ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

永田耕衣の風景(27) 踏切の スベリヒユまで 歩かれへん

2017-01-31 09:35:07 | 永田耕衣の風景

    大腿骨 マル折レノ 秋深キカナ

 92歳(平成4年)夏の終わりごろから、耕衣は右足の爪が痛むようになりました。

 痛風の症状かと心配になり、家人に付き添われ近所の医院を訪ねて診てもらったところ、痛風ではなかった。

 そこまではよかったのですが、帰り道、家近くまで来て、歩道の上にごくゆつくりと倒れてしまいまいました。

 春には、ときどき眩暈(めまし)に襲われたことがあり、その類のことかと思ったのですが、助けられても立ち上がれません。

 近くの人もかけつけ、救急車が来て病院へ。左大腿骨(たいたしこつ)骨折とわかって、そのまま入院し、金属製支柱を肉の中に埋めこむ手術となりました。「大腿骨 マル折レノ 秋深キカナ」 と、三ケ月の入院生活を経験することになってしまいました。

 入院期間中も耕衣は俳句を作り続け、その数は三百近くになりました。

 さいわい手術は成功し、退院後、正坐などはできなかったのですが、階段の上り下りをふくめ、ほぼ以前と変わらぬ生活を送れるようになりました。

   踏切の スベリヒユまで 歩かれへん

 耕衣を支えたのは、忙しさでした。たくさんの客もありました。

 この忙しさが妻ユキエの悲しみを忘れさせてくれました。

 もっとも、三ケ月の入院生活、それに足に異物が入っているという意識もあって、散歩の足はのびなくなりました。

 そして、こんな句が出来上がりました。

 「踏切のスベリヒユまで歩かれへん」

 何でもない句ですが、注釈が要ります。

 耕衣の家から踏切までは近いが、ゆるやかな上り坂です。その踏切近くの線路ぎわに、耕衣の好きな雑草のスベリヒユがふんばっています。

 そこまで歩けなくなったというのですが、何でもない雑草が大げさに詠(よ)みこまれたのは、そのすぐ先に妻ユキヱの好物である天津甘栗(てんしんあまくり)を売る小店があり、午後の散歩に出ようとする耕衣は、ときどきユキヱにねだられました。

 「栗買うて来て」これに対し、「おう」

 スベリヒユとは、その短いやりとりをいつも思い出させてくれる対象であり、妻への想い出の句でした。(no3466

 *写真:「スベリヒユ」の踏切(山陽電車踏切)

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永田耕衣の風景(26) 妻ユキエが死んだ

2017-01-30 08:36:35 | 永田耕衣の風景

            晩 年

 80歳を過ぎた耕衣夫婦の一日は、ゆっくりと明けました。

 耕衣は、まずラジオの天気予報に、やや難聴の耳を傾けます。夏や冬は、とくに温度が何度になるかを気にしました。

 気は若くても、年齢相応の用心というものがあり、夫婦ともども、それを心得ていました。

 庭に出て、雑草をふくめた草花や野菜の手入れをしたり、落ち葉たきをしたり、野鳥の声に耳を傾け、拾った小雀を育てる・・・

 そうした点では、よく見られる老いの暮らしでした。

     妻ユキエが死んだ

 ただ、ふつうとちがうのは、物の見方というか、好奇心の異様な強さでした。

 耕衣は、子供のころ水やりをやらされた思い出もあって茄子づくりにはとくに熱心といっても、鉢物なので幾株も育てるわけではありません。

 その限られた株の中で、人生と同様花は咲いても実を結ばぬものも出てきます。

 多くは、「元気な茄子振り」を見せ、食べころを迎えすが、盛りでもぎとっては残酷であり、その終焉(しゆつえん)を見届けるべきではないか、と思いつきました。

 やがて、茄子はしぼみはじめ、皺(しわ)をふやす。

 耕衣はそこに人生を重ね合わせ、最初のうちは、「茄子や皆 事の終るは 寂しけれ」などと詠んでいたが、そのうち、衰えることも生の一部であり、エネルーは成長するのに必要なだけでなく、衰えるにも、やはり必要ではないか。

