ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(182):雨の日の印南野台地④・草谷川

2010-04-17 07:46:57 |  ・稲美町印南野台地

Ea6ad45c_2 高薗寺の西の道を「さくらの森公園」へ歩いてみると、急な下り坂で、その底を草谷川が流れています。

草谷川を越えると再び「さくらの公園」へと上り坂になっています。

草谷川は、谷の底を流れる川です。

この辺りは、曇川と比べて海面からの高度が高く、従って、草谷川の方が急流で侵食力が強かったためです。

「地形図の概略図」(『稲美町史・p1104』より)をご覧ください。

(図は、クリックすると拡大します)

草谷川の川沿いは、北側が約15㍍の崖を、南側は約10㍍の崖が続いています。

これは草谷川の浸食により、つくられた崖です。

南の曇川辺りは、約130分の1の勾配に対して、草谷川は100分の1と急な勾配です。

つまり、草谷川は100㍍で1㍍低くなる急斜面となっています。

 月曜日の雨は、そんな草谷川に濁流をつくり、野村(加古川市八幡町)を走り抜け加古川へと注いでいました。

   草谷川は加古・天満地区も潤おす

Sarah4_179  草谷川は、急な斜面を流れ下ります。

 下流と上流の高低差が大きくなっています。

 つまり、草谷川の川沿いは急斜面となっており、比較的近い上流が高くなっています。

 そこから取水した水は、草谷川の南の崖を越え、加古地区・天満地区へ流れます。

 大溝用水は、その代表的な用水です。

 しかし、いつも取材した日(412日)のように、水が十分にあったのではありあません。

 繰り返します。稲美町は坂の町です。

 水は流れくだり、普段は、あまり水がありません。

  草谷川は暴れ川

しかし、こんな雨の日が続く梅雨の時期、または激しい台風の時などは、しばしば暴れ川となり、洪水を引きおこしました。

そのため、集落は洪水を避けるため、草谷川からの少し高くなった段丘面に発達しています。

稲美町に発達した段丘については別の機会に取り上げます。

*写真は、草谷橋のすぐ上流

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稲美町探訪(181):雨の日の印南野台地③・喜瀬川(枯川)

2010-04-16 07:33:02 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_167 2月の暖かい日でした。

喜瀬川をドンドンと上流へ歩きました。

もし地図があればご用意ください。

地図では喜瀬川は、河口から天満大池までのようにみえますが、天満大池からさらに上流へ流れています。

稲美町の岡と印南の境に長法池(ながのりいけ)がありますが、そこまでが喜瀬川です。

もっとも、天満大池と長法池の間の川を地元では枯川(かれかわ)と呼んでいます。

地図では、直ぐに長法池の喜瀬川の源流に到着します。

長法池から上流の喜瀬川は、長法流(ながのりりゅう)と名前を変えます。

川ではなく、流(りゅう)です。

長法流は印南の印南寺を過ぎると、枯川流と八重流に分かれています。

流れの大きな八重流を歩きました。

八重流を、どんどん行くとやがて稲美町の端につきあたり、神戸西区へと続きます。

そこで止めればいいのに、ちょっとシャクなので、先へ歩きました。小さな溝になりました。

「そこが源流かな」と思っていたら大きな池に繋がっています。

そして、池の向こうの土手から、またまた大きな流となりやがて雌岡山に到着しました。

喜瀬川の源流は神出(かんで)の雌岡山(めっこうさん)であることを確認しましたが、疲れました。

疲れた理由は、歩いた距離だけではないんです。

天満の大池から続く登り坂のためでした。    <msnctyst w:st="on" address="稲美町" addresslist="28:稲美町;"></msnctyst>

  稲美町は池の町、そして坂の町

Sarah4_168 日曜日・月曜日(411・12日)に雌岡山あたりに、そして印南野台地に降った雨は、無数の流(りゅう)に集まり、一部は八重流に、そして喜瀬川(枯川)から一挙に瀬戸内海へ濁流を押し出していました。

