ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(269) 近世の加印地域 高砂篇(48)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(19)・松右衛門の発明

2018-08-22 09:18:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

     松右衛門の発明

 松右衛門は、少年の頃から発明することが好きで、驚くほど多才な人物で多くの発明をしています。

 中でも彼の発明品としては、なんといっても船の帆「松右衛門帆」ですが、松右衛門帆については、次回紹介します。

    『農具便利論』にみる松右衛門の発明

 松右衛門の発明ついて『菜の花の沖』(司馬遼太郎)で、次のように書いています。(漢字等少し変えています)

 ・・・

 たとえば大船と大船の連絡用の快速艇を考案して「つばくろ船」と名づけたが、荒波をしのぐが便利なように潜水艦のような形をしている。

 彼が考案した船や道具のうち15点ばかりが、江戸後期の農学者大蔵永常(おおくらながつね・1768~?)の『農具便利論(三巻)』に鮮明な図付きともに掲載されている。

 轆轤(ろくろ)を用いて土砂取船、舷が戸のような開閉する土砂積船、海底をさらえるフォークのような刃の付いたジョレン、あるいは大がかりに海底をさらえる底捲船(そこまきぶね)、また水底に杭を打つ杭打船、石を運ぶ石積船、さらに巨岩を一個だけ水中にたらして運ぶ石釣船(図)、など20世紀後半の土木機械と原理的に似たものが多く、そのほとんどが松右衛門生存中に一・二の地方で実用化され、死後、ほろんだ。(以上『菜の花の沖』より)

     松右衛門の工夫

 松右衛門の発明は、当時の人々にかなりの程度知られていたテコを大型化し、滑車、浮力を組み合わせたものが多いが、知られていた原理や道具を組み合わせて異色の機具・道具をつくりだしています。

 これらの技術は、後に紹介したい箱館やシャナ(エトロフ島)の港づくり等で威力を発揮しました。(no4565)

 *大蔵永常(おおくら ながつね)・・・明和5年(1768~ ?) 江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。

*図:松右衛門考案の石釣船(『農具便利論』大蔵永常より)

 ◇きのう(8/21)の散歩(10.642歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(268) 近世の加印地域 高砂篇(47)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(18)・筏で木材を江戸へ運ぶ

2018-08-21 09:25:03 | お爺さんが語る郷土の歴史

       筏(いかだ)で材木を江戸へ運ぶ

 松右衛門は、兵庫港の「御影屋」という廻船問屋で水主(かこ・船乗)をしており、ずいぶん北風家の世話になっていました。

 そこで船乗りとしての知識や技術、そして商(あきない)の仕法を覚えました。

 北風家は、松右衛門をずいぶん可愛がり援助をしたようです。もちろん、彼もそれに応えました。

 松右衛門が筏(いかだ)で材木を運んだということも、まず北風家から出た話であろうと思われます。

 誰も考えつかないようなことを行わせ、一挙に「兵庫港と松右衛門」と宣伝したのです。

 *『風を編む 海をつなぐ(高砂市教育委員会)』から引用させていただきますが、一部書き変えています。

 ・・・・

 彼が30才のころ、姫路藩から頼まれて秋田から材木を運ぶことになりました。

 しかし、当時大きな材木を積むことのできる船はありません。

 秋田の商人から工夫を頼まれた松右衛門は、材木を筏に組んで、それに帆と舵(かじ)をとりつけることを思いついたのです。

 木材の運搬を頼まれたのは、北風家であったのでしょうが、松右衛門を見込んでの事だった思われます。

 ・・・・

 筏(いかだ)は、基本的に船と同じ機能を持っています。

 この筏船で、秋田から大坂まで航海をしました。寄港する先々で「めずらしい船が来た」と注目を集めました。

 この方式で姫路から江戸まで丸太五本を運んだとき、松右衛門は「姫路の五本丸太」という大旗を掲げて航行しました。

 江戸に着いた時には多くの見物人で大騒ぎになり、この事が姫路藩と松右衛門の名を世に広めました。

 このようにして、松右衛門は船頭としての評判がたかまりました。(no4564)

 *挿絵:マンガ『北海を翔ける男(クニトシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(8/20)の散歩(11.193歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(267) 近世の加印地域 高砂篇(46)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(17)・迷信

