ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新ひろかずのブログ(31) 加古川大改修(16)・国道2号線は、渋滞続き

2021-01-30 08:34:13 | 新ひろかずのブログ

     国道2号線は、渋滞続き

 

  〈新ひろかずのブログ・19〉では、次のように書きました。

 ・・・高度経済成長期以降、市内を通る国道二号線の交通の渋滞は激しく、昭和43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、ますますふえる傾向となりました・・・・

  『写真集・加古川高砂の昭和』に、当時の交通渋滞の状態写真と説明があります。紹介しておきます。

    〈対面通行だった国道2号線〉

 食堂2号は、昭和40年代に入ると交通量が増え、渋滞が慢性化するようになってきた。
その対応として昭和42年12月より加古川橋東詰交差点から加古川平野交差点までの間東行き一方通行とした。

 写真は、一方通行される前、対面通行と渋滞のようすを伝えている。

 *写真:昭和43年撮影(提供=加古川市教育委員会)

 

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新ひろかずのブログ(30) 加古川大改修(15)・大きく変貌する加古川西詰めの交差点

2021-01-29 08:32:30 | 新ひろかずのブログ

   

  大きく変貌する加古川西詰めの交差点

 加古川橋の西側の交差点は、現在はつの道が集まっています。

 そのため慢性的な渋滞の原因となっています。

 特に、朝夕のラッシュの時間では、毎日大渋滞です。

 私事ですが、ある事情でこの交差点をよく使います。混み具合には閉口しています。何とかしてほしいです。

 地元にとっては切実問題で、話し合いが持たれました。

 結果、写真のようにつの道が集まるように改良されるようです。

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新ひろかずのブログ(29) 加古川大改修(14)・加古川橋北側で進む「新加古川大橋」

2021-01-28 08:24:18 | 新ひろかずのブログ

   加古川橋北側で進む「新加古川大橋」

 前号の「どのように工事は進むか」では架橋工事の手順でした。

 今回は、「どのような橋ができるか」です。

 現在進められているのは「ステップ1」で、現在の橋の北側(上流側)に進行中です。

 この工事が終われば、現在の橋は撤去され、将来「ステップ2」の工事が進められ、4車線の橋ができあがる予定です。

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新ひろかずのブログ(28) 加古川大改修(13)・どのように工事は進む

2021-01-27 10:13:17 | 新ひろかずのブログ

 それでは、今回の加古川大橋改築の話に戻ります。

 新加古川橋改造工事については、関係機関の報告などを参考にいさせていただきます。

 まず、「非日常のある日常探求ブログ」さんの研究をお借りします。

 どのように工事は進む

 それではどのように工事は進められるのでしょう?

 上流側に架橋をかける(今この工事が始まっています)

 現在の加古川大橋を撤去

 元あった場所に橋を架ける

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新ひろかずのブログ(27) 加古川大改修(12)、加古川の水害(5)・かこがわ改修工事完成

2021-01-26 10:17:39 | 新ひろかずのブログ

   かこがわ改修工事完成

 1933年(昭和8)、当初の計画(10年)を 大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。

 官民あわせて千人が参列でした。

 その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいでした。

 この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。

 この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。

 また、改修工事完成を記念して、「川祭り」を行うようになったのです。

 1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。

 記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるのですが、現在ではあまり知られることなく、ひっそりと川の安全を見守っています。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

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新ひろかずのブログ(26) (資料として)石階段と石積未確認 南堀川周辺の港遺構

2021-01-25 09:38:56 | 新ひろかずのブログ

 昨日(1月24日)の神戸新聞東播版に下記の記事がありました。地域史資料として、掲載させていただきます。

〈地域史資料として〉(記事・写真ともに神戸新聞より) 

  石階段と石積未確認 南堀川周辺の港遺構 

 兵庫県高砂市高砂町の南堀川周辺に広がる港湾遺構を調査している同市教育委員会は、江戸時代前期に姫路藩によって整備された護岸の推定場所2カ所を発掘し、当時の海面につながる石階段などの遺構を確認したと発表した。船の荷揚げに使われていたとみられ、発掘された遺構は今回で計6カ所となる。(若林幹夫)

 南堀川は江戸時代、高砂港の船着き場だった。加古川や瀬戸内海から年貢米などを運ぶ中継地として栄えた。海運発展に貢献した工楽松右衛門(くらくまつえもん)の旧宅も隣接する。1939(昭和14)年ごろに道路拡張で埋め立てられたが、市は過去の写真から当時の位置を推定し、2016年から発掘調査を続けている。

 今回の調査は昨年11月30日~12月12日、高砂漁業協同組合の敷地内で行われた。当時の南堀川北西角と推定される第1調査区では、石階段4段と護岸の石積み3段の石垣が見つかった。南堀川西端の中央付近とみられる第2調査区も、石階段4段と石積み4段が確認された。第1調査区の石階段以外は江戸時代以降に築かれたとみられる。

