仁寿山校教授・村田継儒
これはすべて河合寸翁の経済政策のおかげでした。
しかし、寸翁は、藩・日本の将来のために学問の大切さを痛感していました。
そのため、彼は藩学である好古堂学問所に協力するかたわら、理想とする学問所・仁寿山校(じんじゅさんこう)を開きました。
藩校・古好堂と異なり教師も自由な校風でした。
幕末の動乱期には鎖国の日本であっても国際情勢は伝ってきました。
特に、仁寿山校の学生は国際的な知識を持ち、自分の取るべき方向を見定めていたようです。
教授陣も多彩で、頼山陽・合田麗沢・林述斉・大国隆正、そして村田継儒等がいました。
その中にあって村田継儒は折中派のようでしたが、教授陣の中には勤王思想を説く者も多くいました。
その教えを受け、佐幕派の代表的である姫路藩にあって、勤王・倒幕の思想を持つ人々が育ち、あるいは実行動に出た人も登場しました。
寸翁は、ある時村田継儒に「次なる時代を思い続けることは、その時代を生きる者を信じることなのだろう・・・」と問いかけたことがありました。
寸翁は村田をよほど信頼していたようです。
玉田家と村田継儒
いま、明治四年の細工所の戸籍簿で、最後の大庄屋の玉田謙蔵の戸籍を見ています。
地主
庄屋
戸長 玉田謙蔵 四十八歳
母 いし 六十九歳
妻 津る 三十八歳
そして、母「いし」の上に、次のような添え書きがありあます。
播州姫路藩村田継儒娘
文政二卯年三月亡父重太夫為入嫁
つまり、謙蔵の母は仁寿山校の教授・村田継儒の娘でした。
そして、妻の「津る」も村田家から入籍しています。
玉田家と村田家は、強いつながりのある親戚関係のようです。