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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

続・加古川の戦争(16):陸軍航空通信隊尾上教育隊(2)

2013-12-15 13:37:52 |  ・加古川の戦争

 戦後、一部は浜ノ宮中学校校舎として利用
      
<陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図>
 
 戦史研究家・上谷昭夫氏のパンフに「陸軍航空通信学校・尾上教育隊の配置図」があるので掲載させていただいた。
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終戦後の一時期、加古川飛行場を管理した連合国占領軍が、兵舎として利用したこともあった。また、兵舎の一部は浜ノ宮中学校としても利用された。
 現在、この教育隊のあとに次のような説明がある。読んでおきたい。
 <教育隊跡地の説明> 
 「当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。
 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。
 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました」
 加古川第一陸軍病院
 なお、上記の図の左端(西端)病院がある。説明をしておきたい。
 この病院は、昭和12年(1937)に加古川飛行場に付属する「加古川陸軍病院」として開設された。
 診療は、内科・外科・眼科があり、歯科は姫路陸軍病院へ行かねばならなかった。
 昭和16年に、神野兵舎付属の陸軍病院(現在の「(私立)甲南加古川病院」)が開設されたので、名称を「加古川第一陸軍病院」と改めた。

<o:p></o:p>

 

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続・加古川の歴史(15):陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)

2013-12-15 08:25:14 |  ・加古川の戦争

 Kyou_023加古川は小軍都であったが、幸い大きな空襲から免れた、「もし」もう少し戦争が長引いておれば、大災害は免れなかったと思われる。加古川の戦跡については「加古川の戦争」をご覧ください。
 「続・加古川の戦争」では「陸軍航空通信学校尾上教育隊」について少し加えて、終わりとしておきたい。
     陸軍航空通信学校尾上教育隊(1)
 浜国道がすぐ隣に走るが、騒音は気にならない。静かである。
 陸軍航空通信学校尾上教育隊施設跡(写真)は、松の木漏れ日の中で戦争があったことを伝えている。
   陸軍航空通信学校尾上教育隊跡(写真)
Kyou_010
 加古川市尾上町の浜の宮公園には、陸軍航空通学校『尾上教育隊』の兵舎の跡が残る。
 ここで学んだ少年兵たちが住んだ兵舎の名残である。
 ここで学ばれたKさんは、「外出できたのは一度か二度、夜は上官の制裁が日課のようでした」と厳しかった生活を証言されている。
 航空教育隊は、昭和1375日、朝鮮の平壌(ピョンヤン)で編成され新兵の教育を実施した。
 昭和1625日、加古川に移駐し、その後、紹和18917日、加古川航空通信学校として改編した。
 さらに、昭和2053日、加古川で編成『陸軍航空通信学校』の教育隊として改編し、通信隊は、主として少年飛行兵の教育を担当した。
また、昭和1941日に新設された陸軍幹部候補生第1期生(旧制中学校三年修了以上)が入校した。
 1,800名(跡地の説明板では、1500名)が在校した。
 *戦史研究家(上谷昭夫氏)の研究、参照
 *写真(上):通信隊航空学校の跡地(現状)、(下):同学校の記念碑

 

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続・加古川の戦争(14):「終 戦」

2013-12-14 08:09:28 |  ・加古川の戦争

  「終 戦」
010 
かくして、815日正午、ラジオを通して、「大東亜戦争終結二関スル詔書」(敗戦)が、天皇の声によって伝えられた。
 残念がる人、怒る人、内心ホッとする人、それらの感情がない交ぜになった気持ちを抱いた国民も多かった。
 残念ながら、「終戦」に対する人々の気持ちが表現されたような史料は、加古川地域では目にすることは出来ない。
 しかし、空襲に不安を抱いていた人々にとって、それは、不安な昼夜からの解放であり、日がたつにつれ、それが、実感されていったことは、想像に難くない。
 
 456月、本土決戦のための組織として、文字通り国民総動員で結成された国民義勇隊も、敗戦とともに解散することとなった。
8
20日、加古川国民学校で、「大東亜戦争終結二関スル詔書奉読式」が行なわれた。<o:p></o:p>

