ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(213):天満大池物語⑯・六分一村の古文書

2010-05-25 14:03:49 |  ・稲美町 天満大池物語

  六分一村の古文書類

Inamimachi4_020 ある学習会の都合で、天満大池について調べてみる必要ができました。

いつものことながら、『稲美町史』から調べはじめます。

なんとか「天満大池物語」としてまとめてみました。

でも少し、物足りなさが残ります。

そんな時でした。

地元の方に、「天満大池について史料等はないでしょうか」と相談してみました。

すると、天満大池土地改良区や六分一水利組合を紹介してくださいました。

それだけでなく、一緒に付き合ってくださいました。

稲美町の方は親切です。ありがとうございました。

紙面を借りてお礼申し上げます。

江戸時代の古文書の現物は見ることはできなかったですが、江戸時代の六分一村の古文書のコピーがあり見せていただけました。

また、六分一水利組合では明治時代以降の書類がたくさん保存されていました。

それらも見せていただけることになりました。

まだ、ざっと目を通しただけですが、水利組合保存する文書類ですから江戸時代の古文書も明治以降の文書類も水利に関する文書殆んどで、それも「係争」に関するものが多いようです。

宿題ができました

Inamimachi4_026 これらの文書の内容を明らかにすることにより、江戸時代・明治時代の六分一村とその周辺の村々の事情が明らかにできそうです。

でも、困ったこがあります。

古文書がよく読めません。

詳しい方は、手伝ってください。

さいわい退職の身、時間がいっぱいあります。

「文書」としばらく格闘しようと思います。

そして、文書類を整理しながら、その都度明らかになった事柄をお知らせしようと考えています。

地域史は、こんなことに出くわすから面白いんです。

写真上:字大池之図(明治9年5月作図)

  下:明治26年の(水利)訴訟関係綴り

  共に六分一水利組合蔵

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稲美町探訪(212):天満大池物語⑮・天災にも注意を!

2010-05-24 15:42:01 |  ・稲美町 天満大池物語

Inamimachi4_012 昨夜から雨が続いています。

雨は、天満大池は大池の水を満たし、やがて始まる田植えの準備をします。

大池の水は多くの流(りゅう)からも集まりますが、主に喜瀬川(喜瀬川の上流部を地元では枯川といっている)の水が天満大池に流れます。

   天災にも注意を

天満大池の南西隅に喜瀬川からの取水堰(写真上)があります。

昔は、この周辺には人家がありませんでした。

従って、大雨で水が堤防を溢れるようなことがあっても、被害は、大きくはありません。

最近は事情がちがっています。多くの住宅ができました。

喜瀬川の水が溢れては大変です。

1945109日には、台風の大雨と上流部の長法池(ながのりいけ)が決壊したことが重なり、大洪水がおきています。

最近は、集中豪雨も増え、台風も大型化する傾向にあります。警戒が必要です。

   天満大池への取水・排水堰は改善されたが

Inamimachi4_014 そのため天満大池の取水堰は、流がスムーズに行われるよう大幅に改良されました。

以前は水の取り入れ口のすぐ下に堰をつくり、水を天満大池に取り入れ、余った水はその堰を越えて流れる仕組になっていました。

が、現在は取水堰のすぐ横に設けられたゲートは、調節できる転倒ゲートになりました。(写真中)

Inamimachi4_018 また、満水の時は取水堰のゲートは下げられ、喜瀬川の水を、そのまま下流に流すようになりました。

そして、大池の水を吐き出す洪水吐(写真下)を、取り入れ口から少し西にずらし、配水しやすくしています。

それにしても、最近は予期せぬ天候が全国でしばしば起きています。

施設にたよることなく、防災についても注意が必要のようです。

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稲美町探訪(211):天満大池物語⑭・天満大池「ため池百選」に

