ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(205):播磨町を歩く(86)・播磨町の寺院(2)・消えた寺々

2014-07-31 06:24:21 | 播磨町

  ウィキペディアから「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の説明の一部を読んでおきます。
   
廃仏毀釈
 一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年に発した太政官布告(通称、神仏分離令)、明治3年に出された政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
 神仏分離令等は、神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。
 明治4年(1871)ごろ終息したが、影響は大きかった。
 さらに、1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領の上知令(あげちれい)が布告され、境内を除き、寺や神社の領地が国に取り上げられる。
 これにより経済的な基盤を失い、一層困窮し荒廃することになった。(以上、「ウィキペディア」より、一部文章を変えています)
   
 消えた寺々
002
 上地令によって寺領を奉還し、経済的理由もあったのか、加古郡では次の27ヶ寺が廃寺に追い込まれました。
この27ヶ寺のうちに、播磨町関係の次の寺院が廃寺となりました。
  
海禅寺 曹洞宗 古宮村
  願萬寺 真言宗 古宮村

    (*薬師堂を残しての廃寺)
  松元寺 真言宗 二子村
  妙楽寺 真言宗 野添村
 
(*明治43年無量寿院と合併)
  東円寺 真言宗 野添村
  海光寺 曹洞宗 野添村
  喜雲寺 曹洞宗 古宮村
  龍玄寺 曹洞宗 古田村
*写真:願萬寺跡(薬師堂・古宮)

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さんぽ(204):播磨町を歩く(85)・播磨町の寺院(1) 

2014-07-30 06:11:56 | 播磨町

 播磨町の神社は、すべて住吉神社
 「阿閇神社探訪」をまとめていますが、播磨町の総ての神社は住吉神社です。
住吉神社については、後にまたふれることにします。
 しばらく、播磨町の寺院の探訪にでかけましょう。
 近世に入ると、村々の寺院の姿がはっきりしてきます。
 播磨町は、摂津住吉大社の神領としてスタートしたので町内における神社は例外なぐ住吉神社であリ、その開創年代については不明なものが多いのですが、その起源は寺よりも一般には古いと思われます。
 しかし、江戸幕府は寺院に対して、庶民の戸籍に証印する権限などを与えたから、寺の地位は政治的にも高かくなりました。
 つまり、近世においては神社よりも寺院の方が政治的権力をもち、寺院が神社を管理するようになりました。
 このように寺院が管理した寺を神宮寺といいます。
 たとえば、阿閇神社の神宮寺は蓮花寺であり、二子阿閇神社の神宮寺は仏性寺であるなどがそれでした。
   
播磨町の寺院は、真言宗と曹洞宗が主流
008
 播磨町にある寺院の二大主流は、無量寺院を本寺とする真言宗であり、もう一つは古田の福勝寺を本寺とする曹洞宗であり、他の寺はこのニか寺といずれも本末関係にありました。
 その他の宗派の寺院として普光寺、正願寺の真宗(浄土真宗)の二ヵ寺があります。
 明治以降創立の寺院としては、本光寺(真宗・本荘、明治21年)と妙照寺(法華宗・古田・昭和16年)があります。
 播磨町の寺院の詳細については、播磨町史『阿閇の里』(p278)をご覧ください。
*写真:福勝寺(古田)
*播磨町史『阿閇の里』参照

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さんぽ(203):播磨町を歩く(84) 阿閇神社探訪(8)・清河八郎、阿閇神社を訪れる

2014-07-29 06:10:40 | 播磨町

 清河八郎天保元年1010日~文久3413)は、江戸時代末期、庄内藩(秋田県)出身の志士で、浪士組(新撰組の前身)を結成し、明治維新の火付け役となった人物です。
 後、八郎は、近藤勇・土方歳三ら佐幕派隊士らと対立し暗殺されました。
 