 その「訓話要項」では、アメリカの「新しい爆弾の使用」と、ソ連の宣戟に「戦闘の停止」の原因を帰すとともに、「大御心に帰一」する以外ないことを強調し、悔しさを惨ませながら、次のように語っている。
 「私からも、また先生方からも度々皆さんに対して必ず勝抜くといふことを話して来ましたが、この様になって勝つことが出来なくなってしまったのであります。
天皇陛下の仰せのままに戦争をやめねばなりません(中略)今回の新しい爆弾にしても、もし、日本がこれを使うことが出来ていたら、こんな事にならなかつたかも知れません」
こうして、1937年(昭和127月の日中全面戦浄の勃発数えても8年に及ぶ戦争は、ここに終わった。
 加古川地域の人々も、これから一体どうなるのだろうという大きな不安を抱きながら、占領軍の進駐を待つこととなる。戦争で、空襲で、家族を、家を、あるいは職を失った人々の不安は、さらに深かったであろう。
とりわけ加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、1820人にも及んだ他市町村よりの「転入罹災者」(313日現在)は、どのような気持ちで新たな時代を迎えたのであろうか。
 焼跡・闇市、食糧難の戦後、そして同時に混沌としつつも活気ある戦後は、スタートを切った。
 *『加古川市史(第三巻)』参照
 *写真:戦没者碑、(大野・常楽寺)<o:p></o:p>

 

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続・加古川の戦争(13):協和会(2)

2013-12-13 08:14:32 |  ・加古川の戦争

 「日の丸」掲揚
 
兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和154月号)に次のような記事がある。
(兵庫協和会)加古川支会
 211
 紀元節当日における会員の国旗掲揚状況を指導員と共に視察したるも、いずれも実行しおりたるが、会員中不実の者あり、注意を与えたるもの5名あり・・・
 1889b3a1
戦時下の日本では祝祭日、記念日等には国旗を揚げることが義務化されていたが、朝鮮人には「必要」との認識はなかった。
 協和会は、事業の一つとして「日の丸」の掲揚をきめた。
 そして、協和会役員(特高課員)が監視にまわり、揚げていない家には強く注意したのである。
 祝日、戦勝記念日は、「日の丸」を掲揚せざるをえなかったが、朝鮮人にとって日の丸掲揚は、強制以外のなにものでもなかった。
    
創始改名
 兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和154月号)に次の記事が続く。<o:p></o:p>

  標札掲出に関する件 
 「
(加古川)支会において標札を正会員(戸主のこと)ならびに同居者等170枚作成し、225日、指導員を経て配布、即日掲出せしめたり」
 朝鮮で、氏制制度を創設する(日本式の姓名にするという)創氏改名(そうしかいめい)が実施しされるのは、1940年(昭和15211日である。
 211日は、紀元節であり、この日を期して内鮮一体を具現する政策として実施された。
 創氏改名は、朝鮮民事令の「改正」であったが、当然在日朝鮮人にも適応された。
 国内で、創氏改名は市町村の行政機関で取り上げずに協和会が実施機関となった。
 はじめは、日本式でなくとも金・李・朴等を姓として届ければよいという法令であったが、実施過程で日本式の名前が強制されていった。
 先の、加古川支会の標札の件であるが、日本式改姓を目指したものであったが、この時どの程度日本式の姓にしたのか分からない。
 実施には混乱が生じたが、後の経済統制の中で米の配給簿、衣料切符の入手等に日本式氏名がないと日本国内での生活が保障されないということになり、在日朝鮮人のほとんどが日本式の姓に変えていかざるをえなかった。
     
皇民化政策
 兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和188月号)の記事である。
   
加古川支会
  指導員会 (6月)1日に支会開催、出席者支会長以下22
  総 会  (6月)16日午前8時より加古川公会堂において、会長代理、支会長以下役職員242名出席総会を開催せり
   
高砂支会
  指導員会 (6月)14日に支会開催、出席者支会長以下36<o:p></o:p>

   常 会   次事項に付、担当区別常会を開催せり
   一、 時局の現況及び日本精神の昂揚に就いて
   一、 防空思想の普及徹底、隣組相互訓練出動励行方の件
   一、 国語の習得並に衣服の内地化に就いて
    6日 別府町公会堂 出席者幹事長外 87
   11日 高砂町協和会館 出席者幹事長外 79
   16日 尾上村公会堂 出席者幹事長外 47名 
 