2018-08-20 08:40:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

        迷 信

 松右衛門が、すぐれた船頭であることを示すエピソードを『風を編む 海をつなぐ』(高砂教育委員会)から一部をお借りします。

   ・・・

 松右衛門、24才のときのことでした。

 松右衛門は讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていました。

 その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあり、おおみそかの夜に航海する者はいませんでした。

 言い伝えを信じていなかった松右衛門は、おびえる水主(かこ)たちを説得してその夜出港しました。

 夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだしました。「山のような波が押し寄せてきた」というのです。

 それを聞いて船首で海の様子を見た松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じました。

 水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めました。

 すると目の前から山は消えました。

 松右衛門には最初からこの「山のようなたくさんの波」は見えませんでした。

 「言い伝えを信じおびえていた水主たちにはそのように見えた」というのが、実際のようでした。

 松右衛門は合理的に物事を考える人でした。

 おおみそかの夜に災難が起きると言われているのは本当なのか、そうだとすればそれはどうしてか。松右衛門はそれを確かめたかったのです。

 いざ海に出てみると、言い伝えには根拠がないことがわかりました。

 ただ、言い伝えを信じこんでいる水主たちには「山などない」と否定せず、「谷を行け」と命じたのです。

 松右衛門自身も山が見えたということにしておいた方が、同じ船に乗る者の気持ちが一つになると考えたからです。

 松右衛門は水主たちの気持ちを考えつつ、船を進めるため号令をかけました。

 彼の言葉により船は無事にすすみ、水主たちは冷静さをとりもどしました。(以上『風を編む 海をつなぐ』より)

    松右衛門の考えの源は?

 以上はエピソードですが、松右衛門はすべてに合理的に考える人物でした。

 松右衛門の船頭として優れたリーダーシップはともかく、彼の迷信を信じない合理的な考えは経験から得ただけとも思えません。

 兵庫港・高砂の商業活動から合理的な態度を身につけていたのでしょう。(no4563)

 *『風を編む 海をつなぐ』参照

 *挿絵:yukiko

◇きのう(8/10)の散歩(11.685歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(266) 近世の加印地域 高砂篇(45)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(16)・兵庫港、天領となり一時衰弱

2018-08-19 09:05:57 | お爺さんが語る郷土の歴史

          兵庫港、天領となり一時衰弱

 『播磨灘物語』を読んでみます。(文体を変えています)

 ・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになりました。

 特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫港を繁盛させることに力を尽くしました。

 しかし、幕府はこの地の商業活動が盛んなのを見て、明和6年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)としました。

 が、幕府は兵庫港の政策(運営の方針・みとうし)を少しも持ちませんでした。

繁盛しているところから運上金(うんじょうきん:税金)を取りたてると言うだけでした。

 そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ衰えていきました。

 北風荘右衛門(きたかぜそうえもん)が34・5才のときでした。

 彼はまず同業の問屋に、兵庫港の復活を呼びかけました。

 北風家は大打撃を受けていましたが、それを回復したのは、北風家が船を蝦夷地(北海道)へ仕立てて、その物産を兵庫に運んで売りさばいたからです。

 莫大な利益がありました。

 十年にして、ようやく兵庫の商権と賑わいを取りもどしました。

 以後、兵庫港では、北風家の競争相手はいなくなりました。

 そして、「兵庫の北風家か、北風家の兵庫か」と呼ばれるまでになりました。 (no4562)

 *絵:兵庫港:孫(小4)が書いてくれました。

 ◇きのう(8/18)の散歩(10.544歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(265) 近世の加印地域 高砂篇(44)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(15)・北風家の祖先

2018-08-18 08:33:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

     北風家(3)

 北風家の先祖の話です。

    北風家の祖先:南朝の味方

            そして荒木村重の家臣に

 北風家の先祖は、南北朝時代(1329~40)に南朝方に仕えた摂津の豪族であったといいます。

 南朝が衰えた時期の前後、同地(現在の阪神間)で勢力を持っていたようです。

 その後、織田信長の時代、摂津の大名になった荒木村重(あらきむらしげ)に味方しました。

 村重は有岡城(伊丹城)を居城としました。

 しかし、信長に対する謀反で村重は敗北。家来は逃げ出しました。

 この時、北風家の先祖は武士を廃業して、海運業をもとにした問屋を兵庫で起こしたのです。

 北風家は、廻船問屋として富を為しました。

 常に順調に発展したのではなかったようです。

   余話として:荒木村重の家臣は逃亡!

