ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

瀧瓢水研究⑧:瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標⑤

2011-10-31 07:59:54 |  ・加古川市別府町を歩く

039「風樹の嘆」(ふうじゅのたん)という言葉をご存知でしょうか。

私も、「さればとて 石に蒲団は 着せられず」の瓢水の句を調べていて初めて知った言葉です。

広辞苑では「孝養をしようと思い立った時にはすでに親が死んでいて孝養をつくしえない嘆き」とありあます。

瓢水は、まさに自分の「風樹の嘆」を句にしています。

前漢の韓嬰(かんえい)の著で、「詩経」の解説書の外伝に、次のような物語があるそうです。

さすが瓢水です。かれの教養の中のこの物語が、母の死に際して句にしたのでしょう。

次の「風樹の嘆」の話はHPからの引用です。少し文章を変えて紹介させていただきます。

風樹の嘆

今から二千五百年前のことです。
孔子が斉の国へ向かっていた時、前の方から、大きな泣き声が聞こえてきました。
大層悲しそうでした。
馬車をはやめると、号泣している男を発見しました。
孔子は、彼に尋ねました。「あなたは、どなたですか」
「丘吾子(きゅうごし)という者です」
「なぜ、そんなに泣くのですか」
「私は、大変な過ちを犯したのです。晩年になって気がついて後悔しましたが、今さらどうにもなりません」
「どんな過ちか、聞かせていただけませんか」
「若いころから、私は、学問が好きで、諸国を巡っておりました。
ある日、学問の道にはキリがないので、これくらいで郷里へ帰ろうと思いました。年老いた父母のことが心配になってきたのです。

しかし、家へ戻ってみると、両親は、すでに亡くなっておりました。

子供が親を養おうと思っても、親はその時までは待っていてはくれません。
過ぎた歳月は、二度と帰ってこないのです。
二度と会うことができないのは親です」
ここまで言って、男は、水中に身を投げて死んでしまいました。

孔子は、「これは一人一人が教訓としなければならない大切なことだ」と弟子たちに諭しました。

   母・参の墓碑の保存を!

別府西町の墓こそ、瀧瓢水の貴重な遺産であり、文化財です。

子孫の方、別府町の方々にお願いです。

墓碑は砂岩のため、傷みがずいぶん進んでいます。

この墓をいつまでも保存していただけませんでしょうか。

*写真:瓢水の母(参)の墓碑については、先に紹介しましたが、西町の墓地の南東隅あたりに写真のように墓碑が集められています。ぜひお参りください。

念のために戒名を繰り返しておきます。

勝林栄舜」です。

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瀧瓢水研究⑦・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標④

2011-10-30 06:44:36 |  ・加古川市別府町を歩く

 瓢水の母(参)の墓碑③  

 

   瀧 恒 春?

10290365この墓碑は文化財として認められていません。

「さればとれ 石にふとんは きせられず」と瓢水が詠んだ句の石(墓)に間違いないと思うのです。

文化財として認定し、世に広く知られて保存につながると考えます。

しかし、この墓石は文化財とは認められていません。

それには、2つの理由があります。

第一は「明治十八年の書類では、だれの墓か不明」としています。

他の理由は、「瀧瓢水研究(6)」をご覧ください。

この墓を建てたのは四代恒春とあります。

四代は瓢水ですから、瓢水が建てたということには問題がありありません。

問題になるのは「恒春」です。

瓢水は、有恒・新之丞・自得・新右衛門・富春斉・半括坊等その外にも多数の名前を持っていますが「恒春」は一度もでてきません。

瓢水の本名は有恒です。

そのため『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)には、「・・・四代目は瓢水ではなく、この墓を建てた恒春であり、五代が瓢水である・・・」とやや強引な記述まであります。

