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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(40) 工楽松右衛門物語(25) 兵庫湊を歩く

2014-11-03 08:36:28 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   松右衛門逝く

 松右衛門の港修築は、広く知られた。 

 高砂港の修築を済ませた時、鞆港(広島県)の工事の依頼があった。

 老齢で病躯ながら頼まれた公益のために、全エネルギーの投入と自ら開発した多種の作業船を駆使した。「港づくり」の集大成の事業であった。

 翌年(文化九年・1822)、松右衛門の病状は悪化し、息をひきとった。

 八月の暑い日であった。

 ・・・・・

   兵庫湊散策

 「高田屋嘉兵衛・工楽松右衛門・北風家」のことを紹介したので、彼らが活躍した兵庫湊を歩いてみたくなった。時期は9月の初旬であった。

 地図によると山電湊川駅から南へ少し歩けばよい。あまかった。歩き始めると、まさに暑さの襲撃である。
 まず、七宮神社(しちみやじんじゃ)の歩道橋のそばに「菜の花ロード」の石碑をみついけた。嬉しくなる。

 説明書通りに南へ行くと「高田屋嘉兵衛本店跡」はすぐであった。
 「ここで、嘉兵衛は働いていたんだ」とおもうと、腰痛も暑さも少しは忘れる。
 「歩道橋」を渡るとお宮がある。

 七宮神社である。
 この場所に嘉兵衛・北風壮右衛門、そして松右衛門がしばしば来たのかと思うといろいろ想像がわくが、少し、拍子抜けするような小さな神社だった。。
 江戸時代、この近くに北風家や北風家の風呂があった。 湯けむりと、船頭の大きな声が聞こえてきそうである。

 七宮神社から北風家のあったあたりを歩いてみたが、もちろん何もない。ビルばかりである。
 近所の人に聞いても、何も分からない。かつての「北風家のあった兵庫湊」は、すっかり昔話になっている。

 休む場所を探したら、近くに小さな喫茶店があった。

 店の主人は、80才ぐらいの腰のまがったおばあちゃん。さいわい他に客はいないので、ひとしきり、おばあちゃんとはなした。
 「むかし、このあたりに、北風家があったことを知りませんか・・・」

 「ありました」

 「私の小さい頃は、まだ北風さんの倉庫が残っていました。S薬局の裏で、今は大けなアパートのあるところです・・・」

 おそらく、おばあさんの小さなころは北風家の建物の一部が残っていたのだろう。
最後に、肝心の松右衛門の店の跡を探すために佐比江町を歩いたが、それらしい場所で聞いたがわからなかった。

 昼食を忘れていた。でも、この暑さである。腹はすいているが食べる気にならない。
 湊川駅の地下で、焼き鳥でビールを飲んだ。腹にしみこんだ。
 1.000円で釣りがきた。

 『工楽松右衛門物語』をお読みいただき、ありがとうございました。(完)

 *写真:七宮神社(この辺りが兵庫湊の中心地であった)

 

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高砂市を歩く(39) 工楽松右衛門物語(24)・高砂港②

2014-11-02 14:03:33 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   高砂港②

 話は一挙に現代の高砂まで飛んだ。ここで、松右衛門の活躍した江戸末期の高砂湊の話に戻したい。

   高砂港の修築(1)・埋まる港

 高砂湊の修築は、松右衛門の生涯の大事業である。

 寛政期(1789~1801)には、毎年高砂の渡海船仲間が川内の浅瀬の浚(さらえ)を行ったが、根本的な解決にはいたらなかった。

 そのため、江戸後期には大船の接岸ができず、沖に碇泊する船と陸の間は、「はしけ」「上荷」「ひらた」などといわれる小船を使って荷を運んでいた。

 ところが、享和元年(1801)秋頃から、幕府代官所から姫路藩に対して、昔どおり川内で御城米の積み込みができるように高砂州口を浚えるようにという要請が度々あった。

 翌二年(1802)六月に、姫路藩は幕府に、困難であることの事情説明を行っている。

 すなわち、川浚は、年々藩が手当をつけて行わせているが、川口から沖手への土砂の堆積は1400間(約2.5キロメートル)にも及び、人力で浚うことは不可能であること、満潮時には、「ひらた舟」が通行できることを述べている。

 ただ、「干潮の際の通船は不可能である・・・」と、主張した。

 高砂湊の浚渫は、姫路藩が費用を負担する「御手普請」では不可能と説明した。

    高砂港の修築(2)・御手普請に準じて

 翌、文化五年(1808)閏六月頃には川浚えの実施がほぼ内定し、同八月には家老・河合隼之助(後に隠居して河合寸翁を名のる)らが高砂に検分に訪れ、藩の財政で行う御手普請(おてぶしん)に準じた取り扱いで、川浚えを行うことが許可された。

