ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

大河・かこがわ(1) 「加印地域」の歴史の話をしよう

2019-07-31 09:55:48 | 大河・かこがわ

       大河・かこがわ (1)

         「加印地域」の歴史の話をしよう

 「ふるさと」という言葉は、それだけで「詩」です。

 子どものころの思い出をいっぱい詰め込んだ言葉です。

 私は、この故郷(ふるさと)に、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町を頭に描いています。

 私的なことで申し訳ありませんが、私の中学校時代(昭和30~32年)の加古川市の人口は5万人ぐらいでした。

 現在は26万人を超えていますから、5倍以上に膨れたことになります。

 多くの人は、加古川市を「ねぐら」にして、神戸・大阪・姫路方面に通っておられます。

 そのためか、「加古川市」が、好きでたまらない故郷であると考える人が少ないようです。

 それに、「加古川市」特に、「加古川の歴史」のことが、あまり語られていないように思えなりません。

 ひどい場合「加古川市に誇れる歴史なんてあるの?」とまで言われる人がおられます。

 それが、あるんですよ。加古川市は貴重な歴史の缶詰のような街です。

 もちろん、この事情は高砂市、稲美町、播磨町も同じです。

 加古川市・高砂市・稲美町・播磨町は、かつて旧古郡・南郡に属しており、加印地域(かいんちいき)呼ばれ、一つの経済・文化圏でした。

 加印地域の歴史は、語られていないだけです。そんな歴史を訪ねましょう。

 テーマを「大河・加古川」としました。(no4712)

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宮本武蔵 in 高砂(34) 武蔵死す (最終回)

2019-07-30 10:00:53 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

      武蔵死す (最終回) 

 正保2年(1645)年、武蔵は熊本で亡くなりました。

 その時の様を、寺林峻氏は『双剣の剣客』で次のように書いておられます。

 きょうのブログは小説です。武蔵の最後は作者(寺林氏)の想像です。

     高砂の潮風をききながら

 ・・・・

 「伊織よ、わしを生国播磨(高砂)へ運べ」

 末期の苦痛が武蔵を攻めているのがはた目にも明らかだった。

 「はい、父上。小康を得なされば、必ず・・・・」

 「ならぬ、今すぐだ。虚空に遍満せる真実はの、最後にはそれぞれがの、生まれし大地に伏せて受けとめるものなのだ」

 途切れとぎれに言うと、「いずこなるぞ、わが生国(高砂)は・・・」立てた右膝に身を預けたまま問う。

 「播磨国(高砂)はあの方角にございまする」

 伊織が寅(東北束)の山並みのはるか遠くを指す。

 武蔵は、一つ小さくうなずき、険しく大きい孤高の眼をその方角にしっかりと据える。

 伊織が寄り、添って父の細くなった背を支えた。

 「気をしっかり持って、剣一途の長いながい遍歴の終わりを、どうか高砂の地にてお迎え下され」

 伊織としても、できれば武蔵を描磨へ連れ帰りたい。

 「おお、高砂浦の波音が微かに聞こえてくるではないか」

 「はい。明け方など風が波音を米田の生家にまで届けてくれました」

 耳に届いている波音が実は有明海のものだと伊織は口にできない。

 武蔵の眼が、そのときにわかに和んだ。

 眼から険しさが消え、孤高の色が消え、心持ち細くもなったかと思うと、伊織は、父を支える腕に重さを感じた。

 「父上っ」

 ・・・・

 5月19日早朝、宮本武蔵は62歳の命をようやく肥の国のしたたる緑の中に溶け込ませた。(no4711)

 *『双剣の剣客』(寺林峻)参照

 *写真:宮本武蔵坐像(熊本県美術館蔵)晩年の肖像画と思われます。

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宮本武蔵 in 高砂(33) 宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

2019-07-29 09:04:12 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

       宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

 この記事は、2012年10月21日、泊神社(加古川町)木村で挙行されたときの再掲です。

 宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典の記事です。

 10月21日が伊織の誕生日で、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。

 プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。

     伊織は明石藩の家老に

 武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。

 泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1656年、荒廃する社殿を再建しています。

     宮本伊織・14代目当主参列

 式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。優しそうな方でした。

 なお、その少し前にNHKのBSで放映された番組でBSでは俳優・高橋弘樹さん・アナウンサーの渡辺真理さんが解説者とともに参加されていました。

その時の解説者は国際武道大学教授の魚住孝至さんでした。

魚住さんは、稲美町出身で加古川東高校から東大に進まれた歴史学者で、おもしろい番組でした。

       宮本伊織、泊神社に燈籠を寄進

 式典の後、本殿裏の伊織寄進の石燈籠を撮影しました。説明を読んでおきます。

 ・・・武蔵の死後8年目の承応2年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくし、石灯ろう(写真下)を奉納した。