 以前「黒田官兵衛」で、伊丹城落城と城兵の逃亡に書いています。余話として紹介しまおきます。

 この逃亡した城兵の中に北風荘右衛門の祖先はいたらしいのです。

    有岡(伊丹)城、落城

 荒木村重が、信長に謀反をおこして、有岡城に籠ってから一年近くになろうとしていました。

 謀反にふみきったとき、彼の脳裏には、荒波をけたてて東へと進み来る毛利の援軍の勇姿がありました。

 しかし、最初から計算がまちがっていました。

 毛利が織田軍に勝利をするとなると、少なくとも兵力において信長軍をこえる七万を必要としました。

 しかし、毛利の援軍は船でした。一合戦のために送ることのできる兵力はせいぜい三千であり、この兵力では、勝負になりません。

 それでも村重は、毛利の援軍をまっじっとまちました。

  (援軍はこない)

 天正七年(1579)八月という月ほど村重にとってつらい月はありませんでした。

 八月も終わりになると「毛利はこない」ということがはっきりしてきました。

 重臣たちも「どうなさるおつもりか・・・」と村重に問いつめるのですが、「援軍は必ず来る」というばかりでした。

  捨てられた女・子どもたち、そして村重の逃亡

 家臣の中にも「村重を殺して、その首をみやげに織田方へ走る」という雰囲気もでてきました。

 村重は極度に恐れ、この恐怖の中で、村重は常の心をなくしたのか、九月二日の夜、城を抜け出してして、尼崎城に籠ってしまいました。

 それでも、落城が十一月十九日であるから、村重が城から消えて、なお二ヵ月以上戦いはだらだらと続きました。

 十一月十九日、伊丹城の城代・荒木久左衛門以下数人が城から出てきました。

 続いて丸腰の城兵がぞろぞろ出てきました。が、女・子どもは一人もいません。

 女・子どもたちは、人質でした。

 彼らは尼崎城へむかました。

 しかし、尼崎城に籠った村重は、久左衛門たちに会うことを拒否しました。城門は、開きません。 

 家臣たちは、城門の前で必死に城主・村重の名を叫び続けました。

 その日の夕日を司馬氏は『播磨灘物語』で、次のように書いています。

 「・・・落日というのは、壮観というほかない、はるか明石海峡の方角にあって、淡路の島影は紫に染まり、沖が銀色に輝いて、その中を熟れきった太陽が音をたてるように落ちてゆくのである」と。

 説得は失敗でした。このまま帰れば、彼らには死がまっています。

 途中、久左衛門たちも「殺される」という恐怖に勝てなかったのか、有岡城に妻・子どもを残したまま、すべての者が消えたのです。

 信長は、このことを許しませんでした。

 その後、待っていたのは、女(妻)たちの磔刑でした。100人を超えました。

 子ども・小者は500人以上焼き殺されました。そして、京都の人質はすべて切られました。

 ・・・

 その後、荒木村重は、尼崎城を脱出し行方が知れなくなったのです。(no4561)

 *挿絵・荒木村重(『太平記英雄伝・27』:歌川国芳筆)

 ◇きのう(8/17)の散歩(11.333歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(264) 近世の加印地域 高砂篇(43)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(14)・北風の湯

2018-08-17 06:51:28 | お爺さんが語る郷土の歴史

    北風家(2) 

