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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

12月の散歩 今年もよく頑張りました

2018-12-31 23:19:55 |  ・コーヒーブレイク・余話

   

                  12月の散歩

    1日(土) 10.622歩  別府公民館界隈・自宅周辺

    2日(日) 10.887〃  自宅~長田公園・石の宝殿界隈

    3日(月) 10.250〃  新幹線下遊歩道・西神吉辻~峠へ

    4日(火) 10.647〃  日岡山周辺・自宅~長田公園  

    5日(水) 11.284〃    自宅周辺・ナフコ周辺

    6日(木) 10.313〃      京都嵯峨野を歩く・自宅周辺

    7日(金) 11.566〃  自宅~加古川駅・自宅周辺 

    8日(土)   11.213〃  別府公民館界隈・自宅周辺

    9日(日) 12.619〃  自宅~福田寺・自宅~喫茶「白馬」

   10日(月) 11.785〃      自宅~長田公園・自宅~喫茶「ピッケル」

   11日(火) 11.231〃  自宅~大崎・自宅~加古川東岸(新幹線下)

   12日(水) 12.569〃  自宅~福田寺・自宅市役所

   13日(木) 11.014〃  自宅~ジョ-シン電気・自宅周辺

   14日(金) 11.762〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

   15日(土) 13.837〃  自宅~長田公園・自宅~松風ギャラリー

   16日(日) 11.458〃  自宅~福田寺・今福マルアイ~浜の宮マルアイ

   17日(月) 15.147〃      自宅~ブックオフ・自宅~紀伊国屋書店

   18日(火) 11.596〃  自宅~長田公園・市役所~駅前往復

   19日(水) 10.691〃  自宅~長田公園・自宅周辺

   20日(木) 11.482〃  自宅~福田寺~新幹線下・自宅~喫茶ピッケル

   21日(金) 11.458〃      自宅~長田公園・自宅~眼鏡店(パロマ) 

   22日(土) 11.725〃      自宅~長田公園・自宅~鶴林寺往復

   23日(日)   13.509〃      自宅~大崎・自宅~かこむ

   24日(月) 10.678〃  自宅~長田公園(2回往復)

   25日(火) 11.204〃      自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

   26日(水)   11.286〃  自宅~長田公園・自宅~大崎

   27日(木) 10.200〃  自宅~長田公園・新幹線下遊歩道

   28日(金) 10.937〃      自宅~長田公園・自宅~M眼科

   29日(土) 10.719〃  自宅~長田公園・自宅~マックスバリュー

   30日(日) 1.514〃      自宅~ナフコ・自宅~大崎

   31日(月) 10.557〃    加古川東岸河川敷・自宅周辺(no4594)

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三宅周太郎さんのこと(12) 芝居は周太郎の人生にとって宗教のようなもの

2018-12-28 10:00:05 | 三宅周太郎さんのこと

    芝居は周太郎の

        人生にとって宗教のようなもの

 周太郎が再度学校へ帰った頃の慶応文科では「三田文学」の編集主幹であった永井荷風を中心とした、享楽主義の文学が勃興していました。

 さらに当時の日本文壇全体にも、煩廃的な風潮が押し寄せていて、一種の遊蕩文学の流行のきざしがありました。

 それは、日本が経済成長のおくれを取り返すために、国の施策としての資本主義が軌道にのり、設備投資によって生産活動が活発になっていったのを反映していたのでしょう。

 また、国の命運を賭しての日露戦争が終結してから丸10年、人々は無事平穏な生活を心ひそかに誼歌し、つかの間の自由と憩いと悦楽を求めた大正デモクラシーの幕明けとでもいうものでした。

 

 その一方では、革命前の帝政ロシヤの暗い社会の断面を描いたロシヤ文学からの虚無的な思潮の流れが、当時多くの学生や若い層の人達の心をとらえ、それが、若いインテリの心を大きくゆさぶりました。

 周太郎とて、例外ではありませんでした。

 同志社中学の四、五年生頃から和訳のゴリキー・ツルゲーネフ・トルストイを耽読して、人道主義、宗教哲学の好感化を受けました。

 

 この刹那主義・享楽主義とロシヤ文学からのニヒルの狭間に身を置いて、心はいたくさいなまれ、むしばまれ、やがてすさんでいったのですが、心はすさんでいても生活や身もちは決して崩しませんでした。

