ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川右岸水紀行(26) 池郷(いけごう)

2016-01-29 09:36:11 |  ・加古川市東神吉町

  

 上部用水について書いてきましたが、最後に神吉地区の「池掛かり」について少し付け加えておきます。

      池郷(いけごう)

 *池郷(いけごう):同じ池の水を使って、お互いに結びつきを持つ地区

 神吉町の水田の用水は神吉溝(上部用水)に頼るだけではなく、神吉北部の水田はこの集落の北方にある馬ノ頭池・大池・新池から用水をうけています。

 というのは、海抜10メートルを走る升田・中西・大国・岸を結ぶ道のあたりから北は徐々に高くなりその上は台地となっています。

 (神吉用水の)水は、高い台地には流れてくれません。

 地図をご覧ください。

 神吉の地の一部は、より高いところにつくられた馬ノ頭池・大池・新池(赤く彩色した池)から取水しています。

 これらの池から取水する地区は神吉、天下原(東神吉町)・中西・大国・西村・宮前・富木・清水(西神吉町)の8地区があります。

 (西神吉町の下富木・長慶・清水は、明治11年に合併して現在、西神吉鼎(かなえ)になっています)

 神吉は、池の方の連合にも加わっています。

 つまり、神吉は「池掛かり」と「井掛(上部用水)かり」と両方から水を得ている地域です。(no3099)

 *地図:神吉町神吉付近(馬ノ頭池・大池・新池を確認ください)

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加古川右岸水紀行(25) 上部用水(15)・取水口

2016-01-28 08:33:20 |  ・加古川市東神吉町

 

          激変・加古川大堰の完成

 加古川下流部は、灌漑用水確保のために取水口を築き引水を行ってきました。

 しかし、集中豪雨によって加古川が出水する度に、井堰は決壊を繰り返しました。

 そこで、固定堰である五ヶ井堰(加古川左岸)と上部井堰の全面的な改築と、治水、利水の両面を解決できる井堰建設の期待が高まりました。

 しかも、加古川下流部では、播磨臨海工業地帯の促進に伴い大規模な工場が立地し、阪神都市圏の宅地化にもなって急激な都市化が進みました。

 やがて、加古川下流部の加古川・高砂両市域の水需要がひっ迫した状況になって、早急 に水資源対策が必要になりました。

そのため、1988 年に可動堰の加古川大堰が建設されると、かつての五ヶ井堰と上部井堰は統合され、今日に至っています。

   上部用水取水口

 すでに見てきたように、上部井用水(うえべいようすい)の神吉庄(かんきのしょう)水路を通って届いており、400年以上前に造られた水路が現在も利用されています。

 同用水は、慶長年間(15961614)から上荘町井ノロにあった神吉庄水路の井堰を、元禄年間(1688-1704)に下流の平荘町里村宇上部(うえべ)に変更し、平津庄(ひらつのしょう)水路と伊保庄(いほのしょう)水路とを合併した井堰が築かれ、ここから16力村下流に水が引かれました。

 上部井用水は、加古川大堰の完成に伴い、昭和63年以後は、元の位置から大堰の上手約150mの右岸に取水口が変更され、先人たちが長い間守ってきた本流に設置され旧固定堰は平成元年に撤去されました。

 *上部用水については、いったんお休みにします。

 上部用水については、砂部農会長の喜多正人さんに大変お世話になりました。お礼申し上げます。ありがとうございました。

 写真は、現在の上部用水の取水口です。(no3098

 *『砂部あれこれ(喜多正人著)』参照

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加古川右岸水紀行(24) 上部用水(14)・出河原

2016-01-27 10:07:04 |  ・加古川市東神吉町

 *不勉強なため、この「出河原」は『かこがわ万華鏡(岡田功著)』から文体を少し変えてお借りしました。

   出河原(でがわら)