そして、この記事を書かれたH氏は、別のところで、やはり四代は瓢水、五代は富春とみとめながらも、恒春にこだわり、墓を建てたのは「七代の恒春」とされました。

七代の瀧恒春は天明八年(1788)ごろに生まれ、明治五年(1872)に亡くなっています。

くりかえします。瓢水の母・参がなく亡くなったのは、享保十八年(1733)です。

「時代があまりにも違います。そのため、この墓は瓢水が建てたものではない」と結論づけておられます。

文化財審議委員の方にお願いです。もう一度、調査をお願いできないでしょうか。

  恒春は瓢水の名前

「恒春」は誤刻かとも考えたりしますが、母の墓碑の自分の名前の誤刻に気がつかないことはないと思います。

「恒春」は母の墓碑にただ一回限りに使った瓢水の名前であったと考えたいのです。

瓢水と母・参との心の結びつきは強よかったようです。母の死に「人目もはばからず涙した」といわれています。

 

  ある想像!

生前、母と二人きりの時、次のような会話もあったのではないかと想像するのです。もちろん史料があっての話ではありません。

・・・有恒(瓢水の本名)・・お前もずいぶんと俳句にのめりこんでしまいましたね。お母さんも苦労しますよ。・・・

名前がよくなかったのかね。初代は元春、二代は清春、三代は亡くなったお父さんの仲春、そして四代目がお前の有恒。お前だけが「春」を継いでいないね・・・

恒春の方が良かったのかね・・・。

そんな話の時、瓢水はだまって苦労かけている母の小さくなった背を見つめるばかりでした。

以上の母との語りは、もちろん史料があっての話ではではありません。勝手な想像です。

『ふるさとの文化財(第二巻)』の著者・木戸正氏は、「・・母からは恒春と呼ばれ、(恒春は)母と子の間の最も深いつながりのある名前であった・・・」と推測されています。

 図:母・参の墓碑の復元図(『ふるさとの文化遺産』木戸正より)

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瀧瓢水研究⑥・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標③

2011-10-29 12:15:10 |  ・加古川市別府町を歩く

 

 瓢水の母(参)の墓碑②

前号で瓢水のお母さんの墓標(写真)を紹介しました。今回も同じ写真です。

現在、お父さん・お母さんの墓標は、西町の墓地の中央部にある瀧家の墓所ではなく、少し離れて、同墓地の南東隅あたりに置かれています。

001今回と次回は、瓢水のお母さん(参)の墓標を調べてみます。

墓標は砂岩の笠塔婆で、中央に割れた跡がくっきり残り、文字等もかなり傷んでいます。

まず、墓標の文字を読んでおきます。

現在、左側面の文字は他の墓標のために読めませんが、さいわい以前に郷土史家の木戸正氏が書き写されていますので、お借りします。

(正面) 

 癸享保十八年丑七月廿九日

 勝林栄舜之墓

(右側面)

 母神成孀不妍四十余歳不出外在乎内守

節忌享楽、不聞淫聲後世以我母為主矣

(左側面)

 一代新右衛門元春

  二代与一右衛門清春

   三代新右衛門仲春之妻

   姓三木福田与六郎娘名参

    四代目新右衛門恒春建之

 仏は、三代目新右衛門仲春の妻で瓢水のお母さんです。

 お母さんは、三木町の福田与六郎の娘で名前を参(さん)といいました。

 この墓を建てたのは四代目新右衛門恒春です。

 恒春については次号で考えます。

 

   母は母神

右側面の文章は、少し難しい文字が使われていますので一緒に読むことにします。

まず、単語の意味を調べておきます。

・成孀(やもめ)   独身

・不妍(ふげん)   化粧をしないこと

・淫聲(いんせい)  みだらな音楽

意味は「母はヤモメとなり、化粧もせず、四十年間外出することなく、内にあって節操を守っています。

享楽を避け、みだらな音楽を口にすることもなく、聞くことすらしませんでした。

母こそ、ひたすらに一家の主人として、瀧家を守った母神様です。

*『ふるさとの文化遺産(第二巻)』参照

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瀧瓢水研究⑤・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓標②