 後に、次のように書いています。

 

 「・・・どうにか過失なく(慶応)塾の文科を卒業出来たのは、芝居のみ熱愛し、それによって慰められ、あるいは勉強し、奮発したからだった。だからどうにか無事青春を過したのだが、もし芝居がなかったら私は享楽主義とニヒリストの間で、20才過ぎには自殺でもしかねなかったと思う。

 無事に劇評家として文壇へ第一歩をふみ出せたのは、実に芝居のおかげで私には芝居こそ自分の救い主だと思っている。

 私は芝居を宗教と信じ、どんな人にも芝居は悪いものではない・・・」と、芝居を進めています。

 *写真:永井荷風(大正元年の頃の撮影)

 ◇きのう(12/27)の散歩(10.200歩)

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  今年もブログをお読みくださいまして、ありがとうございました。本年度のブログは今日で少しお休みにさせていただきます。

  次回は1月5日(土)から再開します。よろしくお願いします。

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三宅周太郎さんのこと(11)  加古川へ帰って来たものの

2018-12-27 08:55:22 | 三宅周太郎さんのこと

       加古川へ帰って来たものの

 大正の初期、賑いの町の中心部のひときわ大きい広大な「三宅家本家」の二階の一室で、周太郎は閉じこもったようにひたすらに病後の療養に専念しました。

 体力を消耗し切った熱病の後だけに、帰郷と同時に再び寝込んでしまっていました。

 帰省以来、失意と苦汁に満ちた日々でした。

 周太郎は京都時代から芝居を芝居としながらも、学業の方は決しておろそかにしたことはありませんでした。

 殊に語学の勉強は同志社では「英語の天才」といわれるほど、殆んど満点を五年間連続で確保し、級中でも絶対に人に劣ったことがなかったし、英文の原書や英字新聞は楽に読める位になっていました。

 モーパッサンあたりの英訳の短編小説もよく読破していました。

 ところが、この病気の果ての休学によって英語を捨てたことは、周太郎にとっては実に致命傷というべき打撃でした。

 これについては自伝の中で「このチブスにさえかからねば、私は英語で必ず専門家になれたと思っている。そうして折角の英語の才能を伸ばしていれば、芝居と併立して進み、現在の私とちがった別個の存在となっていたかと思う」と記しています。

 大正元年10月から翌年の3月いっぱい、周太郎は寺家町の生家で悶々の日々をすごしました。

 そして、翌大正2年4月、周太郎は改めて上京し慶応の予科1年をはじめからやり直しすることにしました。(no4592)

 *きのう(12/26)の散歩(11.286歩)

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*写真:明治末期の加古川寺家町(周太郎の帰郷当時の風景)

 

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三宅周太郎さんのこと(10) 帰 郷

2018-12-26 08:48:22 | 三宅周太郎さんのこと

       帰 郷

 周太郎のチブスは、入院後も高熱はずっと続きました。

 それでも朝、熱も下ったと時に考えることは、芝居のことばかりでした。

 午後になると、きまったように高熱が襲ってきました。

 その頃のチブスの死亡率はかなり高いとされており、できることは絶食に近い水のようなサラサラの重湯を朝夕二回食べるだけで、じっと熱の下るのを待つという療法でした。

 周太郎の病院生活は、すっかり長びいてしまいました。

 その時に、明治天皇の崩御となり、一切の公演は中止となってしまいました。。

 

 加古川の家からは姉「しやう」の代理として店の番頭格の人が見舞に来たが、伝染病ということで「三宅本家」から託されたものを置くと、そそくさと帰っていきました。

 姉の「しやう」はすでに二男二女の母であり、酒造業一切をきり廻している多忙な主婦でした。大阪の「まさ」も前後して病院へ来てくれたが、「まさ」はすっかりやせ細った周太郎をみて涙ぐみながらも、かいがいしく身の廻りの世話をしてくれました。