  「でがら」ともいいます。

 文禄二年(1593)、印南郡升田村の山脇九右衛門ほか6名が開発にあたり、東・中・五軒屋を合わせて同郡升田新村としました。

 万治二年(1659)には加古田中洲に、姫路藩が升田堤を築いたことで開墾地が広くなりました。

 また、西部の米田町船頭(ふなもと)との境界線に旧河川(旧西加古川)の名残があります。

 明治3981日、「東神吉村出河原」としました。

     益気神社は水天宮

 出河原に益気神社(マスケジンジャ・写真)があります。

 この神社は、出河原が升田新田として独立したときに、升田村の益気神社から勧請してつくられた神社です。

 したがって、祭神は、升田の益気神社と全く同じで、主神は泥土煮命(ウイジニノミコト)で相殿(あいどの)の神は、籠大神(コノオオカミ)・天御中主神(アメノミナカミヌシノミコト)です。

 *相殿(あいどの):同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祭ること。また、その社殿。

 籠大神は、琵琶湖の水神・アメノミクマリノカミです。

 天御中主神は、水天宮です。

  いずれも水を祭る水天宮です。出河原は、加古川の水がまともに押しよせる場所にある集落でした。

 水を恐れ崇めました。

益気神社にかけた出河原の百姓たちの願いが伝わってきそうです。(no3098

 *写真:出河原益気神社(水天宮)

 *『かこがわ万華鏡(岡田功著)』・『古地名新解(石見寛次著)』参照

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加古川右岸水紀行(23) 上部用水(13)、条里制(2)・二十田

2016-01-26 10:15:14 |  ・加古川市東神吉町

 

      条里制(2) 二十田(はたちだ)

 みなさんのお名前は柴田さんですか、伊藤さんですか。名前の由来(ルーツ)について知りたいですね。

土地も同じように名前を持っています。その土地の名前を字名(あざな)と言いますが、現在、多くの場合、いつ・なぜその字名がついたのか分からなくなっています。

  でも字名は、その土地の歴史を知る手がかりになる場合が多くあります。

 字(あざ)の説明を続けます。

 現在の西井ノ口は大字(おおあざ)と言い、それらの大字は、さらに小さな小地域を含んでいます。

 これを小字(こあざ)といい、多くは新しく開墾された時につけられた名称です。

 小字は、いつ・どのようにしてつけられたのかは、ほとんど分かっていません。そして、長い歴史の間に、その字名の呼び方もずいぶん変化があったようです。

 ですから、地形・歴史・風俗などを総合して、小字が私たちに語りかけるメッセージを想像してみましょう。

 前回、奈良時代の条里制について紹介しました。

 西井ノ口の小字に「二十田(はたちだ)」(赤く彩色した所)があります。条里制の「二十の坪」から名付けられたといわれています。

 とすると、西井ノ口(元は古田村)の集落の始まりは奈良時代だったのでしょうか。

 奈良時代、西井ノ口の地に水田があったことは、条里制から確です。

 ということは、奈良時代に今の西井ノ口の地に集落らしきものが誕生していたとも考えられます。(no3097)

 *東神吉西井ノ口の小字(西井ノ口町内会作成)

 

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加古川右岸水紀行(22) 上部用水(12)・条里制(1)

2016-01-26 10:01:17 |  ・加古川市東神吉町

 

               条里制(1)

 条里制(じょうりせい)は、税を確実に取りたてる土地制度で、7世紀末には始まっていたと思われます。

 条里制は、まず6町四方の大区画を縦横6等分、つまり36の小区画に分け、小区画をさらに36等分に分け、その小区画を「坪」と呼びました。

 現在でも、このような坪名が、わずかですが小字(こあざ)として残っています。

 東神吉町神吉の「休ヵ坪(九ヵ坪のこと)」、西井ノ口の「二十田(はたちだ)」がそれです。

 加古川左岸(東岸)の条里地割は尾上町の海岸付近まで続いているのに対し、右岸は、陸化が左岸に比べ遅れたため、東神吉町の国道付近を南限としています。

 しかも、東神吉町升田の南部から同町出河原・砂部・西井ノ口、米田町船頭・平津にかけては、多くの旧河道地形があって、条里地割は図のように半月状に展開しています。

 加古川市のその他の条里制については、『加古川市史(第一巻)』を参照ください。(no3066)

*図:旧神吉村付近の条里遺構、『上部井土地改良区誌』(上部井土地改良区誌編さん委員会)参照

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加古川右岸水紀行(21) 上部用水(11)・間の川(あいのかわ)

2016-01-25 08:32:36 |  ・加古川市東神吉町

      間の川(あいのかわ)