2010-05-21 12:49:51 |  ・稲美町 天満大池物語

   天満大池「ため池百選」に選ばれる

122 農林水産省は、このほど日本の「ため池百選」を選びました。

兵庫県から歴史や景観そして農業での重要な役割を果たしている池として、全国でもっとも多くの6カ所が選ばれました。

そのうち播磨から百選に選ばれたのは、天満大池(写真)、寺田大池(加古川市)、「いなみ野ため池ミュージアム(明石、加古川、高砂市、稲美、播磨町)」、西光寺野台地のため池群(姫路市)、長倉池(加西市)です。

昨年、全国から応募のあったため池の中から、まず生物の多様性や地域とのかかわりなどの基準を満たす287カ所百選の候補になり、一般の投票の結果などを参考に有識者による選定委員会が決定しました。

同省農村振興局防災課の担当者は「百選にはそれぞれに特色があり、地元の『売り』になるはず。

ため池サミットなどを開いて、地域間の交流につながれば」と話しておられます。

<ため池ミュージアム>

 東播磨地域(明石、加古川、高砂市、稲美、播磨町)には県下で最大の加古大池や最古の天満大池などのため池、絶滅の心配のある生き物が暮らすため池などがたくさんあります。

それらため池は、多くは水路で結ばれ群れを成して存在しています。

とりわけ印南野台地のため池は密集しており、文化財としても価値のあるものです。

「ため池ミュージアム」は多くの人の協力のもと安全・安心で快適な水辺づくりと魅力ある地域づくりを進める会です。

*神戸新聞参照

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稲美町探訪(210):天満大池物語⑬・大池と秋祭り

2010-05-20 16:09:26 |  ・稲美町 天満大池物語

  天満神社の秋祭りと大池

稲美町の10月は秋祭りの季節でした。

天満神社の秋祭りは、明治41年までは陰暦9月9日に行われましたが、明治42年より新暦の1015日に行われるようになました。

そして現代は、10月の第2土曜日(宵宮)・日曜(本宮)に行われます。

秋の収穫はまだ始まらないのですが、その年の作柄は大体予想できる時期です。

農村にとって、秋の秋祭りは地域の最大の祭りでした。

288ca140  神輿渡御(みこしとぎょ)

勢いよく神輿(みこし)は、天満神社の周囲をめぐります。

そして、大池のほとりまで行って神輿を水に沈めます。

まず、天満神社の方向から北池に、お神輿を投げ入れます。

そのあと、かつぎても池へ飛び込み、お神輿は3,4回浮き沈みさせます。

大きな歓声が起こります。

大池は天満地区の農地の半ば以上の用水池です。

大池の満水と五穀豊穣を祈願する信仰から、この行事を行うようになりました。

   賑わいと喜びが溢れていました

6b1a0270 午後の2時過ぎから始まったみこしの行事は終わりに近づき、池の堤を南へ向かってお旅所へ渡るころには、網秋の短い日は西に傾き初めています。

池の西南端のお旅所で式があったあと、再び本殿のほうに帰ってくる頃はもう薄暗くなります。

写真下は、昭和初期のお旅所での神事を終えて天満大池の堤を本宮へ帰ってきている時の写真です。

辺りは夕闇に包まれています。

秋祭りの賑わいと喜びがありました。

それにしても、今の大池の堤と比べて、土手と水面が近いですね。

*写真上:神輿渡御(『稲美町史』より)

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稲美町探訪(209):天満大池物語⑫・アサザ②

2010-05-19 14:10:03 |  ・稲美町 天満大池物語

Inamimachi4_003 「稲美町探訪(208)」でアサザを紹介しました。

それに「・・(アサザ)を、まだ見たことがありません。見たことのない花について紹介することは、ちょっと読者に失礼なような気がする・・・」と書きましたが、さっそく「今、天満大池から移植したアサザが万葉の森に咲いています・・・」というコメントをいただきました。

