松右衛門逝く
松右衛門の港修築は、広く知られた。
高砂港の修築を済ませた時、鞆港(広島県)の工事の依頼があった。
老齢で病躯ながら頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した。「港づくり」の集大成の事業であった。
翌年(文化九年・1822)、松右衛門の病状は悪化し、息をひきとった。
八月の暑い日であった。
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兵庫湊散策
「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介したので、彼らが活躍した兵庫湊を歩いてみたくなった。時期は9月の初旬であった。
地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばよい。あまかった。歩き始めると、まさに暑さの襲撃である。
まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばに「菜の花ロード」の石碑をみついけた。嬉しくなる。
説明書通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」はすぐであった。
「ここで、嘉兵衛は働いていたんだ」とおもうと、腰痛も暑さも少しは忘れる。
「歩道橋」を渡るとお宮がある。
七宮神社である。
この場所に嘉兵衛・北風壮右衛門、そして松右衛門がしばしば来たのかと思うといろいろ想像がわくが、少し、拍子抜けするような小さな神社だった。。
江戸時代、この近くに北風家や北風家の風呂があった。 湯けむりと、船頭の大きな声が聞こえてきそうである。
七宮神社から北風家のあったあたりを歩いてみたが、もちろん何もない。ビルばかりである。
近所の人に聞いても、何も分からない。かつての「北風家のあった兵庫湊」は、すっかり昔話になっている。
休む場所を探したら、近くに小さな喫茶店があった。
店の主人は、80才ぐらいの腰のまがったおばあちゃん。さいわい他に客はいないので、ひとしきり、おばあちゃんとはなした。
「むかし、このあたりに、北風家があったことを知りませんか・・・」
「ありました」
「私の小さい頃は、まだ北風さんの倉庫が残っていました。S薬局の裏で、今は大けなアパートのあるところです・・・」
おそらく、おばあさんの小さなころは北風家の建物の一部が残っていたのだろう。
最後に、肝心の松右衛門の店の跡を探すために佐比江町を歩いたが、それらしい場所で聞いたがわからなかった。
昼食を忘れていた。でも、この暑さである。腹はすいているが食べる気にならない。
湊川駅の地下で、焼き鳥でビールを飲んだ。腹にしみこんだ。
1.000円で釣りがきた。
『工楽松右衛門物語』をお読みいただき、ありがとうございました。(完)
*写真:七宮神社(この辺りが兵庫湊の中心地であった)