ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑬・西山の板碑

2009-03-31 12:51:08 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_098_3 西山の地蔵堂の奥に二枚の板碑(写真上)がある。 

 ◇阿弥陀一尊板碑◇

 まず、向かって右の小さい方の板碑に注目して欲しい。写真では、はっきりしないので、拓本(写真中)で確認して欲しい。C3fcc010_2

 組み合わせ式石棺の底石に、阿弥陀を表わす梵字を刻んでいる。

 そして、左中央に弘安四年(1281)の銘がある。

 弘安四年は、二回目の元寇(弘安の役)の年である。

 随分古い年代の板碑である。

 ◇阿弥陀三尊板碑◇ 

F2be2008_2  この板碑に向かって左の大きな板碑(写真下)は、組み合わせ式石棺の底石に梵字で阿弥陀三尊を刻んでいる。

 時代を確認できる銘がないが、右の板碑と同じ形式で彫られており、同年代の板碑としてほとんど間違いがないと思える。

 地蔵堂の奥にはこれらの板碑だけでなく、板碑や石仏の残欠がたくさん集められている。

 どれも時代を感じる。それにしても西山から里の山条にかけての高台に古い時代の石造物が多いのには驚かされる。

 これは何を意味するのだろうか。想像して欲しい。

*拓本は、『加古川市史(第七巻)』より引用

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上荘町・平荘町探訪:中山の熊野権現

2009-03-30 08:25:52 |  ・加古川市上荘・平荘町

4a2f4d15 きのう紹介した中山の熊野神社の伝承です。

 ◇中山の熊野権現◇

 むかしむかし、三人の木こりが山奥で薪を集めていました。

 とつぜん、目の前がボーとなり鬼神が現れました。

 「わしは、この山に住んでいる熊野権現じゃ。

 きょうからこの地は幸せで、豊かな暮らしができるであろう・・・私が守ってやろう・・・」

 そう言うと、スーッとうす暗い朝もやの中に鬼神の姿は消えていきました。

 三人の木こりは、しばらくの間、呆然とするばかりでした。

 我にかえった木こりたちは、後ろも見ないで一目散に村へとんで帰りました。

 そして、村人に鬼神に会ったこと、お告げのあったことを話しました。

 村人は「山で寝ていて夢でも見たのだろう・・・」と誰も信じてくれません。

 その日は、きれいな月の夜でした。

 そんな空が急に曇り、地をさくような雷が鳴り響きました。

 村人は「こんな日に雷がなるのは・・」と不思議がりました。

 やがて、嵐もおさまり、もとの静かな月夜になりました。

 あくる朝です。村人はみな、三人の木こりが会ったという鬼神の夢を見ていたのです。

 そして、村人はみな鬼神の同じお告げを聞いたと話しあいました。

 それからの中山の村は、幸せな豊かな生活がいつまでも続いたと言います。

 村人は、鬼神に感謝して熊野権現社を建てて大切にお祭をしました。

 (きのうのブログ「熊野神社の石仏」とあわせお読みください)

*『ふるさとの民話』(加古川青年会議所編)参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑫・熊野神社(新中山)の石棺仏

2009-03-29 09:23:00 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_126  昭和50年ごろ、中山集落の一部と集落の熊野神社は権現ダムの建設により水没した。

 それに伴い、中山集落と熊野神社は平荘町神木(こうぎ)の東に移動し、新しい集落は新中山と命名された。

 中山にあった熊野神社は、うっそうとした木立の間にあり、石段を登りつめたところにある荘厳なお宮だった。

 新中山の新しい熊野神社(写真下)の鳥居をくぐり石段を進むと、すぐ左手に小さな石棺仏(写真上)を見つけることがでる。

 石棺材の蓋の一部に彫ったこぶりの石仏である。

 石棺材の一部であれ、れっきとした石棺仏である。

 加古川市・加西市以外の市史であれば文化財として取り上げられる石仏であろう。

Taira_128  この石仏の研究は見つけることができなかった。

 このあたりにある南北朝時代や室町時代前期の石仏とよく似ているので、ここでは室町時代前期の石棺仏としておく。

 新中山集落について少し書いておきたい。

 湖の底に沈んだ集落は、もと中山新村で、成立は報恩寺の古記録などから江戸時代の初め、それも1600年ごろと推定される。

 これは近世の村の成立であり、この地に人間が生活を始めたのは、近くに後期古墳(6世紀)もあり、かなり古いと考えられる。

 中山新村は、昭和30年平荘村が加古川市への合併に伴い平荘町中山になり、昭和48年現在の地に移り新中山となった。

 湖底の熊野神社には民話の伝承がある。明日のブログで紹介したい。

*『古地名新釈・加古川おもしろ誌』(石見完次著)参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑪・笠塔婆の阿弥陀さん

