ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(203) 長尾新村・地徳新村誕生

2015-04-30 09:54:49 |  ・高砂市阿弥陀町

  長尾新村は寛文五年(1665)に誕生

 長尾新村は、寛文元年(1661)東阿弥陀村の松本新右衛門が願い出て、高御位山の麓の原野を開発して成立した村です。

 元禄十四年(1701)頃書かれたと思われる「松本家由緒」にその経緯が詳しく記されています。

 初めて年貢米を上納したのは寛文五年(1665)のことであり、寛延三年(1750)の長尾新村明細帳には寛文5年から貞享元年(1684)まで8冊の検地帳が存在したことが記されているので、村の成立は寛文五年ということでしょう。

 開発以前からあった彦次郎太池、長池、皿池の用水を利用し、自村でも寛文九年に姫路藩に願い出て、その援助のもとで新池、私池を築造しています。

   地徳新村は寛文期から元禄期に成立か

 地徳新村は両村からやや離れて高御位山の西部の谷間を開発した村で、阿弥陀の人、黒田某が開拓して移住したことに始まるとされています。『増訂印南郡』に、その年次記されていません。

 元禄郷帳に「西阿弥陀村枝郷」の注記が付されて村名が見えるのが初出であるので、寛文期から元禄期の間に成立した村であると推測されます。

 以上の三ヵ村(北山・長尾・地徳新村)は、何れも17世紀の後半になって開発され、東阿弥陀村、西阿弥陀村から分かれて独立した村です。

 農業用水は、谷地や傾斜地をせき止めた溜め池に依存しており、本村とは取水や山の入会権を巡って争論がしばしば起きています。(no2780)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

 *写真:高見位山山頂からの長尾新村(現:阿弥陀町長尾)、写真中央の池の向こうが北山新村(現:阿弥陀町北山)

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高砂市を歩く(202) 北山新村②・慶安5年(1662)から北山新村に 

2015-04-29 08:23:45 |  ・高砂市阿弥陀町

 寛延元年(1748)に作成された駒井家に伝わる由緒書には、さらに詳しく、次のように書かれています。

 ・・・駒井氏の先祖はもと武士で東阿弥陀村に帰農した篤農家でしたが、道誓が高御位の東の中塚山麓を開墾して正保二年(1645)から同じ心を持つ十余家と共に移り住みました。

 新田場は、三年間は年貢免除地であったが「隠田」でないことを示すために姫路藩主に願い出て稗10石を貢納しました。

 (*隠田:(かくしだ・おんでん)・・・中世・近世に隠して耕作し、年貢等を納めない土地の事)

 3年たって検地を受け、37石の村高を持つ北山新村となりました。

 また、草むらに井のかたちがあって、水がよかったので掘り広げ堤をつくって溜め池もつくりました。

    駒井家北山新村の庄屋に

 道誓は、慶安二年(1649)に亡くなりましたが、その子・源太郎が家を継ぎ、領主から庄屋役を命じられました。

 道誓は、晩年、理兵衛と称したので駒井家では当主は代々、源太郎を名乗り、隠居後は理兵衛と称しました。

 寛延元年が道誓の百回忌に当たるので墓を修理し地蔵菩薩の石像と顕彰碑の石塔を建てました。

 元文二年(1737)の北山新村明細帳には正保三年(1646)、慶安五年(1652)、承応二年1653、寛文九年(1669))の検地帳が残されています。

 それによれば、第一次榊原時代の慶安五年(1652)から北山新村と称するようになったと記されています。(no2779)

 *『高砂市歴史(第二巻)、通史編近世』参照

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高砂市を歩く(201)  北山新村①、正保二年(1645)に開村

2015-04-28 09:50:35 |  ・高砂市阿弥陀町

   北山新村

 高御位山の麓の阿弥陀町北山・長尾・地徳を歩いてみます。

 この三ヵ村の新村は慶長期の開発よりやや遅く、高御位山の南麓に広がる原野を開墾して作られた新村で、用水は溜め池にたよっていました。

   江戸時代の初めは、日本の大開拓時代

 江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、その理由を大石慎三郎氏は、次のように説明されています。