 高砂からは入用銀250貫目の拝借が藩に願い出られたが、これは叶わなかった。

 そのかわり高砂の諸運上銀年32貫目が三年間下げ渡され、つまり減税となり普請(工事)に必要な砂・石は領内から調達することが許された。

   高砂港の修築(3)・広がる港

 松右衛門は、川口番所から浜新田の東側沿いに580間(約1050メートル)の波戸道(はとみち)を築き、その先端部分の川口に「東風請(こちうけ)」波戸と「一文字」波戸を、巨石を台形に整形した磐礫(いしがき)で築いて波除けとした。

 なお、波戸とは海岸から海中につきださせて、石で築いた構築物をいう。

 そして、波戸道と波除けの間を、船を係留する湊として整えたのである。

 また波戸道の突端には台場を作り、灯籠を設けて船の出入の便をはかった。

    高砂港の修築(4)・加古川に橋を架ける

 松右衛門は、文化七年(1810)に、加古川に石橋を架けた。

 加古川河口にできていた中州二つを利用して、姫路藩の南蔵の南東部分から西側の中州に橋をかけ、弧を描く石組で造った道により東側の中州に行けるようにし、さらに石組の道を北につけて対岸につないだ。

  州と中州をつないでいる石組の道は屈曲させて水の勢いで壊れにくくしており、また川の水を下流に逃がす水の通り道を作り、加古川の水流になるべく逆らわない工夫をしている。

 築港工事は文化八年(1811)に完成した。

 

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高砂を歩く(38) 工楽松右衛門物語(23)・高砂港①

2014-11-02 10:10:18 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    高砂港

 「わしを公儀にひきこむな」と、松右衛門旦那は言いつつ、来年、松前へ船を出すときには、わしも乗ってゆこう、といってくれた。

 かれは、「来年あたり息子に兵庫の店をゆずって、生家のある播州高砂に隠居するつもりでいる」とはいえ、高砂で帆布の製造、販売だけはやる。

 その収益をあげて、「世を益する工事につかうのを楽しみにしているのである。

 まず、第一に、故郷の高砂の運河を浚渫し、湊を深くして船の出入りをよくしたかった。

 江戸時代、高砂港は姫路藩の港として大いに栄えるが、大きな欠点を持っていた。加古川が運ぶ土砂が多く、すぐに浅くなってしまうことである。

 播州平野を流れて播磨灘にそそぐあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。これが高砂である。

 時が経ち、その河口近くに形成した中洲が成長して、加古川から分離して高砂川という支流をつくった。

 江戸後期になると長年にわたる土砂の堆積で浅くなり、船舶の碇泊に支障をきたす状況になっていた。

 そこで、松右衛門は普請棟梁になり、文化七年(1810)に、先の箱館でも使った、彼が開発した石船、砂船、ロクロ船、石釣船などを駆使し、風波対策として、東風請(おちうけ・土堤)と石塘、南口には一文字提、西に西波戸を築造し、あわせて港全域にわたって浚渫を行った。

 なお、工楽松右衛門の港づくりは、彼の死後も二代目・三代目と引き継がれた。

    繁栄の終焉

 工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動いた。

 高砂港の築港工事が完成したのは、文久四年(1865)であった。

 そして、数年ならずして慶応四年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新と歴史は続く。

 明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

 さらに、明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した。

 東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

 *昔の面影を残す高砂港(大正~昭和初期・高砂市南材木町・高塚洋氏提供)

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高砂市を歩く(37) 工楽松右衛門物語(22)・松右衛門は港づくりの名人

2014-11-01 11:39:37 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

    松右衛門は港づくりの名人

 話は松右衛門から離れただよってしまった。話を戻したい。

 嘉兵衛は、エトロフへの「三筋の潮」を発見して後、箱館へ帰った。

 幕府の役人・三橋藤右衛門と箱館の港の件に及んだ。一挙に具体的な話になった。・・・・・

 藤右衛門が「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねた。

「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と。

 嘉兵衛は、工楽松右衛門の名前を出してしまった。

 ・・・・

 ところで、「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、藤右衛門はきいた。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。 

 嘉兵衛は、松右衛門旦那の説得のため、兵庫の港に帰った。

    嘉兵衛、松右衛門の説得に

 嘉兵衛は、いつもの通り北風家にあいさつに行ったあと、松右衛門の店に寄った。

 嘉兵衛は、松右衛門に続けた。「御用」について簡単にのべた。

 「なんじゃ、公儀御用かい」

 松右衛門旦那は、いやな顔で反問した。「ちがいます、天下のことでございます」

 「天下」、松右衛門旦那のすきなことばだった。

 「わかった」と、いった。

   松右衛門、箱館にドックをつくる

  (高田屋)嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開らき、これを契機として幕府の蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていくことになる。

  蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になった。

  松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じた。

  この時、彼は既に61才になっていた。

  そして、享和三年(1803)、箱館は、松右衛門の設計によって築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場をつくった。

  その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックであたる。

  松右衛門は、播州高砂の「石の宝殿」に産する耐火力もある竜山石(たつやまいし)を、大量に箱館に運び船たで場を造成した。

  現在の函館の町づくりのはじまりは嘉兵衛が、そして、港をつくりは松右衛門が最初に手がけたのである。

 *写真:工楽松衛門像(高砂神社)

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高砂市を歩く(36) 工楽松右衛門物語(21)・レザノフ

2014-11-01 08:07:24 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫した。

 ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることにあった。

 彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的であった。

     レザノフ来航

 日本への通商を求めてレザノフが長崎に来た。

 レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来たが、鎖国を盾に交渉は、はねつけられた。

 レザノフは、これを侮辱と感じ、帰路、部下のフォストフ大尉に、「日本にロシアの武力を見せてやれ」と相談を持ちかけた。

 フォストフは、官制の海賊になった。本国の命令のないままに日本を攻めた。

 フォストフは、1806六年(文化三年)9月、カムチャツカを出、11月に樺太に上陸し、小銃を放ってアイスのをおそった。

二日後、クシュンコタンに上睦し、日本の運上屋を襲った。

次いで、フォストフの一団は、エトロフの松右衛門が港を築いた紗那(シャナ)へ押し寄せてきたのである。

     エトロフ事件

 フォストフの侵略に、幕府は大いにあわてた。

 文化四年(1807)四月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、エトロフ島にまで入ってきた。四月二十四日、突然、ナイホの沖に現れた。

 そして、紗名を襲撃した。

 フォストフのエトロフ事件は、その後の日本史を揺るがす事件へと発展する。

 フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現した。

 測量艦は、ディアナ号である。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮・観察力、それに勇気に富んだ知的な人物であった。

 ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことである。

 ゴローニン少佐が、千島の測量をしていた。

 7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づいた。

 ゴローニンは、薪水が尽きたという事情があって、やむをえずこの島にやってきたのである。

 湾の奥は、泊村(とまりむら)であった。

    ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

 ゴローニンらは、薪水の供給をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられた。

 沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していた。

    嘉兵衛の拿捕

 ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件であった。

 幕末の外交史の重要な一頁を飾っている。多くの歴史書にも紹介されているので、詳しくは、それらをご覧願いたい。

 ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられた。

 翌年(文化9年・1812)である。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中であった。

 たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船に遭遇し、嘉兵衛を拿捕した。

    幕末外交史を飾る

 その後、人質として嘉兵衝とその配下をカムチャツカへ連れて行った。

 まちは、役所や官舎のほか、わずかな民家があるだけで、さびしいところだった。

 以後の話は、別書にゆずるが、嘉兵衛とリコルドは互いに信頼で結びつき、もつれた日ロ関係を一つ一つといていった。見事な幕末の外交を展開した。

 *写真:レザノフ

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高砂市を歩く(35) 工楽松右衛門物語(20)・エトロフ島の紗那港をつくる

2014-10-31 16:31:30 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   松右衛門、エトロフ島で紗那港をつくる

 準備を整え、その年(寛政二年・1790)の五月、乗員20人と共に。兵庫津を出た。

 持ち船・八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなった。これ以上の継続は不可能となった。

 松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにした。

 寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航した。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進んだ。

 あらかた紗那港は完成し、10月に帰航した。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政七(1795)に工事を終了している。

    松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散在する大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留する埠頭をつくった。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、永く「松右衛門澗(港)」と呼んだという。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった。このエトロフ事件については後に紹介したい。

 歴史上、松右衛門は大きな位置を占めている人物である。しかし、いままで松右衛門についてあまり取り上げられることはなかった。

   松右衛門が知られていない理由は?

