ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川を歩く(49):汚される川

2008-06-29 03:35:52 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_027  河川敷ができて加古川は、きれいになったようにみえる。

 加古川大堰ができて加古川の水は、豊かになったようにみえる。

 でも、加古川はよそよそしく、なっているように思えるのだが・・・

 加古川は、長い歴史の中で地域を支えてきた。

 また、将来もそれは変わらない。

 シリーズ「(第三部)加古川を歩く」は、坂田月代さんの組曲「加古川」の序章「播磨の川よ」の紹介からはじめた。

 最後も、組曲「加古川」の第三章「汚される川」を紹介してこのシリーズを終わりたい。

   汚される川

(一) ドドッドッド ブルドゥザーが走る

    山が崩され ゴルフ場ができる

    寺の壁落ち 仏像がゆれる

    松は枯れはて きのこははえず

    ふるさとの山 どんどん変わる

(二) ドドッドッド ブルドゥザーが走る

     たんぼつぶされ ゴルフ場ができる

     緑の芝生 鳥さえこない

     農薬しみて 川へとそそぐ

     ふるさとの川 どんどん変わる

     人の心も うすれるばかり

(三) ドドッドッド ブルドッザーが走る

    畑はつぶされ ゴルフ場ができる

    汚水集まり 下流へとながる

    日ごと飲む水 汚れてやまず

    ふるさとの土地 どんどん変わる

    命守れと 願うばかり 

         詩集『天使の素足』(坂田月代)より

 そんな加古川にはしたくない。加古川は、地域の宝物。

 *次の企画(四部のテーマ)を決めていません。ゆっくり考えます。よい案があれば提案ください。

 「ひろかずのブログ」は、しばらく休憩します。

 

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加古川を歩く(48):水手供養塔

2008-06-28 12:06:24 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_087  シリーズ「加古川を歩く」は、河口の町・高砂からはじめ、上流へたどり、また高砂の町へ帰ってきた。

 このシリーズの最後に、秀吉の朝鮮侵略の際にかり出されて死んだ高砂の水手(かこ)の供養塔を取り上げたい。

 十輪寺の境内に入ると本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(写真)がある。

 1592年、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて死んだ水手の供養等である。

 この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中96人が溺死したという。

 「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆が動員された。

 「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡した。

 この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する遺物である。

 96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人が水手の死を供養するためにつくったものではないかといわれている。

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加古川を歩く(47):竜山石

2008-06-26 12:36:13 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_095 竜山石について触れておきたい。

 古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像される。

 河口は、竜山の採石場(写真)のあたりだったのかもしれない。

 万葉集で歌われている加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようだ。

 そこに、竜山石の採石場があった。

 真壁夫妻の研究によれば「五世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられる。

 竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれている。

 竜山石は、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのであろう。

 道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べた。

 竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)であったが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にあった。

 竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。

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加古川を歩く(46):舟運(14)・舟運の終焉

2008-06-22 14:50:04 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_041  時代は、明治に移った。

 加古川舟運は自由競争の時代になり、 高瀬舟による運送は、一時江戸時代にもまして盛んになった。

 明治四年の廃藩置県、それに続く地租の改正(金納)。

 時代は大きく変わった。

 従来の領主の貢米がなくなり、それにたよっていた多くの問屋が没落した。

 そして、新しい米穀商を兼ねた商人が活躍するようになった。

 しかし、そんな時代も長く続かなかった。やがて高瀬舟の時代は幕を閉じることになる。

 息の根を止めたのは、大正二年(1913)の播州鉄道(現:JR加古川線)の開通であった。

 以後、物資は鉄道輸送に代わり、高瀬舟は運行を止めた。

 船子や問屋は、次々と解体された。

 素朴で頑丈な舟板は、あちこちの家の土蔵の外張りに姿を変え、現在わずかにその名残を留めている。

 写真は、工楽家(高砂町今津町)の腰板で、高瀬舟を再利用したものである。

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加古川を歩く(45):舟運(13)百間蔵(ひゃっけんぐら)