 茄子にそれを見てやろうという気になりました。

 このため、盛りをすぎた茄子を鉢こと部屋に持ちこみ、その衰えぶりの観察をはじめました。

 そんな時です。

 妻のユキエは疼痛に苦しむようになり翌年の夏入院をするようになりました。

 入院してほぼ1年後(昭和61年)ユキエは83歳で亡くなりました。

 「主人がおる間は死なれまへん」と言い続けていたユキエは86歳の耕衣を残して亡くなりました。

 耕衣の心に大きな空洞をつくって・・・(no3465)

 *写真:枯れた茄子を観察中の耕衣

 

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永田耕衣の風景(25) 生きている喜び

2017-01-29 10:19:01 | 永田耕衣の風景

    生きている喜び

 耕衣は「年をとると、生きている喜びが深くなる。深くなるというよりも、その歓(よろこ)びを深く求めるようになる。つまり欲が深くなる。

 精神的な欲がふかくなる。私にあっては、すぐ旅をすることでもなく、世間に存在を媚びることでもない。

 古人今人の秀れた文章を毛穴から読みとることである」とも言っています。

 耕衣のこの「欲」は全く衰えることがありませんでした。

 また、こんなことを呟きました。

 耕衣の持論は「俳人はもっと本を読まにゃあかんのや・・・」

 事実、80歳を過ぎても耕衣の読書欲は衰えませんでした。

 丸谷才一が耕衣の句を絶賛

 そして、耕衣の俳句は全国版(昭511114日付『朝日新聞』朝刊)は大きく取り上けられました。取り上げたのは、丸谷才一(まるやさいいち)でした。

 丸谷は、その年「いちばん楽しんだ詩集」として吉岡実(よしおかみのる)の『サフラン摘み』を取り上げたのに続いて、その吉岡の編集した『耕衣百句』を紹介しました。

 耕衣を、「当今めずらしく、線が太くて芸が花やかな俳人」とし、「寒鴉 歩けば動く 景色かな」「昏(くら)かりし 昼寝のゆめの 覚めにけり」の二句を引いて、「たしかに威風あたりを払う強い句だが、不吉な気配が朦朧(もうろう)とたちこめていて」「挨拶(あいきつ)という、人なつかしい性格がみじんもない」。

 つまり、それまでの俳句の流れとは異なる「現代俳句」であり、その中でも「極上のものと言ってもよかろう」

 そして、「瞳目(どうもく)し嘆賞する」のは、「近海に 鯛睦(むつ)みいる 涅槃像(ねはんぞう)」「晩年や 夢を手込めの 梨花(りか)一枝」に代表されるような、晴れやかで寂しい悪趣味の世界である。

 が、この完璧な世界が付合をきびしく拒否していることは、誰の眼にも明らかだろう」と。(no3464

 *写真:晩年の耕衣

 

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永田耕衣の風景(24) 老 後

2017-01-28 08:56:33 | 永田耕衣の風景

     老 後

 人により、体質により、老化の具合はさまざまですが、耕衣の場合は、朝の散歩からはじまり、小ビン一本のビール、目刺しや昆布好きなどといった意図しない健康法のせいもあって、平均よりはやや良いといった健康状態が維持されていたといえます。