 天正6年6月25日(旧暦)、織田軍は神吉城の攻撃を開始しました。

 激しい戦いは洗川(地図)を挟んで展開されました。

 戦国時代、加古川からの支流・洗川(現在の神吉用水路)は、上記の地図のように西へ流れ、高砂市米田町島から高砂市陸上競技場の南から法華山谷川へと流れていました。

 この洗井川跡が、みごとに残っており、地元では間の川(あいのかわ)と呼んでいます。

 寒くなりました。暖かくなったら歩いてみましょうか・・・・

    兵(つわもの)の声が聞こえる

 織田勢は、大国集落と岸集落のニヵ所から仕掛けてきました。

 大国地区に結集した織田軍は、我先にと川に水しぶきを上げ、続々と騎馬武者が川中に突入しました。

 騎馬が突進した浅瀬の中ほどは、人の膝下まで水があって流れは早く、それでも、騎馬武者は先を競って押し寄せました。

 一群の騎馬隊で、洗い川か黒く塗りつぶされました。

 川の半ばを越え、突進した先頭の騎馬が、グラッと傾き、よろけながら人馬とも水中に投げ出されました。

 これは、神吉が仕掛けた川の中の罠のせいでした。多くの騎馬武者勢が、水煙をあげて転倒します。

 この時を待っていたとばかりに、神吉城の鉄砲隊は火を吐きました。

 信長軍にとっては、思いもしなかた銃撃に、驚いたありさまとなりました。(no3095)

 *「ひろかずのブログ(「加古川、お城物語」参照)

 *地図:戦国時代の神吉付近略図、奈幸子(なこうし)は神吉の旧名

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加古川右岸水紀行(20) 上部用水(10)・魚をいっぱい捕りました

2016-01-24 08:55:07 |  ・加古川市東神吉町

 ゴボゴボ流れる上部用水分水所あたりを歩きながら、あるところで聞いたおじいさんの話を思い出しました。

 というのは、昔の用水は流れは同じですが、今の用水とずいぶん風景が違っているようです。

 それは、溝がコンクリートでなく、むかしは、テレビもありません、用水は子供の絶好の遊び場でした。

    魚をいっぱい捕りました

 (あるおじいさんの思い出より)

 用水のところどころに洗い場があって、野菜を洗ったり、洗濯したりしていました。 用水は、本当にきれいで、魚もいっぱい泳いでいました。

 子供は、手作りの竿にテグスに針をつけ、「雑魚つり」もしました。

 時には、うなぎも捕れました。

 大きなドジョウもいて、ドジョウは味噌汁に入れれば最高の汁になりました。

 また、用水の一部に砂地のところにシジミ貝が多く住んでおり、肝臓に良いんだと言って採っていました。

    ホタルの里

 5月下旬頃から、夕方には、蛍がいっぱい舞い、蛍取りも楽しみました。

 手で掴もうとすると、土手のすすきで傷つき、血が出ていましたが、血止めの草があって、手に当ててがまんしていました。

 野いちごもたくさんあって、腹が減ったら、土手へ行っていました。

 ・・・・

 子供の声は、用水のあたりから消えてしまいました。あれからどのくらいになりますかね。そんなに昔の話ではありません。戦後もしばらくしてからの話です。(no3094)

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加古川右岸水紀行(19) 上部用水(9)・平津溝と曽根溝の分水所

