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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

志方町を歩く(133):東志方野尻④・奥の池

2011-10-20 07:22:17 |  ・加古川市東志方

     「奥の池」が野尻集落をつくる

 「志方町を歩く(130)」の一部を復習します。

008 玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け野尻の開墾に取りかかりました。

寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村でした。

(その後も、小規模な農地拡大の努力は続きました)

寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。

開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれています。

開拓は、鍬とモッコぐらいしかありません。大変な労働でした。

が、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となりました。

 修斉が藩主から新田開拓の命を受けた時、最初に考えたのは水ことでした。

どんなに広い土地があっても水がなければ、土地は田畑になりません。

未開の野尻の土地を幾日も歩き大きな水源となる場所を探しまわったことでしょう。

幸い、野尻は山の中です。幾筋もの谷からの水がありました。

そして、現在の奥の池の場所から南を眺めた時に、「これは開発できる土地である」と確信を持ったと想像します。

     修斉が見た風景とは

写真をご覧ください。奥の池の堤から南の方を見た現在の風景です。

山陽自動車道が見えます。

山陽道自動車道の手前は野尻集落の一部です。

集落を西(写真右)へ行くと細工所です。

土地は南へ、そして西にだんだん低くなっています。

修斉が「ここに池を造り、北東部隅から水を流せば土地は美田に変わる」と考えたのは自然だったことでしょう。

奥の池の起源は分かりませんが、修斉が開拓の命を授かった正保二年(1645)から間もないころであったと思われます。

そして、修斉とその子・義道の時代で新田の基礎は造られたようです。

勿論、その後も小規模の開拓は続きました。

野尻集落は、東へそして南へも田畑は広がっていきました。

史料が少ないため若干想像で補っています。

 *奥の池は、現在ゴルフ場の敷地となっています。そして、現在の農地はポンプで灌漑をしています

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志方町を歩く(132):東志方野尻③・玉田修斉・義道

2011-10-19 06:29:46 |  ・加古川市東志方

加古川市が誇る江戸時代の儒学者・玉田黙翁を紹介します。

失礼な言い方ですが、かつて野尻は黙翁のような大学者を輩出したのが不思議に思えるほどの田舎でした。

昭和30年前以前は、東志方町細工所の入り口から小野へ抜けるつづら折りの道が、村へ文化の香りを運ぶただ一つの道でした。

今日のブログは「志方町を歩く(130)」の続きとしてお読みください。

黙翁の祖父・父の話です。

   玉田修斉(黙翁の祖父)

Shikata_007野尻は、玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

寛文二年(1662)までの18年間(それ以上かもしれません)をかけ開墾した村です。

修斉は、細工所玉田家の祖・玉田正之の孫にあたり、寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。

開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれています。

 修斉は元禄5年、野尻新村に小さな家を建て隠居しました。

そして、同12年、79才の生涯を野尻新田で閉じました。

まさに、野尻の開拓にささげた生涯でした。

 *写真:玉田修斉の墓碑

     玉田義道(黙翁の父)

修斉の後を継いだのは玉田義道です。後に新左衛門といいました。

修斉は、彼を医者として、学者として立派な人物に育てようとしたようです。

義道は、父の期待どうりに育ちました。

早くから京都に上り、儒学は山崎闇斎の門下生について学びました。

郷里に帰ってからは父の開拓事業を助け、医術にもすぐれ、百姓の治療もおこないました。

小田原藩から、大庄屋を申しつけられました。

義道は、寛文8104日生まれ、寛保289日に亡くなりました。

マラリヤであったそうです。75才でした。

元禄10年(1697)、義道の2男として黙翁は生まれました。

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志方町を歩く(131):東志方野尻②・明治の地価・地租

2011-10-18 07:46:15 |  ・加古川市東志方

『播磨地種便覧』から明治時代の野尻新村の税をみておきます。

同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。

019 一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

今日の報告は数字ばかりになってしまいました。史料としてご覧ください。

野尻新村の地租・地価(明治14年)

       戸数 48戸

       人口230人

 (現在35戸の集落となっています)

一 田 22町6反8畝21歩

      地価 11319円53銭3厘

      地租 283円3銭5厘

一 畑  4町6反1畝27歩

      地価 1039円13銭3厘

      地租 25円98銭6厘

一 宅地 1町3反9畝11歩

      地価 702円17銭2厘

      地租  17円55銭8厘

一 山林96町6反8畝 2歩

      地価 608円67銭

      地租  15円21銭5厘

(草山・林・藪地・草生地・芝地・土砂捨場略)

