ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

「ひろかずのブログ」をお読みいただきありがとうございました

2015-12-29 09:06:12 |  ・コーヒーブレイク・余話

     「ひろかずのブログ」をお読みいただき

                     ありがとうございました

  今年も、あと2日となりました。

 皆さんのこの1年は、いかがでしたでしょうか。

 ことし「ひろかずのブログ」は、特に稲美町の『入ヶ池物語』を書いたことが印象的でした。

 そのほか、高砂市をずいぶん歩きました。

 もちろん問題点もたくさんありそうですが、高砂市を好きになれそうです。

 おかげで、大きな事故もなく「ひろかずのブログ」は、今日も含めて3071号をかぞえました。

 自分ながら、この数字に驚いています。

 でも、少しマンネリになっていますので、いま、ひそかに来年の新しい企画をたくらんでいます。

 3月頃から始める計画です。内容は秘密で~す。

 

   ≪お知らせ≫

 「ひろかずのブログ」は、少しの間お休みにします。

 新年は、1月5日(火)から再開しますので、お付き合いください。

 よろしくお願いします。

 *写真は、工楽松右衛門(くらくまつえもん:高砂出身)です。

 松右衛門は、たまらなく好きな人物です。来年度は、彼を紹介して地域を大きく盛り上げましょうか。(no3071)

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神吉頼経の石垣(4)  石垣は、神吉頼経の遺構

2015-12-28 09:54:49 |  ・加古川市西神吉町

       石垣は、神吉頼経の遺構

 社務所で、神主さんと石垣のお話をしている時です。

 Kさんの、「アッ」という声です。

 なんと、社務所の入り口の壁に「石垣の拓本」が掛かっているあではありませんか。

 神主さんに尋ねると、「ずいぶん昔からかかっています。でも、何が書いてあるか知りませんでした」ということです。

 だいぶ以前にとられた拓本らしく、文字もはっきりして、次のように読めます。

     此石垣天文年中神吉城主

     中務少輔神吉頼経公之所築

     也恐後世失願主之名茲記之

 ≪意 味≫   

 この石垣は、天文(てんぶん)のころ、神吉城主の中務少輔、神吉頼経公が築造したものです。

 後世、そのことが失われるのを恐れて(心配して)ここに、その名を記しておきます。

     めざめた石垣の文字

 この石垣の文字は、以前に知られていたのでしょうが、人が入りにくい場所にあり、その上に松葉などが落ち、文字を隠し、やがて人々の記憶から消えていったのでしょう。

 それが、時々見つかっては忘れられることを繰り返し、今に至っているようです。

 ともかくも、現在この文字は、ほとんど知られることなく、眠っていました。

 それが、おじいさんの話から目覚めたのです。

 またまた偶然です。

 この垣根は、改築の話が出ています。あやうく、失われる運命でした。

 このタイミングで、この石垣の文字が顔を出したのは、きっと「神吉八幡さんのお告げ」だったのでしょう。

 今日は、1228日。今年もあと3日。初もうでは、孫と一緒に神吉八幡宮へ出かけることにします。(no3070

 *写真:石垣の文字のある拓本

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神吉頼経の石垣(3) 頼経は頼定の父

2015-12-28 08:44:04 |  ・加古川市西神吉町

  話はスムーズに動いていません。奇跡の話は次回になります。

 ここで、神吉城主(46代)を紹介しておきます。

   神吉頼定(神吉城の戦い当時の城主)は、信烈の弟

 四代、神吉頼経(よりつね)

   天文12年(1543)~元亀元年(1570 27年間

 五代 神吉信烈(のぶつよ) 

   元亀元年(1570)~天正3年(1575) 6年間

 六代 神吉頼定(よりさだ) 