2008-06-20 14:35:46 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

3e46f9a2_2   右は元禄期の高砂の町の解読図の一部である。

 相生橋近くの高砂川に永楽橋がかかる。江戸期、その北の高砂川にそって地図のような施設(①~⑤)があった。

 ①北御蔵、②南御蔵、③御津留穀留番所、④御蔵長屋、⑤御津留長屋である。

 このうち、①・②は百間蔵(ひゃっけんぐら)と呼ばれていた。Kakogawawoyuku_091_2

 今は、三菱製紙の工場となり蔵跡をしめす碑石(写真)が道路わきにあるだけである。

 ③の津留穀番所は、姫路藩の年貢米収穫期である秋の彼岸から十二月十五日までの間、川上の村々から米穀がひそかに持ち出されるのを防止するために設けられた役所である。

 ④・⑤は、役人のいる役所であった。

 この百間蔵は、慶長年間に藩主・池田輝政の高砂の港づくりの時、京都にあった蔵をここへ移し、百間蔵として改修したものであるといわれている。

 高砂神社から百間蔵にかけての地域が、姫路藩の経済を支えていた。

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加古川を歩く(44):舟運(12)・高砂の河岸

2008-06-16 15:26:29 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

77d3c120  右の地図の黄色(陸地)の部分は、同縮尺の現代の地図に「天保国絵図」を挿入した概略図である。

 高砂に近づいた高瀬舟は、水路(高砂川)に入り目的地・堀川に着いた。

 加古川からの水路(高砂川)を堀川と呼ぶ人も多いが、堀川は高砂神社のすぐ北の東西の部分が堀川である。

 その北の東西の水路は北堀川で、北堀川が突き当たったカ所から南北に流れる運河は西堀川である。

 堀川を囲んで多くの問屋があり、まさに、ここは姫路藩の一大ターミナルであった。

 堀川が西へ突き当たったところは工楽家で、その北に美濃部達吉の生まれた美濃部家があった。

 明治のころまで「問屋の庭はきをするだけで食える」といわれた。これは「運送中にこぼれた米をはき集めるだけで商売になる」という意味で、高砂の繁栄ぶりをよく示している。Kakogawawoyuku_001

 問屋は、高瀬舟の着くシーズンは朝の四時ごろから大きな釜に味噌汁を用意した。

 寒風の中を堀川に着いた船乗りのへのふるまいのためであった。

 堀川の辺りには、賑わいがあった。

 しかし、現在堀川界隈はさびれ、残された倉庫群(写真)だけが、当時の繁栄をしのばせている。

 その倉庫群も、最近は駐車場などに姿を変えている。

*『加古川舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)参照

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加古川を歩く(43):舟運(11)・加古川の河岸

2008-06-14 16:59:59 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_022_2  いまの加古川大橋の少し上手に橋杭のあと(写真)が残っている。

 *この橋については、2007年3月9日のブログ(旧加古川大橋)をご覧ください。

 この橋杭の東岸の土手のあたりに加古川のハマ(河岸)があった。

 そこは、食事所があったのであろう、茶屋所(ちゃやじょ)と呼ばれていた。

 加古川の河岸は、鉄道(山陽鉄道)がついてからの方がむしろ繁盛したようである。

 それまでは、ほとんどの荷物は高砂まで直接運ばれ、ごく一部が小揚(こあげ)される程度であったという。

  加古川の河岸と塩座

 高砂では、製塩業がさかんであった。

 そして、塩の行商はこの地方の主な産業の一つになっていた。

 しかし、舟運の発達により大量の塩が高瀬舟で奥へ運ばれるようになった。

 それまでの商人の生活が成りたたなくなってきた。

 そのため、塩商人たちは姫路藩に対して運上銀(税金)の上納と引き換えに販売権を願い出ている。そして認められた。

  享保一六年正月に加古川村に、塩の販売を監視し、運営する塩座(塩改所)が設置された。

 高瀬舟による塩輸送にも運上銀がかけられるようになった。

 塩座は、高瀬舟が積み込む塩については、塩一石につき銀三分五厘を徴収した。

*『加古川の舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)

  『加古川市史(第二巻)』(加古川市)参照

 

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加古川を歩く(42):舟運(10)・国包の河岸②

2008-06-13 20:00:47 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

7e8e302c  川筋の最大の難所は国包(くにかね)のすぐ上手にあった。

 美嚢川(みのがわ)が加古川と合流し、国包の北あたりは、全体が岩盤でミオ(水路)らしいものがなかった。

 これは、またオヤジ(船頭)の腕の見せどころでもあった。

 ここをすぎると、大きな難所は少なく、高砂までは帆走ができ、天気のよい日には鼻歌も出たという。

 やがて、高砂についた。

 帰りは、帰りの荷物を積み、オヤジ(船頭)は荷の受け渡しのために居残のこり、中乗りと艫のりは、国包でオヤジ(船頭)を待った。

 オヤジは国包までは陸路を帰った。

 その日は、国包での泊が多かった。

 そんな時は、きまってオヤジは「下川」(現在も高砂で営業している)のアナゴと晩のおかずを仕入れてきた。

 秋ごろは、イワシかサイラ。冬は、ナゴヤ(小形のふぐ)が多かった。

 ナゴヤの臓物を抜き、野菜を加えての鍋はこたえられなかった。

 国包の夜は、苦しい労働を忘れる楽しみがあった。

*『加古川の舟運の研究(吉田省三著)(滝野町)参照

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加古川を歩く(41):舟運(9)・国包の河岸①

2008-06-11 11:40:53 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

34e6fe13  河岸(かし)は、河舟の港である。

 河岸には船持・問屋・船乗りが居住し、また近隣の村々の生活物資購入の場所として町場を形成していた。

 河岸として栄えた国包村(くにかねむら)の元文二年(1737)の集落構成は、次のようであった。

  家数:一二五軒(うち百姓、七四軒・水呑、五十軒・・・計算違いか)