 耕衣は第二の就職もしないのに、退屈知らず。退屈している間もなかったのです。

 気分は相変わらず若く、満七十歳になったときも、「べつに大したことではない」と考えていました。

 それでも、81歳の時です。友人であり、俳人であった赤尾兜太いが亡くなりました。

 さすがの耕衣の死というものを考えるようになりました。

 そして、耕衣に否応なく老いを思い知らせるものも出てきました。

 でも、あくまで「耕衣の風景(8)」で紹介した、尾崎放哉のようには考えませんでした。

 放哉は、自分の死の予感を次のように詠んでいます。

 「春の山のうしろから煙が出だした」

 その煙とは、火葬場からの煙である。

 「死を予知した最晩年の実景であったのでしょうが、耕衣は悲観的なそんなにはに同調できませんでした。

 耕衣は自分の健康・詩の予感を次のように詠みました。

 「後ろにも髪脱け落つる山河かな」

 しんみりとばかりして居ませんでした。

 「老いの行きつく先など、軽やかに茶化して、うたい流すのも、俳句の効用ではないのか」と考えるのでした。(no3463

 *写真:昭和80歳の耕衣(自画像)

  句:道路を 飛び去り来てや 夏衣

 

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永田耕衣の風景(23) 耕衣の絵

2017-01-27 08:59:45 | 永田耕衣の風景

    耕衣の絵

 昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」が開かれたことは、前号で紹介しました。

 この展覧会は、大成功で終わりました。

 しかし、耕衣の書と俳句は、大いに評価されているのですが、「書と絵による・・・」と言いながら、絵についての西脇順三郎・棟方志功等の評価は見つかりません。

 ふだん、耕衣は俳句に仏や地蔵がおおく、その他では桃・野菊・カラス・鶏・ドジョウ・ナマズなど耕衣になじみのある生物を多く描きました。

 「棟方志功は、書に関しては関心を示したが、絵に関しては黙殺した」と耕衣は他のところで書いています。

 でも、耕衣の絵は棟方志功の版画に似ており、味があります。

 次の二点だけ紹介しておきます。 

    うつうつと 最高を行く 揚羽蝶

 

    












            香に於いて 餅のあるあり 老時雨














                                            

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永田耕衣の風景(22) 耕衣の書

2017-01-26 09:26:34 | 永田耕衣の風景

     耕衣の書

 耕衣は俳句のほかに絵画・骨董など多くの趣味がありました。ここでは「耕衣の書」について紹介しておきます。

 昭和三十八年、「永田耕衣書作展」なる個展が、三宮駅前の神戸新聞会館文化センターで開かれることになりました。耕衣六十三歳でした。

 さいわい、個展は好評であり、二年後には第二回展を神戸で、第三回展を京都で開催されました。

 そして、昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」が開かれました。

 このときには、そのカタログに詩人西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せています。

    棟方志功の評

 「禅機という事を聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも『機す』とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。

 ヨロコンタリ。ワラッタリ。ベソヲカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダノタリ。ダダヲコネタリ。

 お終(しま)いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨やましい」

    書画展は大成功

 いくつかの新聞が取り上げたこともあり、七月という盛夏に開かれた東京でのこの「耕衣展」であったが、予想以上の客がありました。

 この個展での出品作は、耕衣が自作の句を書き、絵を添えたものでした。

 絵柄としては、無難ということで、仏や地蔵が多いが、他に、白桃、野菊、鴉(かりす)、鶏、泥鰌、鯰など、耕衣に馴染(なじ)みの生物などでした。

 左手で筆を押すように漕(こ)ぐようにして書いた耕衣の文字です。

 そこには、たしかにふしぎなおもしろさ、それに迫力と風格がありました。(no3461

 *写真:耕衣の書(夢の世に 玉葱を作りて 寂しさよ)

