ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

散歩をしましょう(18) マンガ「よつばとの風景」(4)・県立高砂高校

2017-09-30 08:03:13 | 散歩をしましょう

  

 

      県立高砂高校

 28日(木)、午後から高砂市の中心部を歩きました。マンガ『よつばと』に登場する風景を探しに出かけました。

 というのは「第6巻・40話(はいたつ)」登場する学校が気になっていたからです。訪ねてみると記憶にあった、まさにその学校でした。

 モデルは「県立高砂高校」でした。以前に、ある事情で数回も来たことがあります。

 その時、元阪神タイガースの小山正明投手がこの学校の卒業生であること、そして小山投手は、明石市の二見町の出身であることも知りました。

 タイガース・ファンであったので、このことだけはっきり覚えています。

 でも、おかしいです。県立高校ですから学区があったはずです。

 事情はこうです、余話として書いておきます。

     余話:明石市二見は加古郡だった

 話は、加古川市の合併問題と絡んでいます。(現加古川市の)別府町は、昭和25年6月1日の加古川町との合併予定に向けて住民投票を実施しました。結果、その差は加古川町との合併賛成は、わずかに86票上回っただけでした。結論が出ませんでした。

 このような状態の時、阿閇村(現:播磨町)では「土山駅前問題」が発生しました。

 土山駅前は加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいます。

 その内、阿閇村に属している土山駅前商店街が、加古川町への合併を強力に推し進めようとしたのです。村内がまとまらなくなってしまいました。

 そのため、合併の是非を問う住民投票を実施しました、現状維持:2548票、合併賛成:1502票で、はっきりと加古川町との合併を拒否しました。

 阿閇村は、明確に加古川町との合併を拒否したのです。二見町は、播磨町が合併をしないことを決めました別府町の態度が決まりません。となると別府・播磨町と加古川町と地域がつながりません。

 このようなもたつきの中で、二見村は明石市と合併に走ってしまいました。

 蛇足ですが当時、高砂町は、印南郡ではなく加古郡でした。(no3735)

 *『よつばと6巻・40話、はいたつ(あずまきよひこ)』(電撃コミックス)

 *絵と写真:上:高砂高校(『よつばと6巻』)より、下:現在の高砂高校

 ◇きのう(9/28)散歩(11.770歩

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コーヒーブレイク  我が家のコスモスは満開です

2017-09-29 06:55:57 |  ・コーヒーブレイク・余話

 きょうのブログは読み飛ばしてください。役に立ちません。

 今、我が家は、コスモスに囲まれています。それを紹介したかっただけです。

     ルーティン

 少し使い慣れない言葉を使います。「ルーティン」です。

 「日課」の意味です。お年寄り(74才)ですので、少しハイカラな言葉を使うと気分転換になります。

 私のルーティンですが、朝8時頃にごそごそ起きだします。

 そして、家の周辺を3周ほど散歩をします。2000歩を少し超えます。それから軽い食事、そして新聞を読みます。

 きのう(9/28)の午前中は、少し長くテレビを見すぎました。

 国会の解散、民進党解党のニュースがあったからです。

 いつもは、次号(翌日)の「ひろかずのブログ」を作成したり、読書などで時間を過ごします。

 昼から夕方までの間は、時間は決まっていませんが散歩をします。途中で、喫茶店に寄ったりしますので結構時間をとります。

 その他、日によって少し異なった仕事(かたずけ・庭掃除等)などで過ごします。

 夜は、いろいろです。テレビを見たり、この時間に孫がよく来ますので遊んだり、ビールを飲んだりと楽しい時間となります。

 昼過ぎです。ブログを書いてから高砂の散策にでかけます。何か新しい発見があると思います。次号で報告します。

     我が家のコスモスは満開です

 朝の散歩で玄関を出ます。いまは、玄関の前の空き地にコスモスが満開です。

 空気はひんやりしてきました。本当の秋の風が吹いています。

 これが私の最近のルーティンです。(no3734

 *写真:我が家のコスモス

 ◇きのう(9/28)の散歩(12.342歩)

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散歩をしましょう(17) マンガ「よつばとの風景」(3)・生石神社(2)

