ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

さんぽ(119):新野辺を歩く(二部)35 大庫源次郎(22)・波乱の人生

2014-05-06 07:56:29 | 大庫源次郎

  発展するオークラ輸送株式会社
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 経済背景は、一段と高度で能率的なコンベヤの要求となり、オークラにとって、社業繁忙につながった。
 
 そして、昭和43年、社名もオークラ輸送機株式会社と変更した。
 
 波乱の生涯
 昭和44424日未明、突如心筋梗塞が襲い、きのうまで元気だった源次郎は、一瞬にして亡くなった。
 
 まさに、波乱続きの生涯であった・・・・(完)
 
 『新野辺の歴史(二巻)』で紹介の予定
 昨年(平成25年)『新野辺の歴史(第一巻)』(新野辺まちづくり協議会)を出版しましたが、その中で、大庫源次郎を簡単に紹介しています。
 
 その後、大庫輸送機から大庫源次郎の生涯を描いた『創造の人 大庫源次郎の生涯』をいただきました。
 
 一気に読んでしまいました。すばらしい内容の本です。
 
 そのため、このブログでも紹介することにしました。
 
 しかし、なにせ200頁を越える著作であるため、その全部を紹介できていません。大幅に省略しています。
 
 著者の方から、お叱りがありそうです。お詫び申し上げます。
 
 当初、『創造の人 大蔵源次郎の生涯』は、来年の2月出版予定の『新野辺の歴史(二部)』で、取り上げるためにまとめ始めました。
 
 ここに紹介した『創造の人』を、さらに短くして紹介することになります。
 
 内容が正しく伝わるか、若干心配です。

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さんぽ(118):新野辺を歩く(二部)34 大庫源次郎(21)・アイディアで勝負

2014-05-05 08:19:49 | 大庫源次郎

 一喜一憂<o:p></o:p>

 コロコンキャリヤーを開発、その販売もようやく軌道に乗ったころ、日本経済は急速な景気立ち直りをみせている。
 昭和30年から32年にかけて、世の中は「神武景気」を諏歌した。
 その後、景気は下降線を描いた。
 第二次(昭和32)、第三次(昭和35)と合理化計画を完了、企業体質の強化を計った。
 また、自らニカ月間、欧米運搬機業界を視察、研修もした。
 二年余りの景気低迷期が過ぎると、再び春が訪れた。
 昭和35年から36年にかけての岩戸景気である。
 所得倍増計画、国際収支の改善、国内設備投資の活発化、耐久消費財の大衆化などを軸として、景気はめざましい立ち直りをみせた。
 それは前の神武景気を上回る大型ブームの再来であった。
 これまで漸増傾向に過ぎなかった売り上げはここで大きく上放れ、従業員数も倍増した。製品は、どんどん売れた。
 企業も「一安心」と思ったのも束の間、またしても不況にみまわれた。
 好、不況は背中合わせ。好景気のあとには必ず不景気がくる。
 さきの岩戸が大型のブームだっただけに、その裏目の不景気は深刻で、しかも長がかった。「ナベ底景気」と呼ばれた。
 大庫輸送機は、体質改善を計ってきたといっても、まだまだ企業基盤は弱い。
 しかも、作る製品品種も限られている。この不況はたちまち売り上げ面に影響した。
 世に出た当初は「画期的な商品」と人気を呼んでも、それほど設備投資を要求される商品でないだけに、同業他社から簡単に同類が生まれてくる。
十社近くのライバルが出現した。
 源次郎は再出発を期した。
 「よーし。アイディア」のオークラをうち樹てよう」
   アイディアで勝負
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 また、東京に研究所を持つ南川利雄工学博士の協力を仰いだ。
 源次郎と南川氏とのつき合いは、昭和30年に逆のぼる。コロコンの製品化には高度な技術を必要とするところから南川氏の門をたたき熱心にそのアドバイスを受けた。
 源次郎は、コロコンキャリヤーの新しい応用範囲を拡大することに主眼を置いた。
 そして、数多くの品種を開発していった。
 「製品は、アイディアで勝負」と源次郎は、常に自分に言い聞かせて研究に取り組んだ。<o:p></o:p>

 続々と生まれてくる新製品のなかでもフローラックは、源次郎の創意が生んだ傑作であった。
 「企業はマスプロ化され、製造工程はあらゆる部門が自動化されているのに運搬と貯蔵はあまり進歩していない。それを一つのシステム化して自動化をはかるのが、われわれ運搬機メーカーの責任だ」という考えが、この傑作を生みだした。
 棚とコロコンキャリーとかローラーコンベヤーを組み合わせた。源次郎は生産ラインの流れそのものを「倉庫」と考えのである。
 つまり、原料供給から出荷までの流れを、一貫した倉庫システムとして、位置づけた。
 いま、フロープラントシステムの出現で、倉庫の概念がすっかり変わろうとしている。
 *『創造の人 大庫源次郎の生涯』より
 *写真:部品格納用フローラック<o:p></o:p>

