私の主張・ひとりの日本人として

新聞やテレビの報道で特に偏向マスコミや反日日本人などに憤慨することが多くなり、暇な時に思いつくまま書き綴ったブログです。

英霊たちの遺書(1)

2011年12月31日 22時15分22秒 | 英霊たちの遺書
岡山県出身 海軍飛行兵曹長
実村 穂 命 一九歳
昭和二〇年四月一二日 沖縄・辺戸岬付近で戦死
 
今日いよいよ立ちます。何も心配はいりません。例の大元気で暴れて参ります。
何時かお母さんが言われた様に、南の美しいお月様に元気な顔を写します。お母さん元気で居て下さいね。屹度元気な姿を見せますから。
荷物は家から送って頂いたものばかり、家でどんどん使って下さい。
お母さん心配しては駄目ですよ。戦地に行ったら便りもどしどし出す心つもりですが、空しく着かない時は元気でやって居ると思って下さい。
一人のお母さん。今日も日参の姿を涙で穂は拝んでおります。
気の小さいお母さんでは之からは駄目ですよ。気を大きく持って大前の家で笑って居て下さい。兄さん姉さんと一緒にね。
 
*最後の帰省で家を出る時、母は襖越しに「死んで忠義も良いが `生きて忠義をしておくれ」と言った。土浦海軍航空隊に入隊以来、母は雨の日も風の日も一日もかかさず氏神様をお参りしていたのである。その母の言葉に穂は泣いた。神風特別攻撃隊敷島隊の一番機に志願したが、まだ大事な仕事が残っていると退けられた。しかし敷島一番機の出撃では「海ゆかば」を穂さんが音頭を取って歌った。歌の半ばから、司令官以下声が出ず、全員が泣いて送り出したと言う。
 

塚本 太郎 命  二一歳
山口県大津島回天特別攻撃隊
昭和二〇年一月二一日 
西カロリン諸島・ウルシー島海域で戦死 
 
  帰省の友人に頼んで送る。何も言うことはない。ただ来るべき秋<とき>を静かに待っています。日本人が軍神で埋まれねば勝てぬ戦いです。東京も再三空襲された様子。別に心配もしません。体に気を付けて下さい。便りは致しませんが心配なさらないで下さい。昔の私ではありません。
  御両親様の幸福の条件の中から太郎を早く除いて下さい。話さねば会わねば分からぬ心ではない筈、何時の日か喜しい決定的な便りをお届けします。正直な処チヨット幼い頃が懐かしい気がします。帰りの車中はお陰で愉快でしたが母上の泣声が聞こえて嫌でした。もっと愉快になって勝利の日まで頑張って下さ
い。
  悠策や日出子、五百子はきっと親孝行をするよい子になりますね。
 
 
*両親と弟妹に宛てたもので慶応大学経済学部に在学中に学徒出陣し、人間魚雷「回天」の発祥地であった山口県大津島から出撃して戦死している。東京の家に帰宅した際にも特攻のことは口に出さず、「俺の母親は、日本一だ」と母恋しの思いを綴った手帳を残して隊に帰って行ったとのこと。 
 
 

 
山形県出身 東京農大 少尉
西長 武志 命 二二歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
拝啓 
 母上様お世話になり感謝の他ありません。
思いもよらぬ事でしたね。感無量にて何も書けません。
 北山形駅ホームの事を思い出すと男ながら涙が流れます。私は男として最初で最後の涙が出ました。母上様が雪のホームを走りましたね。その時です。私の名を呼びました。私は見えなくなるまで汽車の中で、とめどもとめども涙が流れてしかたありませんでした。
 駅が二ッ三ッ通り過ぎた事も知りませんでした。母上様の心を思えばこそです。然しご安心下さい。必ずやります。まあそんなことはやめましょう。
 本日、節子殿より便りとマスコットが着きました。ふりそで人形でなかなか良いですね。私はザンゲと言うべき雪子さんの事はお笑い下さい。然し私は最後まで思います。ふりそで人形を私の妻として一所にやります。私の初恋と言うべきでありましょう。恋すりゃつらいとはこの事かなあ。人生また楽しからずや。色々くだらないことを書きました。末長く長命ならん事を祈ります。
                           武志 
母上様
 

