ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(212):細工所(44)・村田継儒と玉田家

2012-01-31 12:35:38 |  ・加古川市東志方

   仁寿山校教授・村田継儒

651ccf65姫路藩は、莫大な藩の借金を返済することができました。

これはすべて河合寸翁の経済政策のおかげでした。

しかし、寸翁は、藩・日本の将来のために学問の大切さを痛感していました。

そのため、彼は藩学である好古堂学問所に協力するかたわら、理想とする学問所・仁寿山校(じんじゅさんこう)を開きました。

藩校・古好堂と異なり教師も自由な校風でした。

幕末の動乱期には鎖国の日本であっても国際情勢は伝ってきました。

特に、仁寿山校の学生は国際的な知識を持ち、自分の取るべき方向を見定めていたようです。

教授陣も多彩で、頼山陽・合田麗沢・林述斉・大国隆正、そして村田継儒等がいました。

その中にあって村田継儒は折中派のようでしたが、教授陣の中には勤王思想を説く者も多くいました。

その教えを受け、佐幕派の代表的である姫路藩にあって、勤王・倒幕の思想を持つ人々が育ち、あるいは実行動に出た人も登場しました。

寸翁は、ある時村田継儒に「次なる時代を思い続けることは、その時代を生きる者を信じることなのだろう・・・」と問いかけたことがありました。

寸翁は村田をよほど信頼していたようです。

   

   玉田家と村田継儒

いま、明治四年の細工所の戸籍簿で、最後の大庄屋の玉田謙蔵の戸籍を見ています。

  地主

  庄屋

  戸長   玉田謙蔵 四十八歳

       母 いし 六十九歳

       妻 津る 三十八歳

そして、母「いし」の上に、次のような添え書きがありあます。

  播州姫路藩村田継儒

  文政二卯年三月亡父重太夫為入嫁

 つまり、謙蔵の母は仁寿山校の教授・村田継儒の娘でした。

 そして、妻の「津る」も村田家から入籍しています。

玉田家と村田家は、強いつながりのある親戚関係のようです。

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志方町を歩く(211):細工所(43)・細工所の石高から

2012-01-30 13:55:36 |  ・加古川市東志方

江戸時代の細工所村の石高を検討します。

細工所の石高

◇正保郷帳(正保3年・1645

507.503(田:485.632、畑:21.871)

◇天保郷帳(天保5年・1834)

520.289

◇旧高旧領収調帳(明治2年・1869

520.289石(*江戸時代の数字のまま)

    少ない収量の増加

189639fe上の数字を見てください。

正保3(1645)の細工所村の米の収穫高は507.503石であり、江戸時代の終わりの天保5(1834)は、520.289石です。

この数字が細工所村の正確な米の収穫量を示しているとするなら、180年にわずか13石ばかりの増収があっただけということになります。

確かに、江戸時代の初期は農業土木技術の発達により、耕地面積は室町時代の約3倍にも増大したといいます。まさに革命的な耕地大開発時代でした。

しかし、1660年ごろ以降になると開発の行きすぎにより山野が荒れ、水害が増えるなどの弊害が目立つようになり、徳川幕府は寛文6(1666)に、新たな耕地開発は禁止するという、「諸国山川掟」をだしたほどです。

しかし、その後も農業収入は、少ないながら増えています。

これは、主に耕地の拡大に依るものではなく、農業技術(肥料の改良・品種の改良)等によるものです。

特に江戸中期以後は、新たな耕地拡大による石高増大という勢いは減少しましたが、農業技術による生産高の伸張はありました。

こんなことを考あわせると、細工所村において180年間に、13石ばかりの増収とはあまりにも少なすぎます。

農民層の高まり

記録にはないのですが、農民勢力の高まりなどにより藩・幕府に報告されなく、百姓()の手元に残された収穫物が増えたのではないかと想像します。

もちろん、農民が平均して生活を高めたということではなく、村の中に貧富の差が生まれました。

   明治新政府下での増税

やがて、江戸時代は終わり、明治新政府は新たな土地調査を行い、厳しい税を課しました。

前号の一部を復習しておきます。

前号で、明治政府下で水田が増え増税になった原因を下のように想像しました。

 明治初期(明治1315)に水田の増えた原因は? 