2009-03-28 09:22:39 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_142_2 常楽寺(上荘町井ノ口)は、日光山の霊園の近くにある古刹である。

 常楽寺の参道の入り口近くに、たくさんの石造物(写真)がある。

 この付近で見つかった石造物がここに集められているようだ。

 写真の笠塔婆(前列向かって左から二番の石仏を彫った石造物)を見て欲しい。

 この石造物は町石笠塔婆(ちょうせきかさとうば)と呼ばれている。

 *町石(丁石)・・・路傍に立てて目標物までの道程を何丁と記した石

  笠塔婆・・・塔身と笠の二部よりなる、後に笠の上に宝珠を飾るものが普遍化する。

 この笠塔婆のそばに次のような説明がある。

 中央部の阿弥陀坐像を刻んだ笠塔婆は、日光寺(常楽寺)より一丁の距離であることが刻まれている。

 この笠塔婆は、元ここから一丁(約109㍍強)のところにあったらしい。

 阿弥陀さんの下に銘文がある。

    自日光寺一丁

    永徳二八廾南阿

 「永徳二八廾南阿は、永徳2年8月20日、南無阿弥陀仏」のことで、珍しい刻み方である。

 永徳2年は、1382年で南北朝時代の石造物である。

 日光寺とあるのは、常楽寺は、もと日光寺と呼ばれていたのだろう。

 それにしても、中世にさかのぼる古い石造物が上荘町・平荘町には、表現は悪いがゴロゴロしている。

*『加古川市史(第七巻)』参照

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加古川の戦争(39)・征清武功之碑

2009-03-27 09:09:19 |  ・まち歩き

Taira_150  今、ブログでは、上荘・平荘町の「野の仏たち」を取り上げているが、きょうは「加古川の戦争」の続きをはさんでおきたい。

 ◇征清武功之碑◇

 市内を歩いていると、時々ドキッとするものに遭遇する。

 ある場所に、この碑(写真)はあった。

 清国を征服(征伐)し、日本兵の武功をたたえた記念碑である。

 この碑の側面には「明治三十年四月建立」とある。

 日清戦争は、明治27~28年である。

 この戦争に日本は勝利し、明治28年下関講和条約が結ばれた。

 台湾を植民地とし、朝鮮を事実上の植民地として支配するようになった。

 そして、清国から多額の賠償金を獲得した。

 清から得た賠償金で産業革命を成し遂げ、軍備を増強し、以後日本は軍国主義の国家として驀進することになる。

 日清戦争では清国人・朝鮮人を塗炭の苦しみに追いやった。

 しかし、当時の日本国民は戦勝ムード一色であった。

 そんな雰囲気の中でこの「征清武功之碑」は建立されたのだろう。

 日本国民は戦争の実態は知らせれていなかった。

 戦争に勝利し、歓喜し、そのための碑を建立したのは自然の流れであったと思われる。

 しかし、今、私たちは日清戦争について知っている。

 その後の歴史も学んだ。

 他国を苦しめた実態も知った。

 「戦争だから仕方なかった・・・」と片付けてしまうことはできない。

 現在、戦争は風化しつつある。一方、きな臭い情勢は復活しつつある。

 戦争に「無関心」ではいられない。

 それにしても、現在「中国(人)を征伐(征服)する」という言葉はあまりにも失礼である。

 かつて、ロシアを征伐(征服)するいう意味で征露丸という薬が日露戦争の時期に製造された。

 現在、「正露丸」と名前を変えた。

 「征清」の言葉が、遺物として堂々と残っていることに驚く。

 「征清武功之碑」の建つ空間は、時間がとまっているようだ。

*この記事にご不満な方も多いのではないかと思います。ご意見をお聞かせください。

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑩・長楽寺(小畑)の六地蔵

2009-03-26 11:52:55 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_121 小畑(平荘町小畑)の長楽寺を訪ねた時は、少し風が強かったが、暖かな春の日差しの中にあった。