2017-09-28 08:19:37 | 散歩をしましょう

    生石神社の階段

 前回の「散歩をしよう(16)」を、再度ご覧ください。

 宝殿山と生石神社の絵です。

 鳥居が、山頂近くの神社と同じ場所に描かれていますが、山頂には鳥居はありません。

    階段(150段)は神社の山麓に

 前回の写真は、高砂球場の側から撮影したものです。

 写真を撮った後、生石神社のある山麓まで歩きました。橋を渡り少し上るとすぐです。疲れていません。

 鳥居は、山麓にあります。

 山頂近くの神社へ続いています。急な階段です。

 ここから神社に登るルートが正式なんでしょうが、この階段を上っている方を今まで見たことはほとんどありません。

 この階段の途中に道路が横切り、駐車場まで続いています。

 従って、車で駐車場まで行き、そこからお参りするのが普通です。

 私も、子どもの時から何回も生石神社に来ていますが、この階段から登ったことは一度もありません。

 この鳥居から、あらためて上を眺めました。

 先日、高御位山へ登ったしんどさを思い出しました。登るのには一大決心が必要な階段です。

 ここまで来たのですから神社(本殿)のところまで登ることにしました。

 何段あるのか数えながら登りました。なんと150段です。(数え間違いかもしれません)

 登ってベンチで少し休憩。こんな時のお茶は最高です。

 今回の『よつばと』の絵ですが、写真のように鳥居は神社山麓の登り口にあります。

 もうすぐ秋祭です。お出かけの時は、この階段から参拝されてはいかがですか。(no3733

 *まんが『よつばと(第11巻・73話・栗拾い)』(電撃コミックスより)

 *絵:『よつばと』に登場する生石神社の階段 

 ◇きのう(9/27)の散歩(11.780歩)

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散歩をしましょう(16) マンガ、「よつばと」の風景(2)・生石神社(1)

2017-09-27 08:03:08 | 散歩をしましょう

    

   

      マンガ『よつばと』の風景(2) 

          生石神社と宝殿山(1)

 昨年、このブログで「石の宝殿と生石神社(おうしこじんじゃ)」を32回シリーズで書きました。

 そのためか、生石神社については、若干思い入れがあります。

 また、この神社の御神体の大石(石の宝殿)は、日本の三奇岩とよばれ、謎だらけの巨石です。

 もし、時間がございましたら、カテゴリの「石の宝殿と生石神社」をクリックしてお読みください。

     生石神社周辺を散策しました

 さて、マンガ『よつばと』の主人公の「よつば」は、お父さんらと栗拾いに出かけました。

 絵をご覧ください。

 「あれ」と、お父さんが指をさしている神社のある山は宝殿山で、神社は「生石神社」です。

 マンガでは、そこが栗山としていますが、本当は栗拾いのできる山ではありません。

 このあたりの山は、太古の昔より良質の石(凝灰岩)を産出している山です。

 そこに、大きな謎の石造物「石の宝殿(いしのほうでん)」が、でんとかまえていいます。

 ですが、作者(あずまきよひこ氏)は、栗拾いの山として石の宝殿と宝殿山を使っています。マンガ『よつばと』でリアルな絵が紹介されるのは、うれしいです。(no3732

 *マンガ『よつばと(あずまきよひこ著)・第1173話)』電撃コミックス

 *絵と写真:上・生石神社のある宝殿山、下・同じ場所の写真

 ※写真で生石神社は、分かりにくいかもしれません。挿絵と同じ角度から撮影していますので比べてお探しください。

 ◇きのう(9/26)の散歩(11.276歩)

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散歩をしましょう(15) マンガ、『よつばと』の風景(1)・十輪寺

2017-09-26 08:39:28 | 散歩をしましょう

    『よつばと』の風景

 先日、ブログの読者の方(Hさん)から、下記のようなコメントとをいただきました。

 ・・・・ひろかずさんのブログは地域のトピックということで非常に興味があり、もう5年以上もまえから読ませていただいてます。
 今回は新幹線の加古川架橋工事についての推理小説という記事でしたが、(新幹線の)横に掛かっている「播州大橋」を思い出し投稿しました。
 高砂出身・加古川東出身で漫画家 あずまきよひこ氏作『よつばと』に播州大橋~高砂神社・十輪寺のあたりが描写されています。・・・