 北風家について続けます。

 「北風家」では代々「荷主、船頭、水主(かこ)など、身分を問わず大切にせよ」という家訓がありました。

    北風の湯

 ・・・・

 北風の湯というのは、二十人ほどが一時に入れるほどに豪勢のものでした。

 「船乗りは北風の湯へ行け。湯の中にどれほどの知恵が浮いているかわからぬぞ」と言われていました。

 老練な船乗りたちが話す体験談や見聞談(けんぶんだん)は、若者にとってそのまま貴重な知恵になるし、同業にとってはときに重要な情報でした。

 兵庫の港では船乗りであればだれでもよかったのです。

 湯殿は、蒸し風呂と湯槽(ゆぶね)の両方がありました。

 風呂では十数人の船乗りが、たがいに垢(あか)をこすりあったり、背中を流しあったりしながら自然に情報を交換していました。

 湯あがりの後、時には酒もでました。

 北風家としても全国からの情報を集め商売に利用していたことはもちろんです。

    松右衛門も、北風の湯で学ぶ

 松右衛門は、15才で兵庫の湊に飛び出し、御影屋(みかげや)で働くようになり、やがて船に乗りました。

 最初は、だれでもそうであるように、船乗りといっても「炊(かしき)」という雑用係から始まります。

 当時の慣行として、「炊」は先輩から、しょっちゅう怒鳴られ、ぶたれました。それに耐えたものが船乗りになることができました。

 詳しくは分かりませんが、松右衛門もそんな炊の時期を経て、20才を過ぎた頃、船頭になっています。

 兵庫の湊で働いていたというものの、15~20才前の頃までは、北風の湯へは敷居が高く出入できませんでした。

 20才前にはいっぱしの水主になり、「北風の湯」に出入りし、全国の情報をいっぱい仕入れました。夢はますます膨らんでいったのです。(no4560)

 *写真:七宮神社(神戸市兵庫区七宮町二丁目)、神社の近くに北風家・北風の湯がありました。

 ◇きのう(8/16)の散歩(11.486歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(263) 近世の加印地域 高砂篇(42)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(13)・兵庫の北風か、北風の兵庫か

2018-08-16 09:14:52 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     北風家(1) 

 『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように始まります。

 

 「兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある」・・・・

 「兵庫を興(おこ)したのは、北風(きたかぜ)はんや」と土地では言う。

 諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内、幾分かでも兵庫の港に入らせるべく北風家が大いにもてなした。

 一面、船宿を兼ねている。

 「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。

 北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この港の入船をふやした。

 入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。

 直乗(じきのり・・持船)の荷主や船頭が、自分の荷の何割かを兵庫で下ろしてしまうからである。

    兵庫の北風か、北風の兵庫か

 「兵庫の北風か、北風の兵庫か」といわれるほどであるだけに、遠国(おんごく)からの入船のほとんどは北風家に荷を売った。

 北風家は直ちに店の前で市を立てるのである。

 「北風の市」というのは、入船のたびに遠近(おちこち)から集まってくる仲買人でにぎわった。

 ・・・・

 めし等は、いつ行っても無料(ただ)であった。

入船の船乗りだけでなく、家に戻っている船乗りでも、「どりゃ、これから北風に振舞(ふれま)われてこようかい・・・」と七宮神社(しちのみやじんじゃ)近くの北風の湯に出かけて行く。

 勝手口から入ると、富家の娘のようにいい着物を着た女中たちが、名前も聞かずに給仕をしてくれるのである。・・・(以上『菜の花の沖』より)

 司馬氏は、北風家をこのように紹介しています。北風家の賑わいの風景が目に浮かぶようです。

 松右衛門も北風家の空気をいっぱい吸いこんで仕事を始めたのです。(no4559)

  *絵:北風家の賑わい、孫(サラ・小4)が書いてくれました。

 ◇きのう(8/15)の散歩(10.308歩)

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(262) 近世の加印地域 高砂篇(41)、工楽右松衛門と高田屋嘉兵衛(12)・兵庫港

2018-08-15 08:04:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

      兵庫の港

 『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いています。

 ・・・

 「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。

 この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)

 私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年ですが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれません。

 松右衛門は、力士のように大柄でした。

 とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出しました。夢の続きでした。・・・

      天下の台所

 秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまりました。

大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いでいました。

 教科書『中学社会・歴史』(大阪書籍)の記述を借ります。

 ・・・大坂は、江戸の間に航路が開かれると、木綿・酒・しょう油・菜種油等を江戸へ積み出し、それをあつかう、問屋が力をのばしました。

各地の大名は、大坂に蔵屋敷(くらやしき)を置いて年貢米や特産物を売りさばきました。

 また、日本海と大坂を結ぶ西まわり航路が開かれると、大坂は商業都市としていっそう発展しました・・・(以上『中学社会・歴史』より)

 河村瑞賢(かわむらずいけん)により北前船(日本海航路)が成立したのは、寛文12年(1672)です。

   兵庫(神戸)港は、大坂の外港に

 しかし、大坂の港は大きな欠点がありました。

 淀川が押し出してくる大量の土砂は、安治川・木津川尻の港を浅くしました。

 徳川中期の頃までは堺がその外港としての役割を果たしていましたが、宝永元年(1704)大川の流れを堺へ落とす工事が完成して以来、堺は港としての機能を低めました。

 この点、兵庫の港は違っています。

 六甲山系からは大きな川がありません。川は短く、一気に流れ下り水深が深いのです。

 徳川期にその役割を弱めた堺に代わり、兵庫の港(神戸港)は大阪の外湊としての役割を果たすようになりました。

 最初は、海路で全国から大坂へ運ばれる商品はいったん兵庫(神戸)に運ばれ、そこで陸揚げされず、ほとんどの商品は小船で大坂へ運ばれていましたが、船の輸送はますます増え、兵庫の港にもの商品が陸揚げされるようになり、取引が行われるようになりました。