 境内に入ると本堂が南面している。

 その左側が墓地で、墓地の手前にヒカン桜が今を盛りにさいていた。

 そして、墓地の南に手入れの行き届いた竹林があり、竹をわたる風の騒ぎがここちよい。

 墓地の西端に六地蔵(写真)はある。

 下部を埋めてい建っている。

 家型石棺の蓋の内側に彫られ、地面からの高さ183センチの堂々とした石棺物である。

 石棺の蓋の外側は写真下のようである。

Taira_083  正面の縁取りした内部の平面に二列三段に六地蔵を配している。

 それにしても、六地蔵の刻み方は複雑で、坐像、立像そして上部の二体だけが蓮華座であり、光背部も二種の違った形式で刻んでいる。

 3月17日のブログで近くにある「八ッ仏」を紹介したが、よく似ている。

 説明板(加古川市教育委員会)は、南北朝時代の石仏であると説明している。

 なお、石仏の前に小形の「くりぬき石棺」の身の部分がある。

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑨・観音寺(里山条)の石仏

2009-03-25 19:01:53 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_113 平荘町里山条に小さなお寺がある。

 観音寺である。さすがに、山条というだけあって、加古川が少し離れて下に流れている。

 加古川が溢れたときでも、水はここまでやってこない。

 観音寺は、名前に不似合いなほどの小さな建物である。

 そのすぐ西の壁際に、この石仏(写真)はある。

 注意しなければ見過ごしてしまいそうな小ぶりの石仏である。

 銘がないので、いつごろの造られたのかはっきりしないが、室町時代の中ごろのものらしい。

 石棺材に彫られている。

 地元の人は、赤い可愛い前垂れをかけ大切にお守りをしている。

 先週、観音寺に行った。曇り空で地蔵様は少し寒そうだったが、写真を撮るために前掛けをはずさせていただいた。

Taira_111  それにしても、平荘地域に石棺仏の多いのには驚かされる。こんな何気ない石仏も石棺仏である。

 少し西へ行くと古墳時代の西山1号墳、それに、西山大塚がある。

 そして、さらに行くとそこは平荘湖古墳群である。

 この近辺には古墳が集中している。

 石棺仏を造る材料は困らなかったのかもしれない。

 観音寺の入り口には、古墳時代後期(6世紀)の大きな家型石棺の蓋が二つ(写真下)無造作に立っている。

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑧・見土呂姫の伝承

2009-03-24 08:20:36 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_135 上荘町見土呂(みとろ)山条のお堂の横にみごとな石棺仏(写真)がある。

 この三体の石仏には、次のような話がある。

 お堂にその説明があるので読んでおきたい。

 (注:一部書き変えている)

 ◇「見土呂(みとろ)」姫◇

 赤松円心の砦として室町時代の初めに井口城がつくられた。

 その後、井口城は、赤松満祐(みつすけ)の支配下におかれた。

 当時、城主は井口家治(いえはる)であった。

 家治の娘は、心やさしい美しい見土呂姫だった。

 井口家に出入りしていた若者は、姫のあまりの美しさに心を奪われた。

 ある年の「月見の祝」の時だった。

 若者は、やっと姫に近づくことができ、思いを告白したが、断られてしまった。

 絶望のあまり若者は、姫を殺してしまった。そして、裏山に埋めた。

 しばらくして、そのことを知った村人は姫の死を悼み、この石仏を立てたという。

 実話とおもえないが、こんな見土呂姫の悲話を伝えている。

 現在の「みとろ荘」のある場所に井口城はあった。

 南北朝時代、この地域は赤松氏の支配する地であった。

 赤松氏と上荘・平荘地域との関係は、シリーズ「野の仏たち」の後で取り上げたい。

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑦・石棺仏・一結衆十六人

2009-03-23 09:46:51 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_009 加古川地域には不思議な石仏がたくさんある。

 石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏である。

 これらの石棺物は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られたが、その後、なぜかプツリと姿を消した。

 鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾された。

 この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのであろう。

 単なる廃物利用ではなさそうである。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたのだろう。

 石棺仏は、全国に120基ほど確認されているが、その8割が加古川史、加西市地域に集中している。

 その理由は、はっきりとしない。

 加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺物であるが珍しいものである。

 写真は、神木(こうぎ・平荘町神木)の石棺仏(鎌倉後期)の石棺仏である。

  ◇一結衆十六人◇

 県下で、鎌倉時代から室町時代にかけてのこれら石造物は、すべて死者の追善や生者の逆修(ぎゃくしゅ)のための供養塔である。

 *「逆修」については、昨日のブログをご覧ください。

 しかし、鎌倉時代の庶民は裕福ではなかった。

 これら石造物の造立者は、有力な農民だったと思われるが、それにしても独力で造立するには負担が大きすぎた。

 信仰で結ばれた多数者の発願で造立している石造物が多い。

 個人の墓塔となるのは、次の室町時代を待たねばならない。

 神木の石棺仏も写真では確認しにくいが、右下に「一結衆十六人」と刻んでいる。

*『兵庫探検(続歴史風土編)』(神戸新聞社)参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑥・父母供養塔