 この本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織とその一族である田原正久が寄進したものです。

 二基とも花崗岩製で、承応二年(1653)三月に寄進したことが、銘文によって明らかです。

 宮本伊織のものは、全長297センチ、田原正久寄進のものは全長165センチです。(no4710)

 *写真上:宮本伊織から14代目当主

 *写真下:宮本伊織寄進の灯ろう(二基の内、右側の燈籠)

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コーヒーブレイク  宗佐遺跡(加古川市八幡町)

2019-07-28 07:40:36 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

   今日はコーヒーブレイクです。

 昨日(27日)、午後1:30より、宗佐遺跡の説明会があり出かけました。

 この遺跡に関して、神戸新聞の記事がありましたのでお借りしました。

      宗佐遺跡(加古川市八幡町)

 兵庫県教育委員会は25日、東播磨道の延伸工事に伴い発掘中の宗佐遺跡(同県加古川市八幡町宗佐)で、弥生時代後期~古墳時代初頭(約1800年前)の竪穴住居跡2棟と、水路とみられる溝が見つかったと発表した。

同遺跡の調査は本年度が最終となり、3年間で同時期の住居跡を計14棟確認。いなみ野台地のすそに、まとまった集落があったことが分かった。

 遺跡は2017年に発見され、3年間で約1万平方メートルを発掘。本年度は、うち3300平方メートルを4~8月に調査している。

 弥生後期~古墳初頭の住居跡は、直径約7メートルの円形と、約5メートル×約4メートルの長方形のそれぞれ一部。付近からは溝や、タコつぼなどの土器も見つかり、調査担当者は「台地上の森や集落近くの水源、少し離れた海など、自然の恩恵を受けながら生活していた様子がうかがえる」と話した。

 また、平安時代後期~鎌倉時代の遺構からは、木棺墓や火葬跡、鍛冶遺構がそれぞれ1基見つかり、ふいごの一部も残っていた。戦国時代の洪水跡もあり、前年度までの調査と合わせると、土砂が南北60メートル以上に広がる大規模な洪水だったとみられる。付近の谷川が溢水した可能性があるという。(以下略)(広岡磨璃)(no4709)

*地図・記事は神戸新聞(7月26日)より

*写真は、私の撮影

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宮本武蔵 in 高砂(32) 孤独な武蔵の生涯

2019-07-27 09:11:09 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

 武蔵の年譜の続きとして、もう少し武蔵について続けます。

    孤独な武蔵の生涯

 それにしても、武蔵の一生は孤独でした。

 みずから孤独にのめりこんでいったようなところがあるようです。

 生涯のほとんどは放浪生活でした。

 30歳のころから消息不明となり、再び歴史の上に姿を現わすのは28年後の57歳のとき細川家の客分としてむかえられたときです。

 28年間どこでなにをしていたか謎で、彼かれには世間なみの青春というものがありませんでした。

 妻もめとっていません。

 ときおり、彼の見せる冷酷さもこのことと関係があるのかもしれません。

    武蔵は多芸の人

 この姿を消した30半ばから彼の生活に変化があり、武芸よりも思索の生活に入っていったようです。

 詳細は分かりません。

 武蔵の風貌は、身長5尺8寸(175cm)で力も抜群だったといいます。

 頭に疔を病んだため月代をそることなく、壮年時代は頭髪を腰のあたりまでたらしていたようです。年とってからも肩まで垂らしていました。

 かれの肖像画を見るとやはり異相といってよい顔です。

 武蔵は、明石の地にユニークな足跡を残しています。

 先に紹介したように、元和3年(1617)小笠原忠真が明石に入部して新城の構築と城下町づくりに看手したとき、武蔵はまねかれて町割(都市計画)を担当しました。

 武芸者の彼がどこで町割りの技術などを学んだのか、また、(明石の)小笠原家とどういうゆうゆかりがあったのかはっきりしていません。

 明石の中心部十ヵ町は、武蔵により原型ができあがりました。

 (no4708)