合計 反別264町3反5畝7歩

      地価12796円82銭7厘

      地租 344円97銭4厘

*草山・林・藪地・草生地・芝地・土砂捨場野地租は少なくここでは省略しました。

<参考>

 白米(東京における10kg)の小売価格(『値段の風俗史』・朝日文庫より)

     明治 5年36銭   

     明治1051

     明治1582

 *写真:現在の野尻集落の一部

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志方町を歩く(130):東志方野尻①・玉田姓

2011-10-17 07:48:00 |  ・加古川市東志方

先日、七つ池から野尻(東志方)へ散策をしました。

ちょうどコスモス祭りの開催中で、冷たいお茶をいただきました。

それに、お手伝いのSさんとしばらくお話をさせていただきました。

「私はSですが、この村は玉田姓が多いです」との話から始まりました。

楽しい時間でした。ありがとうございました。

Sさんに感謝して、しばらく野尻を散策してみます。

   

   玉田姓が約8割

Bd2cf203野尻は、はじめ野尻新田といい、後に野尻新村そして、野尻と呼ばれるようになりました。

玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け開墾に取りかかりました。

寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村です。

修斉は、細工所玉田家の祖・玉田正之の孫にあたります。

寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。

野尻の開墾を助けたのは、叔父の玉田正義でした。

また、修斉の妻の於栗(おくり)は人望のある人で、18年間の大事業も叔父と妻の協力が多かったといわれています。

開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれていますが、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となりました。

現在、35軒のうち玉田家が26軒で、坂田5軒・井上4軒はみな修斉の一族または修斉の開拓を助けた一族であったといわれています。

久保田姓が3軒ばかりありますが、久保田家は柏尾村からこの地の移り住んだ人々です。

 注:現在の東志方の広尾は、明治9年に吉村と柏村が合併し、それぞれの村の名の一字をとり広尾村としました。

*『志方町誌』参照

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志方町を歩く(129):七つ池④・重ね池

2011-10-16 07:36:12 |  ・加古川市東志方

   重ね池

839aebda 再度、「志方町を歩く127)」の図をご覧ください。

挿絵のBB’は「七つ池」の断面図(上図)です。

細工所から野尻の手前までは両側は山が連なり坂となっています。

その谷を区切り、それぞれを池としています。

このような池は「重ね池」(下図)と呼ばれています。

七つ池は、典型的な「重ね池」です。

重ね池も、山間を区切ればよいというのではなく、工事には地形に合わせてそれぞれの工夫があったようです。

   工事の工夫

Ca1d2cc0 七つ池について『志方町誌』では、次のような工夫を紹介しています。

「・・・七つ池の下から三つめは上ノ池で、七つ池の中で一番大きな池である。

この池の堤を観察すると、西南隅のうてみのそばだけが特別に太くなっているのが目につく。

この池は両側の山から大小いくつもの谷によって水が流れ込んでいるが、中でも一番大きな流れは、東北隅の山側から大小いくつもの谷によって水が流れこんでいるが、中でも一番大きな流れは東北隅の谷から入ってくる水である。

ここは、すぐ上の平池うてみのあるところで、うてみを落ちる水といっしょになって、雨の日などその水勢いはすさまじい。

この水をまともに受けているところが堤のふとい部分である」

*うてみ・・・越水(洪水吐)

◇蛇足◇

 きのう(15日)午後、七つ池の帰りに野尻のコスモス祭りに寄りました。

野尻のコスモス祭りはきょう(16日)までだそうです。

係りの人に聞くと、コスモス祭りの後(17日より)、しばらくは自由にコスモスをとってもよいそうです。無料だそうですよ。

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志方町を歩く(128):七つ池③・水争い

2011-10-15 17:36:55 |  ・加古川市東志方

   

  水争い

Ae9406cd寛政六年(1794)に七つ池の水をめぐって争論がおきました。

一橋徳川氏領地である細工所・高畑・岡三ヵ所の立ち会いのこの池の水の配分は、細工所四歩、高畑四歩、岡二歩とされていました。

この時の干ばつに高畑村が細工所村を相手取って、用水の引き方が不相当だとして訴えでました。

その結果は次のようでした。

  旱魃の時は村々役人が相談すること。

  用水が平等に行き渡るように取り計らうこと。

  他のことは何事につけ三ヵ村が相談し、評議して定めること。

と、ひとまずは和解が成立しました。

しかし、寛政八年(1796)・細工所村と高畑村との間で、用水の配分について解釈に食い違いがあり再び論争となりました。

「高畑村は、細工所村がたくさんの水をとっている」というのです。

吉広村の宗左衛門らが仲介を勤め、「・・・従来の慣行を守り、双方の村役人、水役の者が立ち会って平等に用水が行き渡るようにとりはからうこと」が決められました。

    