2009-03-22 18:51:56 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_104_2 この仏(写真)は、昨日紹介した西山(平荘町)の「ほほえみ地蔵」の向かって左の石仏である。

 上の像は地蔵菩薩である。

 下の二体は、供養者の像である。

 説明が要る。

 この像には、次の銘がある。

  道?(不明)禅門永正十二年丁亥

  妙音禅尼八月十二日逆修

    *永正十二年・・・1515年

 妙音の下に逆修(ぎゃくしゅ)の二字を添えている。

 「逆修」は、広辞苑によれば「死なぬ前に、あらかじめ自分のために77日の仏事を修めて冥福をを祈ること」とある。

 つけ加えておきたい。

 当時、生きているうちに自分の死後の供養を行えば、死んでから遺族の行う追善供養の七倍の功徳があると信じられていた。

 この二体の像の一体は、供養者の亡父・道?であり、他の一体の妙音は、生存している母の像である。母の逆修をかね造立したのであろう。

 つまり、永正十二年、西山に法名・禅?という男性と妙音とう女性がいた。

 二人は夫婦であった。

 子どもが、二人の像を刻んでいる。

 個人でこの像を造立しているのである。

 造立者の豊かな生活が想像される。

*『郷土の石彫』(加古川市学会)・『加古川市史(第七巻)』参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち⑤・ほほえみ地蔵

2009-03-21 10:42:04 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_106_2  昭和54年、西山(加古川市平荘町)の墓地で二基の仏たち(写真)は発見された。

 見つけたのは西山在住の藤原良夫さんで、ウルシやツタが生い茂った中にあったという。

 二基のうち写真右の一基は、「ほほえみ地蔵」として知られている。

 お祭りの夜であろう、ゆれる灯明の明かりに照らされると、お顔が、にっこりと笑っているように見えたところから名づけられたと言う。

 ほほえみ地蔵は「線刻地蔵板碑」という厳しい名前を持つ。

  像は線刻のため写真では、はっきりしないため拓本で確かめください。

 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきたい。

A1062b10_2

 この板碑は、古墳時代の家形石棺の身の底の部分を再利用し、線刻で蓮華座上に立つ地蔵菩薩を彫り出した珍しいものです。

 地蔵像の左右に銘文があり、応長元年(1311)9月に造られたことが分かります。

 ・・・(一部略)・・・

 制作年代が明らかなこの板碑は、この地域の特徴である、いわゆる石棺仏であり、線刻で仏像が表現された鎌倉時代の石造品としては県内唯一の例と考えられるものです。

 「ほほえみ地蔵」と呼ばれ、親しまれている。・・・・

 口元がかすかに笑っておられるようだ。

 それにしても、この地域に古い石造物が多いのは驚きである。

 今後も新しく発見されるかもしれない。

*「ほほえみ地蔵」の写真左の地蔵については明日のブログで紹介したい。

 『郷土の石彫』(加古川史学会)参照

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上荘町・平荘町探訪:石造物は、中世からのメッセージ

2009-03-20 10:45:50 |  ・加古川市上荘・平荘町

4a6dc6da 17日、平荘町小畑にある「八ッ仏」を紹介した。

 タイミングよく、昨日の新聞に「八尊石仏(八ッ仏のこと)」が加古川市文化財に指定されたことが大きく取り上げられている。

 今、上荘・平荘町の石仏を訪ねているが、平荘町と石造物について考えてみたい。

 ◇中世からのメッセージ◇

 加古川市だけでなく、中世の地方史、特に、庶民の生活等についてはほとんど分からない。

 史料がない。あっても大寺院等に保存されており、中世の庶民の生活はでてこない。

 さいわい、庶民の生活・願い等が想像できる史料がある。それが石造物である。

 庶民は、石の仏に病気の回復を、死後の幸せを願ったことであろう。

 市域には江戸時代以前の銘のある石仏が43基ある。その内、平荘町が18基を占めている。

 特に鎌倉時代中期以前の石造品については、県下で50基を数えるのみである。

 そのうち、東播は26基で、加古川市域には11基を占めている。

 しかも、一基を除けば全てが平荘町に集中している。

 上荘町・平荘町の石造物探索を続けたい。

 そして、中世、特に鎌倉中期の平荘町の姿を再現したいものである。

 *『加古川市史(第七巻)』参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち④・双石仏と四尊石仏残欠

2009-03-19 09:09:01 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_075 きのうは、同じ敷地内にある平荘町養老の向かって左の地蔵堂の四尊石仏を紹介した。

