と話しているそうで、ダムは1920年に着工、今年はそれから100年に当たるとのことである。
  
  台湾の人々は100年前の恩を未だに忘れず、このダムが出来たお陰で、不毛の土地が台湾を支える穀倉地帯になったことから今でも八田氏は敬愛されている訳で、同じような日本統治時代があった韓国から聞こえてこない話しであり、「日本は朝鮮半島統治で良いこともした」と発言した政治家が批判されて辞任に追い込まれたことは記憶に新しい。
  
  かっての戦争で戦場となった東南アジア諸国などや日本統治時代を経験した国は、今でも日本の悪口を言っているのではないかと思っている日本人もいるであろう。だが、悪口を言っているのは特亜三国だけであり、他の国からは「日本が戦ってくれたお陰で独立出来た」「今アジアはあるのは日本のお陰」などと感謝する声が遥かに多いのであり、日本による台湾と朝鮮半島の統治は欧米列強による搾取するだけの植民地支配とはまったく異なることを知るべきである。
(2020/05/12)


台湾が支那から救援隊を断るのは当然だ

2018年02月10日 21時34分10秒 | 台湾関連

日本特別扱いに中国反発=台湾地震の救援めぐり

2018/02/09

 【北京時事】台湾東部の地震で、蔡英文政権が中国ではなく日本の救援チームを受け入れたことに中国国内で反発が出ている。共産党機関紙・人民日報系の環球時報(電子版)は8日、「大陸を拒絶しながら日本の援助を受けるのか?」と題する記事を配信した。
 
 環球時報によると、台湾総統府報道官は8日、救援の人員や物資は足りていると説明し、中国などの援助を辞退しながら「唯一の例外は日本だ。高価な探査機を持っている」と発言した。日本の救援チームは8日、震源地に近い花蓮で、傾いたビルで人命探査装置による捜索活動を始めた。
 中国ではもともと、台湾独立志向の民進党・蔡政権への警戒心が強い。中国のインターネット交流サイト(SNS)は、今回の地震で改めて浮き彫りになった日台の親密ぶりに「台湾独立分子の目には、中国は敵で日本は身内と映っている」などと台湾を非難する書き込みであふれている。
 中国メディアは、安倍晋三首相が毛筆で「台湾加油(頑張れ)」と慰問のメッセージを書いたことも併せて伝えている。
(時事通信) 
 
(引用終了)


 東日本大震災からまもなく7年になるが、震源が海底で、かつ浅かったことから東北や関東地方などの太平洋岸に大津波が押し寄せて、多数の犠牲者を出した訳で、また行方不明の方もいるようである。被災地は未だに復興したとは言い難く、また避難していた住民が戻らないなどの現象もあるので、元の賑わいを取り戻すには、まだ何年もかかるのではあるまいか。
 
 当時は悪夢の民主党政権時代であり、どうしたら良いのか分からない連中ばかりだったし、また、菅直人氏と言う無能者が間違って総理になっていたことから、被害は拡大する一方であった訳で、偉そうな顔をして被災地を見て回り、苦しんでいる被災者に会った後でも関係部署に具体的な指示さえ出せなかったようである。
 
 嘆かわしい民主党政権と対照的だったのは日本国民の民度の高さであり、あの混乱の中でも、奪い合うこともなく、整然と支援物資を受け取る姿に世界の人々は称賛したのである。また、多くの国や地域から様々な支援が寄せられたのは今まで日本が行ってきた支援への恩返しであった訳で、だから、その恩を日本人であれば忘れてはならない。
 
 東日本大震災の際に約200億円と言う世界最大の義援金を出してくれたのは台湾であり、だから台湾に何か困ったことがあれば、日本は出来る限りの支援をすべきであろう。その台湾で6日、大きな地震があり、花蓮市内のホテルなど4棟が傾くなどの被害を受け、2人が死亡、214人が病院に搬送されたとのことある。
 
 時事通信によれば、この台湾の地震で、日本の救援チームが8日、震源地に近い花蓮で、傾いたビルで人命探査装置による捜索活動を始めたそうだが、台湾総統府報道官は、救援の人員や物資は足りているとして支那から援助を辞退したとのことで、東日本大震災の時もそうであったが、支那から救援隊は被災者の救援せず、米軍や自衛隊に装備などを撮影するスパイ活動が主だったと言うのだから断るのは当然であろう。
 
 天安門事件のように平然と自国民を殺戮する人命軽視の支那共産党となれば、人命救助に関する概念があるとは思えず、四川地震の際に倒壊した学校で生き埋めになった児童がいるのに、重機使ってそのまま埋めてしまったり、高速鉄道でも高架橋から転落した車両を穴を掘って埋めるなどしているからで、だから、大きな災害などがあっても、支那には救援依頼しないことが世界の共通認識となっているのである。
 
 また支那は台湾侵略の野望を持っていることから、人命救助のふりをして送り込まれるのは救援隊とは名ばかりの人民解放軍かも知れず、そのまま台湾に居座る恐れもある。今や世界最悪の侵略国家となった支那となれば、世界から信用されておらず、また人命救助の実績とノウハウがあるとは思えないので、何の役にも立たないであろうし、かえって現場は混乱するだけであり、もし、韓国で災害があった時だけに助けに行けば良いし、日本は断るし、台湾も日本の真似をして今後も断り続けて欲しいものだ。
(2018/02/10)

写真:8日、地震で被災した台湾東部・花蓮で活動する日本の救援チーム(AFP=時事)


日本精神を忘れていない台湾こそ修学旅行先として相応しい

2018年02月01日 20時53分02秒 | 台湾関連

台湾 日本からの修学旅行トップに 10年前の11倍超

2018/01/27

 修学旅行で日本から台湾に行く高校生が10年前と比べ11倍超に急増し、海外の修学旅行先で米国を抜いてトップに立った。親日的で治安が良いうえ、地方都市の航空路線が急激に増えて利便性が高まったことが背景にあるようだ。対照的に中国や韓国への修学旅行は急減しており、外交問題が影響している可能性がある。【台北・福岡静哉】
 
 毎年調査している「全国修学旅行研究協会」(東京都)が26日、2016年度分のデータをまとめた。旅行先で台湾は262校4万1878人、米国(ハワイ、グアム、サイパンを含む)は254校3万6661人だった。台湾は06年度の3552人と比べ約11.8倍となった。校数、人数とも台湾が1位になるのは初めて。同協会の木田一彦・国際担当部長は「親日的で治安も良いのが人気の理由。旅費が安価な点も大きい」と指摘する。

 台湾の人気上昇の背景には、航空便の急増もある。日本と台湾は11年、路線や便数の制限を原則撤廃する協定を締結。国土交通省によると、直行便の就航都市は10市から19市へ、旅客便数も週225便から同592便へと急増した。15年に直行便が就航した熊本県教委の担当者は「台湾は海外修学旅行の主流だ」と話す。

 一方、韓国への修学旅行は06年度2万3197人から16年度3246人と約7分の1に激減した。多くの修学旅行生が犠牲になったセウォル号事故があった14年度に半減した。中国も06年度1万4031人から16年度3398人と約4分の1に減った。日本政府の尖閣諸島国有化に伴う反日デモが相次いだ12年度、中国への修学旅行中止が相次いだ。私立銀河学院高(広島県福山市)は「修学旅行先は、12年に保護者から懸念の声が数多く寄せられて中国から台湾に変更して以降、毎年台湾。親日的で心配なく旅行できる」と話している。
(毎日新聞) 
 
(引用終了)


 高校生時代の最大の思い出と言えば修学旅行だが、確か2年生の時に、北九州と京都を巡った記憶がある。昭和38年だったが、まだ新幹線は開通していなかったので、朝出発して、24時間列車に揺られて翌朝に九州長崎に着き、それからバスに乗って各地を巡った訳である。
 
 戦後わずか18年で、乗車していた列車は遅延することもなく長崎に到着したのは驚く他はないし、また原爆が投下され壊滅した筈の長崎市内も復興しており、その惨禍は残っていなかった。その日の昼食は長崎チャンポンだったが、今のように外食する時代ではなかったので、非常に美味しかったし、だから、ラーメンと言えば長崎チャンポンのように野菜たっぷりのラーメンを食べることが多くなった気がする。
 
 旅行と言えば海外旅行に誰でも行かれる時代となり、一度も海外に行ったことはない方は少ないであろうし、この私でさえ、米国と台湾に行っているが、その後は年も取ったせいか、国内旅行にも行かなくなり、まして海外旅行に行くことはおそらくないとして旅券の更新をしなかった。
 
 最近の高校生の修学旅行先として海外もあると言うのだから、凄いと言うか良い時代になったものだが、問題は渡航先を間違えると、嫌な思い出しか残らないし、修学旅行の名に相応しくないものとなってしまうからである。
 
 毎日新聞によれば、修学旅行で日本から台湾に行く高校生が10年前と比べ11倍超に急増し、海外の修学旅行先で米国を抜いてトップに立ったそうである。一方、韓国への修学旅行は06年度2万3197人から16年度3246人と約7分の1に激減し、支那も06年度1万4031人から16年度3398人と約4分の1に減ったとのことだが、誠に喜ばしいことであり、今まで日本人に対して何をしても良いと思っている反日無罪の国を修学旅行先にしていたことは異常と言う他はない。
 
 韓国に修学旅行に行った高校生が、自称慰安婦の嘘話を聞かされた後に、教師の指示で土下座で謝罪をさせられたとの話を聞いたことがある。要するに、何でも日本が悪いとの日教組教育を受けている教師が、教え子を反日思想に染まらせようと洗脳する目的のために韓国や支那を修学旅行先にしていた訳だが、だから修学旅行ではなく謝罪旅行だと言われているのである。
 
 支那韓国への修学旅行が激減しているとはいえ、まだ行かせている高校があるのは驚く他はないが、当然ながら生徒や保護者から反対する声もある筈だが、それを押し切ってまで、支那韓国への修学旅行を強行するのは何か弱みでも握られているとしか思えない。
 
 台湾に行くと分かるが、日本統治時代の建物が未だに現存しており、それを韓国のように破壊せず、大事に使われていることから見ても、台湾が日本と日本人に対して、良い感情を持っていることが分かるし、私も台湾に一度行っているが、日本人だと分かると親しげに話かけてきたし、嫌な目にも遭わず、今でも行って良かったと思っている
 
 東日本大震災の際に、台湾の人々が世界最大の義援金を送ってくれたことを日本人として忘れてはならず、その恩に報いるためには多くの日本人が台湾を訪れて、感謝の念を表す必要があるだろうし、また台湾の方が日本を訪れて何か困っている様子があったならば、日本人であれば手を差し伸べて欲しいものだ。