    『よつばと』の風景を散歩(探検)します

 ふだん漫画はあまり読まないのですが、地域の風景が描か有れているというので、さっそく適当に『よつばと』の8~10巻を注文しました。2日後に届きました。

 読んでみると、68話に高砂の十輪寺が使われています。内容は省きますが、十輪寺のリアルな山門です。

 三冊の中には、その他よく見たような風景が描かれています。

 さっそく、昨日(25日)の朝、十輪寺へ撮影に出かけました。

 いつも、前日の夜「明日はどこへ散歩しようかな」時計しますが、『よつばと』をじっくりと読んでみます。

 そして、物語の舞台を探検してみようと思います。

 みつかった日には、このブログで報告させていただきます。

 子供のように探検をしながら、散歩を楽しみます。(no3731

 *絵と写真:上、『よつばと』(10巻第68話)に登場する十輪寺山門

       下、十輪寺山門(24日撮影)

 ◇きのう(9/24)の散歩(6.868歩)

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散歩をしましょう(14) オマーン国王夫人

2017-09-25 09:18:24 | 散歩をしましょう

 最近、散歩に凝っており、散歩中に見つけたこと(考えたことを)を書いていますが、2010年4月1日のブログ、「オマーン国王夫人・稲美町に眠る」の記事になぜかアクセスが多くなっています。

 そのため、今日は、カテゴリー「散歩をしましょう」の続きとして、再度この話題を掲載しておきます。

    オマーン国王夫人

 県立東播磨高校のすぐ東の高堀を調べました。横の墓地の「オマーン国王夫人」の墓碑にお参りしましょう。

 *墓碑の国名は「オーマン」となっています。

     オマーンの歴史

 オマーンはブ・サイド家が支配するイスラム教の国で、アラビア半島の東南端の一角に位置し、面積は日本の4分の3ほどの小さい国です。

 ホルムズ海峡に続くオマーン湾やアラビア海に面したオマーンは、古くからインド・アフリカ東海岸諸国との貿易の要衝でした。

 オマーンは、イスラム教を中心としていますが、スンニ派やシーア派でもなくイバーディ派と呼ばれる宗教が国民の多数を占めてします。

 イバーディ派は、指導者を世襲としていません。

 そのことはよいことなのですが、新しい指導者の出現には、しばしば混乱と分裂を招きました。

 オマーンは、衰え15071649年までポルトガルに支配されました。

 オマーンが、再度統一を回復したのは1749年のアハマド・ビン・サイードによってでした。

 しかし、サイード国王の死後、オマーンは再び衰え、国王のタイムールは息子のサイードに追放され(1932)1965年にインドのボンベイで客死するまで30年余をアジア各国で過ごしています。

 タイムールは一時、日本にも滞在し、そのとき日本女性との間に女の子をもうけます。ブサイマ王女です。

 その後、父親を追放して第7代国王となったサイード(在位193270)は、イギリスとの通商条約を結び、イギリスを後ろ盾に父・タイムール旧勢力と対峙しました。

 その後も争いは絶えませんでした。

 1970年、サイード国王の息子のカブースは父を退位させ第8代国王に即位しました。

 なお、父親のサイードは追放された2年後ロンドンで亡くなっています。

    オマーン国王夫人・稲美町の墓地に眠る

 息子に追放されたタイムール国王は一時、日本にも滞在し、その時日本女性との間にブサイマ女王を出産します。

 この日本女性は稲美町の方で、墓碑(写真)が県立東播磨高等学校前の墓地にあります。

 数年前、ブサイマ女王が母の墓参にこられたということを聞きました。

 話してくださった方は亡くなられ、当時の詳細はわかりません。

 さらに、オマーン国王について知りたいのですが、詳細をお知りの方はお知らせください。

   <墓碑>

  南面  昭和拾四年拾壱月拾日卒

      前オーマン国王夫人 清子アルサイド

                享年二十三歳

  東面  昭和拾五年五月

     タイムルFファイサム・アルサイド建之 (no3730)