この日の喜瀬川は、曇川と同じく壮観でした。

しかし、坂の川は水を溜めておいてくれません。

田植えの頃、夏の日照の頃に必要な水は、溜めておかねばなりません。

稲美町は、池の町です。池が多い理由の一つは坂の町なんです。

池と水利権の問題は「稲美町探訪(67)・ため池の多い理由は?」をご覧ください。

*写真上は喜瀬川(写真の橋は枯川橋)、写真下(枯川橋近く)

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稲美町探訪(180):雨の日の印南野台地②・国安川のドンド

2010-04-15 00:16:17 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_161 『稲美町史』の記述をお借りします。

・・・国安の小池のうてみ(排水場)から落ちる水は流れて国安川となっているが、この川は深い谷の底を流れている。

もっとも谷といっても山ではないから、深い溝川といってよい。

その下流は曇川に合流する。

ところで深い所をながれるのは、うてみから落ちた水が少し流れてから滝となって落ちるからで、そこをドンドンとかドンドと言っていた。

この川の両側は高い崖で、雑木が一杯に生え茂っていた。

  ドンドのお吉

ここに住んでいた狐がドンドの「お吉」である。

このお吉はおそくなって道を通る人をよく騙(だま)したのである。

・・・・

Sarah4_164 以下、お吉の語が続いていますが『稲見町史(p889890)』をご覧ください。

以前、水の少ない時に出かけたことがあるが、ドンド(ドンドン)という水音はあまり気になりませんでした。

この度のまとまった雨の後に行ってみると、まさに滝で、ドンド・ドンドとやかましほどの「水音」でした。

ここが深山であれば、遠くから聞こえる滝の音として風情もあるのでしょうが、現在ここは住宅のど真ん中です。

雨の日には、近所の人は眠れるのだろうかと心配になるほどです。

この辺りに人家がなかった頃、「ドンドのお吉」の物語ができたのもうなずけます。

この猛烈な流れが、谷をつくり曇川に合流していました。

現在は、コンクリートの川で侵食は停まっています。

*写真:雨の日のドンドと少し下流の国安川

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稲美町探訪(179):雨の日の印南野台地①・曇川

2010-04-14 00:11:26 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_154 日曜日の夕方、天気予報のとおり、久しぶりに大雨となり、月曜日の朝は、まだ線を引くような強い雨が残っていました。

こんな日には外に出かけることは、ほとんどありません。

でも、月曜日(12)は昼から「大雨の印南野台地」のようす、特に雨の曇川・国安川・喜瀬川(枯川)・草谷川を見にでかけました。

印南野台地に降った雨は、南と西へ傾斜の上を流れ下っています。この程度の雨で、どんな流れになるのかを確かめたかったからです。

台風の時はともかく、大雨とはいえ昨夜からの1日の雨です。

「たいしたことはないだろう」と想像したのでしたが、どの川も川幅いっぱいに急流でした。

その報告です。

   <曇川>

Sarah4_158 入が池・長府池・満溜池に集まった水は、北山集落に沿って、まだ花びらの残る桜並木の下を、一気に白波をつくり下沢まで流れ下っています。

下沢で、国安川の流れと合流して、勢いを増し曇川本流は濁流でした。

久しぶりの本格的な雨とはいえ「一日の雨」の後です。

明治時代、九頭竜川(福井県)を見たオランダの土木技師・デレーケは、「これは滝である」といったといいますが、曇川もまさにそのような流れでした。

「曇った時だけ水があるから曇川である」と揶揄される曇川ですが、その日の曇川は違っていました。

堤防がしっかりしていない時代、長雨の続いた時には、この地域は幾度となく洪水に見舞われたことが想像されます。

やはり、稲美町は坂の町です。

曇川の流れは、坂がつくった急流です。

次に、この濁流は、どのくらいで元の水の少ない「曇川」に戻ってしまうのか知りたくなりました。

    写真上:曇川と国安川の合流地点から500mほど下流、写真下:北山の桜並木の曇川

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稲美町探訪(14):印南野台地⑪・降水量

2009-11-10 14:47:15 |  ・稲美町印南野台地

印南野台地は水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

それに、水を集める範囲が狭い。

その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

本論に入る前に、稲美野台地に降る雨についてみておきましょう。

  稲美町の降水量

Ef29d8ff 図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く20002250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