 日本は今日まで親しくすべき国を間違えていたが、台湾はそれでも日本統治時代を懐かしみ、日本精神を忘れていないのであり、だから先人たちが台湾に何を残し、また、なぜ親日なのかを学ぶことが出来る台湾こそ修学旅行先として相応しい国だと言えるだろう。
(2018/02/01)

写真:台湾北部・新北市の九份(きゅうふん)にある中国茶専門店。映画「千と千尋の神隠し」で描かれた世界の雰囲気があり、修学旅行生にも人気だ=台湾北部・新北市で、福岡静哉撮影


ありのままの台湾紀行(前編)

ありのままの台湾紀行(後編)


新幹線技術が採用された台湾高速鉄道が開業

2006年12月31日 23時08分05秒 | 台湾関連
   海外で最初に日本の新幹線技術が採用された台湾高速鉄道が、平成19年(2007年)1月5日に開業するとのことであり、日本と台湾の絆をさらに深め、またシンボルともなるであろうからして、開業を心からお祝い申し上げる。

 今日31日の産経新聞の第9面に全面を使って、「『台湾高速鉄道』正式開業へ」との企画特集が掲載されているが、朝日新聞であればまず掲載されることがない記事であろう。

 本来ならば既に開業していなればならないとのことだが、入札で独仏などの欧州連合が激しい売り込み攻勢を掛け優先交渉権を得たことから、当初は日本の新幹線ではなかったが、その後起きた地震の影響もあり、同じく地震国である日本の新幹線が開業以来、一度も人身事故を起こしないことなどが評価され、日本連合7社による逆転受注が成功したものである。

 そのために日本と欧州の技術が混在する事態となり。それが開業の遅れになったもので、また韓国企業が担当した区間の路盤工事が杜撰で手直しを余儀なくされたことも原因となっている。

 台湾に初めて鉄道を敷設したのは日本であり、それは明治38年の日本の台湾統治時代であったとのことで、それから100年を経て、今度は日本の新幹線が台湾を走ることになったことに感慨深いものを感じる方も多いであろう。日本による統治時代を体験した人々が今でも当時のことを懐かしみ、その歴史の真実を正当に評価しようという姿勢があることも、今では国交がなくとも日本と台湾の関係を良好なものとしているのではなかろうか。

 一度訪れたことがある台湾だが、台北市内、淡水、基隆などを廻っただけなので、産経に掲載された特集記事を読んでいると、再び訪れたくなるが、今度は高速鉄道が開通しているからして、さらに南の方に足を伸ばしてみたいものだ。

 台湾高速鉄道が開業することで台湾の一層の発展が期待されるが、それは日本と台湾との関係が親密になることであり、台湾を訪れる日本人観光客も増えることであろう。海外旅行に行くならば、何も日本を嫌っているような国に敢えて行くことはないであろう。

 今回の開業について支那や韓国がどのような反応をするか楽しみだが、「新幹線技術をタダで寄こせ」と言っているような支那や、国民感情から新幹線を採用しなかった韓国には、これからも日本の新幹線技術を採用した高速鉄道を走らせて欲しくないし、そもそも反日国家には新幹線のような技術を出してはならないと思う。開業式典には小泉前総理が招待を受けているそうだが、是非とも参加して欲しい。
(2006/12/31)

この記事は「今日のコラム」
「新幹線技術が採用された台湾高速鉄道が開業」
としてHPに掲載されていたものです。


森喜朗元総理の台湾訪問を高く評価する

2006年11月23日 20時13分54秒 | 台湾関連
   森喜朗元総理が11月21日から3日間の予定で台湾を訪問したそうだが、今回の訪問の目的は、台北市内の中正紀念堂で開催される石川県の優れた伝統工芸品を紹介する文化の翼「石川の工芸・台北展」の開会式などに出席するためとのことである。何か良いことがあるらしく支那に年に何度も出かける媚支那派の政治家がいる中、総理としての在任期間は短く、マスコミから何かと批判をされることが多かった総理であったが、日本と同じ民主主義国としての台湾との友好に尽くす政治家として森元総理を高く評価したい。

 外務省のチャイナスクールや媚支那派の政治家の策謀によって、決して反日国家ではない台湾との関係が緊密であるとは言えず、政治家が常に支那の顔色を伺っているようでは異常の何者でもなく、日本の政治家が台湾に行こうが、どこの国に行こうが自由であり、それを咎める方がおかしいのである。

 マスコミから何かと批判をされていた森元総理であるが、在任中に李登輝前総統の訪日を受け入れたり、台湾の世界保健機関(WHO)への加盟支持や台湾人観光客の査証(ビザ)免除などに貢献するなど日本と台湾との関係を発展させた功績は大きく、陳水扁総統は森元総理を総統府に招き、「台日間の実務交流に卓越した成果を残した」として勲章を授与したそうであり、自分の名誉欲のために、カネをばらまいて勲章や名誉称号などを貰っているどこかのカルト宗教の名誉会長とは大変な違いである。

 日本の政治家が台湾を訪問すると、必ず文句を言ってくる世界で唯一の国は支那であり、今回の森元総理に関しても、支那外務省の姜瑜・副報道局長は「日本は中国の重大な懸念を顧みず、森元首相の訪台などを認め、中国の国家利益を傷つけた」と批判し、「強い不満と遺憾」を表明したとの報道がなされている。

 支那は日本の一人の政治家が台湾を訪問したことだけで国家利益までが傷ついてしまうような柔い国らしいが、まわりの国は、支那の言うことに従っていることが一番良いとの中華思想を持つ国として、そのようなこと位では簡単に傷が付かないように大きな気持ちを持つようにした方が良いではないか。

 さらに姜瑜・副報道局長は「日本が『台湾独立勢力』と、いかなる政治往来も行わないよう求める」とも言っているとのことだが、支那共産党政府は一度も台湾を統治したこともなく、支那と台湾はまったく別の国であり、「台湾独立」と言っても、すでに台湾は世界に沢山ある独立国の一つに過ぎず、公然と人権蹂躙が行われている共産党独裁国家から、同じ民主主義国同士として日本と台湾の交流にとやかく言うことは筋違いである。

 マスコミは政治家が台湾を訪問することになれば支那の反発があることは知っているだろうが、その反発を一々報道する価値があるのか。何でも報道すれば良いのではなく無視することもあっても良いと思う。小泉前総理は台湾新幹線の開通式に招待されているようだが、支那に行くことはないであろうから、是非とも台湾を訪問して欲しい。
(2006/11/23) 

この記事は「今日のコラム」
「森喜朗元総理の台湾訪問を高く評価する」
としてHPに掲載されていたものです。


台湾人観光客の恒久的なビザ免除を評価する

2005年08月07日 23時17分48秒 | 台湾関連
   台湾とは残念ながら外交関係がないが、台湾からの観光客に対する査証(ビザ)の発給を恒久的に免除する出入国管理・難民認定法の特例法が5日の参院本会議で全会一致で可決し、成立したと報道されている。よって現在愛知県において開催されている「愛・地球博」(愛知万博)の期間に限定して認めている台湾観光客に対するビザ免除は、万博終了後も継続することになり、やっかいな存在でしかない極東三馬鹿国家と異なり、特に問題を引き起こさない台湾からの観光客を暖かく迎えるためにも当然の措置と言って良く、特例法の可決成立を高く評価する。

 現時点では、台湾人観光客の不法入国や不法滞在などの問題は生じていないそうであり、わが国における外国人犯罪の国籍別の統計でトップに座を占めている支那人や、ご存じのように韓国人の日本人を対象として引き起こす各種問題も少なくないことから、わが国に観光客として入国したい場合は、国籍別に区別して、治安悪化の要因とならぬようにしておくのは主権国家として当たり前である。

 この特例法は全会一致とのことだが、普段から支那の媚びている議員も賛成した訳であり、後で支那から「先生。なぜ反対してくれなかったのか」と怒られるのではないかと心配している。支那からお手当を貰って良い思いをしていながら、その支那を裏切ってしまったのか。政治家として信念があるならば支那との友好のために反対すべきではなかったのか。今度支那に参拝に行った時に当然ながら嫌味の一つでも言われるであろうと想像がつく。

 台湾人観光客のビザ発給を恒久的に免除することに支那はさっそく反応し、人民日報に支那外交部の劉建超報道官のコメントが掲載されており「中国政府の台湾問題における立場は明確で一貫している。世界に中国は一つしかなく、中華人民共和国政府は、全中国を代表する唯一の合法的な政府であり、台湾は中国の領土の分割できない一部分だ。」としているが、確かに支那(中国)と言う国は世界に一つであろうが、台湾も世界で一つしかない国であり、支那がそのような主張をするのは勝手だが、「台湾は中国の領土の分割できない一部分だ。」と言うならば過去においても現在でも台湾を統治したことがあり主権が及んでいるのであろうか。

 世界は台湾は支那の主権が及んでいない他国との認識を持っているが、敢えてやっかいな支那と波風を立たせまいと、その勝手な主張を理解しているふりをしているに過ぎないと思う。劉建超報道官は続いて「われわれは日本が言行を一致させ、台湾問題について『中日共同声明』など3つの政治文書(共同声明、平和友好条約、共同宣言)の中で中国に行った厳粛な約束を守るよう望む。」と述べているが、約束やぶりの常習犯である支那から「厳粛な約束を守るよう望む。」と言われても説得力はないが、確かわが国は「台湾問題に関しては支那の立場を理解する」と言っているだけで「支那と台湾は同じ国」とか「別の国」とは言っている訳ではなく「理解する」との曖昧な表現に止めていたに過ぎない。それを支那は「台湾は支那の主権が及ぶ領土だ」と勝手に思っている訳である。

 わが国に観光客として入国しても問題を起こす者と起こさない者を国籍ごとに統計をとり、区別して入国ビザを恒久的に免除するかどうかを決定するのはわが国の主権問題であり、支那がどうしても気に入らなければ、支那に入国する日本人観光客にビザ取得を義務付け、写真撮影と指紋を採取をするなど「報復」をすれば良いだろう。私は奇病が蔓延しているような支那に観光に行くことは絶対にないが、是非やって欲しい。

 入国ビザが免除されたことから李登輝氏の来日も問題がなくなった。媚支那の議員も反対すら出来ないので、靖国神社には李氏の戦死した実兄が合祀されているとなれば是非参拝して頂きたい。日本国民は心から歓迎したいと思う。

 極東三馬鹿国家を刺激し、苛出させることから日本は本当の主権国家としての再生が始まるのであり、そのためには、その三馬鹿国家になま暖かい風を送り続けてきた連中をあぶり出し、淘汰して行くことが絶対に必要である。
(2005/08/07)

