ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(193) 戦国時代(9)・野口城の戦い(2) なぜ、野口城が最初に狙われたか?

2020-03-13 08:54:52 | 大河・かこがわ

      なぜ、野口城が最初に狙われたか?   

 天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。

 早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。

 この戦いで糟谷武則は、初陣でした。

 それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。

 理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。

    野口城孤立、そして破れる

 (野口城戦では、三木側からの援軍はありません)

 ・・・・

 三日目でした。野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫りました。

 「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」

 「見殺しにされるかと案じていたが、これで助かった」

  城内に一瞬生気がよみがえりました。

 「幾人かの兵が援兵を城内に導き入れようと裏門を開いて駆けだしました。

 味方と錯覚したのは、秀吉方に従って、搦め手(からめて)手攻めに加わった加古川城の手勢五百でした。

 ・・・・

 小説『教信』で、小杉隆道氏は野口城の戦いについて以上のように書いておられます。

 野口城の兵はバタバタと倒れ、そして、戦は終わりました。

    野口戦の犠牲者の魂を祭る

 教信寺の東のあたりに、稲荷神社(写真)がります。

 神社の正面の少し高い所に、野口戦の説明があります。

 この神社は、野口戦でなくなった多くの兵士の魂を慰めるための神社です。

    誰を祀る三基の五輪塔?

 稲荷神社から南東へ100㍍程の場所です。

 そこは野口城主であった長井家の墓所です。

 古そうな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、三基あります。(no4902)

コメント

大河・かこがわ(193) 戦国時代(8)・野口城の戦い(1)

2020-03-12 09:52:01 | 大河・かこがわ

     野口城の戦い(1)

 秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。

 しかし、三木城攻撃の初戦で手痛い敗北を喫しました。

 秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。

 最初に狙いを定めたのが野口城でした。

 野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。

 そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000人で攻めたてました。

 対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。

     野口の地形

 話は、すこし、野口合戦をはなれ地形の話です。中部中学校の東に駅ヶ池(うまやがいけ)があります。

 印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れましたが、この辺りばかりは、地形が西と南に低く、北と東が高く、印南野台地の西の端にあって、水が集まる場所でした。雨が多い時は、ここに水が集まり沼地になります。 

 城の周囲には沼が多く、城はそれらを囲(めぐ)らし、わすかに乾いたところにありました。

     落 城

 秀吉は、土木工事を得意とし、沼地のような湿田はたいした問題ではありません。

 彼にすれば「埋めればいい」と、当然のごとく考えていたのかもしれません。

 城主・長井政重は櫓で指揮をとりました。勇敢に戦いましたが、切れ目のない激戦に兵はバタバタと倒れました。

 最初から、野口軍600の兵だけで、3000の秀吉軍と勝てるとは考えていません。

 三木城からの援軍があり、中と外から秀吉軍を押しつぶそうと考えていたのです。

 しかし、三木城からも、近隣の他の城からの援軍はありませんでした。

 三日目でした。「援軍が来たらしい」と城内には一瞬生気がよみがえりました。

 が、援軍と思われたのは、秀吉側に加わった加古川城の糟谷武則の兵でした。

 政重は決断しました。「これ以上の兵の死は無駄である・・・」と。

 自分の死と引きかえに残る兵の命を願い出ました。

 野口城は、三日間で落城しました。

 教信寺も全焼してしまいました。(no4901)

 *絵:木内内則氏制作

コメント

大河・かこがわ(192) 戦国時代(7)・加古川評定(2)・評定は決裂

2020-03-11 07:58:02 | 大河・かこがわ

     加古川評定(2)・評定は決裂

 天正6年(1578)2月23日、秀吉は、評定のために 7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)に向かいました。

 この加古川評定は、毛利攻めの方策を論じる軍評定のはずでした。

 別所は、長治の名代として、叔父の賀相と三番家老の三宅治忠、を評定へ送り込みます。

 その他、東播磨の主だった城主、神吉城(神吉頼定)、野口城(長井艮重)、英賀城(三木通秋)、石守城(中村重房)、瑞谷城(衣笠範景)、魚住城(魚住頼治)・阿形城(油井勝利)、高砂城(梶原景行)、志方城の輝橋伊定、淡河城(淡河定範)らは、加古川評定に加わりました。