 そして、酷暑が立ち去ろうとしていた9月10日と退院が許されました。入院してから70日目でした。

 全快とはいうもののやせ衰え、顔は蒼白で、栄養失調のような状態でした。

 医師は、しばらくの間転療養すすめてくれましたが、周太郎はこれという心当りがなく、元の下宿へ帰るより行く処がありませんでした。

 下宿へ帰ったものの、そこの主人の態度は打って変った態度でした。

 太郎は生きることのきびしさ、世の無情を身にしみるのでした。

 周太郎は大阪の姉に手紙を書きました。姉からは直ちに書留速達が折り返されてきました。

 それには「周さんが大阪の私の家へ来るのは少しも構わないが、それでは加古川の「本家」の立つ瀬がない。周さんは何としても三宅家の人なのだから、一たんはどうしても加古川の家へ帰ってほしい。そして「しやう」姉さんの許しを得てから大阪へ来れば、何時までもいたらよい」と書かれていました。

 言われてみれば全くその通りです。

 周太郎は元の元気な身体になるためには、加古川への帰郷をしようと決意をしました。

  そして九月下旬、加古川駅の下りホームに降り立ちました。故郷へ帰ってきました。

 わけもなく無性に涙が溢れ出て、とまりませんでした。(no4591)

 *写真:明治末期の寺家町(現在の寺家町3丁目付近)の風景

 ◇きのう(12/25)の散歩(11.204歩)

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三宅周太郎さんのこと(9) 周太郎「チブス」に罹る

2018-12-25 09:21:53 | 三宅周太郎さんのこと

    周太郎「チブス」に罹る

 明治45年四月から東京の学生生活に入った周太郎は、学校の授業もそこそこに毎日よろこび勇んで芝居見物に明け暮れました。

 東京木挽町の歌舞伎座を皮切りに、明治座、市村座、新富座、本郷座、帝劇、神田の東京座、浅草の宮戸座、蓬莱座、本所深川の寿座、深川座、等々市内の一流、二流、三流までの芝居と名のつく小屋は片っぱしから観て廻りました。

 これだけの数多くの芝居小屋の木戸銭を払うとなると、いくら加古川近在の素封家「三宅本家」のぼんぼんでも、姉からの送金は毎月40円と定められていて、これに演劇研究手当というものがプラスされていないので、周太郎はたちまち生活に窮しました。

 さすがは首都東京での数多くの毎月各座の観劇には、大阪、京都では二、三等席で観ていた周太郎も、上京以来最低料金の最下等席で観劇することを余儀なくされました。

 これには、特に「キレイ好き」で生来が余り体の丈夫でない周太郎にはこたえたようです。

 周太郎が上京した年の六月末の東京は、降らず照らずのうっとうしい日が続きました。

 芝二丁目の下宿屋の二階の四帖半で寝ていた周太郎は、明け方寒気におそわれました。やがて体全体が熱くなっているのを感じたのです。

 「風邪でもひいたか」とぼんやり夢心地でいると吐気がして頭痛がひどくなり、その日は一日寝込んでいました。

 翌日になっても一向に熱は下りません。

 下宿の主人は心配して近くの医者を呼んでくれました。

 午後、医者は周太郎を診察して、しきりに考え込んでいるようでしたが、「これはいかん、すぐ警察へ届出をしなければ・・・」といったので、下宿の主人がけげんにきき返すと医者は「チブスだ!」と宜言するのでした。

 そしてその日の夕方、周太郎は区役所から差し廻しの白い綿布におおわれたタンカに乗せられ、渋谷の赤十字病院の隔離病棟に運び込まれました。

 周太郎の最初の挫折でした。(no4590)

  ◇きのう(12/24)の散歩(10.678歩)

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三宅周太郎さんのこと(8) 同志社中学の教育

2018-12-24 08:04:59 | 三宅周太郎さんのこと

        同志社中学(現在の高校)の教育

 周太郎は、この頃「藤村」の小説に傾倒していました。

 この頃とは明治43年当時指しているのでしょう。

 (周太郎:明治44年3月、同志社を卒業。同年4月慶應義塾大学文科予科に入学)

 同志社中学を卒業し、京都の町から「さよなら」する日がきました。

 周太郎は、次のように記しています。

 「このわがままな自分の勉強法が、同志社の自由主義に容れられて、幾何や三角法が何物か、光りや熱や物理が何物かをほとんど知らずにきた私に、同志社が卒業証書をくれたのは有難かった。