 「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)

 つまり、戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたというのです。

     北山新村、正保二年(1645)に開村

 北山新村も、この時代に開村されています。 

 北山新村の開発については東阿弥陀村の植原道誓という人物が荒れ地を開墾して三町歩の新田を開き、耕作の便宜のため正保二年(1645)に新田の傍らに家を建てて移住たところ、付き従う者が十数家あり、その集落が北山新村の始まりであるといいます。

 また、植原氏は、後に「駒井」氏に改めたといわれています。(『増訂印甫郡誌』)。

 *『高砂市史(第二巻)、通史編・近世』参照(no2778)

 *写真:北山新村開基、植原道誓の墓

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高砂市を歩く(200)  200号になりました

2015-04-27 06:53:28 | 高砂市

  「高砂市を歩く」が200号に!

 「稲美町探訪」が200号になった時、次のような文章を書いています。

 ・・・・稲美町探訪が100号になりました。

 200号になったら、おそらく他人に稲美町のことを話たくなっているだろう。 

 300号になったら、いっぱしの専門家面をして稲美町についての話をだれかに押しつけている」かもしれません。

 400号になったら、もう忘れてしまいましたが恋人のように稲美町が愛おしくなっているかもしれません。

 もし、500号になったら、きっと分からない古文書等とも格闘しながら、誰も知らない稲美町を調べている、と確信します。

 でも、まだ200号です。

 とりあえず300号を目標に続けますので、しばらくお付き合いください。

 こういうのを「善意の押し売り」というのでしょうが、・・・・

    高砂市探検を

 きょうで「高砂市を歩く」が、200号になりました。「他のだれかに高砂市のことを話したくなってきています。

    むずかしいことをやさしく

  2010年4月9日、作家の井上ひさしさんが肺がんで亡ならました。75才でした。

  井上さんは、色紙によく次の言葉を書かれたそうです。

    むずかしいことをやさしく

    やさしいことをふかく

    ふかいことをゆかいに

    ゆかいなことをまじめに

    書くこと

  「高砂市を歩く」も、井上さんの精神で、とりあえず300号を目標に続けます。

  その時は、高砂市について少し傲慢な専門家面をしているかもしれません。

  「高砂市を歩く」では、既に工楽松右衛門について少し書きましたが、もう少し松右衛門さんとお話したいと考えています。

  松右衛門は、高砂市の財産ですから。

  松右衛門について、資料等をお知りの事がありましたらご一報ください。(no2777)

 

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高砂市を歩く(199) アマンジャクの伝承

2015-04-26 07:36:47 |  ・高砂市阿弥陀町

     アマンジャクの伝承

 今日も高御位山の磐座(いわくら)の話です。

 ・・・・・

 昔、大己貴命(オオナムチノミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)の二神が、一夜のうちに石の宝殿をつくりあげようと相談されました。

 さっそく、汗を流し、巨岩を切り抜いて細工をはじめられ、石屑が、辺り一面に飛び散り、どうにも始末が負えなくなりました。

 そこへ、へそ曲がりのアマンジャク(天邪鬼・アマノジャク)がやってきました。

 アマンジャクは、ずいぶんつむじ曲がりですが、親切なところもありました。

 二神のそばに来て、「その石屑は、このアマンジャク様が捨てて参りましょうか・・・」といいました。

 二神は喜んで「それでは、南の海に投げ込んでくれ・・・」と頼みました。

 アマンジャクは、大きな袋に石屑をいっぱい詰め込んで、スタスタと出て行きました。

 へそ曲がりのアマンジャクのことです、南へ行かず反対に北の方へ急ぎました。

 「へ、へ、へ・・・これを、海にすてては俺様の名がすたる。高御位山のてっぺんへすてるのさ・・・」と独り言を言いながら道を急ぎました。

 そうしているうちに、さすがのアマンジャクも背の石屑の重さが、だんだんこたえてきました。

 息が切れ、疲れてしまいました。

 あまりのしんどさに、一息ついて、水を見つけては喉を潤しました。

 しばらく行くと、また息が切れて水を飲みました。

    七回休息し、石屑を山頂へ

 一里の道を行くのに七回も休んで水を飲みました。

 七回目に、今の成井(なるい・現:加古川市志方町西志方)」(高御位山の麓の村)の井戸の水で、喉を潤しました。

 この水は何とも言えない美味しい水で、今までの疲れもいっぺんにふきとんで、再び元気が出てきました。

 そして、一気に高御位山の頂上まで、重い石屑を担ぎあげたということです。(no2776)

