ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(165):いなみ野フットパス(39)・高堀②

2010-03-31 07:28:39 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_067 東播磨高校のすぐ東の橋は弁天橋です。

寺田用水の最大の難工事は、この弁天橋の下の谷のような溝を見ると容易に想像できます。

  高堀とは?

「高堀」について整理しておきます。

ここに立ち谷を見ると「堀が深く掘られているので高堀であろう」と、みょうに納得してしまいます。

でも、歴史用語として高堀は、高い堀(深い堀)の意味ではありません。

石見完次氏は『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活誌)』(神戸新聞出版センター)で高堀を、次のように説明しておられます。

・・・「高堀」は固有名詞ではなく、村高または、百姓各戸に応じて課役によって工事をした溝の意味で、近世、検田では石守村(現:加古川市神野町)六百石、水足村(現:加古川市野口町)が六百四十四石であるから、両方この割合で人夫または費用の負担をうけたのであろう。

つまり「高」によって、造られた掘割のことである。

・・・・

Fc2361ed_2 高堀とは「用水を利用する村々の高によって人夫・費用を分担して造った掘割のことである」と説明されています。

  寺田用水は自普請で

寺田用水は自普請でした。

自普請というのは工事の費用等は自分たちで負担するという意味です。

これに対して御普請というのは、工事の費用を藩が負担するという意味です。

この寺田用水は自普請であり、溝も当然「高堀」となりました。

*写真:弁天橋から北の高堀を見る

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稲美町探訪(164):いなみ野フットパス(38)・高堀①

2010-03-30 09:09:01 |  ・いなみ野フットパス

68be9d6a 今「いなみ野フットパス・天満の道」の●印の場所にいます。

県立東播磨高校のすぐ東の橋の上です。

この橋の下は高い谷になっています。この谷は寺田用水で、この部分は高堀です。高堀の話をしましょう。

*今回の文章・内容は「稲美町探訪(108):曇川⑫・寺田用水」と重なります。合わせてご覧ください。 

高堀(たかぼり)①

Inamimachi4_065 江戸時代の初めのころ、寺田池(加古川市平岡町)の水源一帯に幸竹新田などの村々が誕生し、多くの池が造られました。

そのため、平岡地区の重要な水源である寺田池に十分な水が集まらなくなり、新しい水源が求められたのです。

寺田用水です。

寺田用水は曇川の上流(国安川)から水を引き、寺田池・平岡方面へ、そして野口方面へも水を送りました。 

しかし、曇川の水を寺田池・野口方面まで引くとなると、途中の高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。 

曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。 

水は、この高い丘を水は越えなければなりません。 

そのために、曇川の上流(国安川)の比較的高いところに堰を造り、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。 

深い高堀の跡(写真)が残っています。

万治元年(1656)、曇川に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまり、寛文3年(1663)、水は高台を越えました。

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稲美町探訪(163):いなみ野フットパス(37)・二つの燈籠

2010-03-29 06:57:58 |  ・いなみ野フットパス

003 ・・・かつて、中一色村の入り口に長い石材を並べただけの橋があり、その橋の袂に燈籠が一基立っていました。(写真上)

いま、その橋は100メートルばかり西に移されて、コンクリートのしっかりした橋となっています。

燈籠も、この橋の傍らに移されています。

燈籠の正面には「池大明神」、側面には「文政六年四月建立」と彫られています。

中一色の伝承によれば、昔、中一色村から国安天満宮に燈籠一対を奉納しましたが、その後、村内に病魔の絶える間がなかったところから、返還してもらって一基は村の入り口に、他の一基(写真下)は中一色の天満宮に移したといいます。

この話の真偽はともかく、両者の燈籠の制作年代は、中一色天満宮の方は安政九年(1780)、村の入り口の方は文政六年(1823)43年もの隔たりがあります。(『稲美町史』p698~p699

少し、付け足します。

村の入り口の燈籠には道標としても利用されています。

側面に「西加古川、東野口」と彫られています。

おそらく、塔籠ができた後に「道標」として文字が刻まれたのでしょう。

   二つの燈籠は一対か?

Inamimachi4_076 『稲美町史』の記述を読んでいて二ヶ所が気になります。

一点目は、この燈籠は一対のものであったといわれていますが、『町史』でも指摘しているように、制作年代が43年も隔たっています。

制作年代が43年も隔たった燈籠を一対と考えるには、少し無理があるのではないでしょうか。

  一色村の入り口の燈籠は、

病気退治の願かけの燈籠か?