 *『兵庫人国記(黒部亨)』(神戸新聞総合出版センター)参照

 *絵:宮本武蔵肖像画(部分)・島田美術館蔵

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宮本武蔵 in 高砂(31) 宮本武蔵の年譜

2019-07-26 08:05:04 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

            宮本武蔵の年譜

 「宮本武蔵 in 高砂」では、あまり順序だった記述になっていません。流れがつかみにくいと想像します。

 ここに、武蔵の年譜を紹介しておきます。整理ください。

    宮本武蔵の年譜

 1584年  武蔵米田に誕生

 1588年  このころ田原家から新免家

        (作州大原)に養子に行く

 1596年  初めて、剣客と試合をして勝つ

 1600年  黒田氏に陣借りをして関ヶ原の合戦に参加

 1604年  京都・一乗寺で、吉岡一門との対決

        このころから、禅・絵画・作庭の研究

 1612年  巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ

 1617年  甥の伊織を養子とする

        このころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする

        明石小笠原家の客分となる

 1626年  養子官本伊織、小笠原家の家臣となる

 1634年  伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる

 1636年  伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も参加

 1640年  熊本藩主細川氏の知偶を得る

        熊本に住み、絵画・書・詩歌をたしなむ

 1645年  「五輪書」が成立

 同年62才で死亡

 1653年  伊織、泊神杜を再建(no4707)

 *絵画:武蔵13歳の肖像(島田美術館蔵)

 

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宮本武蔵 in 高砂(30) 武蔵の町割り(明石城)

2019-07-25 10:07:08 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

    武蔵の町割り(明石城)

 元和3年(1617)11月、幕府は小笠原忠真に命じて瀬戸内海の要所の明石城を築かせました。

 明石城は、姫路城主本多忠政にも協力させて築かせた城です。

 

 その明石城の築城に当たり武蔵が町割りを行ったと伝えられています。

 数年後に書かれた明石の町年寄の記録には、「・・・元和四年、小笠原忠真様御家士、宮本武蔵といふ人、町割す」とあります。

 武蔵が小笠原の家士というのは誤っていますが、武蔵が町割りをしたことは、 『明石記」や『播磨鑑』等々にも見られるので、何らかの形で町割りに加わったのは事実であろうと思われます。

 城下の町割りをする者には、軍略的知識のみならず、当地の地形、地勢、地誌を熟知し、その地の有力者と交渉する力も必要となります。

 ところが、本多家(姫路城主)も小笠原家も播磨の地に移封してきたばかりでした。

 当時三十代半ばの武蔵は、生国であるこの地の地理に明るく、武芸者として諸国を歩いてきたので城下町についての知識も豊富です。

 そして、実家の田原家(現:高砂市米田町)の関係から、この地の有力者とのつながりもあったでしょう。

 武蔵は、三木城を壊し、新たに本格的な城下町を明石に営むにあたって重要な役目を果たしたのであろうと思われます。

 正式な役職としては藩の町割り奉行がいたはずであるが、実際には武蔵の働きによるところが大きかったと想像されます。

 町割りに関わったのが事実だとすれば、武蔵は一武芸者というだけでなく、藩の重要事に助力するだけの信用を得ており、それだけの実力を持っていたことになります。(no4706)

 *図:正保城絵図「播磨国明石城絵図」正保2年・1645。国立文書館蔵

 *『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書参照)

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宮本武蔵 in 高砂(29) 武蔵の絵「枯木鳴鵙図」

2019-07-24 09:41:53 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     武蔵の絵「枯木鳴鵙図」

 「枯木鳴鵙図」は、鵙が画面の上部の木の枝に高くにています。

  鋭い眼は、枯枝を這ってくる虫を捉えているだけでなく辺りを圧しています。

 筆遣いは、枯木は下から「すうっ」と伸び、さらに継いで右へ掻(は)ねています。

 細い枝が描かれています。

 右下の空間には、枝と葉がうすく面的に描かれています。

 上下左右の見事な画面構成で、武蔵の優れた空間感覚を示します。

 知らなければ、この絵は宮本武蔵が描いた絵とは思われないでしょう。

 この絵は、まさにプロの絵です。

 

 徳川幕府は、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、合戦の世を終息させるや、幕府は

 一国一城令を出し、藩主の居城を除き、他のすべての城砦の破却を命じました。これは諸大名の軍事力を削ぐための措置でした。

 続いて「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を公布して、大名を法的に規制し、同時に「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」も公布して、朝廷や公家の伝統的権威を弱め、宗教勢力も統制下に置いて近世社会の秩序を形成していったのです。