 しかし、播州の二大勢力の当主・三木城主(別所長治)、御着城主(小寺政職)の姿はありませんでした。

 三木・別所氏が信長方に味方すれば、他の領主もそれに倣ったかもしれません。

 しかし、三木城は、この加古川評定前に、毛利氏への加担を決めていたようです。

    会場からの実況(『播磨灘物語』から)

 ・・・重棟(三木城二番家老)は、兄の賀相(三木城筆頭家老)とは違い、早くから(織田)信長に接近し、今度の「加古川評定」においても、秀吉のそばにあって、その支度方(したくがた)をつとめている。

 ほとんど秀吉の家来のようであるといってよい。 ・・・(略)・・・「あの馬鹿が」と賀相(よしすけ)は重棟のことをいう。

 織田の天下になれば、当然、早くから織田に接近している重棟の方が別所家における大勢力をつくることになり、賀相の勢力は転落せざるをえない。

 「たれが織田につくものか」という賀相の肚の中で黒煙りを立てて渦巻いている感情は、打算的には家中の一向宗(浄土真宗)を抱き入れておかねばならないという理由の外に、その理由を凌ぐほどの、重棟に対する感情があった。

 賀相に露骨にいわせるとするならば、「自分の目の黒いうちは別所の家を織田に味方させぬぞ」ということであったであろう。・・・・(以上『播磨灘物語』より) (no4900)

コメント

大河・かこがわ(191) 戦国時代(6)・加古川評定(1) 

2020-03-10 11:40:26 | 大河・かこがわ

     加古川評定(1)

 時は、信長・秀吉の時代です。当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。

 その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。

 やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されます。

 当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。

 天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。

 内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。

 やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡・写真)で開かれました。

 信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に代わり、叔父の賀相(よしすけ)等が参加しました。

 世に名高い「加古川評定」です。

 この評定は、まとまらず、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことになったのです。(no4899)

コメント

大河・かこがわ(190) 戦国時代(5)・加古川城主・糟谷武則

2020-03-09 08:27:26 | 大河・かこがわ

                  加古川城主・糟谷武則

 加古川近辺の城主は、三木城の別所氏の支配下にありました。

「加古川城主・糟谷武則だけは、信長・秀吉の味方でした」といわれています。が、詳細を見ておきましょう。

 糟谷武則の母は、御着城主・小寺政職(まさもと)の妹で、八代加古川城主・糟谷朝貞(ともさだ)へ嫁ぎ、ふたりの子供(糟谷朝正とその妹)を産んだのですが、故あって離婚し、志村某と再婚し、武則をもうけました。

 武則は、異父の兄と姉が加古川城におり、兄の糟谷朝正は九代加古川城主になり、姉は、三木城・別所氏に嫁いでいます。

 母の再婚相手が早く亡くなったため、母は6才の武則の養育を前の嫁ぎ先の糟谷家(加古川城)に托して、ふたたび再婚しました。

 武則は、異父兄の糟谷朝正と共に育てられて成長しました。

 朝正は、武則を養弟として糟谷姓を名のらせ、後に朝正はその子(友員:ともかず)と共に武則を伴って三木城に入りました。

 天正五年(1577)、友員11才、武則15才のことでした。

    もと、糟谷(加古川城主)も三木方

 天正五年(1577)当時、加古川城も加古川地域の多くの城と同じく別所方でした。

 官兵衛は、三木城の武将の後藤基国(後藤又兵衛の父)に書を送り、朝正・武則らに「武則は加古川館(城)へ帰えるよう」説得を依頼しました。

 「武則様は、ぜひ加古川城へお帰りください。こん後、はからずも三木方と秀吉方は、お互いに敵として戦うことになり、不幸にして三木城が破れますと、別所家はもちろんですが、糟谷家も断絶いたします。

 糟谷家を末長く守るためには、武則様はぜひ加古川城へ帰ってください」「ここはまげて、糟谷家存続のために、武則様は、まげて加古川城へお帰りください・・・」と。

 兄は、三木に味方し糟谷武則は、加古川城にもどり、秀吉側として行動をとるようになったのです。

 このような事情で、加古川地方の城主は、ほとんど毛利方につきますが、加古川城だけは信長・秀吉側についたことを確認しておいてください。(no4898)

 

コメント

大河・かこがわ(189) 戦国時代(4)・毛利軍、別府に襲来(4)