この記事は「今日のコラム」
「台湾人観光客の恒久的なビザ免除を評価する」
としてHPに掲載されていたものです。


日本での八田與一氏のドラマ放映を希望する

2005年04月13日 21時37分40秒 | 台湾関連
 支那での反日デモは沈静化どころか、温家宝首相が12日に訪問先のインド で、「日本当局の深い反省を引き起こすに違いない」と述べて反日デモを支持 するかのような発言をしたことから、今週末に再び反日団体がデモを呼びかけ ているそうである。このまま沈静化しては面白くないし、日本政府が東シナ海 での天然ガス田開発に関して、民間業者に試掘権を与える手続きを開始したこ とを発表したことから、支那を明らかに刺激することは明らかであるので、今 週末の反日デモも大いに盛り上がることだろう。

 反日を叫ぶ支那とは対照的に、今日13日の産経新聞に台湾で水利事業に生 涯尽くした日本人技師、八田與一氏と外代樹(とよき)夫人を主人公にしたテ レビドラマの撮影が5月から始まることが報道された。八田氏のことは「教科 書が教えない歴史」で読んだことがあり、「勇気と友情の物語」の中で「命が けで台湾にダムを作った八田與一」として掲載されている。

 八田氏は台湾総督府土木課に勤務し、不毛地帯だった台湾南部の嘉南平野を 一面の穀倉地帯に変えるために、烏山頭(うざんとう)ダムと総延長1600 0キロの農業用水路を建設するという世紀の大事業の設計と工事全体の指揮を 行い、これを10年の歳月をかけて完成させ「嘉南大●(かなんたいしゅう) の父」と今でも台湾人から慕われているとのことで、烏山頭ダムわきの八田氏 の銅像前で、八田氏を慕う地元の人々が5月8日の命日に慰霊祭を続けている と言う。

 朝鮮半島にも日本統治時代のダムや道路、鉄道、学校など多くの日本の遺産 が今でも残っているであろうが、台湾のようにきちんと評価しているとは思え ない。「感謝して欲しい」とまでは言わないが、せめて事実としてテレビドラ マでなくても良いから国民に教えるべきではなかろうか。

 八田氏のドラマを制作するのは、台湾の四大地上波テレビ局のひとつ「中華 電視」とのことで、同局の江霞社長は「台湾の歴史を考える上で八田與一夫妻 の貢献は欠かせない」と話しているそうで、戦前の日本人が台湾でテレビドラ マ化されるのは初めてで、外代樹夫人役で歌手の松田聖子さんの出演も内定し たとのことで、韓国のように60年以上前の親日行為を暴こうとしているのと は大変な違いである。

 台湾の前総統の李登輝氏が、平成14年11月に慶応義塾大の学園祭に招か れ「日本人の精神」との題で講演を行い、八田氏のことを紹介する予定であっ たが、日本政府が訪日ビザを発行しなかったことから中止となり、その講演原 稿の全文が産経新聞に掲載されたので読んでいるが、同じ日本人として八田氏 が今でも台湾の人々に慕われていることを誇りに思った。

 江社長は八田夫妻を主人公にしたドラマ化に「国民党政権時代に歴史から消 されていた日本統治時代にも、現在の台湾経済の礎になっている重要な人物が いたことを、台湾の視聴者にもっと知らせたい」と話していることも日本から のODAを国民に敢えて知らせない支那共産党とは対照的な話である。

 このドラマを日本でも是非とも放映して貰いたい。かって日本が統治した台 湾と朝鮮半島では統治の仕方に差があるとは思えない。憎悪の声しか聞こえて 来ない韓国に何を言っても無駄だろう。評価する声がある台湾で制作される八 田夫妻のドラマを見て同じ日本人として生まれたことを誇りに思いたい。
 ●=土へんに川
 (2005/04/13)

この記事は「今日のコラム」
「日本での八田與一氏のドラマ放映を希望する」
としてHPに掲載されていたものです。


支那原潜の情報を提供した台湾に感謝しよう

2004年11月19日 22時41分01秒 | 台湾関連
  支那は原子力潜水艦の日本領海侵犯事件について「遺憾の意」を表明してい るものの謝罪の言葉は未だにないようだ。日本だけには頭を下げたくないと思 っている支那であるから、謝罪の言葉が聞かれることはないと思っていた方が よさそうである。支那の李肇星外相は町村信孝外相と訪問先のチリで会談した 際に、遺憾の意を表明し、再発防止に努めることを約束したそうだが「謝罪す る」とは言わなかったようで、おきまりの小泉総理の靖国神社参拝というあり もしない「問題」を持ち出し参拝中止を要求したとのことである。

 李肇星外相は「日中間には避けて通れない問題として靖国の問題がある。適 切に処理されなければならないと考える」として、日本との関係で、支那が起 こした事で紛議を生ずると必ず「靖国神社参拝問題」を持ち出して日本を牽制 するのが恒例になっている。領海侵犯は小泉総理が靖国神社を参拝しているこ とが原因なのか。こんなアホな話はない。これは日本側の抗議を受け付けない ためのいつもの悪辣な手口である。

 忍び込みの泥棒が家人に見つからないように侵入したが、防犯装置のおかげ で家人に発見され誰何されたことから、あわてて逃げ出した。しかし、これが 間抜けな泥棒で家人に追跡されて栖を突き止められてしまった。そして家人が 「なぜ人の家に忍び込んだのか」と問いつめると、その泥棒が「お前の家に神 棚があって、それに手を合わせていることが気に入らないからだ」と憮然とし ているのと同じであろう。

 この例え話と同じような事を外相たる者が平然と言っているのだから呆れて しまうが、町村外相は「首相の考えはこれまで伝えてある通りだ」と答えて反 論したことは当然であろう。支那は原潜領海侵犯問題は日本に遺憾の意を表明 し、すでに解決した問題として、これ以上日本にあれこれ言われたくないと思っ ているようであるが、それは加害者である支那が判断することではあるまい。 領海侵犯の理由を「技術的な問題だ。故意ではない」と言っても日本は全面的 に信用している訳ではなく、また支那は嘘を付いていると多くの日本人は思っ ているのである。

 領海侵犯は明らかに敵対行為であり、日本の主権を侵害するものであって、 一遍の遺憾の意だけで片付けられる問題ではない。しかし支那がしつこく言う 靖国神社参拝問題とは、そもそもそのような問題などなかったのに支那が勝手 に持ち出したものであり、それは尖閣列島問題も同様である。

 原潜の領海侵犯に関して支那のマスコミは沈黙を守っているそうであるが、 さすが都合の悪いことは一切国民に知らせない共産党一党独裁の国であり、国 籍不明の潜水艦が日本領海を侵犯した事だけを伝えているようである。ところ で、今回の支那原潜の動向は台湾当局が最初につかんでいたとのことで、陳水 扁総統は「台湾からの関連情報を事前に日本と米国に提供できたのは大変光栄 だ」「中国(原文のまま)の脅威をだれもが感じている。アジア太平洋地域の 平和と安定をどのように維持するかが日本、米国、台湾にとって共通の利益に なる」と述べたとのことである。

 支那からすれば台湾当局に対して「日本や米国に原潜の情報を通報したとは。 余計なことするな」との思いがあるだろう。この事実からしても、わが国の周 辺国で信頼出来るのは台湾しかないことを物語っております。これが韓国なら 日本に通報したかどうか分かったものではない。

 日本は支那原潜の動向について情報を提供してくれた台湾に感謝しなければ ならない。支那は東シナ海、南シナ海、西太平洋での制海権を確保して内海化 を狙っており、決してこの地域における平和を創造する国ではなく、領土拡張 を続ける侵略国家の何者でもない。日本は何時までも支那への幻想を持たず、 米国、台湾とともに東アジアと太平洋地域での安全保障に関して密接な連携を とることが必要であろう。
(2004/11/19)

この記事は「今日のコラム」
「支那原潜の情報を提供した台湾に感謝しよう」
としてHPに掲載されていたものです。


ありのままの台湾紀行(前編)

2004年03月10日 00時30分40秒 | 台湾関連

~日本人を歓迎する親日の国と言われているが~

はじめに

 約50年にも及ぶ日本の統治があるのにも関わらず台湾はなぜ親日なのか。統治されたのだから日本を恨んでいるのではないか。同じく併合され統治されていた朝鮮は、北朝鮮と韓国に分断されているが、今では凄まじい反日国家になっているのに、台湾の人からは日本を恨む声が聞こえてこないばかりか、日本精神の元で台湾の発展に尽くした日本人の偉業をいまでも高く評価しているといいます。それは本当なのか。ならば日本人が台湾を訪問し、日本人と分かれば歓迎し、親切にしてくれるのではないか。私は、以前からそんな思いを持っており、いつかは台湾に行ってみたいと考えていました。

 マスコミが伝える情報ほど当てにはならず、テレビの旅番組では、美しい所しか写さないし、何を食べてもタレントが「美味しい」を連発するのは本当なのか。やはり自分の目で見て、味わい、現地の人と話をしないと分かりません。そんなことから、ツアーのおきまりのコースを回るだけではなく、台湾の普通の市民が住む町を歩き、また食べている場所で食事をしてみたかったのです。

 さて、台湾への旅を申し込もうと、自宅から車で5分位の所にある大きなデパート内に入っているJTBと言う旅行会社に行く。最初は希望している1月19日から3泊4日と申し込もうとしたのですが、1月22日が台湾では旧正月とのことで、予約出来ないと言われ、仕方なく2月2日から同じく3泊4日ではと言うと、すぐパソコンを操作して、予約は大丈夫とのことで、申込書を書く。海外旅行なので、勿論パスパート持参である。成田発が午前10時45分とのことで集合が2時間前の8時45分でしたので、我が家から歩いて行ける駅からの朝1番の電車に乗車しても無理なので、成田のホテルに前泊することにする。また旅行保険にも加入したので、旅行費用の他に約1万円の出費になってしまった。


2月1日(日)出発前日の成田前泊

 成田のホテルには、夕方まで着けば良いのですが、少し早めのお昼過ぎに自宅を出る。成田までの交通機関は電車やバスなど色々ありますが、我が家からだとJRが一番便利なので「快速エアーポート成田」を利用することにする。途中の新橋で少し遅い昼食をとり、さらに東京で買い物をしていたので成田第2ターミナルに到着したのは午後4時30分過ぎになってしまった。ターミナル入り口では検問が行われており、パスポートを提示する。しかし、所持品検査も身体検査もなく、これでテロを防げるのであろうか。