小雨でしたが、万葉の森に出かけました。

スリッパで出かけたものですから、滑って靴下がビショぬれになってしまいました。

黄色い可憐なアサザ(写真)がいっぱい咲いていました。

  アサザ万葉集に詠まれる

帰りにハンドルを握りながら、「万葉の森に移植してあることは、万葉集にアサザが詠われているのではないか?」と思い、調べてみました。

万葉集に一首だけですが、アサザが詠まれています。

一緒に詠んでおきましょう。

 「アサザ結垂れ・・・それそ吾が妻」

うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひた)土に

足踏み貫き 夏草を

腰になずみ いかなるや 人の児(こ)故え

通はすも吾子(あご)うべなうべな 母は知らず

うべなうべな 父はしらず

Inamimachi4_006 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に ま木綿(ふゆ)もち

アサザ結い垂れ 大和(やまと)の

黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)を 押へ挿す

うらぐわし児 それそ吾(あ)が妻    

万葉集巻13の3295(作者不詳)

三宅の原を はだしで歩いて 足を痛め

夏草に 腰をからまれて まあ! どのような 娘ごだろうか

せっせと通うのか我が息子よ 

母上はご存知ないだろう 父上もご存じないだろう

黒髪に木綿の緒で アサザを結いつけて垂し

大和のツゲの櫛で押さえている 本当にきれいな娘

それが私の妻です

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稲美町探訪(208):天満大池物語⑪・アサザ

2010-05-18 11:57:58 |  ・稲美町 天満大池物語

213ce2c9 天満大池のアサザを紹介したいのですが、まだ見たことがありません。

見たことをない花について紹介することは、ちょっと読者に失礼なような気がします。

今年、秋の天気のよい日に水面に広がるアサザを見学し、紹介したいと思います。

水面に揺れる黄色いアサザの花が待ち遠しいです。

その時は、アサザ上をトンボが飛んでいるかもしれません。

きょうは、パンフ『天満大池地区』(兵庫県三木土地改良事務所発行)に大池のアサザの説明と写真がありますのでお借りします。

   アサザ(絶滅危惧種)

25c9670f (パンフ『天満大池地区』より)

天満大池には絶滅の恐れのある水生植物「アサザ」(兵庫県版レッドデータブックでAランク、日本版レッドデータブックの絶滅危惧種相当)が生育しています。

アサザは、ミツガシワ科の多年生植物で、夏にはキュウリに似た黄色い花を咲かせます。

かつては本州以西のため池・水路などに群生していたのですが、池の埋め立て工事、水質の悪化により、ここ10年くらいの間に急速に減少しています。

兵庫県では、天満大池など数ヶ所で確認されているのみとなっています。

375fd2f5 平成元年頃に工事のためか、いったん姿を消したアサザですが、平成8年夏に再び姿を現しました。

このことからアサザを保護しようと、行政、自然保護団体、地元住民が協力して移植作業をおこなうことになりました。

    写真上:アサザを丁寧に掘り起こして、移植しているところ

写真中:アサザの花(直径3cmほどの黄色い小さな花)

写真下:水面一面のアサザの群落(平成9年初秋撮影)

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稲美町探訪(207):天満大池物語⑩・水争い

2010-05-17 15:47:54 |  ・稲美町 天満大池物語

天満大池の水源は、神出の天王山(雌岡山)あたりの水です。 

掌中流は、それらの水を蛸草郷(中村・森安村・六分一村・国安村・北山村・岡村の六ヵ村)に運ぶ大きな流(りゅう)でした。 

それだけに、この流をめぐる争いは古くからあいつぎました。 

    岡流 (おかりゅう)