 これが公立中学だと私は落第に出合ったし、一方文学書を読む時間さえなかったであろう。

 それに、同志社は私をして20才前後、既に自由な好きな道を歩かせてくれた点はいい学校だったと思う。

 私が文芸や芝居の見学を大抵の人よりも多く実践しているのは、青年時代に、私に不要な学科で根気を消耗せしめなかった才能主義教育の賜と思っている・・・」

 このブログ「三宅周太郎のこと」は、ほとんど森井信夫著の『三宅周太郎』からお借りしています。

 そして、森井氏は「・・・この一文を現在の教育専門の関係者が読んだら、一体どのように感じるのであろうか」と周太郎の思いを書いておられます。

 私も15年以上前までは学校に勤めていました。その意味では教育関係者の一人です。

 三宅周太郎氏の意見に親近感を持ちます。

 もっとも、私の場合は時間がいっぱいあったのに数学の成績は絶望的でした。

 少し、次元が違う話です・・・・(no4589)

 ◇きのう(12/23)の散歩(13.509歩)

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加古川の味、かつめし(48) 私のカツメシは好評

2018-12-23 09:03:14 | 加古川の味、かつめし

     私のカツメシは好評

 ちょうど1か月前です。

 私がカツメシを作りました。

 美味しかたですね。

 

 水曜日、孫は水泳教室にいっています。

 夜は時々外食をするのですが、今週の水曜日、水泳教室に行く前に「夜はカツメシを食べたい」と、11月22日の私の作ったカツメシを急に思い出したみたいです。

 味が付いたカツを買ってきて、デミグラスソースをかけただけですので、簡単です。

 料理の腕なんて関係はありません。

 でも、カツメシは、けっこう好評でした。

 こんな時のために、「かつめしのたれ」(写真右)はストックをしています。

 写真のたれは結構いい味ですよ。

 ぜひお宅でもお試しください。

 一袋で4人前は可能です

 

 それに、水泳教室で「背泳ぎ」がうまくできて、気分がよかったのか、「もっと食べたい」と言ってくれたんです。

「今度は、ハヤシライスをつくって」と頼まれました。

 軽く「OK」言ってしまいました。できるのでしょうかね。

 研究することにします。(no4588)

 *今日の「三宅周太郎さんのこと」は1回休みます。というのは、文はできているのですが、適当な写真・カットができませんでした。今日悩むことにします。

 *きのう(12/22)の散歩(11.731歩)

 *今日の「ひろかずの日記」は、「ひろかずのブログ」と同じです。

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三宅周太郎さんのこと(7) 歌舞伎界、新陳代謝の時代

2018-12-22 09:36:59 | 三宅周太郎さんのこと

   歌舞伎界、新陳代謝の時代

 同志社は、中学校として何かと厳格過ぎる嫌いはあったが、その半面、自由主義をとって、各自生徒の才分を伸ばすことに目標をおいて、公立中学校(今の高校)のように画一教育を避けていました。

 京都は、伝統を大切にして芝居キチの多い街でした。

 それは、周太郎をプロとして演劇の社会へ導いていった必然的な要素でもありました。

 しかし、その歌舞伎も新しい時代を迎えようとしていました。

   ◇五代目菊五郎の死(明治三十六年三月十八日。享年六十才)

   ◇九代目団十郎の死(明治三十六年九月十三日。享年六十六才)

   ◇初代左団次の死(明治三十七年八月七日。享年六十三才)

 歌舞伎界は、伎界の三名優の相ついだ死によって、日本演劇界全体が新しい転換期に入ろうとしていました。

 つまり、俳優の新陳代謝によって歌舞伎の舞台にも新しい時代の幕明けが始まろうとしていたのです。

 

 毎週の金曜日の夜は、きまったように四条通りへ出て「ぜんざい」を食べ、土曜日は芝居見物、日曜日は朝早くから寄宿の食堂のおばさんに頼んで、竹の皮包みの日の丸弁当を作って貰い、その頃新築された岡埼図書館へ行って一日読書でした。

 一心不乱の読書でした。

 このころ、藤村の「夜明け前」そして、 白鳥・荷風の小説を最もよく読んでいます。(no4587)

 *写真上:五代目尾上菊五郎、下:九代目市川団十郎

 ◇きのう(12/21)の散歩(11.458歩)