 *地図:オマーンを示す地図、写真:オマーン国王の墓碑

 ◇きのう(9/24)の散歩(11.758歩)

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散歩をしましょう(13) 新幹線高架下に咲く月見草

2017-09-24 09:53:21 | 散歩をしましょう

 

      新幹線高架下に咲く月見草

 22日の散歩は新幹線高架下の側道を歩きました。少し季節遅れの月見草がいっぱい咲いていました。

 富士をバックにした月見草は、なんとなくイメージがあるのですが、騒音と新幹線下のコンクリートに囲まれた一角に咲く月見草は、心地よい風景とはいかないようです。

 それにひきかえ、太宰治の「富岳百景」の月見草は、怪しげな美しさを想像させます。

   富士には月見草がよく似合う

     新幹線高架下と月見草は、あまり似合わない

 太宰治の短編「富岳百景」は、へこんだ富士と向き合うことにより再生する物語です。

 ・・・・老婆も何かしら、私に安心していたところがあつたのだらう、
 ぼんやりひとこと、「おや、月見草」そう言つて、
 細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
 さつと、バスは過ぎてゆき、
 私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、
 花弁もあざやかに消えず残った。

 三七七八メートルの富士の山と、
 立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、
 なんと言ふのか、
 金剛力草とでも言ひたいくらい、けなげにすつくと立っていたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。

 ・・・・

 月見草のイメージは落差は大きすぎます。(no3729
 *写真:新幹線高架下の月見草(オオマツヨイグサ)

 ◇きのう〈9/23〉の散歩〈12.959歩〉

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散歩をしましょう(12) 『山陽路殺人事件(井口泰子)』(勁文社)

2017-09-23 07:39:23 | 散歩をしましょう

 

    小説の舞台を散歩をしました

 きょうは、午後からは雨。そのため、新幹線下の側道を川の方(西)へ歩きました。川と突きあたる新幹線の下で、しばし雨宿りをしました。

 改めて、新幹線を眺めていると、「ふっ」と10年以上前に、新幹線の加古川架橋工事についての推理小説があったことを思い出しました。内容は、全く覚えていません。

 散歩後、書架を探しました。ありました。小説は『山陽路殺人事件(井口泰子著)』でした。

 少しだけ読んでみました。もちろん小説ですが、殺人事件があったのは、昨日私が腰かけているところから7・80メートル先が舞台です。

 一部だけ読んでみます。

   『山陽路殺人事件(井口泰子)』(勁文社より

 ・・・郷里の広島への往復の途中、修子(主人公の一人)も何度となく通過している駅である。

 特急は無論止まらないが、急行でさえ止まらない列車もある。兵庫県の小都市である。駅名を知っているが下車したこともない。何の変哲もなさそうな町である。・・・

 (修子は加古川へ呼び出されて)駅前のタクシーは、稲屋(加古川町稲屋)へというと「あいよ」と軽い返事ですぐ走り出した。・・・

 いま、この地で山陽新幹線の架橋工事が進められている。新大阪から岡山までの新幹線である。

 ・・・日本で初めてのプレキャストブロック・カンチレバー工法による鉄道架橋工事がすすんでおり・・・新大阪から岡山までが、昭和47年の4月開業予定で、建設作業は追い込みに入っていた。工事は予定よりかなり遅れていたが、日暮れには勝てない。夕暮れの気配とともに作業は終了する。

 作業員たちは散らばった工具や鉄筋材などを片付けながら引き返していく。・・・架設ブロックの先端あたりに、何か黒い塊が見えた。

 「あれ人間だぞ」と建設会社の社員が駆け出した。

 物体が、人間がうずくまるようにたおれていた。

 うつむいて倒れていた右足を引こうと折り曲げていたが右手はブロックを叩きつけるようとするかのように握りしめていた。

 起き上がろうとして、気力が絶えたらしい。

 人々は、頭部を見て、「うっ」と呻いた。

 頭頂部の少し斜め下の頭皮が裂け、かなりの広さで剥がれていた。背後から、硬い鈍器でいちげきにされたことは明らかである。すでに、息は耐えているらしい。あと7・80㍍で大阪側の地点(稲屋の堤)である。