 まず夕食にしようと、うろうろするが、どの店も庶民的な価格ではない。でも仕方ない。やっとトンカツの店で、その日のオススメ品である厚切りトンカツを注文する。これが厚切りか思うものでしたが、味は良かった。

 宿泊予定のホテルへは送迎バスがあるそうで、第2ターミナル乗り場で午後6時10分発のバスを待っていると、大型のデラックスバスが来たので乗り込む。車体外部にも内部にもホテルしか行きませんと書かれたプレートがありましたので、間違って乗る人がいるのか。あるいはホテルに泊まっているふりをして利用している人がいるのでしょうか。宿泊先は「マロウドインターナショナルホテル成田」で、チェックイン後にさっそく1階の大浴場とサウナに行く。ホテルの部屋に付いている風呂は日本人にはどうも合わない。大きな浴槽で足を伸ばして入浴するのは何とも気持ちが良い。

 成田にあるホテルなどで浴場入り口には各国の言葉で注意事項が書いてあるが、その中で「パンツを履いたまま入浴しないで下さい」が目に付いた。でも私が出ようとすると、アラブの国の人だと思うが、パンツを履いたまま入ってきた。汚れたパンツを履いたままではたまらない。湯が汚れてしまう。混浴ではあるまいし、汚いパンツくらい脱げと言いたくなった。このホテルにはプール、ジムもあり、滞在中に無料で利用できるそうです。各国航空会社の美人客室乗務員に宿泊先として利用されておりますので、そんな方とお友達になれるかも知れません。 客室のベットはシングルながら幅が142センチあるとのことで、大きな体の私にも十分な広さである。なぜか枕は2個あったが、そんなことはどうでも良い。早めに休む。


2月2日(月)成田から台北へ

 やはり、興奮しているのか午前6時には目が覚めた。天気予報では、お昼ころから雨が降りだすとのことで、カーテンを開けて、外を見ると、どんよりとした曇り空である。ずっと良い天気が続いていただけに、何で出発日に天気が悪くなるとは普段の心がけが良くないのかと思う。でも仕方ない。相手は自然であり人間の力ではどうすることも出来ない。

 空港までの無料バスがホテル前から出ているので、乗り込む。大型バスだか、乗客は私を入れて5,6人である。朝のラッシュ時間帯であるので、付近の道路はやや渋滞してるが、それでも何とか空港の入り口のゲートに着く。ゲートでは検問が実施されているとのことで、パスポートの準備をする。警備員が乗り込んで来て、パスポートの検査をされるが、ずいぶん簡単である。これではテロリストを阻止出来るのかと心配になってくる。どうも日本は島国のせいか、空港は国境であるという意識が低い。もっと厳重な警戒をすべきであり、それで文句を言う人に限って、何か事があると真っ先に警戒の杜撰さを言うのである。そこが日本人のいけないところかも知れない。

 ホテルで朝食をとらなかったので、ターミナルビルにあるレストランでも入ろうと思ったが、なかなか庶民的なものがない。朝から何でこんな高いのかと思うものが多い。エー仕方ないと、マックに入る。ざわざわして落ち着かないし、また高くて落ちそうな椅子で、次々と人が入ってくるので、せわしない朝食でした。

 チェックインは午前8時45分からとのことで、時間までターミナルビル内をぶらぶらする。また椅子に座って各国航空会社の美人客室乗務員がさっそうと歩いている姿を見るのも成田空港ならでの楽しみである。あまりじろじろ見ると不審者と思われるので、ほどほどにした。

 午前8時45分丁度にJTBの団体カウンターでチェックインし、搭乗券と帰りの航空券を受け取る。搭乗機は午前10時45分出発のエアーニッポンEL2103便である。
セキュリティ検査を受け、続いて出国審査を受けて、搭乗口に向かう。以前は書いていた出入国カードは書かなくなったようである。その代わりだろうかパスポートの写真が貼付してあるページの部分をスキャナーで読みとっていたので、それで出入国の管理をしているのであろう。

 午前10時20分から搭乗開始とのことで、椅子に座ってしばらく待つ。台湾では生水は飲めないとのことでしたので、ミネラル飲料を買う。まもなく搭乗開始のアナウンスがあり、ぞろぞろと搭乗口に向かう。エバー航空と共同運行便とのことでしたが、機体はエアーニッポンで、客室乗務員は全員日本人のようでありほっとする。当然エコノミー席だが、何度乗っても飛行機の座席は狭い。窓際であったので窓から景色は見えるが、今日は天気が良くないので、雲しか見えないであろう。

 午前10時45分予定通り離陸する。ベルト着用サインが消え、おしぼり、飲み物、機内食と次々と各種サービスがあり快適である。窓から外を眺めても雲と青空だけでまったくつまらない。結局、台湾に到着するまで見えたのは雲と青空だけでした。機内で、台湾の出入境カードと新型肺炎(SARS)関するアンケートを書く。英語と正字との併用だか意味は何となく英語の方が分かる。

 台北中正国際空港(中正国際機場)へは午後1時28分(日本時間午後2時28分)に着く。時差は台湾の方が1時間遅いので時計を1時間戻す。大きな空港ではあるが、成田より駐機している航空機や、人も少ない感じだ。

 新型肺炎(SARS)の検査があるとのことで、体温を計る計器の前を通過しようとすると呼び止められる。どうも熱があるようだとのことで耳の中に体温計を差し差し込まれ検査される。熱などないが台湾に着いて興奮していたのか。若い女性の係員から「大丈夫?」と言われる。台湾で聞いた最初の日本語でした。 入国審査は当然に台湾人と外国人は別ですが、すんなり通過する。質問もなかった。税関に申告するものもないので、そのままゲートを出る。

 ゲートを出た所に申し込んだ旅行会社JTBの札を持っているガイドさんが待っているとのことでしたので、見ると沢山のガイドさんが手に旅行会社の名前が書かれた紙を持っている。すると40歳位の男性のガイドさんがJTBの札を持っていたので声を掛けると名前を呼ばれたので「そうです」と答えると、先に故宮博物館の見学のための受付があるとのことで、そのカウンターで、名前、国名、パスポートナンバーを書く書類があり、パスポートを提示すると入場引換券をくれた。

 次に両替をしなければならないので、空港内の中國國際商業銀行中正機場分行の窓口に行く。ガイドさんが「3泊4日なら2万円で十分です」と言うので、2万円でを出すと当日のRateは0.306とのことでしたので6120元となり手数料は20元でしたので、1000元札6枚、100元札1枚に両替しました。書類に署名をするだけで誠に簡単である。

 ターミナルビルを出ると迎えの車が止まっており、今日は私1人とのことで、車はなんとボルボという大きな外車でした。その後部シートに座り、さっそく宿泊先のホテルに向かう。空港からすぐ高速道路に入る。車内でガイドさんから「台湾では水道から直接水を飲んでは行けない。ミネラルウォーターを買って飲んで下さい。ホテルで荷物を部屋まで運んでくれるベルボーイに50元程度のチップをやって下さい。」などの注意事項を聞く。

 ガイドさんは当然ながら日本語を話していたが、何となくたどたどしく。道路は片側4車線で広い。ガイドさんは通過する町の名前を教えてくれたり、日本から輸出した工事中の新幹線の高架橋を示し、「これが来年完成します。台北から高雄まで約90分で行けます。便利になります」と喜んでいました。台湾では道路は右側通行で、車は当然左ハンドルです。雨がかなり降っていますが、スピードを出すので心配になってきたが、でもボルボだから大丈夫か。途中に通行料金所があったが、料金の徴収係りは若い女性であった。ガイドさんは「ここで働いているのは全部若い女性ばかりです」と言っていた。排気ガス除けだろうか大きなマスクをしていました。

 高速道路を降り、台北市内の一般道路に入ると、車が多い。また日本と違いバイクに乗った人が多く、車の間をぬうようにばんばん走っていて実に危ない。また雨がかなり降っているのですが、気にしていないようである。ガイドさんに尋ねたところ、台湾では車が高く、なかなか買えないので、庶民はバイクを生活の足にしているそうです。そう言えば道路沿いには日本なら何処にでもある中古車展示場が台湾滞在中に一度も見なかった気がします。

 午後3時旅行中の宿泊先になっている。S大飯店(Sホテル)に着く。このホテルを宿泊先に決めたそのホテルはBグレードながら日本語が上手なスタッフが多いとのことで、それで申し込んだのです。

 チェックインの手続きはガイドさんがやってくれたので、パスポートだけ提示するだけでOKである。カード式の沢山穴が開いた鍵とホテルの名刺、朝食券3枚を受領する。ガイドさんから荷物を部屋まで運んでくれるベルボーイにチップをやる習慣があると聞いていたが、あいにく財布には100元札しかないので、フロントの女性従業員に50元との両替を頼む。滞在中、日本人なのかどうか分からないが、この女性従業員が話す日本語が一番上手だった。ここでガイドさんから「帰国の日は午後0時に迎えに来ます。明日(3日)の観光コースのガイドは別の人が来ます」と言われ別れる。そして50歳位のベルボーイの案内で客室に案内される。

 すると成田で泊まったホテルと同じ部屋番号である。偶然なのか。何なのか。JTBの手配でそうなったのか不思議である。このベルボーイも日本語が旨い。部屋の説明をしてくれたが成田のホテルの2倍はある広さだ。1人部屋なのにダブルベットであり、これは成田と同じである。ここで50元のチップを渡す。

 さて、時刻はまだ午後3時である。外は雨だがさっそく出掛けることにする。まさか荷物が詰まっている大きなザックを背負い出掛ける訳けには行きませんから、小さめのザックを持ってきたので、貴重品や必要な物を移し替えて、それを背負う。 まずフロントで1000元を100元札5枚と50元硬貨10個に両替する。先ほどの日本語が一番上手だった女性従業員でしたので、簡単に両替が出来ました。

 地図を見るとホテルの近くに民權西路という新交通システム(MRT)の駅があることが分かったので歩いて行くことにする。道路脇には歩道がありアーケードとなっていて雨には濡れないが、歩道上にはバイクが止まっていたり、また自動車修理屋の前では、自動車を歩道上にドンと止めてタイヤ交換などやっており実に歩きにくい。また歩道も15センチの段差がある部分があり、暗かったり、酔っぱらっていたらつまずいて転んでしまうだろう。段差ありとの表示もなく、車椅子なら絶対に通行不能である。


約3分で民權西路という新交通システムの駅に着く。新交通システム(MRT)とは捷運(ジュエユン)と呼ばれており、駅の入り口には「民權西路站」の大きな看板がある。「站」とは日本語の駅のことです。日本ではよく見られるテッシュペーパーを配っている人はいない。構内に入ると、セブンイレブンが(左画像)あったが看板は日本と同じでした。