   天正3年(1575)~天正6年(1578) 3年間

 4代・神吉頼経の時代、神吉の里はまだ波騒ぐこともなく平和でした。

 5代・信烈は頼経の長男であり、ころから信長の播磨への侵略の足音が聞こえてきました。彼は、在位6年で病死します。

 そのあとを継いだのが弟の6代・頼定です。

 天正6年、信長の長男・信忠を大将にして30000の兵が神吉城へ攻め寄せました。

 その時、守る神吉郡は約2000の兵で、なんと約15分の1で勇敢に戦いました。

 頼定は信長軍の神吉城攻撃で、壮烈な死を遂げ、神吉城は109年の歴史は終わりを告げました。

 神吉条の攻防につては「ひろかずのブログ(加古川、お城物語)をご覧ください。

 この神吉城攻撃のとき、神吉八幡社は、敵将織田信忠の陣地となりました。

 (*本陣は神吉山)

 ですから、敵将の滝川一益・筒井順慶・荒木村重等の名だたる武将が八幡社へ出向いてきたと想像されます。

 話が、神吉戦に深入りしそうです。

 話を、神吉頼経へ戻します。(no3069

 *写真:神吉八幡社(1227日撮影)

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神吉頼経の石垣(2) 石垣が呼んでいる

2015-12-27 09:36:17 |  ・加古川市西神吉町

     真宗寺(東神吉町神吉)でのできごと

 NHKドラマ「官兵衛」の大ファンのKさんご夫妻(高砂市在住)のお話です。

 ・・・・・・

 秋のある日の午後でした。

 場所は、神吉町の真宗寺の裏手で、おじいさんとお嬢さんが楽し気に話をしておられました。

 Kさんご夫妻に、その内容が聞こえてきました。

 神吉城の戦いの話をしておられたんです。

 

 さっそく、Kさんご夫妻は、話に加わられました。

 そうすると、おじいさんは少し話題を変えて、いろいろと話してくださいました。

 宮前(加古川市西神吉町)の八幡さんの石垣に「むかし、神吉城の戦いのときの城主・神吉頼定のお父さんが八幡さんの石垣を造った時に刻んだ石垣を見つけたが、だれも取り上げられていないのは残念です・・・」と言われました。

 おじいさんとひとしきり話をして、Kさんご夫妻は、その足で八幡さんへ向かわれました。

     石垣の文字が呼んでいる!

 聞いた場所に石垣はあるのですが、肝心の文字らしいものを刻んだ石は、なかなか見つかりません。

 石垣にかぶさった松葉をのけると、その時です。不思議やふしぎ、目的の文字が突然あらわれました。

 石がKさんを呼んでいるようでした。

 さっそく、読み始められたのですが、欠けた文字もありその日は、はっきりと分からないまま帰られました。

 その後、私のところに電話があり、12月の中頃、Kさんと再調査に出かけました。

 やはり、だいたいは読めたのですが、欠けたところがあり完全には読めません。

 その日は、神主さんに連絡していたので、神主さんも一緒でした。その後、社務所へ寄せていただきました。

 そこで、奇跡はおきました。(no3068

 *写真:神吉頼経の建造を記す石垣

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神吉頼経の石垣(1) 神吉八幡神社

2015-12-27 09:22:19 |  ・加古川市西神吉町

 神吉八幡宮の石垣に、いがいなもの(貴重なもの)が見つかりました。

 それを、説明したいのですが、その前に「神吉八幡宮」について、少し紹介しておきます。

      神吉八幡宮

 神吉八幡神社(写真)は、宮山(西神吉町)に堂々と鎮座しています。

 神吉八幡神社の伝承(由緒)を紹介しましょう。

 ・・・・応永3年(1396)9月23日の夜、一筋の神火が天下原(あまがはら・加古川市東神吉町)におちました。

 辺りは真昼のように明るくなり、村人は驚きました。

 村人は、「これは八幡神の化身の降臨にちがいない」と考え、近くの大国の里に祠を建て神吉ノ庄の氏神としました・・・・

 これが神吉八幡社の始まりの伝承(由緒)です。

 一説によると、この神吉八幡神社は嘉吉の乱(1441)時焼き討ちにあい社殿などが消失しました。

 その後、現在の宮山に社殿を移し上宮(かみのみや)とし、大国村の八幡社を下宮(しものみや)としました。

 この時に神吉八幡社の神事・渡御式(とぎょしき)がはじまりました。(*渡御式の説明は紙面の都合で省略します)