 

 殺人事件であれ、小説に登場している場所に来ていました。ゆっくりと読み返します。(no3728)

 *小説『山陽路殺人事件(井口泰子著)』(勁文社・ケイブンシャ文庫)参照

 (この本を検索しましたが、現在絶版で古本もないようです)

 *写真:小説に登場する加古川にかかる新幹線〈9/22撮影〉

 ◇きのう(9/22)の散歩(11.150歩)

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散歩をしましょう(11) 高御位山登山

2017-09-22 11:06:40 | 散歩をしましょう

    メッチャしんどい散歩(登山)でした

 きのう(9/21)何を思ったか、散歩の代わりに高御位山に登りました。以下の「高御位山は、たかが304メートルだが!」の文章は、2011年6月20日の「ひろかずのブログ(一部)」です。

 よほどこたえたのか、最後に「これを最後の高御位山登山にします」と書いています。年月は恐ろしいものです、それから6年以上たちました。

 この時のしんどさを忘れていたのではないのですが、最近散歩をしていますので、ついつい変な自信を持っていたようです。

 体力は、確実に落ちでいました。「大変な・・・大変な・・・登山」になりました。

 前回下山の時は、たいしたことはなかったのですが、今回は、降りるときも大変でした。足が笑っているのです。昨日で、高御位登山は、本当に最後とします。

 その代わり、ゆっくりとした散歩を楽しむことにします。

     高御位山は、たかが304メートルだが!

             *(2011年6月20日の〝ひろかずのブログ″より)

 自慢話からはじめます。

 2030代はけっこう体力に自信がありました。特に、20代前半は陸上競技大会にも時々出場しました。

 確か、昭和44年でした。けっこう大きな駅伝大会に、ある町の代表選手として出場しました。

 たまたま、私たちのチームに長距離界では全国的にも名が知られたYさんがメンバーとしておられ、彼の快走により優勝することができたんです。

 先日、書類を整理していたら、その優勝を報じる新聞の切り抜きがでてきました。

 以上は、「昔は、体力があった」ということを言いたかった初老の独り言です・・・・

     登山道完成(昭和60年)

 『志方郷(15)』に、村上弘氏が「高御位山今昔記」と題して寄稿されています。

 その一部を読んでおきます。

 「・・・成井登山口より登る正面道は、昭和60年に加古川市により婦人・子ども、老齢者のために行き届いた配慮が払われた登山道が完成し、楽々と登ることができるようになった・・・」とあります。

 久しぶりです。先週の月曜日、「古代祭祀遺跡」の写真が欲しくて、高御位山登山に軽い気持ちで挑戦しました。

 「楽々と登れるようになった・・・」という文にごまかされたようです。

 「四丁目」の丁目石のところまでは、順調だったのですが、その後、急に心臓が高鳴り始めました。

 七丁目辺りで、完全にダウン。

 それでも、山頂まで10回ぐらい、長めの休憩をとり、やっとのこと「征服」することができました。私にとっては、まさに征服がぴったりとする登山となりました。

 これを最後の、高御位山登山にします。(以下省略)(no3727)

 *写真:高御位さん山頂から加古川中心の風景(曇りのため、画像がはっきりとしていません)

 ◇きのう(9/21)の散歩(8.505歩)

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散歩をしましょう(10) 官兵衛の道(2)・水源

2017-09-21 08:22:32 | 散歩をしましょう

    官兵衛の道(2)・明神谷を歩く

 一昨日(19日)明神谷を歩きましたが、時間が遅かったため志方側から頂上付近までで、折り返しました。

 きのうは、2時30分ごろ残りを歩こうと出かけたのですが、頂上付近に駐車場がありません。

 そのため、先に姫路市の飾東町まで車で行き、引き返して歩くことにしました。

 飾東町から引き返す道は、だらだらした上り坂です。

 往復、約9000歩でした。

 前半は坂を上りましたから4.500歩程度とはいえ結構疲れます。

 でも、初めて歩く道なので、結構楽しい散歩になりました。

 途中で、全体的にはまだ青い実ですが、その中で熟したどろどろになった柿の実を一つ失敬しました。美味しかったですね!