清河八郎、阿閑神社を訪れる
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 清河八郎は安政2年(18553月から9月にかけて、母親を連れて、故郷・清川村(庄内藩・秋田県)を出発し大旅行をしました。
 その記録『西遊草』は、幕末の旅行事情を知るうえでは貴重な資料となっています。
 旅の途中、安政259日、雨の中、大坂を出発した八郎は、10日神戸を訪れ、そして、明石に宿泊し、翌日、阿閇神社を訪れています。
 播磨町歴史『阿閇の里』に、その時の記事があるのでお借りします。
 ・・・翌、(安政25月)11日、曇っているが、雨は降らないので、早朝宿を出立し、1里余リ歩いて浜の方へ行き、西本庄村で住吉明神に詣でた。
 その時、阿閇神社のことを次のように書き残している。
 社前の高麗犬は、左甚五郎の作というが、古くなって少しもそのおも かげがわからない。また、おいちの松というよい枝ぶりの松もあった。
 幕末の奥州の(勤王家)清河八郎が、安政2511日に母とともに高麗犬とあるのは、現在、社殿の上に置いてある木造のものであろう。
 一行は、別府で手枕の松を見て、尾上の鐘は古今に珍らしいもので、見る人は皆ほめあげる名鐘と書いている。
 高砂は、町家三千戸あって、酒井雅楽頭の御台所ともなる繁華な地で、高砂の松の事を書いている。(以上『阿閇の里』より)
 *写真:清河八郎

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さんぽ(202):播磨町を歩く(83) 阿閇神社探訪(7)・加古川流域の住吉神社

2014-07-28 08:04:52 | 播磨町

 住吉神社は、海の神様です。ですから、明石市・播磨町に住吉神社が多いのはうなずけます。しかし、明石市・播磨町(加古川市も含む)の外に、加古川中流・上流多くの住吉神社があります。
 このことを、どう考えたらいいのでしょう。田井恭一氏の論文「加古川の舟運の始まり」をお借りします。
    
住吉神社の広がり
Img_0001_3
 兵庫県の住吉神社は図のように3つの地域に住吉神社が密集しています。
 まず一つめは、明石市の魚住町の中尾住吉神社周辺(図1)です。明石市魚住町中尾の住吉神社は、播磨灘を見下ろせる場所にあります。海の神様のお社らしいところにあります。ここから東に、明石市大久保町福田まで、11社あります。
 東西3キロ、南北2キロの範囲にぎっしりと言う感じです。
 二つめは、加古郡播磨町の阿閇神社周辺(図2)です。阿閇神社と言うのは、先にもふれたように住吉の神社です。
 この播磨町の阿閇神社も、南に播磨灘を見る神社です。
 ここを中心として、東は播磨町古宮から西は加古川市尾上町安田まで、東西4キロ、南北2キロの範囲に13の住吉神社があります。
   
加古川中流・上流に広がる住吉神社
 三つめは、とても広い地域(図3)です。
 東は社町の上鴨川住吉神社。さらに、丹波国になるのですが、旧丹南町油井の住吉神社や加古川の一つの支流、東条川の上流の今田町の住吉神社。西はやはり加古川の支流の一つの下里川の上流にある加西市北条の住吉神社。市川流域に入りますが神崎町の住吉神社です。
 北は、加古川の本流ぞいの黒田庄町住吉神社です。
 南は加古川の支流の一つ、美嚢川沿いの三木市志染の住吉神社までです。
 東西30キロ南北25キロになります。この内には、廃社1を含めて39の住吉神社が川沿いにあります。
   
加古川上流・中流の住吉神社は、
      船・住吉神社の用材の供給地か
 住吉神社は、海の神様です。そうすると、加古川中流・上流に住吉神社が多いという説明できません。
 古代史に詳しかった、田井恭一先生は、「ふるくから、加古川は舟運が成立しており、大阪の住吉神社大社に多くの物資が運ばれていたほかに、船の材料として、また神社の建材の供給地として役割をになっていたのではないか・・・」と推測されています。
*論文:田井恭一氏の論文「加古川の舟運の始まり」参照
*住吉神社の分布図:同上の論文より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(201):播磨町を歩く(82)  阿閉神社探訪(6)・大尻湖?