   水争いの解決は「内済」で

水争いで、新しい水利秩序ができあがると、その運営に幕府・藩は原則的には介入しませんでした。

基本的には「自らの用水は、自らの力で守り、問題は解決しなさい」という方針をとりました。

幕府・藩が新しい水利秩序をその後も指導をするとなると膨大な事務になるし、また間違った判断をした場合、農民の不満を藩・幕府が背負うことになります。

それに何よりも、当事者の納得の解決が一番良い解決方法であることを藩・幕府はよく知っていました。

とはいうものの、用水の争いはしばしば発生しました。

その全てを、問題のおきた集落間で解決できたわけではありませんが、水慣行の争論は、原則として集落間で解決することが求められました。

 *『加古川市史(第二巻)』参照

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志方町を歩く(127):七つ池②・岡・細工所・高畑の池

2011-10-14 00:08:16 |  ・加古川市東志方

「志方町を歩く(126)」(前号)を「七つ池①」とします。

今日は「七つ池」②・「七つ池(惣右衛門池を除く)」は岡・細工所・高畑の池」です。

   七つ池は岡・細工所・高畑の田を潤す

5ec6a4b3地図で「七つ池」の場所を確かめてください。

県道小野志方線を細工所から野尻の間に、点々と七つの池が続きます。

西川の源流・七つ池です。

図は『志方町誌』(p399)からお借りしました。

(図のAAは東西の、BBは南北の断面を表しますが、後に取り上げます)

分かりにくいかもしれませんので、西(図の左)から七つの池の名前を書いておきます。

下ノ池・新池・上ノ池・平池・明神池・笹池・惣右衛門池です。

山と山の間をせき止めて造られた典型的な「重ね池」です。

この七つの池のうち、一番上(東)にある惣右衛門池だけが野尻の池で、他の池は細工所・高畑・岡の三がこれらの池の水を使う権利を持っています。

三は、七つ池の水を4・4・2の割合で使いました。

七つ池が潤す田は、おおまかに見て高畑40町歩、細工所40町歩、岡が11町歩です。

(*この数字は『志方町誌』編集された昭和44年当時のもの)

これに対する水の割合は4・4・2で、池の管理費用等も4・4・2で負担となります。

岡の集落は水をたくさん利用できるのですが、それに伴って当然管理負担も2割となります。

その主な理由は、岡の場合土地が細工所や高畑に比べて高地にあり水を引く溝が長くなり、途中の水漏れなどのため田畑の広さ以上に水を使うためです。

*『志方町誌』参照

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志方町を歩く(126):旧石器の狩人・三村秀弘

2011-10-13 09:05:08 |  ・加古川市東志方

 

細工所から野尻へドライブをし、途中満開のコスモス畑に出会いました。(「志方町を歩く・125」を参照ください)

 細工所から野尻のコスモス畑の間に七つの池が並んでいます。七つ池です。

今日は、「七つ池」の話をしましょう。

旧石器の狩人・三村秀弘

196昭和6年、考古学者の直良信夫(なおらのぶお)は、明石市の西八木海岸で、化石化した人類の腰の骨を発見しました。

この骨は、教科書にも登場する「明石原人」の骨です。

しかし、戦前の日本の学界は「日本には、旧石器時代が存在せず、疑わしい・・・」として、これを否定しました。

不幸は重なり、この骨は東京空襲で焼失してしまいました。

しかし、昭和24年(1949)群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡の発見により、わが国にも縄文時代以前に人類が住んでいたことが確かめられました。

納豆の行商をしていた相沢忠洋(あいざわただひろ)さんは、行商の途中、赤城山山麓で旧石器時代の地層から旧石器の遺物を発見しました。

兵庫県はどうであったのでしょうか。

昭和35年・家島群島の無人島・太島(ふとんじま)で旧石器の存在は確認されたのですが、本土側では、旧石器の存在は依然として謎のままでした。

しかし、「県下にも旧石器は必ずある・・」と信じていた一人のアマチュアの考古学愛好家がいました。

当時、印南郡志方町で町議をしていた三村秀弘氏です。

志方町細工所から野尻に向かう道沿いに七つの池が転々と連がっています。七つ池(写真)です。

ここで、三村氏は旧石器を発見しました。

遺物のあった4ヶ所は、総称して「七つ池遺跡」と呼ばれています。

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志方町を歩く(125)・コスモスが満開です(野尻)

2011-10-12 09:07:10 |  ・加古川市東志方

   コスモスが満開!

