ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川の味、かつめし(6) 陣内さん、インターネットで 「かつめし」を紹介中

2017-07-31 12:58:46 | 加古川の味、かつめし

 

 (2017年)3月25日の神戸新聞は「加古川市 ツッコミで一役 陣内さんと登場」のタイトルで、かつめしを紹介しています。

 詳しくは、インターネットをご覧ください。

    陣内さん、インターネットで

                  「かつめし」を紹介中

 加古川市は、ご当地グルメ「かつめし」をPRするため同市出身のお笑いタレント陣内智則さんの出演する新たな動画を作った。

 陣内さんは同市が制作したかつめしの映像に「ツッコミ」を入れるという定番のネタを披露している。

 (3月)22日のインターネット動画サイト、「ユーチューブ」で公開が始まった。(no3673)

 (切貫滋巨・神戸新聞より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(37) 申義堂(12)・岸本家、姫路藩の御用商人も務める

2017-07-31 09:40:44 | 江戸時代、高砂の商業活動

     岸本家・姫路藩の御用商人も務める

 話は高砂に戻ります。

 申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
 大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
 岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。

 高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。

 岸本家は、三代で、その基礎が確立し、資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
 そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
 また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。

 姫路藩には多額の収入が入るようになり藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
 この時、岸本家は、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
 岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をしました。
 それに対し、姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
 高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。(no3672)
 *『播州高砂岸本家の研究(工藤恭孝)』(ジュンク堂書店)参照
 *絵:三代岸本博高肖像(長沢蘆洲筆) 

 ◇きのう(7/30)の散歩(12.026歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(5) かっつんとデミちゃんは9歳

2017-07-30 23:21:16 | 加古川の味、かつめし

       かっつんとデミちゃんは9歳

 私たち(写真)は、かっつんとデミ―ちゃんです。

 平成20年(2008)、兵庫大学短期大学美術デザイン学科の学生さんたちにより誕生しました。

 その翌年の平成21年(2009)にはベルデモール商店街にかっつんとデミ―ちゃんの石像も造られ華やかにデビューをしました。

 以来、9年が経ち、この間に、「かつめし」もずいぶん広く知られるようになりました。私たち(かっつんとデミーちゃん)の活躍もあったのでは・・・

 でも、私たちの像もベルデモールの商店街ですっかり定着し、普通の風景になってしまったのか、最近では道行く人はあまり振り向いてくれないようです。

 少し寂しいんですね。

 振り向いていただけない理由がもう一つあるんです。

 その理由ですか。

 そうですね。9年の間に色が少しあせて、元気さがなくなっているように感じられます。

 このあたりで、お色直し(お化粧)をしていただけませんか。

 そうしましたら、もっと「おいしい、美味しいかつめしはいかがですか」と呼びかけますよ。(no3671)

 *写真:かっつんとデミーちゃん

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(4) 店によっても違う、たれ&カツへのこだわり!

2017-07-30 11:18:08 | 加古川の味、かつめし

   店によっても違う、たれ&カツへのこだわり!

 かつめしを特徴づけるのは、なんといっても独特のたれ。

 BAN-BANテレピ「かつめしあがれ」でも「甘味・酸味・コク・粘り」の4要素によって各店舗の個性が表現されると言っているように、ひと口にデミグラスソース風といっても、それぞれお店によって異なるこだわりが表れています。

 かつめしのカツといえば、牛力ツです。

 牛肉も、加古川市の特産品である加古川和牛を使用したものから、国産牛、外国産牛など様々。

 また、肉の部位によっても味と値段が異なり、各店舗の個性を決めるポイントでもあります。

 最近では、トンカツやチキンカツ、エビカツ、クジラ1カツなどを提供する店もあり、ブームとともにパリエーションも広がっています。

 しかし、生粋の加古川人にとっては、牛カツであることは譲れないこだわりのようです。(no3670)

 *本文『Kako-Style2』(p143より)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(36) 申義堂(11)・長谷川亀次郎のこと

2017-07-30 09:25:20 | 江戸時代、高砂の商業活動

     長谷川亀次郎のこと

 いまブログでは「西井ノ口に申義堂があった」ことを書いていますが、長谷川亀次郎については、他にほとんど紹介されていいません。

 亀次郎が「井之口小学校」を創立したことを称える、「旌徳碑(せいとくひ)」(写真)が井之口小学校跡にあります。
 西井ノ口の広報「にしいのくち(第100号)」に、この旌徳碑の碑文を現代文に直して紹介されているので読んでおきます。