2014-07-27 12:57:59 | 播磨町

  大尻湖?
 『住吉神社神代記』の復習です。
 「住吉大社神代記」(天平三年・731)によると、阿閉荘は「賀胡郡阿閉津浜一処、四至(四隅)は、東は、余郷(あまりごう)、西は大湖尻、南は海棹(さお)の及ぶ際、北は大路」と記されています。
 つまり、その荘園の範囲は、東は現在の明石市二見町付近と推定され、北は大路は古代山陽道付近。南は海です。西は大きな湖の尻にあたり、・・・
 上記の阿閉荘の「四隅」の西の「大湖尻」が気になります。
 阿閉神社の西に、大きな湖があったのでしょうか。
 
 
   尾の上(おのうえ)
 かつて別のところで、加古川市の「尾上」のことを次のように紹介したことがあります。お「大尻湖」のことを、知った時、この尾上の事がピンときました。紹介しておきます。
 「今から1万年前の頃、地球は現在とほとんど変わらない温暖な気候となりました。暖かい気候になると加古川の水量も増え、加古川は土砂を大量に河口に運び堆積させ陸地をつくりました。もう一つの要素を考えます。河口あたりの海の流れです。
 加古川の河口辺りでは海流は西から東へと流れています。
 土砂は、この海流に運ばれ主に東の方に尾のような土地をつくりました。つまり、尾上・新野辺あたりは加古川が運こんだ土砂がつもってできた土地です。尾上地区は、海流によりつくられた「
っぽ」のような土砂の「上」にできた集落という意味です。
   
大尻湖は、三角州に囲まれた海
Img
 次の記述は、播磨教祖資料館の館長であった田井恭一先生が『東播磨の歴史』(東播磨の歴史を考える実行委員会)で書かれた文・地図(想像図)をお借りします。
 ・・・8世紀の初めの地形を想像します。
(海の流れによりできた)砂州は、川の氾濫で陸つづきになります。
 それまで、海水につかっていた潟は、川が運んだ土砂が取り囲み、一方にしか海水の出口のない入り江になった、と考えています。
 ちょうど、浜名湖のようにです。
 海水が出入りする入り江になり、それを湖と呼んだのでしょう。
阿閉荘の範囲の)西は、その湖の一番奥「湖の尻」までということになります。<追記>

  田井恭一先生は、播磨郷土資料館館長を勤められ、特に『播磨風土記』のご研究に御熱心で、多大な功績を残されました。
 若い時代、一緒に勉強をさせていただきましたが、残念なことに2013年ご病気でご逝去されました。安らかにお休みください。
 *図:8世紀の地形(田井恭一氏作成)

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さんぽ(200):播磨町を歩く(81) 阿閉神社探訪(5)・播磨町と住吉神社

2014-07-26 07:29:54 | 播磨町

  播磨町に多い住吉神社
003
 播磨町内には、摂津住吉神の子神である阿閇神を祭紀した阿閉神社があります。
 阿閇神社は、字「阿閇ノ元(あえのもと)」に鎮座しています。
 阿閇神を首位として、当町内には次の地に住吉神社(村社)が鎮座しています。
   ▽住吉神社 大中字大増東
   ▽住吉神社 古田字宮ノ谷
   ▽住吉神社 古宮字才田
   ▽住吉神社 野添字宮山
   ▽阿閑神社 二子字宮ノ辻
 また、付近には、明石市魚住町中尾字城山や加古川市別府町字東所など海岸近くに多くの住吉神社がまつられています。
 住吉の神は、航海の安全を守る神様です。
 阿閇の村々は、海の村です。
 海の抗海の安全を祈るものとしてあつい信仰をうけたのでしょう。
  
本庄は、阿閇荘の中心で、荘園開発の「本初」から
 なお、本荘の地名は、小字・「阿閇ノ元」と関係があり阿閇荘の中心で、荘園開発の本初(拠点)となった土地を意味すると言われています。
以下は蛇足です。
 
 山陽電車沿線に住む者にとって、山陽電車「本荘駅」は懐かしい。
 
 本荘駅は、大正12年に開業して平成3年に「播磨町駅」と改称されました。
 
 子供の頃、ご近所の方から、この駅の近くの海で採れた大きな貝をよくいただいていました。
 
 大きくて、美味かったこと覚えています。
 
 その貝を「本荘貝」と呼んでいた。いまは獲れないそうです。
 
 山陽電車で、播磨駅を通過する時、いつもこの貝のことを思い出します。
 
 *写真:大中住吉神社
 
 *『阿閇の里』参照

 

