ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

高砂市を歩く(224) 復習、朱印領の寺・阿弥陀の宿

2015-05-23 07:24:35 |  ・高砂市阿弥陀町

 阿弥陀町阿弥陀でずいぶん足踏みしています。そろそろ次の地域に移りたいのですが、その前に「時光寺」の続きとして「高砂市を歩く(95・96)」の抜粋を読んでおきます。

    朱印領の寺 高砂市を歩く(95)より抜粋

 西阿弥陀村の時光寺は、高砂町の十輪寺と共に浄土宗西山派の寺院です。寺領の点では十輪寺より多い20石を所持していました。

 また、慶安元(1648)8月、徳川家光から朱印状を拝領して以降、引き続き寺領の朱印状を拝領する寺院としての寺格は十輪寺より上にありました。

 しかし、時光寺は、西山派教団内の寺格面では十輪寺の下位でした。

 寺格の昇進には由緒や伝統に加え、本山への多額の献金が必要であり、こうした点で時光寺は劣っていたためではないかと考えられています。

 十輪寺には、高砂町の富裕な町衆(壇家)の経済力がありました。

   阿弥陀の宿(しゅく) 高砂市を歩く(96)より抜粋

 天正5年(1577)10月19日で、秀吉はざっと4000人で播州に向かいました。

 当時の寺光寺(高砂市阿弥陀町)のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りします。

    秀吉、時光寺に

 「官兵衛がもっとも待ちかねているであろう」と秀吉は思った。・・・官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿という在所の道路わきまで出ていた。

 阿弥陀ケ宿とは、(姫路から)8キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。

 街道のまわりは、5分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじて宿場の設備といっていい。

 宿場の南側に、時光寺という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。

 官兵衛は、供を50人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。

 「筑前どのの御人数に馳走せよ」。・・・ やがて、筑前どのの御人数、見えたり、と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・(no2805)

 *『播磨灘物語(司馬遼太郎)』参照、*『高砂市史(第二巻・通史編近世)』参照

 *写真:時光寺

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高砂市を歩く(223) 時光寺古墳

2015-05-22 07:04:55 |  ・高砂市阿弥陀町

 時光寺は、浄土宗の著名なお寺としてではなく、古墳中期(5世紀)ごろの古墳があることでも知られています。

   時光寺古墳

 寺光寺の裏手に小高い丘があります。

 そこに、径46メートル・高土6.6メートルの円墳・周溝を持った二段の古墳があります。

 墳頂部には方形埴輪列と、外周に円形埴輪列、この墳頂周辺からは、甲冑・盾・靭(ゆき:矢を入れて背負う筒状の道具)・家・鶏形埴輪の断片が相当量出土しました。

 段部にも円筒埴輪がめぐっていたようです。

 崩れ落ちていましたが、この段の部分には馬形埴輪があったようです。

 墳頂のほぼ中心部には写真にあるように、石棺が東西に直葬されています。

 蓋の形は、かなり背の高い半円形に近い蒲鉾状断面形で、両長辺にそれぞれ二個の縄掛突起を持っています。

 全体に丁寧な作りで、石棺蓋全長は228センチメートル、幅は85センチメートル、突起を含めると123センチメートルです。

 長持形石棺とすれば小形の棺です。

 この棺は、蓋が露出されただけで、それ以上の発掘は行わないまま埋め戻されました。

 ただ、盗掘は受けていたようで、その盗掘のためか、蓋石が僅かにずれており、下に棺身が存在したことは確かであったようです。

    消えた古墳群

 たまたま、この地が、瓦やレンガの生産に適した土層であったことから、その地に築かれていた古墳は、その後の瓦生産や、また近代・現代の土取り工事で、破壊され消滅してしまったようです。

 この時光寺の古墳に続く時期の埴輪があり、中には人物埴輪などもあったようです。

 時光寺古墳の主やそれを支えた人々の後裔たちの古墳が、この地に作られていたかもしれません。

 また、すでに失われてはいても、同様の古墳が、地蔵院辺りにもあり、そうした中に、地蔵院本堂前庭の石棺も埋葬されていたのかもしれなません。(no2804)

 *写真:時光寺古墳頂上部発掘状況(梅原章一氏撮影・『高砂市史・第一巻』より

 *『高砂市史(第一巻)』参照

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高砂市を歩く(222) 播州善光寺(時光寺)