     創設者・長谷川亀次郎の旌徳碑
 長谷川亀次郎君は、優れて気性が激しく、他の束縛を受けることなく自由闊達に行動する人物であった。
 物事を正しく判断する力に秀で、度量もたいへん大きい。
 普通の商家が努力して追つけるような器ではない。
 だから、君がなすところのことは、その前になし遂げた者はいない。
 今、君の実歴をここに列挙する。
 明治初年、君は、航海椎がすべて英国にあることを憤慨して、独力で安洋丸という汽船を造り、それによって我が航海権を再び取り返す。
 当時、天下に会社組織による商業は、ほとんど聞くことはなかった。
 君は、鋭意奮進して、有志を集めて物産会社を創立し、それによって商業の発達をはかった。
 君は、特に教育が振るわないことに感じ、千金を投じて井之口村に学校を新築した。
 当時、県下の学校の多くは人家をもつて代用し、一つとして見るに値するものはなかったが、君がその面目を改めた。
 それ以来、汽船は増加し、会社は競って学校を興して新築した。
 もとより、機運が熟していたといえども、君は率先してそれをやり遂げた。
 君は、維新前に金数十枚を旧姫路藩主・酒井侯に献じた。
 その他、多くの公事を手いっぱいに引き受け、ひどく多忙であったが、君は機敏に行動し、弁舌は実にさわやかであった。
 藩主は、感賞を惜しまず、大庄屋並に抜擢し、大庄屋並みの扱を受けた。
後に「藩士に準ずる」という。
 君は晩年、一年発起して仏門に帰依する。
 そして、井之口に説教所を設けた。

 (この説教所とは、高砂町から移設された申義堂のことです)
 ・・・(一部略)・・・ ああ悲しきかな、明治二十三年一月二十三日、病に罹り急逝す。
 享年五十二歳であった。法名を「釈浄修」という。
・・・・(一部略)・・・・ 明治三十七年六月(no3669)
 *写真:長谷川亀次郎の旌徳碑(場所は西井ノ口公会堂南側にある道路を東へ行くと三叉路となっています。旌徳碑は、その南西隅にあります)

  ◇きのう(7/29)の散歩(11.699歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(3) 誰もが認める加古川ご当地グルメ② ・かっつん、デミーちゃんも誕生

2017-07-29 10:16:14 | 加古川の味、かつめし

   誰もが認める加古川ご当地グルメ②

      かっつん、デミーちゃんも誕生

 前号の続きです。平成18年年(2006)4月にじけまち活性化委員会から「じけまちかつめし探検マップ」が、同年12月には加古川観光協会から「かつめしマッブ2006」が発行され、加盟店増加に合わせて現在まで改定が続いています。

 近年のB級グルメブームで、メディアでの露出度も増え、大手コンピニチェーン4社ではコンピニ弁当として商品化されました。

 そのパッケージにプリントされているのが、加古川かつめしPRキャラクター「かっつん」と「デミーちゃん」です。

 二人は平成20年(2008)、兵庫大学短期犬学郎美術デザイン学科Φ学生たちによって考案され、加古川かつめしを全国にPRサるという使命を持って誕生。

 平成21年(2009)にはベルデモール商店街に石像が、平成222010)年には着ぐるみが完成しています。

 また、B級グルメブームにのって全国的に加古川かつめしをPRしようと結威された団体「うまいでえ!加古川かつめしの会」が、平成252043)年に開催された「B1-グランプリ in TSUYAMA」出場し、6位入賞を果たしました。

 平成26年(2014)年には「兵庫ご当地グルメフェスティバル」の他、様々なイべントで好評を博すなど、加古川かつめしが全国に知られるようになりました。取材/田村俊行(no3668

 *『Kako—Style2』より

 *挿絵:加古川かつめしPRキャラクター(かっつんとデミーちゃん)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(35) 申義堂(10)・申義堂、西井ノ口へ移築 