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さんぽ(199):播磨町を歩く(80) 阿閉神社探訪(4)・阿閉荘の村々 

2014-07-25 07:45:49 | 播磨町

 荘園について
 律令制度の時代、公地公民制が採用されました。
 つまり、全ての土地と人々は、国家のものでした。
 やがて人口が増え、土地が不足するようになりました。
 それに、重税に耐えかねた農民の逃亡が重なり、税がうまく集まらなくなりました。
 そのため、国家が耕した土地の私有を認めました。
 これら私有化された土地が「荘園」です。
 奈良時代・平安時代、私たちの地方の荘園については史料が少ないためいため詳しいことは分かっていません。
 阿閉荘の村々
Img
 前回も紹介した『住吉神社神代記』の書かれた時代は、はっきりとしませんが、「住吉大社神代記」(天平三年・731)によると、阿閉荘は「賀胡郡阿閉津浜一処、四至(四隅)は、東は、余郷(あまりごう)、西は大湖尻、南は海棹(さお)の及ぶ際、北は大路」と記されています。
 その荘園の範囲は、東は現在の明石市二見町付近と推定され、西は大きな湖の尻にあたります。
 この湖は河であり、大河の河尻、つまり加古川の川尻をさしたものでしよう。
 北の大路は、古代山陽道付近。「阿閉荘」があらわれる確実な記録は、鎌倉時代に書かれた「住吉神領年紀」(正嘉元年・1257)です。
 「阿閉荘が摂津国住吉大社領であり、加古郡の二子・野添・経田・古向・宮北・東中野・本庄・宮西・古宮(以上播磨町)・西脇・八反田・中野・山上・二俣・一色・古宮・別府(以上加古川市)18ヶ村を阿閉荘という」とあります。
 ともかく、阿閉神社は、住吉大社の荘園(阿閉荘)としての経営の中心としての役割を果たしていたのでしょう。
 *地図:『東播磨の荘園下巻(竹内理三著)』(吉川弘文館)から一部
 *『
阿閉の里』参照

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さんぽ(198):播磨町を歩く(79) 阿閇神社探訪(3)・阿閇は住吉神社の支配地

2014-07-24 15:44:41 | 播磨町

 住吉大社(住吉神社の総本宮・大阪市住吉区二丁目)に、住吉大社の歴史を記した『住吉大社神代記』があります。
 この記録は、天平三年(731)に書かれたとされています。
 ただ、かなり後世の文だという説もあります。
   
『住吉大社神代記』が語ること
Photo_2
 次の記述は、神代記の一部です。
 ・・・・
 飛鳥の板蓋宮にお住まいになった天皇(斉明)の世のはじめに、住吉大神の御魂が、夏五月に「吾が山(支配する土地)をめぐりみよう」と、仰せられて、馬にお乗りになり、笠をかぶって、紀伊よリ葛城嶺(かつらぎのみね)・生駒山に駈けて、お昼は住吉に帰られ、お飯酒を召上った。
 『東播磨の歴史2(中世)』より
 古代、日本の神様は人間臭い。親しみがわきます。
 それから、阿閇(あえ)・魚次(なすき・明石市)・は鹿山(はじかやま加東市)をご覧になって帰ってこられた。
 神代記には、住吉大社の御霊が、阿閇まで巡検されたということは、天平以前、すでに阿閉の地が住吉大社の神封(領地)であり、その影響が及んでいたことを示すものでしょう。
 最初に記したように、『住吉大社神代記』は、後の世に編集された記録であるかもしれません。
 仮にそうであっても、以上の話は、古くから伝えられていた話であったと思われます。
 つまり、住吉大社は加古川の上流、明石郡、そして阿閉の地(播磨町)にその領地をもっており、住吉大社(神社)の経済を支えていた大切な土地であったようです。
 次回から、阿閉の地と住吉神社について考えてみましょう。
 *写真:住吉大社(大阪)
 *『阿閉の里』(播磨町史編集委員会)、「加古川の舟運のはじまり(田井恭一論文)」、『東播磨の歴史2(中世)』参照