2015-05-21 07:45:25 |  ・高砂市阿弥陀町

 時光寺の山門(写真上)を見上げています。

 見事です。雄大です。

 山門は、高砂市の指定文化財だそうですが、教育委員会の説明を読んでおきます。

    時光寺山門

 三間一戸の楼門(ろうもん)で、屋根形式は、入母屋造本瓦葺。

 門の両脇には四天王がまつられている。

 棟札から江戸時代後期、寛政3年(1791)年にたてられたことがわかる。

   播磨の善光寺

 時光寺は「播磨の善光寺」と呼ばれていますが、次のような理由のためです。

 ・・・約400年前、兵庫の浦に熱心な念仏の老行者がいて、毎年欠かさず信濃の善光寺に参っていました。

 が、ある時老齢で遠路参拝するのを哀れと感じた善光寺如来が、時光寺は当山と分身一体の阿弥陀であるということから、以後は時光寺へ参るように告げられました。

 そのことから「時光寺への三度の参詣は、善光寺への一度の参詣に当たる」といわれました。

 長野の善光寺のお参りは、少し遠いです。

 時光寺(阿弥陀町)へ出かけられませんか・・・願いがかないますよ。(no2803)

 *写真上:時光寺の山門

   写真下:山門に掛けられた「播州 善光寺」の札

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高砂市を歩く(221) 時光上人の墓か?

2015-05-20 07:30:06 |  ・高砂市阿弥陀町

    時光寺九層塔

 高砂市教育委員会の説明文を読んでおきます。

    時光上人の墓か?

 南北朝時代後期(14世紀末ごろ)の九層塔で、相輪(そうりん)と下から6層目の笠が欠落している。

 最上層には別の五輪塔の火輪(かりん)が載せられている。

 時光上人の墓と伝えられる。竜山石製。

 *時代:南北朝時代 高さ:318cm 材質:凝灰岩

 以下は、層塔を紹介する時に掲載するいつもの話題で申し訳ありません。

   奇数・偶数(陽数・陰数)

 昔、中国では奇数を偶数(陰数)に対し、陽数つまり、良い数字とし、そして月と日が重なる日を特に縁起の良い日としました。

 3月3日(ひな祭り)、5月5日(子供の日)、7月7日(七夕)とみごとに奇数のオンパレードです。

 奇数のうちでも9は最高の「陽数(ようすう)」であり、9月9日(重陽)は、1年中でもっとも縁起の良い日とされました。

この時光寺の層塔も例外ではなく笠の数は9重と奇数です。

が、層塔にはなぜか十一重の層塔は見当たりません。(no2802)

 *写真:時光寺の層塔(時光寺境内)

 

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高砂市を歩く(220) 宝篋印塔には北朝の年号

2015-05-19 06:29:52 |  ・高砂市阿弥陀町

 写真は、時光寺山門前の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。説明を読んでおきます。

    時光寺宝篋印塔

 県指定文化財(昭和62年3月31日指定)

 花崗岩製の宝篋印塔で、刻銘により南北朝時代の康暦(こうりゃく)2年(1380)に観阿らによって造立されたことが明らかである。

 龍山石の基壇の上に複弁を刻んだ蓮座(れんざ)を置き、基礎は各面とも格狭間(こうざま)を彫り、その中央に開花蓮華を浮彫りしている。

 塔身は、月輪(がちりん)の中に梵字を彫る。

 笠の隅飾突起には覆輪を付け、中央に円形を彫り残し、中に各々梵字を刻む。

 相輪は、新しいが他は保存もよく、造りも丁寧でこの地方の代表的な作例である。

   宝篋印塔には北朝の年号が   

 宝篋印塔には北朝の年号14世紀、およそ60年間にわたって、日本の朝廷が北の京都、南の吉野と二つに分裂し、それにともない多くの人々が日本列島を駆けめぐった未曾有(みぞう)の動乱の時代がありました。