 さて切符を買わなければと思い、券売機の所に行くも、どう購入するか分からない。再度ガイドブックを読み購入方法を確認する。
その方法は
1、最初に目的地までの運賃を確認する。
2、その金額ボタンを押す。
3、硬貨を入れる。
4、切符とおつりが出て来る。
では挑戦ということで、とりあえず「淡水」まで行って見ようと思い運賃表を見ると45元とのことで、45元のボタンを押してから、50元硬貨を投入しするとテレカ見たいなカード式の切符と5元のおつりが出て来た。私の記憶では「淡水」までは40元だと思いましたが、後で書いたメモには45元と書いてありますので、どちらが正しいか自信がありません。

 改札口は日本と同じ自動改札であり、切符を投入口に入れ、回転式バーがあるので、それを押しながら入場するが、切符を取り忘れそうになる。民權西路站は淡水と新店を結ぶ淡新線のほぼ中間にあり地下駅であり、エスカレーターで下ると、プラットホームである。エスカレーターは日本では急ぐ人のために左に寄るが台湾では右である。しかし、どうしてもいつものように左に寄ってしまう。またスピードがあり日本と比べるとかなり速く感じます。それと日本と違い水平区間が長いので、慣れるまでは要注意です。

 プラットホームのことは「月台(ユエタイ)」」と言い。一つのプラットホームの両側に線路があれば「第1月台」「第2月台」と言うわけです。いわゆる日本で言う1番線、2番線である。MRTは右側通行であり、日本の鉄道とは逆である。線路幅は日本より広い標準軌である。站(駅)にはMRTの路線図や各駅周辺の観光スポットが記載された無料のパンフレットが置かれており、日本語版もあるので活用すると便利です。

 すぐ淡水行きの電車が来たので、乗り込む。発車して次の中山站の手前で地下から地上に出る。それも高架なので、付近の風景がよく見える。この淡新線を走るMRTの車内は広く、車両の座席は、進行方向、垂直、 平行が入り混じった千鳥状の配置になっている。ドアの上には、電光掲示板で次の停車駅が表示されるし、どちら側のドアが開くかも表示されるので安心である。

 雨が降っており、どんよりとした空で、やや薄暗いが、窓から異国の流れる風景を眺める。日本に似た町並みですが、雑然としている感じがありました。道路のいたるところに車がとまっており、これでは車の駐車を巡るトラブルが多いのではないかと思いました。


35分位で淡水站(左画像)に到着する。站(駅)は高架になっており、エスカレーターで降り、改札口に切符を投入し、回転式バーを押して外にでる。この街は淡水河の河口にあり歴史がある古い街並みがあるところだそうで、また夕陽が綺麗で有名とのことです。しかし残念ながらこの雨では夕陽を見ることは出来ない。雨はそれほど降っていないが、傘は差した方が良い位の降り方でしたが傘を差している人は歩いている人の半分位の感じだ。

 站(駅)から淡水河までは100メートル位だ。河岸には対岸に行く「渡し船」があり、満員の乗船客を乗せてちょうど出て行くところでした。河岸沿いの遊歩道には様々な店が軒を並べており、声を掛けられるが言葉が分からないので、そのまま通過しようとしたが、フランクフルト見たいな食べ物が美味しそうであったので食べたくなり、人差し指と中指でVサインをし2本注文する。言葉が分からなくても何とかなるものだ。確か1本10元か20元だったと記憶しています。近くにあったベンチに座り、小雨に煙る淡水河を眺めながら食べる。確かに美味しかった。
また「日式」と書いた看板のある店を覗いてみたら、今川焼きと雪見大福だった。「日式」とは「日本式」と言うことでしょう。

 河岸沿いの遊歩道から外れ、両側に様々な店が並ぶ狭い道を歩くと、まあ人が多い、脇見をしているとぶつかりそうである。食べ物屋が多く、どの店も人が入っていないということはなく繁盛しているようである。また按摩と書かれた看板があったので、覗いて見ると椅子が並べられ、白衣を着た按摩士が客の肩や腕を揉んでいる姿が見える。それが道路から丸見えである。台湾には、按摩などマッサージの店が多いようである。

 さて、夕食を何処かで食べなければならないが、何も高級な店ではなく、街中にある普通の食堂に入ろうと探したところ「全自助餐」と書かれた看板のある店があったので、ガイドブックによると確かバイキング形式の食堂とのことでしたので、勇気を出して入る。店内に入ると、入り口にトレーがあるので、それを持つと、黙って紙製の器にご飯を盛って乗せてくれる。その後に様々なおかずが並んでいるので、好きな物を選択して指で示すと、それを皿に盛ってトレーの乗せてくれた。バイキングだと自分で好きなだけ盛ることは出来るが、「全自助餐」とはそうではないようだ。言葉が通じれば大盛りを頼むことが出来るのか。あるいは、そんなことは出来ず、決まった量しか皿に乗せられないので分からないが、紙製の皿が小さいので、おかずを乗せる量は決められているかも知れません。4品ほどのおかずをトレーに乗せ、奥のレジに行き会計となる。これで85元とは安い。

 台湾滞在中の夕食は全部町中にある「全自助餐」でしたが、3回とも100元以下であり、ガイドが「3泊4日では2万円を両替すれば十分です」と言ったのは本当だと思いました。日本で、夕食を100元(約300円)で食べることはまず無理でしょう。

 さて、夕食を済ませたのでホテルに戻ることにする。淡水站から民權西路站まで再びMRTで戻りホテルの部屋に入る。休むにはまだ早いので、再び民權西路站付近の散策に出たところ、帰宅するというホテルの従業員と一緒になる。日本語が上手で「お茶を飲みに行きましょう」と言うので付き合うことにする。台湾の人は夕飯の後に、お茶を飲みに行くことが多いとのことで、名前は忘れたが、1軒のお茶屋に入る。その女主人が色々なお茶を入れてくれて、いやにサービスが良いなと思ったら、何とか高いお茶を売りつけようとする魂胆がありありでした。しかたなく。ウーロン茶を2袋買う。一袋400元である。日本では1200 円という訳だが高いのか安いのか。
他の店で、種類は違いますがウーロン茶を190元で買えましたので、やはり高い物を売りつけられたのか。それが高級なウーロン茶なのか。パッケージを見ても分かりません。

 雨の中11時頃ホテルに戻る。水道水は飲めないので洗面所には無料のミネラルウォーターが2本置いてあるので、テレビを見ながらそれを飲んだりしていたが、言葉が分からないのでつまらない。その後風呂に入り、午前0時を少し回った所で休む。ホテルの風呂では、入った気がしない。やはり日本人は温泉に限る。


2月3日(火)観光コース日

 朝、ホテルの窓から外を眺めるとまた雨である。ついていない。朝食は2階のレストランでとのことで、朝食券を持ってエレベーターに乗る。最近のホテルの朝食はいわゆるバイキング形式が多いが、このホテルもそのようである。エレベーターを出た所に「自助式精美早餐」と書かれている看板があり、その下には「請駕臨二樓架中餐廳」書かれている。また日本語で「朝食は二階のレストランへどうぞ」との表示があり親切である。

 大体は中華料理を中心としたバイキング形式だが、日本人なら、たくあん、納豆、みそ汁、卵、海苔というような朝食を期待したが、それはなかった。野菜やレタス、ミニトマト、キュウリなどで、ハム、べーコン、蒸かした饅頭、鳥の唐揚げ、オムレツ、お粥、スープ、バナナ、スイカ、パンは5種類、コーヒー、ミルク、ジュース、ヤクルト、豆乳、紅茶などで、味はまずまずでした。

 台湾滞在中、すべて自由行動にしようと思ったが、フリープランでも観光プランでも旅行代金が同じとのことでしたので、追加料金がなければ参加して見ようと思い、また昼食も出るとのことで、2日目の今日3日は台北市内観光に参加することにしました。

 朝食を済ませた後、午前8時30分に車が迎えに来るとのことで1階のロビーで待つ。昨日と違う50歳くらいの痩せた男性ガイドさんがマイクロバスでやってくる。なんとなく頼りない人だったが、バスに乗り込む。今日は7人で回るとのことで、先に他のホテルに泊まっている人を乗せるとのことで、走りだす。今日もあいにくの雨である。マイクロバスは25人乗りのようですが、新しくなく、シートも堅い。名前は忘れたが他の大きなホテルで6人を乗せて7人で観光に出る。その6人は70歳位の老夫婦と、20歳位の若い女性2人と40歳位と25歳位の男性である。老夫婦以外は、同じグループのようである。もちろん全員日本人でした。


最初は龍山寺に向かう。台湾最古の古刹だという。まだ午前中で、雨も降っているのに人が多い。極彩色に彩られた純中国式の絢爛な建物(左画像)で思わず「これは凄い」と声を出してしまう。屋根や柱には精巧な彫刻が施されており、これは必見である。ガイドが長さ40センチの棒のようなお線香を一人7本づつ持ってきたので、これに火をつけて、祀られている神々のお堂の前に設置してある大きなお線香立てに投げ込むように立てる。日本のお線香のようにすぐ折れてしまうものではなく、棒というか竹ひごにお線香が巻き付けてある感じですから、投げ込んでも折れたりしません。たかがお線香ですが、国が違えばお線香の形式も違うのは当然でしょう。

 すると70歳から80歳のお年の老女が「日本の方ですか」と話掛けて来た。私が「そうです」と答えると、その老女は懐かしそうに「以前、新宿に住んでいたのです」と言うので、私が「新宿も変わりましたよ」と答えたのです。その老女は龍山寺で何か仕事をしている人のようで、それ以上の話は出来ませんでしたが、日本の統治を経験した方でしょうか。ガイドから「お土産です」と言って赤い糸が入った袋を貰いました。どうりで若い女性が境内に沢山いた訳が分かりました。


 雨の中、再びマイクロバスに乗る。次は「中正紀念堂」である。お祭りがあるのか、日本で言えば「ねぶた」のような猿などの人形が道路沿いに設置された台の上に並んでいる。夜は電灯がついて綺麗であろう。なんのお祭りかは分からなかった。「中正紀念堂」は蒋介石総統を記念して作られたものであるそうで、台湾の象徴的な存在である。「大きいな」と思わず声を出したくなる巨大建築物である(上左画像)。内部には蒋総統の肖像画、使っていた車、服などが展示され、椅子に座った銅像も巨大である。ちょうど衛兵(上中央画像)の交代が行われており、一糸乱れぬ動作は、人間とは思えず、機械仕掛けの人形のようである。また蒋総統の執務室が再現されており、椅子に座った蒋総統の人形(上右画像)は実に良くできており、まるで生きているように見えました。どうでも良いことですが、この「中正紀念堂」でトイレに入ったが男子トイレでも仕切りがあったので、隣の人のものをのぞく人がいるのでしょうか。