 
岐阜県出身 海軍主計兵曹
永井 勇郎 命 三一歳
昭和十九年一月二日ビスマーク諸島・ニューブリテン島ラバウル北東で戦死 
 
紀子へ 、道子へ
お父さんの事はお母さんが一番良く知っているからよく聞いて呉れ。母と二人で存分の面倒を見てやりたかったが止むを得ぬ。その代り母によろしくたのんでおいた。
紀子は、道子のよいお姉ちゃんとして二人で仲良く成人して呉れ。お前等が大きくなった時、日本は必ずもっと大きく強くなってゐる。紀子はもう父の事を覚えてゐるが、道子はまだ何も知らない。
二人とも良い子だ。
お前達の前にどんな難関が横になって行く手をさえぎるか知れないが、いつも私がついてゐて切り開いてやる。
丈夫な心を持って強く優しく正しく進みなさい。さようなら。
 
*海軍特別陸戦隊員として航海中にノートに書かれた家族、親戚一同に宛てた遺書の一部で、妻と幼いわが子を残して出征し、戦死した無念さは察するに余りある。
 

 
島根県出身 陸軍少尉
安達 貢  命  二一歳
昭和十九年一二月二三日 フィリピン・ミンドロ島サンホセ附近で戦死
 
翠子殿
永々と御世話になりました。何一つ兄らしい事をしてやらなかった事を済まなく思って居ります。真面目な妹を持ち、こんな気丈なことはありません。後を宜しく願います。祖父母様。御両親様の何かと力になって上げて下さい。
此の間の休暇を懐かしく思い出す。最後に呉駅をたつ時、手を振っていた母上様とお前の姿が今も目に浮かんでくる。別府港に立って見送って下さったお祖母さんの姿も忘れられない。
薄暗い燈火の下、窓に南国の星が輝いている。涼しそうな虫の鳴声。丁度日本の初夏の様だ。二十年間の憶ひ出が次々と廻って来る。レイテの方を望んで腕を撫している。いよいよ戦機が熟して来た。やるぞ。俺は絶対に死なない。何処かに生きている。
(後略)
 
*フィリピンで戦死した陸軍特攻隊員の妹宛の遺書。
 

神奈川県出身 陸軍曹長
望月 憲三 命 三五歳
昭和二〇年五月一四日 フィリピン・ミンダナオ島で戦死
 
(前文略)
俺は必ず帰って来る。病魔に犯されぬ限り死ぬようなことは無いと古い兵隊達も云ってゐる。一年か二年か戦争の続く限り帰れぬかも知れぬが、しっかり家のことは頼む。お前にはノンキな俺の気性で随分と苦労をかけたが、これも宿命だと思って諦めてくれ。戦争などと言う天の摂理に反するものは早く止めて欲しいものだ。民族の生きるための戦ひ、吾々の子孫のための戦ひ、そう思って俺は戦って来る。
営庭で見つけた幸福の葉、四つ葉のクローバをお前達の幸福のために送る。お婆ちゃんにもよく話しておいて欲しい。兄姉其他にもよろしく
  六月九日
てい子殿                       憲三 拝
 
 
*この手紙は、昭和一九年六月一〇日、東京麻布の営庭での面会日の時、別れ際に家に帰って読むようにと。望月憲三さんから妻のてい子さんに密かに手渡された。空襲警報発令でわずか五分間だけの面会は、妻子との最後の別れとなった。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。

英霊たちの遺書(2)

2011年12月31日 22時00分41秒 | 英霊たちの遺書
香川出身 陸軍兵長
稲毛 元好 命 三三歳
昭和十九年一〇月十一日 ビルマ方面にて戦死
 
出発にあたって親愛なる妻よ。外出の時は寒い所、雨の中見送り有難う。今頃は何かと忙しい時だろう、御苦労の程、十分に知って居ます。別れのつらさ、想い出は何と書いてよいかわかりません。可愛い子供、勝廣、好廣、抱いてやりたい、さすりてやりたい、私の心は胸の中は一杯だった。が、私は心を鬼にして無情と思ひながら電車に乗りました。
(中略)
思い起こせばお前と夫婦になって十年、ふりかへり見れば夢の様だ。悲しい日、苦しい日、楽しい日の少なかった事。私は夫として妻のお前に十分な事が出来なかった事を残念に思います。着物一枚買ってやるでなし、海水浴、花見に一度つれて行った事もなく苦労ばかりさせてすまなかった。
戦地に元気よく参ります。お前の写真と子供の写真は何時も私の胸のポケットからははなれません。私の心は留守のお前と子供のそばでいつもお前と子供を守って居ます。
父なきあと子供の事はお願いします。病気にならぬ様たのむ。私がしばらく居なくとも、子供は私のかたみだもの、子供と共に私の帰りを気長がくまってくれたまへ。
一年か一年半位すれば私は帰ります。必ず、必ず必ず必ず
(中略)
私が帰っても家がなくともお前や子供が元気で居ることが望みます。
この手紙は大切にして毎日毎晩読み淋しき心をなぐさめて下さい。
妻へ                     元好
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)