 兵庫の廻船問屋は大いに栄えました。(no4558)

 *挿絵:幕末の兵庫津(神戸市立博物館蔵)

 ◇きのう(8/14)の散歩(11.230歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(261) 近世の加印地域 高砂篇(40)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(11)・松右衛門の夢

2018-08-14 07:34:18 | お爺さんが語る郷土の歴史

      松右衛門の夢

 若い松右衛門にとって、高砂は刺激にあふれた町でした。

 いっぱい荷物を積んだ出船、入船があり、そのたびに賑わいがありました。

 「あの船は、どこから来たのだろう・・・どこへ行くのだろう・・・」と、まだ見ぬ世界への思いをつのらせました。

 大人から、兵庫・大坂・江戸の町の賑わいのようすも聞かされて育ちました。

 こんな風景の中で松右衛門は育ち、夢を膨らませたのです。

      松右衛門、15歳で兵庫港へ

 『風を編む 海をつなぐ』(高砂市教育委員会)は、松右衛門の少年時代を次のように書いています。

 ・・・・

 松右衛門は、漁師の長男として高砂町東宮町(ひがしみやまち)に生まれた。

 幼い頃から舟に乗り、一日のほとんどの時間を海で過ごした。

 彼は持ち前の好奇心で海をよく観察し、こつをつかんでは漁に生かした。

 たとえば、魚釣りの糸の手ごたえだけでかかった魚の種類がわかるようになったり、どの季節のどの時間帯に、どんな魚がどこに群れるかを知るようになったりした。

 松右衛門がねらいをつけて網を打つと、それが外れることはなかったという。

 ・・・・・

 そして、少年であった松右衛門は、漁をするための小船に乗りながら、高砂の港にさまざまな物が運び込まれ、それらが兵庫津へと向かっていく様をじっと観察していたに違いありません。

 「いつかは自分の船をもって日本各地をかけめぐりたい」という思いを強くしたのだしょう。

 このように、漁師として十分な技量を備えていた松右衛門でした。

 15 才の時、高砂を飛び出し、当時にぎわいを見せていた兵庫浜へ向かったのでした。(no4557)

 *写真:『風を編む 海をつなぐ』(高砂市教育委員会)

 ◇きのう(8/13)の散歩(10.395歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(260) 近世の加印地域 高砂篇(39)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(10)・学問の町高砂

2018-08-13 09:17:04 | お爺さんが語る郷土の歴史

     学問の町・高砂

 高砂の町は、商(あきない)の町でした。

 商には、文字が必要であり、数字に明るくなければなりません。

 そのため、高砂には学問の雰囲気がありました。

 申義堂(しんぎどう)の話です。

     申義堂(江戸期・高砂の学問所) 

 申義堂は、姫路藩の家老・河合道臣(寸翁)が時の藩主に申し出て、町民一般の子弟の教育を目指して北本町に設置しました。

 申義堂は、文化年間(1804~1818)の創立と推定できます。その建設および運営には、高砂の岸本家の大きな援助がありました。

 明治4年(廃藩置県)により廃校により閉鎖され、建物は岸本家に払い下げられました。

 申義堂は、藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育場でした。

 内容は、四書五経などが中心に行われ、教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳(しゅうほう)などが当たりました。

 また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともありました。

 町人らの子どもが早朝から正午まで学びました。

  余話:「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる

 申義堂が河合家に払い下げられた後のことを少し紹介しておきます。

 隆盛を誇った「申義堂」でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となりました。

 その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われました。

 戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていました。

 その後、専門家の調査により、貴重な申義堂の遺構であることが認められ、高砂市へ移築保存されることになり、2012年1月、申義堂は十輪寺の前に移築復元され、現在一般公開されています。(no4556)

 *写真:復元された申義堂

◇きのう(8/12)の散歩〈12.266歩〉

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お爺さんが語る郷土の歴史(259) 近世の加印地域 高砂篇(38)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(9)・干鰯