印南野は、きわめて雨の少ない地域となっています。

一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

   苦難に立ち向かった人々

印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

さらに水利権という社会的な条件が加わります。

そのため、厳しい歴史を刻んでいます。

そんな祖先の足跡をたどることにしましょう。

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稲美町探訪(13):印南野台地⑩・入ヶ池の伝承

2009-11-10 00:01:58 |  ・稲美町印南野台地

 北山の川上真楽寺(しんぎょうじ)縁起に、次のような「入ヶ池」の伝承があります。

入ヶ池の伝承

005_2 都が明日香にあった644年、藤原弥吉四郎が天皇の命令を受けて西国に行く途中「蛸草村」で、一人の老人に出会いました。

その老人は「この野を開けば必ず末代まで繁盛するだろう。お前がここを開墾するがよい・・」と言い残して姿を消しました。

弥吉四郎は、天皇にそのことを申し上げ、この地の開拓にとりかかりました。

ある年でした。夏の日照が続き、水が乏しくなりました。

毎年、水が足りなくなるので、前年から上流の広い谷に水を貯める池の築造にかかっていました。

が、せっかく築いた堤は、その度に大水で流されてしまいました。

十数年、池はそのままになっていました。

ある日、藤原弥吉四郎の孫にあたる人が夢で不思議な僧に出会いました。

その僧は「お前のおじいさんは、川の上流をせき止め、池を築いたがうまくいかなかった。

これは上流の水が強いためである。だから、特別な工夫が必要である。

堤を六枚の屏風の形にし、北側の堤のところから越水(うてみ・洪水吐)を造って、水を越えさせるがよい。

そして、工事中に美しい女が通りかかるだろうから、捕らえて人柱にすると堤は完成するであろう・・・」

村人を集めて池の築造がはじまりました。

 人柱になったお入(おにゅう)

5cff5b8b_2 その時でした。

ひとりの美しい女が通りかかりました。切り伏せて人柱にしてしまいました。

その後、堤は切れなくなりました。

この美しい女は「お入(おにゅう)といったので、この池は入ヶ池と呼ばれました。

 738年、ある村人が、入ヶ池のそばを通り帰る途中、女に出会いました。

姿は大きく、目が丸く髪が赤い女でした。

村人は、驚き急いで帰ろうとした時、その女は「私は鬼ではない。私は、この池の人柱にされた、もとは山中に住んでいた蛇である。

たまたま、人がたくさんいるので女に姿を変えて来てみると、思いもかけず切り殺され、人柱にされてしまった。

村人は、立派な池ができて喜んでいるが、私の魂は池からはなれられない。いま、このような姿で現れたのである・・・

おまえは、これから村人に伝え、私の菩提(ぼだい)を弔ってくれ。

そうそうすれば、いつまでもこの池を守り続けるであろう」

そういうと、姿がなくなりました。

    写真は、現代の入ヶ池です。入ヶ池は、確かに江戸以前の古い池ですが、飛鳥時代にまでさかのぼる築造となると若干疑問で平安時代から鎌倉時代ではないかと思われます。入ヶ池については後に、再度取り上げてみたい。

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稲美町探訪(12):印南野台地⑨・天満大池の伝承

2009-11-09 13:12:12 |  ・稲美町印南野台地

兵庫県はもともと降水量が少ないために、溜池をつくり灌漑が行われてきました。

兵庫県の溜池の数は、全国一位です。

そのうちでも淡路島と播磨に溜池が集中しています。

印南野台地のため池は、その規模の大きなのが特徴です。

<msnctyst w:st="on" address="稲美町" addresslist="28:稲美町;"></msnctyst>

 稲美町の加古にある「加古大池」は県内第一位、「天満大池」は第二位、北山にある「入ケ池」は第五位の規模です。

印南野台地のそれらの池のほとんどは、江戸時代と明治以降に造られていますが、「天満大池」と「入が池」は、その歴史は古く、水の少なかった印南野台地では比較的早く開発された地域です。

 天満大池と入が池について、少し紹介しおきましょう。

今日は、天満大池の伝承です。

  