 *写真:記事(24日・神戸新聞朝刊より)

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新ひろかずのブログ(25) 加古川大改修(11)、加古川の水害(4)・改修工事進む

2021-01-24 10:28:51 | 新ひろかずのブログ

   改修工事進む

 加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まりました。

 しかし、工事はなかなか始まりません。

 工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されました。

 加古川河川改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をし、大正7年度からの工事着手が決まりました。

 工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事でした。

 着工式は、1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席しました。

 その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではありません。

 工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業地帯にも被害がおよび、さらに鉄道・山陽線を破壊し、わが国の重要な交通機関を途絶させる」等の理由をあげ、工事を計画通り進め、加古川改修工事が打ち切りになることがないよう陳情活動をおこないました。

 1926年(大正15)4月には加古川町付近が、そして、加古川新橋が竣工しました。

 1928年(昭和3)には東岸の東神吉まで、西岸の神野村西条まで竣工しました。

 これで総工事の8割が完成し、その後も、工事は続きました。

 *地図の太い実線は、改修工事後の堤防(現在の堤防)、『加古川市史(第三巻)』参照

 

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新ひろかずのブログ(24) 加古川大改修(10)、加古川の水害(3)・河川改修

2021-01-23 10:16:17 | 新ひろかずのブログ

  加古川の水害(3)

          河川改修

  明治時代、「かこがわ」はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。

 明治43年、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者がでました。

 国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。

 そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。

 「かこがわ」は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。

 この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。

 利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑川(熊本)そして加古川(兵庫)

 1911年(明治44)9月4日、官報に告示されました。 

 「かこがわ」は、国の直轄事業として本格的改修工事が前進することになったのです。 

 河川法による総改修費は、3分の2を国が負担し、残りの3分の1は兵庫県の負担でした。

 *写真:水害の危険性



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新ひろかずのブログ(23) 加古川大改修(9)、加古川の水害(2)・河川改修要求なる

2021-01-22 10:44:28 | 新ひろかずのブログ

      加古川の水害(2)

         河川改修要求なる

 明治29・30年は、水害にみまわれました。

 そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。

 明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。

 しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。

 経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。

 1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。

 これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。

 その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。

 だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい・・・」とする河川改修の請願が採択されたのです。

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新ひろかずのブログ(22) 加古川大改修(8)、加古川の水害(1)・被害の大きかった明治30年の水害

2021-01-21 10:30:25 | 新ひろかずのブログ

 明治の終わり~昭和の初めにかけて、加古川の流れは大きく変わりました。加古川大改修の時代です。

 今、加古川大橋、国道2号線の大改修が行われています。先にブログでも取り上げましたが、もう一度加古川の流れ(水害)の歴史を復習しておきましょう。

  加古川の水害(1)

     被害の大きかった明治30年の水害

 明治30年は、前年に続き、9月に台風は加古川を直撃しました。

 被害は、前年を大きくしのぐ大災害でした。

 死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼりました。

 加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も少なくありませんでした。

 生活に困窮し、土地を手放す者も続出しました。

 これらの水害をきっかけに、加古川河川の本格的改修の要求がたかまりました。工事のための国庫の補助の要求でした。

 そのため、1898年(明治31)、加古郡・印南郡17町村は「加古川河川改修期成同盟」を結成しました。

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新ひろかずのブログ(21) 加古川大改造(7)・現在の国道2号線は、昭和2年にはじまる

2021-01-20 08:14:09 | 新ひろかずのブログ

 『(旧)加古川市誌(第一巻)』(加古川市発行)のp344~5を文体を変えて一部を紹介しましょう。

   

 国道は、明治6年8月、山陽道を一等国道としました。そして、明治18年1月6日、道幅を4間以上と決め、「国道4号」としました。

 この時、加古川を通る国道は今の寺家町商店街(旧・西国街道)です。

 明治40年ごろから国道(旧西国街道)は牛馬車、人力車、自転車の往来が増え道路やごみの飛散がはげしくなり、商店の営業に差し支えるようになり、大正4

・5年になり南部に道を作る計画が持ち上がり、大正7年に開通をみました。

   現在の国道2号線は、昭和2年にはじまる

 政府は大正8年に新しい道路法を実施し、翌年東京~加古川・明石~鹿児島の道路を国道2号線としました。

 国道2号線は、決められましたが、この時の国道は旧西国街道(寺家町商店街)で、加古川地方では、昭和2年3月28日まで旧国道(旧西国街道)と新しい国道はともに併用でした。