2018-08-12 10:24:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

            干鰯仲間(ほしかなかま)

 工楽松右衛門を育てた高砂の町を散策していますが、高砂神社の玉垣に立ち寄ります。

 高砂神社の数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれています。

 「干鰯仲」の下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。

 干鰯は、蝦夷地(北海道)から高砂に運ばれました。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。

 干鰯は、字のごとく鰯の油を抜いて、干して小さく砕いた肥料です。干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。

 とりわけ、加古川・高砂地方(東郷)にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地でした。木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。

 明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もありました。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑では95.2%、全田畑面積に対しても40.1%をしめていました。

 松右衛門は、こんな高砂町の風景のなかで少年期を過ごしたのです。(no4555)

 *写真:高砂神社の玉垣(干鰯仲の次に「間」の字が彫られているのでしょう)

  ◇きのう(8/11)の散歩(13.316歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(258) 近世の加印地域 高砂篇(37)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(8)・加古川の舟運(2)・舟運の季節

2018-08-11 07:46:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

     加古川の舟運(2)・舟運の季節

 加古川の高瀬船について一つ注目しておかなければならないことがあります。

高瀬舟には加古川を運行する期間の制限があったことです。高瀬舟は一年中上り下りができたわけではありません。

  加古川は、本来農業用水の水源でした。

 したがって、加古川には各所に田に水を入れるために堰(せき)がつくられ、高瀬舟は田畑で水を使う期間の運航はできませんでした。

 高瀬舟の運行は、9月の彼岸から翌年5月の八十八夜までと限られていました。

 この間、堰は壊されました。

 つまり、水が冷たく寒風の期間に高瀬船の運航があったのです。

 その高瀬舟ですが、荷はいったん滝野(現:加東市)に集まり、高砂まで約37キロ、朝四時ごろに出発し、4~5時間で高砂に着きました。

 下りは、水流にのって行くのですから、危険はありましたが便利でした。

帰りが大変でした。

 帰りは流を逆行するのですから、船頭は先頭に座り、艫乗り(とものり)は、最後尾にいて、船頭の支持どおりに櫓を操ることになります。

 中乗りは「かい」を使って船を進めました。早瀬となると、容易に前に進んでくれません。

 こんな時は、船頭が船に残り他の二人は河原にあがって引綱を引っ張るのです。

 苦しい作業でした。

    年中賑わった高砂

 冬、日本海は荒れます。したがって、運行する北前船もほとんどなくなります。しかし、高砂の港は波の穏やかな瀬戸内にある港です。

 冬でも、神戸・大坂との運搬は盛んでした。高砂にとって秋から冬にかけて、むしろ後背地からの荷物が集まる季節でした。

 高砂の町は一年中賑っていました。(no4554)

 *挿絵:高瀬船を引く船子(蓬莱家・加東市所蔵)

 ◇きのう(8/10)の散歩(10817歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(257) 近世の加印地域 高砂篇(36)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(7)・加古川の舟運(1)・三つの理由

2018-08-10 10:52:40 | お爺さんが語る郷土の歴史

   加古川の舟運(1)・三つの理由

 松右衛門は15才の頃、兵庫津(神戸にあった港街)に飛び出してしまった。これは彼の夢の続きであったのでしょう。

 彼は漁師の子として生まれたが、高砂町が持つにぎわいがここちよかったに違いありません。

 毎日見ている船の向こうの世界にあこがれていました。

 彼が高砂に生まれていなかったとしたら、港・船乗りの汗、そして見たこともない外の世界にあこがれることもなく、工楽松右衛門という人物も誕生しなかったことでしょう。

 松右衛門を誕生させた当時の高砂の町を散策しておきます。

  高砂は、加古川の舟運(しゅううん)により、その広大な奥の地域と結びついていました。

 ・・・・加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(挿絵)で高砂に集められ、ここから大坂・江戸等へ送られました。

 そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品が流域の村々に運ばれたのです。

 江戸時代、加古川流域は藩の枠を超えて加古川川筋という一つの経済圏が成立していました。

 江戸時代、加古川舟運は盛んになりました。その集散地としての高砂はにぎわいました。

 舟運の発達した理由は次のように考えられます。

     三つの理由(舟運の開発)

 ① 信長の後、秀吉は天正11年(1583)に大坂に城を築き、大坂は政治・経済の中心となりました。そのため、西国の諸物資は、主に船舶により大坂に集まるようになり、加古川流域は大阪の経済圏に組こまれました。俄然、加古川の舟運が注目されるようになりました。