2020-03-08 09:49:37 | 大河・かこがわ

              毛利軍、別府に襲来(4)

 『播磨灘物語』(司馬遼太郎)が描く、別府城の戦を続けます。司馬氏は別府城を加古川市別府町としています。

 

・・・(別府城の)望楼は官兵衛を載せて、しらじらと明けはじめた空に浮かんでいる。

 海浜には、毛利・雑賀の兵がふえている。

 官兵衛の視界には、海浜をおおっている松原でさえぎられていたが、それでも人数の推定はできた。

  (・・・・二千人か)

 と、官兵衛が踏んだのは、海浜にいる人数である。

 船でなおも、到着しつつあった。

 夜が明けきって海面が白く光ったとき、淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ゴマをまいたように船が浮かんでいた。

 どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

  「撃つな」・・・

 官兵衛は城兵に厳命してある。城を静まりかえらせて、敵が城壁にとりつくのをひたすらに待つのである。

 勇気が要った。

 ・・・ついに寄せ手が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛はいっせいに撃たせたのである。

 ・・・・寄せ手はさんざんに撃ち白まされ、逃げ散り、また押しかえし、堀ぎわなどで漂うような動きをみせたとき、官兵衛は城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させた。

 官兵衛が、子飼いで育ててきた母里太兵衛(もりたへい)が、その指揮者だった。

 後年、黒田節という今様でその逸話をうたわれた母里太兵衛が、武名を世間に知られるようになるのはこの時からである・・・

 

 『兵庫県史(第三巻)』は「・・・中国勢のほか紀州の雑賀衆をも誘って海上より別府(加古川市)に上陸させ、別所重棟の守備する阿閇城(別府城のこと・加古郡播磨町)を襲わせた・・・」と書いています。(no4897)

 *写真:博多人形(母里太兵衛) 

コメント

大河・かこがわ(188) 戦国時代(3)・毛利軍、別府に襲来(3)

2020-03-07 08:26:00 | 大河・かこがわ

    毛利軍、別府に襲来(3)

  別府村について、『播磨鑑』には、「阿閇庄(あえのしょう)別府村」とあり、『播州名所巡覧図絵』に、「別府、本庄村(現:播磨町)の西の村にて阿閇庄なり」とあります。

 別府がもと阿閇庄内(現:播磨町)に属していました。

 別府は、その昔、阿閇の一部の村であり、「別府は加古川市・・・・」という我々の思い込みから地名・地域の混乱が生じます。

 このことを念頭におき、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続けます。(一部省略)

   毛利来る(3)

 ・・・毛利軍は水軍の運用に長じていた。かれらは、はるかな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を着け上陸作戦をやる。

 ・・・官兵衛は、阿閇の別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。

 海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し寄せてくる。

 かれらは、夜中に播磨灘を押し切って、夜明けに上陸しようとしているのである。・・・

 「敵は八千」という情報がとどいていた。

 「敵の目的は何か」と官兵衛は考えていた。

 おどしか、本気か、本気なら目的は何か。

 敵の作戦家がたてた計画は、こうであるに違いない。

 八千で印南野(いなみの)に押しこみ、秀吉の軍を震撼させる。(別府城を落とした後)秀吉の軍が騒いでも目もくれず西方へゆき、空城同然の姫路城をおとす。

 秀吉の軍が、驚いて三木城の囲みを解いて姫路へ救援にかけつける。

 そこで野外決戦をおこなう。三木城の城兵は、城外突出して秀吉軍の背後をつく。

 (考えそうなことだが、戦はそうはうまうまとゆかぬものだ)

 官兵衛は、思っている。

 敵にとって最初の戸口であるこの別府城がよく防げば、その作戦(毛利軍の作戦)は根底からくずれてしまう。(no4896)

 *写真:にごり酒「官兵衛」(姫路の名城酒造から販売されており、ラベルに別府城戦いの説明があります)

コメント

大河・かこがわ(187) 戦国時代(2)・毛利軍、別府に襲来(2)

2020-03-06 10:07:15 | 大河・かこがわ

    戦国時代(2):毛利軍別府に襲来(2)

 三木城主・長治の父の別所安治は、若干39歳で病没しました。その時、長治はまだ12才でした。

 三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見することになったが、後に、三男・重棟は信長に近づき賀相と袂を分かちました。

  以上が、予備知識です。

  『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続けます。(一部省略)