 いわゆる南北朝時代です。

 まさに、ひとつの天下に二人の天皇が並び立つ異形の動乱の時代でした。

 南北朝は、古い時代と新しい時代と日本史を大きく二つに分けた時代でした。

 その意味で、「南北朝」はもっと研究され、関心を寄せるべき時代です。

    高砂地域は北朝方

 「高砂を歩く(209)・大日寺の五輪塔」で紹介した五輪塔は、南朝の忠臣・児島範長の墓とされていますが、「暦応」という北朝の年号が刻まれています。

 南朝方の忠臣の墓ではないようです

 これら北朝方の年号からみて、阿弥陀地域(高砂地域)は、南北朝時代・北朝の支配下の地域であったようです。

 さらに、南北朝時代を地域から追ってみたい。(no2801)

 *写真:時光寺の宝篋印塔

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高砂市を歩く(219) 高砂市の浄土宗寺院と西山派

2015-05-17 08:51:23 |  ・高砂市阿弥陀町

 法然は晩年、75歳で四国に流罪になりました。

 ところが法然は、流罪になっても少しも動揺しませんでした。

 「地方へ行って念仏の教えを説くのもいいじゃないか。いままで都会でしか念仏を説けなかったけれども、流罪は田舎の人たちに念仏の教えを説くいい機会である」と考えました。

 そして、80歳で都に呼び返されて、いまの知恩院のあるところで亡くなりました。

 この法然の教団が浄土宗です。

    高砂市の浄土宗寺院と西山派

 法然の弟市の内に、親鸞・証空(しょうくう)等の6人は、各個に浄土宗の宗派を形成して、法然の教えを中世社会に定着させていきました。

 思想的には法然の教えの修正や変更とみられるものもあるのですが、門弟たちは都はもとより各地に展開していく過程で、思想を取捨選択しながら法会、儀式などを整備して広げていきました。

 証空の宗派を浄土宗西山派といいます。

 と言うのは、証空は、健保元年(1213)に慈円(じえん)から西山善峰寺の往生院(後の三鈷寺・さんこじ)を譲り受けたので、証空の宗派を西山派と呼んでいます。

 市内にある時光寺は、鎌倉時代以来の浄土宗西山派の寺院として知られています。

 時光は、摂津国浄橋寺(現:西宮市)にいた証空を訪れ、浄土宗の僧となったといいます。

 証空の浄土宗西山派は、時光のような人物の影響を受け次第に播磨国、特に高砂に広がっていったのです。

 高砂は浄土宗の盛んな町となりました。阿弥陀町地蔵院を除いてすべて西山派浄土宗の寺院です。

 地蔵院も元は時光寺に属していましたが、「高砂市を歩く(215)・地蔵寺は時光寺から独立」で紹介したように何らかの理由で、西山派を離れ浄土宗鎮西派(本山:知恩院)の寺となっています。(no2799)

 *『高砂市史(第二巻)通史編近世』参照

 *写真:時光寺

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高砂市を歩く(218) 時光寺(2)・「法然上人絵伝」は語る

2015-05-16 07:09:03 |  ・高砂市阿弥陀町

 十輪寺(高砂町)と法然の話を続けます。

 法然の死後、徳治二年(1307)から約10年をかけ『法然上人絵伝』作られ、それに高砂浦に上陸した法然の姿が描かれています。

   「法然上人絵伝・巻34(高砂浦)」より

 (絵伝解説)

 「自分は漁師で、子供の頃より漁をして生きており、朝夕、魚類の命を絶って生業としていいます。

 殺生を行う者は地獄に墜ちて耐え難い苦しみを受けると聞きますが、何とかこれを免れる方法はないのでしょうか」と、法然に悩みを相談しています。

 法然は、「・・・あなたのような立場の方も南無阿弥陀仏と唱えれは、阿弥陀様は必ず願いを聞き届けてくださいます。念仏により浄土に往生することができます・・・」これを聞いた老夫婦は、感激で涙にむせび喜びました。

 その後は、昼間は漁に出て仕事に励み、「南無阿弥陀仏」を唱え、夜は夫婦ともに声をあげて夜もすがら念仏を唱えました。

 これによって、往生を遂げることができました。

   高砂で浄土宗を説く

      「念仏すれば往生できる」

 法然は、人々の立場は色々であっても念仏すれば往生することができる証拠であると、絵巻のなかで描いています。

 高砂浦に何艘もの船がみえ、あわただしく船の行方を指図する者、浜辺では揮姿の漁網を引き上げる漁師の姿が描かれています。

 海からすぐ近くの屋敷では法然が老夫婦を前にして説法してい場面が描かれ、地元の僧や尼をはじめ民衆が集まり、乳飲み子を背負った婦人も思わず手を合わせています。(no2798)

