岡山県出身 海軍飛行兵曹長
実村 穂 命 一九歳
昭和二〇年四月一二日 沖縄・辺戸岬付近で戦死
今日いよいよ立ちます。何も心配はいりません。例の大元気で暴れて参ります。
何時かお母さんが言われた様に、南の美しいお月様に元気な顔を写します。お母さん元気で居て下さいね。屹度元気な姿を見せますから。
荷物は家から送って頂いたものばかり、家でどんどん使って下さい。
お母さん心配しては駄目ですよ。戦地に行ったら便りもどしどし出す心つもりですが、空しく着かない時は元気でやって居ると思って下さい。
一人のお母さん。今日も日参の姿を涙で穂は拝んでおります。
気の小さいお母さんでは之からは駄目ですよ。気を大きく持って大前の家で笑って居て下さい。兄さん姉さんと一緒にね。
*最後の帰省で家を出る時、母は襖越しに「死んで忠義も良いが `生きて忠義をしておくれ」と言った。土浦海軍航空隊に入隊以来、母は雨の日も風の日も一日もかかさず氏神様をお参りしていたのである。その母の言葉に穂は泣いた。神風特別攻撃隊敷島隊の一番機に志願したが、まだ大事な仕事が残っていると退けられた。しかし敷島一番機の出撃では「海ゆかば」を穂さんが音頭を取って歌った。歌の半ばから、司令官以下声が出ず、全員が泣いて送り出したと言う。
塚本 太郎 命 二一歳
山口県大津島回天特別攻撃隊
昭和二〇年一月二一日
西カロリン諸島・ウルシー島海域で戦死
帰省の友人に頼んで送る。何も言うことはない。ただ来るべき秋<とき>を静かに待っています。日本人が軍神で埋まれねば勝てぬ戦いです。東京も再三空襲された様子。別に心配もしません。体に気を付けて下さい。便りは致しませんが心配なさらないで下さい。昔の私ではありません。
御両親様の幸福の条件の中から太郎を早く除いて下さい。話さねば会わねば分からぬ心ではない筈、何時の日か喜しい決定的な便りをお届けします。正直な処チヨット幼い頃が懐かしい気がします。帰りの車中はお陰で愉快でしたが母上の泣声が聞こえて嫌でした。もっと愉快になって勝利の日まで頑張って下さ
い。
悠策や日出子、五百子はきっと親孝行をするよい子になりますね。
*両親と弟妹に宛てたもので慶応大学経済学部に在学中に学徒出陣し、人間魚雷「回天」の発祥地であった山口県大津島から出撃して戦死している。東京の家に帰宅した際にも特攻のことは口に出さず、「俺の母親は、日本一だ」と母恋しの思いを綴った手帳を残して隊に帰って行ったとのこと。
山形県出身 東京農大 少尉
西長 武志 命 二二歳
昭和二〇年四月六日 知覧基地から出撃戦死
拝啓
母上様お世話になり感謝の他ありません。
思いもよらぬ事でしたね。感無量にて何も書けません。
北山形駅ホームの事を思い出すと男ながら涙が流れます。私は男として最初で最後の涙が出ました。母上様が雪のホームを走りましたね。その時です。私の名を呼びました。私は見えなくなるまで汽車の中で、とめどもとめども涙が流れてしかたありませんでした。
駅が二ッ三ッ通り過ぎた事も知りませんでした。母上様の心を思えばこそです。然しご安心下さい。必ずやります。まあそんなことはやめましょう。
本日、節子殿より便りとマスコットが着きました。ふりそで人形でなかなか良いですね。私はザンゲと言うべき雪子さんの事はお笑い下さい。然し私は最後まで思います。ふりそで人形を私の妻として一所にやります。私の初恋と言うべきでありましょう。恋すりゃつらいとはこの事かなあ。人生また楽しからずや。色々くだらないことを書きました。末長く長命ならん事を祈ります。
武志
母上様
岐阜県出身 海軍主計兵曹
永井 勇郎 命 三一歳
昭和十九年一月二日ビスマーク諸島・ニューブリテン島ラバウル北東で戦死
紀子へ 、道子へ
お父さんの事はお母さんが一番良く知っているからよく聞いて呉れ。母と二人で存分の面倒を見てやりたかったが止むを得ぬ。その代り母によろしくたのんでおいた。
紀子は、道子のよいお姉ちゃんとして二人で仲良く成人して呉れ。お前等が大きくなった時、日本は必ずもっと大きく強くなってゐる。紀子はもう父の事を覚えてゐるが、道子はまだ何も知らない。
二人とも良い子だ。
お前達の前にどんな難関が横になって行く手をさえぎるか知れないが、いつも私がついてゐて切り開いてやる。
丈夫な心を持って強く優しく正しく進みなさい。さようなら。
*海軍特別陸戦隊員として航海中にノートに書かれた家族、親戚一同に宛てた遺書の一部で、妻と幼いわが子を残して出征し、戦死した無念さは察するに余りある。
島根県出身 陸軍少尉
安達 貢 命 二一歳
昭和十九年一二月二三日 フィリピン・ミンドロ島サンホセ附近で戦死
翠子殿
永々と御世話になりました。何一つ兄らしい事をしてやらなかった事を済まなく思って居ります。真面目な妹を持ち、こんな気丈なことはありません。後を宜しく願います。祖父母様。御両親様の何かと力になって上げて下さい。
此の間の休暇を懐かしく思い出す。最後に呉駅をたつ時、手を振っていた母上様とお前の姿が今も目に浮かんでくる。別府港に立って見送って下さったお祖母さんの姿も忘れられない。
薄暗い燈火の下、窓に南国の星が輝いている。涼しそうな虫の鳴声。丁度日本の初夏の様だ。二十年間の憶ひ出が次々と廻って来る。レイテの方を望んで腕を撫している。いよいよ戦機が熟して来た。やるぞ。俺は絶対に死なない。何処かに生きている。
(後略)
*フィリピンで戦死した陸軍特攻隊員の妹宛の遺書。
神奈川県出身 陸軍曹長
望月 憲三 命 三五歳
昭和二〇年五月一四日 フィリピン・ミンダナオ島で戦死
(前文略)
俺は必ず帰って来る。病魔に犯されぬ限り死ぬようなことは無いと古い兵隊達も云ってゐる。一年か二年か戦争の続く限り帰れぬかも知れぬが、しっかり家のことは頼む。お前にはノンキな俺の気性で随分と苦労をかけたが、これも宿命だと思って諦めてくれ。戦争などと言う天の摂理に反するものは早く止めて欲しいものだ。民族の生きるための戦ひ、吾々の子孫のための戦ひ、そう思って俺は戦って来る。
営庭で見つけた幸福の葉、四つ葉のクローバをお前達の幸福のために送る。お婆ちゃんにもよく話しておいて欲しい。兄姉其他にもよろしく
六月九日
てい子殿 憲三 拝
*この手紙は、昭和一九年六月一〇日、東京麻布の営庭での面会日の時、別れ際に家に帰って読むようにと。望月憲三さんから妻のてい子さんに密かに手渡された。空襲警報発令でわずか五分間だけの面会は、妻子との最後の別れとなった。
・角川書店発行(昭和の遺書から)
この「英霊たちの遺書」はHPに掲載されていたものです。