   ◇毛利軍来る(2)◇

  ・・・別府を領していたのが、今度の争乱(三木合戦)で織田方についている別所重棟であった。

  この別府に、小城があった。

  この時期、別所重棟が、ここを守備している。

  重棟は、兄の賀相と不仲ということが主因とになって、織田方に属している・・(省略)・・そこに、毛利軍が水軍によって運ばれてきたのである。

  毛利軍といっても、大坂の本願寺に加担している紀州雑賀(さいが)党もこれに加わっていたから、毛利・雑賀の連合軍といっていい。

  雑賀党は、大坂の湾から出ている。

  毛利軍は、はるか西の広島あたりからでている。

  それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。

  その模様は、当然、別府城で察知できた。

  別所重棟は秀吉に救援を乞うた。

  「どうするか」

  秀吉は、(黒田)官兵衛に問うた。秀吉の本心を言えば、重棟では心もとない。

  「私が、行ってまいりましょう」

  手勢のみをつれ、(官兵衛は)いわば単身というに近い形で行くという。

  そのかわり、秀吉の代官ということで指揮権を得た。(no4895)

コメント

大河・かこがわ(186) 戦国時代(1)・毛利軍、別府に襲来(1)

2020-03-05 10:04:30 | 大河・かこがわ

    戦国時代(1):毛利軍別府に襲来(1)

   戦国時代、東播磨の中心は三木の別所氏でした。

  天正六年(1578)二月、三木の別所長治(ながはる)は、中国の毛利と呼応して、織田信長に反旗をひるがえしました。

 三木城の守りは固く、秀吉は、三木側に味方する周辺の城を落とす作戦を取りました。

 毛利方は、三木に援軍・食料を送らねばなりません。

 天正六年四月、毛利軍は別府城を襲いました。

 この別府城であるが、『加古川市史(第二巻)』は、別府城の場所を「別府」とだけ書いて場所を示していません。

 別府城の場所は確定していません。

 小説家・司馬遼太郎氏は、『播磨灘物語』で、別府城を別府として話を進めています。小説と歴史は、区別しなければならないが、地元としてはこの説をとります。

 別府城の攻防を紹介したい。

 以下、『播磨灘物語』からの転載です。司馬氏には申し訳ないが「毛利軍きたる」とサブタイトルを付けさせていただきました。

 ◇毛利軍来る(1)◇

(『播磨灘物語』より転載)

 ・・・明石から高砂にかけての長大な海浜は、謡曲でしられているように、白砂清松がつづいている。

 和歌や謡曲などによってとくに高砂の尾上の松原が有名になったが、松原の緑の重なりの濃さと砂浜の白さにおいては、むしろ明石・高砂の中間にある阿閇(あえ)の辺りが見事であるかもしれない。

 その阿閇に、別府という海浜の村ある。

 このあたりは海岸線が単調ながら、別府あたりでわずかに小湾をなし、船泊まりができる。

 この小湾を古くは御杯江(みつきえ)といったり、阿閇の津の江といったりした。

 この戦国時代のころでは単にこの小湾を、「べふ」と土地では呼ぶ。(no1894)

コメント

大河・かこがわ(185) 播磨地方と赤松氏(6)・中道山子城山は、前期赤松の時代に築城

2020-03-04 10:20:42 | 大河・かこがわ

 赤松氏の後期赤松氏の盛衰を年表で追うことにします。

       赤松家、没落の年譜 

 ・明応八年(1499)   赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正四年(1507)   義村と洞松院(妻の松は洞松院と共謀)の対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永二年(1522)   義村は室津の寺に幽閉され殺害される。

       則房の代で赤松惣領家消滅

 復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。

 そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。

 赤松惣領家は播磨を離れます。阿波に移って13年目の慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。

 歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。

 この後、赤松総領家は廃絶同然となりました。

    中道山子城山は、前期赤松の時代に築城

 赤松家の盛衰を見るとき、勢力を持った赤松氏も嘉吉の乱以後、一時復活の兆しを持つものの衰えていきます。

 志方町の中道山子城山は、前期赤松の時代に築城されたようです。

 しかし、詳細ははっきりしません。今後の研究をまつことにしましょう。(no1893)

 *図:中道子山城復元図(木内内則氏制作)

