申義堂は、小人数教育
岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。
これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数でした。
しかし、儒書の素読(そどく)に、この時期この人数が来ていたということは、それなりの熱心さを感じさせられます。
入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。
在学期間も天保六年から九年までの記録で、天保八年が欠落しているのではっきりしないのですが、天保六年在学の10人についてみると、天保七年も継続している者6人、天保九年まで在学している者2人であり、10人すべてが天保六年入学とはいえないのでさらにあいまいになりますが、短い者で1年間、長い者は4年以上にわたって在学する者がいたようです。
ただ、天保七年入学者6人をみると、天保九年には名がみえないので、すべてが1年か2年で修了する者が多かったように思われます。
ほとんどが町民の子弟
出席状況は、天保六年の10名の内190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。
天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最高として100日以上6人、他は50日以下となっており、両年を通してみると六割は比較的精勤ですが、四割は素読という学習にやや挫折する所があったようです。
なお、両年とも出席良好者には褒美が与えられています。
天保六年には、上位3人に半紙一束と墨一挺、その他7人には墨一挺が与えられ、良好でないものも含めて在学者全員に与えられています。
天保七年も同様で、上位2人には半紙二束、他の者すべてに半紙一束となっています。
これは、藩からの賜与ではなく申義堂自らが行う慣例であったのでしょう。
生徒の肩書の記載には、たとえば「柴屋三郎兵衛倅瀧之助」とあるように、ほとんどは高砂の町内の町民子弟であったとみられます。
なかには「大坂天王寺屋六右衛門倅次三郎」「加古川医師好伯倅貞造」という他地域の者がみえ、ともに教師であった三浦甚兵衛宅に寄宿していました。
おそらく、三浦氏の知り合いで、子弟教育を託された者でしょう。(no3660)
*『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照
*挿絵:申義堂にて(適当な写真・絵がないため少しふざけた写真になりました。孫と一緒です。)
◇きのう(7/23)の散歩(11.256歩)