 *挿絵:アマンジャク(天邪鬼)(インターネットHPより)

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高砂市を歩く(198)  高御位山の磐座(いわくら)

2015-04-25 06:26:20 |  ・高砂市阿弥陀町

     高御位山の磐座

 印南郡の人々が、最も早く神を祭った場所は高御位山の山頂であったと思われます。

 もともと日本人は、神を祭る場所として神社というものを持ちませんでした。

 神社などという建造物の無い時代ですから当然のことです。

 天から降臨した神々は、もっぱら樹木や岩石に宿ると考えられました。

 神が樹木などに宿った場所は「ひもろぎ(神籬)」といいます。

 岩などに宿った場所を「磐座(いわくら)」と呼びました。

 そして、家も田も潰してしまう豪雨。

 稲の花を飛ばす暴風。

 古代人は、森を焼く雷、恐ろしい火山の爆発など、すべては山からやってくる神の仕業であると考えていました。

 山は、弥生時代以来、大切な崇拝の対象となりました。

 古代人は、これらの神の宿った「ひもろぎ」「磐座」を神として祭りました。

 高御位山山頂は、形の良いまさに天井から神々の降りてこられる磐座にふさわしい場所でした。

    もとは「たかみくら大神」

 高御位山の山頂の磐座は、このあたりでは最も優れた磐座として知られています。

 後世、高御位山の神は大貴己命(おおなむちのみこと)とされていますが、もともとは単に、この磐座に宿られた神、つまり「たかみくら大神」として祭られたと想像します。(no2775)

 *写真:高御位山頂の磐座(山麓の集落は阿弥陀町長尾・北山、HPより)

 

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高砂市を歩く(197) 高御位山と牛島

2015-04-24 11:12:06 |  ・高砂市阿弥陀町

  高御位山の神様と牛山の神様との「けんか」の伝承です。

 *文中の牛島は、高砂沖に浮かぶ牛島(ほうらく島)のことです。

 現在、地図では上島(かみじま)となっています。

    高御位山と牛島

 高御位山は、このあたりで一番高い山(304メートル)です。

 ところが、大昔、それほど高い山ではなく、牛山という山と仲良く並んでいたということです。

 ある時のことです。

 高御位山の神様と牛山の神様が大けんかをしました。

 その時、牛山の神様は負け、はるか沖へ投げ飛ばされてしまいました。

 この時から、高御位山の神様の勢いが、一段と強くなりました。

 そして、ついには、この地方で第一の高い山となったのでした。

 一方、負けた牛山は、海の中にポツリと、とり残され「牛島」と呼ばれるようになりました。

 その上、形も、背がだんだん低くなり「ほうらく」をふせたような形成りました。

 (ほうらく・・・豆などを炒る時に使う土製の器)

 いまでも、播磨灘に、とりのこされるように浮かんでいます。

 「ほうらく島」は、この牛島のかわりはてた姿だということです。(no2774)

  *『郷土の民話(東播磨編)』(郷土の民話・東播地区編集委員会)参照

  *写真:高砂港から見た上島(かみじま)