 
兵庫県出身 海上挺進基地第二六大隊 陸軍兵長
尾川 昇 命 二三歳
昭和二〇年四月二〇日 沖縄糸満で戦死
 
ときちゃん
ときちゃんが面会に来てくれたのは、兄さんとてもうれしかったです。あれから駅で汽車にのれましたか。和田山についたらずいぶんおそくなって帰るのに暗くて困ったでしょう。兄さんはあれから持ってもらったナシを暗くなって月が出てから今頃はときちゃん汽車の中やろうと思いつつムシャムシャ食べました。ボーちゃんはいよいよ弾のとんでくる戦地へ行く。
もう一度ときちゃんの元気な顔であへるかどうか。とてもむずかしい。そんなことを思えば兄さんは悲しくなる。でもこれがお国につくす道と思へば兄さんもあきらめて元気で行ける。もう会えないでせうが兄さんはいつもときちゃんの事を思っている。そしてすうちゃんと二人で元気なように船の上でもあちらについてからも神様にいのっています。どうかいついつまでも体を丈夫にして親孝行をして下さいネ。ナツメの木になんか登らないでそんな危ないことはやめて食べすぎ風邪をひかぬ様に、これがボーちゃんがときちゃんに出す最後の手紙です。
では元気でね。サヨナラ
                  兄ちゃんより
ときちゃんへ
 
*ときちゃん(季子)。すうちゃん(ときえ)は妹のようである。この部隊名からすると小船艇に爆弾をつけ、敵艦に体当たり部隊であったと思われます。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

 
鳥取県出身 海軍大尉
太田 博英 命 二二歳
神風特別攻撃隊第一筑波隊
昭和二〇年四月六日 南西諸島海上で戦死
 
母上様 御無沙汰致しました。書こう書こうと想いながらも母様の心配されるのがつらくて。しかし最後と思えば、矢張り筆を執りました。
今更何も申し上げる事はありませんが一つだけお礼をもうさねばなりません。と云いますのは、あれ程事故の多い搭乗員となり、またその中の戦闘機乗りになったのに事故を一度も起こさなかったことです。何時も母様のお守りを飛行服の中に入れていたお陰と感謝しています。
しかし、今度だけは目的が征って還らぬものです。千人針も弾よチョッキも皆で着て征きます。然しそれは生還する為ではありません。見事敵艦を轟沈する為に神様の御守りを願ひ見事見事目的が果たせる様。
長くなりました。私の遺品の整理も残していますので、くれぐれもお元気でさようなら。
母上様                       博英 
 
(注)妹の登美枝さんと優子さん、弟の紀さんに宛てた遺書もある。「兄はただ一足先に出かけるまでだ。最後の勝利は絶対わが手にあるのだ」と書かれ、そして歌が添えられている。
 
泣くな歎くな 必ず還る
桐の小箱に錦着て
逢いに来てくれ 九段坂
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
陸軍特別攻撃隊第一九飛行隊
長野県出身 陸軍大尉
倉沢 和孝 命 二二歳
昭和二〇年四月一八日 沖縄・慶良間列島沖で戦死
 
我 今 壮途につかんとす
生還を期せず
今迄の不幸お許し下され度(たく)
尽忠の大義に生く
では御両親様始め
弟達の健壮を祈ります
四月六日
             出発前一筆 和孝
 