 

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さんぽ:新野辺を歩く(二部)33 大庫源次郎(20)・展示会大成功

2014-05-04 07:39:07 | 大庫源次郎

 売るのに一苦労
 源次郎は、販売は経験がなかっただけに苦労させられた。
 
 根っからの職人だけに、カケヒキには苦労した。
 
 幸い、この動力を必要としない軽運搬機は源次郎の予想通り産業界にアピールし、あちこちから引き合いがきた。
 
 こうなれば、いやでも源次郎は商売人にならざるを得なかった。
 
 取引に際しては、どんなにいそがしくとも約束の時間は守り、相手方に不快感を与えない。
 
 また、見積りの段階では、できるものはできる、できないものはできない、ときっぱりした態度を示し、納期は絶対間違わなかった。
 
 自信を持って製作したこのコロコンキャリヤーを値ぎられることは、品質まで安くみられているようで抵抗を感じた。
 
 この年(昭和三十年)大阪営業所を設置した。
 
 こうして、徐々に売り上げは伸びていった。
 
 大成功の展示会
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 だが、いつまでも足でかけず廻って売るという非合理的な販売方法を続けていては、いずれ限界がくると悟った源次郎は、昭和31年、東京の日比谷公園を会場にした機械展示会に出品することにした。
 
 この源次郎の作戦は図に当った。
 
 出品するにあたってカタログを大量に作製し、会場にはコロコンキャリヤーの実物を展示、その前に名刺受けとカタログを積み、源次郎自ら会期中、会場でがんばった。
 
 多くの参観者は、この一風変った運搬機器の前に足を止める。
 
 源次郎はこの機会を逃さず、この販売のために勉強した運搬論から説明をはじめた。
 
 展示会への出品は成功だった。
 
 会期間中に商談が成立すると、電報や電話で加古川の本社へ連絡、製作にあたらせた。
 
 また、同時にあらかじめ調査しておいた資料をもとに東京近在の売ってくれそうな問屋を訪ね回った。
 
 話がまとまるとすぐ代理店契約を結んだ。
 
 代理店の数は東京都内や、近郊の都市にふえていった。
 
 展示会が終わると、こんどは集った名刺を頼りにセールスの開始。
 
 一週間東京で宿屋住いをして注文をとり、それを持って加古川の本社に戻る。
 
 三日間加古川にいて、再び東京へ舞い戻って注文とりと・・・。
 
 タフな源次郎も参ってきた。だが、苦労したかいがあって、コロコンキャリヤーに対する反響はかなりあった。
 
 この年、東京官業所を新設し、販売の拠点とした。
 
 東京が終ると、こんどは名古尾を中心とする東海地区への進出をはかった。
 
 名古屋はもともと保守的な土地がらである。
 
 大庫機械製作所の名前などだれも知らないし、コロコンキャリヤーに対する印象も低くかった。
 
 当時、すでに取引をはじめていた日辰産業もその普及、宜伝には苦労をかさねていた。
 
 源次郎にしては、一応東京地区でかなりの成果をあげただけに、ぜひとも東海地区でも販売の基盤をつくりあげておきたかった。
 
 たまたま「名古尾まつり」にちなんだ第一回優良機械展の開催があった。
 
 日辰産業の社長は、さっそく源次郎に「現状のかべをつき破る絶好のチャンスだ。ぜひこの優良機械展にコロコンキャリヤーを出品してはどうか」と相談を持ちかけた。
 
 源次郎は喜んで出品することを約し、両者合同名儀で展示した。
 
 そして、東京以上の成果を得た。
 
 そうこうするうちに「山之内製薬」・「大正製薬」・「エスエス製薬」といった製薬会社から注文がきはじめ、さらに「協同乳業」から受注した。
 
 「協同乳業」からの注文は、源次郎にとって最初の大口注文だった。
 
 金額にして一千万円、当時の大庫機械製作所にとってはびっくりするような注文量であった。
 
 *『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

  *写真:東京国際見本市会場、コロコンキャリーの実演風景(昭和34年)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(116):新野辺を歩く(二部)32 大庫源次郎(19)・資金工作に四苦八苦

