ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

東神吉町探訪:神吉城の攻防 ①

2007-07-31 07:55:45 |  ・加古川市東神吉町

_063     天正5年(1577)、中国地方の雄・毛利氏と天下統一に燃える織田信長は、その間にある播磨国を勢力下に入れようとさまざまに工作をした。

  当初、東播磨の国人たちも黒田官兵衛の説得もあり織田方についた。

  毛利方も別所氏への働きかけを強めた。

 ◇加古川評定◇

  信長方に味方するか、それと毛利方味方するかを決める加古川評定が天正6年(1578)2月、加古川城(場所は現、称名寺)で行われた。

  この評定は、まとまらなかった。加古川評定については、小説ではあるが『播磨灘物語(司馬遼太郎著)』(講談社)に詳しい。

  1月9日・10日のブログ「加古川評定①・②」もあわせてご覧ください。

  この会議の後、三木方は毛利に味方し、信長方と戦うことを決めた。

  当然、多くの三木城配下の播磨の諸城も毛利方に味方した。信長・秀吉に反旗を掲げた。

  秀吉軍は、怒涛のごとく播磨地方へ攻め寄せた。加古川地方は天下分け目の一大決戦場となった。

  秀吉に、最初に狙われたのは、野口城(加古川市野口町)で、時は天正6年4月4日(旧暦)のことであった。

  野口城を攻撃した秀吉軍は、次に6月27日、神吉城に押し込んできた。

  「東神吉探訪」ではしばらく、神吉城の攻防を取り上げたい。

  

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東神吉町探訪:八十橋考

2007-07-30 06:35:40 |  ・加古川市東神吉町

Kakogawa_005      風土記の一節を読んでおきたい。(現代文で)

  ・・・この里(升田集落のこと)に山がある。名を斗形山(ますがたやま)といった。

  石で斗(ます)と乎気(おけ)を作っていた。

  そのため斗形山という。この山に石の橋がある。

  昔、この橋のところで、八十人衆(やそもろびと)が天と地上の間を上り下りした。そのため、八十橋(やそはし)といった・・・

  「八十」は、もちろん「多い」と言う意味である。

  昨日、八十橋の写真を撮りに出かけたが、八十橋は夏草の中にあり、写真にならなかった。

  以前、冬に来たことがあるが、その時も橋らしく見えなかった。

  『風土記』の時代は、もっとはっきり段階状の岩があったのかもしれない。八十橋は、升田山(写真)の右端が加古川に落ち込むところにある。

  『風土記』にいう斗と乎気は、ともに石棺の部分を指していると言う。

  石棺の製造というと竜山(高砂市)と結びつけて考えてしまうが、この辺りも竜山と同じ凝灰岩であり、石棺が作られていたようである。

  池尻の地蔵寺の古墳は整形した石を使っている。これは石棺を作るときの技術であろう。

  それに、この地は石棺の運搬には絶好の位置にある。すぐ側を加古川が流れる。

  八十橋は、石棺または古墳の石材を作った工事場跡と考えられる。

  それが階段状に見えたのかもしれない・・・

*『鹿児(第934号)』の論文「播磨風土記の八十橋について」(田中幸夫氏)参照

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東神吉町探訪:佐伯寺、西念寺そして妙願寺へ

2007-07-29 06:35:32 |  ・加古川市東神吉町

_610_1   『印南郡誌 』の妙願寺の項を 簡略に載せておきたい。   

  升田村に関係した人物であろう、赤松の家臣に佐伯公行という人がいた。姫路の書写山で僧になり、名を善西といった。

  善西は、永正十三年(1516)、升田に天台宗の佐伯寺を建てた。

  九代目の実如の時、天台宗から浄土真宗に改宗した。

  その後、佐伯寺は焼失したが西念寺として再興された。

  正徳3年(1713)十四代・寂如上人の時、寺号を現在の妙願寺と改めた。

  また、『印南郡誌』は、「・・・升田村佐伯寺の本尊は、佐伯寺の本尊である・・・」と、『播磨鑑』の記述を引用している。

  これらの伝承を語るように、現在の妙願寺の隅には、手洗鉢や古代の石造遺品がある。これらは、もとの佐伯寺から運び込まれたものであろうと思われる。

  ひとつ、疑問が残る。

  伝承では、「佐伯寺は兵火により焼失した」とある。

  しかし、佐伯寺跡の多宝塔、昨日紹介した三木市の慈眼寺にある元、佐伯寺の鐘、そして佐伯寺の本尊であったという妙願寺の阿弥陀如来は、兵火を受けた跡がない。

  これをどう説明したらよいのだろうか。

*『印南郡誌』・『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照

 写真は妙願寺

  