(注)この遺書は鉛筆書きで出発前に急いで書いたらしい筆跡とのこと。父・安市さんは、この遺書の「今迄の不幸お許し下され度」の箇所に「何たることだ、何が今迄に不幸な事があったか?何もないではないか」と号泣したという。和孝さんの死後「和孝を思い出すの記」という小冊子を作り、その中に一節には「出来るものなら飛んで行って抱いてやりたい。声をもう一度聞きたい。だがそれも出来ぬ。お前が出立の時の姿が目に浮かび涙が止めもない。後日、天上で語り会ふ日を待って居てくれ。ああ、何と短い一生であった事よ」と記されている。
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
岐阜県出身 第四三振武隊 少尉
簑島 武一 命 二一歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
長らく有難うございました。
最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります
なつかしの知覧町に再びやって来ました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽しげなるつどひ、初夏を呈してる南国の風景
基地よ。征くものも送るのも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日は我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
(中略)
では父様母様、征きます。泣かないで戦果確認して下さい。
御両親様、弟妹達よ、此の兄の心を知って下さい。
やがて暖かい春が訪れるであらう故郷の空へ忘れられぬ去り難い姿
雄々しく征く日本武士
皆様の御健闘を祈り乍ら
 四月三日
御両親様
 
・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」

この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。

英霊たちの遺書(3)

2011年12月31日 21時30分08秒 | 英霊たちの遺書
岐阜県出身 第四三振武隊 少尉
簑島 武一 命 二一歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
長らく有難うございました。
最前基地にて最后の御便りと思ひ乍ら拙筆をとって居ります
なつかしの知覧町に再びやって来ました。当地は桜花満開、春の七草咲きほこり、蝶や小鳥の楽しげなるつどひ、初夏を呈してる南国の風景
基地よ。征くものも送るのも皆命がけで活気を呈し、実に意気壮なるものがあります。
皇国の為に散り征きし若桜、涙ぐましき光景
暮れ行く基地の空を一機亦一機、明日は我の姿とは想へぬ静かなる清き光景
(中略)
では父様母様、征きます。泣かないで戦果確認して下さい。
御両親様、弟妹達よ、此の兄の心を知って下さい。
やがて暖かい春が訪れるであらう故郷の空へ忘れられぬ去り難い姿
雄々しく征く日本武士
皆様の御健闘を祈り乍ら
 四月三日
御両親様
 
・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」
 

福島県出身 法政大学 少尉
大平 誠志 命 二三歳
昭和二〇年四月一二日 知覧基地から出撃戦死
 
遺書
 
フク子殿
フク子、長い間俺みたいな人間に良く尽くしてくれた。
俺は幸福だった。生涯こんな幸福な事はなかった。
唯々、俺は幸福だ。幸福だ。この幸福を胸に秘め敵艦
めがけ轟沈する。
今迄俺が言った事を良く守り、俊一を立派な子に育ててくれ。
俺には君は過ぎた妻だった。もったいない位な妻だった。
最後に当たり感謝する。
俺も女は君一人しか知らなかった。俺もずっと守り通した
君一人が、世界中に女の様な気がする。
君も俺の心と同じと信ずる。最後まで貞操を守ってくれ。
俺も最后まで守った。貞操は女の一番大切なもの故。
あとは俺の両親にすがりつき、良くやってくれ。
暮々も御身体大切に。
俊一は頼んだぞ。俊一はたのんだぞ。
先立つ不幸を許せ。
ではさやうなら、永久にさやうなら。
さやうなら。
 
最愛なる妻へ
 
(注)神風特別攻撃隊第二〇振武隊として出撃して戦死。妻に宛てて遺書は妻と共に幼い子への思いが切々と綴られています。幼い子の年齢までは不明ですが、大平少尉の年齢からして、まだ親の顔すら良く分からない年ではないでしょうか。

・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」 
 
 

 
鳥取県出身 海軍中尉
原田 嘉太男 命 二五歳
昭和二〇年二月二一日 硫黄島周辺で戦死
 
汝我に嫁して四ヶ月誠に良く仕へて呉れた
有難く礼を言ふ何も不服はない
四ヶ月にして後家となる汝が何としても可哀想なのだが
覚悟の上なれば雄々しく第一歩を踏み出すべし
言ふべき事は松山で言った通り 最後に女々しく何も言わぬ
俺も立派な軍人として死ねる
栄吉郎兄 長三郎兄には文通の暇がなかったが宜敷く頼む
泣くなみっともないぞ俺は笑って居るのに
元気で暮らせ 明日は征くぞ
 二月一九日夜
 
