ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

野口を歩く(7):教信・祈りに生きた僧(3)

2012-09-30 06:53:52 |  ・加古川市野口町

A Priest Living in Pray Buddhism (3)

Gasyou_048While Kyoshin advanced Buddhism to the farmers, he also labored in engineering works and he constructed ponds in the Inamino Plateau.

Umayaga Pond which is the east of Noguchi Agricultural Cooperative Association is said to be the one of these ponds.

Umayaga Pond was more than 12ha. originally.

But, now due to residential land development, it has decreased largely.

Kyoshin was respected by many people and his name was widely known.

Many anecdotes about him are left behind.

In Konjaku Monogatarii, there are stories about him.

(対訳) 教信 祈りに生きた僧(3)

教信は農民に「祈り」を説く一方、土木事業にも力を注ぎ、印南野台地に池を築きました。

野口農協(加古川市野口町)の東の駅ヶ池(うまやがいけ)は、これらの池の一つであるといわれています。

駅ヶ池はもともと12ヘクタールもある大きな池でした。

しかし、現在、宅地開発のため大きく減少しました。

教信は、多くの人に尊敬され、彼の名前は広く知られていた。

彼については多くの逸話があります。

(下手な英訳はこの辺でやめておきます。次号では、教信の伝承(逸話)について紹介します)

 *写真:駅ヶ池(うまやがいけ)

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野口を歩く(6):教信:祈りに生きた僧(2)

2012-09-29 06:59:53 |  ・加古川市野口町

A Priest Living in Pray of Buddhism (2)

C6399eb1 Kyoshin arrived at Noguchi at the west corner of the Inamino Plateau.

This was the place of Kakono Umaya (the station of the Sanyo Road).

Noguchi was near the shore and beautiful place. Above all, the people there were warmhearted.

Kyoshin was pleased with Noguchi and decided it was the best place for him to practice Buddhism. He built a hermitage here.

Kyoshin taught many people, help with agricultural activities and carried burdens for neighboring farmers.

When there was spare time, he recited the Namuamidabutsu (the sutra) heartily.

*Kakono Umaya - The station in Kakogawa which was placed on the ancient Sanyo Road. It was called Kakono Umaya and played a role in the traffic and lodging for government officials. Kakono Umaya took charge the transportation between Akashi and Himeji.

  (対訳) 祈りに生きた僧(2)

教信は、印南野の西の端、野口に着きました。

ここは「加古の駅(うまや)」が置かれている場所です。

野口は海岸に近く景色の良い場所でした。

なかんずく、野口の人々は親切でした。

教信は野口が気にいり、ここを祈りの実践のもっとも良い場所であると決めました。彼は、一軒の粗末な家を建てました。

教信は、人々に仏を説き、農作業を手伝いました。

時間ができると彼は一心に「ナムアミダブツ」を唱えました。

・・・・

*古代山陽道の駅(うまや)は「加古の駅(かこのうまや)」と呼ばれました。「加古の駅」は交通や官人の宿の役割を果しました。「加古の駅」は明石と姫路の間の輸送の任務を負っていました。

*図:点線が古代山陽道のバイパスで、よくつかわれました。図のNoguchi(現代の加古川市野口町)に加古の駅が置かれていました。古代山陽道は海抜10メートルの等高線にほぼ沿ってつくられています。

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野口を歩く(5):教信:祈りに生きた僧(1)

2012-09-28 00:08:57 |  ・加古川市野口町

教信・祈りに生きた僧(1)

 教信は、平安時代初期の念仏僧で、親鸞・一遍が師として仰いだほどの人物です。

以前、教信を「A Priest Living in Play of Buddhism」と題して英文で紹介したことがあります。

この偉大な教信上人を広く世界に広める気概も込めて、3回シリーズで教信について掲載させていただきます。

対訳(直訳)をつけておきましたので、あわせてお読よみください。

Kyoshin A Priest Living in Play of Buddhism 

(1)

PhotoThis is Kofuku-ji temple in Nara and this temple was for the Fujiwara family.

This temple was the most influential in the Heian and Nara periods.

The priests of Kofuku-ji temple came to think that they were superior to others.