    谷は水をつくる 

 歩くと、あたり前のことですが発見があります。

 荒神谷は、東西に延びて姫路に通じている谷に沿った道です。

 水の音がします。

 荒神谷は、南は高御位山塊で、北は大藤山(おおふじさん)から伸びた山塊の間の谷間です。

 とすると当然、両山塊の水はこの谷に集まります。

 荒神谷の場合、道はなだらかとはいえ峠の地形をつくっています。

 その頂上付近から東の流れは志方町、主に西志方町の水田を潤しています。

 また、西に流れる水は姫路方面の田畑を潤していたはずです。

     姫路と志方の距離

 その流れは、飾東町の手前で南の方へ流れを変えています。

 帰りは、その南へ流れに沿った道で帰りましたを。

 なんと、その道は御着に通じています。

 官兵衛が仕えた小寺家の御着城の近くです。

 官兵衛の奥さんの光(てる)の実家の志方城から御着城にしろ、官兵衛の居城(姫路城)にしろ、荒神谷の道を行けばなんと近いことでしょう。

 以下は、実測ではありませんが、志方城から明神谷を超えて飾東町までは2里ほどです。

 そこから御着城まで1里弱、姫路城までは1里とすると、なんとも近い距離です。

 官兵衛の時代の人々は武士であれ、庶民であれ現代人とは比べ物にならない脚力を持っていました。

 官兵衛がひそかに志方城を訪ねたとしても、泊を伴うほどの距離ではありません。当然、仕事をすませその日のうちに帰ったことでしょう。

 もちろん、志方城と官兵衛との関係は微妙でした。敵対関係でした。結婚前ならばともかく、敵方の櫛橋家に泊まることは考えられません。(no3726)

 *写真:荒神谷の道と谷川の流れ(天川の源流)

 ◇きのう(9/20)の散歩(14.063歩)

 

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散歩をしましょう(9) (黒田)官兵衛の道

2017-09-20 08:44:41 | 散歩をしましょう

 

     湯ノ山街道

 姫路から荒神谷、山中、原、志方町と通り投松(ねじまつ)へ抜ける道は「(旧)湯ノ山街道」です。

 きのう(9/19)山中の集落の東の端に車を止めて、姫路の方へ散歩をしました。

 歩き始めたのは5時を過ぎていたので、もうすぐ日が沈む時間でした。

 朝から家のあたりを、すでに4000歩を歩いていたので、7500歩のところで折り返す予定で歩き始めました。

 途中に一里塚の跡があり、加古川町平野の地蔵とそっくりな「胴切れ地蔵」があります。

 この地蔵には、二つの話がありますが、ここでは一つだけ紹介しておきます。どちらも三木合戦にかかわる話です。

     三木城の落ち武者絶命!

 ひとつは、三木城が落城したとき(天正8年・1580)、一人の落ち武者がここまで逃げてきました。

 しかし、二十二ヶ月にもおよぶ籠城戦の末のこと、武者は、飢えと疲労で倒れてしまいました。

 この話を聞いた村人は、おっそるおそるようすを見に出かけました。

 武士は、すでに切腹して息絶えていました。

 もう一つの話もよく似た話です。三木合戦では、湯ノ山街道を多くの武士が駆け抜けました。

 少し暗くなりかけた時間にそんな荒神谷を散歩してみたかったんです。

     (黒田)官兵衛の道

 というのは、戦国時代、よく知られているように志方に志方城があり、その城主(櫛橋)の娘・光(てる)は黒田官兵衛の奥さんでした。

 しかし、志方城の櫛橋氏は毛利方につき、信長方と戦闘を交えることになりました。官兵衛は信長方ついていましたから、ひそかに櫛橋氏訪れ、信長方につくことを説得したと想像されます。