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三宅周太郎さんのこと(6) 京都にて

2018-12-21 09:51:57 | 三宅周太郎さんのこと

    京都にて

 京都の街から始まる勉学へのコースは、一口にいって、つつましいものでした。

 当時、中学生の標準学資は月10円(現在に換算すると7、8万円)で、加古川の家からは、姉「しやう」が毎月きっちり定められた日に送金してくれました。

 周太郎は、それで、寄宿費と学資を払い、その範囲内でつつましく勉学に励みました。

 加古川の生家での父の在りし日のきびしいしつけが、いつの間にか習性となって身についていたようです。

 周太郎の京都での三年間はまたたく間に過ぎました。その間に友達と春秋の叡山に登り、清水に詣うで、嵯峨野を歩き、嵐山に遊び、酷暑の時は御所の緑の木かげで昼寝をむさぼりました。

 京都の地理に詳しくなったのと正比例して、好きな芝居への執念がますます頭をもたげてきたのです。

 京都の南座、大阪道頓堀の中座をはじめ浪速座・弁天座・角座・歌舞伎座、神戸の相生座まで芝居見物にもしばしば行きました。

 木戸銭(入場料)と汽車賃を捻出するためには、周太郎はうんと生活を切りつめました。同志社でも上級生となると、すでに酒・煙草をたしなむ者も少なくなかったのですが、周太郎はそれらには一切手を染めませんでした。

 さらに周太郎は、生家の姉からの送金のうちには、毎月の10円の他に教科書や参考書代とは別に送って貰っていましたが、これは新しい本を買う金でした。

 これを全部古本で間に合すことにしました。

 そうすると半値以下で買えたので、その浮いた半分をそっくり芝居見物の費用につぎ込むことにしました。

 四年生に進級した頃から周太郎は、将来は文学によって身を立てようと決意を固めるようになり、同志社の寄宿舎を出てすぐ隣の相国寺内C寺院の一室を借りて移り、そこで猛烈に読書をしました。(no4586)

 *写真:現在の南座(京都)

 ◇きのう(12/20)の散歩(11.482歩)

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三宅周太郎さんのこと(5) 尾上松之助との出会い

2018-12-20 08:48:47 | 三宅周太郎さんのこと

          尾上松之助との出会い

 利平は、義弟の周太郎に対しては、無干渉主義でした。

 そして、周太郎自身も、三宅家において自分の楽しみを持つようになっていました。

 あるところで「・・・幼にして両親や家庭のなかった私は、芝居は子守唄であり、温い家庭同然でした・・・」と書いています。

 加古川近郷きっての資産家・三宅家の一人息子に生れながら、乳母もつけられずに母とは6才で死別、そして今度は父を失い、異母次姉の「しやう」が親代りとはいえ、血肉を与えた我が子を眺める母の代役はできませんでした。

 「この家は私の居る家ではない・・・」少年周太郎の心のうちに、そんな意識が芽生えていきました。

 周太郎はいよいよ誰はばかることなく、芝居小屋へ日参しました。

 そこで、「目玉の松チャン」こと尾上松之助との出会いがありました。

 「半世紀」に、・・・当時、私の生家の義兄(利平)が米相場に熱中して、姫路へ仲買店の店を出した。私は店主の弟としてそこで随分よくもてなされた。人々の下にもおかない世辞ともてなしには、私はもうぼっとなるばかりだった。

 私は学校の休みといえば用もないのにいつも姫路の店にいました。そこは当時の私の天国だった。

 その頃の正月、その姫路の山陽座という地方としてはいい小屋へ「中村駒之助一座」が興行に来た。

 この一座に尾上松之助がいた。そして松之助の扮する「柳生又十郎」が舞台で実に見事な立廻りに、周太郎はただ呆然として見とれた。その日から松之助は周太郎少年のヒイキ役者になった。・・・翌年、松之助が加古川の町の「寿座」へやって来たから大変。

 少年の私はすっかり威圧されてしまって、幕間にそっと楽屋へ行った。

 松之助だけは頑として、私をじろりと例の目で見るだけだった。が、私のうちの小屋へ来たので私はすっかり満足した。少年時代の満足、私としては、この記憶が最上である。・・・・

     加古川の町を離れる

 やがて、周太郎にとって遂に離郷の日が来ました。

 それは京都同志社中学への勉学のためです。

 当時、加古川近在の資産家の息子達は大抵旧制小野中学(現:小野高校、加古川中学‐現加古川東高校‐はまだなかった)へ行っているが、これは同志社出身の義兄利平の強い助言ではないかと思われます。

 明治40年早春の人のまばらな加古川駅の上りホームに、少年周太郎は立っていました。

 以後、周太朗は加古川の町に住むことはなかった。(no4585)