 松右衛門について、あまり知られていない。

 その理由として、井上敏夫氏が昭和50年兵庫史学会発表された「北方領土の先駆者 工楽松右衛門」のなかで、次の三つの理由をあげておられる。

 第一は、松右衛門のエトロフ渡航は幕命といいながら、それはあくまでも一商人の私的行動と見なされた。

 第二は、松石衛門の蝦夷地の活動期間は、数年に過ぎないが嘉兵衛は20余年の長期にわたって活躍し、その間、歴史上有名なディアナ号事件の渦にまきこまれ、いつしか松右衡門の名が薄れてしまった。

第三は、松右衛門は、つとめて嘉兵衛を自分の後輩として引き立てた。

 しかし、寛政二年、郷里の淡路を後に無一文で兵庫へ出てきた一介の若者・嘉兵衛を陰に陽に援助し庇護したのは実に松右衛門であった。

 後に紹介したいが、幕末の歴史において高田屋嘉兵衛の人生があまりにも劇的であり、注目が集まりすぎ、その陰で松右衛門が霞すんだだけである。

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高砂市を歩く(34) 工楽松右衛門物語(19)・松右衛門、エトロフ島へ

2014-10-31 11:30:25 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

     松右衛門、エトロフ島へ

 <工楽松右衛門の足跡>

  下の年表をご覧になりながら、今回の文章をお読み願いたい。

 ・寛政2年(1790)  エトロフ島・紗那で埠頭建設はじまる

 ・寛政3年(1791)  この年の夏、エトロフ島・紗那港の埠頭工事竣工 

 ・寛政11年(1799) 

 嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く(三筋の潮を発見)

 ・享和2年(1802)  幕府より「工楽」の姓をたまわる

 ・文化元年(1804)  箱館にドックを築造。

    工楽松右衛門のエトロフへの航路発見

 ここで話を急停車させたい。

 「工楽松右衛門物語」は、若干文章を変えているが、もっぱら小説『菜の花の沖』のつまみ食いをして、嘉兵衛・松右衛門を紹介している。

 松右衛門のエトロフでの

     築港は寛政二年(1790)から

 上の「松右衛門の年表」をご覧願いたい。

 今、「松右衛門物語」で取り上げている内容は、寛政10年頃の話である。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓を許されている。

 「松右衛門物語」では、最初から工楽松右衛門を名乗らせているが、松右衛門が「工楽」を名乗るのは、これ以後である。

   松右衛門、エトロフヘ

 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなった。誰の目にも危険なものとして映るようになった。

 寛政二年(1790)二月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画した。

 「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下った。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙した。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、北風の要請に応じた。

 この時のようすは「松衛右門物語(2)」で、若干紹介しているので、ご覧願いたい。

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高砂市を歩く(33) 工楽松右衛門物語(18)・三筋の潮

2014-10-31 08:39:09 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

 嘉兵衛は、幕府が用意した船でクナシリ島の東海岸をアトイヤ岬まで航海してきた。

 いよいよ、クナシリ水道である。

 次の日、さっそく、嘉兵衛は、山頂に至った。クナシリ水道の潮を確かめるためである。

 クナシリ水道を揉にもんで流れている潮のかなたに、エトロフ島のベルタルべ山がそそり立っていた。

    三筋の潮

 嘉兵衛は、全身を目玉にするようにして潮を見つづけた。

 早朝から日没ちかくまで見つづけたのである。

 「見えた!」

 信じがたいほどのことだが、この二つの島のあいだを上下しているのは、一筋の潮ではない。

 三筋の潮流が、せめぎあって落ちあっているのである。

 事実として確かめてゆくのに、さらに数日の観察を要した。

    嘉兵衛、箱館へ帰る

 その後、嘉兵衛は、いったん、クナシリ、アッケシにたちより箱館へかえった。

 まもなく、箱館役所から呼び出しがあった。

 このとき、幕府の役人・三橋藤右衛門から、「蝦夷地の公儀御用をつとめてもらえないか」と、懇願された。

 彼のいうところは、エトロフ島開発のためのあらゆる物資(官物)を運ぶ船頭になってほしい、ということであった。

 運賃かせぎだけで、荷をかせぐことができなくなるのである。商いとしては、まことにつまらぬものになる。

 「嘉兵衛、そこもとの力がほしい」

 「とんでもござりませぬ」

 ・・・・・

 嘉兵衛は、決心してしまった。

   工楽松右衛門が、箱館の港を造りましょう

 箱館の港の話になった。・・・

 藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのである。

 「箱館の浦をいまのままにしておけない、箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・・」と、藤右衛門はいった。

 その日、話は、続いた。・・・・

 「エトロフにも港をつくらねばならんな」

 それらについて、「嘉兵衛は、工楽松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる分野で異能の人であることもあわせて述べた。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、藤右衛門はきいた。

 嘉兵衛は、「松右衛門旦那は蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。

 ・・・・

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。

 松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人であった。

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高砂市を歩く(32) 工楽松右衛門物語(17)・嘉兵衛エトロフへ

2014-10-30 12:49:30 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   嘉兵衛、アッケシで近藤重蔵と会う

  嘉兵衛が、アッケシの運上屋で近藤重蔵と出会ったのは、嘉兵衛31才、(近藤)重蔵29歳のときであった。

 重蔵は、既にエトロフを探検し「大日本恵登呂府」という大きな標柱をたてていた。

 重蔵は、嘉兵衛に話しかけた。

 ・・・クナシリ島までは安全にゆける。

 しかし、クナシリ島からエトロフ島にゆくには、急潮でしかも風浪、霧のすさまじい海峡がある。

 「この人(近藤重蔵)は、何の目的でこういう話をするのか」と思った。

    エトロフへの安全な潮路の発見を!

