ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(265):播磨町を歩く(146) 巡礼琵琶湖遭難事件

2014-09-30 12:59:52 | 播磨町

  巡礼琵琶湖遭難事件
 西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。
 人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。
 第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。
江戸時代になり、治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
 播磨町関係は10名が水死
Img
 事件は起こりました。
 宝暦5(1755)317日の夜半、琵琶湖に浮ぶ竹生島の西国三〇番札所・宝厳寺の参拝を終えた巡礼一行は、船で次の札所に向かっていました。
 突如、比良山からの突風をうけて、無残にも3人の船頭を含む72名全員が水死してしまいました。
 遭難者の出身地は、摂州・淡州・紀州・作州・若州・讃州・備州そして播州にまたがっており、播州20名のうち、播磨町関係者は、大沢村大辻孫兵ヱ他1名、野添村5名、二子村3名計10名でした。
 彼等が札所の順番どおり参拝していたとすれば、那智山をふリ出しに大和路から近江・山城・摂津・若狭経て江州高島郡に入り、木津の浦から竹生島に至る巡礼の旅であり、さらに長命寺から陸路、観音正寺を経、琵琶湖東岸を北上し、美濃の国、谷汲山華厳寺で結願となる予定でした。
 残す3か寺を目前にしながら悲しい出来事でした。
 *播磨町史『阿閇の里』参照<o:p></o:p>

 

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さんぽ(264):播磨町を歩く(145) 川端地区の道標

2014-09-29 07:06:19 | 播磨町

 川端地区の道標
002
 山陽電鉄播磨町駅の北に、大中地区から来た道が喜瀬川を越えるところに野添橋があります。
 その橋を渡りると、目の前にコンビニがあり、コンビニの西側の道向に、川端地区の小さな消防ポンプの倉庫があります。
 その倉庫の南東角に、町内唯一の道標が元の場所にあります。
 注意しなければ、気付かずに通り過ぎてしまうそうです。
 高さ70センチ、幅20センチの凝灰岩の道標です。
 南側から見ると、「右明石 左三木」と書かれています。
 一方、裏側の土山の方向から見ると、「そく 高砂 道」と書かれているように見えます。
 しかし、これは「春く」と書いていて「すく」と読み、「春」はひらがな読みで「す」の音を表して、「すく」は「すぐ」の音の濁音を避けた書き方です。
 「すぐ」は。「もうじき」と言う意味ではなく、道標では、「そのまま真っすぐ」という意味です。
 漢字では「直ぐ」です。
 播磨町では道沿いに残るのは、この道標だけです。
 道標は、ほとんど江戸期のものが多く、明治までは、人びとはひたすら歩くしかなかったので、旅行や寺社参りなどをする時は、道標をたよりにして旅をしていました。
   
本庄三丁目にあった道標
 なお、播磨町本庄三丁目に建てられていた播磨町では数少ない道標が、播磨郷土資料館玄関に向かって左に保存されています。
 郷土資料館へ行かれた時ご覧ください。
 *『播磨町の歴史』参照
 *写真:川端地区の道標

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さんぽ(263):播磨町を歩く(144) 阿閇村があった

2014-09-28 06:39:34 | 播磨町

  阿閇村道路元標(げんぴょう)
Hamanomiya_s_038
 ある記録を読むと「昭和3741日、兵庫県下最後の村「阿閇(あえ)村」が、改称され「播磨町」が誕生した。その「阿閇村」の名を彫った石が残っている・・・」とあります。
 先日(8月中旬)、夏のさかりの午後、この「阿閇村道路元標」を捜しに出かけました。
 記録にある場所辺りを捜しました。お茶を片手に、あたりを歩き廻りました。
 見つかりません。その日の調査は、収穫もなく終わりました。
 きのう(927日)の午後、郷土資料館へ出かけました。なんと、玄関に向かって右隅でこの元標を見つけました。説明はつぎのようです。
 <阿閇村(現播磨町)道路元標>
 道路原標は、大正9年(1920)町村間の距離を計るために、各町村の役場近国建てられました。
 この元票は、当時の阿閇村役場(阿閇村本庄字東所1689番、現本庄2丁目)横にありました。