 *写真:尾上松之助

 ◇きのう(12/19)の散歩(10.691歩)

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三宅周太郎さんのこと(4) 寿座と周太郎

2018-12-19 08:28:07 | 三宅周太郎さんのこと

        寿座と周太郎

  前号の「周太郎の将来を決定づけるある事件」とは、加古川の街に「芝居小屋・寿座」ができたことです。

 明治19年頃に山陽鉄道株式会社(JR山陽線の前身)が計画され、明治20年12月23日、現在の加古川駅が開業しました。

 そして、寿座が現在の駅前(現:ヤマトヤしキ)に建設されました。

 この寿座のことは周太郎の『半世紀』には次のように記しています。

 「・・・私が母に別れた6才の頃から、土地の繁栄策として、株主として町へ私の家が主になって芝居小屋を建てました。・・・私の父は堅い一方の人で、そんなことは大嫌いでしたが、やむなく出資して建てさせられました。

 加古川は藩政時代からの宿場町の名残りをとどめたこの町で、顔役や遊び人が相当住んでいたのでしょう。

 それらの人達の願望によって町の有力者が動いたとも推測出来ます。利平は困惑しながらも、町の有志の勧誘を無下に断ることも出来ずに「寿座」の建設にふみ切ったようです。

 周太郎は続けています。

 母の死後、夕方になると寂しくて、たまらず出来たての小屋へ遊びに行くと、芝居は賑やかでした。村芝居同然でも小屋元の子供というのでちやほやしてくれました。

 しかし、夜その小屋から半眠りになって迎えの者につれて帰得られた時には父から「になるのか」と怒鳴られました。

 利平が怒り悲しんだのは当然でした。「道楽」の代名詞のような芝居小屋などは、三宅家とは無縁のものであり、見るも汚らわしいというのが利平の本音でした。

 周太郎はさらに続けています。「私の芝居好きは幼少の頃からの好みで、生れた町の兵庫県加古川で「芝儀の好きな子」と言えば私と分かっているくらいでした。

 父・利平は70才に手のとどくばかりの彼の白髪からは、めっきりつややかな光沢が消えていました。

 厳父、利平の眼には周太郎は、「三宅家」からハミ出した異端者ともいうべき不肖の子としで映ったにちがいありません。

 そんな利平は、明治37年8月に他界しました。行年71才。周太郎数え年13才でした。

 次女「しやう」が多可郡日野村郷の瀬(現西脇市)の豪農から同志社大学出身のムコ養子太蔵を迎えていました。この人が利平の死亡と同時に二代目利平を襲名します。

 三宅家の戸籍の上では、周太郎はあくまで利平の長男であり、一人息子でした。

 三宅家関係者の証言によると、周太郎が貰った資産の分け前は、坂元・古新の一丁八反の田地だけだったといいます。

 利平の「三宅本家」を守るという筋を通した処遇であったのでしょう。 利平の死後、当主のかわった三宅家では、がらりと家風が一変しました。

 正太郎は、やがて義兄利平のもとで、憧れの「芝居」からやがて演劇の道ヘと羽根を伸ばしてゆくのでした。(no4584)

 *写真:新興座(加古川駅にちかくで、明治32年寿座として設立され、大正4年、大成座となり、昭和5年新興座と名称を変えました)

 ◇きのう(11/18)の散歩(11.596歩)