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永田耕衣の風景(21) 自然の営みに感動

2017-01-25 08:56:53 | 永田耕衣の風景

 耕衣は退職後須磨(神戸市)に住み、多数のピカピカの人々囲まれ生活し、楽しくない不本意な時間はなかったようです。

          自然の営みに感動

 耕衣は、隣人の交わりとともに周囲の自然の営みにも目をむけるようになりました。

 空を見上げれば、鳶(とんび)が年中、空を舞っていています。 

 秋に入ると、浜にセキレイが来ます。

 長い尾をリズミカルに上下させるその姿には「女人的な美しさ」があり、雌雄を問わず、耕衣は「彼女たち」と呼びました。

 それに、セキレイは番(つがい)か、一羽で来て群れません。

 「党派性や縄張り意識が無いように見える」から、よけい見ていて心が休まりました。

 散歩は朝だけでなく、その日の成り行きで、午後にも出ました。

 須磨(すま)寺と、その門前町。縁日以外はそれほどの人出はなく、昔ながらの家並みや塔をのぞかせた深い森へと延び、寺の手前には大きな池もあります。

 敦盛(あつもり)塚などの史蹟(しせき)や、万葉などの歌碑が、そして、並木道を上れば、離宮祉(あと)です。

 公園と、散歩先には事欠きません。

 そうした散歩コースの中で、とくに気に入っているのが、鉄道線路沿いの小道でした。

 雑草が茂っているだけのつまらぬ道ですが、そこに雑草が残っているところが、耕衣には楽しみでした。

 耕衣も最初のうちは、束ねて「雑草」呼ばわりしていましたが、やがて、カヤッリ草、スヘリヒユ、チヵラシバなどと名で呼ぶようになり、「除(の)け者にされながら、よく頑張っている」と親しみを持つのでした。

 雑草が残っているのは、ふだん、あまり人の通らないせいですが、その先に妻のユキヱの好きな甘栗を売る店があるため、妻想いの耕衣にとっては、甘栗買いに通う甘い小道ともなりました。

 いずれにせよ耕衣の雑草への片想いも深まりました。

 最初は、野菊などを摘みとって持ち帰り、壷(つま)を選んで活(い)けたりしていましたが、やがて立ち枯れた姿にまで風情を感じるようになりました。(no3460

 *写真:須磨寺にて

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永田耕衣の風景(20) ピカピカの隣人たち

2017-01-24 08:28:05 | 永田耕衣の風景

    ピカピカの隣人たち

 昭和30221日、三菱製紙を退職しました。

 退職を待ちかねたように、耕衣が何より時間を注ぎこんだのが、読書でした。

 かなり質の高い文学書が中心で、しかも、ただ読み流すのではなく、さらに深いところを知ろうと、これはと思う著者とは、手紙のやりとりをするようになりました。

 その一人が、『エリオットの詩学』の著者で、京大教授の深瀬基寛。さらに、深瀬に紹介され、英文学者の大浦幸男や外山滋比古といった人たちを知るようになりました。

 そして、この流れの中で、詩人でもある慶大教授、西脇(にしわき)順三郎へ傾倒していきます。

 耕衣はまた『高橋新吉詩集』を出版されたばかりの文庫本で読み、その世界に引き込まれました。

 耕衣と新吉は、年齢は一つちがいでした。

 それに、禅についても、共に関心が強く、とくに新吉は耕衣に言わせれば、禅の「愛好者の域を超えた真剣な人」でした。

    俳句は、生き甲斐を痛感するもの

 耕衣の「琴座」グループでは、吟行ということを、ほとんどしませんでした。

 耕衣が旅を好まぬためというより、花や風景を見て廻っての写生を、耕衣は二義的なものとしてしか考えなかったからです。

 それよりは、「俳句は、人間と向き合い、自分自身と向き合う。あるいは東洋的無という観念と取り組むことだ」と考えていました。

 このため、例会などでは、俳句の技法的なことより、俳句と取り組む姿勢、ひいては人生の姿勢を話題にしました。

 俳句を無目的のものとする一部の俳人の考え方に反対し、「生き甲斐を痛感するのが俳句の目的だ」と明言し、そうした常識的というか「平凡な願望」を基礎にして、その上で、常識を破る句をつくろうとしたのです。

 耕衣は説きました。

 「他のことに気をとられず、自主的に、やるべきことは命がけでやるべきだ」と。(no3459

 *写真:西脇順三郎(左)と(昭和44720日、東京三越本店での「書と絵による永田耕衣展」の会場にて)