いま、東志方町を歩いています。

「城山物語」で少し停車してしまいました。

先日、東志方の野尻を訪ねたとき素晴らしいコスモス畑に出会いました。

次の日の神戸新聞に野尻のコスモス畑のニュースがありましたので一部を紹介します。

  <コスモス祭り(108日・神戸新聞より)>

    コスモス祭りは16日まで

Cosmos_in_025・・・志方東地区交流広場推進協議会主催。

景観づくりや農地保全を目的に2006年から同町高畑ではじまり、その周辺に集落に広がった。

今年の総面積は計28㌶。

中でも同町野尻の休耕田では、白やピンクのコスモスが満開を迎えている。

キバナコスモスヤヒマワリ、マリーゴールド等が鑑賞できる会場でもある。

同町東中の「しろやま農業研修センター」など各会場では、期間中の土、日曜日と祝日に、地元で採れた野菜や加工品などを販売する青空市が開かれる。

時間はいずれも午前9時~午後4時。

  <蛇足>

      秋桜(コスモス)

蛇足です。

秋の花は何といってもコスモスです。

秋にはサクラのように花を咲かせるので、「秋桜」の字をあてていることから、コスモスは古くからの住人のような顔をしています。

でも、コスモスの故郷はメキシコで、日本の秋を彩って、まだ、100年あまりにしかなりません。

つまり、江戸時代の農村の風景にはコスモスはありません。

江戸時代、もちろん野尻のお百姓さんは、このみごとなコスモスの風景はしりませんでした。

秋に一日、野尻のコスモス畑へお出かけください。

*写真:野尻のコスモス畑(107日撮影)

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志方町を歩く(124):城山物語(27)・南朝正閏論

2011-10-11 08:27:07 |  ・加古川市東志方

   

    南朝正閏論

200pxakamatsu_norimura「南北朝正閏論(せいじゅんろん)」という言葉をお聞きなったことがあるでしょうか。

この問題の発端は、明治44115日の「読売新聞」の社説でした。

ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。

これは、第二次桂内閣の時です。

野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。

桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで南朝が正当であると決められました。

以来、足利尊氏は『逆賊』とされたのです。

昭和9年には、「足利尊氏は人間的なすぐれた人物である」と書いたために斉藤実(まこと)内閣の商工大臣は、辞職に追い込まれるという事件もおきました。

戦前、足利尊氏は完全に『逆賊』とされてしまいました。

    

       赤松一族の研究は戦後

      遅れている東播磨での研究

ことは足利一族だけにとどまりません。

赤松一族は、足利の家来として活躍した武将です。

となれば、当然赤松も逆賊扱いということになります。

したがって、戦前赤松一族の公平な評価・研究は全くなされませんでした。赤松の研究は戦後になってからの事です。

もう一つ問題があります。

戦後、赤松の研究は進んだというものの、それは赤松の出身の西張播磨を中心とした赤松氏の研究でした。

東播磨地方での研究は今でもかなりの部分が霞の中です。

中道子山城は赤松氏にかかわる城であることは確かなようです

ということは、東播磨での赤松一族の研究が進む時、はじめて中道子山城の本当の姿も浮かび上がってきそうです。

「東播磨での赤松氏の研究よおこれ」と叫び!このあたりでいったん「城山物語」を閉じることにします。

これを一部としておきます。新しいことが分かれば「城山物語(二部)」を再開させたいと思います。

お読みくださいまして、ありがとうございました。

 *写真・赤松円心像(法雲寺蔵)

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志方町を歩く(123):城山物語(26)・手代(てしろ)のお大師さん