 *『高砂市史(第一巻)』参照

 *挿絵:「法然上人絵伝(巻34)」(知恩院所蔵)より

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高砂市を歩く(217) 時光寺(1)・法然高砂へ

2015-05-15 10:22:24 |  ・高砂市阿弥陀町

 阿弥陀町を歩く時、時光寺の話題は抜かすことができません。

 時光寺は、浄土宗の寺です。高砂市の十輪寺(写真)も浄土宗のお寺であり、高砂市と浄土宗は深い関係がありそうです。

 時光寺の紹介の前に、十輪寺と法然の話を紹介しておきます。

 今回は「高砂市を歩く(86)・(法然の流罪と十輪寺)」の復習です。

    法然の流罪と十輪寺

 高砂町横町の十輪寺は、寺伝によると、弘仁六年(815)、空海開山の由緒を持つ古刹としています。

 寺伝はともかく、法然が建永二年(1207)に四国へ配流される途中、高砂浦で漁夫治郎大夫を教化したことが縁で村民らに歓迎され、中絶していた十輪寺を中興開山し、浄土宗に改宗しています。

 そして、法然上人二十五番霊場の第三番霊場に選ばれるなど、地域浄土宗の中核寺院の一つとなっていきました。

 以上は『高砂市史(第二巻)』より十輪寺の説明の一部です。

 上記の太字のヵ所に注目ください。

     法然、高砂へ

 浄土宗の開祖・法然は、比叡山で学びました。

 しかし、そこでの仏教は、貴族・僧などのための宗教であり、救いのためには厳しい修業が必要でした。

 法然は、庶民の魂の救いのために、「念仏を唱えれば誰でも浄土に行ける・・・」と言う、浄土宗をはじめました。

  浄土宗は、猛烈な勢いで庶民の間に広がりました。当然のように、既成宗教から非難が巻きおこりました。

 そんな時でした。浄土宗に緩がみられ、事件がおきました。

  この事件については『仏教の思想・Ⅱ(梅原猛著)』(集英社)を引用します。

  「・・・法然の弟子に、往蓮、安楽という僧がいた。二人とも大変な色男で、しかも非常に声がよくて、・・・(省略)・・・多くの女性ファンを得た。

 後鳥羽上皇が熊野に参詣に行っている留守に、上皇が寵愛していた女官が往蓮、安楽のところに逃げてゆくという事件が起きた。

 これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、そしてとうとう専修念仏の停止ということになった。

 既成仏教にとっては思う壺であった。

 往蓮、安楽は死刑、法然は四国の土佐へ流罪になった・・・」(『仏教の思想・Ⅱ』より)

     法然上人、高砂に立ち寄る

 法然は四国への流罪の途中、高砂の浜に立ち寄り、漁民に法を説きました。

 安元元年(1175)、法然75歳の時でした。

 半年の後、法然は赦免されました。

 高砂の漁師の指導者の八田治部大夫は、法然を厚く信じ、四国へ迎えに行き、高砂の自宅にともなったといいます。

 以後、この地方に浄土宗が広がりました。(no2797)

  *写真:十輪寺

  *『仏教の思想・Ⅱ(梅原猛著)』(集英社)参照

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高砂市を歩く(216) 阿弥陀石仏(阿弥陀共同墓地)

2015-05-15 07:46:45 |  ・高砂市阿弥陀町

   鮮烈な思いで

 先日、阿弥陀町の共同墓地へ出かけました。

 墓地は、国道2号線沿いで、2号線を越えてローソン阿弥陀店のすぐ北側です。

 国道沿いとは言いながら、墓地は国道・阿弥陀の北で山の一部が壁を作り、完全に遮断されています。

 ここでは五輪塔、六地蔵を説明しなければならないのですが、下記の「大日阿弥陀石像?」が印象に残りました。

 その前に、この墓地の「思いで」を書かせてください。

 ・・・小学生の4年生の頃でした。私の母が阿弥陀町(魚橋)であったので、毎年夏休は長期に魚橋で過ごしました。

 ある日、友達とこの辺の山の探検をしました。途中ではぐれてしまい、その辺をうろうろしました。

 山を下ると、突然寂しそうなところに出ました。そこは現在の阿弥陀共同墓地でした。

 現在は、明るい整備された墓地ですが、当時(昭和20年代の終わりの頃)、そこはまさに異界のようで、それも夕方でした。

 怖くて、怖くてしばらく必死で出口を捜して歩きまわったことを、今でもはっきりと覚えています。

 そして、やっと国道に出た時には日が、どっぷり暮れていました。泣きながら、おばあちゃんの家に走って帰えりました。ほろ苦い思い出です。

 つまらない思い出を書いてしまいました。反省します。

    阿弥陀如来像か?