 戦況の悪化に伴い、時局報告と日本精神を強調し、朝鮮人の中から皇民としての自発性を引き出そうとした。
 同じ時期、他の支会では盛んに神社参拝を強要している。
 なお、朝鮮では1925年に、現在のソウル南山に天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神宮」(写真)を竣工していたが、1939年には百済の故地、扶余(プヨ)に「内鮮一体」のシンボルとして「扶余神宮」を創立した。<o:p></o:p>

  その「扶余神宮」へ加古川協和会から延田甲伊、高砂協和会から坂平勇が勤労奉仕と視察を兼ね出かけている。朝鮮名は、分からない。
 この時期、在日朝鮮人の皇民化政策をいそいだ。
挿絵は韓国の国花の槿(むくげ):槿は夏から秋にかけて毎朝咲きかわり、咲き続ける。朝鮮では槿を「無窮花(ムグンファ)」かぎりなく咲き続ける花ともいい、主権を奪われた朝鮮民族はムグンファを慰めとし、はげましとした。

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続・加古川の戦争(12):協和会(1)

2013-12-12 08:40:18 |  ・加古川の戦争

  「協和会」は特高警察が担当
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 「協和会」という名を聞かれたことがあるだろうか。
 1945年(昭和20年の敗戦まで)、200万を越える朝鮮人が日本に住んでいた。
 この原因は、朝鮮における日本の植民地支配・収奪がきびしく、農村の暮らしが成り立たなくなり、日本や中国の東北地方に流浪する人が増えたためである。
 また、1939年からは、朝鮮からの労働者の強制連行が始まったためである。
 日本政府は、彼らの取締りと、戦争遂行に必要な労働力、軍人・軍属への協力のため39年(昭和14年)中央協和会を結成し、そして地方にも協和会を結成させた。
 この協和会についての研究は進んでおらず、ましてや、地方段階の協和会の実態の詳細については、ほとんど知られていない。
 地方の協和会は、各警察署が担当した。
 加古川・高砂地方では、加古川警察署が監督する加古川支会(加古郡)、高砂警察署が監督する高砂支会、魚橋警察署が担当する魚橋支会(印南郡)がおかれた。
 高砂警察署は、高砂町だけでなく荒井・伊保・尾上・別府・阿閇(現:播磨町)・二見町と海岸部を担当した。
    
 勤労労奉仕
 協和会の支会長には警察長が、幹事長には特高課長がついた。幹事は、特高課内鮮係が担当した。
 朝鮮人戸主は、すべて会員とされ、協和会会員証の所持が義務付けられた。<o:p></o:p>

  協和会に入っていなければ配給も受けられなかった。在日朝鮮人は協和会の統制を離れて生きてはいけなかった。
   
勤労奉仕
 はじめは、協和会員は神社参拝・清掃作業や村道の修理等の奉仕が多かったが、戦争が激しくなるにつれ、農村の労働力は不足し、農村への勤労奉仕が多くなった。
 協和会員が、農村に動員された次の記録(『兵庫県社会事業』昭和181月号)がある。
   
加古川支会 
 昭和17111620日 午前8時~午後4
     活動地域  加古郡天満、八幡、阿閇(現:播磨町)村 延べ208<o:p></o:p>

  高砂支会  
 
昭和17111617
     活動地域  加古郡高砂町、別府町、尾上、荒井村 延べ321
   
魚橋支会  
 昭和17111820日  128910
     活動地域  印南郡平荘村、米田村 延べ156
   強制貯金
 日本人より賃金を差別され、低賃金であった在日朝鮮人にも、日本軍への献金が実にさまざまな形で要求された。
 当然、貯金は多く集まらなかった。そのため、次第に強権的に貯金が集められるようになった。
1939
年(昭和14)、協和会加古川支会では次のような決定がなされた。
正会員は一口三十銭の国民貯金に加入せしめ、毎月指導員之を徴収貯蓄励行をなさしめること」 (兵庫県社会事業』昭和154月号)
*写真:加古川警察署(大正12年撮影)、『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』(国書刊行会)参照

<o:p></o:p>

 

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続・加古川の戦争(11):空襲と加古川地域(2)・加古川駅の空襲