Kyoshin was among those priests. Somehow, he retained unresolved troubles in his heart.

Kyoshin noticed that Buddha taught us to be content living among poor persons.

When Kyoshin considered such things, he did not hesitate to leave Kofuku-ji temple.

  After he left Kofuku-ji temple, he learned of the stern realities of farmers .

They were troubled by much land tax and worked under sever conditions.

(対訳)  教信:祈りに生きた僧

ここは奈良の興福寺です。そしてこの寺は、藤原氏の氏寺でした。

この寺は、平安・奈良時代、大きな影響力を持つ寺で、興福寺の僧たちは他の者(僧)よりも優れていると考えるようになりました。

教信もそれらの僧の中の一人でした。教信は、「仏さまは、貧しい人々の中で生活してこそ満足を得ることを教えている」とさとりました。

教信は、そのよう考えると、興福寺を離れることに躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。

興福寺を離れた後、彼は生活の厳しい厳実を知りました。農民たちは高い年貢に苦しみ、厳しい生活をしていたのです。

写真:桜の中の教信寺(加古川市野口町野口)

Kyoshin-ji temple is covered in cherry blossoms in spring.

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野口を歩く(4):一遍の死

2012-09-27 08:18:25 |  ・加古川市野口町

一遍の死と教信寺

Photo一遍の死について書いてみます。

一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。

ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。

「正応2 年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50 歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。」

死地を求めて

一遍は、正応2 年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。

それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。

そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。

教信寺で眠りたい・・・

夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、このまま行き倒れるのだろうかと思いました。でも、できることなら、あの白い砂の輝いている明石へゆきたい。

そして、野口へ行き、心をよせている教信の墓の傍で死にたいと思うのでした。

幸にして、七月十八日に、ようやく海を渡って対岸の明石の浜辺につくことができました。

明石から、印南野の教信寺まで、すぐ目と鼻の先です。

一遍は、体力の衰えたその瞬間も、ひそかに心に期していました。

「念仏を信じ、念仏をとなえ生涯を終えた、教信のそばで眠りたい」と・・・この時、早い秋の雨が、海辺をぬらしていました。

真光寺へ

明石についた一遍の一行を待っていたのは兵庫からの信者の出迎えでした。

ようやく臨終の地に臨もうとした一遍は、もはや生きて野口に行く体力の自信をなくしていました。

一遍は、兵庫の真光寺へ向かいました。真光寺で静かに51 歳の生涯を終えました。

この時、一遍にもう少し体力が残っていたなら、きっと一遍は教信寺の教信の五輪塔の傍で眠っておられたことでしょう。

*「一遍の死」は、前号に続き加古川市観光協会の「加古川探求記・ぶらり野口編」に投稿した文章です。

*写真:真光寺(神戸市)の一遍上人の五輪塔

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野口を歩く(3):野口念仏

2012-09-26 08:39:31 |  ・加古川市野口町

    

     野口念仏

3e7b5541  教信寺に来ています。境内は、お彼岸を過ぎたのに、暑い日差しが続いています。

いましがた住職が僧坊に帰えられるお姿をお見受けしました。

 914日の夜、野口念仏(91315日)に出かけました。境内では夜店で子どもの歓声がありました。踊りの音があふれていました。

 本堂では旭堂南海さんの講談が行われました。

今はそんなザワメキが消えて境内には静かです。鐘楼に腰を降ろして休んでいるのは私だけでした。

がらにもなく、一遍(写真)・教信寺・踊念仏の事を考えています。

    

     野口念仏のはじまり

一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。

この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。

ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。

彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。

一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよ をどらばをどれ 春駒の のり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。

以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。

何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。

踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。

一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、元軍が攻めてくるという社会不安も重なりました。

人々は何かにたよろうとしました。それは神様であり仏様でした。

そんな不安な時代の中で、人々は一遍をとおして阿弥陀様の声を聞いたのです。

人々のエネルギィーが爆発しました。

      

     時宗の衰え

鎌倉時代・室町時代、一遍の教えは踊りとともに、民衆の中に爆発的に広がりました。

野口念仏 は、一遍の亡き後も時宗の踊念仏はますます民衆に広がっていました。

教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった 34 年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7 日間の念仏踊りを行いました。