 近藤重蔵が嘉兵衛をよんだのは、嘉兵衛にクナシリ島とエトロフ島のあいだの安全な水路の開拓を依嘱することであった。

 クナシリ島の東北端のアトイヤ岬からエトロフ島西南のベルタルベ岬までのあいだは、海上わずか三里ほどの距離である。

 両島の間に、幅五里の水道(クナシリ水道)が流れており、北はオホーツク海、南は北太平洋が広がっている。

 この狭い水道に濃霧がしばしば湧き、さらには両洋から落ちてくる潮流は速く、風浪はせめぎあい、なんともすさまじい難所である。

 エトロフは「捨てられたままの海産物の宝庫」であった。

 嘉兵衛への依頼は、「小さな船でも渡れる安全な潮路を見つけてほしい」ということであった。

   嘉兵衛、エトロフへ

 「もし、ここ(クナシリ水道)を、小船でも行ける安全な航法を発見すれば、幕府の蝦夷開発が、資金面でそれなりの潤いを得ることができる」という。

 重蔵に課せられた任務は、とりあえずはそのことであった。

 クナシリで働いているのは、小さな漁り舟か、蝦夷舟、もしくは五、六十石程度の運び船で、今後、クナシリを基地にエトロフ稼ぎする。

 大船で渡ってしまっても、あと何の役にもたたないのである。

 嘉兵衛は、重蔵の依頼を、いとも簡単に引き受けた。やってみたかったのである。

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高砂市を歩く(31) 工楽松右衛門物語(16)・ロシア人の南下

2014-10-30 07:35:48 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   アイヌ人への圧政・ロシア人の南下

  松前・蝦夷地をめぐる情勢である。時代を寛政十年(1798)に設定する。

 ここで、二つの事実に注目したい。

 一つは、松前藩はアイヌから、絞るだけ絞り上げていた。アイヌは、まさに松前藩の奴隷であった。

 当然、アイヌは松前藩に対して敵意を持った。

 もう一つは、この時代、北からロシア人が南下して、日本近海に姿を見せるようになったことである。

 幕府は、重大に受け止めた。

 しかし、ロシア人の日本への接近は着実に増えていた。

 ロシア人の蝦夷地侵入がおおやけになれば、それを防ぐには松前藩単独では不可能であり、蝦夷地の管理を松前藩に任せられなくなる。

 幕府は、蝦夷地に密かに調査団も送り調査をした。

 松前藩は、これらの情報を徹底的に隠した。日本人とアイヌが直接接触すること、アイヌ人が日本語を学ぶことなどを厳禁した。

 しかし、情報に蓋をすることはできなかった。

 幕府は、ロシア人の日本近海への接近や、松前藩のアイヌ人へ苛烈な扱いを知った。

 松前藩に敵意を持つアイヌがロシア人と容易に結びつくことも心配した。

蝦夷地をとりまく情勢が、だんだんと明らかになってきた。

   アッケシへ

 嘉兵衛は高橋三平をしった。高橋三平は幕府の役人である。

 高橋は、「嘉兵衛、この蝦夷島において、松前や箱館ばかりでなく、ほかの潮路も見てみたいと思わぬか」

 「それは、もう」

 松前藩は、本土からの船に対し、松前、江差、箱館という湊に出入りする航路のほかはとらせたがらず、まして「奥」へゆくことは禁じている。

 「直乗の船頭というものは、自分で荷を買って運ぶといい商いになるが、他の荷を運ぶだけでは稼ぎはつまらぬそうだな」三平は、そのあたりをよく知っている。

 「その運ぶだけの仕事があるが、どうだ」というのである。

 高橋三平がいうのは、官米や官物をアッケシ(厚岸)まで運んでもらえまいか、ということである。

 「アッケシ」

 嘉兵衛は、商人であることを忘れ、頭に熱い血がのぼるのを感じた。

 その地名は、東蝦夷地の中心ではないか。

 高橋三平は、微笑していた。

 「かれには嘉兵衛という航海者を引きたててやろう」という肚づもりがあった。

 嘉兵衛は。商いの上でいえば幕府の御用といった道草を食っているよりも、北前交易に精を出したほうが利益が大きいのである。

 「このことは、子供のような考えから思いついたのだ」と、三平はいった。

 アッケシ湾は、クシロ(釧路)の東方にあり、大きく湾入しているために、風浪に疲れた船をさそいこむ良港である。

 結論を急ぐ、嘉兵衛は、高橋三平の申し出を引き受けた。

 嘉兵衛は、子供の心をそのまま持ち続けて育ったのかもしれない。



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高砂市を歩く(30) 工楽松右衛門物語(15)・松前藩は悪の組織