099 掌中橋から約1キロ掌中流を上流に歩くと手中池(神戸市西区)に着きます。

掌中流は、手中池に沿ってさらに雌岡山の方へ続いています。 

掌中流は幅が広く、深いおきな流です。 

この流(りゅう)は、手中池から一気に内ヶ池に沿って流れ、溝ヶ池に集まります。 

そして、岡の田畑を潤し天満大池に再び集まります。 

天満大池の水は、古くから蛸草郷の村々の水源です。 

掌中流は、印南新村を突っ切りながら、印南新村を潤す水ではありません。 

印南新村が、この水を使ったり、池を造ろうとした時には蛸草郷の村々から抗議がありました。 

掌中流(てなかりゅう)は岡流ともいいます。つまり、岡村・岡の大池(天満大池のこと)への流(りゅう)でした。 

   明石藩の村々との水争い

困ったことが起こりました。

手中池は、現在は神戸市西区です。江戸時代は明石藩に属していました。 

印南新村と同じで、手中池の辺りは高台で水が十分ではありません。 

元和7(1621)この掌中流をめぐって争いがこりました。 

掌中流の上流の百姓は、新池を築いたのです。 

これに対して蛸草郷の村々は「新池を造られては、蛸草郷に水がこないので中止して欲しい・・・」と抗議をしました。 

他藩とのもめ事の解決は、しばしばこじれます。 

しかし、この時は蛸草郷の要求は、すんなりと認められました。 

これは、姫路藩主と明石藩主が義理の親子関係があり、話は比較的スムーズに進んだためと思われます。 

しかし、いつもそのようにうまく事が運ぶわけではありません。 

その後も堰を築いたり、それを壊したりの事件が、くりかえされています。 

しかし、大体において既得権が優先し、蛸草郷の要求が通っています。

*写真の橋は掌中橋、その下の流が掌中流(岡流)

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稲美町探訪(206):天満大池物語⑨・池大神

2010-05-16 19:32:42 |  ・稲美町 天満大池物語

国安天満神社の沿革

115 『稲美町史』より国安天満宮の沿革をみておきます。

①国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建されたもという。

その場所は、国安東で、現在の神社のある地をお旅所としていた。

寛平5年(893)社殿を今の地に移し、池大明神(大年大神)を祀った。

天満大池は、白鳳3年(675)に築造された。

 

②延喜元年(9012月、菅原道真がこの地に立ち寄られたという縁で、後に京都の北野天神を勧請して池大明神の右側に奉納した。 

③明徳元年(1390)、大池に島を築き弁財天を祀るとともに、本社の主神の左側に弁財天すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀った。 