 姫路から志方城へはこの荒神谷を通るコースは最短です。

 夜遅く、何度も荒神谷を往復したことでしょう。

 今は、姫路からの裏道とは言いながら車の多い道です。

 当時はもっと山がせまり、昼でも山賊が出そうな道であったようです。

 きのうは半分ほど歩きました。近いうちに姫路まで歩いてみます。(no3725)

 *写真:現在の荒神谷

 ◇きのう(9/19)の散歩〈11.144歩〉

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散歩をしましょう(8) 「デブタレ」たちの苦悩

2017-09-19 07:38:53 | 散歩をしましょう

    「デブタレ」たちの苦悩

 「松村(邦洋)は、上京したころは75キロと、身長からしたらやや太めと思われるくらいでしたが、体重は増え続け、一時は141キロありました。'09年の『東京マラソン 2009』に出場したとき、15キロ地点で急性心筋梗塞を起こし、緊急搬送されたんです。一時は心肺停止となり、かなり危険な状況でした」(スポーツ紙記者)

 「松村邦洋、石塚英彦、伊集院光とともに『デブタレ四天王』の一人に数えられる内山信二は糖尿病予備軍に入っていて、テレビ番組の健康診断で余命6年と宣告されていましたね」(前出・スポーツ紙記者)

 痛風に罹る人も多い。そのため彼らはさかんにダイエットを試みようとするのだが、1つ問題が、「デブタレントは痩せてしまったら仕事がこなくなるんです」(芸能プロ関係者)

 「だから石塚さんはきちんと節制し、病気にならない太り方を実行していますし、伊集院さんは、なるべく歩くことを心掛けていて、仕事先から自宅までかなりの距離を歩いて帰ることもあるという。

 筆者(芸能ジャーナリスト・佐々木博之)も、自宅に向かって汗だくになって歩いている彼に遭遇したことがある。

 一見、のほほんとしているように見える彼らだが、本当は苦労が多いのだ。(以上、インターネットの記事の一部より)

    散歩をはじめませんか!

 私ですか。体重75キロ、身長177cm、年齢74才です。その他に持病ですが不整脈と高血圧があります。

 さいわい、今のところその他の大きな病状はないようです。

 ですが、去年ぐらいから体がだるいことを自覚するようになりました。

 そのため、それまでも少しだけの散歩はしていましたが、5月から思い切って本格的に散歩をはじめました。一日に10.000歩を目標にしました。

 おかげで今年の夏の暑さはこたえましたが、快眠、快便です。それに、食事の量が減りませんでした。何よりも毎晩美味しいビーを楽しんでいます。

 体については、今のところいい事ばかりのようです。(no3724)

 *写真:ジム通いを始めた石塚英彦

 ◇きのうの散歩(11.940)

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散歩をしましょう(7) 彼岸花(ヒガンバナ)

2017-09-18 07:39:32 | 散歩をしましょう

 

    彼岸花(ヒガンバナ)

 秋になると、各地の風景が紹介されます。

 その時、夏の暑さから解放された季節感を演出するのは、なんといっても彼岸花のようです。

 きのう、天気予報によれば、大型の台風が当地を直撃しそうな予報でしたが、朝、のん気に自宅周辺を歩きました。

 自宅前の草むらに、彼岸花を見つけました。

 秋の花は、彼岸花ばかりではないのですが、やはり彼岸花なんといっても秋を感じさせる花です。ある意味では幸せな花です。

     自宅周辺の彼岸花

 でも、少し寂しいのは自宅周辺で彼岸花が見られる場所は毎年少なくなっています。

 自宅周辺は、昨年から激変してしまいました。

 自宅は、昨年まで水田と畑で自宅は集落の東端にあり、自然がいっぱいでした。ヒガンバナもたくさん咲いていました。

 でも、農家の方も高齢化で、農業を続けることはできなくなっていたようです。

 宅地会社は農家に「宅地」の話を持ち込みました。結果は驚くほどでした。

 全農家は一斉に田畑を手放されたのです。特別な話し合い(集会)があったわけではありません。

 話が決まると、開発は猛烈でした。

 瞬く間に、新しい50軒ばかりの宅地が出来上がりました。もうすでに10軒以上の立派なモダンな家が完成しています。

 さいわい、自宅の北の一角にビオトープ状態の土地が残こりました。

 ヒガンバナは、そこに咲いています。

 この時期に決まってヒガンバナが咲くのは普通のことだったのですが、今年のヒガンバナは。少し、いとおしく感じます。

 去年までは、孫(小3)が無造作にヒガンバナを手折って、首飾りをつくりました。

 今年は、枯れるまでそっとしてやります。(no3723

 *写真:自宅前の彼岸花

 ◇きのう(9/17)の散歩(.649歩)