2016-01-23 08:04:37 |  ・加古川市東神吉町

        用水を上流(北)へ歩く 

 前号の平津溝から上流(北)へ探検します。

 すぐに加古川バイパスにぶつかります。

 溝は、バイパスの下を潜っています。

 それに、バイパスの側道に入るには柵があり、鍵がかかっています。

 少し気がひけたのですが、おじいさん(私)は、思い切ってよじ登りました。

 そして、側道を少し西へ歩き、東神吉南小学校の生徒のかよう穴門を通り、バイパスの北側の側道を東へ引き返し、水路に沿って上流へどんどん歩きました。

 穴門では、小学校の下校所時間で西井ノ口の町内会長さんが、交通当番をしておられました。ごくろうさまです。

 しばらく水路を北へ歩くと、写真の場所に到着します。

 先週、この場所へ北から歩いてきました。

 升田の加古川の土手にあるバスの停留場(水管橋の近く)の下を伊保庄水路(曽根溝)と平津庄水路(平津溝)の水源から歩きました。

 この水路は、まだ二筋分かれていません。むかし、升田村ではこの水路を向い川と呼んでいたそうです。

 それとは別に少し北に神吉庄水路(神吉溝)があります。

 この二つの水路が西へ流れて、途中で南に折れ、写真の場所に集まっています。

 そして、ここ写真の場所(神吉町神吉字千原)で、「向い川」は曽根溝と平津溝は二つに分流しています。

 写真では、すぐ西に流れる神吉溝は映っていません。

 今は、水は使わない時期ですが、用水の水は、ゴーゴーと音をたてて流れています。

 近くの田に、ロウバイが咲いています。

 今年は、温かいせいか畦には、タンポポもたくさん咲いています。

 水の音は「もうすぐ春ですよ・・・」と告げているようでした。(no3093
 *写真:平津庄水路(平津溝)と伊保庄水路(曽根溝)の分水所(神吉町神吉字千原)

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加古川右岸水紀行(18) 上部用水(8)・井ノ口村から西井ノ口村へ

2016-01-22 09:36:33 |  ・加古川市東神吉町


     井ノ口村から西井ノ口村へ(明治12年10月)

  江戸時代、現在の神吉町の地には、神吉村・天下原村・升田村・升田新村・砂部村・井ノ口村・井ノ口新村・六本松新村の8か村がありました。
 その内、井ノ口村、井ノ口新村、六本松新村は、明治11年7月に合併し井ノ口村となり、明治12年10月に上荘地区に同名の井ノ口村があり混乱を避けるため、「井ノ口村」を「西井ノ口村」に改称しました。

 なお、「井ノ口村」の名前は、集落の場所が小字「元屋敷」のあたりで上部用水の平津水路へ分かれる井溝の口(写真)であったところから、つけられた名前です。


    
東神吉村西井ノ口誕生(明治22年4月1日)

 そして、明治22年4月1日、新しい村制により神吉村、天下原村、升田村、升田新村(明治39年8月、出河原に改称)、砂部村、西井ノ口村が合併して「東神吉村」が誕生しました。
 昭和31年9月30日、加古川市と合併し、加古川市東神吉町になり現在に至っています。(no3092)
 *写真:現在の上部用水の平津水路へ分かれる井溝の口

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加古川右岸水紀行(17) 上部用水(7)・アサカラ池の水

2016-01-21 09:55:51 |  ・加古川市東神吉町

  阿弥陀町南池集落の池大神社に来ています。池大神社と言いながら、近くに池が見当たりません。

   南池・北池村は、「あさから池」を埋め立てた新田

 現在の阿弥陀町中筋から南池・北池のあたりに、古代から江戸時代初めの頃まで、大きな池がありました。南池地区は『播磨風土記』のいう「池の原」のようです。

 慶長10年(1605)の頃、池田輝政は、姫路藩の治水・灌慨のためのこの地の土木工事を行い、農業生産力の増大を図っています。

 加古川右岸(西側)の灌漑用水として、加古川から水を引く上部用水(うえべようすい)を整備しました。

 升田村(現:加古川市東神吉)上流の上部(加古川市平荘町里)で加古川から取水し、本流は神吉村(かんきむら)を通って神爪村(かづめむら)、魚橋村、南池村を経て曽根村、魚崎村に至りました。

 南池村の開発は、この上部井堰(うえべいせき)の開発と同時に行われたものと思われます。

 この時、「あさから池」は、阿弥陀村や魚橋村の人々が入植し、あさがら池を埋めたて北池、南池の二村をつくりました。

神社のすぐ北に、上部用水伊保水路の「鍵の手」の分水(写真)があります。

 上部用水は、神吉地域だけでなく、とてつもなく広い地域を灌漑している用水なんですね。(no3091)

 *写真:「鍵の手」分水(阿弥陀町南池)

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加古川右岸水紀行(16) 上部用水(6)・金時用水を歩く