これが、野口大念仏の始まりだといわれています。

しかし、現在、一遍の「時宗」は衰退して、ほとんどその活動を見ることができません。

それは、江戸時代の檀家制度によるものです。

檀家制度は、檀家を持たず信者をつくっていた時宗にとっては大打撃でした。

それでも、野口念仏は地域のお祭りとして賑わいました。が、最近の「ねんぶったん」は、昔と比べるとずいぶん寂しくなったそうです。

*この文は、加古川市観光協会の「加古川探求記‐ぶらり野口編‐」に投稿したものを一部修正しました。

*写真:一遍上人(神奈川県立歴史博物館蔵)

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野口を歩く(2):「野口」の地名

2012-09-25 07:11:51 |  ・加古川市野口町

野 口

Ac1cd4f6しばらく野口(加古川市野口町野口)の散策をします。

「野口」の地名について整理しておきます。

印南野台地(いなみのだいち)は、東は明石川、北は美の川、南は瀬戸内海に、そして西は印南野台地が加古川の氾濫原に落ち込む野口あたりに伸びる河岸段丘に囲まれた地域をいいます。 

地図で印南野台地を確かめてください。

ほぼ平坦な台地ですが、東が若干高く、西に行くにつれ徐々に低い地形を形成しています。

印南野は「万葉集」にも多く詠まれ、「枕草子」にも登場します。

ロマンチックな響きさえ持っています。

しかし、印南野台地は極端に水が少なく、開拓が進むのは、やっと江戸時代になってからで、長いあいだ人をよせつけない厳しい土地柄でした。

印南野台地の歴史については、後日取り上げることにします。

古代においての印南野台地は、荒涼とした風景が広がる地域だったのです。

司馬遼太郎の『播磨灘物語』に面白い記述があります。

「野口は印南野の西にあって多少の丘陵が起伏し、西から来る旅人にとって、いかにも野の入り口といった地形をなすため、そういう地名が出来たのであろう。・・・」

野口の地名は印南の入りの意です。

ついでに蛇足を書いておきます。播磨町に「野添(のぞえ)」という地区があります。

ここは印南台地にってできた集落という意味です。

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野口を歩く(1):野口村誕生

2012-09-24 06:28:55 |  ・加古川市野口町

 教信寺界隈を歩きます

しばらく、野口町野口の歴史探訪に出かけます。

少しお断りをしておきます。正確には「野口町野口界隈」を扱います。つまり、教信寺周辺を歩いてみようと思います。 

ですから、野口町野口以外の場所も少し含めて話を進めますので、ご了解ください。

タイトルは「野口を歩く」としておきます。

     

   野口村誕生

C6990390きょうは、第1回で「野口村誕生」です。 

江戸時代、現在の加古川市野口町の地にはたくさんの村がありました。

最初にそれらの村々を紹介しておきまそう。

寺家村・大辻村・水足村・広岡新村・有曽新村・白新村・北野村・坂元村・天王寺村・細田村・長砂村・坂井村・古大内村・二屋村の14ヵ村が江戸時代の村落です。

それらの村々は、明治2241日、新しい村制により合併し、「野口村」が誕生しました。

その合併に先立ち、明治初年に寺家村と大辻村が合併して野口村に、水足村と広岡新村が合併して水足村に、有曽地新村・白新村・北野村が合併して北野村に、天王寺村と細田村が合併して良野村となっています。

つまり、明治2241日、図のように野口村・水足村・北野村・坂元村・長砂村・坂井村・古大内村・二屋村が合併して、野口村が誕生しました。

新しい村名を「野口町」としたのは『兵庫県市町村合併史』(兵庫県総務部地方課)によれば「この地区の過半数の村が属していた『野口庄』の庄名をとって、村名とした」としています。

この時点で、水足村・北野村・・といった江戸時代の旧集落はなくなりました。

しかし、長い習慣とはおそろしいもので、現在でも、旧集落名をつかい「私の○○村は・・」という人も多くおられます。

なお、昭和25615日、平岡村・加古川町・神野村・尾上村、そして野口村が合併し、加古川市が誕生しました。

加古川市野口町の誕生です。

*地図:「兵庫県市町村合併史・上」(昭和37)より

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新野辺を歩く(82):「新野辺を歩く」ひと休憩②・新野辺の古文書