コメント

大河・かこがわ(184) 播磨地方と赤松氏(5)・嘉吉の乱後の赤松氏

2020-03-03 10:31:21 | 大河・かこがわ

       嘉吉の乱後の赤松氏

 嘉吉の乱の後の赤松一族の歴史を見ていると、赤松一族は本格的な中道子山城を築城する余力があったとは考えられないのです。

 嘉吉の乱以後の赤松の歴史を簡単にたどっておきます。

   後期赤松一族 

    *赤松円心~満祐までを前期赤松一族と呼んでいます

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。

 それを確かめて、満祐は自害しました。

 この時、赤松氏が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。

    赤松政則の誕生、そして赤松家復活

 しかし、偶然にもその年、満祐につながる子供(次郎法師丸)がかくまわれていたのです。

 彼は、後の赤松政則です。

 家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

 南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

 この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は奇跡的な復活を遂げます。

      そして、赤松家没落

 赤松は、置塩城を拠点に政則を柱として、勢い回復しました。

 しかし、山名が赤松に襲いかかりました。

 真弓峠の戦い(1477)では惨敗で、播磨は山名に占領されてしまいました。

 その後の播磨は、しばらく血なまぐさい戦場と化しました。

 長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づき、再婚相手として細川家の洞松院(どうしょういん)を迎えました。

 そして、政則の娘・松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)四月二十五日でした。

 政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 こうなると、一族内での下剋上が始まりました。

 ますます、赤松氏の力はなくなります。(no1892)

  *絵:市川団十郎演ずる赤松満祐(東京都中央図書館蔵)

コメント

大河・かこがわ(183) 播磨地方と赤松氏(4)・嘉吉の乱:満祐、義教(足利六代将軍)を殺害

2020-03-02 08:05:26 | 大河・かこがわ

   満祐、義教(足利六代将軍)を殺害

 「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」

 嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。

 新邸の主(あるじ)は、赤松満祐でした。

 義教は、就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。

 義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。

 義教は多数の重臣とともに赤松邸に入りました。

 庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。

 この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。

 義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。

 満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い、家臣たち700名を伴い、播磨の坂本城(姫路市)に引き上げました。

 満祐に味方するものは誰もいません。

 赤松満祐は、急ぎ合戦の準備をしました。

 幕府軍は、坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐は、揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの、赤松軍はすでに五百騎あまり、九月九日に攻撃が始まり城山城はついに陥落しました。

 これは、円心から四代続いた赤松氏の滅亡でした。

 この段階で、赤松氏再興を見通したものは誰もいなかったとおもわれます。

 *写真:加東市東条町安国寺にある足利義教の供養塔。(『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞出版センター)より

 満祐は、播磨・坂本城へ帰る途中、この寺で義教の葬儀を盛大に行ったといわれています。(no4891)

コメント

大河・かこがわ(182) 播磨地方と赤松氏(3)・孝橋(たかはし)新五郎繁広

2020-03-01 12:10:05 | 大河・かこがわ

 中道子山城跡の城主は、二人の城主説が考えられています。

 その一つは赤松氏則(範)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはし・しんごろう・しげひろ)説です。

    孝橋(たかはし)新五郎繁広

 赤松円心の三男は則祐です。そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱で歴史の名を残している赤松満祐です。

 嘉吉の乱については、ここでは説明を省きます。

 嘉吉の乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。

 満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。

 ここに、赤松氏はいったん没落しました。

 この満祐の最後の戦いに嫡子教康と弟の則繁が父と一緒に戦かいましたが、この二人は、城山城から逃げのびました。

 教康は、伊勢に落ち、則繁も行方知れずとなりました。

 が、ひょんなことで、則繁の行方は記録にとどめられることになりました。

 その経過を『加古川市史(第二巻)』(p42)にみることにします。

 「・・・則繁は(城山城の戦い後)室津から九州筑前にのがれ菊池某を頼り、さらに倭寇となって朝鮮沿岸を荒らしまわるなど猛威を振っていた。

 このことは嘉吉三年(1443)六月に前将軍義教の死を弔うために来日した朝鮮の使節が、あわせて則繁の海賊行為の禁圧を幕府に訴えたことから判明した(『建内記』)。

  その後、(中略)則繁は播磨に帰った。

 (中略)これを知った幕府は、細川持常をして則繁を討たせた。

 文安五年(1448)八月八日、則繁は隠れ家を囲まれ自殺し、その首は京都で鳩首された。・・・」(『加古川市史』より)