  天満大池 

天満大池はかつて「岡の大池」とも「蛸草大池」とも呼ばれ、白鳳三年(675)に築かれたといわれています。

「蛸草大池」の名称は、1666年の絵図にもあり、おそらく「蛸草庄」を潤す「大池」として名づけられたのでしょう。

この天満大池には、次のような伝承があります。

天満大池の伝承

E3a1760f 室町時代前期にあたる1390正月のころでした。

ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

村人は「ありません・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

これは竜の仕業である。島を築いて弁財天を祀るがよい・・」といいました。

村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しいことがビタリと止んだといいます。

*弁財天は、女神でもとの姿は蛇です。

弁財天は、人々に富をもたらし、水を司る神としてあがめられていました。

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稲美町探訪(11):印南野台地⑧・(民話)印南野の野猪

2009-11-08 22:20:29 |  ・稲美町印南野台地

印南野は、江戸時代になり本格的に開拓がはじまりました。

 水が乏しかったため長い間、人の入植を拒んでいました。古代から印南野は街道筋の一部を除いて随分寂しいところでした。

そのため、印南野(台地)には、こんな民話が伝わっています。

 (民話)印南野の野猪◇

 D97d7cb2 ・・・・印南野は、寂しいところでした・・・・

西の国から一人の旅人が都へ急いでいた。

 日が暮れてしまった。辺りを見渡したら、一軒の小さな、今にも壊れそうな小屋がありました。

 夜がふけたが、その夜は、なかなか寝つけませんでした。暗闇を通して遠くから念仏を唱える声が伝わって不気味に聞こえてきます。松明をかざし、葬式のようでした。

 家の前まで来るとピタリと止まり、土を掘り、棺を埋めはじめたのです。

 作業は終わったようです。時間が過ぎました。

じっと墓を見ていると、なにかが動きだしました。

 「はて?」とよく見ると、裸の人が土の中から出てきました。そしてこちらへ向かってきたのです。

 「危ない!・・」と思い、旅人は家を出て、その怪物に切りつけました。

「ギャー」

確かに手ごたえがありました。

 旅人はあまりの恐ろしさに、後を見ず、いちもくさんに走りました。

人家のあるところにたどりついたころ、夜が明けました。

 この話を聞いた村人は、旅人と一緒にその場所へ引き返しました。

 そこには、大きな野猪が切り殺されていた・・・

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稲美町探訪(10):印南野台地⑦・幻の遷都論

2009-11-08 10:23:44 |  ・稲美町印南野台地

200677のブログ「首都・加古川(幻の遷都論)」で、関東大震災後の新首都探しの事情を紹介し、加古川の地は、有力な日本の首都の候補地にあがったことを書いた。

 もう一つ、幻の遷都論がある。  

  幻の遷都論

D3c521c6 平清盛の時代である。

 平家は、急速に勢いを弱め、京都を追われ、神戸の福原へ遷都した。

 神戸は、港町としては最適だが、弱点があった。

 神戸は坂の街で、後ろには六甲山が控えている。

 大きな平野がない。港を支える後背地がない。

 清盛は、港(大輪田泊)や新都・福原を支える場所が欲しかった。

 そのあたりの事情を『兵庫探検(歴史風土)』(神戸新聞社)の一部をお借りした。

 「・・・福原に居着いたものの、新都としては規模が小さい・・・・清盛は、一度は代替地を探そうとした。

 摂津国の昆陽野(こやの)、播磨国印南野(いなみの)あたりを候補地として、いろいろ考えたようだ・・・」

 東播、特に印南野から加古川にかけて、平家の勢力は伸びており、がっちりと土地を押さえていた。

 このことも、印南野を新都にしようと考えた理由と思われる。

 結果、印南野は水不足が主な原因で候補地から外れていったようである。

 平家滅亡後、加古川地方の平家領は、源氏の支配するところとなり、関東から武士がこの地に多く流入した。

 加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例である。

*写真は、印南野台地(稲美町から東の風景)