①明治政府は、税金確保のために厳しく耕地の調査をした。

②明治4年の数字は、江戸時代のものであり正確でなかった。

③明治初期に綿作が衰え、水田中心の農業にたよらざるを得なかった。

明治時代になり各地で新たな開発がおこなわれています。

が、細工所村の水田の拡大の原因は、明治初期に増税のための厳しい再調査の結果によるもと考えられます。

つまり、明治時代の水田面積の拡大は①~③すべてが関係しているのでしょう。

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志方町を歩く(210):細工所(42)・田34町6反(明治4年)

2012-01-28 08:23:36 |  ・加古川市東志方

Eccb34e8前号で紹介した『細工所の戸籍』では、その最後に細工所の耕地と取れ高について記述しています。

そして、明治1315年頃に作成された『播磨国地種便覧』にある細工所の耕地と比較してみましょう。

明治4年、田346516歩の村

明治49月の「細工所戸籍」より

田 346516

高 47885升9合

畑 57455

  高 31918

   外 田、1町1反42歩(他村へ出作地所持)

  高 157119

  牝牛 35

   明治1315年は458畝歩の村

下記の数字は、明治13年より編集にかかり同15年に発行された『播磨国地種便覧』のものです。

  <明治135年頃の記録>

 田 4582

 畑 6996

明治4年の数字と比べてください。

  ◇明治4

田:34616

      畑:57455

  ◇明治1315

      田:4582

      畑:6996

 ここでは田の数字(太字)に注目ください。

 田の耕地面積は、この10年余りの間に水田が10町あまりも増えています。

 水田の増大の原因は何だったのでしょう。

少し推測してみましょう。

  明治初期に水田の増えた原因は? 

①明治政府は、税金確保のために厳しく耕地の調査をした。

②明治4年の数字は、江戸時代のものであり正確でなかった。

③明治初期に綿作が衰え、水田中心の農業にたよらざるを得なかった。

 どう思われますか。次号で少し考えてみましょう。

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志方町を歩く(209):細工所(41)・人口467人、戸数115軒

2012-01-27 08:58:28 |  ・加古川市東志方

  明治四年辛未年・細工所村戸籍

6a7eab3c下記の数字は『明治四辛未年九月(村控)』(写真)に記録された細工所村の戸籍簿からの数字(一部)です。

この戸籍簿は九月調べですが、十二月に調べなおした数字がありますのでその数字を転記しました。

この数字から、江戸時代の末期から明治時代の初めにかけての頃の村のようすを想像ください。

表紙を読んでおきます。

  明治四年九月辛未年九月

  第六十三区播磨国印南郡細工所村戸籍

           庄 屋 玉田謙蔵

           年 寄 大前鉄右衛門

           百姓代 三柳儀兵衛

  細工所村の人口は467(明治412月調)

 平民  467人   内 男 228

             女 239

         (内訳 僧2人 男)

          内 男8人、奉公のための出稼ぎ

           女12人  同

         残 男228

           女227

  年齢別

14才以下 男59人 女68

15才以上 男28人 女29

21才以上 男63人 女70

40才以上 男49人 女49

60才以上 男31人 女23

      (内、男3人・女8人出生届)

 *男4人、女1人当年死亡(63才男、54歳女、35才男、

72才男、44才男)

   戸数  115戸(外に2戸不在)

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志方町を歩く(208):細工所(40)・南京陥落祝賀行列

2012-01-26 08:48:49 |  ・加古川市東志方

   

   南京事件

Fb29b408日本軍は、日中戦争で戦線を拡大し、中国軍は、南京に撤退をはじめました。

中支方面軍(司令官は陸軍大将松井石根)は、これを追撃。

1213日、南京を占領しました。

日本軍は、南京で中国民衆にたいする恐ろしい殺害事件を起こしました。

この「南京事件」については中学校歴史教科書(大阪書籍)も次のように記述しています。

・・・日本軍は、各地で激しい抵抗にあいながらも戦線を広げ、12月には占領した首都南京では、捕虜のほか、婦女子を含む多数の住民を殺害しました。・・・

この南京事件は世界中に大きなショックをあたえ、当時、「ナンキン・アトロシティ(Nankin Atrocity)」として世界中に知られたのですが、日本国民にはその真実は知らされませんでした。・・・