  

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東神吉町探訪:佐伯寺の鐘

2007-07-28 07:17:53 |  ・加古川市東神吉町

_601   きょうのブログは、7月18日・19日の「蝦夷がいた」とあわせてご覧ください。

  今、(7月27日)三木市久留美(くるみ)の慈眼寺(じげんじ)にいる。

  道路からあまり離れていないのに、山寺の雰囲気いっぱいの曹洞宗の寺である。

  秋には紅葉で埋まる寺として、近在に知られている。

  山門を入ると左手に鐘楼(写真)がある。

  この梵鐘には、「延慶(えんぎょう)二年(1309)、播州印南郡益田村佐伯寺鐘」の銘がある。

  三木市で最も古く、県文化財である。

  この梵鐘は、もと加古川市東神吉町升田にあったが、言い伝えによると、1578年、秀吉による「神吉城」攻撃の際この鐘を奪い、三木城攻撃の折、慈眼寺山門の木にかけ、合図用として用いられた。

  そして合戦後に慈眼寺に寄付されたと言うが、定かな証拠はない。

  ともかく、この鐘は数奇な運命をたどっているようである。

  先のブログでも書いたが、かつて升田には佐伯寺があった。

  佐伯寺は、嘉吉の乱(1441)で赤松氏に味方したため焼き討ちにあい焼失した。その後の鐘の運命は、はっきりしない。

  ともかく、もと佐伯寺にあった梵鐘は、現在慈眼寺にある。

  秋、この梵鐘は紅葉で埋まる。

*『KAKOGAWA』(伊賀なほゑ)・『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照

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東神吉町探訪:升田堤完成 ②

2007-07-27 09:04:40 |  ・加古川市東神吉町

76b0eddb_1      右の地図は、「元禄播磨国絵図(部分)解読図」である。

  加古川右岸(西岸)の赤く(太く)塗ったケ所が升田堤工事の範囲と考えられる。

  万治二年(1659)八月上旬、工事がほぼ完成したころ、暴風雨が襲った。

  一夜のうちに堤は壊れ、元の河原になってしまった。

  きょうは、その続きである。

  工事にあたった奉行・役人は肝を潰した。

  庄屋たちは、工事の不可能なことを訴えた。

  お上から「この工事は重要であり、人足が不足なら15~60才までのもの全てを出せ。異議を唱える者は追放せよ・・・」と、厳しい命令が出た。

  水が引くと前の二倍の人足を動員し、役人は鞭(むち)で、油断している者を打ちすえた。

  町場に住む者には、松明をつくらせた。夜の工事にも動員した。

  さすがの流れも一ヶ月で堰きとめられた。

  升田堤の完成により、ほぼ現在の加古川の流れの川になった。

  升田堤により洪水は少なくなったが、その後もいくたびか切れ、大きな被害をもたらしている。

  この升田堤の建設に対し、対岸の大野・中津・河原(加古川町)の百姓は、藩主に嘆願書を出した。

   「・・・自分等の村々は、昔から水害の時は西側と同じように被害を受けてきた。ところがこの度の工事で右岸が強くなり、左岸が弱いままですから、被害が私たちへかかってきます。