2016-01-20 08:07:22 |  ・加古川市東神吉町

        金時用水(2)・水は上部用水から

 昨日(119日)、神吉町砂部の水利組合長の喜多正人さんに案内していただき、上部用水の水路を歩きました。寒い一日でした。ありがとうございました。

 上部用水の灌漑地域の広さに、あらためてビックリしました。

 前回の「金時井堰」に付け加えておきます。内容は若干重複しています。

     法華山谷川の下をサイフォンでこえる

 上部井堰から引いた水が神吉・平津両庄をうるおした後、法華山谷川を経て洗川に流れ出ていました。

 この水を「なんとかして魚崎村へ引く方法はないか」と考えたのが伊保保崎村の百姓・金時宗五郎でした。

 彼は、村民を説き、自分で資財を出し、川水を引き入れました。

 井堰・用水が完成したとはいえ、給水量も少なく、灌漑面積も狭かったので拡大する必要がありました。

 15年後、この水利事業を引き継いだのが、同村庄屋・中村五郎右衛門でした。

 彼は、藩主の許可を得て、天保2(1831)11月に始め、全長680 ㍍あまり、幅2.7 の水路で、1,200両の資金を費やし、同4 (1833)3月に完成させました。

 上部井用水を平津庄から竜山の下に導き、用水を全時井に送水するものでしたが、とくに注目されるのは水路を立体交差していることです。

 このあたりでは法華山谷川の水は塩分を含んでおり、水田には利用できません。

 そのため、法華山谷川の下に石積み、トンネルをつくり上部用水の水を導水する、いわゆるサイフォンを利用した工事で、困難な工事となりました。

 この水利事業が完成した後は、魚崎村・魚崎新村とも豊かな水を離保することができました。

 その後、村民たちは安政4 (1857)に、竜山のふもとに金時宗五郎・中村五郎右衛門の功潰に感謝する碑を立てています。これが前回紹介した碑です。

 現在、金時用水もずいぶん傷んでいます。農業の衰えですかね・・・(no3090

 *『上部井土地改良区誌』参照

*写真:金時用水(右の工事は法華山谷川の改修工事)

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加古川右岸水紀行(15) 上部用水(5)・金時井堰

2016-01-19 09:51:34 |  ・加古川市東神吉町

 今回のブログは、神戸新聞(東播版)に掲載された記事をお借りしています。

 (文末は「です・ます」に変えています)

    金時井堰の水は上部井から

 江戸時代、伊保崎村と新村は毎年、干害に悩まされていました。

 金時宗五郎は、いろいろと思案し、漫然と海へ流れる山の水を田畑に引くことを思いつき、文化年間(1804~17)、村民を説き工事を進めたのが金時井堰です。

 しかし、費用が足りない上、水もごく一部の田にしか届きませんでした。

 約15年後、元庄屋の中村五郎右衛門が藩主の許可を得て事業を引き継ぎ、31(天保2)年に工事を始めて2年で完成。

 全長680メートル、幅2・7メートルの溝に1200両の資金を要したといわれています。

 注目されるのは、川の下に石積みのトンネルを造り、(上部井の)水路を立体交差させていること。

 木樋を埋め、平津側から導水する工事は困難を極めたことです。

 完成後、現在の伊保地区、梅井地区とも豊かな水を確保できました。村民は57(安政4)年に竜山の麓に二人の功績を顕彰する碑を建てました。

 この碑が、「ふるさと文化財」に登録されました。(no3089)

 *写真:金時宗五郎・中村五郎右衛門の顕彰碑。

 

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加古川右岸水紀行(14) 上部用水(4)・神吉庄・平津庄・伊保庄水路

2016-01-19 09:33:55 |  ・加古川市東神吉町

  神吉庄水路・平津庄水路・伊保庄水路

 「加古川右岸水紀行(12)」の地図を見ながら下の文章をお読みください。

 上部用水の取水口から取り込まれた水は、まず、神吉庄水路と平津庄・伊保庄水路に分かれ、さらにその先で平津庄水路と平津庄水路に分かれます。

 これら三用水が灌漑する地域は、地図で確認ください。

 上部用水は、たいへん広い地域を灌漑する用水です。

  升田村では、村の中を西へ流れる2本の水路(神吉庄と伊保庄・平津庄)を、それぞれ神吉川、向い川(平津庄水路・伊保庄水路)と呼んでいたそうです。

     三用水の石高(印南郡の1/3を占める)