    昨年の秋の夕暮れ時撮影

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高砂市を歩く(196) 「おこぜ」と高御位山

2015-04-24 08:13:33 |  ・高砂市阿弥陀町

 高御位山の山麓の集落、阿弥陀町北山・長尾・地徳を散策します。

 その前に、高御位について少し書いておきます。

   おこぜと高御位山

 標高304メートルの「高御位山」は山型が富士山に似ているため「播磨富士」とも呼ばれます。

 「高御位」とは神霊のいる御座のことで、ふる里の先人は、この「高御位山」自体を神様として崇拝しました。

 また、播磨灘の航行上重要な目印となったので、漁業者は山の神様が喜ばれたと伝えられる「おこぜ」を山頂の伺へ供える風習を大正時代まで続けていました。

  「おこぜ」を供える

 むかし、高御位山の頂上には大きな灯ろうがありました。

 この灯は、播磨灘で漁をする人々に灯台の役割を果たしていました。

 ですから、漁師は海からあがると感謝の心をこめて「おこぜ」を高御位神社に供えました。

 では、どうしてあの醜い「おこぜ」をお供えたのでしょう。

 「おこぜ」は、たいそう美味しく山の神は「おこぜ」が大好きでした。そのため、おこぜをお供えするとたいそうよろこばれる」ということでした。

 また、病気をした時、願をぜひ聞きとどけてほしい時など、おこぜを持っておまいりすると、必ず、かなえてくださいました。

 大正5年に刊行された『印南郡誌』を読んでおきます。

 「・・・(江戸時代の終わりから明治時代の初めの頃)までは、沢山の船頭がこの高御位山へ参ってきた。

 そうしてどうした理由か、この時きっとおこぜを持ってきたという・・・」(no2773)

 *『ふる里の山名復活(松本文雄著)』(創出版)、『印南郡誌』参照

 *写真:おこぜ

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高砂市を歩く(195) 裏  VS  表

2015-04-23 08:40:44 |  ・高砂市阿弥陀町

   どうでもよいことですが・・・

 中学校の頃、といっても ずいぶん昔の話になりました。

 昭和30年から32年が、私のそれに当たります。

 その頃、地理の教科書では、日本海側を裏日本、太平洋側を表日本と言っていました。

 現在、これらの表現は消え、気候区分も「日本海岸気候区」「太平洋海岸気候区」と言っています。

 裏には、どうしてもマイナスのイメージがつきまといます。

 先日から阿弥陀町を歩いています。前号では、阿弥陀町南池を歩きました。

 そこから北を眺めると、高御位の山塊が壁を作り繋がっています。

 どうでもよいことを考えています。

     裏  VS  表

 「高御位山の表は阿弥陀町側から見る山を言うのだろうか。志方町側から見る山をいうのだろうか・・・」と。

 どうでもよいことですが、こだわってみると気になります。

 このブログ(ひろかずのブログ)を始めたころ、志方町へ毎日のように出かけました。志方町側から見る高御位山を当然のように「表」と考えていました。

 いま、少し違って見えかけています。高御位の山麓の北山・長尾・地徳の集落を歩いてみたくなりました。

 「この地域は、江戸時代の新田としてできた村」と言うこと以外に、何の知識もありません。

 『高砂市史』を読むことにします。そして、地図を片手にカメラを持って出かけます。

 今頃、この辺りは新緑で埋まっていることでしょう。ウグイスが鳴いているかもしれません。楽しくなってきました。(no2772)

 *写真:阿弥陀町側から見る高御位山の風景

 

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高砂市を歩く(194) 池大神社②・南池のルーツは?

2015-04-22 09:02:56 |  ・高砂市阿弥陀町

    南池(阿弥陀町)のルーツ

  前号で紹介した。池大神社の説明の続きに、八柱社(はっちゅうしゃ)と祇園社の説明があります。読んでみます。

 (写真右:本殿の池大神、中:八柱社、左:祇園社)

 ◇八柱社は、スサノオノミコトと御子神(みこがみ)八柱(八人)がお祀りされている。

 祭日は8月31日・9月1日である。

 ◇祇園社(ぎおんしゃ)

 祭人はスサノオノミコトである。祭日は7月6日と7日である。6日には子供相撲大会がある(以上、池大神社の説明板より)

 「八柱社」とは、なじみのない神様(神社)なので、HPで調べてみました。

 ・・・京都の八坂神社(祇園社の祭神はスサノオノミコトであり、八柱御子神(やはしらのみこがみ)もお祀りしています。

 八柱社とは、スサノオノミコトの8人の子供たちをお祀りしている社のことです。(HPより)