二点目は、橋の傍らの燈籠が製作されたのは、文政6年(1823)です。

文政6年は、江戸時代の終わりのころといいながらも、村人は神の存在を100%信じていた時代です。

この燈籠は、「病気退治の祈願の為に、天満神社から返還してもらった」といいます。

となると、単なる燈籠ではないはずです。

そんな、「願いのこもった燈籠に“右加古川、東野口”と文字を彫り込んで道標とするだろうか」ということです。

ちょっと考えられません。

となると、この二つの燈籠は一対のものではなく、その目的も病気退治の祈願ではなく、特に中一色の村の入り口の燈籠は、国安の天満宮か、中一色の天満宮への道沿いに奉納された燈籠と考えた方が無難のようです。

伝承を壊して申し訳ない。

かつて、中一色村に病気がはやったのでしょう。

これは、そんな口承がこの燈籠と結びついて生まれた伝承かもしれません。

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稲美町探訪(162):いなみ野フットパス(36)・中一色

2010-03-28 17:41:52 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_078  「いなみ野フットパス」は「天満の道」を歩きます。

最初からコースを少し外れますが、いま中一色の天満宮に来ています。

  「一色・いっしき」とは

一色(いっしき)の地名について考えてみます。

辞書で「一色田」を調べてみると、「荘園制で、雑税が免除されて年貢だけを出す田地」とあります。

もう少し「一色」について付け加えます。

「一色別納」という呼称が平安時代の文書にみえます。

以前に開発した土地が荒れはてて、朝廷はそれらの土地の再開発を奨めました。

「開墾すれば、その土地を私有させる」という令をだしました。

この令により有力な貴族や寺社は、競って私有地を広げました。

平岡町の一色は、摂津住吉神社から許可を受けて開発した新開地でした。

これらの新開地の土地は、税が軽く「一色田」と呼ばれました。

   一色(現:平岡町)からの移住か?

中一色は、江戸時代の新田村で、荘園制の「一色」とは関係ありません。

では、伝承のように中一色は、平岡町(加古川市)の一色から移住により成立した村でしょうか。

よく分かりません。

平岡町一色には、荘園制につながる字(あざ)等が残っています。

   中一色は江戸時代初期の新田村

中一色について『稲美町史』は次のように説明しています。

・・・(中一色)の最初の検地、高入れは承応2年(1653)で、高27241合とある。

この地の若宮天満宮(写真)は、寛永2(1625)創建であるので、寛永以前から開発が行われていたようである。

その後も開発がすすめられ、天保5(1834)に高31588合となっている。・・・

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稲美町探訪(161):いなみ野フットパス(35)・加古大池の水

2010-03-27 06:46:39 |  ・いなみ野フットパス

1044f304 350前の寛文年間(1660年代)、加古新村の開拓と同時に構築された北池、南大池、跡池、中池、五軒屋池(加古大池の旧池)5つのため池は、現在は一つになって加古大池と呼ばれています。

  県下一の容量を誇る加古大池

加古大池改修については『稲美町史』の記述をお借りしました。

・・・・各池は明治24年の淡河疎水の完成と共に、加古支線を通じて分水を受けるようになりました。

水源は一応安定をしたのですが、ため池の老朽化が進み、漏水量が多くなり、用水にも不足をするようになりました。

そのため、村を挙げて対策をたてました。

そして、県営事業で5つのため池を統合した大池として大改修を行うことになりました。

昭和16年2月に着工しましたが、その年の12月にはじまった太平洋戦争の影響をまともに受け、労力・資材の乏しい中で8ヵ年を費やし、昭和243月、県下第一の容量を誇る「加古大池」が完成しました。

・・・

加古大池と加古新村誕生については、「稲美町探訪15~19」を「東播用水」については「稲美町探訪(69)」をご覧ください。

   杞憂

Inamimachi4_054_2 加古大池に来ると、いつも思うことがあります。

「県下一の容量を誇る加古大池の水は十分にあるのだろうか」という心配です。

325日、以前に何回も歩いた大溝用水の堤防ですが、竹谷分水から近くの入ヶ池に分水される樋門までを歩きました。

雨の後、ここに来るのは初めてです。

「竹谷分水所」のところで合流した水が、加古大池への樋門を水が盛り上がって、一気に加古大池に流れています。

この水は雨水ですが、水の足りない時には呑吐ダムから送られてきます。

県下一の水量を誇る加古大池の水の確保は磐石のようです。

加古大池に流れ込むところに架かる橋にたちました。(写真下)