 俗に上部井の用水は、神吉庄2,000(神吉1,200石、砂部347石、中西186石、大国267)、伊保庄4,000(伊保崎1,100石、中筋1,000石、南池300石、北池300石、曽根町1,300)、平津庄4,000(西井ノロ750石、岸500石、米田667石、塩市333石、平津750石、神爪500石、島500)合計1万石の田を潤しているといわれ、印南郡全域石高の約三分の一を占めていました。

     海岸部の用水

 なお、高砂市西部の海岸部の用水は、もともと阿弥陀町にあるため池を水源にしていました。

 が、水量は十分でありませんでした。また、同地域には法華山谷川や天川が流れていますが、いずれも勾配が少なく海に近いために塩分があり、稲作には使用できませんでした。

 そのため、苦労をして上部井の水を用水路を築きました。次号では、その話を紹介しましょう。(no3088

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照

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加古川右岸水紀行(13) 上部用水(3)・二つの大問題

2016-01-18 12:05:52 |  ・加古川市東神吉町

 

 上部用水が完成してからも、二つの大問題が残りました。

     大水で樋門が崩れる

 その一つは、当時の上木技術では、堤に丈夫な樋門を築くことは難しく、大雨の時に樋門の部分から堤の決壊がおき、大洪水になることがたびたびありました。

 洪水で堤が決壊すると、田畑は一夜にして元の石ころだらけの河原に戻ってしまい、人家にも大きな被害が発生しました。

 明治時代になってもこの問題は解決せず、最終的には昭和8年(1933)の加古川堤防改修完了まで待たねばなりませんでした。

    固定井堰がつくれない

 もう一つの問題は、加古川に設ける井堰に制約が発生したことです。固定した井堰を造ることができなくなりました。

 というのは、江戸時代、商業活動が盛んになり加古川上流と下流地域を結ぶ高瀬舟の航行のために固定井堰が造れなくなりました。

 高瀬舟の運航期間は、運行期間は毎年9月の秋の彼岸(20日頃)から翌年の5月の八十八夜までと決められていました。

 加古川の舟運開始により、各所の井堰の方の歴史が古く井堰に優先権がありましたが、毎年稲作のための潅概時期の初めには堰をつくり、秋にはこれを取り壊すことが必要になりました。

 大河加古川を堰止めて、長い大きな堰を一気につくるのは大変な作業でした。(no3087)   

 *絵:加古川を航行した高瀬船

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照

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加古川右岸水紀行(12) 上部用水(2)・三筋の水路

2016-01-18 08:40:55 |  ・加古川市東神吉町

 今回の報告も『砂部あれこれ』(喜多正人著)をお借りしています。

      上部用水(2) 三筋の水路

 上部井用水の流路は、東岸の用水(五ヶ井用水)と同じく、たび重なる加古川の氾濫により平野部の流路が変わってゆく伴い、その旧流路と分流を利用してつくられた灌概用水路と思われます。

 上記の図(上部用水略略図)をご覧ください。

 姫路藩により、万治2(1659)に升田堤が築かれ、加古川の本流がせき止められて西加古川が消滅したのちも、しばらくの間は従来のままの神吉庄水路が使用されていました

 神吉庄水路の水は神吉や砂部(いさべ)の水田を潤すだけでなく、その下流部の平津・米田・伊保方面の田畑にも利用されていました。

 下流部で新田が開発されると共に用水が更に必要となりました。

 さらに、二つあった加古川の流路の片方の西加古川、西加古川の用水を利用していた米田村と塩市村(共に現高砂市)では、新しい安定した水の確保が必要になりました。

 そこで、元禄時代(16881704)になってから、現在の池尻橋の上手(里村宇上部)に新しく堰をつくり、ここから引き入れた水を升田堤の別々の場所に設けた三つの樋門(神吉庄・平津庄・伊保庄)を通じて各水路に導くようになりました。

 でも、大きな問題がありました。これら「三庄」と「大きな問題」は、次回紹介します(no3086)

 *図:上部用水略図(『上部井土地改良区誌』より)*赤の彩色部が神吉水路

 *『砂部あれこれ』(喜多正人著)参照

 

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