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三宅周太郎さんのこと(3) 周太郎、6才で母を亡くす

2018-12-18 09:10:23 | 三宅周太郎さんのこと

      三宅家は、寺家町の資産家に・・・

 時代は明治に移ります。

 農民の税金は下がりません。苦しい生活が続きました。その上に、開国により安い綿が輸入されるようになり、ほとんどの農民の生活はガタガタになりました。

 土地の売買が自由になりました。加古川近郷においても田畑の売買が、盛んに行われました。

 この時期に三宅利平は、田畑の買いの手に廻ったにちがいありません。

 祖父・利兵衛の代から酒造業としてこつこつ蓄えた財力がそれを可能にしたのでしょう。

 三宅家所有の田地毎年増加は急増しました。

 寺家町周辺の宅地には、酒倉が次々と新築されていきました。

 明治20年頃には新興の資産家として三宅家は加古川近在に不動の地位を築きあげたのでした。

     周太郎、6才の時母を亡くす

 多くの使用人を置いた資産家に生れた周太郎は、お坊ちゃんとして育てられだと想像されますが、実はそうではなかったのです。

 それは浪費をきらった質素な三宅家の家風もさることながら、三宅家の家族構成にもありました。

 周太郎の上には母の異なった姉が5人もいました。

 長姉は「りつ」で、この娘の母は、他の妹達四人とまた異なっていました。

 次女は「しやう」、三女「じゆう」、四女「ひさ」で五女は「まさ」でした。

 そして、次女・三女・四女・五女を生んだ利平の妻は、明治24年3月19日日に亡くなります。

 そのすぐ後へ周太郎の母「ヨリ」が利平に嫁し、翌25年に周太朗が生まれています。

 その時、周太朗の母「ヨリ」は32才で、父利平は59才で親子程の年の違った夫婦でした。

 そして、周太朗の母は幼い周太郎を残し、結婚生活僅か七年足らずで、明治39年9月17日に亡くなります。

 行年37才、周太郎数えの6才でした。

 周太郎は、その著書『観劇半世紀』の中で「六つの時に母は病死、乳母もなかった私は、もう六つの時に寂しさを知っていた・・・」と述懐しています。

 幼い周太郎の脳裡には、病んで伏せっている母の姿が、強く印象に刻みこまれていたようです。

 母の死後、周太郎は心優しい多くの異母姉たちに囲まれて、「周さん、周さん」と可愛がられて育ちました。

 この間に非常に感受性の豊かな繊細な感覚がはぐくまれたのでしょう。

 後年周太郎が、感情のゆれ動く演劇舞台を凝視し続け、その論評一筋の道にひたむきに精進する素養が、この年少の頃すでに培われたのでしょう。

 そして、いよいよ周太郎の将来を決定づけるある事件が、この町におこりました。(no4583)

 *写真:16歳の時の周太郎(右の女性は一番下の姉・まさ20才、中央は甥・虎雄6才)

 ◇きのう(11/17)の散歩(15.147歩)

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三宅周太郎さんのこと(2) 激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

2018-12-17 08:50:08 | 三宅周太郎さんのこと

   激動の時代に生きた祖父・利兵衛、父・利平

 周太郎は、明治25年寺家町の資産家三宅利平の末子として生れました。

 三宅家は酒造業を営んでおり、周太郎が生れた前後20間が、町の資産家としては全盛期のようでした。

 その所有田地は、溝ノロ・河原・中津・大野・野口村の坂元と印南郡古新村まで及び、20余町歩に達したといいます。

 これらの田地からあがってくる年貢米は、三つの酒倉に運び込まれては銘酒となって樽詰めにして売り出されました。

 このような資産家は、決して短期間にこつぜんと出現するものではありません。

 三宅家は寺家町の古い素封家か旧家かと思われがちですが、以外にも利平の父利兵衛の代に加西郡から転入しています。

 利兵衛が亡くなったのは慶応3年10月29年日、行年69才ですから、加古川ア転入は、それよりも30余年以前の年号では天保初年頃と思われます。

 寺家町はその頃、町場で高砂港にも近く播州平野の重要な宿場町でした。

 山あいの加西郡の村からみれば、将来有望な土地だとの展望に立っての転入であったと考えらます。

 相當な資産を持って郷里を出て来たようです。

 

 三宅家の墓は、三宅家の近くの常住寺境内にありました。

 常住寺は現在、現在加古川市中央消防署の近くに移転していますが、昭和22・3年頃までは今のニッケパークタウンの東の駐車場あたりにあり、広大な境内と墓地をもっていました。

 享保年間の加古川絵図に常住寺の樹令数百年もする名勝「鹿児の松」の出張った枝が、本堂の大屋根にとどかんばかりの偉容で描かれています。

 三宅家一門の墓はすべてこの境内にありました。

 それにしても、わずか一代か二代の間によそ者の三宅家が、どうしてそんな大資産家になることができたのでしょう。

 それはその時代の背景を見逃すわけにはいかないようです。

 時代は、江戸時代から明治へと大きく動きました。

 利兵衛・利平父子の生きた時代は、まさに激動の時代でした。(no4582)

 *写真:周太朗の父・利平(『三宅周太郎』・森井信夫著より)

 ◇きのう(12/16)の散歩(11.458歩)