   大河内満直改め孝橋新五郎繁広

 則繁の後は、赤松一族の支流、大河内家(天神山系)の満直が継ぎ、善坊城(加西市)に拠って、名前も孝橋新五郎繁広と改めたといわれています。

 この孝橋新五郎が、中道子城を築いたというのです。

 中道子山と善坊は目と鼻の先です。

 もう少し、説明を加えておきます。

 天神山の三代城主・大河内満政は、ある事情で赤松氏の有力な血縁でありながら幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わっています。

 それが、幕府に認められて明石・加古・印南の播磨東三郡を与えられました。

 その満政の子が満直です。

 (赤松)満直つまり孝橋新五郎が、播磨三郡を抑える拠点として城山を築いたのも納得できます。(no4890)

 *写真:中道子山城の本丸跡

コメント

大河・かこがわ(181) 播磨地方と赤松氏(2)・中道子山城の城主は誰?

2020-02-29 08:02:28 | 大河・かこがわ

 中道子山城は立派な山城です。

 それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが知りたくなります。

 まず、①の城を築いた人物を調べてみます。

    城主は誰?

    赤松氏則(赤松円心の四男)か? 橋新五郎か?

 城の築城者は、はっきりしているのが普通です。

 でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。謎の城です。

   ◇『中道山城跡発掘調査報告書』より

 「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。

 その一つは赤松氏則築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」

       ◇『志方町誌』より

 「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」としているが、その他の諸書はみな、孝橋新五郎繁広の築くところとして天正の頃まで四代相続したとしている。(中略)

 氏則がこの城に入ったのは至徳年間(1384~86)あるいはそれ以前で、天神城(志方町西飯坂)を築いて、しばらくそこにいて後、この中道山子山城を築いて入ったものと思われる。

 (中略)至徳から応仁までの80年間の城主については詳しくはできないが、おそらく赤松の一族のたれかれが、たちかわり住したと思われる。

 孝橋(たかはし)新五郎この人が、中道子山城を築いたという記録は『播州諸城交替連綿記』以下諸書の一致するところである・・・」

 二書とも「中道子山城の築城者は赤松氏則か孝橋新五郎と考えられる」としています。

 『志方町誌』では、赤松氏則に若干分が悪い。

 さらに、この二人を追うことにしましょう。(no4888)

 *写真:城山山頂の「赤松城址」と刻む碑

 

コメント

大河・かこがわ(180) 播磨地方と赤松氏(1)・中道山子城

2020-02-28 10:02:51 | 大河・かこがわ

 東播磨の中世史は赤松氏なしには語ることはできないのですが、かんじんの赤松氏の東播磨にいての活動は、はっきりわかりません。

 語られている少しだけを紹介しましょう。

    赤松氏と中道子山城(1)

 志方の城山は、標高271.6㍍の山で、特に登るのに躊躇するほどの山でもありません。

 東播磨の中世の歴史を語るとき、赤松氏を抜きには語れません。

 中世ここに赤松氏のお城がありました。

 いろいろの書物をあさってみました。

 が、「中道子山城」の名は知られているわりに謎だらけの城です。

     中道子山

 この270㍍の城山の名前本当の名前は「中道子山(ちゅうどうしさん)」です。

 中道子の「子」は「寺(字)」が変化した読み方だといわれています。

 もともと、この城山の頂上の一角に「中道寺」という寺があったようです。

 安楽寺(細工所)の由来に「西暦811年、弘法大師(空海)の孫弟子の真詔上人が詔勅を受け、大日如来像を彫刻し中道子山上(今の城山)に一宇を設立し、真言宗無量寿院と号す」とあり、安楽寺は、無量寿院から始まるとしています。

 安楽寺さんにお叱りを受けそうですが、安楽寺だけでなく、寺伝は一般的に「あやしげな」記述が多いので、数字・固有名詞はここでも若干疑っておきます。

    志方町の大パノラマ

 城山は、東志方の東北部に位置し、南は平野をへだてて飯盛山、高畑の前山に対しています。

 北は札馬(さつま)の谷をへて、大沢、畑の山に伸びています。

 志方城に登ると志方の大パノラマが広がっています。

 戦略上、絶好の位置にあったことが想像されます。(no4887)

 *写真:城山(中道子山城)から南方のパノラマ

 

コメント