  工事を小規模にして、毎年少しずつ高くしてはいかがでしょうか・・・」と。

  この嘆願は、当然のように聞き入れられなかった。

  船頭(米田町)より下流についての加古川の流れについては、後日「米田町探訪」(予定)で取り上げよう。

*『KAKOGAWA』(伊賀なほゑ)・『ひおか散策』(拙書)参照

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東神吉町探訪:升田堤完成 ①

2007-07-26 08:17:26 |  ・加古川市東神吉町

45989c65_1   右の地図は、正保年間(1644~48)に描かれた『正保播磨国絵図』にある加古川の流れである。

  池尻から下流に二つの大きな流れがある。

  西を流れるのが「西加古川」で、東は今日の加古川で「東加古川」と呼ばれていた。

  ニ筋の加古川は、二ヶ所の船渡が必要で旅人は難渋した。

  それに、加古川の平野部の地形は、若干東に高く西に低い勾配をつくっている。

  西加古川沿いの人々は洪水で苦しんでいた。加古川は暴れ川であった。

  姫路藩は、ここを美田に変え、藩の収入をはかった。

  藩主・榊原忠次は、升田で西加古川への流れを堰きとめる工事を命じた。

  万治二年(1659)6月中旬より、藩の御入用(いりよう)普請として工事を始めた。

   *御入用普請:費用は藩の負担で行われる工事

  一説には、この工事に動員された役夫は60万人とある。この数は正確ではないかもしれないが、藩の命運をかけた一大工事であった。

  このようすを『益気物語』にみたい。

  ・・・27ヶ所の大庄屋へ触れがあった。近隣の村々は村高に応じて人足の割付がなされた。

  人足は、鍬・鋤(すき)・ジュバンを用意し、河原に集まってきた。河原は牛馬が通ることができないほどだったという。

  升田から升田新村(現:出河原)間での1000メートルは特に重要で、堤も太く、その土台は60メートルほどもあった。

  ・・・八月上旬、工事はほぼ完成した。暴風雨が襲った。升田の堤は、一夜のうちに潰れ、元の河原になってしまった。

  明日のブログで、升田堤の工事の話を続けたい。

*『加古川市史(第二巻)』・『KAKOGAWA』(伊賀なほゑ)参照

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東神吉町探訪:古代山陽道

2007-07-25 07:35:58 |  ・加古川市東神吉町

5a1bad70     きょうは5月9日のブログ(西神吉探訪:古代山陽道)と同じ内容である。

  「大化の改新」により新しくできた政府は、まず全国の道を整備した。

  とりわけ、奈良と九州を結ぶ山陽道は最も重要な道であった。

  古代において日岡と升田の狭さく部を過ぎた加古川は、平野部で乱流した。

  平野部は東に若干高く西に低い地形であった。

  旧河川跡から考えると、加古川は升田あたりから南西方向に流れ、中島(高砂市)の北へ抜ける流路とその一部が、米田新から南南西の流路をとったようである。

  (もちろん、旧加古川河川は時代により流路は一定でない)

  とにかく、奈良から野口まで伸びた古代山陽道は、加古川の流れに行く手を妨げられた。

  古代山陽道は、今の国道二号線に沿ってつくられたが、図の点線のような古代山陽道は野口から日岡山へ、そして升田へ渡り、神吉・大国・岸・魚橋というバイパスが多く使われた。

  東神吉町の升田、そして神吉の集落の中央を東西に貫く道がそれである。

  記録によると鎌倉時代、寺家町に山陽道の駅(うまや)が設置されている。

  このころから、加古川の氾濫源はじょじょに安定し、山陽道も野口から真っ直ぐに西に伸びた山陽道がもっぱら使われた。

*『上部井土地改良区誌』(上部土地改良区誌編さん委員会)参照

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東神吉町探訪:条里制(じょうりせい)

2007-07-24 07:32:15 |  ・加古川市東神吉町

28db1ae5     条里制(じょうりせい)は、税を確実に取り立てる土地制度であり、7世紀末には始まっていたと思われる。

  条里制は、まず6町四方の大区画を縦横6等分、つまり36の小区画に分けた。

  そして、小区画をさらに36等分に分け、その小区画を「坪」と呼んだ。

  現在でも、このような坪名が、わずかではあるが小字として残っている。

  東神吉町神吉の「休ヵ坪(九ヵ坪のこと)」、西井ノ口の「ニ十田(はたちだ)」もそれである。

  加古川左岸(東岸)の条里地割は尾上町の海岸付近まで続いているのに対し、右岸は、陸化が左岸に比べ遅れたため、東神吉町の国道付近を南限としている。

  しかも、東神吉町升田の南部から同町出河原・砂部・西井ノ口、米田町船頭・平津にかけては、多くの旧河道地形があって、条里地割は図のように半月状に展開している。

  加古川市のその外の条里制については、『加古川市史(第一巻)』を参照されたい。

*『上部井土地改良区誌』(上部井土地改良区誌編さん委員会)参照

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東神吉町探訪:益気里・含芸里

2007-07-23 08:11:42 |  ・加古川市東神吉町

9273943b     『風土記』は、奈良時代国ごとの産物・伝説・土地の質などをまとめた地理・歴史書である。

  奈良時代、印南郡には益気里(やけのさと)・含芸里(かむきのさと)・大国の里・六継里(むつぎのさと)等が見える。

  もっとも、古代の里は、必ずしもはっきりとした境界で分けられた地域ではなかったようである。

  その内、東神吉に関する里は、益気里と含芸里で、益気里は、東神吉町から平荘町にかけての加古川右岸と推測される。

  含芸里は、東神吉町・西神吉町から志方町に及ぶ地域であったと思われる。

  益気里の升形山(升田山のこと)について『風土記』は、次のように書いている。

  この里に山があり、名づけて升形山という。石を持って枡と桶を作る。故に升形山という。

  石橋がある。伝えて言うには、その昔、この橋は天まで続き、八十人衆が上がり下り往来した。故に八十橋(やそはし)という・・・

  八十橋については、後日紹介する予定。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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東神吉町探訪:蝦夷がいた②