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さんぽ(197):播磨町を歩く(78)  阿閇神社探訪(2)・祭神

2014-07-23 06:57:06 | 播磨町

 住吉神社の祭神
 前号の復習をしておきます。
 阿閇神社の祭神は、
一宮から四ノ宮にいたる四社からなり、南北線上西向に近接して並立しています。
 北端の一の宮は表筒男命(ウワツツノオノミコトウ)、二の宮には中筒男命(ナカツツノオノミコト)、三の宮は底筒男命(ソコツツノオノミコト)、南端の四の宮は息長帯姫命(オキナガタラシヒコノミコト)がまつられています。この四神をまつる神社は、住吉神社です。
 最近は、神様のお名前もずいぶん縁遠くなりました。
 阿閇神社は、住吉神社です。神様について説明しておきます。
    住吉神社の神々三神
001
 イザナギとイザナミ夫婦は、大やしまのくに八島国(日本列島)をつくり、さらに多くの神々を誕生させました。
 そして、さいごにカグツチが生まれた時、イザナミは大やけどを負い、それがもとで死んでしまいました。
 妻の死を悲しんだイザナギは、死者の住むという黄泉の国を訪ね、この世へ帰ってくれるように頼みました。
 「私はもう、黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、元の国へ帰れません」と嘆きながらも、この国の神たちと相談するので、私の姿を見ないで待ってほしいと、言いおいて出かけました。
 その留守に、イザナギが隣の部屋をのぞくと、そこには妻の腐った死骸に、たくさんのうじ虫がわき、そばには、おそろしい雷神がいるではありませんか。
 恐ろしくなったイザナギは、一目散に逃げ出しました。
 怒ったイザナミが追いかけてくるのを振り切って逃げ、黄泉に繋がる場所を大きな岩でふさぎ止めてしまった。
 それ以来、あの世とこの世は行き来できなくなったそうです。
 やっとのことで帰ってきたイザナギは、九州の日向国(現在の宮崎県)の小さな海で、けがれを払うために楔(みぞぎ)をしました。
 その時、はじめに海の底で洗った時に生まれたのがソコツツオ、中ほどで洗うとナカツツオ、水面ではウワツツオという三人の神が生まれたということです。
 *上記の住吉三神は『播磨町の歴史』(「播磨町の歴史」編集する会」参照
 オキナガタラシヒメノミコト
 住吉神社のもう一人の祭人之説明が必要です。
 もう一人の祭人・オキナガタラシヒメノミコトは14代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の奥さんである神功皇后(じんぐうこうごう)のことです。
 戦前、戦中に歴史教育を受けた方にとっては「神功皇后は天皇(仲哀天皇)に代わって男装して新羅(しらぎ)を撃った勇ましい皇后として、忘れられない古代史の英雄の一人でした。
 もちろんこれら英雄談は神話での話で、事実ではありません。
 阿閇神社は、住吉神社で、住吉三神とオキナガタラシヒメノミコトをおまつりしています。
 *写真:阿閇神社(所在地・播磨町本荘4丁目1121)
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さんぽ(196):播磨町を歩く(77) 阿閇神社探訪(1)・本殿の建立は元禄15年(1702)

2014-07-22 06:47:51 | 播磨町

  阿閇神社探訪(1)
 先日、本荘の阿閇神社へ出かけました。
 さすがに歴史を感じますが、森に鎮座する神社の感じではありません。潮風の中の神社です。海に続く明るさを感じました。
 播磨町にとってこの神社を抜いて語ることができません。阿閇神社を訪ねてみましょう。タイトルを「阿閇神社探訪」とします。
 きょうは、その1回「阿閇神社本殿」です。
 神社の本殿前に、播磨町委員会の説明がありました。読んでみます。
 一部、専門的な用語を省いています。
 阿閇神社本殿(県指定文化財)
 この本殿(写真)は、一宮(写真左端)から四ノ宮に至る四社からなり、南北線上西向に近接して並立している。
 北端の一の宮は表筒男命(うわつつのおのみこと)、二の宮には中筒男命(なかつつのおのみこと)、三の宮は底筒男命(そこつつのおのみこと)、南端の四の宮は息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)をまつっている。
 