しかし、国内では南京占領(南京事件)を祝賀する行事を行うよう通達が出され、全国各地で、南京陥落祝賀行列が実施されました。

    

    南京陥落祝賀行列

東志方町でも、各部落に次のような通達が出されました。

◇昭和十二年十二月十一日        東志方村長

   部落惣代・各種団体長殿

  戦捷祝賀会執行の件

南京陥落祝賀会を左記要項により三志方合同にて挙行為度候間、万歳提灯貴部内各戸へ一個宛配布の上参加参加相成候様御取計相成度此段及御依頼候也

   南京陥落戦捷祝賀会開催次第

一、十二月十二日、午後七時東志方小学校庭集合

一、皇居遥拝

一、国歌合唱

一、出征将士に対する黙祷(一分間)

一、村長挨拶

一、提灯行列

七時二十分校庭出発、八幡神社へ行進し、仝八時、天皇陛下、大日本帝国、出征将士の万歳三唱の上各自解散

 (注)   特に時間励行の事

各種団体に於いては、各自に於て提灯の準備相為度申添候

*写真は、南京陥落祝賀行列(加古川尋常高等小学校生)のようす。

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志方町を歩く(207):細工所(39)・電灯がついた!

2012-01-25 09:02:07 |  ・加古川市東志方

    村に電灯がついた

187d659c 下の東志方村からの通達文は、東志方の各部落に電灯がつくという通達文です。

以前加古川市尾上町今福で調査した時、電灯がついた時の事をSさん(故人)は、はっきりと覚えておられました。

「・・・あれはうちの息子の誕生の年でした。電灯がついたのは大正の9年の6月でした。

息子は大正9年の4月生まれでしたから誕生の時はまだ電灯はついていませんでした。

当時の事ですから、そう早く工事が進みませんでした。ですから村全体が一斉についたわけではなく、ついている家、まだの家があり、一日ごとにその家が増えていきました。・・・」と話してくださいました。

東志方村の場合、大正2年の2月に村へ電灯の話があり、各村々の工事の順番が決まり、電灯工事が始まっています。

ですから、細工所に電灯がついたのは大正2年か3年の事と思われます。工事の関係で少し遅れたかもしれません。

ランプによるそれまでの生活から電灯に変わり、気持ちも一気に明るくなったことでしょう。

    電灯工事始まる

◇大正六年二月七日(の通達文)

                 東志方村長 沼田一良

電灯の件に付き、至急御協議申上度候間、明八日午後一時御出席相成度候也

 追て、御差支有之候はば、代理人出席せしめられ度、申添候

◇大正六年二月十一日(の通達文)

                 東志方村長 沼田一良

 電灯の件に付子氏着手の順序上至急解決の必要有之候に付き、明十二日午前出頭可致旨、本日播磨水力電気会社営業課長より申越し次第も有之候二付、明十二日正午十二時御出席相成度候也

 *通達文:『大正六年度・書類綴込帳・細工所村』より

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志方町を歩く(206):細工所(38)・陸軍記念日

2012-01-24 08:22:12 |  ・加古川市東志方

細工所に残る昭和15年の『雑書類綴』から次の通達文を紹介しておきます。

東志方村にも直接戦争影響はますます激しくなってきました。

   陸軍記念日の通達

Photo 昭和十五年三月七日

     東志方役場

   部落惣代殿

  陸軍記念日行事実施に関する件

来る三月十日の陸軍記念日は恰も(あたかも)聖戦下に於ける第参拾五回目の記念日に相当し、現下の時局に際し此の記念日を迎ふるは、最も意義深き事と存候(ぞんじそうろう)に付、村民一般に於ても、当時を追想し益々鞏固なる決意を持って強力日本の建設と興亜の聖業完遂に邁進するの要、緊切なるもの有之候(これありそうろう)に付き、本村はに於ても左記行事を実施可致(いたすべき)計画に候条、貴部内に於ても記念行事の実施に付、格別の御配慮相成様(あいなるよう)特に御取計ひ被下度(くだされたく)、此段及通知候也(このだんおよびつうちそうろうなり)

           記

一、記念日当日、午前十時を期し、村民各々居所に於て戦没将兵の慰霊並に皇軍感謝の黙祷

二、遺家族慰問

三、慰問分(郷土便り)発送

四、民神、陸軍墓地、忠魂碑の清掃並に参拝

五、遺家族への勤労奉仕

  