2011-10-29 07:14:34 |  ・加古川市別府町を歩く

 

   瓢水の母(参)の墓碑

032  写真は、瓢水の母・参(さん)の墓碑です。

またまた余話になってしまいますが、ご了承ください。

別府町西町の墓地に瓢水の墓碑がることを知ったのはもう25年ほど前のことです。

郷土史を研究されている木戸正氏は、昭和60118日発行で『ふるさとの文化遺産(第二巻)』を発行されています。

その第一章で瀧瓢水について述べておられるのを読んだときです。

三節が「瓢水関係の石造物」です。

どんな経過か忘れましたが、二巻を木戸氏からいただきました。

木戸氏のサインもあります。

生前、木戸氏と直接お話をしたことはありません。

もちろん、私は地道に郷土史の研究をされている木戸正氏のお名前は知っていましたが雲の上の方でした。

 Mさんのこと

そして、最近高校の同窓生のMさん(女性)とあることで、よく話をするようになりました。

県立高校であるのに男女別々の教室でした。

気弱なために、ほとんど学校で女性と話したことはありません。

それに加えて、数学が病的にできなくてコンプレックスがあり、きっと女の子は私ごとき者を、きっと無視していたと思います。

最近は年(68)のせいか、若干あつかましくなりました。

Mさんと話している時、何かのきっかけでお父さんの話になりました。

途中で、話の内容があやしくなりました。

「もしや、Mさんのお父さんは『木戸正さん』ではないですか」と尋ねると、ビックリされていました。

話がどんどん進み、「私も地域史に興味を持っています。生前にお父さんから『ふるさとの文化遺産(第二巻)』をいただきました」と話をすると、Mさんから一巻から六巻まで全巻が届きました。

本当にありがとうございました。

 

   『ふるさとの文化遺産』からの報告

話が横道にそれてしまいました。話を瓢水のお母さん・お父さんへ戻します。

次回から報告しようと思っている、瓢水のお父さんとお母さんの話は、『ふるさとの文化遺産(第二巻)』の木戸正氏の研究によるものです。

若干、私見を添えさせていただきます。

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瀧瓢水研究④・瓢水の父(仲春)、母(参)の墓碑①

2011-10-28 12:51:51 |  ・加古川市別府町を歩く

「瀧瓢水研究」も本号でno4になりました。

3号までは、少し瓢水について復習しました。

1号でお知らせしたように「瓢水の父・母の見つかる」の話題へと進みたいと思います。

読者の方から、そろそろブーイングが聞こえてきそうですから・・・

 

     瀧家の墓

034瀧家の墓地は西町の墓のやや西寄りの墓地内のメーン通りに添って東側にあり、よくわかる場所にあります。

ただ、墓碑には戒名で、瀧とは刻まれていません。

写真を参考にされてお参りされてはいかがでしょうか。

瓢水は、瀧家の四代の頭首です。

初代は元春、二代は清春(瓢水の祖父)です。

三代が仲春(瓢水の父)です。

墓碑には、戒名のみなので、瓢水の母・参そして、それぞれの戒名を紹介しておきます。

初代(元春)  月高浄透

二代(清春)  全快清春

三代(仲春)  覺元浄法信

瓢水の母(参) 勝林栄舜

瀧家の墓地には、初代・二代頭首の墓碑があるのですが、三代つまり瓢水の父、そして母さん(参)の墓碑が見当たりません。

かつて、あったという話を聞きました。

特に、「さればとて 石に蒲団は かけられず」のモデルとされる瓢水の母の墓碑を探がしまわりました。でも、見つかりませんでした。

でも、最近(今月)地元のKさんから「瀧さんの御先祖の方から三代と瓢水の母と父の墓碑は、震災で傷みが激しくなっていたため、少し修理をし、同じ西町の瀧家の墓地から少し離れた場所に移してしています」との連絡があったことをお聞きしました。