幅の広い橋です。

川面に浮かぶ木の葉が、ゆっくりと池に流れ込んでいることを教えてくれます。

「水が足りないのでは?」というのは杞憂のようです。

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稲美町探訪(160):いなみ野フットパス(34)・竹谷分水所

2010-03-26 08:44:02 |  ・いなみ野フットパス

「いなみ野のフットパス・加古の道1」で経ノ池までやってきました。

少しコースを外れます。

  竹谷分水所へ

Inamimachi4_046 経ノ池の北の土手に沿って、東播磨用水の「加古支線」(写真上)は真っ直ぐに西に続きます。

経ノ池の北西の角から2・3分、加古支線に沿って歩くと大溝用水に突き当たります。

そこが、竹谷分水所です。

近くを散策される時は、是非ここにも立ち寄ってください。

きのう(325)のお昼前、写真を撮りに竹谷分水所にでかけました。

菜種梅雨でしょうか、先週から雨の日が続いています。

午前中も雨でした。それだけに、水の風景はまさに圧巻でした。

  大溝用水と東播用水の水が合流して加古大池へ

Inamimachi4_044 一段高い所を流れる東播用水・加古支線の水は、勢をつけ大溝用水に滑り落ちていました。(写真下)

ゴオー・ゴオーと音をたてて・・・

地図を雨に濡らしながら場所をさがしたのですが、滝のような音で竹谷分水所の場所は、すぐに分かりました。

「稲美町探訪(156)」で、大溝用水について次のように書きました。

「東播用水の完成により、長年の願いであった印南台地の水不足の問題は解消されました。

加古地域への水は、呑吐ダムから練部屋分水所へ、そして加古支線を通じて通水されるようになり、そのために、大溝用水は補助的な用水のとなり、用水に面する田の排水溝として扱われるようになりました。

・・・・・

主役の座から降りた大溝用水は、人々から忘れ去られようとしています。

そして、今後の維持管理が大きな課題です」と。

大溝用水は、このあたりでは、バリバリの現役です。

大溝用水と、東播用水・加古支線の水はここで合流し、勢いを増して加古大池に水を供給します。

写真をご覧下さい。水の音が聞こえてきそうです。

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稲美町探訪(159):いなみ野フットパス(33)・経の池

2010-03-25 00:14:09 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_014 前号で紹介した「野谷(西谷)の道標」のある角を北へ少し行くと「経ノ池(きょうのいけ)」です。

土手に駆け上がると一挙に視界が広がる大きな池です。

気持ちがよい春の風が土手を越えていきます。

南の土手を東に歩いていると、闖入者に驚いたのだろう、カモがいっせいに飛びさりました。

百羽を越えています。

その後、二匹の大型のサギが悠々と飛びたちました。

水面に波が残っています。

    経ノ池は平安時代の築造

「経ノ池」について『稲美町史』は次のように書いています。

・・・経ノ池は、野寺の西にある大きな池で、大同元年(806)築造という口碑がある。

野寺の野は稲美野の略称で、この地方の中心になったところに建てられた寺の意であろうが、経ノ池の築造に当たって、野寺の僧侶の多くが、工事の完成を祈願して読経をしてので、「経ノ池」と名付けたと伝えている。

・・・

「経ノ池」の伝承は、いかにも野寺にある池らしい伝承です。

大同元年(806)は、平安時代の初期です。

大同元年はともかく「経ノ池」は、古い池で平安時代に築造された池と思われます。

しかし、戦国時代以前に今のような立派な池を造ることはできませんでした。

復習をしておきます。

雨の少ないこの地方の池は、雨水だけ大きな池を満水にすることはできません。

そのため川をせき止めるか、自然の流から水を引かねばなりません。

つまり、溝と池はセットで建設されねばなりません。

そのためには、測量技術等の農業技術が必要になります。

これらの土木技術が完成するのは戦国時代といわれています。

ですから、江戸時代以前の「経の池」は、今よりもはるかに規模の小さな池だったようです。

その後、江戸時代に、この地域の開拓が進み拡張されたのでしょうが、最終的に今のような大規模の池になるのは、淡河疎水の完成にともなう明治31(1898)の増築でした。

