司馬遼太郎の小説が好きです。彼の小説は筋の外に、余話の面白さがありあます。先生の授業中の脱線話です。
司馬氏の小説には、高級な脱線話が満載です。
そして、小説を読んでいて、つくづく「人は時代の産物であり、土地の産物である」ということを思い知らされます。
さて、「常楽寺研究」ですが、文観を知りたいために取り上げた寺院です。
彼は確かに、常楽寺で修業しています。
激動の時代に生きる
時代は、中世の終わりです。まさに激動の時代でした。
文観の生きた南北朝時代は、中世と近代を分けた時代で、その前後では社会の仕組み、ものの考え方は全く変わっています。
文観は、この激動の時代の荒波の中にいました。
そして、大野は当時、北条郷に属していました。
北条郷は、水に恵まれた地域でした。そして、情報の集まる地域でした
ですから、当時の周辺の地域と比べて賑わいのあふれた郷であったと思われます。
その豊かさが、立派な常楽寺とその傘下の多くの寺院を守り育てたのでしょう。
もちろん日岡神社(日向社)を含めての話です。
<愚説>文観は大野に生まれる
ここからは、全くの小説の世界です。そのつもりで聞き流してください。
・・・・弘安元年(1278)、大野のあるお百姓さんの家に一人の男の子どもが生まれました。元気な、頭のよい子に育ちました。
大野には、旅人が行きかいました。いろいろな情報が伝わりました。
自然と彼は、大野の外の世界へのあこがれを持つようになりました。
お父さんに相談しました。お父さんは「百姓に生まれたら、百姓になるんじゃ・・・・」と、いうばかりでした。
そうなると、ますます外の世界を見てみたくてたまりません。
繰り返し、お父さんに頼みました。お父さんも、どうしてよいのか分かりません。郷のお寺(常楽寺)の坊さんに相談しました。
お坊さんは「字も読めないで、町へ出ても何もできへん。ます、常楽寺で修業して、字も覚えてからの事じゃ・・・」と、気のりをしない返事をしました。
が、彼はうれしくて常楽寺に入り、修業を始めました。
後の文観の気性からして、負けん気強い子供であったのでしょう。たちまちに、字も覚え、僧としての頭角を現しました。
*写真:聖観音立像(常楽寺所蔵・文観の時代の常楽寺の本尊か)
賀古の駅(かこのうまや)
7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強めました。
そして、勢力を更に拡大するために道を整備しました。
とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は重要な道でした。
街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。
野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。
山陽道最大ということは、日本で最大の駅が野口に置かれたのです。
他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えました。
山陽道
古代山陽道は、今の国道二号線に沿って造られましたが、図の点線のような古代山陽道は、野口から日岡山へ、そして升田へ渡り、神吉・大国・岸・魚橋というバイパスがよく使われました。
古代において日岡(大野)と升田の狭さく部を過ぎた加古川は、平野部で乱流したため、バイパスの方が、むしろ使われました。
記録によると鎌倉時代、寺家町に山陽道の駅(うまや)が設置されていますが、このころから、加古川の氾濫源はじょじょに安定し、山陽道も野口から真っ直ぐに西に伸びた山陽道がよくつかわれようになりました。
大野は情報の集まる場所
ちろん、山陽道は現在の国道号線にあたります。古くからこの国道1号線が大野を通っていたのです。
道路は、人、物資ばかりではありません。情報がここに集まりました。
大野は、人、物が通過した場所ではなく、情報の集まる場所だったのです。
*図:古代山陽道(点線が古代山陽道野バイパス)<o:p></o:p>
加古川は暴れ川だったが
絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部です。
正保(しょうほう)播磨図絵」では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがあります。*正保(1644~1648)
この時、現在の加古川本流は加古川の支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていました。
このように、加古川は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えています。
加古川の周辺に住む人々にとって、加古川は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあったことを忘れることはできません。
そのことを差し引いたとしても、この地方は、百姓の命であった水に恵まれた土地であったことを確認しておいてください。
大野は、賑わいの郷
加古川は豊かな恵みの水の外に、大切な道の役割も果たしました。
年貢だけではありません。
加古川上流からの多くの物資が下流に、下流からの物資は上流に運ばれました。
それらの物資は、山陽道(江戸時代は西国街道)を通して東西に運ばれました。
旧山陽道のバイパスが大野を通っていました。
大野を通過した旧山陽道については、次回に取り上げます。
大野は、一大ターミナルであり、賑わいのある郷でした。
*絵図:「正保播磨図絵(解読図)」の一部
新井用水
承応3年(1645)の旱魃は、ひどいものでした。太陽が大地を容赦なく照りつけ、秋の収穫は何もなかったのです。
現在の野口、平岡、播磨町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なく有りまでした。
寺田池の水も完全に干上がってしまいました。
大野は、もっとも水に恵まれた集落
それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。
野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがなく、五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐことができました。
古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引くことを考えました。
しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。
そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川から水を取る事を計画した。
問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口と重なります。当然、五か井郷は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるか?」ということでした。
藩主・榊原忠次の協力を得ることができ、難問は解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成した。
常楽寺の山門前の用水が「新井用水」です。
しかし、大野の集落は、五ヶ井用水の一番上流にあり五ヶ井郷の内でも一番水が得やすい場所に位置していました。
農業にとってこれ以上の土地はありません。
くりかえします。大野は農業にとって最も恵まれた土地でした。
*挿絵:今里伝兵衛が五か井郷の稔りを見て、用水の建設を考えている・・・
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文観は、弘安元年(1278)~正平十二年/延文二年(1357)の人です。河内の金剛寺が臨終の地であり、年齢は80才でした。
なくなった場所、年齢は問題がありません。
しかし、生まれた年齢は、記録が無有りません。<o:p></o:p>
従って、亡くなった年齢から逆算です。文観が生まれた場所も分かりません。
後醍醐天皇とともに活躍した高名な僧としては不思議なことです。
文観を知りたい
「(大野)常楽寺研究」は、文観のことを知りたくて、とりあえず、今までの研究をバラバラですが、まとめています。
それでも、文観が大野常楽寺で修業したことは確かなようであることを知ることができました。
それ以上の手掛かりかりはプッツリと切れてしまいます。
そのために、何でもよいから分かることを調べることにしました。
そこで、文観が大野常楽寺で修業したと思われる少年時代の大野の風景から攻めてみます。
時代を、文観が10才の正応元年(1288)に設定してみました。
特別な意味はありません。この頃、文観が常楽寺で修業していたと思えるからです。
正応元年・(1288)頃の大野の風景
文観が10才頃の大野の風景を①五ヶ井用、②加古川、③山陽道を手掛かりにして想像します。
さっそく、鎌倉時代の大野集落の散策に出かけましょう。
五ヶ井郷の集落
五ヶ井用水は鎌倉時代すでには、五つの地域に水を供給している大切な用水でした。「五ヶ井用水」と呼ばれました。
その五つの地域とは、①北条之郷、②加古之庄、③岸南之庄、④長田之庄、それに⑤今福之庄の五つの地域です。
大野を含む北条郷の集落を紹介しておきます。
*注:行政単位として「村」が使われたのは江戸時代ですが、ここでは理解しやすいように「村」を使いました。
五ヶ井用水の話を続けます。
*図:大野あたりの「五ヶ井用水路」
1336年、建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇は京都を脱出、大和の吉野へと向かいました。
吉野に着くと、そこを仮の皇居と定めました。
一方、同じ年、京都では、足利尊氏の被護の下に、光明天皇が即位しました。南北朝時代の始まりです。
1338年、尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられ、足利幕府が京都に開きました。
吉 野
後醍醐天皇が吉野に拠点を置いたのは、山深く守りが固いというだけではなく、吉野には、京都奪還を目指す上で、重要な条件が備わっていました。
吉野は、奈良の奥深い山の中にありながら、実は全国とつながっていた情報の一大中心地でした。
まず東は、古くからの南朝の支持勢力、その先には東国への玄関、伊勢の大湊があり、 西には、楠木氏が拠点とする河内国、その先にあったのが西国への玄関、堺の湊でした。
南に行けば南朝の支持勢力、熊野水軍があり、海の道が開けていました。そして北には、目指すべき京都があったのです。
また、吉野には金峯山寺というお寺があり、吉野は、全国から山伏が集まる修験道の一大拠点でした。
後醍醐天皇の死
延元4年(1339)8月、後醍醐天皇は劣勢のまま吉野で病に倒れました。おそらく夏風邪だったと思われます。
一人病床に伏しながら、天皇は52年の人生の来し方を思い返す日々をすごしていました。
余命幾日もないと悟った天皇は、吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、天皇は次のように遺言しました。
「我は死んでも殉死者を望まぬ。宝を墓に入れることも無用。我は生まれ変わる先まで怨念を抱いて、朝敵をことごとく滅ぼして天下を泰平の世に返そうと思う。
それ故に、我が身はたとえ吉野山の土に埋もれても、魂は常に北の都の天を望んで止まぬ。もし我が命にそむき、大義を軽んずるならば、天皇も跡継ぎの天皇ではない。臣も臣と認めぬ・・・」
凄まじい執念でした。
*『堂々日本史』(KTG中央出版)参照
写真:後醍醐天皇陵(吉野)
元弘三年(1333)、「鎌倉幕府が潰れた」という連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。
「建武の新政」という新しい政治が始まり、政治の方針は、天皇の命令書「綸旨(りんじ)」で全国に伝えられました。
もめた土地問題
後醍醐天皇が最初に手がけたのが土地問題でした。
戦乱で乱れた土地の所有権を確認する必要があり、また、京都には鎌倉幕府を倒すために戦った武士が、恩賞の土地をもらうために集まっていました(挿絵)。
天皇は「恩賞方」という機関をつくり、土地を分け与えようとしました。
天皇の土地政策は、混乱を引きおこし、恩賞の配分は何か月たっても進みませんでした。
混乱の原因は、後醍醐天皇の政策「綸旨万能」にあったのです。
綸旨万能、そして混乱
後醍醐天皇の新政が始まった頃の綸旨が、大阪の金剛寺に残されています。
鎌倉時代の終わり頃から、金剛寺の領地では、土地の所有権をめぐって武士や「悪党」との争いが絶えませんでした。
そのため金剛寺は、朝廷に領地を認めてもらおうとしていていました。
天皇からの文書には、「綸旨のない者には土地の所有を認めない」とあった。
金剛寺は、京都まで使いを出して天皇に願い出、綸旨を得ました。
武士たちは恩賞の土地獲得のためだけでなく、自分の所領を確認してもらう綸旨を得るためにも、京都へ殺到した。
また、後醍醐天皇の出した綸旨には、多くの誤りをおこしました。
京都の大徳寺に、その証拠が残されている。「召し返しの綸旨」と呼ばれるものもその一つです。
この綸旨のように、一つの土地の所有者を何人も認めてしまい、それを召し返しの綸旨で訂正するということが、しばしば起きました。
混乱は武士だけではなく、京都の人々全てを巻き込んで広がりました。
後醍醐天皇の政治を批判する落書きが京都の真ん中に掲げられるほど、建武の新政は混乱の度を増しました。
*『堂々日本史』(KTC中央出版)参照
挿絵:『マンガ日本の歴史(18)』(中央公論社)参照
挙兵失敗、流罪、そして復活・・・
元弘元年(1331)八月、後醍醐天皇は京都の笠置山で挙兵します。
しかし、この挙兵は準備不足のために失敗。
天皇は捕えられて、隠岐島に流されてしまいました。これで後醍醐天皇の討幕計画は、ついえたかに思われました。
ところが、間もなく各地で討幕の狼煙(のろし)が次々と上がりました。
まず吉野で、後醍醐天皇の皇子・護良(もりよし)親王が挙兵しました。
それに呼応して、河内の楠木正成が兵を挙げ、さらに播磨では、赤松円心(えんしん)も立ち上がりました。
楠木正成は、もともと河内の地侍だが、河内と大和を結ぶ街道をおさえ、水銀を商うことで急速に力をつけてきた新輿勢力の一人でした。
楠木正成は千早城に立てこもり、わずか1000ほどの手兵で、何万と いう幕府の軍勢を翻弄したのです。
城の上から石を投げ、大木を転がして敵を押し潰しました。
楠木正成の戦い方は、これまでの武士では考えられないような、ゲリラ的なものでした。
赤松円心
一方、播磨で挙兵した赤松円心は、近隣の街道筋をおさえ、流通業で財をなした商業的武士でした。
赤松円心の支配地を流れる千種川は、中国山地を源流として瀬戸内海に注く物流の大動脈です。
赤松円心の経済力は、この千種川を支配することによって生み出されたです。
千種川は、流通だけでなく、もう一つの利益を赤松円心にもたらしていました。
それは砂鉄です。千種川上流は、古代から砂鉄の産地として知られていました。
ここで取れる良質の砂鉄は、千種鉄と呼ばれ、優れた刀剣を作るためには欠かせないものとされていました。
この辺りには鍛冶千軒と呼ばれる地名が残っており、鉄製品の生産地であった名残りをとどめています。
*絵:後醍醐天王像(大徳寺蔵)
後醍醐天皇の野望
14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。
時の執権北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。
そのため、政治は腐敗しました。社会の秩序も乱れ始めました。
こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位しました。
天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。
後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせました。
そして、自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷したといいます。
八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること
後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されています。
般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻文珠菩薩」(写真)がありました。
最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願して作らせたものであったことが、近年明らかになりました。
菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されました。
銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。
「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。
後醍醐天皇は着々と討幕の準備を進めていました。
後醍醐天皇が幕府の目を欺くために、しばしば開いた宴会では「無礼講」で、参加者は、裸に近い姿で、女をはべらせ、酒を酌みかわしたといいます。
これを隠れ蓑に、統幕計画を練っていたのです。
*『堂々日本史』(KTC中央出版)参照
豊富な人脈
文観は、後醍醐の吉野行では、もちろん行動をともにしています。
やがて、後醍醐が吉野で世を去り、後村上時代になりました。
そのころ吉野は、高師直(こおのもろなお)に攻められて陥落します。
南朝方は、さらに南に下って賀名生(あのう)に立こもり、一時期勢力を盛りかえして河内に進出したことがありました。
このとき本拠となったのが、観心寺と金剛寺ですが、金剛寺の学頭職は文観の弟子でした。
文観は豊富な人脈をもっていました。 そしてその背後には豊富な寺領がありました。
いってみれば、南北朝の内乱は、文観が武家社会を向うにまわし、手持ちの人と財力を総動員して打った大ばくちともいえるのではないでしょうか。
南北朝に対する評価は、まだ学界でも揺れています。
大まかに見れば、鎌倉御家人体制から室町守護大名制への転換期であり、その意味では、武士団相互の戦いこそ、歴史の主流と見るべきでしょう。
が、そこに重ねあわせて、武家相互の戦いの隙間を縫って、公家・寺社などの旧勢力のあったことを見逃せません。
文観は、いわば、旧勢力の代表的人物としてとらえられるべきでしょう。
彼が一応の騰利をおさめたのは、個人の資質によるというより、当時の日本の体質の古さに原因しているといってもいいと言えます。
正平十二年(1357)年、文観はなくなりました。80歳。
河内の金剛寺が臨終の地でした。
文観は語らない
「常楽寺研究」とは言いながら、長々と文観を取り上げました。
というのは、「常楽寺」が気になりだしたのは、文観と常楽寺つまり加古川との関係が知りたかったためです。
多くの学者の研究により、若き文観が修業したのは(大野)常楽寺であったことは、ほぼ確実になっています。
私は、文観の生まれも加古川ではないかと想像しています。
しかし、若い時代について、彼はなにも語っていません。今のところ、記録にも残されていません。
語りたくなかった事情があったのでしょう。
次に、後醍醐天皇にも少しふれておきます
文観ルート
後醍醐天皇は、いよいよ反幕の実行運動にのりだしました。このとき、計画が挫折して逃げこんだ笠置山は、文観の息のかかった土地でした。
はじめ、後醍醐は華々しく都で挙兵するつもりでしたが、うまくゆかず、奈良の東大寺を頼りました。
それというのも、東大寺には、文観の、相弟子の聖尋(しょうじん)がいたからです。
が、東大寺には後醍醐受けいれに難色をしめす勢力があったので、やむなく笠置山へ移るのですが、ここは聖尋が直接管理していた寺です。
後醍醐は、文観ルートによって聖尋を頼り、笠置へ落ちたのです。
そして、一月余り笠置山にとどまり、幕府軍の攻撃をうけて落城し、後醍醐は捕えられて、隠岐へ流されました。
そのうちに、足利尊氏、新田義貞といった武家側から、幕府に反旗を翻すものが出て鎌倉幕府は崩壊します。
幕府崩壊に伴い後醍醐の都に返り咲きます。
そして、いわゆる「建武の新政」をはじめました。その時点で文観も都に呼び戻されました。
建武の新政で復活
彼にとっては、生涯で絶頂の時代でした。蔭の大物的な活躍を見せたのはこの時期でした。
しかし、建武新政はまたたく間に崩壊します。
武家政治を頭から否定する後醍翻の政治は、まさに時代錯誤の連続でした。
その道をたどらせた文観も、その責は負わねばなりません。
その後、足利尊氏との対決に敗れた後鞭醐は、またもや都を飛び出し、吉野へ落ちるのですが、その吉野も文観の支配する醍醐寺の系統の寺でした。
醍醐寺と吉野は昔から修験道を通じて深く結びついていました。
後醍醐が、吉野に逃れた理由を、教科書等では、天然要害の地とし、地理的、軍事的な面から理由づけしているようですが、これは一面的な見方にすぎません。
当時の吉野は、多勢の僧兵を抱える独立王国でした。
そして、そこを牛耳るのは文親系の僧侶だったのです。
第一回目の笠置山といい、第二回目の吉野といい、後醍醐は文観ルートに乗って動いています。
文観は、後醍醐天皇と結びつく
文観が、いつのころから鎌倉幕府をつぶす計画を思い立ったかはわかりません。
醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺だし、中でも寺内の道淳(順)が、後醍醐天皇の信頼を得ていました。
文観は、この道淳の直弟子でした。
文観は、師である道淳の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたのでしょう。
たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。
後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。
政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を感じていなかった当時の歴代天皇の中では変り種といってもいい天皇でした。
「自分は政治をやりたい」
三十を過ぎて即位した後醍醐天皇は、はっきりそう思ったのでした。
一方、学問にも打ちこんで、「なぜ天皇自身が政治をすべきか」という理論武装もしました。
理論には弱い日本人政治家のなかでは、異色の人物でした。
一方の文観も、また政治好きな人物でした。
学問もよくし、仏教のほかに算道・呪術も好きだったといいます。
それも、机上の学問としてではなく、むしろ現実的(実用的)な学問を愛したようです。
鎌倉幕府打倒を・・・・
この二人が結びついたとき、「政治をわれらの手に。・・・そのためには、まず幕府打倒だ」と、エスカレートしていったのは当然のことだったのです。
政治好き、権謀好きにとって、陰謀、革命くらい心の躍る課題はありません。
さっそく仲間を集め、秘策が練られました。
この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌のすける衣裳をつけた女をまじえ、無軌道な酒宴が開かれた、と『太平記』は書いています。
しかし、この「革命ごっこ」は簡単にもれ、つぶされました。
文観は一乗寺の僧侶か
「・・・文観と申すは、元は播磨の国・法華寺の住侶たりしが、壮年のころより醍醐寺に移住して真言の大阿闍梨(あじゃり)しかば・・・」
『太平記』の記述では文観は法華寺の僧侶であったとし、疑っていない。
太平記の作者にとって、播磨の国の寺といえば、イコール法華山一乗寺であり、氷丘村の常楽寺は知識の中にはなかったのではないかと想像します。
文観の修業した寺として、当然のごとく法華山一乗寺と結びついたのかもしれません。
やはり、文観は常楽寺の僧
『加西郡誌』は、峯相記(みねあいき)にある法華山一乗寺講堂供養記事を紹介しています。読んでおきます。
「・・・・正和文保のころ、当山、前僧侶の宇都宮の長老宿願にて二階九間の講堂を造り、改め正中元年十一月二十一日上棟、建武二年十月十四日文観上人広真(文観のこと)を以て供養した。
西国第一の大堂也・・・(中略)これらの記録により文観と法華山との関係は、だいたい想像できるであろう。
文観が講堂の供養に来たのは、その全勢時代で故郷に錦を飾ったものであろう。・・・」と。
これは文観の一乗寺の講堂建設の話です。
続けて、『加西郡誌』は、「次に、加古郡氷丘村常楽寺々によれば・・・」と、先に紹介した洪水の後、文観が常楽寺の復興した」と紹介しています。
この文章に続いて、「これによって考えるのに、文観の生国はやはり播磨であり、僧侶としての修業は、まず法華山においてなされたものであろうことは、疑う余地がない・・・」と、文観が一乗寺で修業したと、断定しています。
上記の記述から、むしろ「以上の文章からは、僧侶としての修業は、まず「氷丘村の常楽寺」でおいてなされたものであろうことは、疑う余地がない・・・」と読めないでしょうか。
歴史学者・網野善彦氏も太平記の「法華寺」は「播磨の律宗寺院常楽寺」(『日本中世史の再検討(p32)』(山川出版社)であるとされています。
文観は播磨「常楽寺」の僧
従来、文観は、もっぱら後醍醐天皇の、黒幕のような人間と思われてきました。まず、彼の生まれから始めたいのですが、はっきりとしません。はっきりしていることは、播磨の人というだけです。
文観は、僧侶です。
文観は、西大寺の律宗寺院と深いかかわりをもった僧侶です。
中世史の専門学者である網野善彦氏は、『日本中世史像の再検討』(山川出版社)で、はっきりと、次のように「文観は、播磨常楽寺の僧侶であった」とはっきりと主張されておられます。
「・・・・
播磨の法華山一乗寺、あるいは播磨の律宗寺院常楽寺の僧侶であった。
このことは『太平記』等によってよく知られていますが、この寺も叡尊と深い関わりがある。・・・・・」
文観の生い立ちははっきりしません。
西大寺に移る
その後、西大寺に移りそして、真言宗を学んで頭角を現し、当時最も社会的にも勢力のあった醍醐寺の座主となり、当時の長者をも兼ねています。
このころ延暦寺の社会的勢力が院政期よりかなり低下していて、それに代って台頭してきたのが醍醐寺でした。
彼はそこの最高権力者になったのです。僧侶の場合、俗姓は公家の場合ほど問題にはならなりません。
つまり、僧侶として再興の地位に就いたのでした。
南北朝の歴史をよくよく見つめれば、じつは後醍醐天皇を躍らせているのは彼にほかならいのかもしれません。
彼は、この時代のプロデューサーとして、南北朝争乱の企画、立案、制作、演出、すべてを担当しているのです。
その手法があまりみごとだったので、後世、彼については奇妙な伝説が生まれました。
「真言宗の僧侶だった彼は、立川流という邪淫の秘術をもって後醸醐天皇をまどわし、それで側近になりあがったのだ」と。
最近読んだ本は、『日本の中世に何が起きたか』(日本エディタースクール出版部)、『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)、『異形の王権』(平凡社)いずれも網野善彦氏の著作です。
それに、『歴史の主役たち(永井路子著)』(文芸春秋)も読みました。
文観が気にかかる
中世に関する本を読みだしたのは、加古川市の歴史散策をしていて、虫歯が急にうずき出したように「文観」のことが気になりだしたからです。
ひょっとして、文観は加古川市出身ではないかと思えてきたのです。「常楽寺研究」で少し書いていて、その思いは強くなってきています。
文観は、日本史を動かした後醍醐天皇のブレーンです。
この辺りで、常楽寺の次の話題へ進む前に文観・後醍醐天皇について少し纏めておきます。加古川市の歴史探索を少し離れます。ご了承ください。
文観・後醍醐天皇
永井路子さんは『歴史の主役たち』で次のような文章を書いておられます。
「最近歴史ブーム」なのだそうだが、中で南北朝の一時期だけは、まったく人気がない。
これは戦争中に日本人が、いやというほど叩きこまれた皇国史観の後遺症なのだろうが、私はいま、この時代に大いに興味を持ち始めている。
単なる昔の歴史を懐かしむという意味ではなく、いや、むしろそれとは反対の意味でだが、むしろそこをはっきり見つめなくては、戦前戦後を含めた現代の日本の諸問題をみすえることはできないのではないか。という気さえしているのだ。・・・
時代を変えた南北朝時代
永井路子さんが上記の文章を書かれたのは1990年で、最近は、少し事情は改善され南北朝時代の研究も進んでいます。
当然です。南北朝時代は日本の古い社会が終わらせ、近世の扉をこじ開けた時代です。
日本史でこの時代は、ものすごい意味のある変革の時代でした。
その南北朝時代の中心に居たのが後醍醐天皇であり、そのブレーンの文観で、その文観が加古川市と関係をもっているとすれば、住民としては興味をもたざるを得ません。
全国に発信せざるを得ません。
後醍醐天皇・文観につて少し学習を進めることにします。
*挿絵:後醍醐天皇(清浄光寺蔵)