   残っていた「阿閇村」の名称
 道路元標は、大正8年に内務省令で設置が義務づけられました。
 材料は、石材など耐久性の強いものを使用するようになっています。
 寸法も、だいたい統一されていたようです。
 幅・奥行きは共に256センチ、高さは60センチ前後と思われます。
 大正時代の加古郡は213村がありました。
 施行時には元標を全町村に設置していたはずですが、現在9基しか残っていません。
 町村間の距離を計る目的で設置された元標は、町村の主要地・村役場や神社付近の道路に建てられていました。
 しかし、道路の新設・拡張・役場の移転などで元標の位置も移動し、本来の町村間の距離も年代や資料よって違うようになりました。
 その上、現在の道路法(昭和27年)では、元標の設置を義務付けませんでしたから、やがてその存在が忘れ去られていきました。
 とにかく、「阿閇村道路元標」は、元の場所ではありませんが保存されていました。
 『阿閇村』の名前が残っていました。
 *「郷土の石彫」(神戸新聞、昭和57720)参照
 *写真:「阿閇村道路元標」(郷土資料館玄関脇)

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(262):播磨町を歩く(143) 海に生きる②・海運

2014-09-27 06:52:27 | 播磨町

  海に生きる②・海運
 豊臣秀吉のころには、中世以来の海賊を禁じ、朱印状をもった船が、中国大陸・台湾・東南アジア各国と貿易していました。
 この貿易が、そのまま発展していたなら、欧米先進国なみの船舶や航海術をもつようになったと思われますが、
江戸幕府は、じつに小心でした。
 幕府は諸大名や民間が航洋船の大型船を持っていることが不安でした。
 そのため、大型船の建造を禁止しました。
 以後、通称「千石船」などといわれる江戸期を特徴づける和船が登場します。
   盛んになる海運
Kitamae_fune
 幕府と各藩は、集めた米を江戸・大坂などの都市へ送り、金に換える必要があり、そのため船運が盛んとなりました。
 幕府が、寛文1012(167072)河村瑞賢に開発させた奥州太平洋岸から江戸へ、さらに出羽国(秋田・庄内など)から西廻りで大坂・江戸へ運ぶための諸施設や態勢を確立させたのです。
 鎖国によって500石積(500石・これは75トンになる)以上の船の建造は禁止されていましたが、寛永15年(1638)に商船についてのみ解かれ、大坂・江戸間の樽廻船(たるかいせん)・菱垣廻船(ひがきかいせん)をはじめとして、千石を越える新造舶が、つぎつぎに就航しました。
 廻船より小型の渡海船でも比較的大きいものは東は和泉・紀伊、西は長門・九州まで行っていたようです。
 寛延・宝暦年代では、塩・薪・干鰯・筵などを買いとって、運んで売ってくる「買積み」と米・雑穀などを運賃をとって運ぶ「賃積み」の両方がありました。
 これらのことが明細帳や諸記録に出ています。
 なお、播磨町域から御影あたりの大型船の雇われ水主(かこ、船乗り)として、江戸行き航路に乗った人も、また、西廻りで日本海へ行く「北前船」に乗り組んだ人も少なくなかったようです。
 *播磨町史『阿閇の里』参照
 *挿絵:日本海をゆく北前船<o:p></o:p>

 

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さんぽ(261):播磨町を歩く(142) 海に生きる①

2014-09-26 08:22:30 | 播磨町

  海に生きる①
013
 海に面した昔の村は、どこでも漁業をしていたはずだと思われるのですが、なぜかそうなっていないようです。
 播磨町域の漁村でも古宮村と東本庄村だけに漁船があって、西本庄村も宮西村も漁船がおかれていないのです。
 たとえば、宝暦七年(1757)西本庄村明細帳には「猟船無御座候(りょうせんござなくそうろう)」とあります。
 漁業権の制約をうける何かの理由があったのか、舟あげ場に何か支障があったのか、今のところ原因はわかりません。
    
漁は監察制度で
 魚種・漁法についてくわしいことはわかりませんが、古宮村の寛延三年(1750)の村明細帳によると、次の記載があります。
  
漁船五拾七般艘 持主五拾七人
 ただし、イイダコ・クモダコ・カキ・エボシその外、手繰網(てぐりあみ)・大蛸漁仕り候
 所にて売り申し候
 折節(おりふし、ときどき)は、大阪へ登せ申す儀も御座候<o:p></o:p>