 が、この年の4月6日、旧国道(寺家町・加古川町商店街の道)は、町道本町線に編入され、新しくできた旧西国街道の南の道(現在の国道2号線)を国道2号線としました。

 ですから、現在の国道2号線は、昭和2年誕生ということになります。

 新しい国道2号線と歩調を合わせて進められていた加古川大橋(写真)は、一足先の大正13年に完成し、以後新国道の両側は南本町となり、町の様子は一変しました。

 *写真:建設中の加古川大橋(大正12年頃)(『加古川・高砂の100年』郷土出版社より)

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新ひろかずのブログ(20) 加古川大改修(6)・交通量の増加、加古川大橋の老朽化

2021-01-19 10:23:32 | 新ひろかずのブログ

 加古川大橋のことです。問題が発生し、改築が必要になっています。

 

    その1:交通量の増加

 東播磨(加古川市)と北播磨地域(山陽道)を結ぶ自動車専用道路(東播磨道)の工事は進んでおり、2024年度に全線開通予定です。

 完成すると、このあたり、特に国道2号線の交通量はさらに増えることになります。

 加古川大橋を通過する自動車は多く、加古川橋西詰・東詰め辺りでは大渋滞になるのは目に見えています。

 

      その2:加古川大橋は老朽化が進む

 加古川大橋は、一部改築はあったものの西行き車線(架設後90年経過)と東行き車線(同60年経過)は、朽橋です。

 大水により今すぐに橋が崩れたり、流されるということは考えにくいのですが、遠くない将来に、架け替えが必要になります。造り変えには莫大の費用が必要です。

 また、現在の大橋の橋脚は16本です。増水時に加古川の流れを阻害してしまっています。架け替え後は本に減らすことで洪水対策にもなります。

 

      危険な「16杭」

 私の中学のころの話です。もう65年も前になりました。

 加古川大橋の橋脚は東詰から順に1杭・2杭と言って西詰の杭を「16杭」と呼んでいました。

 夏、水泳をしたのは2~3杭辺りでした。その辺では魚もよく取れました。

 「16杭」は、高砂への用水路で、流れが速く、つかまるところが少ない危険な場所でした。

 

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新ひろかずのブログ(19) 加古川大改造(5)・国道2号線を一方通行に

2021-01-18 10:34:14 | 新ひろかずのブログ

      国道2号線を一方通行に

 高度経済成長期以降、市内を通る国道二号線の交通の渋滞は激しく、昭和43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き46回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、ますますふえる傾向となりました。

 兵庫県公安委会は、(昭和4411月)7日、加古川市内の国道号線の交通マヒ対策として、国道二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交通規制を決定しました。

 これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。

 これによって、昭和44年12月日より、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野西河原線(平野交差点から消防署まで)と加古川左岸線2.6キロメートルを西行きの一方通行としました。

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新ひろかずのブログ(18) 加古川大改修(4)・橋はなかった(江戸時代)

2021-01-17 08:20:30 | 新ひろかずのブログ

 加古川大改修(4)

   江戸時代、加古川に橋はなかった

 「加古川大改造」の話から少し外れます。加古川大橋の余話としてお読みください。

  

 江戸時代、西国街道(現在の寺家町商店街)の陣屋(寺家町)辺りからさらに西へまっすぐ西へ行くと、加古川の渡場に突き当ります。

 そこに、加古川の河岸(かし)がありました。

 *川の港は「河岸」と呼ばれていました。

 加古川大河であり、技術的なことや防衛のために橋がかけられていません。渡河には渡し舟を使いました。

 『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景があります。

 なお、ブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さん(故人)が「十二景詩歌」をもとに描かれたものです。(紙面の都合で、絵はその一部)

 渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が描かれています。

 この絵から、当時(江戸時代後期)の加古川の渡し場の風景が想像できます。

 加古川の河岸は、あまり賑わいのある渡し場ではなかったようです。

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新ひろかずのブログ(17) 加古川大改造(3)・旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台

2021-01-16 10:47:25 | 新ひろかずのブログ

  旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台

 加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分が残っています。

 今日は、この橋げたの土台と旧橋の話です。

 加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川でした。

 技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川に橋が架けられていませんでした。

 明治時代になり、何回も橋が架けられるかけられたのですがその都度流されてしまいましまいました。

 大水に流されない、がっちりとした鉄の橋が求められました。

 そして、大正2年6月に、本格的な鉄の新橋(写真上))架設されました。


 その鉄の橋の橋げたの土台が、今の国道2号線の北に点々と残っています。

 やがて、交通量が増えました。それに自動車が登場します。そのため、新しい本格的な橋が求められたのです。

 それが、一部改築されましたが、現在の橋です。その橋が現在大変貌されようとしているのです。

 写真で、大正2年6月に架設された本格的な鉄橋と橋げたの土台を見ることにしましょう。

 *写真:『写真集・明治・大正・昭和の加古川』玉岡松一郎編(国書刊行会)





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