最愛の達子殿
 
(注)昭和二〇年二月二一日、神風特別攻撃隊第一飛行隊第二御楯隊として八丈島の基地を発進。硫黄島周辺の敵機動部隊を攻撃。一艦を撃沈して戦死。妻と両親に宛てた遺書が書かれたのは、神風特別攻撃隊として決まった二月一九日。その二日後、原田中尉は「最愛の達子」さんを、結婚してわずか四ヶ月で未亡人の身にしてしまった。なお原文ではひらがなの部分はカタカナで書かれています。

・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
神奈川県出身 少尉 
荒木 春雄 命 二一歳 
昭和二〇年五月一一日戦死
 
遺書 
志げ子、元気なりや。
あれから一月経った。楽しき夢は過ぎ去って明日は敵艦に殴り込みヤンキー道連れ三途の川を渡る。
ふりかへれば、俺は随分、お前の邪険だった。
邪険にしながら、後で後悔するのが癖だ。許して御呉れ。
お前の行先、長き一生を考えると断腸の思ひがする。
どうか、心堅固に多幸にしてくれ。
俺の亡き後、俺に代って父上に尽くしてくれ。
 悠久の大義に生きて此の国を
 永らく護らん醜の敵より  春雄
志げ子殿
 
*(注)知覧特攻基地から神風特別攻撃隊五一振武隊として出撃して戦死。新婚わずか一か月の妻に宛てた遺書です。

・高城書房出版発行「群青 知覧特攻基地より 知覧高女なでしこ会編から」 
 

 
京都府出身 陸軍曹長 
田中 利一 命 二六歳
昭和十九年四月十一日 インド・アッサム州ヤイガムポクピー東北方三五二四高地で戦死
 
 
お母様
お母様、利一は生をうけて二十余年随分心配ばかりお掛けして何一つとして御恩に報いる事が出来ませんでした。本当に不幸(原文のまま)者でした。何時もこうしたら良い知って居ても出来ませんでした。それに引かへお母様は一日の如くずっと可愛がって下さいました。入隊してからも何故もっとお母様の言付を良くきき親孝行をして置かなかったと悔やまれてなりません。無事満期して帰ったらその時こそ必ず御恩に報いねばと思って居りましたが、それも出来なくなりました。どうかお許し下さい。
今もお母様の事を考へて涙が出て仕方ありません。ほんとに苦労ばかりかけて一日も気楽に暮らして貰ふ事の出来なかったのは残念ですが、今は私事は申されません。又暇を見て靖国の社頭に来て下さい。必ず会へます。
(中略)
親に先立つ罪は何卒御許下さい。一足先にお父様の傍に行っています。
(中略)
親類や近所の人々には失礼しますが宜敷くお願致します。では左様なら。お母様の御多幸をお祈りして。どうか私の最後をほめて下さい。決して泣かないで下さい。
 
・角川書店発行(昭和の遺書から)
 

 
埼玉県出身・陸軍少尉
北岡 徳之助 命  四〇歳
昭和二〇年七月五日フィリピン・ルソン島マニラで戦死
 
此の手紙は私の戦死公報の入った時に子供達に見せて下さい。
澄江、隆、博、 お父さんは祖国の隆盛を祈りて潔く死んで行きます。
 お父さんの亡き後は澄江は女学校を卒業して学校でも会社、工場で工場で好む処に就職して家計を助け弟達の面倒を見る事。隆と博は学校がすきでしたから中学校専門学校を卒業する事。隆は気分が落ちつかなくてそわそわして居るのが心配です。身体を丈夫にしてしっかり勉強して下さい 。
 隆と東京駅でわかれる時に隆がお父さんと呼んだ声は、お父さんの耳にまだ残っております。 博はお父さんの顔も知らないので一番可愛いさうです。
博と東京駅でわかれる時にお前はニコニコとハイチャチャをしておりましたが、 お父さんの目に残っております。お父さんを知らなく共決してひがんではいけません。お父さんはお前達三人の大きくなったのを遠くの方から何時でも見て居ります。
(後略)
 
昭和二〇年一月二一日
                     お父さんより
澄江、隆、博へ
 
*この遺書は航空便と船便の二通で送ったうちの一通で、この手紙を書いて半年後に戦死したと言う。遺書は娘・澄江、長男・隆、次男・博さん宛のものですが長男の隆さんは当時九歳だったと言う。

・角川書店発行(昭和の遺書から)

この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。