2012-09-23 08:40:24 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺の歴史探訪は面白い地域です。

 最後に、「新野辺を歩く(62)」の一部をもう一度読んでおきます。

    多くの古文書の残る地域

「面白いという理由」は、新野辺にはたくさんの古文書が非常にいい状態で保存されているからです。

『加古川市史(第二巻)』では、加古川市の他の地域よりも新野辺村についての紹介が多くされています。それは新野辺村に古文書が残っているためです。

村に残る江戸時代の古文書は、地方文書(じかたもんじょ)とか村方文書(むらかたもんじょ)と呼ばれていますが、新野辺に残る文書はそれだけではありません。

その外に、大庄屋・大歳家に1000点を超える文書(写真)が完全な形で保存されています。

大歳家の古文書は「大歳家文書」として歴史学会では広く知られていますが、十分に研究がなされていません。

大歳家文書については、現在、関西学院大学の羽田真也先生により本格的な研究が取り組まれています。

新野辺に残るこれら村方文書、そして「大歳家文書」の研究がさらに進めば、江戸時代の新野辺村のようすを浮きぼりにすることができます。

このことは、加古川市別府町新野辺だけでなく、日本の江戸時代の集落の一事例として貴重な財産になるはずです。

   古文書に取り組む

Img_5646新野辺には上記のように、たくさんの史料が残っています。

この古文書(特に村方文書)を読んでみたくなりました。

でも、残念ながら「読めない・・・」。簡単な英語が読めても古文書は読めません。

無謀にも、68才(昨年)の秋、古文書の勉強を始めました。

不思議なもので、毎日続けているとこの年齢でも少しずつ明かりが見え始めました。わかるところがふえはじめました。

英語の場合は「読み・書き・話す」という総合力を求められますが、古文書の場合は「書き・話す」ということは不必要で、もっぱら「読み」だけです。

それに、第一に日本語です。準備段階はなんとかクリアーできそうです。

近いうちに、新野辺町内会の許可を得て本番(新野辺村方文書を読む)に取り組もうと思います。

最近、めっきり記憶力・理解力に自信がなくなりました。「ボケ防止」にもなるかも知れません。

でも、個人ではすぐに限界がでてきます。次の段階は、仲間で「新野辺村方文書を読む会」をつくることです。

忙しくなりそう・・・

*「新野辺を歩く」は、ひと休憩しますが、随時新しい話題を付け加えることにします。

次回から野口町野口を探訪したいと考えています。

*昨日、高校の同窓会がプラザ・ホテルでありました。卒業後、50年目の同窓会でした。約100名が集まりました。

 たくさんの仲間が「ひろかずのブログ」を読んでいただいていました。新野辺の方もおられました。

 *写真:大歳家文書

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新野辺を歩く(81):「新野辺を歩く」ひと休憩①

2012-09-22 09:26:28 |  ・加古川市別府町新野辺

   

   「新野辺を歩く」が80号に

いま(921日)、午後1125分です。こんな時間に翌日のブログ「ひろかずのブログ」を書くことがほとんどです。

でも、退職の身分のため、明日のしごとを気にする必要はありません。

しなければならないのは、朝の9時ごろに孫を保育園に連れていくことぐらいです。

拙文を書く時間を楽しんでいます。

前号で「ひろかずのブログ」も1838号になりました。

別府町新野辺の歴史「新野辺を歩く」も80号となりました。

 

  町内会単位の歴史を

23e69adc最近、「ひろかずのブログ」は少し変わってきました。

というのは、加古川市の歴史は市史に紹介されているし、もう少し範囲の狭い町(ちょう)単位の歴史はそれぞれの公民館エリアである程度行われています。

でも、町内会の歴史となると野口町の「水足史誌」・平岡町「いっしき」そして「大野史」等の立派な著作があります。

私も、以前に「今福の歴史」書いたことがありますが、まだまだ少ないようです。

最近、この小さい地域(町内会)の歴史が面白くなりました。

この思いが強くなったのは、稲美町国岡の歴史を書いた時です。

その時は、国岡の多くの方々の協力してくださいました。

そして、小冊子をつくり国岡1400戸の全戸配布となりました。

感想も聞かせていただきました。本当にうれしかったです。

初めは、「こんな狭い地域の歴史は他の地域では興味をもっていただけないのでは」と思っていたのですが、他の地域の話題も含めて「ひろかずのブログ」の1日のアクセスがコンスタントに200300のアクセスがありました。