  運上銀は右に書き記(しる)し御座候
 他所より漁船人込み申さず候
 漁師運上銀(税)は、次のとおりである。
 これを見ると、主な魚種について鑑札を買わせて税を確保するとともに、鑑札がないと、その漁ができない仕組みになっていたようです。鑑札は1年間有効で、当然腕前や精の入れ方によって漁獲量も違ったことでしょう。
 イイダコが番いい値になっています。
 手繰網で何をとったのかわからないのが残念です。
 漁船57艘で延べ127枚ということは、一そうで二枚の割宛てにしかなりません。
 一艘あたり、あまり多くの種類の魚を撮っていないようです。
 「本荘貝」などは、とっていたと思われるのですが、運上(税)の対象にはなっていなかったのか、記録にあらわれていません。
*播磨町史『阿閇の里』より
*写真:現在の本庄の浜<o:p></o:p>

 

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さんぽ(260):播磨町を歩く(141) 山之上遺跡

2014-09-25 08:13:49 | 播磨町

 旧石器遺跡
 昭和6年、考古学者の直良信夫(なおらのぶお)は、明石市の西八木海岸で、化石化した人類の腰の骨を発見しました。この骨は、教科書にも登場する「明石原人」の骨です。
 しかし、戦前の日本の学界は「日本には、旧石器時代が存在せず、疑わしい・・・」として、これを否定しました。
 不幸は重なり、この骨は東京空襲で焼失してしまいました。
 しかし、昭和24年(1949)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の発見により、わが国にも、縄文時代以前に人類が住んでいたことが確かめられました。
 兵庫県では、昭和35年・家島群島の無人島・太島(ふとんじま)で旧石器の存在は確認されたのですが、本土側では、旧石器の存在は依然として謎のままでした。
 しかし、「県下にも旧石器は必ずある・・」と信じていた一人のアマチュアの考古学愛好家がいました。
 当時、印南郡志方町で町議をしていた三村秀弘氏です。
志方町細工所から野尻に向かう道沿いの「七つ池」で、三村氏は旧石器を発見しました。
 山之上遺跡
003
 引き続き、他の場所でも旧石器遺跡が確認されるようになりました。
 大中遺跡の西に隣に住吉神社が鎮座しています。
 この地は現在加古川市に属していますが、地形的には大中遺跡がある台地の一部です。
 この台地の西に広がる池で旧石器が多数発見されました。
 この遺跡は弥生・縄文時代を越えて、今から約2万年前の旧石器時代のいせきです。
 ことの始まりは、昭和38(1963)、浅原重利氏が潰目池の土砂の中から採集していたサヌカイトの石片の中に旧石器が混ざっているのを、犬中遺跡の発掘調査に訪れていた明治大学の学生が指摘したことでした。
 池は、洪積世台地の最南端、加古川市平岡町山之上にあり、海抜13メートルで、現在は農業用溜池兼水上ゴルフ練習場になっています。
 多くの旧石器は、この潰目池の堤改修工事、池底部の掘り下げの際に採取され{ものです。採取された旧石器等は郷土資料館に展示されています。
 *写真:潰目池(大中遺跡の西隣り)
 *『歩いてみよう・播磨町の歴史』参照<o:p></o:p>

 

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さんぽ(259):播磨町を歩く(140) 伊能忠敬測量隊来る

2014-09-24 07:19:50 | 播磨町

  伊能忠敬の測量
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 あの正確な、「日本全図(大日本海輿地全図)」を完成させるために、伊能忠敬の一行が播磨町域を測量しました。
 天文2年(1805)9月23日、大津を出発し、途中を測量して伏見から大坂に出ました。
 107日に兵庫に着き、播磨海岸を西に進んで、9日明石の大蔵谷に泊っています。
 そして、10日は明石郡の西嶋村(現:明石市大久保町)まで調査をして、その日は西嶋村の極楽寺で宿泊しています。
いよいよ、翌日の12日、伊能忠敬一行は、西嶋から西の方面の測量を実施しました。<o:p></o:p>