 ふたたびマイクロバスに乗り、今度はレストランで昼食をとるとのことで、ビルの10階にあるためエレベーターに乗る。そのエレベーターは5人も乗れば満員になってしまうものでした。10階のボタンを押し、ドアは閉まったももの、少しショックがあり、電灯が消えてしまった。これはこのまま閉じこめられてしまうのかと思ったが、すぐ電灯が付いて、動き出した。ああヒヤッとした。10階の部屋には人数分の席が準備されており、さっそく料理が運ばれてきた。どんな物が出てきたが、もう記憶にないが、蒸かし饅頭、春巻き、焼き飯、スープだけ覚えている。昼食ですから特別豪華ではないが、台湾滞在中に、このようなレストランで食事をしたのは最初で最後でした。  


昼食後、今度は「忠烈祠」(左画像)に向かう。戦争で命を落とした英霊を祀ってある壮麗な中国宮殿様式の建築物であり、赤く塗られた柱が美しい。ゴミ一つ落ちておらず、市内のごちゃごちゃしているとことは違い、別世界のようである。ここでも衛兵の交代が行われており、小銃を器用に操る様は「中正紀念堂」と同じ機械仕掛けの人形のようでした。記念撮影可能とのとことで、横に立ってガイドさんに撮ってもらう。


 衛兵の交代は1時間ごとのようですが、台の上で小銃(右画像)持って1時間も直立不動の姿勢をとり、その間はまばたきもしないとは、大変は精神力であろう。台湾では軍人の中から、厳しい試験を経なければ衛兵にはなれないそうで、そのほとんどが脱落してしまうそうです。ですから、衛兵はエリート中のエリートと言う訳です。一緒に観光ツアーをしていた若い女性が、他の衛兵と並んで写真を何枚も撮っていたが、いい男ばかり揃えた衛兵でしょうから当然のことでしょう。


次は、有名な「故宮博物館」(左画像)に行く。少し坂道を登ったところにある、ここも巨大な建築物である。中国大陸に興亡した歴代王朝の歴史文物を展示してあるそうである。昨日中正国際空港(中正国際機場)でもらった入場引換券に名前とパスポートナンバーを書き、それと引き替えに入場券を貰う。入場料はガイドが手続きしたのが直接払わなかったが、ガイドブックによれば100元(300円)のようである。ガイドが案内で、回ったが、どれもこれも、日本でいう国宝級の収蔵品である。3000年前のものとか。そんな物がいくらでもあるのです。とても1,2時間で回れるものではありません。じっくり見るには半日あるいは1日はかかることでしょう。

 当然に時間もないので物足りない見学であったが仕方ない。ふたたびマイクロバスに乗り込む。するとガイドが「台湾式マッサージはいかがですか」と言って割引券のようなものをくれた。マッサージと言うと変な期待をする方がおられるそうですが、真面目なものであるそうで、最近疲れていますし、マッサージは久しぶりですのでお願いすることにする。すると、ガイドがさっそく手配してくれて、そのままウィンザー理容院(温莎堡視廳理容名店)という店ところにマイクロバスで向かう。

 台湾では理容院と書いてあるのがマッサージ店のようである。店の人はややたどたどしいが日本語を話しましたので、安心しました。色々コースがあるようで、120分の全身マッサージを頼む。2000元(6000円)とのことで、日本よりはかなり安い。若くもない女性に3畳間位の個室に案内される。浴衣に着替えて仰向けに寝ていると、蒸したタオルを沢山持って来て、頭や首などい当てマッサージが始まる。

 すると「足のマッサージはいかが」「顔は…」「爪切りは…」「耳掃除は…」と次から次へ違う女性が声を掛けてくる。全身マッサージと言うから全部含むと思ったが別料金とのこと、全部やったら4000元を超えてしまうので断る。オイルなども使い、頭から足先までマッサージをしたり叩いたりしてくれたが、「痛い」と言うと、「体で悪いとこあるよ」と言われてしまったが、年も年だし、頭以外にも悪い所くらいどこかあるだろう。最初は仰向けであったが、今度はうつ伏せになり、足の裏や背中に乗りグリグリ、ゴリゴリやられたが、少し痛いが我慢した。  

 最近朝起きると右腕が痛く、腕が後ろに回らなくなっていたのですが、マッサージを終えて、右腕を廻すと何となく痛みが和らいだ感じがした。2時間もマッサージを受けたのですから、少しは効果がなければ、何のために2000元も出したか分からない。この店では2000元以上の客には、帰りはホテルまで車で送迎付きとのことで、高級車に乗りホテルに帰る。時刻は午後6時30分頃か。

 さて夕食をどうするか。またホテルではなく外で食べようと再び出掛ける。民權西路站の道路をはさんで反対側にある全自助餐に入る。昨日淡水で入った店より大きかったがおかずにはいまいちでしたが、90元(270円)で夕食を済ますことが出来ました。

 夕食後、ホテルにすぐ帰らず、また民權西路站からMRTに乗り、台北車站(台北駅)までに行く。運賃は20元でした。MRTの台北車站は鉄道の台北車站のすぐ南側にあり、もちろん地下駅である。雨なのでアーケードのある所を選んで歩く。ぶらぶらと散策しながらパン1個20元、高菜入り蒸しパン10元を食べる。日本と同じような繁華街であるが、日本ならどこにでもあるようなアダルトな店は1軒もない。

 CDショップでは日本の歌が海賊版として堂々と売られていました。漫画は確認しませんでしたが、女性誌などは、日本の物とそっくりな表紙です。また台湾では物を買っても消費税のようなものはなく。10元と書いてあれば10元払えばOKです。コンビニも多くありましたが、袋はくれませんので、沢山買う時は袋を用意しておく必要があります。それを知らず最初は困ってしまいました。これは台湾政府のゴミ減量政策によるものだそうです。

 交通マナーは前に比べれば良くなったそうですが、それでも目茶目茶で、横断歩道を渡っていても、止まってくれませんし、信号もあまり守りませんので、日本では当然に止まってくれそうでも突っ込んできますので台湾訪問を計画されている方は気を付けて下さい。

 台北車站付近には地下街があり、60歳位のご夫婦らしい方が経営する、日本で言う甘味の店がありましたので、あんみつみたいなものを注文して食べて見る。甘味はあまりなかったが、美味しかった。私が「美味しかった。ごちそうさま」ともちろん日本語で言うとニコニコしていましたので分かったようです。

 再び台北車站からMRTに乗り民權西路站に戻る。夕方のラッシュ時間なので車内は混雑しており、降りる人が先なのにドンドン乗って来る。ですから降りる駅に近づいたら、ドアのそばにいる方が良いと思います。日本では禁止されている電車内の携帯電話は、ばんばん使っている状態で、携帯の使用を禁止する車内放送をしているのか分からないが、車内の表示には飲食禁止の表示はありましたが携帯の使用禁止はありませんでした。  

 また日本でいうシルバーシートになる「博愛座」と書かれて席があるが、健康な人はそこに座ってはいけないことは当然です。MRTの構内や電車内では飲食、喫煙は禁止であり、ガムも飴もダメとのこと。その点は日本より厳しいマナーを要求されますでのこれから台湾訪問を計画されている方はご留意下さい。民權西路站でMRTを降り、ホテルに戻る。ああ疲れた。浅くて肩まで入れない風呂に入る。明日は1日フリー日である。さて何処へ行くか。お休みなさい。

(ありのままの台湾紀行後編に続く)


ありのままの台湾紀行(後編)

2004年03月10日 00時25分40秒 | 台湾関連

2月4日(水)フリー日

 昨日はガイド付きの観光コースで台北市内を回ったが、今日はフリー日である。朝食を食べながら何処へ行くか思案する。しかし今日も雨だ。このままでは台湾滞在中はずっと雨に降られそうだ。朝食後、MRTの民權西路站に向かう。ガイドブックにMRT一日乗り放題の切符が係員がいる窓口で150元で買えると書いてあるが、言葉が分からないのでガイドブックの一日乗車券(一日票)の部分を示すと理解してくれたようで、テレカ見たいなカード式の切符を出してくれた。その場で切符に名前を書けばOKである。  

 この一日乗車券は切符の投入口がある普通の自動改札口ではなく、一日票との表示のある扉を開ける専用出入り口から入るので煩わしいが仕方ない。普通の切符と違い磁気カードではないため自動改札は使用出来ないようである。でも磁気カードとは異なり手元に残るので、記念になりました。


 最初は民權西路站を通る淡新線と相互乗り入れしている中和線で南勢角站へ向かう。しかしずっと地下を走り景色は何も見えなかった。南勢角站はごちゃごちゃした町である。バイクが倒れたままになっていたり、編み笠みたいな物を被り手に箒を持って雨にも関わらず掃除をしている人(左画像)が5,6人おりましたので、このような人がいなければ町はゴミだらけになってしまうでしょう。付近にある「全家便利商店」(右上画像)はコンビニのファミリーマートのことであり、また「麥當勞」はマクドナルドの店(右下画像)でした。看板のデザインは同じですからすぐ分かります。

 再び南勢角站から古亭站まで戻り今度は淡新線で新店站まで行く。ずっと地下で景色は見えず。新店站はすぐそばに川が流れており、小さな2人乗りのボートが沢山繋がれていた。川沿いには土産物屋が並んでいるが雨なので人の姿はない。この雨ではさすがにボートに乗っている人はいなかった。川を渡る大きな吊り橋あり、橋の上から雨に煙る川の眺めが良い。吊り橋を渡ると、肉屋の前に止まっていた車から中年の男が籠に入れて持って来た鶏の足を掴んで肉屋の前に置かれた籠の中に移し替えていたが、その籠の横には皮を剥かれた鶏が吊されていたので、これから皮を剥ぐ鶏だろう。

 新店站付近には老婆が野菜などを売り売る露店が多い。カメラを示して写真を撮らせて下さいとジェスチャーをしたが、一人の老婆はニコニコして撮らせてくれたが、もう一人は困るという仕草をしたので諦めた。

  台湾では5、6階建て位のマンションのような住宅が多いが、上階でも窓に鉄格子(左画像)が入っているが、初日に空港まで迎えにきたガイドさんの話では泥棒除けとのことでした。ということは屋上からロープを使い窓から侵入する泥棒がいるという訳である。