その後、史料が少なく十分な掘り起こしはできなかったのですが平岡町二股の歴史も書いてみました。

この時は、二股の大西晃さんが後にCDにしてくださいました。

そして、多くの方に配布していただいたとお聞きしました。

その後、大西さんとの連絡が少し絶えていました。

6月に、急に体調を崩されお亡くなりになりました。

ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

   「新野辺を歩く」ひと休憩 

「新野辺を歩く」は、80号になりましたのでこのあたりで内容を整理・訂正し、なんらかの形で新野辺の方に活用していただけるように纏めたいと考えています。

「新野辺を歩く(一部)」をしばらく休憩して、他の地区をカメラをぶらさげて歩いてみます。

もちろん、今後も「新野辺を歩く」は調べながら、その都度補強していきます。

*写真:新野辺にあった松の大木(大正78年ごろ撮影)、「新野辺を歩く(74)」をご覧ください。

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新野辺を歩く(80):加古川市誌 (第二巻)

2012-09-21 09:58:39 |  ・加古川市別府町新野辺

加古川市誌(第二巻)

Photo 私の机上に一冊の本(写真)があります。

『加古川市誌(第二巻)』です。(『加古川市史・第二巻』ではない)

1083ページの膨大な市誌です。

内容は「別府町の歴史」であり、加古川市全体の市史ではありません。

(加古川市全体の歴史の『加古川市誌(第一巻)』は554ページ)

いきさつはこうです。

昭和26101日、別府町は難産の末に加古川市と合併しました。

別府町と加古川市の合併の経過については、「新野辺を歩く(5053)・加古川市との合併」をご覧ください。

ともかく、別府町は加古川市との合併となりました。

その時、加古川市との「合併条件」の一つに「現在、編集中の『別府町誌』を完成すること」という一項がありました。

加古川市との合併後、この事業は継続されました。

昭和26年9月に始めた別府町史の編集作業でしたが、その後さまざまな理由で編集が遅れました。

20年を経て「別府町史」は、『加古川市誌(第二巻)』として、昭和46年に発行されました。

 別府町別府・西脇そして新野辺の歴史です。

 『加古川市誌(第二巻)』は膨大な割に、読みやすく編集されています。

 「新野辺を歩く」も、この市誌から多くを参考にしています。

そのため、加古川市の他の地区(町)より、その歴史(町史)を手軽に知ることができます。

  *写真:『加古川市誌(第二巻)』

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新野辺を歩く(79):新野辺の昔話・浜の宮松林

2012-09-20 08:08:33 |  ・加古川市別府町新野辺

Matu現在、浜ノ宮松林の松はずいぶん少なくなりました。

少し前までは、春は松露(しょうろ)、夏は緑陰、秋ははったけ等のきのこ狩り、冬は松葉かきと付近の人は松林とともに生活してきました。

ところが夜になると、この松林の風景は一変しました。人が迷い込み、なかなか出でることができなくなることもしばしばありました。

「キツネにだまされた」といった話も多く残されています。

『郷土のお話と歌』(加古川市教育委員会)で、梶川酉紀夫さんは次のような話を採取されています。

その一部を転載させていただきました。(一部、文書の文字を変えています)

浜ノ宮松林の迷い込み

明治の中ごろのことでした。別府村のある人が、加古川まで収入印紙を買いに出かけました。

その当時は、まだ多木道がなかったので、新野辺から斜めに浜ノ宮神杜の参道を通って宮の前へ出て、それから鶴林寺の方へ出るのが普通の近道でした。

加古川で所用をすませ、その人は、子どものみやげにと思って、「伊賀まんじゅう」を買って帰っていました。

季節は秋ごろでした。

日暮れも早く、あたりが暗くなったので、ちょうちんに灯をつけて浜ノ宮まで帰ってきたところ、空模様も悪くて、ポツリ・ポツリと雨が、ろうそくの灯にかかったのか、ちょうちんの灯が消えてしまいました。