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稲美町探訪(9):印南野台地⑥・聖武天皇の印南野巡行

2009-11-07 23:26:21 |  ・稲美町印南野台地

結論を先に書いておきます。神亀三年(726)、聖武天皇は、印南野巡幸を行っています。

この時の巡行で、天皇は稲美町まで足を伸ばしていないようです。

   

  聖武天皇の印南巡幸

Hp_040 神亀元年春二月、24才の首皇子が即位しました。

聖武天皇です。

天皇は、即位をすませると各地に行幸をしています。

行幸が決まると道路の修理、仮宮の造営などの負担は農民に重くのしかかりました。

若い天皇や宮廷人の意識は、そのような農民の苦しみとは、隔絶したところにあったようです。

優雅な楽しみに重きを置いた行幸であり、ほとんど政治的な関連はなさそうで、風光明媚な地を求めての遊園の旅であったようです。

 聖武天皇は、神亀三年(726)三月、笠金村や山部赤人の歌人とともに印南野へ巡行しました。

播磨地方は、他の巡行地と同様、伝承や屯倉を通じて大和政権と古くからのつながりがあった地域で、気軽な巡行と言えそうです。

そして、この行幸では印南野にあまり関心を抱いていたとは思えません。

 山部赤人の「印南野 浅茅押しなべ さ寝る夜の 日長くしあれば、 家し偲はゆ」や作者未詳の「家にして 我は恋いなむ 印南の 浅茅がうへに 照りし月夜を」等、印南野を詠んだ歌があるのですが、その多くは、印南野の海辺を詠っています。

 笠金村が、この行幸で詠んだ一首を紹介しておきます。

 「行きめぐり見とも飽かめや 名寸隅の船瀬の浜に しきる白波」

  *名寸隅(なきすみ)・・・現在の江井島港といわれています。

  

仮宮はどこ?

それにしても、聖武天皇はどこに仮宮を造営したのでしょうか。

確定できていません。

魚住町の長坂寺(ちょうはんじ)の近くに長坂寺廃寺跡があり、そこが宮跡とする見解もあります。

その他にも宮跡の候補地はあるのですがどの候補地も現在の明石市に属しています。

聖武天皇の印南野行幸は、稲美町まで、足を伸ばしていないようです。

  *写真は、現在の江井島港の夕暮れ

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稲美町探訪(8):印南野台地⑤・文学にみる印南野(2)

2009-11-06 21:49:58 |  ・稲美町印南野台地

文学にみる印南野(2)

 Puaru_092 印南野は、万葉集に多く登場します。

 *まずい英訳をつけておきます。

《作者不明》

家にして 吾は恋なむ 印南野の 浅茅が上に 照りし 月夜を(巻7-1175)

 (家に帰って、恋しく思い出すだろうな。印南野の浅茅の上に照っていた月夜を)

  I would think after going home of this beautiful moon shining over the thaches of the Inamino Plateau.

《柿本人麻呂》

  稲日野(印南野と同じ)も 行き過ぎがてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ (巻3-252)

  I was cruising off the broad Inamino Plateau. Sailing was slow.

  As I was considering many things, the Kakono-ShimaIsland came into my sight.

 (広々とした稲日野の近くの海を航行していた。船足がはかばかしくない。いろいろと物思いにふけっていると、やがて恋しい加古の島が見え出した。)

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稲美町探訪(7):印南野台地④・文学にみる印南野(1)

2009-11-06 11:02:17 |  ・稲美町印南野台地

文学にみる印南野

 私たちの生活の舞台である印南野(いなみの)は、しばしば文学にも登場します。

 清少納言は『枕草子』で、印南野を嵯峨野についで二番目にあげています。

45a06812  

 野は、嵯峨野さらなり。

印南野。

交野(かたの)。

飛火野(とぶひの)。

しめ野。

春日野。

そうけ野こそ、すずろにおかしけれ・・・・

 *すずろにおかしけれ・・・・・心ひかれて、趣がある。

 清少納言が、野について述べているところで、印南野を二番目に取り上げた理由は分かりません。

 特別な個人的なつながりや思い出があったとも考えられません。

 とすれば、印南は中央(京都)でも広く知られていた地名であったようです。

 印南野がもっとも多く登場するのは、なんと言っても『万葉集』です。

 (山部赤人)