 *〈蛇足〉 今日(124日・火)の神戸新聞(東播版)にロウバイの記事があります。写真の女の子は孫の紗良です。

 

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永田耕衣の風景(19) 母・りうの死

2017-01-23 08:59:52 | 永田耕衣の風景

    仕事でも全力、趣味でも全力

 膨大な数に上る耕衣の句の中に、会社のことをうたった句はほとんどありません。

 まるで俳句だけで生きてきた人のように、耕衣の句に職場の匂(にお)いはない。

 耕衣は会社という公の世界と、俳句という私の世界を峻別(しゆんへつ)して生きるタイプだったようです。

会社のためだけでなく、俳句のためにもその二つの世界は、耕衣の中では、相互に不可侵ということで、成り立っていたのでしょう。

 どちらでも、脇目もふらず全力疾走、全一力投球しました。

 耕衣は、会社人間としてはおおむね常識人でした。

 その耕衣が、常識人であることへの反動にエネルギー叩きつけたのが俳句の世界でした。

     母・りうの死

 俳壇に衝撃を与えたのが次の一句でした。

    朝顔や 百たび訪(と)はば 母死なむ

 非常な句とも言えます。

 りうは、41歳で耕衣を産み産後の肥立ちがわるく、病弱な後半生を送ることになり、父親の女遊びも、そこから始まりました。

 これらの事情のため、耕衣が成人したときには、母りうは、まるで祖母と言ってよいほど老(ふ)けこんでおり、それだけにまた、耕衣の母想(おも)いはつのりました。

 りうは、夏蜜柑(みカん)畑の一隅の小さな住居で、ひとり暮らし、冬はよく戸口に筵(むしろ)を敷いて、日向(ひなた)ぼっこしながら、足袋を綴ったしていました。

 りうの好物は柿(かき)で、その季節には、耕衣は忘れず柿を買って持って行きました。

 母はよろこんで、一つを二人で食べるとともに、残りをすぐ吊るし柿にしました。

 そうした、りうの姿は、水田の広がる印南野(いなみの)の自然の一部に見えたりもしました。

 田舎にて 老母も虻(あぶ)も 茶褐色

 りうは、昭和2511791歳で他界しました。(no3458

 *写真:実母岩崎りう(70歳のころか)

 

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永田耕衣の風景(18) 「琴座(リラザ)」の発刊

2017-01-22 10:03:18 | 永田耕衣の風景

    俳句の復興

 戦後、僅かずつでしたが、食の不安が薄らいでくると、人々は文化や娯楽に目を向けはじめ、その流れの中で、俳句などの短詩型文学が見直されるようになりました。

 一方、俳句熱に水をかけるように、桑原武夫が「俳句第二芸術論」を唱えたのです。

 「俳句などは芸術として二流というか、芸術とは世界がちがう」という間題提起です。

 大戦下、俳壇の一部が大政翼賛というか、戦争遂行に加担したのではないかとの追及ムードにも乗って、俳句第二芸術論はかなり声高なものになってきました。

 俳壇ではこれに反撥(はんばつ)し、あるいはこれが刺激になって、俳句とは何かを考え直そうという動きが起こり、現代俳句協会がつくられ、耕衣もその当初の会員になりました。

 関西でも、中央のこの動きを追うように、京大俳句事件で投獄された西東三鬼、平畑静塔らにより、俳誌「天狼」が生まれるのも、こうした空気の中からでした。

 ただ、天狼の規約の中に「他社との結社との重籍を認めない」とありました。

 耕衣にはいささか不満でした。耕衣は、何よりもセクトを嫌いました。

    「琴座(リラザ)」の発刊

 天狼の規約が頭をかすめたのですが、耕衣はこっそり会社で自由に俳句を作るために同好会を始めました。そして雑誌をスタートさせました。

 雑誌の名は「琴座(リラザ)」。

 琴のギリシァ語から、「琴座」と呼ぶことにしました。

 天狼と琴座とは、冬と夏のそれぞれ代表的な天体です。

 小グループなのに、そして、結社でないとしながらも、大結社の「天狼」に対抗する気分がありました。

 幸い、製紙会社勤めということで、紙は何とか手当てができました。

 印刷は、つつましく謄写版(とつしやよん)刷り。 

 「琴座」の第一号は、昭和二十四年一月に発刊されました。(no3457)