2017-07-29 06:48:22 | 江戸時代、高砂の商業活動

       申義堂、西井ノ口へ移築 
 きょうのブログは想像が多く学問的ではありません。

 岸本家と長谷川家の関係を少し整理しておきます。
 ・岸本家の出身地は、大国村(現:西神吉町大国)で、長谷川家は(西)井ノ口村出身でともに近くです。
 ・大国村の岸本家も井の口村の長谷川家も綿屋でした。
 ・高砂における岸本家と長谷川家は近所に位置しています。
 ・両家は江戸時代、高砂町の町役として活躍をしています。
 ・「長谷川亀次郎を偲ぶ」によれば、亀次郎の妻・うのは、岸本家から嫁いでいます。
 とにかく、長谷川家と岸本家は深い関係にあったようです。
 このことを踏まえて、少し、想像みました。従って以下は記録によるものではありません。皆さんはどう思われますか。
    
ある日の会話
 「亀次郎さん、相談に乗ってもらえませんか」
 「岸本さんのいわれることです。出来ることでしたらなんなりと・・・」
 「実は、説教所(申義堂)のことやけど、あの場所に新しい警察署がつくられるので、立ちのかなあかんのや。どうしたものやろか・・・
 説教所を閉めるのはおしいし・・・
 近所で新しい場所というても、物入りでね。
(こんな話が幾日も続きました。ある日のことでした)
 「岸本はん、例の件ですが私(亀次郎)に任せてもらえませんか。私もずいぶん考えました。
 出しょうの(西)井ノ口村に移してもらえませんやろか。費用の方は私の方でなんとかします。
 「そこ(井の口村)で、説教所をつくりたいんです」「井ノ口村では弟の新蔵は、村役をしております。そして、新宅をしました庄蔵は手広く綿問屋を営んでおりました。多少の蓄えはあります。
 私も、高砂の町で、いささか蓄えさせてもらいました。
 話はトントン調子に進み、高砂町の説教所(申義堂)は、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロ村によみがえったのです。
 こうして、申義堂は、昭和7・8年ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
 それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年4月でした。(no3667)
 *写真:西井ノ口にあった申義堂

 ◇きのう(7/28)の散歩(11.252 歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(2)・誰もが認める加古川ご当地グルメ①

2017-07-28 15:51:15 | 加古川の味、かつめし

 「かつめし」について、まとめようと、とりあえず「加古川の味、かつめし」をスタートさせました。

 はじめたものの紹介する材料がありません。

  でも、とりあえず分かったことを資料として不定期便で紹介します。

 ある程度まとまった段階で、文体・内容等を書き改めたいと考えています。

 今回と次回は、「カツメシ」について『KakoStyle2』で田村俊行さんが紹介されている記事をお借りします。

 なお、かつめしに関する知識、思い出、レシピ等々をお知らせください。

  誰もが認める加古川ご当地グルメ!カツメシ 

 加古川の名物料理の代表といえば「加古川かつめし」です。

 平皿にご飯を盛り、その上に牛力ツをのせて、たっぷりのデミグラスソース系のたれをかけ、ご飯の横にはボイルしたキャベツを添えて。

 なぜかお箸で食べる、このちょっと不思議で洒落たご当地グルメですが、その発祥は戦後間もない頃、加古川駅前の洋食店で考案されたものだといわれています。

 誕生から50年以上が経過した理在、加古川市内で加古川かつめしを提供する店鋪は150店を超えました。

 学校給金や学生食堂のメニューにもなり、市内のコンピニでは、コンピニ弁当や専用のタレも販売されるほど、加古川市民にとってのソウルフードとして愛されているのです。

 戦後から加古川市民の間では秘かに親しまれてきた「加古川かつめし」ですが、市外にも知られるようになったのは、平成9年(1997)に関西のローカルテレピ番組で紹介されたことがきっかけです。

 その後、平成11年(1999)に東播磨かつめし連盟が結成され、かつめし愛好家(カツメシアン)たちの活動が活発になりました。(no3666

 *KakoStyle2』より

 *写真:かつめし

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(34) 申義堂(9)・長谷川亀次郎ってwho?

2017-07-28 10:19:05 | 江戸時代、高砂の商業活動

    長谷川亀次郎ってwho?

