東志方高畑集落の東の端に小字・手代(てしろ)があります。
手代の道から少し離れたところに大師堂があり、ここに一体の弘法大師像(写真)が祀られています。
『志方郷(30)』で原豊子さんが、「手代のお大師さん」として紹介されているので、最初の部分をお借りします。
ここでも、三木合戦と結びついた物語です。
手代のお大師さん
その時、15才のお姫様をかくまってほしいと頼まれたのが手城(現代の手代)・高畑の小字の小さい城であった。
お姫様には付け人が一人ついてこられた。
お姫様は身代わりとして弘法大師の像を一体持ってこられた。
赤松城(中道子山城)には、二体の弘法大師の像があり、小さい方を手城に持参された。
このお姫様は大変信仰心厚く、毎日弘法大師を拝んでは、自分の心を慰めておられた。
世の中が落ち着いて、お姫様が帰られる時、弘法大師像をお礼として、手城に置かれて帰えられた。
それから手城も大師堂に代わって現在にいたっている。
<蛇足>
思いついたことを書いておきます。
手代はもともと「手城」であったとされています。
ひょっとして、この場所に中道子山城に仕える家来がいて、構(構居)があったのかもしれません。
構居のうち少し規模の大きいのを城と呼びましたから、比較的有力な武士の館であったとも考えられます。
もうひとつ想像してみました。先日、大師堂を訪ねました。失礼な言い方ですが「立派なお堂」ではありません。
赤松氏は、足利方つまり南朝方ではありません。そのため「戦前の天皇制(南朝を正統とする)の中で、質素に祀り続けられたのではないだろうか」とも想像しました。
勝手な想像です。