追而、当日午前十時を期し、サイレン、鐘等を吹鳴死又は打鐘等適切なる方法以て一般に周知せしめられ度(たし)。

<陸軍記念日とは>

戦前日本では、310日が陸軍記念日でした。

これは、1905310日に、日露戦争の奉天会戦いで大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入場した日です。

1945310日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説があります。

*写真は奉天会戦の絵馬(志方町八幡神社)

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志方町を歩く(205):細工所(37)・深まる戦争の影響

2012-01-23 14:32:18 |  ・加古川市東志方

14155004 「志方町を歩く2034」で、細工所に残る『雑書類綴』から昭和13年の村への通達文の表題から当時の世相を調べてみました。

昭和14年もほぼ同様の内容ですが、戦争の影はさらに色濃く村の生活に影響を与えています。

昭和14年の『雑書類綴』から、7月3日の通達文を紹介しておきます。

当時の世相を想像ください。

   深まる戦争の影響

 昭和十四年七月三日

            東志方村長

  部落惣代・各種団体長殿

   支那事変勃発二周年記念実施に関する件

 標記の件に付、内閣情報部長の通牒に基き、本村に於ては、左記の事項を実施為度候条、御部内一般へ周知方御配意相成度、及福諜候也

一、趣旨

 来る七月七日、支那勃発二周年に当り、現下情勢の変移興亜大業の意義とを更に深く認識し挙国一致体制の下に、益々国家総力増強を図り、以て帝国所期の目的貫徹に邁進すべく、尚一層国民的決意を鞏固にせられんことを期す。

一 実施方法  

1.各戸に国旗掲揚をすること

2.各家に於いては午前五時一家揃って皇大神宮を奉拝の後は、八幡神社又は部内大歳神社に参拝し国威の伸張を祈念すること

3.当日正午を期し、各々その場所に於て、戦没将兵の英霊を追悼し、出征将兵の武運長久を祈願すること

4.記念日に克己生活として、一菜食、節酒、節煙、乗物度止、昼食度止すること。

                                以上

*写真:戦勝祈願(神野尋常高等小学校生)、『加古川高砂の100年』より

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志方町を歩く(204):細工所(36)・昭和13年の世相(2)

2012-01-21 18:07:33 |  ・加古川市東志方

 通達文からみる昭和13年の世相(2)

3ae1052d 前号に続き、昭和13年度の細工所部落の『雑書類綴』(後期)の紹介です。

昭和13年度の細工所への通達文は世相をよく表しています。

まさに銃後の生活をあらわした通達文です。

この傾向は、昭和1415年も続き、さらに戦争の影響は強くなり、昭和16年には太平洋戦争へと突入していきます。

通達文の表題は、世相を知る史料として掲載させていただきました。

*表題のない通達文には仮の題をつけています.

     細工所への通達文(712月)

・協議会開催の件(74日)          東志方村長

・支那事変勃発一周年実施に関する件(74日) 東志方村長

・宮割通知書(76日)            志方八幡社氏子惣代

・充員召集歓送の件通知(77日)       東志方村長

・国民貯蓄学基準表(昭和14年三月末迄の予定)

・県下水害義捐金募金依頼の件(718日)    東志方役場

・日覆菰蒐集依頼の件(720日)        東志方村長

・村葬式執行に関する件(722日)       東志方村長

・日覆コモ借入取り消の件(724日)       -->

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志方町を歩く(203):細工所(35)・昭和13年の世相

2012-01-20 15:41:58 |  ・加古川市東志方

  

 通達文からみる昭和13年の世相

Tuduri_005昭和13年度の細工所部落の『雑書類綴』を読んでいます。

昭和13年度の細工所への通達分を見ると当時の世相が浮かんできます。

そのため、13年度の前半(6月まで)の通達文の表題を掲載しておきます。後半の分は、次号に掲載します。

通達の内容についての書類はほとんどありません。

なお、東志方軍人後援会長は東志方村長が兼ねています。

*表題のない通達文には仮の題をつけています.