2014-10-30 07:13:28 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   松前藩は悪の組織

 嘉兵衛も松右衛門も、やがて活躍の場所を蝦夷地に求める。蝦夷地・松前藩について見ておきたい。

   場 所

 「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという縄張である。

 松前藩は全土を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえた。

 このあたり、さかり場ごとに「場所(ショバ)」をもつやくざに似ている。

「松前」という藩は、広大な採集の宝庫の一角を占めた悪組織というほかなかった。

 松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって

いなかった。

 「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

   松 前

 (嘉兵衛の船は、その松前を目指している)

 松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の福山(以下「松前」)の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれといっていい。

 (なぜ、松前様はこんなところにいるのか)

 と、暗くなりつつある沖から松前城下の背後の山々を見ながら、嘉兵衛はおもった。

 すでに、嘉兵衛は、「箱(函)館(以後、箱館とする)」という土地があることをきいていた。

 道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない。

 それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠かない。

   松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた

 しかし、野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになる。

 松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られる。

 それにかなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利であった。

 松前は、山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野がある。

 それでもなおここに藩が固執しているのは、蝦夷地統治の自信のなさの象徴といってよかった。

 松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けている。当然「反抗があるかもしれない」と考える。守備は十分でない。

 そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていた。

 

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高砂市を歩く(29) 工楽松右衛門物語(14)・辰悦丸

2014-10-29 16:42:40 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   土崎(秋田)へ行ってくれ

  ある日、嘉兵衛は、北風荘右衛門に呼ばれた。

 「秋田まで行ってくれるか。木材を運んでほしい」

 「往(ゆ)きは、お前に、もうけさせてやる。庄内や秋田では木綿や繰綿(繰り綿)が高くなってこまっているそうだ」

 情報に関しては、荘右衛門にはかなわない。薬師丸は、日本海の荒波によく耐えた。

    船大工・与茂平

 土崎滞在中に嘉兵衛は、土地の船大工の棟梁で与茂平という人物を知った。

 「あの船は、大坂の伝法(でんぽう)の船でございますか」と、その人物は、嘉兵衛が浜にいるときにやってきて、沖の薬師丸を指さした。

 「申し遅れましたが、手前は与茂平と申しまして、この土崎で船大工の真似事を致しております」と男はいった。

 「伝法」というのは、地名である。摂津(大坂)の中津川が海に入るあたりにあり、その砂浜は天下第一等の船大工の大集落で、たがいに技術を競いあうために、ここで造られる大船は日本でもっとも出来がいいとされていた。

 与茂平が見たとおり、薬師丸は伝法でつくられた。

嘉兵衛は、船大工の棟梁の与茂平を見たとき、「こういう感じの人を見るのは、はじめてではないか」と思い、かれが知っている、いろんなひとびとの顔を思いうかべては、誰に似ているかとおもったりした。

  (松右衝門旦那・・・)

   辰悦丸

 薬師丸で秋田まで航海をしたが、薬師丸で蝦夷地への航海は無理であることがわかった。

 嘉兵衛と与茂平の出会いは、ふしぎな方向へと展開をする。

 「松右衛門物語」とは言いながら、高田屋兵衛が主人公になっている。ご辛抱願いたい。

 与茂平と話すほどに嘉兵衛は、この人物が信用のできる人物であることが分かった。彼の工房を見学すると技術の確かなこともわかった。

 土崎の前の海は、北前(日本海)である。北前の海と船については知り尽くしている。

 それに、この地方は大阪と比べ手間賃が安いため、より安価にできる。

 嘉兵衛は、自分の船の建造を与茂平に建造を頼むことにした。

 与茂平は喜んでくれた。

 その時、もち金も十分ではなかった。とりあえず、手持ちの金を与茂平に渡した。

   すべては「信」

 兵庫湊に帰ってきた。

 冬場、日本海は荒れる。そのため、北前船の入津も少なくなる。湊は、ふだんより静かになる。

 が、嘉平は忙しかった。瀬戸内海で稼なければならなかった。すべては、新造船のためである。金さくも、しなければならなかった。

 金さくの、めどもたった。すべて嘉兵衛の「信・(信用)」から出ていた。

   新船・辰悦丸で蝦夷地へ

 薬師丸は、荷物をいっぱい積んで土崎を目指して兵庫を出た。

 土崎では、新造の船がほとんど完成していた。みごとな船であった。

 嘉兵衛は「辰悦丸」と命名した。何度もそれを撫ぜた。横で、与茂平も目頭を押さえていた。

 春も早い、梅の咲く頃になった。

 辰悦丸は、白い松右衛帆に風をいっぱいは孕んで土崎から松前に向かった。

  『菜の花の沖』を食いつまんで、紹介している。

 *写真:辰悦丸模型(洲本市五色町都志)

 


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高砂市を歩く(28) 工楽松右衛門物語(13)・お前は商人か?