 *写真:琴座創刊間もないころの同人たち(左から3人目が森はな:児童文学者)

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永田耕衣の風景(17) 文芸活動再開

2017-01-21 07:28:24 | 永田耕衣の風景

       新しい時代

 影を抱えていた小野蕪子は、昭和十八年に尿毒症で他界しました。

 そして、昭和20年、未曽有の犠牲を残して戦争は終わりました。

 全てが貧困の中にあったが、重苦しい空気だけは飛び散りました。

 新しい時代がはじまったのです。

 労働運動に火がつき、耕衣のいる高砂工場でも、二十年暮れ、厚生施設として自慢の大浴場階上ホールを会場にして、従業員組合創立大会が行われました。

 これには、はげしい要求を会社側につきつけました。

 そうした波は、周辺の他社でも燃え上がり、ついには日本共産党の大物・野坂参三を迎え、加古川町公会堂で人民大会が開かれる騒ぎとなりました。

 そして、その勢いで翌年春には、機械の運転をすべて停め、組合による生産管理を主張する動きにまで至ったのですが、さすがにこれにはついて行けぬ労働者が出て、三菱製紙では社外の応援とは縁を切る形で、自主再建へと進むことになりました。

    耕衣、文芸活動再開

 悲しい出来事がおきました。

 大きな体で指揮をとり続けた二國社長は、昭和二十三年、予防注射のミスでにわかに昇天してしまいました。

 何かと文芸活動に理解があった社長でした。

 一方、このころ俳句の世界では、彼は願ってもない理解者を得たのです。

 京大俳句事件で逮捕された西東三鬼(さいとうさんき)と平畑静塔の二人でした。

 特に三鬼は、耕衣と同じ明治三十三年の生まれで、戦後耕衣の活動に大きな影響を与え、耕衣の新しい世界を押し広げました。(no3456

 *写真:前列左から二人目、西東三鬼

      後列左から七人目平畑静塔、八人目耕衣(昭和2610月撮影)

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永田耕衣の風景(16)  京大俳句への弾圧(2)・小野蕪子の光と影

2017-01-20 10:23:01 | 永田耕衣の風景

   京大俳句への弾圧(2) 

       小野蕪子・光と影

 耕衣の師匠格の小野蕪子(ぶし)は、日本放送協会の幹部ということもあり、体制側の人間でした。

 後には大政翼賛運動の文芸面での推進者となり、日本文学報国会でも活躍しました。 

 蕪子は、俳句へ注文をつけました。

 「俳句は言葉の綾(あや)や文字の技巧に囚(とら)はれているだけでは一種の遊戯に異らない。われらは俳句を遊戯視してはならぬ。(中略)われらは今閑人であってはならぬ、遊び人であってはならぬ、思想的に目ざめた健康なる俳人でなくてはならぬ」(遺稿「言葉の闇(やみ)」)と。