2011-10-10 08:20:02 |  ・加古川市東志方

東志方高畑集落の東の端に小字・手代(てしろ)があります。

手代の道から少し離れたところに大師堂があり、ここに一体の弘法大師像(写真)が祀られています。

『志方郷(30)』で原豊子さんが、「手代のお大師さん」として紹介されているので、最初の部分をお借りします。

ここでも、三木合戦と結びついた物語です。

   手代のお大師さん

003・・・(中道子山城は)三木城の次に落城した。

その時、15才のお姫様をかくまってほしいと頼まれたのが手城(現代の手代)・高畑の小字の小さい城であった。

お姫様には付け人が一人ついてこられた。

お姫様は身代わりとして弘法大師の像を一体持ってこられた。

赤松城(中道子山城)には、二体の弘法大師の像があり、小さい方を手城に持参された。

このお姫様は大変信仰心厚く、毎日弘法大師を拝んでは、自分の心を慰めておられた。

世の中が落ち着いて、お姫様が帰られる時、弘法大師像をお礼として、手城に置かれて帰えられた。

それから手城も大師堂に代わって現在にいたっている。

 <蛇足>

 思いついたことを書いておきます。

 手代はもともと「手城」であったとされています。

ひょっとして、この場所に中道子山城に仕える家来がいて、構(構居)があったのかもしれません。

構居のうち少し規模の大きいのを城と呼びましたから、比較的有力な武士の館であったとも考えられます。

 もうひとつ想像してみました。先日、大師堂を訪ねました。失礼な言い方ですが「立派なお堂」ではありません。

 赤松氏は、足利方つまり南朝方ではありません。そのため「戦前の天皇制(南朝を正統とする)の中で、質素に祀り続けられたのではないだろうか」とも想像しました。

 勝手な想像です。

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志方町を歩く(122):城山物語(25)・十戸の村

2011-10-09 09:28:24 |  ・加古川市東志方

 きょうも『志方町誌』からの転載です。

  

  中道子山城の伝承(4)

     

    十 戸 の 村

6c51daff・・・天正年間のことである。

城主のお姫様が大切な用事があって遠方へ出られることがあった。

帰ってから気がつくと、大切な銀のかんざしが紛失している。

さあたいへん、それは亡き母上のかたみの品で、いつも頭につけていたたいせつな品であった。

びっくりしたお姫様は、もう夕暮れになっていたけれども、ひとりでそのかんざしを探しに、いま自分の通ってきた道をとってかえした。

だんだん暗くなってくる。

その上、羽柴の軍勢が攻めこんできている時であり、おそろしくなったお姫様はある村まで来た時、村の人々に「どうかこの村で、しばらくかくまってください」と頼んだ。

村の人たちは同情をしたけれども、なんといっても後難がおそろしい。

とうとうこの申し出をことわってしまった。

「なんという情けない人たちであろう。こんな無情な人たちの村は、これからさき決してさかえるものではない」とお姫様は、まっ暗な道を大切なかんざしもさがしあてずに、お城へ引きかえしました。

その後、まもなく城も落ち、お姫様も井戸に身を投げて死んでしまった。

不思議なことに、当時十戸であったその村は、それからというものは、一戸ふえると一戸へり、二戸ふえると二戸が他へ移るという風で、何十年たっても家数が増えない村になってしまった。(『志方町誌』p159より)

  

十戸の村の集落は東志方の「岡村」か?

 この物語についてある研究者(K氏)は、「十戸の村」のモデルは岡(村)ではないだろうかと推測しておられます。

もちろん、岡(村)の方が不人情であったことをいっているのではありません。

岡村は寛永(江戸時代初期)の頃にできた村です。

ですから、「十戸の村」の物語の天正時代とは関係がありません。

ただ、岡(村)は中道子山の麓の村で、後に三木合戦の物語と次のような事情が結びついてできた伝承かもしれないとされています。

その事情とは「開村当時、岡村は十戸で土地が飽和状態で、人口が増えれば生活が苦しくなり、家は分家・別居、そして他の地域に移住しなければならなかったのかもしれない」というものです。

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志方町を歩く(121):城山物語(24)・中道子山城の伝説②

2011-10-08 14:35:13 |  ・加古川市東志方

前号に引き続き『志方町誌』からの転載です。

  中道子山城の伝承(3)

鯛の坂

E02d080b鯛の坂城山の頂上から尾根づたいに細工所方面へ下る途中の坂で、二の丸跡、三の丸跡の台地から向かって少々下りてゆく地点で、ここはやや急峻である。

この鯛の坂にまつわる伝説も、城山攻めに関係のある一つで、応戦中のある日、味方のあるさむらいが、この坂の上に立って、坂を攻め上ってくる敵兵に向かって、一尺五寸はあろうという大鯛を頭上たかくかかげて「これを見よ」と誇示したので、この坂を鯛の坂と呼ぶようになったというのである。