2013-12-11 08:12:06 |  ・加古川の戦争

  増える空襲警報
Photo
 
1945年(昭和20)になり、米軍の中小都市への攻撃を強化した。
 米田国民学校の日誌では、1945年(昭和20)7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなった。
 警戒警報 にいたっては、この1カ月に23回も発令された。
 この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻であった。
 隣接する三木に軍の航空施設が出来ていた八幡村 では、7月、「空襲激化せしため、初等科4年以下児童のために毎二分散教場を設置す」という処置をとった。
    
 加古川駅の空襲
 Photo_2
 そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲った。
 『加古川市誌(第一巻)』に、723日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷3の犠牲が出たとされる。
 しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようである。
 同報告書は、被害を死亡3、重傷3、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝える。
 「加古川小学校の学校沿革誌」も、「本町に始めて米機の機銃射撃並に小型爆弾投下あり、校舎児童共に被害なし」と記した。
 また、氷丘小学校の「学校沿革誌」も、「空襲のため全日授業停止、加古川駅附近機銃掃射を受ける」と特筆している。
 死者3、重傷3という数字は、数字だけ比べれば、神戸空襲などの悲惨さに遠く及ばない。しかし、それは、一人の人間の一生を左右するのである。
 7月28日には、別府町が、米軍小型機の襲撃をうける。
 さらに、730日加古川町は、二度目の空襲に見舞われる。加古川小学校の「学校沿革誌」は、「加古川町に、第二回日米機の来襲あり、被害軽微」と簡単に記す。
 だが、『加古川市誌』第一巻によれば、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾10数個が落下し、死者2銘、負傷者数名がでたという。
 この日の空襲は、加古川町だけではなかった。尾上小学校「学校沿革誌」によれば、「米艦爆機尾上村池田に小型爆弾投下、硝子25枚、講堂天井破損」と、尾上村への空襲の被害を伝える。
 また、別府町にも、被害はなかったとはいえ、この日、前後四回、米機が機銃掃射を行なったという。
 加古川地域も、事実上、戦場化しつつあったのである。
 八幡小学校の「学校沿革誌」は、7月の項で、以下のように記している。
 「空襲激化せしめた。初等科4年以下児童のために毎に分教場を設置す」
 さらに、82日にも、別府の沖合に停泊中の汽船に空襲による被害が出、加古川町でも、死者2、重傷7・軽傷4の犠牲があったという。
 
*挿絵2枚:グラマン機による加古川駅攻撃(挿絵を描かれた方を捜しています)<o:p></o:p>

 *『加古川市誌(第一巻)』『加古川市史(第三巻)』参照<o:p></o:p>

 

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続・加古川の戦争(10):空襲と加古川地域(1)

2013-12-10 08:00:34 |  ・加古川の戦争

 空襲と加古川地域 
 
加古川市域の各小学校の 学校沿革を見ていくと空襲への対処と、空襲の状況がある程度わかる。
 
 しかし、氷丘小学校の1944年(昭和)191215日付の「学校沿革誌」が「敵機初めて阪神上空に現わる」と記述するとおり、なお、加古川市域の人々にとって12月初めまでは、空襲は「よそ事」だったといえよう。
 
 空襲警報・警戒警報
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  しかし、緊迫感は、次第に強まっていった。

 
 そして、ついに1945年(昭和20223日の氷丘国民学校の記事は、「警報頻発に伴い、今後は解除後登校授業を継続す」と述べている。
 
 空襲に対する警戒警報が、日常化しつつあったことが、うかがわれる。
 
 315日、閤議は、39日から10日の惨憺たる東京大空襲の体験をうけてか、空襲に対処し、大都市における疎開強化を決定する。
 
 新たな疎開者が、加古川市域にどれくらい流入したかは、資料が少なく、詳らかに出来ない。
 
 加古川地域自体にも、「空襲の恐怖」が現実化しはじめていた。空襲警報・警戒警報の発5月に入ると、「印南郡米田国民学校日誌」の空襲警報・警戒警報の記事は、頻度を増す。