2007-07-19 06:47:10 |  ・加古川市東神吉町

_590   きのうのブログの続きである。「佐伯氏」にこだわっている。

  東神吉町升田集落の中ほどで、集落を東西に走る古代山陽道沿いに佐伯廃寺跡がある。

  石の多宝塔(写真)が残っている。

  記録によると、佐伯寺は鎌倉時代の後期に建設されたという。

  ところが、嘉吉の乱(1441)の時、寺は赤松氏に味方したため焼き討ちにあって、跡地に多宝塔だけが残ったらしい。

  話を古代の佐伯氏にもどす。

  桓武天皇の時代、佐伯氏は、蝦夷(俘囚)の管理にあたった。印南郡にも俘囚がいたことが確認されている。

  とするならば、佐伯寺は蝦夷の管理にあたり、この辺りを支配した古代豪族・佐伯氏の菩提寺と考えるのが自然であろう。

  『日本三代実録』の仁和三年(887)七月の条に、印南郡のひと佐伯是継が、居を山城に移したことがみえる。

  是継の一家はこの時、山城へ移住したと思えるが、一族の大部分はこの地に残留したのであろう。

  そして、彼ら子孫は升田に佐伯寺を建設したと考えられる。

  尚、佐伯寺の多宝塔であるが、石づくりの多宝塔の数は極端に少ない。

  信濃が10基で過半数をしめ、近江・伊賀に二基、その外には大和・和泉・備中・播磨に各一基あるのみである。

  播磨の一基とは、もちろん升田の佐伯寺跡の多宝塔である。

*『加古川市史(一・七巻)』・『加古川市の文化財』参照

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東神吉町探訪:蝦夷がいた①

2007-07-18 08:18:25 |  ・加古川市東神吉町

3a56cc27_1    きょうのブログに東神吉は登場しない。

  いま、司馬遼太郎の『空海の風景』を読み返している。

  空海の家系伝説では、空海は讃岐佐伯氏の出として語り継がれている。

  讃岐佐伯氏は、中央の軍事氏族の佐伯氏とは別系統である。

  少し説明が要る。

  空海は、桓武天皇の時代と重なる。桓武天皇は蝦夷と戦った。

  多くの蝦夷が捕虜になり、奈良に住まわされた。

  捕えられた蝦夷は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれ容易に従わなかった。

  国は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波等の畿外に住まわせることにした。

  そして、俘囚を管理する地方豪族に佐伯直(さえきのあたい)という姓(かばね)を与えた。

  俘囚を管理した地方の佐伯氏は、中央の軍事氏族である佐伯氏と同盟関係を結んでその指揮を受けたと考えられる。

  話題を播磨にもどしたい。

  『日本三代実録』(貞観八年・866)に、近江の国から太政官に「播磨国の賀古・美嚢ニ郡の俘囚が勝手に近江に来ている・・・」と訴えた記録がある。

  加古郡に蝦夷がいた。

  また、印南郡にも俘囚のいたことが『日本後記』にみえる。

  きょうは、印南郡・加古郡に蝦夷がいたことにとどめておく。明日のブログで神吉町と蝦夷について考えてみたい。

*『加古のながれ』(加古川市史編さん室)・『空海の風景』(司馬遼太郎)参照

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東神吉町探訪:学者の嘆き

2007-07-17 06:53:35 |  ・加古川市東神吉町

E6883165_1   砂部遺跡の調査報告書『砂部遺跡(加古川市教育委員会)』(1976)を読んだ。

  “おわりに”の部分が、印象的である。

  この種の報告書の“おわりに”では普通、発掘の感想・遺跡の意義などが書かれる。

  ここでは、報告書の中身と違って、「うらみ節」である。

    ・・・(砂部遺跡は)調査団の強い要望にも係わらず、無残にも破壊されてしまって、今はない。・・・D44d224b

  B地区の建物址は保存状態が極めて良好であること、この種の遺構としては類例のないものであること。

  敷設管を少し迂回させるか、地下深く打ち抜くかで保存が可能であることなどの点をあげて、保存を主張した。

  ・・・県教委が責任を持った対策をたてるべきであるにもかかわらず、第1回目の会合に出席しただけで、2回目以降は調査団、市教委の強い要求にもかかわらず出席すらせず、一方的に破壊をきめるという、無責任な態度に終始したことは、容認できない。