 本殿は、元禄15年(1702)に建立
Img
 建立年代については普請関係文書が残されており、それによれば元禄14年(17015月に工事に着手し、翌1511月にはすべて作業を完成したらしい。
 現在の本殿は、様式作法からも、その時の物に相違なく、各四社は、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、切妻で棟には千木堅男木(ちぎかつおぎ)を飾っている。
 各四社とも、元禄造営後、寛政12年(1800)の屋根替えをはじめとして、幾度かの修理を経ており、その跡が見られるが、主要部分には旧材が残されている。
 特に、組物屋・蟇股(かえるまた)・木鼻(きばな)・手挟(てばさみ)などの細部手法は、江戸時代中期ごろの特色を良く表現していて、保存もよい。
 各部には良質の材料を用い、工作も優秀である。
 この本殿は、江戸中期の像策ではあるが、正規の春日造り形式をよく伝え、特に四社が軒を近接して建立する配地は他に類似が少なく、神社建築史研究上注目される遺構である。
            平成二年二月   播磨町教育委員会
 *写真:阿閇神社本殿(向かって左より、一宮~四の宮)

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さんぽ(195):播磨町を歩く(76) うなぎ井戸

2014-07-21 06:43:02 | 播磨町

 「うなぎ井戸」の見学に出かかました。播磨町教育委員会の詳しい説明板がありましたので、読んでおきます。
    うなぎ井戸
021
 この古井戸(写真)は、「うなぎ井戸」と呼ばれています。
 名前の由来については、井戸の横にある祠を歯痛治しの信仰の対象とし、お参りには「うなぎ」を持って行き、井戸の放したという言い伝えによるものの外、井戸にしては細長い形をしていることから、そう命名されたとも伝えられています。
 いずれにせよ、昔の古宮村にとっては大切な井戸であったと考えられます。
 古宮村は、江戸時代初期に「古宮千軒、お寺が四ヶ寺」と言われるほどの大集落で住民の多くは農業か、漁業でくらしをたてていました。
 そして、この古井戸も村の中央にあって、村人の大部分に愛用されてきました。
 しかし、好漁場の播磨灘を持ち、漁業が専業化するにつれて集落は徐々に海岸近くへ移っていき、井戸だけがこの地に取り残されてしまったと思われます。
   海岸が遠くなった
 以上の教育委員会の説明の「うなぎ井戸の辺りが、昔の古宮の中心でした」というところに注目しました。
 少し、説明を加えておきます。これは二つぐらいの要因が考えられるのではないでしょうか。
 一つは、人々の生活に「水」はなくてはならないものです。この辺りには、池もたくさんあり、地下水脈があったのではないかと考えられます。
 もう一つは、古宮村の辺りの海岸には西から東への海の流れがあります。この流れにより加古川、喜瀬川の吐き出す大量の土砂が運ばれ、つもり港が浅くなり、やがて集落から海岸が遠くなったのではないかと想像します。
 そのために、集落は徐々に南の海岸部へ異動したのではいかと考えるのです。いかがでしょうか。
 *写真:うなぎ井戸(所在地:古宮3908

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さんぽ(194):播磨町を歩く(75) 砲台跡(古宮)

2014-07-20 07:27:31 | 播磨町

  古宮砲台跡へ出かけました。説明板はあるのですが、それらしき跡は全くありません。
 現在、砲台場跡から南は望海公園で、東西は工場群が広がり、海は見ることはで来ません。
 砲台場跡の説明を読んでおきます。
   