そして、案内していただきました。

ありました!・・・・

まさに、まさにお父さんとお母さんの墓碑でした。

写真・説明等は次号です。

 <蛇 足>

写真:瀧家墓地の初代頭首の墓碑には二人の戒名があります。向かって左の戒名は、初代・元春の奥さんの戒名です。

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瀧瓢水研究③・瀧 家

2011-10-28 07:43:39 |  ・加古川市別府町を歩く

瀧家は辻堂(別府町元町)のあたり

Befu_115   瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれました。父は、瀧新右衛門仲春、母は参といいました。

 家は、現在の別府町元町にある辻堂(写真)のあたりで、約100m四方もある広大な屋敷でした。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていました。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができます。

 瀧家は三木合戦で籠城し、落城(天正8年・1580)後は現在の加東市滝野町で暮らしましたが、新右衛門元春(天正六年生まれ)は、別府村に移りました。

 三木合戦で最初に攻防のあった別府城のあった場所は分かっていませんが、戦況・地形から考えて瀧家のあった辻堂あたりがふさわしいと考えられます。

 ともかく、三木合戦後、別府城は取り壊され、広い跡地が残ったと想像されます。

 瀧家は、その場所に屋敷を構えたと想像します。史料があっての話ではありません。

 そこは、船の出入りする別府川の河口に近いし、また住吉神社のあたりの海岸は、現在の地形と異なっていました。

 住吉神社の西のあたりは、別府川がS字状にまがった湛保(たんぽ)という船溜まりであったという記録もあります。

 瀧家は、そんな別府の港に目をつけたのでしょう。

 三木合戦を最後に、戦争のない平和な時代へとかわりました。

 農業は大きく発展し、それに伴い商業活動もさかんになりました。

 別府の浜は賑わい、瀧家は海運業者として時流に乗り大いに繁栄しました。

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滝瓢水研究②・滝瓢水(たきひょうすい)

2011-10-27 11:09:51 |  ・加古川市別府町を歩く

 瓢水のお父さんとお母さんの墓碑をすぐにでも紹介したいのですが、少しお待ちください。

  その前に瓢水について少し復習しておきます。

 滝瓢水(たきひょうすい)

Befu_085俳人、滝瓢水(16841762)は、加古川の別府村に生まれました。

 別府にある瓢水(ひょうすい)の生家は、叶屋(かのうや)という船問屋で、彼が家を継いだときは富商であったが、瓢水の代になって、急速に零落しました。

そのはずである。彼は、家業を人任せにして京・大阪に遊んだ。地所や持船は、いつの間にか、人手に渡り、親類からも見放されたといいます。

 しかし、俳諧には、ますますのめりこみました。

彼の俳諧には、底抜けの明るさと機智そして善意がありました。

ここでは、広く知られている瓢水の俳諧を三首紹介しておきます。

    手に取るな やはり野におけ れんげ草

  Don't pick chinese milk vetches. Since their bloom are more beautiful when left in the field. (He advices not to marry with geisha girl.)

 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

   A woman diver also has a straw raincoat, and she takes care not to get wet in the rain as she goes to the beach.

    さればとて 石に布団は 着せられず

   We cannot hang bedding on the gravestone.  (We should show filial piety while our parents are living.)

なお、蛇足ですが、意味を下手な英訳にしてみました。お読みいただければ幸いです。

*写真は、別府町の宝蔵寺にある瓢水の句碑。

 

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滝瓢水研究①・瓢水の母・父の墓碑見つかる

2011-10-27 08:17:07 |  ・加古川市別府町を歩く

  「志方町を歩く」は、一週間ほどお休みとします。

瓢水の父母の墓標はどこに?