 この墓地に堂々とした石造の横に説明がありますので読んでおきます。

 「この石像は、作り方から見て、ここから南約70メートルに位置する大日寺にある大日如来石造(1507作)に良く似ており、室町時代終わりのものと推定されるけれど、浄土宗の寺や管理地に建立されていることからして阿弥陀如来と思われる」(no2796)

 *写真:阿弥陀石像?

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高砂市を歩く(215) 地蔵院は、時光寺から独立

2015-05-13 08:27:11 |  ・高砂市阿弥陀町

 前号で、地蔵院の仏足石(跡)を見学しましたので、『高砂市史(二巻)』より地蔵院について、若干紹介しましょう。

   地蔵院は、時光寺から独立

 寛文6年(1666)8月26日、阿弥陀村の善太夫ら3人、東阿弥陀村の市郎太夫ら2人、中筋村の清兵衛ら3人は、連名で京都の浄土宗鎮西派本山知恩院に対して、西阿弥陀村内に存在した地蔵堂という名の小庵に寺号を付けて欲しいという願書を差し出しました。

 彼らは5年前までは、時光寺の旦那(檀家)であったのですが、詳細は分かりませんが、時光寺との間に何らかの争論が生じ、結果、西山派を抜け鎮西派への転派を求めました。知恩院はそれを認め、姫路の知恩院末寺・姫路の心光寺に御書を下し、僧侶を一人を阿弥陀に遣わしました。が、寺院がなかったため、寛文5年6月までは在家を借り宗教活動を行っていました。

 その翌月に幕府から出された諸宗寺院法度により在家での活動が禁止されたため、藩の許可を得て西陀村内の地蔵堂で活動を続けることになりました。

 しかし、地蔵堂には寺号がなかったため寺号を知恩院に願いでました。

 「地蔵院」という寺号を許可され、市内唯一の浄土宗鎮西派知恩院末寺院となりました。

    小寺院を願う

 その後、元文元年(1736)、姫路誓光寺の住持が転住した際、地蔵院をそれまでの小寺格から中寺格へ寺格を昇進させました。

 しかし、中寺格では小寺格に比べて、もろもろの儀式に際して本山への負担が高額となります。

 そのため、宝暦4年(1754)、地蔵院の檀家たちは本山に対してもとの小寺格に戻して欲しいと訴えています。

 このように檀家が少数で、檀家内に富裕層が存在しない場合、檀那寺の寺格上昇などはむしろ忌避されたようです。(no2794)

 *『高砂市史(第二巻)・通史編近世』参照

 *写真:現在の地蔵院

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高砂市を歩く(214) まぼろしの仏足石(跡)

2015-05-12 06:24:54 |  ・高砂市阿弥陀町

   地蔵院の仏足石(跡)

 地蔵院の仏足石の説明を『高砂市の文化財』からその一部をお借りします。

 ・・・

 阿弥陀町地蔵院の境内に、一枚岩の自然石に両足形で長さ約54cm、前の幅約23cm、後の幅約14cm、深さ約1cmに刻まれ、その内に法輪と魚印を見ることができる仏足石(跡)、があります。

 ただ、高い石組の上にありその石組を登らないと見ることができません。

 明冶25年(1892)、地蔵院の先々代住職の発願によるものであり、比較的新しいものですが、仏足石(跡)は、現在全国で約150~160しかないといわれ、珍しい石造物です。

 仏足石(跡)とは、釈迦が入滅前に足跡を印したと伝えられる石のことです。

 仏像が造られる以前、インドで釈迦の表徴として崇拝の対象とされていました。

 やがて、この仏石信仰は中国を経て日本に伝えられました。

 しかし、仏像や仏塔、精舎や僧院の彩画,彫刻がさかんにおこなわれるようになり、崇拝の対象としては以前ほどではなくなりました。・・・・

    幻の仏足石(跡)