ここは、砲台場跡(オダイバ)
005
 18世紀の末ごろから鎖国状態の日本に対し通商を求めるロシアやアメリカ合衆国等の欧米諸国の異国船の出現が頻繁になり、幕末の世論が「攘夷化かいこくか」で沸騰するなか、幕府は海岸に大砲を備えるなどして防備を厳重にし、文政8年(1825)には外国船打ち払い令をだして、あくまでも鎖国を守ろうとした。
 そこで姫路藩も幕府の命により嘉永3年(1850)、家島、室津に砲台を築き、さらに文久3年(1863)に飾磨、福浦(的形)、高砂、古宮に砲台を築いた。
 この砲台場跡は、姫路藩の東端に位置し、大阪湾を経て姫路領沿岸に近づこうとする異国船を発見すれば大砲で威嚇する一方、姫路城に急を知らせるために設置されたものです。
 三門の大砲を備え、藩士によりこれを守らせていたと伝えられている。
 この砲台場に異国船が近づいて、砲撃したという記録はない。
 しかし、安政元年(1854915日にロシアの使節、プチャーチンが天保山沖(大阪港)に現れ、103日に下田港は向けて出航したが、その間の922日に代官・中村五衛門が兵を率いて当地で警備にあたった記録が残されている。
ここは、地方の人たちから砲台場が変化したのか「オダイバ」と呼ばれていた。
           平成22
                播磨町教育委員会
 
<蛇足>
 当時の日本の大砲の飛距離は、せいぜい2000メートルぐらいで、それに、命中率も悪く、とても実践に役立つものでありませんでした。
 ペリー来航時もそのことをよく知っており、海岸から26002700メートルのところに艦隊4隻が、ゆうゆうと隊列を組んで投錨していました。
 もし、古宮(播磨町)のオダイバから発砲されていたとしても、「砲弾は、船まで届かなかった」と言う記録を残していたことでしょう。
 
*写真:白い建物があるところが砲台場跡(所在地:播磨古宮91

<o:p></o:p>

 

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「ひろかずのブログ」が、きょうで2.500号になりました。

2014-07-19 07:31:09 | その他

  「ひろかずのブログ」が2.500号に!
 退職3年目から始めた「ひろかずのブログ」ですが、きょうで2.500号になりました。<o:p></o:p>

 ちりも積もって小山になりました。
Img
 一度だけ、ある事情で「やめようかな・・・」と考えたことがありました。
 その時は、しばらく休んで、なんとか再開させることができました。
 以後、気張らずに、みなさんに押し売りをしています。
 こんなブログですが、最近は毎日のアクセスが500近くになっています。
 このアクセス数に後押しされてブログを続けています。
 今、播磨町を歩いています。<o:p></o:p>

  いままで、加古川市・稲美町の歴史探訪を書いてきました。
 播磨町についての知識がありません。土地感もありません。
 これがいいんです。何冊か本を買い込んで、読んでいます。ボケ防止になります。
 買い込んだ本の内容を確かめるために、現場へ行きます。そして、写真を撮ります。
 そうすると一日に、一つ新しい知識ができ定着するんです。
 今、「播磨町を歩く」は、前号で74号になりました。74の新しいことを知ることできました。
 けっこう楽しいのです。それに何よりも安あがりの趣味です。
 加古川市・稲美町でも経験しましたが、こんな作業が200、そして300とふえる時、誰かに話したくなります。頭の中で化学変化が起こります
 そして、時には公民館などで「専門家面」をして、臆面もなく話します。
 最近は、このサイクルが少し過熱気味です。途中で故障をしないように、少しゆっくり回転させるようにします。
 退職して3年目から始めた「ひろかずのブログ」ですが、日課として定着したようです。
 朝、前日用意しておいた内容で、新しい「ひろかずのブログ」を作ります。
 できた時は、大げさにいえば、「きょうも生きている・・・」と感じます。
 何かの都合で書けなかった日は、どこかで大事なものを忘れてきたたような気持ちになります。
 こんな、私の勝手な思いに付き合っていただき有難うございます。
  ボケ防止と腰痛対策を兼ねて、
     5.000号まで続けますか?
 もう一つの目論見は、腰痛対策です。
 71歳になりました。昨年から、少し腰痛がひどくなって来ました。やばい・・・
 原因は、はっきりしています。運動不足です。
 誰かの文章を、ちゃっかりとお借りすることが多いブログですが、大切にしたいことがあります。①現場に行って、②写真を撮ることです。
運動になっています。
 最近、孫(5才・今月の24日で6歳になる女の子です)と遊ぶことが増えました。
 あと10年は、孫と遊びたいので、元気でボケないように頑張ります。
 そのために1年に300ほどブログを書いて、10年続けると5.000号にはなります。
 私も81歳になります。その時、迷惑をかけない別の生き方を考えます。
 もう少し、お付き合いください。よろしくお願いします。(「ひろかずのブログ」2.500号の日に)
 挿絵:取材中の私