Befu_002  2年ほど前に、上の題で、次のような文章を載せました。

太字に注意してお読みください。

滝 瓢 水

現在の加東市滝野町から別府に移り住んだ瀧家は、初代・元春から三代・政清で財を成しました。

 家業は、廻船問屋で、叶屋(かのうや)と号し別府港に拠点をおき、加古川の流域の物産を集め大坂や西国に送り、生活物資や魚肥等を買い入れ、それを販売する一大商社として大いに繁栄し、千石船七艘を所有するまでになりました。

 その家業も四代・瓢水の代になり、急速に衰えました。 

それもそのはず、家業は他人まかせで異常なほどに趣味の俳句にのめりこんだのでした。

 瀧家の墓所

 瀧家の墓所について紹介します。

 瀧家の墓所は、別府の西町の共同墓地にありますが、もともとこの場所にあったのではありません。

 別府町以外の人には、分かりにくく申し訳ないのですが、今の「別府町民会館」のある場所です。

 江戸時代、ここに金蔵坊という僧坊があり、そこの墓地に埋葬されていました

 明治初年、今の場所に移されました。

 余話をはさみます。

22年、別府村・西脇村・新野辺村が合併して新しい別府村ができたとき、金蔵坊があった場所に村役場がおかれました。

 西町の現在の瀧家の墓所に話をもどします。

 瀧家の墓所には、初代(元春)・二代(清春:瓢水の祖父)の墓標はあるが三代(政清:瓢水の父)の墓標が見当たりません。

「さればとて 石に布団は かけられず」と瓢水が詠んだ母・参の墓標もみあたりません。

 ともに数年前まで、ここにあったと聞きました。

 その経過が分かりません。瓢水の父母の墓標は、貴重な地域の語り部であり、文化財でもあるはずです。

 瓢水の墓標であるが、瓢水は宝暦十二年(1762)五月、七十九才の時大坂の旅先で没し、現在の大阪市天王寺区生玉町の持明院(生国魂神社東)の墓所で眠っています。

 以上が以前に紹介した文章です。

 きょうは、ビッグニュースがあります。瓢水の父母の墓碑がわかりました。

 今「志方町を歩く」を続けていますが、一週間ほどお休みして、滝瓢水について緊急報告をします。楽しみにしてください。

 *写真の瓢水の句碑は西町の墓地のものではありません。

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志方町を歩く(140):東志方野尻⑪・江戸時代の野尻新村

2011-10-26 09:29:15 |  ・加古川市東志方

明細帳」は、江戸時代の村の米の取れ高、家数、家畜の数など村のようすを役人に提出するための書類です。

現在で言えば「町政要覧」・「学校要覧」のような性格の文書です。

そのため、明細帳を見ると、当時の村の様子の概略を知ることができます。

明細帳から野尻新村のようすをみましょう。

 『加古川市史(第五巻)』の「一橋徳川家領村々様子大概書」を引用させていただきました。

   野 尻 新 村

Fd58cb38・用水は池の水を引き、旱魃の多い土地である。

・家数49軒   人数 205人。

        (男104人 女101人 牛 13疋)

・農業の合間に男は薪を、女は綿を織る。

・百姓持ちの山林3ヵ所  25526歩。

・薪、秣用の他村と共用の入会地がある。

・米の津出しは加古川の川岸(かし・川の港)・芝村(現在の平荘町養老あたり)まで2里半、そこから高砂港まで3里半下りる。

それより船積みにより江戸まで海上250里、大坂まで21里。

・野尻新村は東西100間、南北500間ほどある。

・野尻新村は山の中で困窮の地である。

・谷川一筋あり。

・ため池4ヵ所。

・免税地2ヶ所 反別合わせて2323

・鉄砲4挺。

・野尻新村は元大久保出羽守領分地である。

なお、東志方9ヵ村が小田原大久保出羽守領になった事情は「志方町を歩く(48・49)」をご覧ください。

なお、この明細書には年号がありませんが、東志方の9ヵ村は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれました。

そして、東志方の9ヵ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続きました。

この明細書は、支配地の事情をつかむため延享4年(1747)以後、間もないころに作成されたものでしょう。

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志方町を歩く(139):東志方野尻⑩・野尻古墳群

2011-10-25 08:37:02 |  ・加古川市東志方

野尻古墳群は県道小野志方線で細工所から小野方面へ行き、野尻集落が途切れる手前にあります。

道から、比較的大きな説明板(写真上)が目につきますので、すぐ探すことができます。(*野尻1号墳は説明板に向かってすぐ左です)