  幕府が権力強化のために大名を改易(かいんき)し転封することが頻発する時代となりました。

 諸大名にとって、暮閣や他の大名、・旗本との交際はいわば「外交」であり、文武の道を嗜(たしなん)で、信頼を得るとともに、情報を取ることが重要時代に激変しました。時代の雰囲気が変わったのです。

 武蔵は、本来多能な人でしたが、時代が変わり、自信の考えが変わる中で絵画に世界、「五輪書」に没頭したようです。

 それにしても武蔵は多能な人でした。(no4705)

 *「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」(和泉市久保惣記念美術館造)

 *『宮本武蔵(魚住孝至著)』(岩波新書参照)

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宮本武蔵 in 高砂(28) 宮本造酒之助(三木之助)

2019-07-23 09:33:14 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

               宮本造酒之助(三木之助)

 武蔵は、伊織の他に養子をとっています。造酒之助(みきのすけ)です。

 姫路藩主となった本多忠政の嫡男、本多忠刻(ただとき)は剣術を好み、宮本武蔵を七百石で召し抱え、自ら流儀を学び、家士にも学ばせたが、武蔵が暇を申し出たので、武蔵のもう一人の養子造酒之助(三木之助)を取り立て、忠刻は造酒之助から神明二刀滞の奥義を授けられたといいます。

 この辺りの状況を、小説ですが『双剣の客人(寺林峻著)』を読んでみます。

      造酒之助(三木之助)の殉死 

 寛永三年(1626)初夏、三木之助(『双剣の客人』では、三木之助を使っています)が剣の指南をしていた本多忠刻が病死したのである。

 二年ほど前から忠刻は病がちになって剣の修練どころでなくなったので、三木之助は本多家から暇をもらって江戸へ出ていた。

 そこで、忠刻の死を知ると急ぎ姫路へ帰る途中、大坂にいた武蔵の仮寓先を訪ねてきた。

 武土の習いにそって殉死したいと三木之助がいうのを、武蔵はしきりに引き留める。

 すでに臣従の絆は断っていることだし、剣に生きる者が24歳にしてわが命を断つるは、天命にもとる。

 そんな説得が効いてもう一度剣の道を歩もうとなり、とりあえず香を手向ければすぐに帰ってきますと西(江戸)へ向かった。

 ところが。風に乗って届いたのは三本之助の殉死だったのである。

 急ぎ播磨へ帰り、書写山へ詣でて三木之助の霊に香を捧げる。

 珍しく人の気配のない午(ひる)下がりで、静寂に締めつけられながら武蔵は両の拳でしばらく膝を打ち続けた。(以上『双刀の客人』より)

  造酒之助の墓は、書写山円教寺の藩主忠政、忠刻等が眠る本多家廟の一角にあります。(no4704)

*「双剣の客人(寺林峻著)」参照

*写真:姫路城主、本多家の廟所(書写山円教寺:造酒之助は本多家の廟に眠っていま)

 

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宮本武蔵 in 高砂(27) 養子・伊織は兄の子

2019-07-22 08:58:28 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

   話の筋が前後して申し訳ありません。

 今まで宮本伊織について説明もなく書いていましたが、少し話を戻し説明をしておきましょう。

             養子・伊織は兄の子

  後に、武蔵の養子となる少年伊織も米田に生まれました。

 家系図に従えば、伊織は、武蔵の実兄・田原久光の第二子です。

 武蔵は、甥を養子に迎えたことになります。

      伊織、明石藩に仕え、そして小倉藩に移る 

 妻子のなかった武蔵は、造酒之助の死後、新しい養子をもらいたいと、兄・久光に頼み、伊織を迎えることになりました。

  先に紹介したように、伊職は、田原本家を継いでいた久光の二男として、慶長17年(1612)に生まれています。

  15歳で、武蔵の推挙で明石藩主・小笠忠真に仕えました。

  武蔵は、伊織を養子として迎え、すぐに小笠原家に差しだしたようです。

  伊織は、忠真の側近として、次第に藩経営に才能を開花させ、弱冠20で藩政の中枢に入りました。

  寛永9年(1632)、主君の小笠原忠真が小倉へ転封されますが、伊織もこれに従い、小倉移り2500石の家老職についています。

  小倉に移って6午目、島原の乱の鎮圧のため小笠原軍が出陣します。

  伊織は、筆頭家老として存分の働きをしたようで、鎮圧後、加増され、4000石を与えられています。(no4703)