 このばあいの『思想的に目ざめる』という内容は、ナショナリズム(国家主義)に目覚めることです。

 蕪子は、当時情報局の俳人監視にも関与していたようです。

 耕衣の新興俳句への肩入れには、心を痛め、不満でした。

 蕪子の短い言葉には、最後通牒(つうちよう)のこわさがありました。

 蕪子の非難は、体制側の実力者の言葉であるだけに虚仮(こけ)おどしではなく、蕪子が内務省筋に情報を流せば、耕衣は無事では済みません。

 逮捕された俳人の幾人かは医師や学生であったが、耕衣の場合は勤め先が財閥系の大企業であり、問題にされるだけでも職を失う心配がありました。

 耕衣は、慌(あわ)てました。

 旅行好きでないし、社用を兼ねることもできないのに、急いで夜汽車で上京しました。

 五月には、東京在住の「京大俳句」同人たちが検挙され、八月三十日未明には、西東三鬼も京都で逮捕連行されました。

 これにより、「京大俳句」関係者の逮捕は、十五人に及びました。

 「時局を非難する作句するな」ということであり、事実、逮捕者十五名中、起訴されたのは三名ですが、他の者は数ケ月から一年近い拘置の後、起訴されず釈放された人たちすべてが「執筆禁止」を言い渡され、終戦まで沈黙する他なかったのです。

 そういう空気の中では、さすがの耕衣も投句など、控えざるを得ませんでした。

 もともと観念というか根源をうたおうとする耕衣には、三鬼などのようなはげしい時局批判はなかったのですが、伝統俳句の世界に背を向け、逮捕者たちと句仲間である以上、要注意人物視されていることに変わりはなかったのです。(no3455

 *絵:小野蕪子自我像(昭和13年)

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永田耕衣の風景(15) 「京大俳句」への弾圧(1)

2017-01-19 09:31:16 | 永田耕衣の風景

 時代は、少し後戻りします。

 ショッキンクな事件が起きました。時代は戦争の泥沼へと驀進していました。

 やがて俳句にも暗い影を落としました。

    「京大俳句」への弾圧

 昭和15年(1940)2月14日、「京大俳句」の平畑静塔(ひらはたらせいとう)ら8人が、治安維持法違反容疑で京都府警特高課によって一斉検挙され、収監されました。

 この弾圧により、「京大俳句」誌も、静塔の「帰還兵語るしづかな眼を畏(おそ)れる」などの句を載せた二月号を最後に、廃刊に追いこまれました。

 「京大俳句」は、もともと京大関係者以外にも、またあらゆる作風に対しても自由に開かれた勉強クループでしたが、「ホトトギス」左派といわれた山口誓子(やまぐちせいし)らが加わることによって、実質的な編集長である静塔の下で、「作者の社会階層ならではの感情を以(もつ)て実生活を詠む」というところにまで至っていました。

 この静塔に誘われ、西東三鬼(さいとうきんき)も「京大俳句」を主な舞台として活躍していました。

 このころの三鬼には、「道寒し兵隊送るほとんど老婆」また、発表を禁じられた「塹壕(ざんごう)に眼窩(がんか)大きく残されし」等があります。

 *西東 三鬼(さいとう さんき):1900年(明治33)5月15日 – 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の俳人。医師として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。

     時代(戦争)に反抗・・・

 この時期、最初の弾圧に対し、一部の俳人たちは、そのまま引っこんではいませんでした。

 それどころか、弾圧に反援(はんぱつ)し、新興俳句運動の各派に呼びかけ、総合誌の形の「天香」誌を四月に創刊しました。

 そこでは寄稿者の多くが、弾圧を恐れぬという意思表示として、それまでの俳号やペンネームでなく、あえて実名を使いました。

 徘衣もまた実名「軍二」で投句しました。

 これに対し、当局は直ちに報復に出、東京在住の「京大俳句」同人四人が検挙されたのです。

 それでも排衣はのんきに構え、「文芸春秋」の俳句欄への原稿を書いたりしていました。(no3454

 *写真:左から耕衣、一人置いて西東三鬼(昭和23年、奈良公園にて撮影)

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永田耕衣の風景(14) 出会いの絶景

2017-01-18 08:05:43 | 永田耕衣の風景

     すでに、世界の棟方志功

 退職の年(昭和30年)、耕衣は第四句集を出したが、その装幀を棟方志功がやっています。

 志功はすでにその数年前から、フランスのサロン・ド・メーに招待出品をしたり、スイスのルガノ国際版画展で優秀賞を受け、この年にはブラジルのサンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に「釈迦(しやか)十大弟子」などを出品して最高賞を得ており、日本の志功というより、「世界の志功」になっていました。