その説明板を読んでおきます。

野尻古墳群

Nojiri_and_007野尻古墳群は志方町北東端に位置し、南を城山、北を周遍寺山、大将が峰にはさまれた細長い谷間に築かれた群集墳です。

かつて、5基以上あったといわれていますが、現在では3其しか残っていません。

野尻1号墳(写真下)は墳丘の一部が削り取られていますが、全体によく残っています。

背後の山の斜面を切って盛り土をした古墳で、高さ3.5㍍、墳径20㍍です。

内部構造は横穴式石室で南面する開口部は両袖式です。

羨道(せんどう・入口から石室までの部分)は一部消滅しており、現在の長さ4.2㍍、天井までの高さ1.4㍍、玄室付近の巾4㍍、幅は奥壁部で1.9㍍、中央部で2㍍、玄室入り口で1.9㍍で、中央部がやや広い長方形です。(以上、説明板より)

    野尻1号墳

Nojiri_and_019この野尻古墳の説明に、『加古川市史』『志方町史』そして「説明板」に築造時代の説明がありません。

でも、横穴式石室であり5世紀以後の古墳です。

ここでは、後期古墳(6世紀)古墳としておきます。

500年代の古墳として話を進めます。

昨日(24日)、この古墳の撮影に出かけました。

説明板のあたりを探したのですが、なかなか見つかりません。

そのはずです。入口が竹で覆われて場所が覆い隠しています。

やっと、竹の向こうに入り口を見つけました。竹を押し倒し、やっとのことで石室に入ることができました。

想像していたよりも立派な石室です。

   野尻の古代人は農業もはじめていた!

こんな立派な古墳を造ったのは、もちろん古代の野尻の支配者(豪族)です。

支配者(豪族)がいたということは、少なくても数十戸の人々を支配していたのでしょう。

つまり、500年代の野尻は多数の人々の活躍した場所だったのです。

原始的な狩りだけでは、それら多数の人々を養うことはできません。

当然、農業も始まっていたと考えられます。

野尻は、周辺の山からの水が低地部に水が集まる地形です。そこに集落をつくり野尻の古代人は農業生産もしていたのでしょう。

古代人の生活の跡は、長い時間の中で水に削られ、土砂が積もり、現在それらを知ることはできません。

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志方町を歩く(138):東志方野尻⑨・コーヒーブレイク「鄙の村」

2011-10-24 07:10:33 |  ・加古川市東志方

昭和371031日の神戸新聞・東播版に「ふるさとの先人」として、野尻の開拓者・玉田正信(修斉)を取り上げている。

修斉については、このブログでも取り上げたのでご覧ください。

神戸新聞の記事の最初の部分に「野尻」についての印象があります。

  野 尻

011・・・四方を山に囲まれた印南郡志方町野尻は、いわば袋小路に似た山村である。

小野市と加西市の境界線が村の背中までせまっており、同細工所から小野市へ抜けるつづら折りの細道が、村に文化の香りを伝えるただ一つの交通路だった。

村の子どもたちは、学校へ通うのに朝六時半から家を出るというから、辺境ぶりも想像できよう。・・・

おそらくこの記事を書いた記者F氏は、都会の住人らしく、野尻がよほど辺境の地と映ったようです。

 この記事を読んで、数年前に書いた私の拙文を思い出しました。

愚説(拙文「愚考・日本人の考え」より)

空を眺めていたら、たわいもない考えが浮かんだ。でも、「大発見かも知れない」とひそかに思ったりもした。

日本の空は外国(今、アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアを念頭においているが他意はない)と比べて低く感じる。晴れた日も湿気のためか、白っぽい。抜けるような、あの青い、高い空が少ないようである。