あたりは暗くなっていましたが、お宮の前にある神主さんの家のそばにあった桑の木や井戸もわかるし、つるべがあるのまでハッキリわかるので、どうもおかしいと思いました。

拝殿にはいり鈴を鳴らしてみたら、ガラガラいいます。

しこを踏んでみると、ドンドンいいます。

それで、なんでもないと思いながらお宮を出て帰途についたのですが、どう歩いても松林から出られませんでした。

そうこうするうちに、いっぺんにパッと明るく朝になりました。

そして、新野辺の山所のおばさんから、「あんた、別府の人やが、朝早うからどこへ行ってでしてん?」といわれて、初めて気がついたそうです

この人は夜どおし浜ノ宮の松林の中を歩いていたのです。

*写真:現在の浜ノ宮松林(加古川市HPより)

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新野辺を歩く(78):新野辺西部地区土地区画整理事業③・終了後の風景

2012-09-19 07:11:10 |  ・加古川市別府町新野辺

 土地区画整理事業後の新野辺西部地区

4fb30021前号の写真は、土地区画整理事業以前の新野辺西部地区の写真(平成712月撮影)でした。

今日の写真は、土地区画整理事業後の写真(平成199月撮影)です。

比べてください。まず、道幅が広くなったことが目につきます。

当時・浜ノ宮中学校1年の福山宏輝君は、「完工記念誌・緑育む街」に、次の感想を寄せています。

   未来の新野辺

ぼくのおばあちゃんもお母さんもこの新野辺で育った。

お母さんが小学校の頃は、おばあちゃんの家に牛や鶏がいたり、田んぼもたくさんあったようだ。

おばあちゃんは、今の神鋼のところが海で、お友達と泳いでいたようだ。

今の新野辺は昔とかなり風景が違っているが、新野辺の人たちは昔も今も人情深い。

いつも地域ぐるみで行事や出来事を助けてくれる。

いつもぼくたちの事を見守ってくれている。

区画整理により、新野辺の町も整えられ、きれになった。

公会堂のまわりにもいつもきれいに花が咲き、芝生のみどりはとてもきれいだ。

毎日お世話をしてくれる人がいるからだろう。

ぼくたちが大きくなったら、今度はぼくたちが新野辺を住みやすい町にしたい。

今までお世話になった人たちが安心して、幸せにくらせ新野辺になってほしい。

*『完工記念誌・緑はぐくむ街』(加古川市新野辺西部土地区画整理組合)参照

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新野辺を歩く(77):新野辺西部地区土地区画整理事業②・緑はぐくむ街へ

2012-09-18 08:44:13 |  ・加古川市別府町新野辺

平成18年「新野辺西部地区土地区画整理事業」は完成しました。

工事の完成に伴い「完工記念誌・緑はぐくむ街」が編集され、工事概要・かつての新野辺西部地区のようすがまとめられました。

その本の座談会で「土地区画整理組合」の副理事長の山口賢一さん(現:新野辺町内会長)は、次のように語っておられます。

   緑の多い街に

6b2e6153新野辺全体が住みよくて安心できて明るい街になっていけたらと思います。

区画整理の地区について言えば、せっかくいろいろと整ってきましたので、あとは緑の多い潤いのある街にしていきたいなと思っています。

先程、Hさんもおっしゃいましたが子供の心のふるさとに成る街にしたいという思いがあります。

また、Kさんもおっしゃったように我々はここで育って、遊んできました。

それはどんな環境だったかというと、きれいなため池があって、畑があって、松林があってと今でも鮮明に残っています。

そういうものがこの整備した中で感じられるようにしたいと思います。

そのために公園の整備として、ため池が全くなくなったので、この公園の中に池を作って子供たちが水に親しむことが出来るような環境を今後努力して作りたいと思います。・・・