 神吉八幡宮の受難は、さらに続きました。

 寛永9年(1632)、雷のために社殿・宝物・古文書等がことごとく灰になった。その後、仮の社殿が造られ、天和3年(1683)新しい社殿が完成しました。

 これが現在の八幡宮です。

 慶長年間(1596~1614)、神社は八幡神社の境内にある妙見大明神社として城主に届けられました。

そのため、江戸時代を通じて妙見大明神と呼ばれましたが、届出の理由は分かりません。

 明治4年(1871)、妙見大明神の名は改められ、元の八幡神社と名のるようになり現在にいたっています。(no3067)

 *写真:神吉八幡宮(西神吉町宮前)

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わたの里通信誌(40) お知らせ

2015-12-26 09:53:48 | わたの里通信誌

    お知らせ

 「わたの里通信誌(「稲岡工業株式会社」(保存会)」は、現在「ひろかずのブログ」と、同時に同じ内容で発行してきました。

 というのは、新しいブログは最初のうちは、なかなかアクセスがないためです。

 「ひろかずのブログ」は、さいわい一日に1500~2000のアクセスがありますので、それを利用しました。

 このあたりで、「わたの里通信誌(保存会)」(http://blog.goo.ne.jp/watanosato)を独自のブログとして独立させ、内容を充実させたいと思います。

 引き続き、よろしくお願いします。

 もちろん、「ひろかずのブログ」からも、アクセスできるようにしておきます。

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わたの里通信誌(39) わたの里物語(15)・ 紺屋さんの型紙発見

2015-12-26 08:11:49 | わたの里通信誌

   紺屋さんの型紙発見

       二俣(平岡村)の紺屋さん

 「平岡村二俣(現:平岡町二俣)は、商業のさかんな集落」で、明治20年ごろの二俣の商人の名の記録がありあます。

 その中に、「紺屋職・坂田栄太郎」がみられます。

 この紺屋さんの坂田栄太郎は、現在の坂田保孝さんのご先祖です。

 二俣町内会のHP(平成21年5月3日)に、坂田保孝さん宅から発見された藍染の型紙について、まとめておられますので、その記事をお借りします。

    ◇平岡町二俣町内会HPより◇

▼一昨年(2007年)3月に二俣の坂田保孝さん宅(一般に「紺屋さん」と呼ばれているお家)で、土蔵の解体中に700枚の藍染の型紙が発見された。

▼その内の一枚に、将棋の駒柄があり、徳島の業者で伝統的な藍染手法で再現され、本年(2009)11月に加古川市が行う「将棋の日のイベント」の記念品として使用される予定です。

*2009年11月の「将棋の日のイベント」に使用されました。

▼和紙3枚を渋柿で張り合わせた型紙や二枚以上の型紙で一つの柄を染める追掛型も多数あり、本年の春先に浴衣用連続染めも再現されております。(3066)                               

*写真は、いずれも発見された藍染の型紙の一部

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わたの里通信誌(38) わたの里物語(14)・松右衛門帆

2015-12-25 08:56:34 | わたの里通信誌

      松右衛門帆

 松右衛門は、新しい帆を発明しました。

 近世初期の帆はムシロ帆であり、17世紀後半に木綿の国産化により木綿帆が普及し船に利用されました。

 しかし、18世紀末までは厚い帆布を織ることができなかったので、強度を増すために、二・三枚重ねて太いサシ糸でさして、縫い合わせた剃帆(さしほ)でした。縫合に時間と労力が必要であり、それでも強度不足により破れやすいものでした。

    帆の改良

 「帆を改良しよう」と松右衛門が思いたったのは、中年をすぎてからのことです。

 かれは、幾度か試行錯誤をしたらしいが、「木綿布を畿枚も張りあわせるより、はじめから布を帆用に織ればよいではないか」と思い、綿布の織りをほぐしては織りの研究からはじめ、ついに太い糸を撚(よ)ることに成功しました。

 縦糸・横糸ともに直径一ミリ以上もあるほどの太い糸で、これをさらに撚り、新考案の織機(はた)にかけて織りました。

 帆として保ちがよく、水切りもよく、性能はさし帆の及ぶところではありませんでした。

 かれのこの「織帆」の発明は、天明二年(1782)とも三年ともいわれる.