  *『Ban Cul(2003冬号)』の橘川真一「武蔵の実像」参照

  *写真:米田の西光寺の武蔵と伊織の像(伊織は左、右は武蔵)

 

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宮本武蔵 in 高砂(26) 一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)

2019-07-21 10:20:47 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     一乗寺下り松の決闘(吉岡一門との決闘)

 京都・洛東、一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)。 由緒ありげな地名です。

 一帯は旧一乗寺跡で、かつて松の巨木が生えていました。

 これが、下り松です。

 関ケ原から四年。21歳の武蔵が吉岡一門の剣客集団を一人で打ち破った決闘の地です。

 吉岡家は、剣道指南に当たり、室町将軍の指南役として「室町兵法所」の看板を許され、都では重きをなしていました。

 自らも「扶桑(日本)第一」、つまり日本一の剣道家を名乗っていました。

 室町幕府の滅亡とともに、その威光も衰えましたが、それでもなお、京では多くの門弟を抱える老舗の道場でした。

 この名家と武蔵が、なぜ対決したのかはっきりとしませんが、それはともかく、武蔵と吉岡との決闘については、武蔵の養子・伊織が残した小倉碑文に刻まれています。

 決闘のクライマックスは、この一乗寺下り松の死闘ですが、これは、三度目の対決で、それまでに二度にわたる前哨戦がありました。

 最初は、吉岡四代目宗家・清十郎との戦いです。

 場所は金閣寺の東数百メートルにある蓮台寺野。勝負は一瞬にして決まりました。

 木刀を手にした武蔵は、一撃で清十郎を倒したのです。昏倒した清十郎は、戸板で道場に運び込まれました。

 奇跡的に一命は取りとめたが、敗北後、清十郎は出家しています。

 二度目の場所は不明ですが、相手は吉岡五代目の伝七郎。清十郎の弟です。

 兄の敵、と五尺余の木刀で挑んだのですが、これも瞬時に打ち負かされ、伝七郎は絶命しました。

 面目を失った吉岡は、今度は、一門挙げて武蔵に最後の勝負を挑みました。これが一乗寺下り松の決闘でした。(no6702)

 *『宮本武蔵(中元孝迪著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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宮本武蔵 in 高砂(25) 佐々木小次郎との決闘

2019-07-20 09:18:48 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

         佐々木小次郎との決闘

 『宮本武蔵(魚住孝至)』(岩波新書)から引用させていただきます。(文体を変えています)

 ・・・・

 あらためて、佐々木小次郎との決闘を確かな資料を用いて考えたいのですが、『五輪書』にも何も書かれていません。

 この「巌流島の勝負」の最も古い記録は、武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の没後九年になる承応三年(1654)に、小倉の手向山(たむけやま)に建立した武蔵顕彰碑の文章です。

  まず勝負が行われたのは、碑文では「長門と豊前との際」の「舟嶋」です。この島は、後に「巌流島」と呼ばれますが、当時長府藩領であったことを考えると、小倉藩の家老が関与し藩の検使が付いたという公式の勝負ではなく、武蔵と小次郎との間の私闘であったと思われます。

 真剣を以て勝負しようと言った岩流に対して、武蔵は「木刀でよい」とし、舟嶋で勝負をしています。

     武蔵、木刀の一撃を以って小次郎を殺す

 「武蔵、木刀の一撃を以って之(これ)を殺す。電光なお遅きがごとし」と書いています。

  碑文は、勝負が行われた小倉の地に、当時を知る者も多くいた時期に建てられたものであり、虚偽の事柄は書ける状況にはないのです。これが勝負の事実のあらましだったと思われます。

 

 吉川英治の小説『宮本武蔵』、小説を書くにあたり、江戸時代後期の『二天記』やそのもととなった『武公伝』にほぼ準じています。

 この『二天記』は、晩年、武蔵を応援した熊本藩の筆頭家老であった、豊田影英(かげひで)がまとめた武蔵の伝記です。

 しかし、『二天記』『武公伝』は、武蔵が亡くなって100年以上もたって書かれており脚色されており、『武公伝』・『二天記』は、佐々木小次郎の勝負の話はほとんど創作であろうといわれています。

 『武公伝』までに書かれた勝負の場面は、武蔵が巌流島に遅れて記述等は見当たりません。(no4701)