  新店站から台北車站まで戻り、台北市内に残る旧日本の遺産建物を巡ることにする。相変わらず雨が降っており、おまけに傘をさしていることから地図を見るのも大変である。最初は台北市役所であったという行政院を見る。出入り口には憲兵が厳重な警備している。写真を撮ろうとしたが、そんな雰囲気ではありませんでした。その前は大きな交差点となっており、反対側には台北州庁舎であった監察院(右画像)がある。どちらも今の日本には、こんな立派な建物は残っていないだろう。

  次は台北帝国大学付属病院であった台大病院(左画像)である。煉瓦造りの重厚な建物であり、マラリアやコレラと言った熱帯病の世界的な研究機関であったとのことで、雨にもかかわらず通院患者であろうか人が一杯である。よく見るとマスクをしている人が多く、これは新型肺炎(SARS)ではないかと心配になり、内部の見学はやめた。病院のすぐ前はMRTの站がある。台大病院の前は総督官邸であった台北賓館がある。

 道路を横断したところが、二二八公園である。この公園は台湾にとって戦後最大の悲劇となった二二八事件の記念碑や、台湾総統府博物館であった国立台湾博物館などがあるところである。博物館は残念ながら休館日でした。
 さて、ここで両替に挑戦してみようと総統府のとなり台湾銀行に入る。この銀行も旧日本の遺産である。入り口には警備員が拳銃付けて立っている。さあ、言葉分からない。案内人にガイドブックの両替のページを指示したところ、担当の窓口に案内してくれた。そこで申請書名前。国籍、宿泊ホテル名、パスポートナンバーを書く。そして、すぐ前の窓口に出したところ、どうも違うと言っているようで、紙に27と書いたので27番の窓口へ行く。そこで1万円を両替したが 3062元となった。窓口の行員は1万円を透かして見ていたので偽札かどうかの確認をしていた。それからパスポートを提示して両替を完了した。日本で言えば日本銀行の本店で両替したと同じで、自分で言うのも何だが度胸があるなあ。

  台湾銀行横の道路を渡ると台湾総督府であった総統府(右画像)の大きな建物がそびえている。憲兵が警備しており、気を付けの姿勢である。道路との境には柵などないが、歩行者が少しでも敷地に入ると憲兵が警笛を鳴らしていた。敷地内に警察の白バイとパトカーがおり、偉い人が出てきてリムジンに乗り込み、その先導で走り去ったが総統であろうか。
 台北の中心にそびえるように立つこの総統府は、日本統治時代の1919年(大正8年)3月に竣工以来、すでに85年の歳月を経ている訳だが、その威容は今日でも全く色褪せていないようである。中央に高塔を抱く煉瓦造りの建物は美しく、建築学的な視点でも特筆されており、しかも、竣工時にはこのような大型で高層の建築物はなかったであろうから、天を突くようなこの建物は、市内のどこからでも確認できたことであろう。平日の午前中には公開しているそうですが、すでに午後になっているので残念ながら見学は出来ませんでした。

  さて、昼食は食べていないし、どこかの食堂にでも入ろうかと思いながらぶらぶらと歩いて台北站(駅)方向に向かう(左画像)。狭い歩道にも関わらず、また露店が沢山出ていることもあり、実に歩きにくい。これでは通行方法を巡るトラブルなどあるのではないかと思うが幸いそんな場面には出会うことはなかった。

 今度はMRTではなく従来からの鉄道に乗って見ようと思い台北車站(台北駅)に入る。構内にあったコンビニで昼食用のパンとジュースを買う。日本の3分の1位の価格である。台北車站は中国宮殿様式の壮麗な地上4階、地下6階ある大規模建築であり、1階に切符売り場があるが東京駅などのように多くの人がせわしなく構内を歩いているという姿はなく、切符売り場も行列が出来ているなどの様子はありませんでした。朝夕の通勤通学時間帯でなかったのですいていたのかも知れません。

 台湾の列車の種類は日本の特急列車になる「自強号(ツーチャンハォ)」、設備は自強号と変わらないが車両がやや古い「呂光号(チークヮンハォ)」、日本で言う急行列車だが車両が古い「復興号(フーシンハォ)」、それと「電車」と言うのがあるが、これは車両が日本でいう電車ではなく一つの列車の種別であり、近郊に行く列車が電車と表示されているようである。もう一つ「普快」と言うのがあるそうですが、これは電車よりさらに下位の列車の種類のようですが、詳しいことは分かりません。 このように台湾では列車種別ごとに運賃が異なる方式を採用している訳であり、その運賃は日本に比べて格段に安いことから、「この運賃で本当に大丈夫かな。経営がなりたつのか」と心配になるほどの運賃でした。

 あまり遠くに行けないので基隆まで行って見ることにする。時刻表を見ると、すぐ基隆行きの電車があるのようですから、まず切符の券売機で、基隆までの料金を確認し、硬貨を投入し、最初に一張(張とは切符の枚数のことです)と表示のあるボタンを押し、次に列車種別である「電車」の表示のあるボタンを押し列車種別を決定し、次に全票(大人の意味です) のボタンを押す。そうすると投入した硬貨の範囲で行くことが出来る行き先の駅名のランプが全部点灯し表示されるので、行き先の基隆というボタンを押すと車票(切符)とおつりが出て来た。MRTのようにテレカのようなものではなく、日本と同じ大きさの硬券ではない切符でした。

 エスカレーターを降りると改札口があり、自動改札機ではなく駅係員がおり、鋏を入れてもらい入場する方式である。台湾では改札口と出口が分かれいるようで、月台(プラットホーム)に入るのは改札口、月台から出るのは出口と言う訳です。出口で使用済の車票(切符)を渡すのは日本と同じとのことです。

 ここで車票(切符)を券売機で買う時の方法をおさらいしておきましょう。まず
1. 一張 / 二張 / 三張 / 四張のボタンで枚数を決定。
2. 自強 / 呂光 / 復興 / 電車 / 普快から列車種別を決定。
3. 全票(大人) / 孩童(子供) / 老障(老人) / 成人去回(大人往復) / 孩童去回(子供往復) から決定。
4. 行先を選択(行先はボタンに書いてある)
です。どの時点でコインを投入するか忘れてしまったが、列車種別を決定した後だったか先だったか。ともかく券売機にボタンを押す順番の番号表示があるのでわかります。

 台北車站(台北駅)の月台(プラットホーム)はエスカレーターを降りたところにあり4本の月台がある。その1本の月台の左右に線路がありますので、一つの月台はA、Bと区分表示されています。ですから台北車站には1A、1B、2A、2B、3A、3B、4A、4Bの日本でいう1番線から8番線まである訳です。

 1A、1B、2A、2Bの月台は新竹、台中、高雄方面であり、3A、3B、4A、4Bの月台は基隆、花連、台東方面である。大きな表示があるので間違えることはないでしょう。また時刻表にも乗車する列車の月台が表示されているので、乗車前に確認しておけば大丈夫です。従来からの鉄道の月台は以上のように一つの月台をA,Bと表現しているがMRTの方はの月台は日本と同じ、月台の面をそれぞれ「第1月台」「第2月台」と称しているようです。

 基隆行きの電車を待っていると、隣の月台に高雄行きの復興号が入って来た。日本ではほとんど見られなくなった機関車が客車を引くもので、旅情が感じられる。こんな客車で時間を掛けて台湾をのんびりと旅をしたら良いだろうなあと思いました。まもなく基隆行きの電車が入線して来た。車体は日本の山の手線と同じような電車で横向きの長い椅子が対面して左右にあるもので、これでは旅情など感じられない。

  台北車站を発車した電車は、MRTとは違い左側通行であり、線路幅も日本と同じ狭軌である。次の松山車站(松山駅)を過ぎるころまでは地下を走るのでつまらないが、まもなく地上に出る。電車のスピードは遅い。もっと速度を出さないかとイライラしてしまう。私の感じでは60キロ位ではないか。それに各駅停車なのでなおさら感じる。約30分でやっと基隆車站(基隆駅)(右画像)に着く。

 駅前広場に先は港であり、大型の貨物船が停泊している。基隆は台湾を代表する国際貿易港であるそうであり、また1年のうち3分の2は雨が降る街と言われており、当日も雨でした。ここから石垣島までのフェリーも出ているそうです。

 基隆車站に着いてすぐ、トイレに行きたくなった。切符売り場を外に出た所にあったので飛び込む。便器は日本と同じ和式であるが、トイレットペーパーもなく、そのフォルダーらしいものもないのです。ポケットを探るとテッシュペーパーがあったので、仕方ないのでそれで尻を拭けば良いかなと思ったが、トイレに流すとパイプが詰まってしまうのではないかと心配したのです。しゃがんだ時に横に、ポリバケツが置いてあったので、中を見ると、糞らしいものが付いた紙が入っているので、どうも尻を拭いた紙をそこに入れるようになっているようで、私も尻を拭いた後のテッシュペーパーをトイレに流さず、そのポリバケツ入れました。  

 この方法で良かったかどうかに分かりませんが、ガイドブックにも書かれていませんので、その後、私の糞が付いたテッシュペーパーがどうなってしまったか分かりません。尻を拭いた後の紙をポリバケツに入れるのが正解なら、沢山人が入った後でしたら糞の臭いでたまりませんね。しかし後でJTBからもらったガイドブックを良く見たら、トイレの汚水を流す管が細くて詰まってしまうので、尻を拭いた後の紙を流さずポリバケツに入れるトイレもあると書いてありましたので私のやったことは正しかったようです。

  雨が降っているのに道ばたで70歳位の老婆が、日本の今川焼きに似たものを売っている。3個20元とか。あまり売れていないようなので3個買って食べる。台湾では、このように年寄りが道ばたで露店を出している姿を多く見かける。広場の港の所に回転寿司があった。形式は日本と同じようである。看板は「迴轉壽司」とSUSHI EXPRESS(左画像)であり、何となく意味は分かるでしょう。

 再び、基隆車站から台北車站まで戻る。それからMRTでまだ乗っていないところの乗るために、今度は昆陽行の板南線に乗る。しかし、昆陽までは全部地下で、景色が見えない。昆陽で引き返し、忠孝復興站で木柵線に乗り換える。木柵線は板南線と違い、高架式の最初に開通したゴムタイヤを履いた新交通システム(MRT)だそうであり、よって台北市内の風景を眺めるのは最適である。最初は動物園站まで行き、すぐに引き返し、中山國中站まで乗り、忠孝復興站で再び乗り換えて板南線に乗り、昨日行っているが龍山寺にまた向かう。板南線は龍山寺の先の新浦まで伸びているが、現在延長工事が行われているそうです。しかし、昆陽と龍山寺の間は全部地下で景色が見えない。