 空襲警報は、3日・5日・11日・14日の4回発令され、解除の時間までの時間は3回分だけで、発令された時間は、2時間20分に及んだ。
 
 また、警戒警報も、3日・12日・19日・24日・25日と出された。
 
 6月、米田国民学校の日誌によれば、加古川地域の空襲警報・警戒警報の発令は、さらに日常化した。
 
 6月の空襲警報発令は、8回に及び、発令時間・解除時間ともに記載があり、5回分だけで、11時間弱にわたった。警戒警報も、8回発令される。
 
 この状況のもと、加古川国民学校では、613日、八幡国民学校でも、22日、ともに「御真影」を加東郡の三草国民学校へ「奉遷」するのである。
 
 こうして加古川地域でも、空襲への対応が、遅まきながら進められていくのであった。
 
*『加古川市史(第三巻)』参照
 
*絵:加古川駅付近から見た神戸空襲で燃える神戸

 

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続・加古川の戦争(9):食糧増産

2013-12-09 08:07:06 |  ・加古川の戦争

  食糧増産
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ガダルカナルから撤退し、5月には、アッツ島も王砕する。
 
その中で、6月4日、閣議は、休閑地の動員による雑穀増産などを内容とする食糧の応急対策要綱を決定する。
 
これをうけて、624日、犬政翼賛会印南郡支部長、Mは、各町村支部長に対して、「食糧非常増産運動実施」を通牒した。
 
この通牒は、第一に、河川敷・空地・荒地・工場建設予定地・公園・緑地・庭園などには、蕎 ・粟・大豆・南瓜などを作れと指導する。
そして、第二には、食糧増産の障害となっている労働力の不足に対しては、共同耕作を農村に求めるとともに、「不足勤労力」に対して、「都市住民の勤労報国隊並に学校報国隊等は全面的に出動をなすこと」を要請した。
 第三に、「作付地、種子等の斡旋」をあげるとともに、第四に「自給肥料及自給飼料大増産」のため、「挙国草刈大運動」の展開を強調した。しかし、食糧難は、深刻化の様相を強めていく。翌44年(昭和19)に入ると、各町村から、満14才以上、19才以下の男子で「農家の後継者たるべきもの」を選抜して、食糧増産隊を編成するように命令された。
食糧増産に空き地をどれくらい利用しているかについても、細かい調査が指令される。<o:p></o:p>

 史料が残っている522日の、別府町長の報告によれば、山陽電車軌道敷・工場予定地及周辺地・社寺境内・校庭・病院などで12.6反の土地に、犬豆・雑穀・サツマイモ・ナンキン・漬菜などの栽培を計画し、8.5反で実行したという。
 もう一つの食糧増産の院路であった肥料不足は、どうだったのだろうか?
    糞 尿
 1945年(昭和20)3月、片山加古川町長は、予算の説明の中で、町民に野菜を供給するため、「天満村農業会と交渉し野菜の供給を受けることとなる、これが交換条件として本町より生ずる屎尿を先方に与えることとす」と語っていた。
 
 加古川地域に、肥料不足に関わる史料が、相対的に少ないのは、「神戸肥」をはじめとする都市部の糞尿の存在があったと考えられる。<o:p></o:p>

  *『加古川市史(第三巻)』参照<o:p></o:p>

 *写真:尾上小学校の農業実習風景(運動場を耕す)

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続・加古川の戦争(8):学童疎開(2)・河原の葬列

2013-12-08 09:44:55 |  ・加古川の戦争

 河原の葬列
Photo_2
 写真の石碑は、昭和50年に学童疎開を記念して、妙正寺(志方町横大路)の境内に建てられた記念碑である。
碑文を読んでみたい。
  昭和五十年五月十八日
  回顧 三十年
  神戸小学校百船会 
 
      
原の葬列  
           3年 原田幸次郎
 (省略)
 ・・・・集囲疎開の八カ月の生活の思い出は、今でも鮮明なのは不思議なことです。
やはり、集団の中で要領を良くし、時には策略も必要となり、結構大人への段階を早く昇っていたのかも知れません。
 イナゴやセリが食えるものだということを知っただけでなく、浴衣姿の女性教飾に感じたときめきは家庭では決して経験しないことでした。
  