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稲美町探訪(158):いなみ野フットパス(32)・野谷(西谷)の道標

2010-03-24 08:26:35 |  ・いなみ野フットパス

「加古の道1」を過ぎ「加古の道2」を歩いています。

野寺の旧道を西へ歩き、集落が途切れるところに小さな道標(写真)があります。

この道標については、井原卓也氏が『東播磨の道標をたずねて』(神戸新聞出版センター)で紹介されているので、お借りします。

野寺(西谷)の道標

Inamimachi4_015 旧道沿いに置かれている道標。今でも字がはっきり読めるほど、状態はいい。

明石、加古川、三木、そして大山寺とそれぞれ四面ともに案内が書かれている。

元々この場所ではなく、この近くにあったそうだ。

近所の人が道路工事の時に自宅で保管していたとのこと。

そして、最近になり今場所においてある。

実際この通りに向かえば、今でもそれぞれの場所に向かうことができる。

   南 あかし

   西 (右に)かこがわ (左に)きたざいけ

   北 おのやしろ

   東 大山寺

    西 きたざいけ

話題が野寺から若干はなれます。ご了承ください。

西面は、二行に分け書かれており、左は「きたざいけ」とあります。

「きたざいけ」は、「北在家」(現:加古川市)であり鶴林寺のある集落です。

鶴林寺への道案内をしています。

鶴林寺は鎌倉・室町時代を中心として「太子信仰」により大いに栄えた寺院でした。

西ヘ向かう旅人は、野寺から鶴林寺へ足を運んだのでしょう。

この道標には、つくられた時代を表す銘はないのですが、江戸時代のものと思われます。

<一口メモ・太子信仰>

奈良時代末に聖徳太子を菩薩とあがめる説が現れます。

平安時代には聖徳太子は「救世観音(ぐぜかんのん)」と位置づけられたりしました。

その後、鎌倉・室町時代と苦難の多い時代は続きました。

太子信仰は、天台宗ともに鎌倉時代・室町時代に爆発的に広がりました。

聖徳太子に救いを求めたんですね。

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稲美町探訪(157):いなみ野フットパス(31)・野谷集落とふくろ谷

2010-03-23 00:15:26 |  ・いなみ野フットパス

「加古の道1」は草谷の墓地の前の道に沿った大溝用水-を少し西に行くと草谷墓地の駐車場に着きます。

少し休憩しましょう。田園の風景がひろがっています。

そこから南へ坂道を登ると高薗寺です。

高薗寺については「稲美町探訪(2829)」をご覧ください。

寺の縁起よれば、高薗寺は白雉(はくち)年間(650662)の開創と伝えられています。

それはともかくとして古い。

寺も野寺の集落も古くから存在していたようです。

   「ふくろ谷」がつくった野谷集落

Inamimachi4_023 水の話に戻ります。水がなければ食料が得られません。

水があり、農耕が始まり食料があって集落ができたのです。

草谷川に沿って草谷、下草谷等の集落が形成されたのもかなり古いことであったと想像されます。

しかし、それらについては何の記録も伝承も残されていません。

また、野寺には高薗寺の東隣に「ふくろ谷(:風呂ノ谷)」という渓谷があり、これに沿って平安時代のはじめ頃から民家があったといわれています。

この渓流をせき止めたのが風呂ノ谷池ですが、その源流は雌岡山でした。

(以上『稲美町史』参照)

 「稲美町探訪(154)」で四百間溝を次のように紹介しました。

「・・・風呂の谷池の水源は練部屋の西方500mにある吉生村(神戸市西区神出町)の井戸でした。

四百間溝は、そこから3キロメートルの溝です。

万治初年(1658)の開発といいます。・・・

少し付け加えます。

四百間溝は万治元年に完成させたのでしょうが、それ以前から自然の流(りゅう)としてあったものを疎水として完成させたものと思われます。

その流(りゅう)がなかったとしたら、江戸時代以前、野谷集落を成り立たせる水はありません。食料は得られません。

野谷集落は「ふくろ谷」、そして後に池(風呂ノ谷池)を築き村は安定したものと想像されます。

*写真は、旧街道に沿ったので野寺の屋並。旧家が点在し歴史を感じさせる。

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稲美町探訪(156):いなみ野フットパス(30)・伝えよう大溝用水の歴史を

