「日の丸」掲揚
兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和15年4月号)に次のような記事がある。
(兵庫協和会)加古川支会 2月11日
紀元節当日における会員の国旗掲揚状況を指導員と共に視察したるも、いずれも実行しおりたるが、会員中不実の者あり、注意を与えたるもの5名あり・・・
![1889b3a1 1889b3a1](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/a9/c77f527354e6ea611cd8954e4a7bed19.jpg)
戦時下の日本では祝祭日、記念日等には国旗を揚げることが義務化されていたが、朝鮮人には「必要」との認識はなかった。
協和会は、事業の一つとして「日の丸」の掲揚をきめた。
そして、協和会役員(特高課員)が監視にまわり、揚げていない家には強く注意したのである。
祝日、戦勝記念日は、「日の丸」を掲揚せざるをえなかったが、朝鮮人にとって日の丸掲揚は、強制以外のなにものでもなかった。
創始改名
兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和15年4月号)に次の記事が続く。<o:p></o:p>
標札掲出に関する件
「(加古川)支会において標札を正会員(戸主のこと)ならびに同居者等170枚作成し、2月25日、指導員を経て配布、即日掲出せしめたり」
朝鮮で、氏制制度を創設する(日本式の姓名にするという)創氏改名(そうしかいめい)が実施しされるのは、1940年(昭和15)2月11日である。
2月11日は、紀元節であり、この日を期して内鮮一体を具現する政策として実施された。
創氏改名は、朝鮮民事令の「改正」であったが、当然在日朝鮮人にも適応された。
国内で、創氏改名は市町村の行政機関で取り上げずに協和会が実施機関となった。
はじめは、日本式でなくとも金・李・朴等を姓として届ければよいという法令であったが、実施過程で日本式の名前が強制されていった。
先の、加古川支会の標札の件であるが、日本式改姓を目指したものであったが、この時どの程度日本式の姓にしたのか分からない。
実施には混乱が生じたが、後の経済統制の中で米の配給簿、衣料切符の入手等に日本式氏名がないと日本国内での生活が保障されないということになり、在日朝鮮人のほとんどが日本式の姓に変えていかざるをえなかった。
皇民化政策
兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和18年8月号)の記事である。
◇加古川支会
指導員会 (6月)1日に支会開催、出席者支会長以下22名
総 会 (6月)16日午前8時より加古川公会堂において、会長代理、支会長以下役職員242名出席総会を開催せり
◇高砂支会
指導員会 (6月)14日に支会開催、出席者支会長以下36名<o:p></o:p>
常 会 次事項に付、担当区別常会を開催せり
一、 時局の現況及び日本精神の昂揚に就いて
一、 防空思想の普及徹底、隣組相互訓練出動励行方の件
一、 国語の習得並に衣服の内地化に就いて
6日 別府町公会堂 出席者幹事長外 87名
11日 高砂町協和会館 出席者幹事長外 79名
16日 尾上村公会堂 出席者幹事長外 47名
戦況の悪化に伴い、時局報告と日本精神を強調し、朝鮮人の中から“皇民”としての自発性を引き出そうとした。
同じ時期、他の支会では盛んに神社参拝を強要している。
なお、朝鮮では1925年に、現在のソウル南山に天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神宮」(写真)を竣工していたが、1939年には百済の故地、扶余(プヨ)に「内鮮一体」のシンボルとして「扶余神宮」を創立した。<o:p></o:p>
その「扶余神宮」へ加古川協和会から延田甲伊、高砂協和会から坂平勇が勤労奉仕と視察を兼ね出かけている。朝鮮名は、分からない。
この時期、在日朝鮮人の皇民化政策をいそいだ。
◇挿絵は韓国の国花の槿(むくげ):槿は夏から秋にかけて毎朝咲きかわり、咲き続ける。朝鮮では槿を「無窮花(ムグンファ)」“かぎりなく咲き続ける花”ともいい、主権を奪われた朝鮮民族はムグンファを慰めとし、はげましとした。