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三宅周太郎さんのこと(1) 「三宅周太郎さんのこと」をはじめます

2018-12-16 10:02:31 | 三宅周太郎さんのこと

 何の説明もなく「宮崎奕保さんのこと」に続き、「三宅周太郎さんのこと」をはじめます。

 この「三宅周太朗さんのこと」は、森井信夫氏の著書『三宅周太郎』をお断わりもせずに、また文章を大きく変えて書いていることをお断りします。

 それでは「三宅周太郎さんのこと」をはじめましょう。 

    三宅周太郎さんのこと

 昭和39年3月、加古川市の定例市議会では、4月1日加古川名誉市民条例を満場一致で可決しました。

 その要旨は、「加古川市にゆかりの深い者で、公共の福祉・文化の向上に功績があり、市民の尊敬を受けた人に対して条例を定めて、議会の同意を得て名誉市民の称号をおくる」としました。

 そして、市長の諮問機関として加古川市名誉市民選考委員会委員11名を選任し、同年11月3日の文化の日に加古川市名誉市民第一号として、市内加古川町寺家町出身で京都市在住の演劇評論家三宅周太郎に決定しました。

 森井信夫氏は、三宅周太郎伝記とその業績について稿を起されました。

 当時、三宅周太郎についての伝記はなかったので、森井氏は、資料集から始められました。

 市立図書館の館長室に特別に保管されている三宅本家寄贈の三宅周太郎著作集24冊を、クーラーのよくきいた涼しい館長室で閲覧することを特に許されました。

 

 森井氏が三宅周太郎の名前を知ったのは(昭和57年当時より)40年以上も前のことでした。

 森井氏は、その頃文学に憧れており、手当り次第に小説を読みました。

 当時、読者に最も人気があったのは菊池寛です。

 昭和5・6年ころには始めて平凡社からエビ茶色の装丁をした『菊池寛全集』十二巻が発刊されましたが、そのうちの一冊は随筆・評輪集で、その中に我が文壇交友録が集録されていました。

 その頃の著名な小説家の名前がずらりと並び、そこに、「三宅周太郎、交友五、六年。信頼すべし・・・・」とあるのでした。

 ・・・

 私(森井氏)は「すでにその頃、周太郎氏は加古川町出身だということを知っていました。

 どうしてそれを知っていたのかと思い出してみたら、養家の近くに酒屋があって、そこの主人は西三宅家の住込み小僧から番頭になり、やがて店を持った人で、その頃三宅本家は「忠良」と「桜国」の銘酒を造っていました。

 「忠良」は、今でいう特級酒で「桜国」は一級酒でした。

 その主人も菊池寛のファンで、よく小説を読んでいましたが、「加古川三宅周太郎はうちの三宅本家のぼんぼんやで」と教えてくれたように覚えています。

 昭和39年3月6日、三宅周太郎は、菊池寛賞を受賞しました。(no4581)

 *『三宅周太郎』(森井信夫著)参照

 *写真:『三宅周太郎』(森井信夫著)

 ◇きのう(12/15)の散歩(13.837歩)

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宮崎奕保さんのこと(23) 奕保氏からのメッセージ

2018-12-15 10:07:56 | 宮崎奕保さんのこと

 

       奕保氏からのメッセージ

 作家・立松和平氏は宮崎奕保氏に自然について質問されています。

 《立松和平》

 こうやって鳥が鳴いていて、永平寺はいつも自然に包まれていて一般的にもいいところだと思うんですが、禅師様は大自然のことをどのようにお考えでしょうか」

 《奕保禅師》

 自然は立派やね

 わたしは日記をつけておるけれども

 何月何日に花が咲いた

 何月何日に虫が鳴いた

 ほとんど違わない

 規則正しい

 そういうのが法だ

 法にかなったのが大自然だ

 法にかなっておる

 だから、自然の法則をまねて人間が暮らす

 人間の欲望に従っては迷いの世界だ

 真理を黙って実行するというのが大自然だ

 誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない

 時が来たならばちゃんと花が咲き、そして黙って、褒められても褒められんでもすべきことをして黙って去っていく

 そういうのが、実行であり、教えであり、真理だ

 

 これで、「宮崎奕保さんのこと」を終わります。お読みいただきありがとうございました。(no4580)

  ◇きのう(12/14)の散歩(11.762歩)

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