   荼毘は河原で         
 そのころは小国民という言葉があり、玉砕のニュースや空襲で子どもにも「死」という言葉は身近なものになっていました。
 この「死」のはかなさと哀れを私に教えた悲しい水死事故が終戦になった頃の疎開地で起きたのです。
 近くの川で一年生か二年生だったMが溺れて亡くなり、その葬儀がその現場河原で行われました。
 河原には組んだ木が積み上げられ、Mの遺体はみんなの前で茶毘に付されました。
 暑い熱い夏の日の午後、黒い炎と共に幼い疎開学童が一人、家庭の団欒に戻ること無く短い生命を終えてしまったこの日の風景は、疎開の思い出の中で一際鮮烈なものになっています。
 あの日から五十年(平成七年の文集執筆当時)が経ちました。
 Mがあの事故にあっていなかったら日本の高度経済成長と共に生き、家庭をつくり、そろそろ定年を迎える幸福な人生を送ったに違いありません。
 偶発的な出来事とはいえ、Mやその家族にとっては疎開がその運命を変えてしまったと思える事でしょう。
 私にとって学童疎開は親や兄弟と違う他人と初めて集団生活をした「道場」のようなものでした。
 成長の上で得るものも多くありましたが肯定は出来ません

 
 (以下略)
 
*写真:学童疎開の記念碑(志方町横大路・妙正寺)

 

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続・加古川の戦争(7):学童疎開(1)

2013-12-08 08:26:18 |  ・加古川の戦争

 学童疎開(1)・学童疎開追想(集)
Photo
 
学童疎開(がくどうそかい)は、第2次世界大戦末期の日本で、アメリカ軍の空襲などによる被害をさけるためおこなわれた大都市の小学校(当時は国民学校)児童の農村部への移住政策である。
 1943(昭和18)末から親戚などをたよる縁故疎開がはじまり、44(昭和19)6月に学童疎開促進要綱を政府は決定し、半強制的な集団疎開となった。
 このとき対象となった都市は、東京都区部・横浜・川崎・大阪・神戸・名古屋など13都市で、対象児童は初等科36年生であった。
 1945(昭和20)3月からはさらに疎開政策が徹底化され、12年の児童もふくむ全員疎開が目標になった。
 敗戦までに集団疎開した児童は約45万人に達したという。
 疎開先は主に農村部の寺院などで、こうした集団生活では、食糧難や親元をはなれた生活な不安、農村との生活習慣の違いなどでいろいろな混乱や悲劇がおきた。
 最終的に都市への引き揚げがおわったのは敗戦の3カ月後の1945(昭和20)11月であった。
     
志方への学童疎開
 志方町の散策をしていた時、神戸の児童が志方町への学童疎開があったことを知った。
 そして、かつての「疎開児童」は、平成6(1994)10月、疎開先の妙正寺(志方町横大路)等を訪問し「同窓会」をされた。
 そして、その後、当時の体験を「学童疎開追想」と題した文集にまとめられた。
<o:p></o:p>

 (文集)『学童疎開の追想』の一部を読んでみたい。
*写真:文集『学童疎開追想』(神戸小学校学童疎開追想編集委員会)
<o:p></o:p>

 

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続・加古川の戦争(6):ガダルカナル島の敗戦

2013-12-07 08:01:33 |  ・加古川の戦争

      ガダルカナルの敗戦
 
開戦当初の華々しい勝利は、国民を熱狂させたが、19476月のミッドウェーの戦以来、日D0ef3c5c
本軍は敗戦を続けた。
 特に、翌年の2月のガダルカナル島での玉砕以降は、もはや国民から敗戦を隠すことはできなかった。
 加古川地方では、ガ島の玉砕をどう伝えたのだろうか・・・
 西志方役場の史料から見ておきたい。
 *史料は、読みやすいように、書き変えています。原分は『加古川市史(第六巻)』をご覧ください。
   ガダルカナル戦をどう伝えたか
 ガ島作戦部隊の戦略展開は遠く、長期にわたり、その勇敢な奮闘の偉績は、さんぜんとして戦史に輝くものです。
 そして、部隊は、その作戦任務にかんがみ、兵の遺骸をすべて収容できなかったものもあり、また、収容できたが火葬をする事ができず埋葬したものもあります。
 また、海上、水際における戦闘では海没して浮かばなかったものや、粉砕して、ついに収容できなかったものもあります。
 遺族は嘆き悲しむ事もあったでことしょう。
 英霊の取扱に関し、その真相を明らかにいたしたいと存じます。
    遺骨の取扱について
 前述の如く作戦の特質上、遺骨は必ずしも還らざる場合もあるでしょうが、英霊は必ず還るのです。
 この英霊を先ず原隊に還送したる上、それぞれ遺族に交付したのです。<o:p></o:p>