有史以来、無意識のうちに、低い空の下で日本人は生活を繰り返してきた。日本人の意識に影響を与えない道理がない。

日本人の気質は島国と比較してよくいわれるが、低い空の下で生活してきた影響の方が大きいのではないか。日本の町は、平野にあっても、すぐに山で閉ざされてしまう。

深い無意識のうちに、周囲を山で閉ざされ、上を低い空で締め切った缶詰のような世界で、生活を繰り返してきたのが日本人では、なかっただろうか。

もっとも、これは外国との比較の問題であるが、そこから生じる思考は想像以上に、細やかな、内向きの感情を育んだのであろう。世界を対象にした思考を育てにくい環境にあった。

空が大きければ、相対的に地上の風景は小さくなる。先月、マウント・イーデンの丘(ニュージランドのオークランド市)から市街を眺めたときにそれを感じた。反対に空が低いと、地上の風景が大きく見える。近くの事柄に感心が向く、悪くすると外に対して無関心と排斥の感情を育てやすい。

この思考回路の一因は「空」にあるのかもしれない。(以上・拙文より)

    玉田黙翁を育んだ環境

野尻の集落が狭い空間にあり、大きな考え方が生まれにくかったということを言っているのではありません。

野尻が開発された江戸の初めから戦前の野尻を想像しています。

まさに、野尻には神戸新聞の記者の言うような鄙(ひな)の時代が長く続いたと想像されます。

とすると、野尻は市内でも純粋な農村として、外の世界との接触は比較的すくなく、山間の農村として、伝統的(内向き、細やか)な思考が凝縮された集落だったのでしょう。

野尻は、こんな環境にあったからこそ「玉田黙翁」のような学問と生活を誕生させたのかもしれません。

 *写真:現在の野尻の西部

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志方町を歩く(137):東志方町野尻⑧・「野尻新田新開発改帳」より

2011-10-23 07:05:41 |  ・加古川市東志方

     続く新田開発 

002野尻は、玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村です。

修斉は、寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。

開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれていますが、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となりました。

以上は、「志方町を歩く(130)」の復習です。

太字のカ所に注目ください。寛文二年で一応の開拓は終わりましたが、その後もすこしずつ田畑の拡大は続きました。

そして、明治10年、田畑・宅地合わせて30町の村となったのです。

前号で紹介したHさんのお宅に4枚の「野尻新田新開改帳」があり、お借りしました。

これらの文書から、一応開発が終わった寛文二年後の開発のようすの一端を知ることができます。

小さい田畑を開発し続けている百姓の姿が浮かんできます。

『野尻新田新開発改帳』より

◇天和弐年(1682)    

 田数 合二町一畝十四歩

             畑数 合五反三畝十六歩

          合計 田畑数 二町五反五畝

              高  十九石六斗一升

◇元禄九年(1696

            田畑惣 合一町二反六畝十七歩

              高 四石六斗一升一合五夕

◇延享元年(1741

             畑  二畝三歩    

                六斗三合

◇文化六年(1809

            見取畑 五反二畝

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志方町を歩く(136):東志方町野尻⑦・玉田黙翁③

2011-10-22 08:01:29 |  ・加古川市東志方

    

   陶淵明のような生活!

黙翁は晩年、江戸から招かれて二度野尻を離れた以外はほとんど志方の地を離れていません。

黙翁の研究家・前川清二氏は、黙翁について次のように述べておられます。

*文章を平易にさせていただきました。

8dfe8061_2 「見るものは雲と山、聞くものは鴉・雀の声のみなる不便な村落に、お粗末な酒を少し飲む以外に服装・食器なども気にとめないという質素な生活でした。

大名の屋敷に丁寧に接待された時も少しも変わることがありませんでした。

そして、来るものを拒みませんが、自ら友を求めようともしませんでした。

学問所を出ることもほとんどありませんでした。

折々に、感想を書きとめたり、風情を詩に寄せ、または子弟に道を説いている態度に村人は感心するばかりで見守っていたといわれています・・・」

まさに、陶淵明の詩を思い浮かべる生活であったようです。

そんな、黙翁も天明5年(1875)、53日、野尻で没しました。89才でした。

     