 この帆は、ふつう単に「松右衛門」とよばれました。

 さし帆より1.5倍ほど値が高かったが、たちまち船の世界を席捲(せっけん)しました。

 わずか7、8年のあいだに湊にうかぶ大船はことごとく松右衛門帆を用いたのです。(no3065)

 *写真:松右衛門帆で進む北前船

 

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わたの里通信誌(37) わたの里物語(13)・幻の高砂染

2015-12-24 08:14:32 | わたの里通信誌

  旧加古郡・印南郡(東郷地域)は、「わたの里」でした。

 ここで、わたに関する話題を3つばかり紹介しておきましょう。

 今回は、「高砂染」です、

   尾崎庄兵衛、「高砂染」をはじめる

 「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。

 『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。

 たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。

 庄兵衛は、日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすすめました。それは、紋様が鮮やかで見事な出来栄えでした。

 そこで、輝政は庄兵衛を姫路に出府させ、これをつくらせて、「おぼろ染」と名づけました。

 当時、この「おぼろ染」は輝政の紹介もあって諸藩士、業界に用いられ、庄兵衛はその用達に努めました。

 後年、高砂の自邸でその業を営み「高砂染」と改称し、以来これを家業として高砂染は高砂の名産となりました・・・」(高砂雑志)より

  現在、布等は残っていません。紙型は明治末頃に一度整理し、なお、40~50枚残っていたが、戦時中に防空壕に入れたり出したりしているうちになくなってしまったといわれています。 (no3064)

 *『姫路美術工芸館紀要3』(山本和人論文)参照

 *写真:復元された高砂染め着物(姫路美術工芸館蔵)

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わたの里通信誌(36) わたの里物語(12)・一ツ橋領の木綿仲間

2015-12-23 09:40:50 | わたの里通信誌

 一ツ橋領の木綿仲間と姫路藩の専売制度

 江戸時代、現在の東志方町のほとんどは、一ツ橋領(天領)でした。

 一部すでに学習したところと重なりますが、復習をしておきます。

 加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。

 姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されています。

 一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋を通して行われたのです。

 姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。

 藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。

 規格外の商品もできてしまいます。しかし、「規格外の商品は、江戸積みとして認めない」というのです。

 藩主・酒井忠道(ただひろ)の文化五年(1808)、藩には73万石の借財があり、家老の河合寸翁は、播磨地方が木綿の産地であることに着目して、綿布の姫路藩の専売にしました。

 綿密な調査・江戸問屋や幕府役人への説得により、文政六年(1823)江戸への木綿専売が幕府に認められました。

 これは、「藩主・忠学(ただひろ)の妻・喜代姫(きよひめ)が将軍・家斉(いえなり)の娘であったためでもあった」ともいわれています。

 ともかく、姫路綿の江戸での販売は好調で、藩の借金は、短期間に返済し終えることができました。

   一ツ橋領は、姫路藩にあらず

 一方、規格外の商品の大坂への積み出しも増えました。

 藩は、規格を守るように取締りを強めたのですが、取り締まれない事情があったのです。

 印南郡の一部は、一ツ橋領(天領)で姫路藩ではありません。

 姫路藩としても、一ツ橋領の取り締まりはできません。

 そんな事情で、一ツ橋藩の商人は姫路藩では認められない綿布なども取り扱ったのです。

 とりわけ、細工所の木綿商人より、今市・中島・曾根(現:高砂市)の村々の木綿商人にこの傾向は大きく、彼らはひと儲けをしたというわけです。(no3063)