  人数:六七○人

  大工四、桶屋二、医師三、木挽一、材木屋三、陸塩売四、旅籠屋五、河船宿六、殺生(川漁師)六、蚕種商二(村明細帳より)46effcc8_6

 戸数に比して水呑が多いが、これは行商や小商いを含んでいるのであろう。

 また、宗佐(現:加古川市八幡町)は、国包の土地を借りて河岸を開いて、宗佐や周辺の米などを運んでいた。

 国包の河岸は、湯山街道との交差点でもあり、物流の一集散地で町場の性格を持っていた。

  国包の河岸については、明日のブログでもう少し続けたい。

*絵は「国包浜実況図」(国包畑家所蔵)

『加古川の舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)参照

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加古川を歩く(40):舟運(8)・高瀬舟(2)

2008-06-10 09:51:36 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

266a9082  加古川は、農業用水の水源でもあった。

 すでに紹介したように、加古川には各所に堰がつくられ、高瀬舟の運行は田畑で水を使う期間はできなかった。

 高瀬舟の運行は、九月の彼岸から翌年五月の八十八夜までと限られていた。

 この間、堰は壊された。

 さて、高瀬舟であるが滝野から高砂まで約37キロ、朝四時ごろに出発し、4~5時間で高砂に着いた。

 下りは、水流にのって行くのであるから、危険はあったが便利であった。

 帰りが、大変だった。

 帰りは流を逆行するのであるから、船頭は先頭に座り、艫乗り(とものり)は、最後尾にいて、船頭の支持どおりに櫓を操った。

 中乗りは「かい」を使って船を進めた。

 早瀬となると、容易に前に進んでくれない。

 こんな時は、船頭が船に残り他の二人は河原にあがって引綱をひっぱるのである。

 苦しいどころの騒ぎではなかった。

 この姿が「さる」に似ているので、船を引く船子は「さる」と呼ばれた。

 船子のかけ声が、「さる」のホー・ホーという鳴き声に似ていたからともいわれる。

*絵:蓬莱家(加東市大門)所蔵

 『KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史-』(伊賀なほゑ著)参照

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加古川を歩く(39):舟運(7)・高瀬舟(1)

2008-06-09 07:56:00 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

B06bfa38_2  商品経済発達にともなって、加古川の舟運の果す役割は、ますます大きくなった。

 高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったが、丹波等で産出された、さまざまな商品が運ばれた。

 その主ものは次のようである。

 ◇下り荷物(高砂へ運ばれたもの)

  木工品・・・・・木材・タンス・下駄・桶・樽など

  生活用品・・・薪・炭・紙・綿など

  食料品・・・・・米・芋・茶・梨など

 ◇上り荷物

  農具・・・水車・唐箕(とうみ)など

  肥料・・・干鰯(ほしか)・油粕など

  海産物

  嗜好品・・・・・菓子・煙草・酒など

  食料品・・・・・塩・砂糖・そんめんなど

  衣料品・・・・・呉服など

  生活用品・・・鍋釜・火打石・畳表・ろうそく・石炭・仏壇など

*写真は加古川の高瀬舟(大野付近)

 『加古川市史(第二巻)』・『KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史-(伊賀なほゑ著)』参照

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加古川を歩く(38):舟運(6)・彦兵衛

2008-06-08 09:11:35 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_080  闘竜灘の北の田高川(たこうがわ)・本郷川の舟運については、他所で紹介するとして闘竜灘より南の舟運の説明に入りたい。