 と言うことは、池大神の説明にある八柱社も祇園社も、京都の八坂神社に繋ながる祭神です。

 魚橋村の守護神は、八坂神社から勧請した神様で、地元ではもっぱら祇園さんと呼んでいます。

 『印南郡誌』には「・・・姫路城主であった池田輝政により干拓され、阿弥陀・魚橋の地より人々が移住し新村(新池村)が形成した。この新池村は寛永年間(1624~1644)、北池村・南池村の二村に分離した・・・」とあります。

 ここに八坂神社(祇園さん)があることは、入植した魚橋の人々が魚橋村の祇園さんを勧請したということでしょう。

 南池のルーツの証です。(no2771)

 *写真 右端:池大神、中:八柱社、左:祇園社

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高砂市を歩く(193) 池大神社(阿弥陀町南池)①

2015-04-21 09:14:46 |  ・高砂市阿弥陀町

 南池集落の池大神社に来ています。池大神社と言いながら、近くに池が見当たりません。

   池大神社(いけだいじんじゃ)①

 神社に説明がありました。読んでみます。

 「当社は歴史的に見て神社の地が池の小島であった平安時代に如龍三社(雨乞い・百姓の)神様として)創建されたと考えられている。

 元文三年(1786)、現在のように改築され、池大神社は厳島姫とされている。

 この神社は南池の守護神、すなわち、産土神(うぶすながみ)として人々に敬われ、信仰も厚く、霊験あらたかな所である。一般に明神さんと敬されている。

 祭日は七月十四・十五日である・・・」

  南池村は、「あさがら池」を埋め立てた新田

 以下は、「高砂市を歩く(189)」の復習です。

 南池地区は『播磨風土記』のいう「池の原」のようです。

 現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりに、古代から江戸時代初めの頃まで、大きな池がありました。

 慶長10年(1605)の頃、池田輝政は、姫路藩の治水・灌慨のための土木工事を行って、農業生産力の増大を図っています。

 加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。

 升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町)で加古川から取水し、本流は神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至りました。

南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたものと思われます。

 この時、「あさから池」は、阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。

 江戸時代初期の風景を想像してみましょう。(no2770)

 *写真:池大神社(阿弥陀町南池)

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高砂市を歩く(192) Suguru Sasaki

2015-04-20 10:57:42 |  ・高砂市阿弥陀町

 高砂市阿弥陀町魚橋は、月の沙漠の作曲者の「佐々木すぐる」の故郷です。

 「高砂市を歩く(83)・佐々木すぐる」でも少し紹介しましたが、あるところで次のような拙文を書きました。お暇な時にでも「高砂市を歩く(83)」と合わせお読みください。

 いま、阿弥陀町魚橋を散歩しています。ここでいったん魚橋を離れて次号から他の阿弥陀町を散策します。

    Suguru Sasaki

 A Composer of the Children’s Song,

 Tsukino Sabaku (A night desert under the moon)

 A long time ago, in a distant land.

 Some camels were traveling in the desert at night under the moon

 (from nursery song, a night desert under the moon)

 Most Japanese children have sung this children’s song, Tsukino Sabaku, at least one time in their life. Tsukino Sabaku was a poem which Masao Kato published in Shonen Club issued in March of 1923. Suguru Sasaki composed it and this song became very popular.

 At that time, the melachonly songs Kare Susuki (withered Japanese pampas grass) and Sendo Kouta (a boat captain in Japanese ballad songs) composed by Ujo Noguchi were popular. That year, The Great Kanto Earthquake (1) occurred on September 1st in 1923 and many people died. After this Big Earthquake, the cheerful song Tukino Sabaku became popular instead of the sad melodies like Kare Susuki and Sendo Kouta. In Japan, we visualize the Tottrori Sand Dunes when we hear the word DESERT. But, Tsukino Sabaku was written imaging the Onjuku Seashore (Chiba Pref.) at which Masao Kato stayed for medical treatment.

  Suguru Sasaki was born in Amida Cho (Takasago City) as his father, Genzo’s second son in 1892. Suguru graduated from Amida Elementary School and went to Himeji Teacher’s College. Furthermore, he went to Tokyo Music Academy (now Tokyo Art University) and after graduation, he became a teacher at Hamamatsu Teacher’s College (Shizuoka Pref.). In 1922, Suguru came to Tokyoin order to concentrate on composition. In 1923, he composed Tsukino Sabaku and established his status as a composer with this song.

