なぜ、野口城が最初に狙われたか?
天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。
早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。
この戦いで糟谷武則は、初陣でした。
それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。
理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。
野口城孤立、そして破れる
(野口城戦では、三木側からの援軍はありません)
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三日目でした。野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫りました。
「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」
「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」
城内に一瞬生気がよみがえりました。
「幾人かの兵が援兵を城内に導き入れようと裏門を開いて駆けだしました。
味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)手攻めに加わった加古川城の手勢五百でした。
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小説『教信』で、小杉隆道氏は野口城の戦いについて以上のように書いておられます。
野口城の兵はバタバタと倒れ、そして、戦は終わりました。
野口戦の犠牲者の魂を祭る
教信寺の東のあたりに、稲荷神社(写真)がります。
神社の正面の少し高い所に、野口戦の説明があります。
この神社は、野口戦でなくなった多くの兵士の魂を慰めるための神社です。
誰を祀る三基の五輪塔?
稲荷神社から南東へ100㍍程の場所です。
そこは野口城主であった長井家の墓所です。
古そうな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基あります。(no4902)




秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。
秀吉は、土木工事を得意とし、沼地のような湿田はたいした問題ではありません。
時は、信長・秀吉の時代です。当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。
加古川近辺の城主は、三木城の別所氏の支配下にありました。
『播磨灘物語』(司馬遼太郎)が描く、別府城の戦を続けます。司馬氏は別府城を加古川市別府町としています。
・・・毛利軍は水軍の運用に長じていた。かれらは、はるかな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を着け上陸作戦をやる。
三木城主・長治の父の別所安治は、若干39歳で病没しました。その時、長治はまだ12才でした。
戦国時代、東播磨の中心は三木の別所氏でした。
復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。
嘉吉の乱の後の赤松一族の歴史を見ていると、赤松一族は本格的な中道子山城を築城する余力があったとは考えられないのです。
「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」
赤松円心の三男は則祐です。そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱で歴史の名を残している赤松満祐です。






