関ヶ原の合戦では、長男の長政は東軍に味方をしました。
夫の官兵衛は、九州で西軍に味方する武将を攻略しました。
関ヶ原では、徳川軍(東軍)が勝利し、黒田家は長政の戦功等により、筑前52万3千石をあたえられ筑前に移りました。
筑前では、いったん領主・小早川秀秋の名島城に入りましたが、手狭のため福崎の地に城を築き「福岡城」と命名しました。
「福岡」は官兵衛の祖父の出身地である備前の福岡郷の地名から名づけられました。
夫はキリシタン、妻は浄土宗
幸圓が大坂を脱出し、中津に住んだのは7月29日から名島城に移る12月までのわずか4カ月でしたが、その間に幸圓は円応寺を建立して出家し、浄土宗の信徒になっています。
なんでもないようなことですが、夫の官兵衛はキリシタンです。
自分の宗教とは異なる宗教を妻に認める寛大さは、当時の社会では普通考えることはできません。希有の事です。
実際、幸圓が二男の熊之助の菩提を弔うため出家して寺を建てたいと言った時に、幸圓の浄土宗への入信を認めたのです。
長政には「宣教師の説教を聞いて納得したら入信しなさい・・・」といっています。
長政は、官兵衛の3年後にキリスト教に入信しました。
もっとも、長政は徳川幕府がキリスト教の禁教令を出すと棄教してキリスト教を弾圧する側として行動しています。
この点では、キリスト教を貫いた父・官兵衛と息子の長政の姿勢は大きく違っていました。
幸圓は官兵衛が亡くなってから23年を生き、黒田家を見守りました。
そして、長男・長政に4年遅れて寛永四年(1627)八月二十六日に亡くなりました。
享年75才の大往生でした。
*写真:官兵衛が幸圓と主に晩年を過ごした屋敷跡(福岡市)
*『黒田官兵衛』(播磨学研究所)
-「妻・幸圓と黒田家の女たち」(小石房子)参照
≪トレビア・どうでもよい知識≫
酒は呑め呑め 呑むならば
日本(ひのもと)一の この槍を
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この黒田節は、もともと「黒田武士」をして、黒田藩の武士の間で歌われていたものですが、昭和三年NHKが「黒田節」として世に紹介して全国に広まっていきました。