④永禄8年(15656月、本社を再建したが、この時に主神を天満天神(菅原道真)とした。 

    池大神

①に注目ください。祭神の池大明神は大池を神格化したもので、伝承はともかく大池の歴史は古く、白鳳の頃には築かれていたらしい。 

この地域を開拓した人々にとって、池(水)はまさに神であり、大池は池大神として祀られたのでした。 

先ず池大神が、次いで菅原道真が「この地に立ち寄られたという縁起」で、祀られました。

そして、「永禄8年(1565)、本社を再建した時に、主神を池大神から天満天神(管原道真)とした」というのです。 

天満神社は、池大神をお祀りする神社として出発しています。

天満大池そのものが御神体でした。

まさに、天満大池は稲をそだて、生活を豊かにしてくれる神だったのです。

池とともに生活した、古代の人々の水に対する気持ちが伝わってきそうです。

*写真:国安天満神社

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稲美町探訪(205):天満大池物語⑧・天満大池の伝承

2010-05-15 09:11:45 |  ・稲美町 天満大池物語

 いま、シリーズで「天満大池物語」を取り上げています。

今までに紹介した話題も再度紹介しています

きょうは「稲美町探訪(12)・天満大池の伝承」の再録です。

ご了承ください。

  天満大池 

すでに紹介したように、天満大池はかつて「岡大池」とも「蛸草大池」とも呼ばれ、白鳳三年(675)に築かれたといわれています。

「蛸草大池」の名称は、寛文6年(1666)の絵図面にもあり、おそらく「蛸草庄」を潤す「大池」として名づけられたのでしょう。

この天満大池には、次のような伝承があります。

E3a1760f 天満大池の伝承

室町時代前期にあたる1390年の正月のころでした。

ある僧がこの地にやってきて天満神社に逗留することになりました。

このころ夜になると雑魚(ざこ)が、プカプカ浮かぶのでした。

人々は怪しんで、このことを僧に相談すると、僧は「大池に弁財天はあるか」とたずねました。

村人は「ありません・・」と答えると、僧は「このような大池には、きっと竜が住んでいるはずだ。

これは竜の仕業である。島を築いて弁財天を祀るがよい・・」といいました。

村人は急いで島を築き弁財天を祀ると、その怪しいことがビタリと止んだといいます。

*弁財天は、女神でもとの姿は蛇です。

弁財天は、人々に富をもたらし、水を司る神としてあがめられていました。

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稲美町探訪(204):天満大池物語⑦・砂留池

2010-05-14 09:09:49 |  ・稲美町 天満大池物語

絵図面は「稲美町探訪(202)」でも紹介した江戸時代の前期・寛文6年(1666)の蛸草大池(天満大池)の部分です。

江戸時代、天満大池は「蛸草大池」と呼ばれていたことは前号で見たとおりです。

きょうは、この地図の蛸草大池に流入する流路の途中の小さな「砂留」とかかれた池に注目ください。

小さくてわかりにくいですが、拡大してみてください。

(写真をクリックすると拡大します)

蛸草大池に一番近い池に「砂留」とあります。

   流(りゅう)は天満大池に土砂を運ぶ

4a9dc40e 「砂留」の池と何でしょうか。

池は、非効率な代物です。

都会の人は「もっと深い池を造ったら、こんなに大きな池はいらないのに・・・」といわれるかもしれません。

でも、池を深くすると、池の水はどうやって、くみ出せばよいのでしょう。

深いところの水は、排水されません。その水は、よどんで腐ってしまいます。

ですから、多くの場合、池は浅く、大きな「皿池」状にならざるを得ません。

 それに、印南野台地は、傾斜地です。

昔の流(りゅう)は、当然のこととしてコンクリートで固めていません。

雨の時、天満大池に勢いよく流れ込む水は、土手を削り、底を削り大量の土砂を大池に運びます。

池は、ますます浅くなります。

大きな池に土砂が多量に運ばれたら、それを除くことは大変な作業となります。

そこで、土砂がたまりやすい大きな池の手前に小さな池をつくり、そこで土砂をいったん沈殿させ、土砂の少なくなった表面の池の水を大きな池に取り込むようにします。

小さな池ならば、土砂の除去は比較的能率的にできます。

 「砂留」の池は、土砂を沈殿させる池なんです。

 そんな小さな池は、ドンドン埋め立てられ少なくなりました。

*流(りゅう)・・・池に流れ込む自然の水路

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稲美町探訪(203):天満大池物語⑥・岡大池、蛸草大池そして天満大池へ

2010-05-13 00:04:35 |  ・稲美町 天満大池物語

  北山・中村・森安・六分一・国安・岡の村々は蛸草庄の村々

前号で、平清盛は播磨国印南野に代々子孫に伝えることのできる特別な荘園・五箇荘(ごかのしょう)を賜りましたが、平家滅亡後これらの荘園は没収され、関東から武士(源氏系)が大量に流入し、播磨の中世は始まったことを学習しました。

そして、江戸時代の中期の元文二年(1737)の国安の明細帳に「加古郡五ヶ庄蛸草谷国安村」とあるので、平氏滅亡後も「五ヶ庄」の名称は使われていたようです。

蛸草庄は「五ヶ庄」の一部で、今の北山・中村・森安・六分一・国安・岡の六村とその周辺の地域を指していました。

  六村は蛸草大池郷

66bb6bf2 「蛸草庄」は、どこに税を納めていた庄園なのか等の詳細は分かっていません。

これらの六村は、天満大池から水の供給を受けており蛸草大池郷でした。

そのため、中世(鎌倉・室町時代)から江戸時代にかけて、「岡大池」は「蛸草大池」と呼ばれるようになったようです。

前号の天満大池の絵地図(寛文6=1666年)も「蛸草大池」と記載されています。

 蛸草大池から天満大池へ

そして、明治2241日、中村・岡村・六分一村・国安村・森安村・幸竹新村・和田新村・北山村・国岡新村・中一色村の10ヶ村が合併して天満村が誕生しました。

それに伴い、蛸草大池は徐々に天満大池と呼ばれるようになりました。

  「蛸草」の名称復活

現在の天満蛸草については「稲美町探訪(79)」をご覧ください。

 少し復習をしておきます。

 現在の天満蛸草も「蛸草庄」に属しており、江戸時代も「蛸草大池」等の名称は残りましたが、地域の名称としての「蛸草」は室町時代で一度消えました。

そのため、現在の天満蛸草と蛸草庄との繋がりはありません。

現在の蛸草は、江戸時代に開発された新田村につけられた村名です。

*図:「赤く塗ったところは天満大池の灌漑地域(右下・第1ポンプ場)」(パンフ・『兵庫県天満大池土地改良区』より)