  便利になりました

写真をご覧ください。赤い線で囲まれた地区が土地区画整理事業の対象になった地域です。

事業が行われる前のこの地区の風景です。

新野辺西部地区の風景は一変させました。

道幅は広くなり便利になりました。

ただ、新野辺の昔からの新野辺の中心地区の街づくりの課題が残っています。

*写真:事業前の新野辺西部地区(赤く囲まれた範囲が区画事業対象地区)

    範囲右下の大きな建物が新野辺公会堂

*「完工記念誌・緑はぐくむ街」参照

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新野辺を歩く(76):新野辺西部地区土地区画整理事業①

2012-09-17 17:44:12 |  ・加古川市別府町新野辺

前号のブログで、「(新野辺は)現在、農業の衰えによる田畑の減少。人口の増加。

そして、何よりも生活の様式の変化により、新野辺の風景もすっかり変わってしまいました」と書きました。

確かに、大正時代と現代の風景はまさに激変しました。

   新野辺西部地区土地区画整理事業

7854b500それでも、新野辺の古い集落を歩いていると、狭い路地などに古い歴史を感じます。

今日の2枚の写真を比べてください。

これも、新野辺の同じ場所の写真です。右端に同じ家があるのでそれと分かります。

このあたり(新野辺の西部)は、前号のよう長い時代による変化ではなく、「新野辺西部土地区画整理事業」によるものです。

新野辺西部地区は、北東部に集落がありましたが、道路といえば狭い市道、未舗装の里道があるばかりでした。

この地区は、駅徒歩圏内(山陽電車別府駅・浜ノ宮駅から)という立地条件の良さから、このままでは無秩序に宅地化が進むのではないかと危惧されていました。

さらに、地区全体に点在するため池の土地利用にも配慮した再利用が課題となっていました。

   土地区画整備事業・平成18年に完成

Sinobe_003 そのため、土地区画整理事業により公共施設を整備しようとの機運が盛り上がり、平成21月には組合設立発起人会が結成され困難な取り組みの末、平成18年に完成しました。

*新野辺西部地区:新野辺公会堂を扇の要とした北東に当たる地区

<土地区画整備事業略年表>

平成2年(1990)  組合設立発起人会結成

平成6年(1994)  地元説明会

平成7年(1995)  組合設立認可

平成10年(1998) 起工式

平成18年(2006) 工事完成・検査

昭和19年(2007) 市道の全面共用開始

 *写真上:土地区画整理事業前の風景

  写真下:土地区画整理事業後の同じ場所の風景(916日撮影)

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新野辺を歩く(75):すっかり変りました

2012-09-16 08:11:42 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺を歩く(48)で「新野辺村のため池」について書きました。少し復習をしておきます。

   新野辺村のため池

E7946f0e新野辺村は、五ヶ井用水の村(五ヶ井郷)です。

五ヶ井の流れは、水の豊かな用水です。

用水は、池を伴うのがふつうです。

旱魃の時などは、田植ができません。そんな時のために水をためておくため池がつくられました。

しかし、五ヶ井用水ばかりは、その心配がほとんどないほど水の豊かな水がありました。

しかし、新野辺村だけは少し事情が違いました。五ヵ井郷の村ですが、五ヶ井用水の終点の集落で、水が確実に届く保障はありませんでした。

そのため、五ヵ井用水の水を貯めておく池が必要でした。

寛延三年(1750)の明細帳には新野辺の溜池についての記載があります。

それによれば、 新野辺村には比較的大きな溜池が19ヶ所と小さな溜池が22ヶ所、大小あわせて溜池が41もあったそうです。

    

    風景は一変

004  写真上は、大正78年ごろに大歳正雄さんが撮影された新野辺野の村中の風景です。左手の池は「ひょうたん池」と呼ばれていました。

現在は、農業の衰えによる田畑の減少。人口の増加。

そして、何よりも生活の様式の変化により、新野辺の風景もすっかり変わってしまいました。

写真下は、昨日(915日)上の写真の場所へ出かけ同じ角度から撮影したものです。

元の姿はほとんどありません。風景は一変しています。

「ひょうたん池」のあった場所(プレハブの倉庫の手前の部分)は埋め立てられていますが、建物はなく、わずかにそれと確認できただけでした。

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