 それほどの志功が、地方住まいで世間的には無名といっていい男の句集のため、それも自費出版に近く、装憤料などと無関係な仕事をしました。

 二人の間には、それほどの深い絆(きすな)ができていました。

     出会いの絶景

 耕衣が志功を知ったのは、耕衣がまだ37歳、平社員のころでした。

 志功は耕衣より3歳年少でしたが、すでにその当時でも国画会の名物会員であり、その作「大和し美(うるわ)し」によって柳宗悦(やなぎむねよし)等、らに認められていました。

 さらに、倉敷紡績社長で大原美術館の創設者である大原孫三郎に招かれ、大原邸の襖絵(ふすまえ)などを描きに、ときどき倉敷へ出かけていました。

 そして、しばしば、加古川駅で途中下車し、柳らと一緒に、あるいは単身で、高砂の港近くの工楽(くらく)長三郎邸に立ち寄っていました。

 そこで、耕衣は志功と話をすることができました。

    白泥会(はくでいかい)にて

 話は少しさかのぼります。昭和12年日本民芸協会が大阪の阪急百貨店で行われました。

 この時、「工楽長三郎の縁で知り合ったK氏から棟方志功氏ら一行が倉敷へゆくのだが途中明石で一泊したい。世話をしてほしい」と耕衣に依頼されました。

 松涛館に決めました。

 その時、偶然に棟方志功氏が耕衣の隣に座ったのが棟方志功とのきっかけとなりました。不思議なことに話はずいぶんは弾みました。

 以来、棟方一行が岡山の大原邸を訪ねるとき加古川で下車し、工楽邸に寄り、一夜を過ごしました。

 工楽長三郎は、耕衣等を中心に白泥会(はくでいかい)という文芸の会をつくっていました。

 志功が出席した日の白泥会は、志功を交えて、ことに楽しい「ひと時」となりました。(no3453

 *写真:耕衣の作品に見入る棟方志功

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永田耕衣の風景(13) 棟方志功との交友

2017-01-17 08:31:46 | 永田耕衣の風景

      耕衣の理解者が三菱製紙本社のトップに

 昭和14年、耕衣にとって嬉しい報せが、東京から伝わってきました。

 耕衣が若いころ世話になり耕衣を認め、また、耕衣もまた敬愛していた二国三樹三(にくにみきぞう)は、ほぼ十年前年前、高砂工揚長から常務として東京の本社に移っていました。

 その二国が、三菱製紙の会長に就任したのです。

 当時、同社は社長制ではなく、会長がトップでした。

 二国との間で手紙のやりとりなどするなどはなかったのですが、人間的にも幅もちろん、文芸に理解のある二国が社のトップの座に居るということは、耕衣にとってはこころ強いことでした。

 ・・・・また、俳句の師匠・小野蕪子(ぶし)も東京にいます。耕衣は、東京にあこがれました。

 しかし、この地(高砂・加古川)にいては失う物もあるが、得られる物もたくさんありました。それに、母をおいてこの地を離れることはできません。

 結局、耕衣は播磨高砂の地を離れませんでした。

    棟方志功との交友

 高砂での版画家・棟方志功とのつき合いは特に魅力的でした。

 年齢も近いし、よく気もあいました。

 また、棟方志功との時間も、高砂だからこそ取ることができたのです。

 知り合っての歳月は浅かったが、二人は声を上げてかけ寄り、手を握り合うほどの仲になっていました。

 耕衣の句に、志功は版画を彫ってくれたこともしばしばありました。

 棟方志功が突然登場しています。

 事後で、「棟方志功 in 高砂」について紹介しましょう。(no3452)

 *写真:棟方志功版画による耕衣句集「猫の足」

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