   黙翁の書が読めません・・・

現在、黙翁の家は絶えましたが、先日お墓をお守りされている、加古川市在住のH家をお訪ねしました。

黙翁についての詳細は聞けませんでしたが、黙翁に関係した軸と黙翁の書(写真)見せていただきました。

そして、4点の『野尻新田新開発帳』をお借りすることができました。

この『野尻新田新開発帳』については、次号で紹介します。

<お願い>

貴重な黙翁の書を見せていただいたのですが、浅学のため読めません。

読んでいただけないでしょうか。意味も宜しくお願いします。

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志方町を歩く(135):東志方町野尻⑥・玉田黙翁②

2011-10-21 12:24:55 |  ・加古川市東志方

黙翁は元禄10年(1697野尻新田に生まれ、名は信成、俗称を金次郎といいました。

号を虎渓庵、敵山、黙翁としています。

    陶淵明に私淑

彼は陶淵明(とうえんめい)の生活にあこがれを持ち学問にはげみました。

彼の生活は、まさに陶淵明と重ね合わせることができます。

父が亡くなった時、黙翁はすでに46才であったので、それまでに父の庇護のもとで十分学問に打ち込み、才能を伸ばすことができたと思われます。

彼は儒学・文学だけでなく医学にも詳しく、弓馬剣術、村の経営にも通じていたといわれています。

      虎 渓 精 舎

Shikata_008玉田家の墓地の入り口のところに、学問所「虎渓精舎(こけいしょうじゃ)跡」(写真)があります。

虎渓精舎は、祖父・修斉が書斎として建てたもので、父もこの部屋を書斎とし、時には講義の場としていたようです。

黙翁は、修斉の墓を守り、この清閑な地で隠棲して、一切の名誉を望まず、孤高の生活を楽しみました。

そこでは、まさに陶淵明にあこがれた黙翁の生活がありました。

*『志方町誌』参照

  <蛇足> 

黙翁は陶淵明(636427)にあこがれ勉学に励みました。

陶淵明の有名な詩「歳月人を待たず」の最後の部分を載せておきます。国語の授業を懐かしく思い出してください。

   ◇歳月人を待たず◇    陶淵明

  ・・・・

 盛年不重来  盛年(せいねん) 重ねて来らず

 一日難再晨  一日 再び晨(あした)なり難し

 及時当勉励  時に及んで当(まさ)に勉励すべし

 歳月不人待  歳月 人を待たず

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志方町を歩く(134):東志方野尻⑤・玉田黙翁

2011-10-21 07:38:53 |  ・加古川市東志方

玉田黙翁

Shikata_006 写真は、玉田黙翁(たまだもくおう)の墓碑です。

黙翁は、野尻(志方町野尻)に生まれた江戸時代の高名な儒者です。

玉田家は、代々医を業としており祖父、父(柔庵)も医者でした。

黙翁は、医者としてだけではなく、学問の道を究めました。

そして、野尻で塾(虎渓精舎・こけいしょうじゃ)を開き、多数の門弟を指導しました。

今もその跡が、野尻の虎ヶ谷の黙翁の墓のそばにあります。

黙翁は、ほとんど虎ヶ谷の地を離れることなく門弟を指導しました。

黙翁のことを知った小田原藩主は、彼を江戸に招きました。

二度ばかり、江戸に行ったのですが、二度とも一年で帰郷しています。

門弟には姫路藩の儒者など多数いました。

黙翁は、天明五年(1785)75才で没しました。

現在、玉田家は絶えています。

が、野尻には、玉田姓が多く、35軒中何と玉田姓は26軒を数えています。

玉田黙翁の私塾・虎渓精舎跡へ案内してくださった方も玉田さんでした。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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