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稲美町誕生(202):天満大池物語⑤・蛸草大池

2010-05-12 10:18:11 |  ・稲美町 天満大池物語

  蛸草は五箇荘のうち蛸草庄 

2470719a 右の絵図面(江戸時代前期寛文6=1666年)をご覧ください。池は、現在の天満大池ですが「蛸草大池 」と書かれています。

「蛸草」について少し調べておきましょう。

以下の記事は、ほとんど「稲美町探訪(78)」の再掲です。

  五箇荘(ごかのしょう) 

平清盛は、播磨国印南野に大巧田(だいこうでん)を賜りました。 

仁安2年(1167)のことです。 

功田(こうでん)とは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。 

中でも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。 

しかも、無税地です。 

平家が賜ったこの私有地(荘園)は、五箇荘(ごかのしょう)と呼ばれています。 

五箇荘について『加古郡史』は、「野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村をいう」とあります。 

しかし、近年の研究では五箇荘は、現在の稲美町は当然のこと、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。 

私たちの地域は、平氏の支配する五箇荘に属していました。 

しかし、平家滅亡後は、平氏の持っていた所領は全て没収されました。 

そういう没収された平家の所領を平家没官領(へいけもっかんりょう)と呼んでいます。 

この平家没官領に新しく関東から武士(源氏系)が大量に流入し、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。 

    五箇荘のうち蛸草庄  

時代はずっと下がるのですが、江戸時代中期、元文二年(1737)の国安の明細帳に「加古郡五ヶ庄蛸草谷国安村」とあります。 

「五ヶ庄蛸草(谷)」に注目ください。 

蛸草庄は、かつての平氏の時代の五箇荘の一部で国安をはじめ、森安・中・北山・六分一・岡とその周辺を含む地域を指しています。 

かつて、蛸草庄の地域は、蛸草郷とも蛸草谷とも呼ばれていました。 

それにしても「蛸草」とは不思議な名称です。 

この地域は、開発当時「高い草」つまり「たかくさ」が茂っていたところから名づけられたと言うのが有力な説ですが、確かなことは分かっていません。 

蛸草庄の範囲は、天満大池の水を共に使う村々でした。

まさに、蛸草(庄)の大池でした。

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稲美町探訪(201):天満大池物語④・岡の大池

2010-05-11 07:35:42 |  ・稲美町 天満大池物語

887bf7f6 「天満大池物語②」を一部復習します。

印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点に西に、そして南に低くなる地形となっています。

印南野台地に降った雨は、印南野台地の坂を南西に流れ下ります。

天満大池辺りに住みついた大昔の人々は、「ここに堤防をつくれば、水がたまる」と考えたのは自然だったと想像します。

天満大池が造られたのは、伝承では白鳳三年(675)で、兵庫県で一番古い池といわれています。

 それはともかくとして、古い池です。

造られた池は、築堤の技術的な問題もあり、現在よりも小さな池であったと想像されます。

曇川は、曇った時にだけ水があるから「曇川(くもりがわ)」といわれほどで、安定して水を流域(賀意理多の谷)の水田に供給きませんでした。

 大池の水は、それを補い豊かな稔をもたらす水源となりました。

    

岡の大池

 天満大池辺りの地形は西から見ると一段と高くなっています。その地形が雌岡山まで高度を上げながら続いています。

 以下は推測で書いています。

 大池のあたりの地形は、西から見ると普通名詞のいわゆる「岡」でした。

やがて、その周辺の集落は人口が増え、固有名詞の「岡(村)」と呼ばれるようになったと想像します。

 できた池は、最初の頃は何の飾りもなく「池」あるいは「大池」と呼ばれていたのかもしれません。

やがて、大池の周辺に住んだ人々は、この池を「岡の池(大池)」と呼び、やがて正式な名称になったと思われます。

繰り返しますが、以上は推測です。 

*きょうの記事は、「稲美町探訪(80)」と重なります。

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稲美町探訪(199):天満大池物語③・雨は天満大池に集まる