 台北を訪れてMRTに乗車するなら淡新線の圓山站から淡水までと木柵線の全線が良いでしょう。他の路線は景色が見えない地下を通っていますからつまらないです。

  龍山寺站を出る。相変わらず雨が降っている。ここには小さな占い店が軒を連ねており、どの店も占い師とお客が2人位しか入れない広さである。ここには女性占い師が多いようである。台湾で最古の寺院である龍山寺は、昨日来た時より人が多い。それも昨日は午前中であったせいもありますが、若い女性が目立つ。長さ40センチ位のお線香を両手で持って頭の上に上げて、何かを祈っている(左画像)。また台の上には、果物やお菓子類がお供物として沢山乗っている。この大量なお供物を後でどうするのか心配になる量です。すでに暗くなっているので、境内はイルミネーションに飾られて綺麗である(下画像)。台北を訪れる機会がある人は、この龍山寺の見学を欠かしてはならないと思いました。なぜ若い女性が目立つのか、昨日ガイドから、赤い糸が入った龍山寺の名入りの袋を貰ったが、この龍山寺が縁結びのお寺として有名であるからでしょう。




 龍山寺站から板南線で再び台北車站の戻り、再び淡新線に乗り換えて、民權西路站まで戻る。夕食がまだでしたので、昨日入った同じ全自助餐の店で済ませる。90元でした。安い。

 ホテルに戻り、荷物を置いた後、再び出掛ける。台湾の最後の夜であるので、いかがわしいことを考えている訳ではありませんが、町中をもっと見たいと思いMRTの木柵線に乗った時に一番にぎやかであると感じた忠孝復興站付近に行って見ることにする。雨の中ですが、「うわー」と声を出したくなる位に人が多い。忠孝復興站の前には大きな太平洋そごうデパートがあり、裏道に入れば、どの街でも見られるような安価で食事が出来る店や屋台が沢山ある。本当に台湾では、どの街を歩いても良く食べている人が多い。これが雨でなければもっと凄い人出ではないかと思う。

 付近散策後に忠孝復興站に戻り、台北車站で淡新線に乗り換え民權西路站まで戻り、ホテルに帰る。いや雨の中良く歩いた。これで寒かったら、そんな気分にはなれないだろう。ホテルの風呂は、日本の温泉や家庭風呂のように肩まで入るのが難しい。これでは風呂に入った気分にはなれないし、やはり日本人は旅に来たら大きな風呂で温泉でなければと思った。MRTの新北役站の近くには温泉があるそうで、行けば良かったかな。でももう時間がない。残念だ。今日歩いたことをレポート用紙にメモし、午後11時30分寝る。このホテルのベットは成田のホテルより寝心地が良かった。


2月5日(木)帰国日
 さあ、台湾最後の日となりました。昨日は少し歩き回りすぎたので、疲れていたせいか。7時30分頃に目覚める。さっそく、自助式精美早餐に向かう。メニューは、少し変化があるようである。今日はパンの他にお粥を食べる。これが美味しい。

  午後0時にガイドが迎えにくることになっているので、それまで、ホテル周辺の散策にでる。今日も雨である。台湾滞在中、これで4日間雨に降られた訳である。ホテル近くの民權西路站のそばの十字路交差点には屋根付きの横断歩道橋がある。角には台湾銀行があるが、この警備員も腰に拳銃を付けている。横断歩道橋の上から眺めると、車よりバイクが多い感じだ(左画像)。日本にはないと思いますが、バイクが赤信号で止まっている時の専用のラインで囲まれた場所(右画像)が、それが普通の車の停止位置より前にあり、そこに沢山のバイクが青信号になるのを待っており、青信号で、走り出す瞬間は壮観です。日本のゲンチャリ暴走族のようでした。

 朝の通勤時間帯ですが、横断歩道橋の上にしゃがみ込んでいる老人がおり、前に茶碗のような物を置いているので、物乞いのようである。後でガイドさんに聞いたら、台湾は60歳定年だそうですが、年金というものはないそうで、だから、街を歩く年寄りが屋台で商売をしていたり、日本でいう朝市のようなことをして現金収入を得ているのでしょう。台湾に滞在中に、物乞いをしている人を3人見ましたが、60歳になればまず年金を受給される日本は良い国であると思いました。

  散策していたら、北市警察局分局の建物(左画像)がありました。日本統治時代の古い建物のようです。前にはパトカーが4台位止まっていました。台湾のパトカーは緊急時は赤灯と青灯の両方を点灯させているようです。その付近には「朝代戯院」という看板がある建物があったが、いわゆる映画館である。ラストサムライの看板がありましたが、台湾では「未代武士」とのタイトルが付いていました。

 次に農安街の朝光市場に行って見ました。まだ午前中ですが、すでに開いている店があり、食べ物屋であれば必ず2,3人の客が入っている。裏通りという感じですが、お客がくるのかと心配になってしまう。
  
  台湾では女性の整形が流行しているか分からないが看板らしいのがあったの写真(右画像)に撮ったが、術前と術後20天の顔があまりにも違うので驚いた。またその近くに「福客多商店」との看板のある店(左画像)もあったが、これもコンビニだろう。また「収費停車場。毎小時60元」の看板(右下画像)があったが有料駐車場であろうか。付近の道路は駐車車両で一杯でしたが、「収費停車場」はがらがらでした。

 さあ、今日も雨だったがホテルに戻ろう。観光客が行かない所を散策したので、変な目で見られたこともあったが、カメラを片手にふらふらしているのだから仕方がない。観光客と分かり、日本人と知ったら声を掛けてくると思ったが、そのようなことは、龍山寺で1回あっただけである。台湾は本当に親日の国なのか。駅や買い物中に声を掛けられて「日本人です」と答えても、特に親しげに話す人にも会いませんでしたし、日本統治を受けた時代の年寄りでも同じです。たまたま、そんな人に会わなかったのか。あるいは他の理由かいまだに分かりません。

 さて荷物をまとめ、チェックアウトを済ませて、ロビーでガイドさんが来るのを待っていると午後0時5分前に姿を現す。今度の車はベンツである。ガイドは今日の帰国を担当するのは私一人だけだと言う。それにベンツでは贅沢である。

 中正国際空港(中正国際機場)に向かい。高速道路を行く。雨が強い。途中交通事故があり、トラックと乗用車が衝突して大破していた。ガイドは「飛ばし過ぎてスリップしたのでしょう」という。台湾に着いた時と同じガイドさんでしたが、日本語は何とか理解出来るようですが発音がややおかしい。東京国際空港の正しい発音の仕方を教えて欲しいと言われた。ガイドさんも色々苦労が多いようである。

 中正国際空港には午後1時頃に着く。エヤーニッポンのチェックインカウンターに行き、航空券の引換券を示し搭乗券を受け取る。このEL2104便はエバー航空と共同運行なのですが、機体はエヤーニッポンのものである。
 また両替をしなければならないので中國國際商業銀行中正機場分行の窓口に行く。当日のRateは0.3176のこと財布から台湾元を出して日本の円に両替する。署名するだけで簡単である。出境審査の所でガイドさんと握手して別れる。

 出境審査はパスポート、来る時に書いた出入境カード、搭乗券を出す。特に質問はない。税関手荷物検査とハイジャック防止のX線の検査を受けて搭乗ゲートに向かう。台湾の硬貨の元が少し残っているので、これで昼食を食べようとうろうろしていたら「ラーメン」と書かれた日本で良く見かける旗があった。さっそく150元で、台湾最後の食事をとる。旨い。さすがに台湾である。台湾で食べた最初で最後のラーメンでした。出発時刻は14時55分発でしたので、しばらく滑走路を離着陸する航空機を眺めていた。天気は雨が上がったが曇り空である。

 しばらくすると成田からのエヤーニッポン機が着陸し、搭乗ゲートに横付けになった。帰国する航空機が来てほっとする。14時20分まもなく搭乗のアナウンスがあり、機内に入る。ほぼ満席である。
予定通り離陸し、成田には18時38分に到着しました。帰りもほとんど雲ばかりで地上は見えなかった。


台湾紀行の感想

 台湾紀行を終え、日本は良い国だとの認識を新たにしました。特にガイドさんから台湾では60歳定年であり、年金などないとの話を聞き、その後はどうして生活をするのか。病気になったらどうなるかなど、それに引き替え日本は何と幸福なのでしょうか。物価は日本の3分の1ないし5分の1と思いますが、年寄りが雨の降る中、路傍に座って物乞いしている姿は哀れなものです。

 日本ではよく見かける青いビニールシートで囲われて生活しているホームレスのような人は見かけませんでしたが、年寄りが路傍にで少しでも現金収入を得ようと、露店を細々とやっているのも良く見かけました。日本でいう朝市のような感じなのですが、これも何だか哀れさを感じさせました。また年寄りだけでなく若い女性が路傍でアクセサリーなどを販売している姿もありました。

 若者の服装は、日本の方が個性を通り過ぎてだらしない感じで、台湾の若者で、「何という服装しているのか」とか「なんという着方しているのか」という人には一度も会いませんでした。

 風紀については、繁華街に行けば必ずあるようなアダルトグッツを売る店や風俗産業は滞在中は一度も見かけませんでした。その点は日本の方が乱れている感じがします。人口密度が高いからと思いますが、どこを歩いても人が多く、また倒産してシャッターが長期間閉まったままの店は1軒も見ることはなく、日本では良く見かける落書きなどありませんでした。

 台湾は急速に発展している国であるとの印象で、非常に活気がある感じです。私の台湾訪問の目的である「台湾は親日国なのか」についてですが、わずか3泊4日の滞在でしたので、それだけで判断は出来ませんが、そんな印象はあまりありませんでした。現地のガイド、ホテルの人、観光客相手の店の人などは、日本人でもどこの国に人でも親切なのは当然でしょうが、普通の市民に「私は日本人です」と言っても、急に愛想が良くなったとか、親切にしてくれたとか。そんなことは一度もありませんでした。「日本人?ああ、そうなの」という感じです。支那や韓国では罵声を浴びせられることがあるそうですが、私が観光客もめったに行かない所に行ったせいか、あるいは人相が悪いせいか、変な目つきで見られたこともありました。

 やはり日本人ですから、文化も習慣も異なる外国は疲れます。食べ物は何を食べても美味しことは良かったです。また女性であまり太っている人を見かけませんでしたので、この点についてガイドさんが「台湾では食事の後に色々なお茶を飲んでいます。だから太っている人が少ないのでしょう」と言っていました。

 メディアが流す旅番組は良いことしか伝えませんが、私は台湾の印象をありのままに書いて見ました。長くなってしまいましたが、読者の方からのご感想をお待ち申し上げます。 以上。
(2004/03/10)  

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