 The time changed to the Showa period. Children’s Culture Movement which prospered in the Taisho Democracy(2) lost its energy and the oppression of liberalism began to expand.  The management of a music association decided that children’s songs were for children only and the intellectual level of those songs were low. Suguru Sasaki therefore left from the Children’s Song Movement at that time.

 In 1945, the most popular song was Oyamano Suginoko (a child of cedar in the mountains) which Suguru Sasaki composed. The first verse which children sung was as follows:

  Once upon a time

  Beside a forest of oak

  There was a small bare hill

  The hill was a laughingstock 

  Oh! A cedar sapling ! Get up

  The smiling sun called to a cedar sapling

 After the Second World War, the 6th verse of this song was adapted. Before this, the 6th verse of the old song was as follow:

  I want to become fine a soldier

  Let’s resolve loyalty to Japan and make filial piety to our parents

  Japan is the country which the sun rises up

  Let’s protect this Japan

  Let’s protect this Japan

 The words of this song called on children to join the war effort. Japan accepted the Potsdam Declaration in 1945. The Second World War ended in defeat. The new constitution was made known to all. Japan declared to the world that the Japanese people forever renounced war as a sovereign right of the nation and as a means of settling international disputes.

 The teachers reflected on having cooperated with the War effort through education and formed the Japanese Teacher’s Union. The Teacher’s Union decided to never again send students to the battlefield. Suguru Sasaki composed for the Teacher’s Union at this time.

 I want to make a sidenote here. There was an article in the newspaper on October 23 in 1996. Onjuku (Chiba Pref.) seashore which is known as the area   connected to the desert of Tsukino Sabaku is in ecological trouble due to the excrement of dog and dumping of garbage. I believe action must be taken to preserve this beautiful strip of nature.

  Notes

 (1) This was the democracy movement of the Taisho Era (1912~1926). Democratic thinking spread in this time.

  (2) This was the big earthquake that hit the Kanto district September 1st in 1923. The death toll was about 150.000 people.(no2769)

 *picture:  Suguru Sasaki

 

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高砂市を歩く(191) 地蔵盆幻想

2015-04-20 09:30:44 |  ・高砂市阿弥陀町

 阿弥陀町魚橋は、石の宝殿に近く石財が豊富でした。そして、近在には多くのすぐれた石工がいたようです。たくさんの石仏が残されています。

 先日、およそ50年ぶりに魚橋山の「祇園さん」に寄りました。写真のお地蔵さんの撮影のためです。

 祇園さん(八坂神社)のすぐ西の階段の突き当たりの所にある地蔵さんです。

 でも、今日のブログは、石仏の話ではありません。

     地蔵盆幻想

  少し余話をさせてください。

 魚橋は、母の故郷でした。

 そのため、夏休みの半分ほどは魚橋のおばあちゃんの家で過ごしました。

 8月24日の地蔵盆は、とりわけ思い出が残っています。

 この地区では、地区のお地蔵さんを子どもたちが、大人の手を借りずにお祀りをする習慣がありました。

 地蔵さんの数が多いので、多くの地区に分かれて男女別にお地蔵さんを担当しました。

 私もある地蔵さんを担当した地区の子供会に入れてもらいました。

 当時、中学生が頭(かしら・リーダー)・小頭(こがしら・副リーダー)等になり、地蔵盆を担当しました。

 まず、各家をまわって寄付にまわります。「**さんの地蔵さんに参ってんか・・・」と言うと、どの家からも10円か20円の寄付がありました。お店をまわると50円の寄付がありました。