 印南野の 浅茅押しなべ さねる夜の 

ながくしあれば 家し偲はゆ (巻六ー九四

 《いなみ野の短い茅(ちがや)を押しなびかせて寝る夜の日数がつもったので、家が恋しくなった》

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稲美町探訪(6):印南野台地③・南西に低くなる地形

2009-11-05 22:26:38 |  ・稲美町印南野台地

前号(稲美町探訪・5)で「(印南野台地の)一段高い地形は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまちに復流水となり地表には大きな川はなかった。

深い井戸にも湧き水は少なかった」と書いた。

もう一つ、印南野台地の特徴をあげておきましょう。

   印南野台地は南西に低い地形

6a515356 『兵庫探検・続歴史風土編』に説明があるので、転載させていただきます。

・・・神戸市垂水区神出町の雌岡山(めっこうさん)に立つと、印南野が一望の下に見渡せる。

標高241メートルの低い山だが、ぐるりに高い山がなく、視界はぐんぐん開けている。

・・・加古川や高砂の市街地が霞んでいる。

播磨灘からだんだんに高まってきた海岸段丘の、頂点にあるのが雌岡山だった。

いい換えると、目の下の台地は雌岡山から南西にかけて漸次低くなり、そしてここに数えきれないほどの溜池が散在していた。・・・ 

以上が『兵庫探検』の説明の一部です。

印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点に西に、そして南に低くなる地形となっている。

これは、六甲山の変動(六甲変動)に伴う現象です。

後にとりあげますが、少し予告をしておきましょう。

「雌岡山辺りに水源さえあれば、そこからの水は印南野台地を自然と南西に流れ下り、池に水を貯め、豊かな稔りの大地に変えることができる」と考えた人物がおられた。

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稲美町探訪(5):印南野台地②・印南野台地は海の底

2009-11-05 09:05:40 |  ・稲美町印南野台地

 印南野台地は海の底

E876515f地図をご覧ください。

印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。

この図は50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

現在の印南野台地はありません。

そこは海の底です。

この海に川を中心として周辺から土砂が猛烈に流れ込みました。

土砂は、海底では比較的平に堆積します。

今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。

そして、一段高い平らな土地をつくりました。

これが印南野台地です。

現在でも印南野台地の隆起は続いています。

隆起の速度は、平岡町辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

この一段高い地形は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまち復流水となり地表に大きな川をつくりません。

深い井戸にも湧く水は少なかった。

そのため、印南野台地は水が得にくい土地で、長い間住む人を遠ざけてきました。

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稲美町探訪(4):印南野台地①

2009-11-04 20:30:35 |  ・稲美町印南野台地

  印南野台地 (1)

438a58a1 <msnctyst w:st="on" addresslist="28:稲美町;" address="稲美町"></msnctyst>

 稲美町は印南野台地の中央部に位置しています。

それでは、印南野台地はどんな性格を持った台地でしょうか。

 印南野台地の散策に出かけましょう。

最初に、その場所を確認しておきましょう。

 西は加古川市野口あたりから東は明石川、北は美の川、南は瀬戸内海にかこまれた台地が続きます。

この台地が印南野台地(いなみのだいち)と呼ばれています。

 ほぼ平坦な台地ですが、東が若干高く、西に行くにつれ徐々に低い地形を形成しています。

 印南野は万葉集にも多く詠まれ、「枕草子」にも登場し、ロマンチックな響きさえ持っています。

 しかし、印南野台地は極端に水が少なく、開拓が進むのは、やっと江戸時代になってからで、人をよせつけませんでした。

古代においての印南野は、荒涼とした風景が広がる地域でした。

 司馬遼太郎の「播磨灘物語」に面白い記述があります。

  ・・・野口は印南野の西にあって多少の丘陵が起伏し、西から来る旅人にとって、いかにも野の入り口といった地形をなすため、そういう地名が出来たのであろう。

 野口の地名は、印南の入りの意です。

 また、播磨町の野添は、印南野台地に沿った場所にある集落の意味です。

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