標高271.㍍の「こんな山の上でも食料には困っていないぞ、このみごとな鯛を見よ」という意味である。

おそらくこの鯛の坂は、城の搦め手にあたっていたのであろう。

伝えるところによれば、当時の三木城へは大塩方面から生石(おおしこ)、高御位等、山の尾根づたいに間道があって、塩、魚の類を運んだといい、城山もその通路にあたっていたという。

*図:中道子山城現状図『ひょうごの城紀行(下)』(神戸新聞総合出版センター)より

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志方町を歩く(120):城山物語(23)・中道子山城の伝承

2011-10-08 08:07:46 |  ・加古川市東志方

 中道子山城は三木の合戦と結びつくものではないと考えられますが、志方地方では城山(中道子山城)は「三木合戦」で落城したと語り続けられています。

『志方町誌』では、中道子城山にまつわる伝承を四つ紹介しています。

今日は、その内2つの伝承を、『志方町誌』からそのまま転載します。

  中道子山城の伝承(1)

    竹の皮

025羽柴秀吉の軍勢は、三木城も神吉城も志方城も陥れてしまった。

中道子山城は今や孤立無援、敵の大軍にとりかこまれてしまっていた。

いかにして攻めてくる敵を防ぐか、さいわい山腹が急斜面であるところから、一面竹の皮を敷きつめて敵を防ぐことにした。

しかし、敵もさるもの、ふもとから竹の皮に火を放った。

四方から燃え上がる火勢はみるみる城を包んだ。

しかし、防ぎきることはできず落城した。

今でもあちこちの岩かげなどからその時の焼米が出てくるといわれている。

 *写真:彼岸花(内容と関係がありません。戦いのイメージに似合う花として掲載しました。928日・東志方細工所にて撮影)

  中道子山城の伝承(2)

     軍 資 金 埋 蔵

「朝日照る 夕日輝く木の下に 瓦千枚 金千枚」

この歌は、中道子山城にまつわる軍用金埋蔵の暗号の歌である。

この歌はまたはっきり「八重が谷」と場所を指摘した歌にもなって伝わり、昔から幾人もの人によって宝探しがなされ、それは最近まで及んでいる。

しかし、まだ発見されていない。

「八重が谷」がどの谷のことか、それさえ分からない。

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志方町を歩く(119):城山物語(22)・安楽寺

2011-10-07 07:18:50 |  ・加古川市東志方

「中道子」について書いておきます。

中道子ののなまった呼び方であることは多くの方が認めておられます。

では、「中道寺」はどんなお寺でしょうか。

  安楽寺の由来史より◇

    もとは、山上の無量寿院(真言宗)

     そして、安楽寺(浄土宗)へ

Shikata_040志方町細工所の安楽寺の縁起は次のように語っています。

「・・・弘仁二年(811)、弘法太師の弟氏子が詔勅を受け、大日如来を彫刻し、中道子山上に真言宗無量寿院を建立しました。

時は移り、赤松円心の四男の赤松氏則(「範」とも書く)が志方庄の領主となって、中道寺を山麓に移し中道子山城を築きました。

永徳三年(1383)、氏則は南朝方につき、敗れて一族郎と共に加東市清水寺で自害し、中道子山城も草木に埋もれて行きました。

文安元年(1444)赤松の一族の孝橋新五郎繁広がこの地に来て山城を修築して修築しこの城の城主となり中道寺もよみがえりました。

しかし、弘治元年(1555)、三好長慶に攻められ炎上しました。

その後、志方城の城主・櫛橋秀則は寺を再建しました。

(再建時に元あった場所から少し西の現在地に移動したとも言われています)

櫛橋は、浄土宗への信仰心があつく、浄土宗に改修し、寺名も中道山安楽寺としました。

安楽寺は櫛橋則伊の持念仏の阿弥陀如来を本尊としました・・・」以上が、安楽寺の由来史の概略です。

筋がとおり、歴史を語っているようなのですが、やはり発掘調査の結果と赤松氏則・孝橋新五郎繁広の時代が離れすぎています。

でも、古くから山上に山岳寺院があったのは確かなようです。

このブログでは、赤松晴政がその築城者ではないかと提起しましたが、中道子山城の謎はまだまだ続きそうです。

安楽寺の由来史も今後の研究で改められるかもしれません。

*写真:安楽寺(志方町細工所)

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