 先日、地蔵院の仏足石(跡)の撮影に出かけました。天気の良い昼すぎでした。

 説明はあるのですが、肝心の仏足石(跡)が見つかりません。

 そのはずです。見つからなかったのは、先に紹介したように、高い石組の上にありました。

 それに、深さが1cmとありますが、もっと浅いようです。肝心の仏足石(跡)が、ほとんどみえません。

 お寺の方も『昔は、もっとはっきりしていたのですが・・・』と申し訳なさそうに説明してくださいました。

 水をお願いして掛けていただいたのですが、結果は同じで撮影はできませんでした。

 二日後の午後4時半ごろに再度撮影に出かけました。

 というのは、「仏足石は、はっきりしなかったのですが、わずかばかりの凹凸があります。ヒョットして太陽(西日)がこのわずかな凹凸に当たり、影をつくり仏足石(跡)を浮かび上がるのではないか」と考えたからです。

 予想は的中しました。写真のような仏足石(跡)を撮影することができました。

 まるで魔法のようでした。

 天気の良い夕方、地蔵寺に出かけみませんか。時間と天気限定の素晴らしい仏足石(跡)がご覧になれます。

 注:石組を登る前にお寺さんに許可を求めてください。お願いします。(no2793)

 *『高砂市の文化財(石造篇)』参照

 *写真:幻の仏足石(跡)

 

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高砂市を歩く(214) 阿弥陀小学校移転

2015-05-11 08:23:15 |  ・高砂市阿弥陀町

   阿弥陀小学校移転

 小学校の思いでは、どこか甘い香りがします。

 楽しい思い出がいっぱい詰まっています。

 135年の長い間、当然のようにこの地を占領していた阿弥陀小学校が移転しました。

 阿弥陀小学校は、平成23年に現在の場所に移転しました。

 私の母校ではないのですが、寂しくなります。

 と言うのは、亡くなった母の母校です。

 そして、母の祖母・母の兄弟は、みんな阿弥陀小学校を卒業しました。

 子供の時から、阿弥陀小学校の話をいっぱい聞きました。

 そんな意味で、阿弥陀小学校は私にとっても特別な小学校でした。

 阿弥陀小学校の跡地に来ています。

 新しい住宅がいっぱい建っています。

 その一角に、「阿弥陀小学校跡」の石碑を見つけました。読んでおきます

   阿弥小学校跡(石碑の説明より)

  印南郡阿弥陀村及び魚橋の各所に設置されていた倉陽小学校、教進小学校、静陰小学校の3校が明治8年(1875)に合併し、阿弥陀小学校の前身である倉陽小学校が設置され、翌明治9年(1876)にここに校舎3棟を建設しました。

  明治20年(1887)に阿弥陀尋常小学校昭和16年(1941)に阿弥陀国民学校、昭和22年(1947)に阿弥陀村立阿弥陀小学校と変遷し、昭和31年(1956)の高砂市との合併により、高砂市阿弥陀小学校となりました。

  先人の努力と地域の協力により、この地で明治9年以来135年の長きにわたって教育が行われ、多くの卒業生を輩出しましたが、平成23年4月に高砂市立阿弥陀小学校が移転しました。(no2792)

  *写真上:小学校跡地の現在、

     写真下:「阿弥陀小学校跡」の石碑(本文の説明は碑の裏面)