 それで、お菓子等を買って8月24日、お地蔵さんに供えます。

 もちろん、数日前から頭の指導で、地蔵さんのまわりの掃除をしまいた。

 ササもまわりに立てかけました。

 当日の夜は家族の者がそろってのお参りがありました。

 翌日、午前中は片付けです。昼は頭(リーダー)の家に集まり、お母さんたちがカレー等を作ってくれ、お供えをみんなで分けました。

 そして、地蔵盆の行事は終わります。

 すっかり、静かになったお地蔵さんの辺りには、真っ赤なトンボが飛んでいました。

 地蔵盆が終わると夏休みももうすぐ終わります。宿題が気になったことも思い出です。

 こんな子どもの行事も最近なくなったようです。

 おじぞうさん!さびしいね・・・!(no2768)

 *写真:祇園さんのお地蔵さんたち(この地蔵は、女の子の担当でした)

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高砂市を歩く(190) 上部用水と「あさがら池」(2)

2015-04-19 10:46:53 |  ・高砂市阿弥陀町

   上部用水と「あさがら池」(2)

 「高砂を歩く(188)・魚橋山狭」の復習です。

 ・・・地蔵山の北で山塊はいったん切れ、約200メートルのほどの低地となっています。そして、その北に魚橋集落にそって魚橋山が立ちはだかります。

 古代から播磨平野の南部(中心部)を行くには、この魚橋山狭を通過しなければなりません。この山狭部に山陽道が走りました。

 山陽道は、江戸時代に脇街道・西国街道となりましたが、日本の最も大切な道としての役割は続きます。

 明治時代に至り、魚橋山狭にJRが建設されました。さらに、新しく国道二号線が建設されました。

 さらに、さらに現在は、姫路バイパスがはしり、高砂西ランプが設けられました・・・」

     水は魚橋山狭を流れる

  この魚橋山狭は、東西を結ぶ重要な交通路としての役割だけではありません。

 魚橋集落の西の端に「海老山」(写真)という小さな山塊があります。この海老山には次のような伝承があります。

 ・・・昔、加古川が氾濫すると、この海老山の麓まで川の水が流れてきて、そのたびに多くの海老(えび)がはねていたので、このような山名が付けられた・・・

 つまり、加古川の氾濫した時などは、水は魚橋山狭を通過して「あさがら池」の地にまで押し寄せたようです。

 上部用水は、魚橋山狭の少し低いところを流れています。

 集落は、魚橋山の麓の少し高いところに、へばりくように東西に繋がっています。

    サイフォンで

 なお、魚橋集落と神爪集落(高砂市米田町)の間に法華山谷川が流れています。

 東の神爪の方から流れてきた上部用水は法華山谷川にぶつかります。上部用水はこの所で法華山谷川の下に潜り込んでいます。

 サイフォンの技術が使われています。(no2767)

 *写真:海老山(魚橋西の歩道橋から撮影・写真の右の道が旧西国街道)

   

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高砂市を歩く(189) 上部用水と「あさがら池」(1)

2015-04-18 08:22:23 |  ・高砂市阿弥陀町

  上部用水と「あさがら池」(その1)

 『播磨風土記』の「池の原」の記述を口語訳で読むことにします。

 「・・・山の西に原があります。名は池の原と言います。池の原の名のいわれは、原の中に池があります。故に(ゆえに)、池の原と言います。・・・

 この池のあった場所は、現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりのようで、記録によると、中世では伊保荘の用水池として残っていたようです。

  北池村・南池村は、「あさがら池」を埋め立てた新田

 時代を下ります。慶長10年(1605)は、池田輝政が高砂築城を開始した時期です。

 輝政は、姫路藩の治水・灌慨のための土木工事を行って、農業生産力の増大を図っています。

 加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。

 升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町)で加古川から取水し、神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至る本流と、神吉村から分流して米田村、塩市村から流れる支流があり、印南郡村々へ農業用水を供給しました。

 北池村・南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたのでしょう。

 不安定な溜池に依存していた地域は、上部井用水で安定して灌漑ができるようになりました。

 「あさから池」の名は、池は浅く、日照りですぐ枯れる池の意でした。

 この地域は、「あさがら池」からの灌漑を上部井用水による灌漑に切り替えるとともに阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。(no2766)

 *『高砂市史(第二巻・通史近世編)』、『上部井土地改良区誌』(上部土地改良区誌編さん委員会)参照

 *上部用水(魚橋・姫路バイパス出口付近)

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