2014-10-29 08:58:06 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   北風荘右衛門の不満

 高田屋嘉兵衛は、清右衛門の好意で驚くほど安価に堅固な修理ができた。

 那珂湊で、干鰯やシメ粕(大豆や魚の絞り粕)を、いっぱい積んで兵庫湊に帰ってきた。

 まずは、北風荘右衛門にあいさつをいそいだ。

 そして、嘉兵衛門のお礼の気持ちとして、自分の荷のすべてを荘右衛門に譲ろうと、申し出た。

 荘右衛門は、嘉兵衛の申し出を断った。不満な顔をみせた・・・

   おまえは船乗りか、それと商人か

 さらに、松右衝門旦那が、「嘉兵衛、お前は船乗りか、それとも商人か」と、あらたまった表情で質問してきた。

 嘉兵衛は、船乗りでございます。

 かれは、とっさに言おうと思ったが、すぐ言葉をのみこんだ。

 「そうでもあるまい」と、いう気持があったのである。

 嘉兵衛は、自分を商人とはせず、船乗りであるとしている。

 すくなくとも、船と風と海というもののおもしろさに、少年のころからとりつかれてきた。

 しかし、船好きが船を持とうとする場合、商業的才覚を働かさざるをえないのである。

 「わしも船きちがいだ」と、松右衛門旦那はいった。

 「北風の旦那は、船きちがいのこの松右衛門を若いころから可愛がってくださった。

 わしは齢をとってから、北風の旦那のお力をも借りて廻船問屋になったが、北風の旦那と話をしているときは、いまでも船きちがいの自分しか出さない。

 廻船問屋としての松右衛門を出すと、ぴしゃりとやられてしまうだろう。

 北風の旦那が、わしやお前に期待しているのは、あくまでもよい船乗りとしてだ。

 「小ざかしく荷を運んでくるような商人としてではない」と、松右衛門旦那はいった。

 *挿絵:工楽松右衛門(工楽禎章氏蔵)

 

 

 

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高砂市を歩く(27) 工楽松右衛門物語(12)・薬師丸

2014-10-28 19:19:22 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   筏で江戸へ入津 

 江戸への筏の航海は、「もともと北風様の見栄」から出たことだ。

 「わし(嘉兵衛)も見栄でこれをやった。見栄でやった以上は、それらしく派手にやりたい」

・・・・筏が品川に到着の日は、みながまちかまえて港はざわめいた。・・・・

   薬師丸

 北風荘右衛門から手紙が届いた。

 「西宮和泉屋伊兵衛持船の薬師丸という船を存じておろう」という意味のことが、その書出しにある。

 それが破船し、いま常州(現・茨城県)の那珂港(なかみなと)に繋がれている。

 和泉屋伊兵衛は、破船など捨ててしまうといったのを、お前のためにわずか十両という捨値で買いとっておいた。

 もし、お前にその気があるなら那珂湊まで行ってその船を検分せよ、土地において修繕できるものなら、そのようにして兵庫まで乗って帰るがよい・・・・というものであった。

 ・・・嘉兵衛らは薬師丸の検分に出かけた。

 (意外なことだ)

 破船して水主たちも去り、船主の和泉屋伊兵衛も捨てる決心をしたような船なら、湊のすみに古桶のようになって、なかば沈んでいるか、脇の浜の波打際に放置されているとおもっていたのに、わざわざ浜に、ひあげられているだけでなく、丁寧に小屋までつくられていた。

 北風荘右衛門の好意であることは明らかである。

立派な船とはいえないが、思いがけないことで嘉兵衛は船持の船頭になることができた。

 「自前の船で自前の荷主になれば、北前船の場合、一航海ほどであたらしい船を建造できるほどの資金が得られる」と、嘉兵衛はおもったのである。

 時間をかけて、嘉兵衛は薬師丸の点検をしてまわったが、船はしっかりしている。

 「ひょっとすると、船に、だまされているのかもしれない」とおもった。

 この程度の破船で薬師丸の水主たちが船をすてたのかよくわからなかった。まともな理由からではなさそうである。とするなら、「縁起が悪い」ということから船乗りが嫌ったのではないかと想像した。海で働く者は、しばしば縁起の虜になった。