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高砂市を歩く(213) 往還の交差点

2015-05-10 14:16:49 |  ・高砂市阿弥陀町

   往還の交差点

 阿弥陀小学校は移転してしまいましたが、元の阿弥陀小学校の西の西国街道沿に、古い土塀を背にした中西の地蔵さんがあります。

 そこに薬師堂があります。

 その薬師堂横の一間ばかりの道を北へ歩いてみました。

 昔の大八車がやっと通れるほどの道です。

 国道二号線に突き当たり、そこからさらに道は伸びていましたが、その先は圃場整備された道となって、歴史を感じる道は終わっています。

    中西の薬師堂

 この道は、たかみくら(高御位山)のふもとにある長尾(阿弥陀町)からの道で、薬師堂の所で西国街道を横切り、さらに南下して時光寺に通じていました。

 長尾方面か、米を積んだ車力が、そして西の善光寺(時光寺)を参拝した旅人がこの辺りで一休みしたのでしょう。

   ・・・

   つかれましたな。

   この頃は、めっきり腰も弱くなりました。

   私は目を悪くしましてな・・

   年をとるとだめです。お互いに、気をつけましょう。

   このお薬師さんにお参りしてからもう一仕事しますか。

   ・・・

 こんな、会話があったかもしれません。

 土塀の中には、眼病に効くといわれるお薬師さんがあって、今でも月の8日と12日にはお参りが多いそうです。

 きのう(5月10日)もこの辺りを歩いてみました。大切にされているのでしょう。あたらしい花が供えられていました。(no2791)

 *写真:阿弥陀町中西のお地蔵さんと薬師堂

 *『高砂の史情(森村勇著)』参照

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高砂市を歩く(212) 阿弥陀町中所公民館

2015-05-10 08:32:58 |  ・高砂市阿弥陀町

  たのしい旧西国街道散歩

 阿弥陀の往還(旧西国街道)を歩いています。

 5月に入ってひいた風邪の影響が残っているせいで少し体がだるい。

 そのため、ゆっくりとゆっくりとお爺さんの歩みで東に向かって歩いています。

 ・・・・・

 地蔵院の近くに不断寺があります。

 『高砂市の文化財(石造篇)』に、不断寺には堂々とした石仏が紹介されているので寄ってみたかったのですが、無住で、施錠がされており、はいることができません。

 機会があれば、後日紹介します。

   阿弥陀町中所公民館

 不断寺のすぐ東の阿弥陀の中ほどの右手(南側)には和洋折衷の変った建物(写真)があります。

 玄関、人口の構えは寺か宮を思わせる木造。しかも、彫刻まである和風です。

 それ以外は全て現代風のモルタル塗りの建物です。

 ここは、阿弥陀町中所公民館です。変わった形の公民館です。

 そのはずです。

 「昔からここにあった〝北向地蔵〟をそのまま公民館の建物にとり込んだためだ」ということです。

 「北向地蔵は、合格祈願や快癒など、様々なことにご利益がある」と言われています。

 「阿弥陀町」と言い、「北向地蔵」といい阿弥陀町にはいっぱい、いいことがありそうです。

 他の場所にあれば、奇異な感じのする建造物ですが、歴史のある街道筋にあると妙に納得する風景を作っています。(no2790)

 *『高砂市の文化財‐石造篇』(高砂市教育委員会)・『高砂の情史(森村勇著)』参照

 *写真:阿弥陀町中所公会堂

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高砂市を歩く(211) 風景・一里山

2015-05-09 10:13:20 |  ・高砂市阿弥陀町

   一里山

 JR山陽本線曽根駅の北の国道2号線を渡ると阿弥陀町豆崎の集落です。

 集落の北に立ちはだかる西がわの尾根(写真)が一里山です。

 二つの山の麓は古代の官道である山陽道(江戸時代は西国街道)が通っています。

 江戸時代に設けられた参勤交代の制度にともない、各地の主要な街道沿いに里程の目印となる一里塚が設置されましたが、ここ豆崎にも一里塚がありました。

 少し余話です。

   門松は 冥土の旅の 一里塚

     めでたくもあり めでたくもなし

 これは一休さんの作だといわれています。

 もちろん、一休さんが生きた時代は(1392~1481)には、一里塚はありません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。

 一里塚は慶長9年、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がりました。

   阿弥陀町豆崎に一里塚があった

 一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられました。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられたといいます。

 塚には遠くからでも目印となるように大木が植えられ、木陰は夏の強い日差しを避けて一休みをする場となり、予期せぬ夕立に雨宿りの場へと早変わりしたようです。

 また、一里塚は旅人が里程を知るだけでなく荷駄賃や駕籠代の目安ともなったといいます。

 「一里山」は当然のことながら、一里塚の上にある山から付けられた名前です。

 豆崎集落の西の角にある駐車場が一里塚の場所であり、昭和40年ごろまで塚跡を示す松の大木があったといいます。いまはなにも残っていません。(no2789)

 *写真:一里山(左‐西側‐の尾根)

 *『播磨 山の地名を歩く(播磨地名研究会)』(姫路文庫)

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