2010-03-22 09:15:55 |  ・いなみ野フットパス

287 「淡山疎水」完成後もため池による灌漑は、水利権の関係により、水の一番必要な時期に水が不足するといった状態が続いていました。

1年間を通じて、安定して取水できる水の開発が求められました。

また、東播工業地帯は急激に発展し、工業用水の需要が高まりました。

そのため、昭和4510月農林省によって「国営東播用水事業」が発足し、加古川支流の篠山川に川代ダム、東条川に大川瀬ダム、美の川に呑吐ダムを建設し、取水することになりました。

この事業は、農業用水・工業用水・水道用水をまかなうものです。

「東播用水」の完成により、長年の願いであった印南台地の水不足の問題は解消されました。

加古地域への水は、呑吐ダムから練部屋分水所へ、そして加古支線を通じて通水されるようになりました。

そのために、大溝用水は補助的な用水のとなり、用水に面する田の排水溝として扱われるようになりました。

江戸時代から、地域を守り、育ててきた大溝用水は主役の座から降りることになりました。

安定的な水が得られるようになったことはすばらしいことなのですが、主役の座から降りた大溝用水は、人々から忘れ去られようとしています。

そして、今後の維持管理が大きな課題です。

後世にその歴史を伝えると共に、今後の利用方法を考えなくてはなりません。

稲美町の用水のほとんどはコンクリートで固められていますが、草谷墓地の前の大溝用水(写真)の一部で素掘りの堀を見ることができます。

「いなみ野フットパス・加古の道1」は「風呂ノ谷下池」に沿った大溝用水を歩きます。

先人の汗と熱が伝わってきます。

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稲美町探訪(155):コーヒーブレイク・風呂ノ谷池

2010-03-21 14:26:19 | 稲美町

きょうの話題は、歴史でもありません。エッセーでもありません。今はやりのツィッターのようなものです。

読み飛ばしてください。

    風呂ノ滝

285 谷筋に沿って棚状に2つ、3つの池が連なっている池があります。重ね池です。

風呂ノ谷池(ふろのたにいけ)、風呂ノ中池(ふろのなかいけ)、風呂ノ谷下池(ふろのたにしたいけ)は重ね池です。

稲美町は「池の町」ですが、風呂ノ谷池は外の池と違い山間の趣をもった重ね池です。

それにしても、風呂ノ谷池と風呂ノ中池の段差は、驚くほど大きい。

今、風呂ノ谷池の土手の中ほどに腰をおろし中池、下池を眺めています。

西の隅に中池に水を落とす水路があり、昨夜は雨が降ったためか、水はしぶきをあげて勢いよくこの水路を落ちています。

これが滝なら面白い風景であるのにと考えてしまいました。

いっそのこと、この水路をとっぱらって、滝として中池に水を流してはどうだろう。

もちろん水のある時だけ現れる滝になりますが・・・・

その滝を、風呂ノ滝と名づけておきます。

何よりも風呂ノ谷池の景色は抜群です。きっと、この滝は風呂ノ谷池の風景に似合うと思います。

  真っ赤な紅葉が燃える名所に

土手に寝転んでいるが、気持ちがいい。

「ここに桜いっぱい植えては?」と思うが、桜はどこにでもあります。

燃えるような真っ赤な紅葉がある方がよい。

近くに高薗寺があります。

045 伊左衛門は、高薗寺の観音堂(写真下)に一揆への呼びかけのビラを張りました。

それが引きがねになり、姫路藩全藩一揆となりました。

結果、伊左衛門は磔刑になった歴史をもっています。

さしずめ、真っ赤な紅葉は伊左衛門の情熱であり、血の色と考えたい。

秋、高薗寺にお参りして、風呂谷ノ池に足をのばし、真っ赤に燃える紅葉を見て欲しい。

夏は、周辺にひまわりがいっぱいあったていい。子どもの声があるだろう。

冬・春のプランは考えましょう。

ここに、ログハウスがあって、コーヒーが飲めるとさらによい。

ログハウスには「風呂ノ谷池歴史研究所」の看板をかけたい。

コーヒーを飲みながら稲美町の歴史を語り合える施設であって欲しい。

その運営には、地元のボランティアー(語り部)と専門家と行政が協力するんです。

音楽会ができてもいい。

風呂ノ滝の音が聞こえてきます。

   語り継ごう「大溝用水」の歴史を

風呂ノ下池に沿って大溝用水がその歴史を終えようとしています。

<msnctyst w:st="on" addresslist="28:稲美町;" address="稲美町"></msnctyst>

 稲美町を支えた大切な施設です。

高薗寺・野谷()・大溝用水・四百間溝・伊左衛門の話をしましょう。そして、散策をしましょう。

風呂ノ谷池の重ね池の紅葉をみながら・・・・

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稲美町探訪(154):いなみ野フットパス(29)・四百間溝