  「遺構としての重要性は充分理解できるが、行政上やむを得ない」というのがその理由だと伝え聞くが、このようなことが理由ならば、どんな重要な遺跡でも、行政上の都合だけでいとも簡単に破壊されることになる。

  それでは文化財を保護することはできない。

  以下の文章は省略するが、ここに文化行政の一端を垣間見ることができる。

  学者の嘆きだけにさせてはならない。我々の無関心さもそうさせている大きな一因であろう。

  *写真は、砂部遺跡の一部

  

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東神吉町探訪:砂部遺跡の縄文土器は何を語る

2007-07-16 07:50:00 |  ・加古川市東神吉町

459269f0     地図の太い線は、10メートルの等高線である。

  *地図の黒丸は弥生遺跡であり、岸遺跡は縄文と弥生の複合遺跡

  この等高線から南の低地部は、加古川の運んだ土砂などの堆積物によりできた沖積平野である。

  「ここに、なんとか人が住めるようになったのは弥生時代からで、縄文時代は、まだ十分陸化が進んでおらず、定住できるような状態ではなかった。

  そのため、この平地部から縄文遺跡は発見されていない」と以前に書いたことがある。

  しかし、砂部遺跡から縄文時代の最後の時期の土器が出土している。

  これを、どう考えたらよいのだろうか。

  これについて『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明している。

   ・・・・現代の研究では、縄文時代の晩期後半には、既に稲作がはじまっていたと考えられる。

  この時期を弥生時代に入れようとする見解もある。

  砂部遺跡に住んだ縄文人は、この時期ここで稲作をはじめていた。

  しかし、砂部遺跡は加古川に近く、加古川の氾濫にいつも脅かされた。

  加古川が増水する季節は、ここで住むことはできなかった。

  そのため、危険な季節には近くの洪積台地上にある岸遺跡辺りに住み、低地が安定した季節に砂部遺跡に住むという二重生活をしていたのではなかろうかと推定している。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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東神吉町探訪:加古川右岸の豪族

2007-07-15 08:07:35 |  ・加古川市東神吉町

Aec399ab     平荘湖古墳群の多くの古墳は、海浜の工業地帯に用水を供給するためにつくられた平荘湖に水没した。

  水没した古墳は、約50基を数えた.

  これらの古墳をつくった人々の生活の基盤は、ここから南西に広がる加古川右岸(西岸)平野部であったと考えられる。

  加古川右岸は、河口部の分流がほとんど右岸(西岸)に集中し、平野部の流れが長く安定しなかったため、6世紀になり本格的に開発が進んだ。

  先に、砂部遺跡出土の土器に朝鮮南部からもたらされ珍品が含まれていることを紹介した。Ac13aeb4_3

  平荘湖古墳群のうち、もっとも古い5世紀後半にさかのぼる池尻2号墳(地図の右端)からも、朝鮮半島南部の伽耶地方の物と思われるハソウという土器(写真)が出土した。

 *ハソウ:口が広くて、胴部に小さい孔のある小形の壷。孔に竹管を差し込み、中の液体を注ぐのに用いたと考えられる。

  カンス塚古墳からも朝鮮製の金のイヤーリングが出土している。

  これらについて『加古川市史(第一巻)』は、「平荘湖古墳に代表されるこの地域の豪族は、おそらく畿内政権の朝鮮半島への兵力派遣に参加し、国内にも勢力をたくわえていった人であろう。左岸に比べ氾濫原が多く、治水のむずかしい右岸平野を耕地に開拓していった結果、ここにも対岸(左岸)地域に拮抗する勢力が確立したと考えられる」と書く。

*『加古川市史(第一巻)』・『行者塚古墳の時代』(加古川総合文化センター博物館)参照

   

  

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東神吉町探訪:東神吉(弥生)遺跡

2007-07-14 10:42:13 |  ・加古川市東神吉町

9653b7bf    昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見された。

  *場所は東神吉中学校の南のバイパスあたり

  昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることが確認された。

  遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置していた。

  後に発見された、砂部遺跡の近くで、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけている。

  さらに、加古川市史の記述を引用したい。

  ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できないが、溝と付近の地形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして1.5ヘクタールの大きさと推定される。

  遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのであろう。

  これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられる。

  挿絵は、東神吉遺跡出土の木製の鍬。柄を押し込む穴があいていないから、作りかけのものであろうが、製作工程を知る貴重な資料である。

 *『加古川市史(第一巻)』、『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)参照

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