  伊能忠敬の測量は、文化2年(18051012
 播磨町域の調査は、文化21012日のことです。
 その日は、現播磨町の村々から別府(加古川市)を経て高砂まで調査をして、高砂で二泊しています。
 「測量御用聞合」という史料があります。
 これは古宮組大庄屋が、代官の佐治八茂蔵に提出した文書です。
 それによると、忠敬一行の人数は、17人ほどでした。
 伊能忠敬の身分は小身ですが、幕府直属の役人であり、仕事は幕府の公務です。
 古宮組の大庄屋のこの「測量御用聞合」から、伊能忠敬が、この播磨町域を測量するときの実際や一行の氏名、提出した資料の記載事項を知ることができます。
 詳細については、播磨町史『阿閇の里』(p24045)をご覧ください。
 幕府の役人としての忠敬が、公用として実施する測量であるため、領主も地元民もよく注意して一行を迎え、対処をしたようです。
 忠敬の地図は、このようにして、多くの人の協力によって作られました。
 *播磨町史『阿閇の里』、『加古川市史(第二巻)』参照
 *図:「伊能図(部分)」より(海岸の赤線は測量経路、赤丸は郡境)

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さんぽ(258):播磨町を歩く(139) 天領(二子村)の訴訟

2014-09-23 07:06:29 | 播磨町

 恐れながら御訴訟
Photo
 天保七年(18364月から6月にかけて長雨がつづき大凶作でした。
 その翌年の天保八年(1837)は、ある記録では山陽・南海道の作柄は五分五厘(平年の5.5割)で、全国平均では四分二厘四毛(平年の4.24割)であると記録しています。
 このような場合、零細農民は、そのあおりを食い、借金の抵当に悴や娘を奉公に出さねばなりませんでした。
 年貢を完納しなければならなかったのです。
 また、天明の頃から凶作の関係からか、どの地方でも金銀の借用証文が庄屋文書の中に増えてきます。
 これは当時の借用証文は借主・請人(保証人)の他に庄屋の奥書(文書の保障)を必要としたので、庄屋宅にその控の文書が残っているためです。
 この金銀の借用について田畑が質物として差入れられるのが普通です。
 当然のことですが、借金は利息をつけて払わねばなりません。
 うまく返済できればよいのですが、借金が不払いになり、訴訟(裁判)になることもしばしばでした。
    天領(二子村)の訴訟
 借主と貸主が同一藩内の場合は、近くの役所で裁判となるのですが、天領など領主が異なる場合は、その裁判は大坂か京都の奉行所まで持ちこまねばならなかったのです。
 したがって、それに要する費用は大変でした。
 播磨町では、そんな例を二子村の文書「恐れながら御訴訟」(播磨町史『阿閇の里』p2612)にみることができます。
 内容は省きますが、
天領の訴訟の場合、大坂・京都の往復の旅費や滞在費だけでも大変です。
 奉行所も村(個人)が裁判を維持することの困難さを知っており、他の例でもずるずるとのばしており、多くの場合「下済」すなわち、双方が譲歩して双方の和解で裁判を決着させています。
 二子村の場合も結果はどうなったかについては定かではないのですが「下済」になったのかもしれません。
*播磨町史『阿閇の里』参照

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さんぽ(257):播磨町を歩く(138) 奉公人と請人

2014-09-22 07:07:34 | 播磨町

 奉公人と請人(保証人)
Photo
 商品経済や貨弊経済がさかんになってくると米や特産物を取扱う商人が台頭してきて、各藩の財政か苦しくなってくると大名貸をする大商人も生れました。
 大名は、借金の返済のために年貢の率を高くしました。
 剰余があるときはよいとしても、天災等が重なったときは減免や破免を願い出てもなかなか許されません。
 村の連帯責任として年貢は納めなければなりません。
 年貢の未納(末進)はどんなことがあっても許されません。
 そのため、近くの金持ちから金子を借りてでも完納することになります。
 多くの場合、その借金の返済するあてがないのが普通でした。
 そのため、子どもを一年間働かせ返済にあてることになりました。
 いま、播磨町にある天保九年(1839)の古文書をみることにしましょう。
 
奉公人請状(ほうこうにんうけじょう)
 古宮組経田村、与三右ヱ門は今年の年貢米を払うことができません。
 (
経田村・・・明治時代の初めの頃、古向村の「古」と経田村の「田」をつなぎ合わせ古田村としました)
 そのため、子ども(倅)の徳蔵と申す者が、今年の1213日より、来年野1213日まで、給銀として百拾匁で働くことになりました。
 前払いでたしかにそれを受け取り、年貢米の費用にあてました。
 そうする以上は、奉公大切に勤めさます。
 もし、そうしなければ代わりの人を働かせます。
 万一、無断で村から離れた場合、このときは当方で捜します。
 そして、雑物(ぞうもつ・持っているもの)で支払いさせ、働かせます。
 そのとき、本人や御家風があわない場合は、代わりの人にかえます。・・・中略・・・奉公人について、どのような災難が生じようと請人(保証人)の者より、少しも損をおかけしません。
 後日のために奉公人請状よって件(くだん)の如し(記しておきます)
 