2010-03-20 21:00:14 |  ・いなみ野フットパス

「伊左衛門の墓?」のすぐ南の「加古の道1」を真っすぐ西に歩くと風呂谷池に着きます。

   水が足りない

292 「稲美町探訪(19)・大溝用水」の最初の部分を読んでおきます。

水の確保は、加古新村開発当初から行われたと思われます。

加古大池の水源は、となりの風呂谷池の水を集めていました。

さらに、寛文9(1669)、水確保のため水路拡張と6か所の新たな池がつくられました。

加古新村の開発が非常な勢いで進みました。

母里地区からの自然流を水源とする新ため池による灌漑は、たちまちに限界に達してしいました。

   四百間溝

上記の太字の部分に注目ください。

加古新村の建設から大溝用水の完成(延宝8年・1680)まで水は十分になく、それを補ったのが四百間溝の水でした。 

四百間溝について『稲美町史』には、次のように書いて言います。

これらの水は、どこに水源をもとめたのでしょう。

隣の母里地区の風呂谷池流でした。

Inamimachi4_002 この風呂谷池(写真)の水源は練部屋(ねりべや)の西方約500mにある吉生村(神戸市西区神出)の井戸でした。

そこから延長約3キロメートルの溝でした。

これを地元では「四百間溝」と呼んでいます。

万治初年(1658)に開発されたといいます。

現在、ほ場整備によって、風呂の地より上流はその痕跡は全くないのですが、風呂谷の池から草谷墓地の下手を通り、三字池(みあざいけ)まで、断続的に大きな溝跡が残っています。

先日、草谷墓地の西の林の探検をしました。

写真では分かりにくいのですが、『稲美町史』の記述のように、確かに少し低い溝跡らしい地形(写真上)が残っています。

なお、四百間溝の取水口はどこかはっきりしませんが、写真は練部屋の近くの吉生の大歳神社です。

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稲美町探訪(153):いなみ野フットパス(28)・伊左衛門の墓碑?

2010-03-19 00:11:40 |  ・いなみ野フットパス

寛延2(1949)12月にかけて、姫路藩は一揆が荒れ狂いました。

その一揆の「ひきがね」になったのは、野谷新村の伊左衛門でした。

播磨全般一揆と伊左衛門については「稲美町探訪(23)・伊左衛門物語①」~「同(27)・伊左衛門物語⑤」をご覧ください。

当然のように、一揆の後には厳しい処罰がありました。

伊左衛門は、取調べ中に死亡しましたが、遺体は処刑の時まで塩漬けにして保存されました。

   

磔刑になった伊左衛門

281 小説『播磨寛延一期・滑甚兵衛の反逆(田靡新著)(成星出版)の最後の部分を再度、読んでおきます。

「・・・九月二十三日、・・・・野谷新村の伊左衛門は、牢屋で吟味中に死亡した塩漬けの遺体を磔にされた。

・・・遠巻きにする百姓たちに見せしめの意味があった。

・・・日が暮れても、河原から動かない人が何人もいた。

夕焼けが堤防(どて)に連なった彼岸花を燃え立たせ、河原も空も血の色に染めぬいていたという・・・・」

   

伊左衛門の墓碑?

5d50b33e 伊左衛門の墓(写真)があると聞き、さっそく出かけました。

場所は「いなみ野フットパス・加古の道1」の●をいれた墓地です。

この道沿いには墓地が2か所ありますが南の小さな方の墓地です。

墓碑には「寛延三年五月十一日」の銘があります。

まさに播磨全般一揆の年に建てられた墓碑です。

伝承のように伊左衛門の墓碑でしょうか?

夢を壊すようで申し訳ないのですが、伊左衛門の墓碑とは考えにくい点がいくつかあります。

3点ばかり挙げておきます。

    伊衛門は野谷新村の人物です。この墓碑の場所は草谷です。

    磔刑になった人物の墓碑の建設は一般的に許可になりません。

(ひそかに墓をつくった可能性はある。後世、顕彰碑をつくる場合はある)

    伊左衛門の刑は、寛延3923日です。墓碑は511日につくられています。

処刑の前に墓をつくるだろうか?