 *写真:佐々木小次郎像

 *一乗滝:福井県福井市

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「ひろかずのブログ」が4.700号になりました

2019-07-19 10:45:33 |  ・コーヒーブレイク・余話

    ひろかずのブログ」が4.700号になりました

        「宣言」です! 5.000号まで続けま~す

 16年前に退職しました。それまで、退職後のことはあまり考えませんでした。忙しさのためです。

 とりあえず、退職後、ある大学で2年間、英語を勉強しました。

 その時の修士論文を少し修正し、編集した冊子が『A History of Kakogawa City』(英語で読む加古川の歴史)です。

 問題は、その後でした。次に、することを考えなければなりません。

時間は、たっぷりあります。

 地域を散策して、感想をブログで配信することにしました。

 その内に、在職中の残骸があり、話題がだんだん歴史(地域史)に焦点化してきました。

 その後「ひろかずのブログ」は大きな事故もなく続き、きょうで4700号になりました。

 こんな作業をしながら集めた記事の一部をまとめたのが『加古川さんぽ(市内)各町の歴史散策』です。

 『ひろかずのブログ』は、今日で4700語になりました。もう300号で「5000号」になります。

宣言します。とにかく「ひろかずのブログ」は5000号まで続けて、終わりとします。

 そのあと『加古川は流れる』(仮題)を書こうかなと思っています。

 『加古川は流れる』の加古川は、加古川市の歴史ではありません。加古川市・高砂市・播磨町・稲美町を含めた歴史の流れを纏めようと、大それた希望を持っています。

 それが終わるころ、私の頭は動かなくなるのでは・・・・。

 もうしばらくお付き合いください。(no4700)

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明日(18日・木)のBAN‐BANラジオをどうぞ

2019-07-17 12:54:40 |  ・コーヒーブレイク・余話

           明日のBAN‐BANラジオをどうぞ

 明日(18日・木)、BAN-BANラジオで谷五郎さんと竹内明美さんと私で『加古川さんぽ』について話し合いが放送されます。

 以前にも冊子を何冊か出したことがありますが、こんなにも反響があったのは初めてでビックリしています。

お時間がありましたらお聞きください。

  ≪放送日時≫ 

 番組名:はりま~るラジオ

    7月18日(木) 19:00~19:30

 (再放送)20日(土)   9:00~9:30

 なお明日のブログ(宮本武蔵 in 高砂)は都合でお休みとします。(no4699)

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宮本武蔵 in 高砂(24) 最初の決闘

2019-07-17 08:03:52 | 宮本武蔵 in 高砂市(米田町)

     武蔵の決闘(1) 最初の決闘

 武蔵は、『五輪書』に、生涯「60年ほど勝負(決闘)するとも、一度も負けたことはない」、と誇っています。

 

 ここで、武蔵の決闘を2、3を見ておきます。

 今回は、武蔵の最初の決闘です。

 下記は武蔵の年譜の一部です。

 

   1584年  武蔵米田に誕生

   1588年  このころ田原家から新免家

          (作州大原)に養子に行く

   1595年  初めて、剣客と試合をして勝つ

     有馬喜兵衛との決闘(『佐用郡誌』より)

 初めての決闘は、武蔵の言葉によれば1595年に13才の時でした。

 闘いのあらましは、有馬喜兵衛の他流試合を誘う挑発的な高札に、武蔵が「明日、試合を受けて立つ」と墨書して立ち去りました。

 武蔵は、相当の悪ガキであったようです。

 武蔵を預かっていた寺の住職がそれを知り、驚き慌てて「子どものいたずら」と有馬側に詫びを入れました。

 有馬側は、納得しましたが、当の武蔵が意に介せず棒で打ちかかり、なんなく勝ちを得てしまったというのです。

 一般の伝承では、有馬喜兵衛は、諸国を綿有する武芸者としていますが、『佐用郡誌』は、次のように描いています。

 ・・・「(佐用郡の)平福に賭博(とばく)をもっぱらにし、暴行をふるう有馬喜兵衛なる者がいました。

 喜兵衛は、武芸はできたのですが暴れ者で、村内の平和を破り、村人から蛇蜴(だかつ)の如く嫌はれていました。武蔵は幼かったがこれを憎み、しばしば口論となりました。

 そのため、喜兵衛と立会い、一刀のもとに伐り伏せ、そのまま行方をくらましてしまいました。この時、武蔵は13歳でした。

 この決闘は、様々に語り継がれており、はっきりしたことは分かりません。

 きょうは、『佐用郡誌』からの決闘を紹介でした。(no4698)

 *写真:武蔵と喜兵衛との決闘の場(兵庫県作用市平福)

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