 *地図:延享4年(1747)一橋徳川領(『加古川市史・第二巻』より)

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わたの里通信誌(35) わたの里物語(11)・長束木綿問屋・坂田藤蔵家

2015-12-22 09:40:17 | わたの里通信誌

  長束木綿問屋・坂田藤蔵家

 長束木綿(ながそくもめん)問屋の集荷の反数をみてみましょう。

 『加古川市史(第二巻)』は、天保11(1840)~弘化3(1846)の間の木綿問屋名と取引反数をまとめています。

    坂田藤蔵家

 姫路藩最大の長束木綿問屋

 30軒の木綿問屋のうち坂田藤蔵家の6年間の取引反数は649,039反であり、二位以下を大きく引き離しています。

 *詳細については『加古川市史 (第二巻)』p590をご覧ください。

 坂田藤蔵家の取引量は、なんと全体の15.50%を占めていました。

まさに、坂田藤蔵家は、姫路藩の木綿の専売制度をささえた木綿問屋の大黒柱でした。

また、『加古川市史(第二巻)』は、二俣の木綿問屋、坂田藤蔵・坂田最一兵衛を紹介しているので、抜粋させていただきます。(一部文章を変えています)

 「・・・最大の木綿()取扱量をみせる坂田藤蔵は、加古郡二俣村(現:平岡町二俣)の有力問屋で、本家の最一兵衛家はここではわずか6,720反の取扱量にとどまっているが、分家である藤蔵のほうは長束問屋全体の15%以上の木綿を取り扱う最大の長束問屋に成長している。

 坂田家は、長束仕法(販売の取り決め)の成立後、本家・分家ともに長束取締に就任しており、特に藤蔵家のほうは、大坂に出店を有し、幕末の文久三年(1863)には大坂積代銀の為替取扱方を藩から命じられている・・」

 また、二俣町内会のHPに、次のような説明があります。一部をお借りします。

 ・・・(坂田家は)戦前までは一般に「木綿屋さん」と呼ばれていた。・・また、坂田家は戦前までは二俣の大地主であったが、戦後GHQの農地改革で、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡されています。

 そして、(藤蔵の)住居は二俣町内会が購入し、現在「二俣公会堂」(写真)として利用している。

 *写真:二股公会堂(元、坂田藤蔵家)、(no3062) 

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わたの里通信誌(34) わたの里物語(10)・木綿問屋

2015-12-21 08:44:08 | わたの里通信誌

   木 綿 問 屋

 長束木綿(ながそくもめん)の復習です。

 長束木綿とは、加古川地方(加古郡・印南郡)で生産される綿のことです。

 文政年間から姫路藩は、木綿の専売制度では藩の特産物として重要な位置を占めていました。木綿の生産の中心地は加古川地域でした。

 ですから、姫路木綿の歴史は、加古川地方の歴史としてとらえることができます。

   木綿問屋:坂田藤蔵・坂田最一兵衛

 図は天保7年(1836)、姫路藩の大阪や江戸積問屋へ売り渡す長束木綿の生産地問屋の所在を表しています。

 当然の事ながら木綿問屋は加古郡・印南郡内に位置しています。

中でもその大半が、現在の加古川市域に含まれています。

 木綿を生産した農民は糸にし、また反物に織りあげました。

 木綿商人が、それを買い集め、生産地問屋から、江戸積問屋や大坂積問屋へ売り渡されました。

 図の10・11の木綿問屋に注目してください。

 10の木綿問屋は二俣の坂田最一兵衛で、11は二俣の坂田藤蔵です。

 これら木綿問屋の内でも、二俣の藤蔵はどの木綿商よりもとびぬけて多くの木綿を扱う大商人でした。

 坂田藤蔵・坂田最一兵衛の活躍をさらにみてみましょう。

 *図:加古『加古川市史(第二巻)』より(no3061)