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散歩をしましょう(6) 勝海舟が「プロムナード」に「散歩」という字を充てる

2017-09-17 09:12:05 | 散歩をしましょう

    大型の台風接近

 今、9時10分です。雨は降っていません。風もまだありません。

 が、新聞、テレビは、「大型で強い台風18号は16日、東シナ海を東寄りに進んで九州に接近し、きょう(17日)午前に上陸する可能性がある。

 兵庫県内は同日夕方に暴風域に入り、同日午後6時~18日午前0時ごろに最接近する見通し。

 気象庁は広範囲で河川の増水や土砂崩れ、高潮、暴風に警戒を呼び掛けている」と報じています。

    散歩は今日も休息日です

 台風は播磨地方を直撃のしそうなコースを取り進んでいます。ひさしぶりの大型で強い台風のようです。

 昨日(16日)は、雨は小雨でしたが雨。

 そのために、5月13日より続いていた散歩もお休みにしました。

 朝方、自宅周辺を少し歩いただけです。それでも、6.382歩を歩いていました。

 きょうは、天気予報の通りだと散歩は、家の中でごそごそする程度の数字になりそうです。

 でも、ある意味ではいい休息日になります。

 余話を書いておきます。

 先日、『散歩学の勧め(古川愛哲著)』(中公新書・ラクレ)を読みました。次のような一節がありましたので紹介しておきます。

  勝海舟が「プロムナード」に

       「散歩」という字を充てる  

 それまで日本人の場合、目的と行く先があり、無用な外出は控えたものである。

 海舟はオランダ人教官のぶらぶら歩きはどういう意味があるのか直接尋ねた。

 すると教官は、「これはプロムナードというものである」と答えた。「遊歩」とか「歩くことを楽しむこと」である。「練り歩く」という意味もある。

 その意味に感心した海舟は、漢語の中から「散歩」という字を探して充てた・・・(no3722)

 *写真:勝海舟

 ◇きのう(9/16)の散歩(6.382歩)

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散歩をしましょう(5) 清水は、稲美の台地の湧き水でできた集落か?

2017-09-16 07:35:41 | 散歩をしましょう

 昨日(9/15)は初めて、明石市を歩きました。明石市といっても平岡町の東隣の明石市清水町です。

 清水町は、印南野台地の真ん中の集落です。

 車を明石西インターの近くに止め、清水町の清水神社まで西国街道を散歩しました。往復で11.838歩になりました.

   清水(明石市市水町)は、稲美の台地の湧き水でできた集落か?

  『加古川市史(第一巻)』にある50~60万年前の地形を想像しています。

 現在の印南野台地は見あたりません。そのはずです。そこは海の底でした。

 この海に周辺(主に加古川)から土砂が猛烈に流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平らに堆積します。

 今度は、地球の大変動が起こりました。

 印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

 比較的平らな海底は、徐々に地上に姿を現しました。

 そして、一段高い平らな土地をつくりました。これが印南野台地です。

 いまでも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、平岡町辺りでは年間0.125mmです。

 この印南野台地は、海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまち復流水(地下水)となり地表に大きな川をつくりません。

 そのため、ここは、水が得にくい土地で、長い間住む人を遠ざけてきました。

 でも、清水神社あたりに清水が湧き出していたのでしょう。人々はそこに集落をつくり、やがて集落の名前も「清水」になっていったと想像されます。(no3721)

 *写真:清水神社(明石市市水町)

 ◇きのう(3/15)の散歩〈11.383歩〉

 

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