確かに、この墓碑は一揆の年と重なります。そのため、伊左衛門の墓との伝承をもっていますが、伊左衛門の墓碑とは考えにくいのではないでしょうか。

断定はできません。さらに調査が必要です。

今のところは、「伊左衛門の墓碑といわれている」ということに留めておきましょう。

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稲美町探訪(152):いなみ野フットパス(27)・庚申さん

2010-03-18 00:11:15 |  ・いなみ野フットパス

 いま「いなみ野フットパス・加古の道1」を西へあるき、荒内のお堂(地蔵堂)で足踏みしています。この地蔵堂の墓地に写真のような道標があります。

道標に向こうに伸びる道が、前号で訂正した「くそたれ坂」です。

   

 道標、左 みきみち

278(この道標は)草谷の落城坂(くそたれ坂)にあったのが、道路改修の時に荒内の子安地蔵の境内に移された。 

右 有馬道、左 みきみち

そして、中央に四国西国同行有志

とあり、寛政十一年(1799)の銘がある。

やはり、庚申さんが彫ってある」

以上が、この道標についての『稲美町史』の説明です。

彫られた像が青面金剛(しょうめんこんごう)であれば、庚申さん(こうじん)であることがはっきりするのですが、像は崩れており、はっきりしません。

が、稲美町は、県下でも但馬・淡路とともに庚申信仰が盛んな土地柄でした。

庚申信仰につい説明しておきましょう。

  

庚申信仰(こうしんしんこう)

3987f008  江戸時代、ずいぶん盛んであった。庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われました。

 コウシンさんは、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといいます。

 そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像をおがんだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

 いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむと言う行事に変っていきました。

 江戸時代、庚申信仰では、もっぱら青面金剛(しょうめんこんごう)が拝まれるようになりました。

 県下には560以上の庚申さんが残っていますが、稲美町には36もあるといわれています。

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稲美町探訪(151):いなみ野フットパス(26)・訂正、くそたれ坂

2010-03-17 15:48:15 |  ・いなみ野フットパス

 「稲美町探訪(86)・くそたれ坂」の記事に明らかな間違いがありましたので訂正させていただきます。

*雁土井用水の取水口から荒内の地蔵堂へ到着しました。「いなみ野フットパス」の続きとします。

ここにユーモラスな名前「くそたれ坂」の伝承を持つ坂があります。

   三木城への食料運搬ルート

 

150 三木城に味方する野口城、神吉城、志方城そして蛸草城が落城しました。

7500人と言う籠城の人たちを抱えた三木城内では、目に見えて厳しい状況になりました。 

三木城は、秀吉軍により取り囲まれてしまいました。 

丹生山・淡河城も落城し、補給のルートがとだえました。 

そして、高砂城も落城した後は、魚住城(明石市)のルートが細々と残されるばかりでした。 

毛利勢は魚住城を食糧基地としました。 

このことを知った秀吉は、魚住から三木への監視を徹底させました。 

『播州太平記』は、次のような補給コースを記しています。 

魚住城から少し西の魚住町中尾(住吉神社のあるところ)付近から、現在の国道379号線沿いに北上し、神戸市岩岡に出て、北上して稲美町蛸草へ出ます。 

そして、草谷から三木市別所町西這田(ほうだ)に入り、三木城への15キロのコースです。 

    くそたれ坂

 <訂正とお詫び>

276 以前「稲美町探訪(86)・くそたれ坂」を取材した時、地元のある方に聞いた話をそのまま文章にしました。

そして、「くそたれ坂」の写真を入れたのですが、これは新道で「くそたれ坂」の伝承を持つ坂は、地蔵堂から右(東)に下る旧道(写真下)です。差し替え、訂正して、詫びいたします。

以下、「くそたれ坂」を続けます。

草谷の地蔵堂(写真上)の右の道が「くそたれ坂」です。それにしても、おもしろい名の坂です。

これは「草谷付近で突然の秀吉側の攻撃にあい運搬の兵たちが慌てふためいて、恐怖のあまり脱糞してしまった」という出来事からつけられたと言われています。 

地蔵堂のところの道は急な坂をつくっています。

草谷川を越え、その先の小高い山を越えれば三木城はすぐです。 

*「稲美町探訪(86)・くそたれ坂」は削除しています。

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