ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(140):東志方野尻⑪・江戸時代の野尻新村

2011-10-26 09:29:15 |  ・加古川市東志方

明細帳」は、江戸時代の村の米の取れ高、家数、家畜の数など村のようすを役人に提出するための書類です。

現在で言えば「町政要覧」・「学校要覧」のような性格の文書です。

そのため、明細帳を見ると、当時の村の様子の概略を知ることができます。

明細帳から野尻新村のようすをみましょう。

 『加古川市史(第五巻)』の「一橋徳川家領村々様子大概書」を引用させていただきました。

   野 尻 新 村

Fd58cb38・用水は池の水を引き、旱魃の多い土地である。

・家数49軒   人数 205人。

        (男104人 女101人 牛 13疋)

・農業の合間に男は薪を、女は綿を織る。

・百姓持ちの山林3ヵ所  25526歩。

・薪、秣用の他村と共用の入会地がある。

・米の津出しは加古川の川岸(かし・川の港)・芝村(現在の平荘町養老あたり)まで2里半、そこから高砂港まで3里半下りる。

それより船積みにより江戸まで海上250里、大坂まで21里。

・野尻新村は東西100間、南北500間ほどある。

・野尻新村は山の中で困窮の地である。

・谷川一筋あり。

・ため池4ヵ所。

・免税地2ヶ所 反別合わせて2323

・鉄砲4挺。

・野尻新村は元大久保出羽守領分地である。

なお、東志方9ヵ村が小田原大久保出羽守領になった事情は「志方町を歩く(48・49)」をご覧ください。

なお、この明細書には年号がありませんが、東志方の9ヵ村は、相模小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれました。

そして、東志方の9ヵ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続きました。

この明細書は、支配地の事情をつかむため延享4年(1747)以後、間もないころに作成されたものでしょう。

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