 加古川舟運では闘竜灘から高砂までを滝野川と呼んでいる。

 そして、加古川の舟運を語るとき、滝野の阿江与助を除いて語ることはできない。

 与助が、闘竜灘の北、そして南は大門までの加古川の開削にあたった功績は大きかった。

 写真は、大門(加東市大門)の河岸(かし)のあったあたりである。

 阿江家は、加古川の開削にあたっただけでなく、幕末まで舟座を世襲した。

 そして、同家には多くの古文書が残されており、従来加古川舟運はもっぱら同家に残された古文書によって語られてきた。

 そのため、阿江家の功績ばかりが強調されたものと思われる。

 加古川舟運は、江戸時代の早い時期に完成しており、高砂までの加古川舟運の開発は、与助のみによるものではない。

 「大門より南は、印南郡(現:加古川市)砂部(いさべ)の彦兵衛と加東郡(現:加東市)垂水村の三郎右衛門によって切り開かれたとある古文書はかたっている。

 彦兵衛について詳しいことは分からない。

*『加古川市史(第二巻)』参照

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加古川を歩く(37):舟運(5)・日本海側との交流

2008-06-07 08:55:32 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

D2dfed71  加古川をさかのぼると支流の一部は石生(いそう)へ着き、 石生からさらに北の由良川を下ると日本海へ出る。

 石生に「水分れ公園(みわかれこうえん)」があるが、ここに降った雨の一部は加古川へ、一部は由良川へ流れる。

 「水分れ」は、平地部に分水界があるめずらしい地形である。

 標高は、およそ95メートルで、海面が100メートルも上昇すれば日本は加古川と由良川を結ぶ線で二つにわかれてしまう。

 当然、古代から加古川・由良川水系は日本海側と瀬戸内海側をつなぐ道の役割を果してきた。

 水分れ公園内の「水分れ資料館」に、この地域の水運に関する展示があったので、掲載させていただきたい。

 日本海側との交流

018  ・・・・・江戸時代には加古川に水運が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。

 由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠(あなのうらとうげ)を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。

 こうして南北の交流が行われ、物資や文化も伝わりました。・・・

 (水分れ公園資料館展示より)

 なお、明治のはじめに石生付近を運河とし、日本海側と瀬戸内海側を結びつける構想があったことも説明している。

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加古川を歩く(36):舟運(4)・田高川、本郷川

2008-06-06 09:47:49 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

029  闘竜灘より北への舟運の開発は、南の舟運より10年ほど遅れるが、先に見ておきたい。

 6月2日(火)、本郷(丹波市氷上町本郷)へいってきた。

 写真は、その帰りに撮ったものである。

 手前が佐治川(本郷川)で、中央が加古川の支流・篠山川である。

 ここで加古川は、両川の水を合わせて、南(写真右)へと勢いを増して流れ下る。

71af356a  前日は雨のため、この日の加古川は、水量も多く流れも早かった。

 図を見て欲しい。1800年ごろに描かれた田高川船座周辺の図である。

 この佐治川と篠山川の合流点からすぐ南の右岸(西岸)に船町の河岸(かし・川の港)があった。

 図にある「三ケ村井堰」は現役であるが、現在図中の船着場・会所・運上所辺りの風景はすっかり変わり、その跡を残していない。

 闘竜灘(滝野)から、ここ船町までを、加古川舟運では阿江与助と共に舟運開発にあたたった西村伝入の居村・田高村(たこうむら)にちなんで田高川(たこうがわ)と言う。

 そして、船町からさらに上流の本郷村までを本郷川と呼んでいる。

  三ケ村井堰と船町

 闘竜灘で加古川を上下した高瀬舟は、いったん陸揚げされ、荷物が積み替えられたことは述べた。

 物資の積み替えが行われた河岸がもう一ヶ所あった。それが、ここ船町の河岸であった。

 ここの「三ケ村井堰」は定井堰で、一年を通して取り壊されることがなかったため、高瀬舟は通行することはできなかった。

 加古川には、たくさんの井堰があったが、加古川舟運より井堰の方が歴史が古く、田畑に水が必要な時期は井堰の方が優先された。

 そのため、加古川の舟運は九月の彼岸から翌年の五月の八十八夜までと限られていた。この期間は井堰がつぶされ高瀬船の航行が可能となった。

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加古川を歩く(35):舟運(3)・阿江与助(2)

2008-06-05 09:11:07 |  ・加古川市五ヶ井用水を歩く

Kakogawawoyuku_072  加古川を闘竜灘(加東市滝野町)までさかのぼると、岩が川底からせり上がっている。

 昔は、現在よりも水量が多かった。

 この闘竜灘が、写真のように開さくされたのは明治六年になってからである。

 この工事は、生野の鉱山からの技術者を招いたという。

 それ以前の闘竜灘の水は、この岩の上を流れていた。

 雨季の今頃の流れは、まさに豪快な風景をつくっていたことであろう。

 この闘竜灘の岩石により、ここを上下する高瀬舟は航行を妨げられた。

 闘竜灘では、積荷はいったん陸上げされ、上下の船に積みかえをした。

 岩場は闘竜灘だけではない。川底の岩場は、加古川の各所にあった。

 さて、阿江与助であるが、滝野から大門(加東市大門)までの数ヶ所の岩を切りのぞき、難所を浚せつし舟運を可能にした。

 大門より下流は砂部村(加古川市)の彦兵衛等により開さくされたが、後日に説明したい。

 また、闘滝灘より上流の本郷(丹波市氷上町本郷)までを西村伝入と共に開削にあたった。

 阿江与助は、加古川の舟運に大きな役割を果した。

 与助は、滝野の人であり、伝入は田高村(たこうむら:多可郡)の出身であった。

 

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