 ②そして、秀吉・池田氏という播磨一国を支配する大名の出現が考えられます。戦国時代のように群小の豪族の経済・技術・政治力では、加古川を通しての舟運開発は不可能でした。

 ③さらに、姫路藩による高砂港の整備があげられます。

 加古川舟運が栄えた主な原因として、以上の三点が考えられます(no4553)

*挿絵:高瀬舟

◇きのう(8/9)の散歩〈11317歩〉

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お爺さんが語る郷土の歴史(256) 近世の加印地域 高砂篇〈35〉、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(6)・松右衛門、15才で兵庫港へ

2018-08-09 10:06:03 | お爺さんが語る郷土の歴史

    松右衛門、15才で兵庫港へ

 さらに松右衛門の姿を想像します。

 高砂出身の工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、廻船業で身を立てました。

 また、帆の改良や様々な工夫により各地の築港に功績がありました。

 それに感銘を受けた大蔵永常(おおくらながつね)は『農具便利論』に、彼の伝記を紹介しています。

 

 松右衛門は、寛保3年(1743)に高砂の漁師・宮本松右衛門の子として生まれ、父と同じ松右衛門を名のりました。

 20才の頃、兵庫津、佐比江町の船主・御影屋平兵衛に奉公して、船乗りになりました。

 40才の頃、主家を退いて兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門廻船商売を始めたといいます。

 石見(現:島根県)浜田外ノ浦の清水屋の「諸国御客船帳」には、安永6年(1777)3月24日、入津の御影屋平兵衛の八幡丸の沖船頭として松右衛門の名があり、同8年5月7日の御影屋の津軽からの上り船・春日丸沖船頭として記録があります。

 そして、寛政4年(1792)6月6日の上り船では「御影屋松右衛門様・久治郎様」とあり、この頃に独立したと考えられます。

 松右衛門は、当時蝦夷地と呼ばれた北海道から日本海沿岸、そして瀬戸内から江戸といった広域で千石船を含む持ち船により、米・木・木綿・荒物(日常生活に使う桶・はたき・ほうき等雑貨)等の買積み活動をしていました。

    40才の頃、廻船問屋を始める

 『高砂市史』の記述によれば、兵庫の津に出て船乗り成ったのは20才の頃でした。別の書では高砂を出たのは15才であったので、しばらく下積みの生活があったのでしょう。

 40才頃、廻船問屋を始めたといいます。

 松右衛門というと廻船問屋と結びつきますが、廻船問屋を始めたのはずいぶん遅い時期でした。(no4552)

 *挿絵:北前船

 ◇きのう(8/8)の散歩(110.400) 

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お爺さんが語る郷土の歴史(255) 近世の加印地域 高砂篇(34)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(5)・高砂の町

2018-08-08 08:10:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

         高砂の町

 松右衛門について簡単に紹介しました。

松右衛門を育てた「高砂の町」について、つけ加えておきます。

 近世(江戸時代)の高砂の町を語るとき、必ずといっていいほど『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)にある右図が使われます。

 高砂の町は、まさに人工的につくられた町です。

 高砂の町は、池田輝正(てるまさ)の姫路への入部(慶長5年・1600)しました。その後、ここに城が築かれ城下町として出発しました。

 城下町は、政治・軍事都市です。

 しかし、高砂の町の性格を決めたのは、元和元年(1615)の武家諸法度(ぶけしょはっと)の「一国一城令」です。

  これにより、高砂城は廃城と決まり、時の藩主・本多忠正(ただまさ)により城郭は廃されました。

 以後、高砂は政治・軍事都市から港町、つまり経済都市として発展していくことになりました。

 高砂は神戸・大坂・江戸と船で結びつき、港町(経済都市)として大きく変ってゆきました。

 また、高砂は広大な加古川流域という後背地(こうはいち)を持っています。豊かな後背地と高砂の町は、大河の加古川によって大きく結びつきました。

 物資は高砂に集まりました。高砂の町は、江戸時代をつうじ飾磨港(しかまこう)と共に姫路藩の港町として繁栄することになりました。

こんな高砂の空気をいっぱい吸って松右衛門は育ったのです。(no4551)

 *図:近世高砂の町割り『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)

 ◇きのう(8・7)の散歩〈10.256歩〉

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