 きょうは、隣の地蔵堂の石仏を訪ねてみたい。

 二基の石仏がある。

 左側の石仏(写真上)には、高さ50cm・幅53cmで立像(地蔵)と坐像(阿弥陀)が彫られている。

 右側一基(写真下)には、高さ約63cm・幅53cmの石棺に四体の阿弥陀坐像が彫られている。

 これらの石仏について、説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきたい。

 ・・・堂内にある二面の石仏も石棺の側石にそれぞれ仏像を彫ったもので、一面は阿弥陀像と地蔵、もう一つには阿弥陀三体(欠けたた部分に一体があり、本来は四体)が彫られており、造られたのは二面とも南北朝から室町初期と思われます・・・

 説明板にあるように、これらの石仏は、隣の地蔵堂の四体石仏も含めて、全て一枚の石板に数体の仏像を刻んだ石棺仏である。

Taira_074  この特色を持つ石仏は平荘町に多く分布しており、この地域の特色である。

 それにしても、養老の地蔵堂の石仏たちは、近くで見つかった仏たちを寄せ集めたようである。

 一時は橋に利用されたり、長い間忘れ去られたりで、数奇な運命をたどっているようだ。

 現在、養老の石仏たちは地域の人々に見守られている。

 少し余話をしておきたい。

 かつて、これらの石仏は「中村の地蔵様」として親しまれていた。

 明治10年12月、中村と芝村が合併して新しい村「養老」が誕生した。

 命名にあたり芝村の有力者・滝氏にちなんで養老としたという。

*『郷土の石刻』(加古川史学会)参照

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上荘町:平荘町探訪:野の仏たち③・四尊石仏

2009-03-18 10:35:53 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_072 平荘町養老の西の端に、同じ敷地内に二つの地蔵堂がある。

 きょうは、向かって左の四尊石仏(写真)を訪ねたい。

 こんな話がある。

 ・・・ある時、村人が牛(馬)を引いて、この石橋を渡ろうとすると必ず急に牛(馬)の足が動かなくなってしまう。

 村人は、不思議に思っていた。

 ある時である、村の女の人が洗濯をしていると、小川に架かる橋の下の辺りの水面に仏様の姿をみた。

 村人は、驚いて石橋を起こしてみると、この四体の像を刻んだ仏様のお姿があらわれた・・・・

 『加古川市史(第七巻)』でも、「この石仏はもと西山から養老に通じるあぜ道の橋にしていたのを像容を配していたことから、現在の場所へ移したものである。

 正面が黒色を帯びているのは、長い間祀られたもので、香煙によるものである」と記述されている。

 説明板(加古川市教育委員会)によれば南北朝(14世紀)としているが、田岡香逸氏は、『加古川市史(七巻)』で「おそらく室町時代のものとしてもおそく,1550年をさかのぼるものではない・・・」と述べておられる。

 四体は阿弥陀像である。

 *明日は、向かって右の地蔵堂の石仏を訪ねてみたい。

 『加古川市史(第七巻)』(加古川市)、『郷土の石彫』(加古川史学会)参照

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上荘町・平荘町探訪:野の仏たち②・八ッ仏

2009-03-17 11:25:00 |  ・加古川市上荘・平荘町

Taira_086 日曜日(15日)「八ッ仏」(やつぼとけ)を訪ねた。

 その前日は、雨のせいで小川には近くの山から流れ出た水音があった。

 遠くでカラスが鳴いている。

 あぜ道を急いでいると足元に蛇がいた。この時期にヘビを見るのはめずらしい。

 ハッ仏は、あたたかい春の日差しの中にあった。

 八ッ仏の所在地は、加古川市平荘町小畑字八ッ仏である。

 小畑の集落から北西約500mの山麓にある。

 石仏の名が小字名として残っている例はめずらしい。

 説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきたい。

 石仏・・・この石仏は大型石棺の家型石棺の蓋に八体の仏像を彫ってあり、俗称「八ッ仏」として祠らています。

 この石室には、後にある古墳から出土したものでしょう。

 石仏には、銘はありませんが、南北朝時代に彫られたものと思われます・・・(以下略)

 説明板では、南北朝の作としていますが、田岡香逸氏は、『加古川市史(第七巻)』で、「・・・南北朝時代にさかのぼるものとは考えられず、まず、室町前期の1450年ころの造立として、ほとんど誤りではないであろう・・・」と指摘されています。

 それにしても、不思議なことは八体の石仏を彫っていることである。

 石仏として八体の例は他に見られない。多いほど「御利益」があるのだろうか・・・

 *『郷土の石彫』(加古川市学会)

  『加古川市史(第七巻)』参照

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