   

     細工所への通達文

・軍事扶助委員会開催の件(119日)   東志方村長

・慰霊祭執行に関する件(126日)    東志方村長

・就学前児身体検査の件(213日)    東志方村長

・酒類及酒類含有飲料販売調の件(222日) 東志方村長

・県道改良工事に関する件(314日)   東志方村長

・県道改良工事に関する件(323日)   東志方村長

・武運長久祈願(326日)        東志方信用組合

・姫路招魂社献木の件(42日)      東志方町長

・自治制発布50周年記念の為の調査依頼(47日)志方村役場

・戦死通知(岡田英一)(48日)     東志方村長

・自作農創設資金借入申込の件(49日)  東志方村役場

・春季清潔施行の件(49日))       志方村役場

・社会教育委員嘱託の件(414日)     東志方村村長

・自治功労者表彰並慰霊祭参列方の件(423日)東志方村長

・定例会開催の件(428日)          東志方村自治総代会

・種痘通知書配布方依頼の件(59日)    東志方役場

・国民精神総動員健康習慣実施に関する件(516日)東志方村長

・協議通知(516日)          東志方軍人後援会長

・徐州陥落祝賀提灯行列に関する件(520日)東志方村長

・種痘済詔配布方の件(520日)      東志方役場

・戦死通知(上野喜作)(520日)      東志方村長

・興国勤労運動地方割協議会出席の件(520日)東志方村長

・敬神思想の普及に関する協議(520日)  印南郡町村長会長

・慰問品・戦死陣没勇士御霊前供物の決定事項厳守について(524日)

           東志方軍人後援会長

・戦死通知(稲岡可作・後藤参治・上野保)(524日)東志方村村長

・田畑地租の軽減に関する件(527日)    東志方村長

・家族慰安会開催の件(530日)       東志方軍人後援会長

・応召農家農繁期手伝いについて(64日)   東志方軍人後援会長

・役員会通知(611日)           東志方軍人後援会長

・出動遺家族農繁手伝の件(613日)     東志方村役場

・野尻谷池水落の件(620日)        細工所惣代

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志方町を歩く(202):細工所(34)・出征家族慰安会

2012-01-18 14:17:25 |  ・加古川市東志方

細工所に残る昭和十三年度・十四年度の『雑書類綴』を見る時、一見して二つの特徴がわかります。

ひとつは、役場からの各村への通達文の紙質の悪さです。

当時の経済状況を端的に表しているようです。

もうひとつは、綴りの内容がほとんどが支那事変(日中戦争)の銃後に関する事柄です。

東志方村役場から旧村にどのような通達されたのかを見ておきます。

当時の社会状況をよくあらわしています。

   出征家族慰安会

56091949戦況は、ますます厳しさを増しました。人的にも犠牲が増えてきました。

心配は、安経済的不安だけではなく、戦場に出た肉親のことです。

そのため、東志方村から出征家族を慰安する通達がしばしば出されています。

昭和十三年の出征家族の慰安のための次の通達を見ておきます。

昭和十三年五月三十日

     東志方軍人後援会 脇本繁松

    部落惣代御中

  家族慰安会開催の件

今次の支那事変に際して第二回家族慰安会を左記要項に依り開催為度候条御貴内周知方御計相成度此段及御依頼候也

一 六月二日 午十時より小学校講堂に於て

一 余興  漫才の予定

以前、稲美町(国岡)で調査をしました。昭和十七年に旧村で出征家族の慰安会が行われています。

昭和十六年以降は、太平洋戦争に突入し、犠牲者が急激に増えたためか、出征家族慰安会は旧村単位で行われています。

昭和十三年当時は、東志方全体で慰安会が行われていますが、昭和十六年以降は、東志方村でも旧村単位で行われたのではないかと想像します。

まだ確認をしていません。

*写真:出征家族慰安会(稲美町国岡の慰安会・昭和17年撮影)

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緊急報告③:美濃部達吉の祖父母・父母の墓碑、十輪寺に移設