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さんぽ(193):播磨町を歩く(74) ジョセフ・ヒコの生家跡

2014-07-18 07:01:48 | 播磨町

 『アメリカ彦蔵自伝1』(東洋文庫13・平凡社)の最初を読んでみます。
 この本の出版年年月ははっきりとしませんが、おそらく、明治20年代と思われます。
 (*同書2は、明治28年に出版されている)
  
故郷(自伝より)
Img
 私は、日本帝国という小さな島国に生まれた。
 播磨灘に面した山陽道の播磨の国、古宮村である。
 播磨灘というのは、有名な瀬戸内海、すなわち本州とそれよりやや小さい島の四国及び九州をへだてて、あの美しい、陸地にかこまれた水域の東端に当たる。
 1837年に私が生まれたが、その当時、古宮は戸数500、人口が2000から3000ばかりのかなり大きい村であった。
 今は、もう小さくなって、その大きさから言っても、重要さにおいても、むかしの約7分の1になっている。
 そこの住民の大部分は農民でそのあとのものは漁師、船乗り商人であった。
 父は、何不足のない農民であった。
 父は私が生まれてから数年してなくなり、母はそれから23年して、隣の浜田町のある家へ再婚した。・・・
 ヒコは、故郷・古宮のことを自伝でこのように書いています。
   
ジョセフ・ヒコの生家跡
003
 716日(木)、午後ヒコの生家跡へ出かけました。現場にたつとイメージがわいてくるものです。
 それにしても、ヒコの生家跡に来てイメージが壊れました。風景は随分変わっています。
 生家跡は、現在せまい駐車場で、ヒコの生家跡であることを示す説明板がそれを語るだけでした。
ヒコの生家は、前号で説明した今里伝兵衛の屋敷跡のすぐ西隣です。
 浜までは、1分もかからない所です。
 夏の今頃は、ヒコはフンドシ姿で家を飛び出し、古宮の浜で時間を忘れて遊んだことでしょう。真黒になったヒコの顔が浮かびます。
 松の木も多かったはずです。ヒコの生家あたりの風景が想像されます。
*写真上:ヒコの生家(自伝より)
*写真下:ヒコの生家跡(説明板があります)

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さんぽ(192):播磨町を歩く(73) 今里家跡に残る井戸

2014-07-17 07:09:33 | 播磨町

   古宮組大庄屋・今里家
 江戸時代、各村には村を治める大庄屋がおかれました。
 大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。
 ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。
 そして、その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれました。
 ですから、今里家のおさめる村々は、「古宮組」でした。
 古宮組は、幕末の一時期を除いて、今里家が代々、大庄屋を勤めています。
 古宮組は、山上・二俣・一色中野・八反田・古大内・二ッ屋・坂井・西脇(以上、現:加古川市)・野添・大沢・宮北・本荘・東中野・経田・古向・宮西そして古宮の各村々からなる組でした。
 各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようで、各組の庄屋への連絡、村々から領主への取次ぎ・年貢や組の争の解決などの多くの仕事がありました。
   
今里家跡に残る井戸
005
 「今里家は、古宮のどこだろうか?」知りたくて何回となく住宅地図を捜しましたが今里家は見当たりません。
 播磨町史『阿閇の里』にも、今里家のあった場所の説明がありません。
 ある人に教えていただきました。今里家が話題にならないのは、現在今里家の土地は、小区画に分け個人に住宅が建てられており、今里家の場所は分からなくなっており、ご子孫も、古宮におられないことによるのかもしれません。
 今里家のあった場所は、次号で紹介しますが、古宮の住吉神社の東100メートルほどのところにあった、ジョセフ・ヒコの生誕地の東となりです。
 ただ、今里家あった土地の一角に今里家の井戸(写真)が残されています。今となっては、これが、今里家があったことを残す唯一つの足跡です。
 この、井戸は個人の住宅なので一般公開はされていません。写真は、お願いして撮らせていただきました
 *写真:今里家にあった井戸

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