2010-05-09 07:33:53 |  ・稲美町 天満大池物語

「天満大池物語①・②」で曇川を西から天満の大池まで遡ってきました。

今度は、雌岡山から西へ天満大池までの地形を見ましょう。

   印南野台地は南西に低い地形 

Dcaf63e1 『兵庫探検・続歴史風土編』に説明があるので、転載させていただきます。 

・・・神戸市西区神出町の雌岡山(めっこうさん)に立つと、印南野が一望の下に見渡せる。

標高241メートルの低い山だが、ぐるりに高い山がなく、視界はぐんぐん開けている。

・・・加古川や高砂の市街地が霞んでいる。

播磨灘からだんだんに高まってきた海岸段丘の、頂点にあるのが雌岡山だった。

いい換ると、目の下の台地は雌岡山から南西にかけて漸次低くなり、そしてここに数えきれないほどの溜池が散在していた。・・・ 

以上が『兵庫探検』の説明の一部です。

図をご覧ください。印南野台地は、大まかに言えば、雌岡山あたりを頂点に西に、そして南に低くなる地形となっている。

これは、六甲山の変動(六甲変動)に伴う現象です。 

雌岡山から天満の大池(図の黒く塗りつぶしたところ)にかけての印南野台地に降った雨は、矢印のように印南野台地の坂を南西に流れ下ります。

天満大池辺りに住みついた大昔の人々は、「ここに堤防をつくれば、水がたまる」と考えたのは自然だったと想像されます。

天満大池の地は、印南野台地に降った雨が集まる場所に位置しています。

*きょうの記事は「稲美町探訪(6)」と重なります。

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稲美町探訪(198)・天満大池物語②・賀意理多の谷

2010-05-08 08:15:13 |  ・稲美町 天満大池物語

  少ない古代遺跡

稲美町の歴史を探訪するとき、「少し寂しい・・・」と感じることがあります。

稲美町の縄文・弥生・古墳時代のイメージが湧いてこないんです。

『稲美町史』を読んでみても、稲美町の古代史の記述があまりありません。

今、手元に『文化的景観“稲美のため池群”保存活用計画(報告書)』(兵庫県稲見町)があります。

そのⅠ‐36には町内の古代の「遺跡分布図」の図があり、遺跡の場所が示されています。

そこは、かつて土器片等が発見された場所ですが、当時の人々の生活があった遺跡ではありません。

今後、古代遺跡の発見が期待されます。

古墳等は、池の築造時つぶされたのか、「四ツ塚池」のような名前を残すのみです。

   古代の水田跡は消えた!

690ea3d1 話題を曇川にもどします。曇川は稲作が早くから始まった地域です。流域のどこかに弥生人が住み、弥生遺跡等があったはずです。

普段は雨の少ない曇川ですが、大雨の時は急流となり、時には洪水を起こし、水田を流し、周辺の土地を削り、谷を形成してゆきました。

古代の水田跡は流され、痕跡を残さなかったと考えられます。

曇川の北(国安から北山のかけての台地)と南(六分一から向山かけての台地)で弥生遺跡や古墳の発見があるかもしれません。

   賀意理多の谷

曇川流域の北と、南は少し高い台地です。曇川の流域は谷の地形をつくっています。

奈良時代に編集された『風土記』にも、曇川流域の記述があり、この谷を「賀意理多の谷(かおりだのたに)」と呼んでいます。

東西に伸びた「賀意理多の谷」が東に突き当たったところは少し高い「岡」となっています。

そこから雌岡山に向かって平均130分の1の勾配で徐々に高くなる地形が続いています。

天満大池は「賀意理多の谷」が東に突き当たった場所にあり、「賀意理多の谷」に広がる水田に水を供給しています。

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