2012-01-17 11:44:43 | その他

神戸新(14)朝刊は、美濃部達吉の祖父母・父母の墓碑が十輪寺(高砂市高砂町横町)で保存されるようになったことを報じました。

墓碑(写真)の場所に説明板がなく分かりにくいのですが、境内の工楽松右衛門の墓碑の前です。

十輪寺のお参りの時は、お寄りください。

  美濃部達吉の祖父・祖母の墓碑が十輪寺境内に移設

009以下の文は14日の神戸新聞朝刊からお借りしました。

・・・・

達吉の祖父母・秀軒(しゅうけん)と道、父母・秀芳(しゅうほう)と悦の墓はもともと、高砂市高砂町木曽町の共同墓地にあった。

次男の達吉らきょうだい4人ともが高砂を明治期にはなれたといい、墓は達吉の兄・俊吉のその知人とその遺族が守ってきた。

2009年には俊吉の遺族が墓を東京へ移した。

3基の墓碑だけが高砂に残ることになり、「美濃部達吉研究会」と遺族が石材店で保管。

「達吉の功績を伝える重要な文化財」として保存を計画した。

十輪寺の西田光衛住職(当時)に相談したところ、境内に置けることに。

募金活動で費用を捻出して昨年11月、墓碑を移設した。

達吉の父、秀芳葉蘭学医で、姫路藩の学問所「申義堂」で庶民の子弟を教えた。

その申義堂は十輪寺前に再建され、(1月)14日から一般公開される。

墓碑の移設に併せ、一族の功績に改めて光が当てられることになる。

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緊急報告②:美濃部達吉生家跡の説明の碑

2012-01-16 11:16:46 | その他

Photo2008420日のブログでは天皇機関説・美濃部達吉生家跡の説明をし、「(達吉の生家跡は」現在、倉庫になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきました。説明板ぐらい欲しいものです)と書きました。

再度そのブログの一部を読んでおきます。

   天皇機関説

*文体は変えています。

 美濃部達吉の憲法学説は「天皇機関説(てんのうきかんせつ)」と呼ばれています。

 この説は、「主権は天皇にあるのではなく、国家にあり、天皇は国家の一機関である・・・」とする学説で、絶対的な天皇制国家の下で、政党と議会の役割を高めようとする学説でした。

 この時期、日本は戦争に向かって暴走をはじめていました。

 軍部は、特に学問の自由は危険思想の温床であるとして容赦のない一撃を加えるようになりました。

 1935年(昭和10)、達吉の「天皇機関説」にも攻撃がかけられました。

 当時、貴族院議員にもなっていた達吉の学説を、ある右翼議員が、彼の説は「謀反」「反逆」として攻撃したことに端を発して「天皇機関説」排撃運動がはじまりました。

 そして、全国の大学・高等学校から機関説は排除され、達吉も議員を辞職しました。

 この事件(天皇機関説事件)以後、政治・経済のあり方についての研究の自習はできなくなりました。

 政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げたのです。

 1945年(昭和20)、815日、敗戦。

 戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版しました。

 達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えました。

 達吉の生家は高砂町の堀川の近くで、現在は、倉庫(写真上)になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきました。説明板ぐらい欲しいものです。

 達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったといいます。(2008420日のブログより)

     美濃部達吉生家跡説明の碑

025_2昨日、修復になった申義堂を見学した帰りに、久しぶりで達吉の生家跡へ寄ってみました。

なんと、倉庫の隅に美濃部達吉生家跡の説明(写真下)が設置されていました。

なお御影石に次の説明が刻まれています。

  美濃部達吉生家跡

明治憲法下で「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉博士は、明治6年(183757日、父秀芳(蘭方医、申義堂教授、第2代高砂町長)、母悦の次男として、ここ材木町の地で生まれた。

達吉博士は、高砂小学校、小野中学校を経て兄俊吉とともに上京、東京帝国大学法科大学を卒業し、同大学教授を経て務めた。

その間、東大における美濃部憲法学は、幾多の著名な憲法学者、行政法学者を輩出した。

昭和23(1948)、東京で他界したが生前の著書等は、息子の亮吉氏(元、東京都知事、参議院議員)の蔵書とともに「美濃部親子文庫」に保存されている。

            高砂みなとまちづくり構想推進協議会

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緊急報告①:申義堂(江戸期の学問所)復元なる

2012-01-15 17:18:14 | その他

005緊急報告を少しします。

2007814日のブログで、東神吉町で残っていた郷校「申義堂」について紹介しています。

その中で、「現在高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです」と書きましたが、このほど申義堂が移築、復元され一般公開が始まりました。