 そのため、「この箱内には遺骨があると考えるよりは、英霊を収め参らせしものなりとの考えをしていただきたい」のです。
 遺骨のない場合、もし万一、砂・土等を収容してありましたならば、それは亡くなられた現場の砂・土であり、そこに英霊の宿りしものと考えて、せめてもの形見として遺族に送らんとする隊長、または同僚の優しい武人の情より出でたるものに外ならないのですから、決して遺骨を粗略にするが如き考えをしてはいけないことは当然です。
 戦場での部下を失える上官の悲しみ、同僚を失へる戦友の心事、英霊に対する尊敬の心は到底、想像しできないものがあります。
 砂・土・石等の外に、特に戦地において、取り行へる慰霊祭に用ひたる白木の柱、その他、英霊を先ず原隊に還送したる上、夫々遺攘に交付したのです。
 砂・土・石等の外に特に戦地において、執り行なった慰霊祭に用ひたる白木の柱、その他の祭祀用具を焼きし灰、または、これを削ったもの、あるいは、霊前に供へたる供物の一部、殊に野菜・果実等は腐敗するものは、特にその皮等の一部を、いわゆる分霊として収容したものもあります。
 *『加古川市史(三・六巻)』参照
 *写真:ガダルカナル島をうめる日本兵の死体

 

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続・加古川の戦争(5):国民学校

2013-12-06 10:23:05 |  ・加古川の戦争

 国民学校の誕生
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 1941(昭和16)41日から、従来の小学校は、国民学校へと名称変更した。
それは、ネーミングの変化に止まらず、重大な内容の変化を伴った。
それに先立ち、315日、加古川小学校は、小学校としての「最後」の卒業式を迎え、その際なされた「昭和15年度卒業式式辞」の内容は、極めて重要である。
校長は、卒業式で歌う「仰げば尊し」を例として、以下のように述べた。
    
「仰げば尊し」は・・・
 ・・・・「仰げば尊し」の唱歌の中にも「身を立て名を挙げ、やよはげめや」と言ふ文句にあらはれておりますが、総てこれまでは学校で勉強するのも、社会で職業について働くのも、結局は自分が偉くなって立身出世するため、お金儲けをするためと考へてしまっていたのあります。
 ところが、この考えが今日では西洋流の個人主義自由主義の古い時代の考え方であって、日本が独往の新体制を確立した今日、最早こんな考へ方は一日も早く国民の心から除き去らな ければならぬのであります」
 それまで自明の価値観であった「立身出世」主義が、「西洋流の個人主義 自由主義」として、否定されてしまったのです。
 そして、この訓話は、「昭和新体制に於ける 日本国民の生きる目的は天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼し奉ることのみ」だと断じています。
 そして、326日の「昭和15年度修業式訓話」でも、4月からの国民学校でのあり方にふれて、以下のように述べている。
     
成績の評価の低下
  ・・・・国民学校は特に体の達者な活発な、しかも真面目な子供をつくることを最も大切な仕事としています。
 元気一杯でしかも真面目である人は国民学校の一番よい生徒であります。また、そんな人がやがて立派な日本国民になることか出来るのであります。・・・
 勉強の比重は、大きく下がる。つまり、「国民学校では、今までの小学校と違って、できるだけ外に出て、日に当り、運動をして、立派なよい体をつくることを第一の仕事として、「科目の成績がよいからといつてほめる必要はない」という教育方針に変化した。
 そして、皆勤賞・精勤賞・優等賞が廃止された。
 すなわち「国民学校は学科の勉強だけをするところではなく、日本人としての魂を練るところ」というのが、その前提をなしていた。
 *『加古川市史(第三巻)』参照
 *写真:尾上国民学校時代の正門と校舎<o:p></o:p>

 