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わたの里通信誌(33) わたの里物語(9)・尾上の綿作

2015-12-20 09:06:35 | わたの里通信誌

 以前、ブログで「尾上の綿作」の記事を取り上げています。

 「綿の里通信使誌」の続きとして、重なる内容がありますが載せておきます。

        尾上の綿作

 江戸時代、大阪や江戸の巨大都市が生まれました。

また、交通も発達し商品流通は盛んになりました。

 江戸時代の後半、綿花は商品として大規模に栽培されるようになりました。

 特に姫路藩は、財政改善の切り札として綿作を藩の専売として奨励しました。

 姫路木綿は品質がよく、江戸で大好評を得ました。

  この姫路木綿の原料の綿の多くは、加古川地方で栽培されています。

 中でも、尾上では綿作が盛んで、池田村(加古川市尾上町)と養田村(ようたむら)にその状況をみると、安政4年(1857)池田村では、畑作の中で綿作の占める割合が86%で、養田では73%にも及んでいます。

 全田畑では池田村は66.8%、養田村は63.8%とずいぶん綿作が盛んでした。

 秋には、真っ白い綿花の風景が一面に広がっていたことでしょう。

 明治9年、尾上に3小学校(後に統合して尾上小学校になる)が設置されましたが、そのうちの一つは、池田の観音寺に置かれた「綿里小学校」です。

 校名は、綿作が盛んであったことを語っています。(no3060)

*挿絵:綿の実

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わたの里通信誌(32) わたの里物語(8)・干鰯仲間

2015-12-19 07:39:19 | わたの里通信誌

  加古・印南郡では綿作が盛んで、そのためにその肥料である干鰯(ほしか)について触れておきます。

     干鰯(ほしか)仲間

 写真の高砂神社の玉垣(写真)をご覧ください。

 数多くの玉垣に、「干鰯仲」と刻まれています。

 その下に、欠落していますが、仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。

 ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。

 干鰯は、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料です。

 干鰯は、特に綿作の肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。

 とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。

 なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。

 そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。

 明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められています。

 当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあったといいます。

 伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿の作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%でした。(no3059)

 *写真:「干鰯仲(間)」と刻まれている高砂神社の玉垣。

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わたの里通信誌(31) わたの里物語(7)・飾磨の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積

2015-12-18 08:25:24 | わたの里通信誌

 飾磨・城下の木綿問屋は江戸積、高砂は大坂積

 長束木綿の大坂積の統制が強まったのは、天保7年(1836)のことです。

 木綿問屋・仲買を強力に専売制下に組みいれたためです。

 その結果、姫路木綿の生産地である加古・印南両郡の長束木綿問屋は30数軒に制限され、大坂積も大幅に制限され、大部分は飾磨津の江戸積仲間の手で江戸に送られました。

 弘化4年(1847)の長束江戸積仕法の改定により、大坂積はさらに制限は強められ、別府・寺家町(現:加古川市)、それに高砂に限定されました。

    木綿販売、 高砂の木綿問屋は完敗

 この弘化4年の改定により、大坂積の数量は激減することになります。

 嘉永2年(1849)の長束木綿総取扱高は76万反ですが、そのうち、江戸積は60万反、大坂積は、約16万反に過ぎませんでした。

 これは、専売制を利用した姫路城下、飾磨の江戸積仲間と競合で、高砂の大坂積問屋は完敗となりました

 高砂の岸本吉兵衛も大坂積をみかぎり、江戸積仲間に加わりました。

 長束木綿問屋は姫路・飾磨の江戸積仲間の支配下に組み入れられたため、高砂問屋は木綿の生産地が、地元の加古川・高砂地方に関わらず集荷が困難になりました。

 その後、江戸積木綿は江戸市場の需要の限界と根強い大坂商人の巻き返しがありましたが、かつての繁栄は回復できませんでした。(no3058)

 *写真:姫路市飾磨天神に残る古い町並み(HPより)

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