    浜屋清右衛門

 嘉兵衛が船底からはいのぼって艫(とも‐船尾)に出てくると、羽織を着た小柄な人が立っていた。

 「私が、浜屋清右衛門でございます」と、その人は、わかわかしい笑顔で自分から名のった。那珂湊きっての廻船問屋の若当主が、一介の沖船頭に対して、まことに鄭重な態度なのである。

 嘉兵衛は「薬師丸」で蝦夷地への航海のことを話した。

 清右衛門は、嘉兵衛に親切であった。

 嘉兵衛たちは、薬師丸の修理がおわるまで、那珂湊で借家を借り、この湊で働いた。

がだんだんと、那珂湊のことが分ってきた。松前(蝦夷地)から来る産物が思ったより多いのである。

 以下、松右衛門と嘉兵衛の話を続けるが、その前に余話である。

 浜屋清右衛門のことである。

 彼は、青空のようなすがすがしい人であった。

 彼は、大内清右衛門という名で、徳川斉昭の密命で蝦夷地から千島・樺太を調査し、海を渡って沿海州も調査した。

 その後の経過は、はっきりしないが「蛮社の獄」に連座し、命を落とした。

 *挿絵:北前船(薬師丸ではない。薬師丸はこのような船か?)

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高砂市を歩く(26) 工楽松右衛門物語(11)・船を持て

2014-10-28 07:52:49 |  ・高砂市【新】工楽松右衛門

   船を持て

 多度津の夜の話である。

 松右衛門旦那は、嘉兵衛に「持船船頭になれ」と話した。

 「沖船頭(雇われ船頭)など、いくらやっても面白味にかぎりがある」という。

 「嘉兵衛、いくつだ」「二十四でございます」「うらやましいのう」

 わしなどは40から船持の身になったが、もっと若ければ船のことが身についたにちがいない。

 が、資金が要る。

 千石船一艘の建造費には千五百両という大金が必要であった。

 二千両といえば、それだけの現金を持っているだけで富商といわれるほどの額である。

 松右衛門の場合は、「松右衛門帆」という大発明をして、それを製造し大いに売ったからこそ、沖船頭から足をぬいて持船の身になることができた。

 「わし(嘉兵衛)には、資金がありません」といったが、松右衛門旦那は無視し、「持船の身になればぜひ松前地へゆけ」といった。

 「陸(おか)は、株、株、株がひしめいて、あとからきた者の割りこむすきまもない」ともいった。

兵庫でも、株制度は精密に出来てしまっている。

   蝦夷地へ

 ただ松前・蝦夷地の産物については、まだ株仲間が構成されていないものが多く、その意味で北海まで足をのばす北前船には、新入りの廻船業者にとって大きな自由がひらかれていた。

 「男であれば、北前船をうごかすべきじゃ」と、松右衝門旦那はくりかえしいう。

その夜、嘉兵衛には、松右衛門の「蝦夷地に行け」とい言葉が、一点のしみのように残った。

    紀州のヒノキを江戸へ運んでくれないか

 「男なら北前船を動かすべきだ」と松右衛門が嘉兵衛をけしかけた。

 「しかし、それには二千両という大金が要る。・・・二千両・・・

後日、嘉兵衛は、松右衛門によばれた。

 「北風の旦那に紀州様からお話があって、紀州熊野の新宮にうかんでいる五百年物のヒノキ12本を江戸に運んでくれないかということじゃ」と、松右衝門旦那は一気にしゃべった。

 かつて材木を筏に組んで帆や櫓を向け、船室もつくり屋根を苫で拭いて船舶そっくりにして、姫路藩の丸太を江戸へ運んだのは松右衛門である。

 こんどは、紀州藩から北風家に依頼があったのも、松右衛門のかつての快挙を聞いてのことらしい。

 が、松右衛門は廻船問屋の主人として多忙で、とても筏の航海をやっているひまがなく、その点は、北風家もよく知っている。

北風家の番頭が、松右衛門に、人選を依頼した。彼は、一も二もなく嘉兵衛を推薦したのである。

    筏で江戸へ

 嘉兵衛は、筏(いかだ)という冒険的な航海をすることに血が沸いてしまったことと、兵庫の数ある沖船頭(雇われ船頭)のなかで、自分が選ばれたということで、胴がふるえてきた。

 「紀州様は、お急ぎらしい。春になれば一番ということになるだろう・・・」

 北前船を持とうにも金がなく、さらには金を作るわずかな資本(もとで)もない身では、命をもとでにするしかない。

 嘉兵衛は、好んで冒険を楽しむような性格を持たなかったが、ともかくこの場合、ありあわせの命を使うしかないと考えていた。

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