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訂正とお詫び

2013-12-05 19:37:48 |  ・加古川の戦争

  続・加古川の戦争(3)はコピーミスで(2)と同じ内容になっていました。

 改めて(3)を投稿しましたので、ブログの順序が(4)の後に(3)なっています。ご了承ください。お詫び申し上げます。
 今後ともご指摘・ご意見等をお寄せ下さい。

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続・加古川の戦争(3):教育評価から見た戦争

2013-12-05 19:09:21 |  ・加古川の戦争

  教育評価から見る戦争
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 成績優秀が、1940年(昭和15)を迎えて、必ずしも、最高の評価基準ではなくなってきた。
 194092日の始業式訓話以降、大転換を遂げていく。
 92日の訓話は、「運動も勉強も皆自分のためなのでありますから、そのつもりでしつかりやつて立派派な大人になり、天皇陛下の仰せの通りに第二の国民として日本帝国を育てていかねばならぬという考をもたねばなりません」と述べている。
 それは、これまでになかった子供にまで、すべてを天皇に帰一することを求めるものにかわった。
 9月24日の訓話では、92日の上記の訓話は、さらに、修正されることになった。
 24日の訓話は、「我々国民とし一番大切な心掛は、天皇陛下のために働くような立派な人になることであります」に続き、「勉強も仕事も自分一人のためにするというような考えは西洋人の考え方であって、日本人との考えではありません」。
 つまり、勉強は、個人のためのものではなく、この新体制期、天皇のためのものと修正された。
    
成績の評価の低下
 その結果、10月(日付不明)の訓話においては、常に「自己のすべてを国に捧げる覚悟を以て暮らさねばならない」という点が、強調されることになった。
 学校における勉強や、その結果ともいえる成績の比重は、この1940年以降、低下していくこととなった。
 1022日の訓話では、次のように述べている。
 「世の中にはよく勉強も出来、 学問にも優れた人でありながら、実際上の事柄に当ってはしつかりとした意見が立たず、物事について考え違いをして失敗するような人も少なくありません」
 どう見ても、「勉強が出来る」ことへの否定面が強調されるようになった。
 また、1221日の訓話も、以下のように語っている。
 
 「誰も彼もが勉強に力いっぱいさえしていれば、たとえ勉強が少々出来なくても日本一えらい子供になれるのであります」<o:p></o:p>

 体制・大政翼賛会の誕生の中で、勉強や成績に対する、小学校のスタンスは、従来とはまったく異なったものとなっていきました。
 *『加古川市史(第三巻)』参照<o:p></o:p>

 *戦前の朝の授業風景(加古川小学校)『加古川・高砂の昭和』(樹林舎)より<o:p></o:p>

 

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続・加古川の戦争(4):紀元二千六百年

2013-12-05 08:54:51 |  ・加古川の戦争

  211日は「建国記念の日」。この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀2600
式をし、昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるという。
 氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されている。
 この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えていった。
 皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味があった。
    
紀元二千六百年(昭和15年)<o:p></o:p> 

この「紀元二千六百年」、いかに人々に大きな影響を与えていたかは、別府小学校の「皇紀二千六百年念事業」を見るだけで十分である。
前年の193912月、別府町の学務委員会で最終決定をみたこの事業は、なんと「百年据置貯金」の実行である。
 つまり、別府小学校の職員・児童が、毎月一日に金一銭をきょ出し、百年間据え置こうというのであった。
 そして、19401210日、紀元二千六百年奉祝の記念式典が開かれた。
また、加古川小学校でなされた「紀元二千六百年奉祝式典に関する訓話」は、この日を 「一億一心の理想八紘一宇の大精神の実現に各自の本分に邁進せんことを、お誓いし上げる日」と位置づけている。
 そして、この日、加古川町でも、次のような奉祝行事が実施されることとなっていた。
「・・・当日、 午前十一時から加古川駅前の広場で奉祝式典を行いまして 1125分の万才奉唱の時刻には、小学校児童の皆さんも青年学校の生徒も在郷軍人も一般町民の人々も皆一斉に心から万歳を唱へることゝなっています。
 一世一代の一日歳式の後、全員のラヂオ体操を実施し、尚其の後で旗行列を行ふことになっています」(加古川小学校長訓話より)
 紀元二千六百年奉祝を大きな結節点として、人々の意識は、当人たちは必ずしも自覚していなかったとはいえ、大きな変容を遂げていった。
 *写真は、氷丘小学校『創立80周年記念誌・くすの木』より

<o:p></o:p>

 

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