  天保九戊年十二月
 古宮組経田村奉公人親
 
                      与三右ヱ門
 奉公人
 
                  徳 
 同組西本庄                    同組同村請人
 
□五郎殿              □□□
 *播磨町史『阿閇の里』参照

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(256):播磨町を歩く(137) 五人組制度

2014-09-21 15:30:31 | 播磨町

  五人組制度
 江戸幕府成立まもなく、キリシタン禁止や、浪人の取締りなどの警察的な目的で強制的に施行・制度化されたものに「五人組制度」があります。
 村方では、惣百姓・町方では地主・家主の五戸一組を原則とし、その長を五人組組頭(くみがしら)と呼びました。
 「五人組」の役割は、異教徒や犯罪を相互監察によって防止・告発することにあり、これに対する連帯責任の負担および年貢納入の確保などに利用されました。
 播磨町にも、数少ない五人組帳として、天保十一年(1811)の「古宮組宮西村五人組御改帳」があります。
 
古宮組宮西村五人組御改帳
Img
 それには、十七か条の遵守すべき前書きと、五人組の氏名・当主・続柄・女房およびその出所・子弟の年令までくわしく書きあげられ、五人組帳は当時の住民台帳の役割も果しました。
 詳しくは、播磨町史『阿閇の里』(p1278)をご覧ください。
   
狭い通婚圏
 また、この五人組帳から当時の宮西村への嫁いできた嫁や、養子・養女に来た人の出生地を知ることができます。
 つまリ、当村44名のうち18(44%)が村内縁であり、古宮組内の他村からの10名を合わせても古宮組全体では64%となって過半数を越えています。
 これは他組、他領の人との縁組については、寺請けや、庄屋等の許可を必要とし、手続きの面で面倒であったのかもしれません。
 しかし、少ないのですが遠い御影・小野・姫路との縁組もありありました。
 その他、子どもについてみると、養男子と実男子の比率は16、同様に養女子と実女子との比率は14とかなりの高率で養子・養女が見立ちます。
 また、実子の男女の比率を分析した村津雅夫氏は、その比率が21を示していることから出生時における女児の間引きを推測されておられます。
 *播磨町史『阿閇の里』参照<o:p></o:p>

 *写真:『宮西村五人組改帳』(『阿閇の里』より)

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さんぽ(255):播磨町を歩く(136) 厳しい生活規制

2014-09-20 04:02:14 | 播磨町

  厳しい生活規制
Img
 江戸時代初期は、杜会的分業の度合はまだ一般に大きくありませんでした。
 しかし、江戸・京都・大坂に人口が集中し、流通市場が形成されてくると、自領内だけにおける米の流通市場はあまりにも狭く、いきおい、上方諸都市への販売のための蔵屋敷などがおかれ、大名は米や特産物を上方中央市場へもちこみ、逆に中央市場から加工された消費材・生産材を移入しなければならなくなりました。
 また、水利技術の発達、干鰯・干粕などの肥料の普及などによる水田の生産力の向上や、二毛作の進展、さらには、木綿・菜種・藍などの換金作物を通して一般的な商品経済・貨弊経済か農民の生活に入りこみ、やがてそれが農村の状況を大きく変えていきました。
 これらに対応するため、幕府は、いろいろの改革を行いました。
 