 先に、「申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました」と紹介しました。
 「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。
 「なぜ、申義堂を西井ノ口村へ移築したか」という疑問の前に、この事件にかかわる重要な人物として長谷川亀次郎が登場します。
 長谷川亀次郎が突然登場しますので、長谷川家文書より、亀次郎について少し紹介しておきます。
    
<長谷川亀次郎、年表>
 天保9年(1838)  西井ノ口村に生まれる。
   ?年        高砂へ進出。 
 安永6年(1859)   名字帯刀を許される。
 文政元年(1861)   大判27枚を献上 大庄屋並びに五人扶持になる。
   <江戸幕府崩壊>
 明治2年(1869)  調達金・木綿代金を多く納める。 
 明治3年(1870)  軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。
             蒸気船安洋丸をつくり、大坂~高砂を航海する。  
 明治5年(1872)  高砂南本町に物産会社をつくる。
             姫路と三日月町で鉱石の精錬会社を設立。
 明治6年(1873)  高砂・飾磨・船場の姫路藩蔵の御蔵米取り扱い方に任ぜられる。             
            印南郡に西井ノ口村に学校を新築。福崎町で石灰製造を行う。
 明治12年(1879) 申義堂を西井ノ口に移築

   明治22年(1889)  死亡、戒名は釈浄脩
              以下省略、また学校設立に貢献しました。

 亀次郎については、史料がすくなく、はっきとしませんが、晩年は仏教に帰依しました。
 彼は、特に教育の分野で大きな足跡を残しています。
 実業家・長谷川亀次郎の足跡を「申義堂の西井ノ口村への移転」と「学校の設立」に注目して、さらに彼の足跡をたどることにしましょう。(no3665)
 *挿絵:長谷川亀次郎

 ◇きのう(7/27)の散歩(11.166歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(33) 申義堂(8)・申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由①

2017-07-27 07:51:12 | 江戸時代、高砂の商業活動

      申義堂が西井ノ口(加古川市)にあった理由

  西井ノ口(東神吉町)の柴田育克(しばたいくよし)さんの研究による『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』(写真)という冊子をいただきました。

  知っていただきたい内容が満載です。

 内容は、「申義堂について」『高砂市史(第二巻)』が「申義堂のその後」と簡単に書いているその部分です。

 なお、冊子『なぜ、申義堂の建物が西井口にあったのか』に沿って、市史を補うことにします。

     長谷川亀次郎

 明治時代、東神吉町井ノ口には、日本の教育史に残るような立派な学校がありました。

 この学校の建設に関わったのは西井ノ口の長谷川亀次郎氏でした。
 長谷川亀次郎氏と申義堂がかかわりを持ってきます。
 ここでは、名前の紹介だけにしておきますが、亀次郎氏のご子孫の方が『長谷川亀次郎を偲ぶ』として冊子にまとめておられます。
 とりあえず、この二冊を中心に、申義堂のその後・西井ノ口あった学校・長谷川亀次郎氏のことを紹介しましょう。(no3664)

  *写真:冊子『なぜ、申義堂の建物が西井ノ口にあったのか』

 ◇きのう(7/26)の散歩(10.581歩)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加古川の味、かつめし(1) 加古川の味「かつめし」をはじめます

2017-07-26 11:04:28 | 加古川の味、かつめし

  加古川の味「かつめし」をはじめます

 「ひろかずのブログ」では加古川市・高砂市、稲美町・播磨町の歴史を中心にして紹介しています。

 でも、いつかまとめて紹介してみたい話題がありました。

 それは「かつめし」です。「かつめし」は好きなのですが、まとめるための材料を持っていません。

 でも、あつかましく「かつめし」について不定期で書いてみます。とりあえず30回ぐらいを目標にします。

 どんなテーマでも続けていると、いつも材料がどこからともなく集まります。

 きょうは、神戸新聞の記事をお借りします。

 私事ですが、いま74歳です。

 30代の終わりのころ、マリンガへ出かけました。その時、記事にある植田真一さんのお父さんのお宅に宿泊させていただきました。植田真一さんに釣り(ぺスカ)に連れて行っていただきました。

 懐かしい思い出です。

   加古川の味「かつめし」

       ついに地球の反対側へ!

 加古川の味、かつめしが地球の反対側に進出-。兵庫県加古川市の姉妹都市、ブラジル・マリンガ市で、かつめし普及に向けた取り組みが始まった。加古川を訪れたマリンガ市民が気に入り、現地のレストランで近くメニュー化。加古川側も絶好の海外進出の機会を捉えようと、普及団体「うまいでぇ!加古川かつめしの会」の杉本洋一副会長(74)が8月、現地に遠征し、かつめしの調理法を伝授する。

 ブラジル中部の新興都市マリンガ市。同市の訪問団が5月、加古川を訪れた際にかつめしを食べたところ、「おいしい」「ブラジル人の口に合う」と好評だった。加古川市国際交流協会がブラジルでの普及を持ち掛けたところ、訪問団長の日系2世、植田真一さんが乗り気で、家族が経営するレストランでメニュー化することになった。

