巡礼琵琶湖遭難事件
西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになりました。
人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけました。
第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものでした。
江戸時代になり、治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになりました。
播磨町関係は10名が水死
事件は起こりました。
宝暦5年(1755)3月17日の夜半、琵琶湖に浮ぶ竹生島の西国三〇番札所・宝厳寺の参拝を終えた巡礼一行は、船で次の札所に向かっていました。
突如、比良山からの突風をうけて、無残にも3人の船頭を含む72名全員が水死してしまいました。
遭難者の出身地は、摂州・淡州・紀州・作州・若州・讃州・備州そして播州にまたがっており、播州20名のうち、播磨町関係者は、大沢村大辻孫兵ヱ他1名、野添村5名、二子村3名計10名でした。
彼等が札所の順番どおり参拝していたとすれば、那智山をふリ出しに大和路から近江・山城・摂津・若狭経て江州高島郡に入り、木津の浦から竹生島に至る巡礼の旅であり、さらに長命寺から陸路、観音正寺を経、琵琶湖東岸を北上し、美濃の国、谷汲山華厳寺で結願となる予定でした。
残す3か寺を目前にしながら悲しい出来事でした。
*播磨町史『阿閇の里』参照<o:p></o:p>