二子村の生活規制
 たとえば、天保十三年(1842)、二子村の属していた忍藩が出したお触書は21か条からなり、つぎのように、農民の生活をきめこまかい規制を加えています。
 一、仕事をきらい、酒を飲んだり、大食いをすること。
 一、衣類の儀は男女とも、木綿・麻のものを着ること、旅立ち、婚姻・祝儀のときも同じ。
 一、婦人の髪かざりの櫛・こうがい・かんざしに、金・銀・べっ甲などのぜいたく品を用いること。
 一、お祝や仏事のときの食事も一汁一莱とし、婚礼のときの酒さかなは一種とし、仏事には酒は一切無 用であること。
 一、村役人や小前(平百姓)などが身分不相応の家を普請しないこと
 一、若ものどもが、氏神祭りに、たいこを練り、のぽりをこしらえて連中で酒食をすること。
 一、男女なちびに召仕えのものまで、夜仕事に精を出すこと。
 一、仏事忌中見舞としての贈りものならびに七日ごとの茶の子、むしものなどは出さない。
 右の外何事によらず質素倹約を専一に守るべきこと。
                   天保十三年(1842)・五月
 また、これよりさき、寛保二年(1742)に、姫路藩も同じような規制を条目として出しています。
 このようにして、百姓は、村人の年中行事の中の楽しみや、娯楽の集いでもある村まつりや、伊勢講などの信集団の行事、はたまた親類縁者の集いである仏事、婚礼までもきびしい倹約令でしばられていました。
 *播磨町史『阿閇の里』参照

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さんぽ(254):播磨町を歩く(135) 出稼ぎ

2014-09-19 08:19:20 | 播磨町

  風損の村・水損、そして砂地の村々
 以前に別府町(加古川市別府町)の新野辺村を調べたことがあります。
 新野辺村は、海辺の村で汐風の害、旱害の多いところでした。
 海辺に近く潮風が吹き上げ、風の害も多い所で、そして、田の水が得にくい場所でした。
 その上に、土地は砂地です。
 「汐風、水不足、砂地」この条件がそろえば裕福な村にはなりません。
 多くの播磨町の村々も同じです。
 そのため、天災があれば、百姓の生活はたちまち困窮となり、
田畑を手放すことになりました。
つまり、播磨町の村々では
土地を手放した百姓(水呑百姓)の割合が大きくなっていま。
 *農民の階層分化について、詳しくは『阿閇の里』p251をご覧ください。
   
出稼ぎ
Nozoe_sumiyoshi_007
 彼らは、新野辺村の百姓と同じく、季節労働に出かけました。
 多くの女性は、姫路藩の特産物となった木綿稼ぎに精を出しました。
 出稼ぎのようすは、町内に残る多くの古文書からも読みとれます。
 男は庄屋・五人組に断って大坂・御影あたりの酒屋や、船の心得のあるものは耕作のあいまに、大坂・御影方面の船方稼ぎとして季節労働者となり、出稼ぎにいきました。
 写真は、野添住吉神社に天保二年(1831)に奉納された一対の狛犬で、正面に向かって右側の狛犬には「酒造働連中」、左側の狛犬には「素麺働連中」とあって、当地の氏子で酒造り、素麺づくりの出稼ぎに行った者たちが寄進したものです。
 *写真:「酒造働連中」の銘がある狛犬
 *播磨町史『阿閇の里』参照

<o:p></o:p>

 

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さんぽ(253):播磨町を歩く(134) 村のしくみ②・庄屋、組頭

2014-09-18 07:40:13 | 播磨町

  庄屋・組頭
Photo
 村々には原則的に庄屋を一人ずつ置いたが、姫路藩では、庄屋・組頭など村方三役の人数を定めたようです。
 庄屋・組頭数を「古宮組野添村の御定書」(寛保三年・1743)からみることにします。<o:p></o:p>

   <庄屋>
  村高100800石まで   一人
    9001500石まで   二人
  <組頭>
    100石は組頭なし
    200石~400まで   一人
    500石~1000石まで   二人
  *高60石よりは上に付く(460石の場合は、組頭二人となる)
 都合により、一村の庄屋が他の村の庄屋を兼ねる例は当町でも見られました。
 これら村方三役のうち、庄屋はそれぞれの村の総括責任者であり、組頭は庄屋の補佐役であり、その他に総百姓を代表して、往屋・組頭の村政を監視する役目としての百姓代が数名おかれました。
   
村入用は各村の負担
 藩からの伝達は大庄屋に伝えられ、庄屋はそれを写して控えをとり、村隣村へ届けました。
 その外にも多くの仕事があり、それに対し、給米が与えられたがこれらは皆、それぞれの村の負担でした。
 また庄屋は、持高に応じた夫役などの諸役が免除されるのが普通でした。
 そして、これらの村入用(諸費用)を負担したのは村の本百姓でした。
このように、江戸時代の農民負担を考えるとき、年貢だけでなく村入用を考える必要があり、文政六年(1823)頃の関東のある村では、年貢と村入用の比率は8713ぐらいであったという研究もあります。
 *播磨町史『阿閇の里』参照

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さんぽ(252):播磨町を歩く(133)、村のしくみ①・大庄屋

2014-09-17 06:32:58 | 播磨町

  村のしくみ・大庄屋
 *一部「播磨町を歩く(17)」と内容が重なります。
 003
江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。
 その庄屋を取り纏める役が大庄屋(おおじょうや)でした。
 つまり、大庄屋は庄屋の中の庄屋であり、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。
 その組の名は、大庄屋の居住する村名で呼ばれました。
 したがって、今里家の支配下の村々は、「古宮組」と呼ばれました。
 「播磨町を歩く(17)」で紹介したように、今里家(古宮組)は、江戸時代を通して古宮・東本庄・西本庄・宮西・経田・古向・宮北・東中野・大沢・野添(以上現、播磨町)、山上・二俣・一色中野・八反田・古大内・二ッ屋・坂井・西脇(以上現、加古川市)の各村々の庄屋を支配下においていました。
 各村の庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表というより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっており、各組中の庄屋への連絡、村々から領主への諸届けの取次ぎ・年貢などの賦課・徴収そして、論争の処理など多岐にわたっていました。
  姫路藩の大庄屋
 姫路藩における大庄屋の制度は、本多忠政の時代(161730)にはじめて設けられ、のち、松平忠明時代(163643)には一時廃止されましたが、榊原忠次(1649)かこれを復活して酒井時代にうけつがれました。
 それによると、姫路領内を26組に分けて、それぞれに大庄屋を置きました。
 当初の加古郡は、高砂組・寺家町組・西条組・古宮組村組の五組でしたが、寛延二年(1749)の大一揆のあと姫路に入部した酒井忠恭は一時大庄屋の数を半分に減らし、一人の大庄屋に二組ずつ支配させました。
 その時、古宮組大庄屋・今里伝兵衛は、高砂組大庄屋を兼ねることとなりました。
 古宮組は、播磨町から高砂の海岸部を含めたずいぶん大きな大庄屋でした。
 しかし、その後の記録によれば、安永六年(1777)には再び行政区分の改変がなされ、領内は29組に分けられ、今里家は高砂組の兼帯をとかれています。
 二子村だけは、天領であり、古宮組に含まれていません。
 *播磨町史『阿閇の里』参照
 *写真:今里伝兵衛の墓標(古宮・薬師堂墓地)

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さんぽ(251):播磨町を歩く(132) 貧乏物語⑩・検地役人、加藤弥兵衛

2014-09-16 06:35:45 | 播磨町

  播磨町史『阿閇の里』を読む<o:p></o:p>

 検地役人、加藤弥兵衛
 慶安二年(1649)、陸奥白河藩より入部した榊原忠次の頃には、播磨南部を中心に新田開発が活発に進められ、加古川のほか水利の便の悪い東播地方を中心に河川改修が盛んに見られました。
Photo_2
 明暦年間の阿閉庄・新井用水路の開削、万治元年(1658)の加古川益田堤などがそれです。
 新田開発が活発になり、いま、播磨町内に残るほとんどの「村明細帳」には、承応・明暦・万治・寛文年間の数多くの検地役人が名をつらねています。
それらの役人の内に、加藤弥兵衛の名前がみられます。
 しかし、播磨町では、寛文三年(1663)の検地を堺にして加藤弥兵街の名は見ることはありません。
 新田が完成し、検地役人により新田の高などが決められました。
 もちろん、村にとって高の査定は少ない方がよいのですが、藩にとっては、その反対になります。
 そのため、姫路藩の役人と百姓との駆け引きがありました。
 加藤弥兵衛、自刃す 
 伝承によれば、寛文年間、米田新田(現:高砂市)の開発が完成し、検地が行われた際、弥兵衛は検地におもむき、貧しい百姓のために寛大な措置をとりました。
 百姓にはよろこばれましたが、役人として責任を感じ、帰路、駕籠の中で切腹したと言われています。
 村人は、これを悲しんで米田村に碑(写真)をたてました。
 弥兵衛は、藩財政の窮乏を新田開発で切り抜けようとした藩政担当者と農民との間に板ばさみになった犠牲者であったのでしょう。
 播磨町の新田開発でも加藤は、百姓と藩とのあいだで苦悩があったと想像されます。
 *写真:弥兵衛塔(高砂市米田町)

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