 さらに、地元の商工会議所で試食会や記者発表を開くことも決まり、毎年9月に10万人が集まるイベント「日本文化祭」に、かつめしを出店することも検討しているという。

 加古川市国際交流協会の要請を受け、かつめしの会が遠征を決定。元加古川プラザホテル総支配人で、ご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」などの出店を多く経験している杉本副会長が8月15~26日の市青年海外派遣事業に同行し、試食会で直接、調理指導に当たることになった。

 杉本さんは「ブラジルは日系人が多いので米食は普及しており、かつめしに掛けるデミグラスソースも食べやすいのでは」と分析。かつめしのレシピを渡しており、材料は現地でそろえるという。杉本さんは「長年、加古川で親しまれた味を伝えたい」と意気込んでいる。(広岡磨璃)(no3663)

 *写真:マリンガ市側に贈る記念のを手に」食品サンプルを手にカツメシ普及への意気ごみを語る杉本洋一さん(神戸新聞より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(32) 申義堂(7)・申義堂は残った

2017-07-26 07:13:32 | 江戸時代、高砂の商業活動

        申義堂は残った

   申義堂は明治4年廃校になりました。余話として、その後の申義堂について紹介しておきます

 廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。

 少し書き直して紹介しましょう。(文体も変えています)

 ・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。
 申義堂の建物そのものはどうなったのかについてふれておかねばなりません。

 土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。

 そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。

 現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。

 その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。

    申義堂が東神吉町西井ノ口(加古川市)に残っていた

 申義堂の建物は、解体され明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡東神吉村西井ノロに移築されたといいます。

 昭和7,8年ころまでは使われていたようですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用され、それがもとどういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。

 それが、申義堂の建物であったことがあらためて確認されたのは平成2年4月でした。

 天井に棟札が打ち付けられていて明治12年の移築が確認されました。

 平成6年に解体されて、高砂市教育センターに保管されました。

 ・・・・

 申義堂に関して『高砂市史(第二巻)』の記述は、この段階で終わっています。

 さらに、その続きを紹介することにしましょう。(no3662)

  *『高砂市史(第二巻)・通史近世』参照

  *写真:加古川市東神吉町西井ノ口に残っていた申義堂

 ◇きのう(7/25)の散歩(11.466歩)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(31) 申義堂(6)・申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

2017-07-25 07:16:08 | 江戸時代、高砂の商業活動

   申義堂の先生・美濃部秀芳(美濃部達吉の父)

 美濃部秀芳(美濃部達吉の父)は、文久三年から申義堂で素読を担当しました。

 彼は、天保21年(1841)8月24日に生れで、父は高砂でただ一人の蘭方医の美濃部秀軒でした。

 秀軒の妻・秀芳の母は、申義堂教授であった三浦松石の娘であり、秀芳と申義堂との関係は深く、秀芳も申義堂で学んだにちがいありません。

 父・秀軒は、加東郡三草村の蘭方医西山静斎と深い交遊をもつ人で、蘭学に通じた人でした。

 また、漢学の素養も有し、儒医三浦松石とも高砂の町医として協力しあっていました。

 嘉永三年(1850)正月に、二人はともに緒方洪庵の主幸する大坂除痘館にかかわり、早くから種痘普及に協力して携わっていました。

 秀軒は、秀芳にも蘭医学を身につけさせようと、西山静斎に入門させています。

 なお、秀芳の妻も加東郡古川村(小野市)の儒医井上謙斎の娘で、謙斎は文政8年(1825)に学塾を開設し、明治5年(1872)まで医業の傍ら儒学をも教えた人でした。

 秀芳は、生れて以後、儒学や医学に携わる人たちに囲まれて過したといえます。

 したがって、秀芳が、申義堂の最後を飾ることになるのは自然な流れでした。(no3661)

 詳しくは『高砂市史(第二巻)・通史編近世』(p697~9)をご覧ください。

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:美濃部秀芳

 ◇きのう(7/24)の散歩(10.593歩)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(30) 申義堂(5)・少人数教育

2017-07-24 08:23:50 | 江戸時代、高砂の商業活動

             申義堂は、小人数教育

 岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。

 これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数でした。

 しかし、儒書の素読(そどく)に、この時期この人数が来ていたということは、それなりの熱心さを感じさせられます。

入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。

 在学期間も天保六年から九年までの記録で、天保八年が欠落しているのではっきりしないのですが、天保六年在学の10人についてみると、天保七年も継続している者6人、天保九年まで在学している者2人であり、10人すべてが天保六年入学とはいえないのでさらにあいまいになりますが、短い者で1年間、長い者は4年以上にわたって在学する者がいたようです。