今日115日)の神戸新聞(東播版)は「庶民の教育の場再び」のタイトルで、江戸時代の「申義堂」について報じています。

最初の部分を読んでみます。全文は新聞をご覧ください。

    「申義堂(江戸時代の学問所)」復元なる

申義堂は文化年間180418)、姫路藩家老の河合寸翁(かわいすんのう)が命じ、現代の同市高砂町北本町にできた。・・・・憲法学者美濃部達吉の父で、町医者の秋芳らが教授を務めた。

町人らの子どもが早朝から正午まで学んだという。

しかし、明治になり閉鎖され、建物は姫路の寺の説教所として、加古川市東神吉町西井ノ口に移築された。

その後、倉庫になっていたが、1993年解体され、高砂市教育委が部材を保管。

元の場所に近い市有地での保管が決まり2010年夏に着工した。

以上が新聞記事の一部です。

    「申義堂」を紹介(2007年のブログ)

 今日は、2007814日の「申義堂」についての文章を再掲します。

(文体は変えています)

 ・・・

Sinngi_dou_2 江戸時代後期になると藩校の設置が全国でさかんに行われました。

幕藩体制の揺るぎの中で、藩政をになう人材の必要が高まったためです。

さらに、教育は庶民対象の郷学へと広がりました。

高砂でも姫路藩により「申義堂(しんぎどう)」が設けられ、庶民教育が行われました。

申義堂の設立は、文化年間(180417)で酒井忠実の家老・河合寸翁(かわいすんのう)の意見により、高砂市北本町に開校しました。

藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育の場となりました。

内容は、四書五経などが中心でした。

教師陣は多彩で、美濃部達吉の父・秀芳や本居宣長の子・大平などがいました。

また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが高砂に逗留中、講師として教壇たったこともありました。

隆盛を誇った「申義堂」でしたが、明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となりました。

その後、申義堂は明治12年に加古川市東神吉町西井ノ口に移築され、光源寺(姫路)の説教所として使われていました。

戦後は、西井ノ口町内会の倉庫として利用され、もと申義堂であったことは人々の記憶から消えていきました。

専門家の調査により、申義堂の遺構であることが分かり、高砂へと移築保存されることになり、解体されました。

現在、高砂市での再建計画は、あまり進んでいないようです。

*写真上:復元工事が完成した申義堂、下:戦後、西井ノ口で倉庫として使われていた申義堂

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志方町を歩く(201):細工所(33)・貯蓄運動

2012-01-14 17:00:06 |  ・加古川市東志方

 Ef07a87d昭和14年の年表から主な事項を取り上げておきます。

詳しくは歴史書をお読みください。

   昭和14年の主な出来事

1月 ドイツから日独伊三国同盟を提案してくる。

4月 華北交通株式会社・華中鉄道会社を建て、占領地域の鉄道を支配する。

6月 天津のイギリス租界を封鎖する。

79月 日・ソ両軍がノモンハンで戦う。

7月 国民徴用令を公布。

7月 アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してくる。

9月 支那(中国)派遣軍総司令部を設置。

12月 朝鮮人の氏名を日本式に改めさせる。

    経済的にも、困難な戦争の遂行

昭和1314年、軍部は中国・朝鮮において、しゃにむに戦争を拡大させました。

国内では、労働人口とりわけ農業人口の不足は深刻で、それに異常気象が加わりました。

食料は、減少をきたしました。

戦争遂行には、食料をはじめ、経済的安定が求められました。

そのため、政府はしばしば国民に献金・貯蓄を訴えました。

昭和十四年に東志方に出された通達の一部を読んでおきます。

   本村(東志方)の貯蓄目標、二万円

 昭和十四年七月十二日

      東志方村長     藤井雄一郎

  各部落貯蓄組合長・各種団体長殿

 国民貯蓄増加に関する件

 本年度、我国の貯蓄額百億円、本県十億円、本村二万円の目標より、夫々増加御配慮中のことと存候(ぞんじそうろう)。

就いては、出費多端の折柄至難の事と思料致候得共(しりょういたしそうらえども)此際万難を排し国策に副い、七月分より是非二割乃至(ないし)三割増加方、御高配により度、此段特に及御依頼候也

*写真:配給(この時代生活に必要な主な物資は、数が割り当てられ配給制でした。東志方の写真ではありません)

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