阿弥陀町阿弥陀でずいぶん足踏みしています。そろそろ次の地域に移りたいのですが、その前に「時光寺」の続きとして「高砂市を歩く(95・96)」の抜粋を読んでおきます。
朱印領の寺 高砂市を歩く(95)より抜粋
西阿弥陀村の時光寺は、高砂町の十輪寺と共に浄土宗西山派の寺院です。寺領の点では十輪寺より多い20石を所持していました。
また、慶安元(1648)8月、徳川家光から朱印状を拝領して以降、引き続き寺領の朱印状を拝領する寺院としての寺格は十輪寺より上にありました。
しかし、時光寺は、西山派教団内の寺格面では十輪寺の下位でした。
寺格の昇進には由緒や伝統に加え、本山への多額の献金が必要であり、こうした点で時光寺は劣っていたためではないかと考えられています。
十輪寺には、高砂町の富裕な町衆(壇家)の経済力がありました。
阿弥陀の宿(しゅく) 高砂市を歩く(96)より抜粋
天正5年(1577)10月19日で、秀吉はざっと4000人で播州に向かいました。
当時の寺光寺(高砂市阿弥陀町)のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りします。
秀吉、時光寺に
「官兵衛がもっとも待ちかねているであろう」と秀吉は思った。・・・官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿という在所の道路わきまで出ていた。
阿弥陀ケ宿とは、(姫路から)8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。
街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。
宿場の南側に、時光寺という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。
官兵衛は、供を50人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。
「筑前どのの御人数に馳走せよ」。・・・ やがて、筑前どのの御人数、見えたり、と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・(no2805)
*『播磨灘物語(司馬遼太郎)』参照、*『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照
*写真:時光寺