 ただ、天保七年入学者6人をみると、天保九年には名がみえないので、すべてが1年か2年で修了する者が多かったように思われます。

    ほとんどが町民の子弟

 出席状況は、天保六年の10名の内190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。

 天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最高として100日以上6人、他は50日以下となっており、両年を通してみると六割は比較的精勤ですが、四割は素読という学習にやや挫折する所があったようです。

 なお、両年とも出席良好者には褒美が与えられています。

 天保六年には、上位3人に半紙一束と墨一挺、その他7人には墨一挺が与えられ、良好でないものも含めて在学者全員に与えられています。

 天保七年も同様で、上位2人には半紙二束、他の者すべてに半紙一束となっています。

 これは、藩からの賜与ではなく申義堂自らが行う慣例であったのでしょう。

 生徒の肩書の記載には、たとえば「柴屋三郎兵衛倅瀧之助」とあるように、ほとんどは高砂の町内の町民子弟であったとみられます。

 なかには「大坂天王寺屋六右衛門倅次三郎」「加古川医師好伯倅貞造」という他地域の者がみえ、ともに教師であった三浦甚兵衛宅に寄宿していました。

 おそらく、三浦氏の知り合いで、子弟教育を託された者でしょう。(no3660)

  *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

  *挿絵:申義堂にて(適当な写真・絵がないため少しふざけた写真になりました。孫と一緒です。)

     ◇きのう(7/23)の散歩(11.256歩)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代、高砂の商業活動(29) 申義堂(4)・申義堂の教育、素読(そどく)が中心

2017-07-23 07:46:53 | 江戸時代、高砂の商業活動

    申義堂の教育、素読(そどく)が中心

 申義堂の教育について具体的に知られる史料がないため、詳しくは分かりません。

 しかし、申義堂の最末期、幕末維新期に教授であった美濃部秀芳(写真右:美濃部達吉の父)が、明治17年(1884)に記した「高砂尋常小学校学校沿革史」には申義堂の設立を簡単に記したあと、教育についても述べています。

 これによれば、申義堂は、元旦と五節句(正月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)そして、毎月の5日・15日・25日が休日で、そのほかは早朝より正午までの間、町の児童に四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・詩経・書経・礼記・春秋)の儒学などの素読(そどく:漢文の書物を解釈はあとにして声に出してくり返し読む)を行い、1の日と6の日、あるいは3の日と8の日は経書(四書五経)か歴史書の講義を行っていたようです。

 その中で、進歩した者には会読(二人以上が集まり読解しあう)または、臨講(数人が順番に講義しあう)を行わせ、とくにすぐれた者を選んで素読の補助をさせました。

なお、毎年秋一回の町奉行巡視の際には、教師の経書講義を聴講し、その後、生徒の出席状況によって半紙三帖か五束を与えて、ほめたたえたといいます。

 申義堂の教育対象は児童で、成人は対象とされなかったことがあらためて確認されます。

 ただし、児童は当時、一般的には15歳までをいうのですが、申義堂では実際に何歳までを含んだかは分かりません。

     生徒は、寺子屋等で読み書きの既習者

 教育内容は、儒学書の素読が中心でした。

 ということは、ここへ学習しに来る生徒は少なくとも、一般的な読み書きはすでに寺子屋等での学習を既に修了した程度の能力を有する者たちでした。

 でなければ素読についていくことは困難であったっことでしょう。

 申義堂へ来る者たちは相当な学習意欲をもち、しかも、それをなしうる一定の経済的、時間的余裕がある家の子弟ということになります。

 申義堂における授業料がどの程度のものであったのかも残念ながら分かりません。

 町民からの寄金にもよるが、無料あるいはそれに近い形がめざされた可能性はあります。

 申義堂の維持運営費については生徒の負担はおそらくなかったと考えられますが、教師への謝儀はなされたと思われます。

 このようにみてくると、申義堂の生徒はある程度限られた人数にならざるをえなかったとみられます。(no3659)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

 *写真:申義堂の教師の一人、美濃部秀芳(美濃部達吉は、秀芳の二男)

 ◇きのう(7/22)の散歩(11.256)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする