天正5年(1577)、中国地方の雄・毛利氏と天下統一に燃える織田信長は、その間にある播磨国を勢力下に入れようとさまざまに工作をした。
当初、東播磨の国人たちも黒田官兵衛の説得もあり織田方についた。
毛利方も別所氏への働きかけを強めた。
◇加古川評定◇
信長方に味方するか、それと毛利方味方するかを決める加古川評定が天正6年(1578)2月、加古川城(場所は現、称名寺)で行われた。
この評定は、まとまらなかった。加古川評定については、小説ではあるが『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』(講談社)に詳しい。
1月9日・10日のブログ「加古川評定①・②」もあわせてご覧ください。
この会議の後、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことを決めた。
当然、多くの三木城配下の播磨の諸城も毛利方に味方した。信長・秀吉に反旗を掲げた。
秀吉軍は、怒涛のごとく播磨地方へ攻め寄せた。加古川地方は天下分け目の一大決戦場となった。
秀吉に、最初に狙われたのは、野口城(加古川市野口町)で、時は天正6年4月4日(旧暦)のことであった。
野口城を攻撃した秀吉軍は、次に6月27日、神吉城に押し込んできた。
「東神吉探訪」ではしばらく、神吉城の攻防を取り上げたい。