2014-05-03 07:49:50 | 大庫源次郎

 親子コンビで活躍
 源次郎がコロコンキャリヤー開発に没頭しているころ、典雄も、大庫機械製作所の支配人を勤め、次代を背負う経営者としての責任、自覚を培かった。
 当時すでに欧米諸国では、運搬機器はあらゆる工場に利用されていた。
 「これら大庫機械製作所の屋台骨となる新製品は、これをおいてほかにない」そう決意して、源次郎とともに運搬機器の分野に全精力を傾注した。
 ときには激しく両者の意見がぶつかたこともあった。
 源次郎は、こんな典雄の成長を喜び、また誇りにさえ感じた。
   資金工作に四苦八苦
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 いよいよ本格生産による商品化だ。
 その前に、彼はこの重力コンベヤのネーミングを考えねばならなかった。
 商品名も製品そのものと同様に、売るための大きな要素であり、その良し悪しによって売り上げがずいぶん違ってくる。
 この重力コンベヤも「コロ」を応用したものである。そのコロの上を物がコロコロと転がっていく。<o:p></o:p>

 「コロとコロコロー」
 源次郎は、この語呂あわせに満足した。躊躇することなく「コロコンキャリヤー」と名付けた。
 名前はついた。後はそのための資金手当であった。
 しかし、その資金も、これまでの不況ですっかり使いはたし、神戸銀行高砂支店にかけ合った。

 その銀行は、創業以来の付き合いもあり、簡単に貸してくれるものと思っていたが、よい返事は帰ってこなかった。
 源次郎は、コロコンキャリヤーの試作品を見せて説明した。
 結局、不成功に終った。これからの資金工作に、これといった策も浮ばない。
 中小企業金融公庫にかけ合うことにした。
 やっとのことで、兵庫相互銀行を窓口に、中小企業金融公庫から四年間の期限で三百万円の金を借りることができた。
   まだ、つぶれてまへんか
 やっと手に入れた三百万円。源次郎はさっそく、プレス一台年賦払いで買い入れた。
 これがコロコンキャリヤ一生産開始のとっかかりであった。
 「運搬の合理化」という言葉は、まだ耳新しいころだっただけに、果してこの運搬機器を本格生産しても大丈夫かという、一抹の不安はあった。
 そのこころ、すでに運搬の合理化についての研究はかなり進み、マスプロ工場における生産工程のコンベヤ化は源次郎の予想以上に利用されていた。
 源次郎の「チョット時期が早いのではないか」という不安は取りこし苦労だった。
 しかし、生産をはじめてみると、こんどは運転資金にたちまち困ってしまった。
 兵庫相互銀行から借りた300万円は、ほとんど機械の購入、材料の手当に使ってしまっていた。
 源次郎は、コロコンキャリヤーの生産に励むかたわら、せっせと銀行通に精をだした。
やっと金を借りることができたが、そのあとがまた大変であった。
 銀行員が工場へくるたびに「大庫はん。まだつぶれておりまへんな」と、源次郎をからかうのである。
 ぼつぼつ、コロコンキャリヤーに買い手がつきだしたのは昭和32年の頃からであった。
 *『創造の人。大庫源次郎の生涯』より

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さんぽ(115):新野辺を歩く(二部)31 大庫源次郎(18)・コロコンのヒント

2014-05-02 06:25:30 | 大庫源次郎

 ドタン場のカンフル注射
 
 源次郎が自力で製品を開発していこうと決意した。
 
 昭和28年の夏も終わりに近いころ、彼は兵庫県商工労働部の中小企業経営診断士、大中信夫氏を訪ねた。
 
 さっそく、大中氏は大庫機械製作所を診断するため同社を訪れた。
 
 同社は、機械修理工場としては大きすぎた。その設備の半分は動いていなかった。
 
 大中氏は「遠からずつぶれてしまう」と判断し、新製品への切換えを勧告した。
 
 新製品といっても、同工場の技術と施設にふさわしいもので、絶対他社に負けない売れる商品ということである。
 
 発見されたことは、醤油会社や肥料工場などへのコンベヤの製作修理が多かったことである。
 
 大中氏は、運搬機器に対する技術に自信があるものと判断し、スクリューコンベヤ、ベルトコンベヤ、ポータブルコンベヤ、などの 運搬機器の製造等を勧告した。
 
 源次郎の考え方と勧告案は完全に一致した。
 
 それには、より以上の高度な技術が要求された。
 
 源次郎は、それからというものは大中氏のところへ日参した。
 
 大中氏は、自分の友人の阪井英人氏を源次郎に紹介した。
 
 阪井氏は当時、すでに運搬工学に関する第一人者であった。源次郎は、阪井氏を大庫機械製作所の顧問として招いた。
 
 こうして新たに製作をはじめたコンベヤ類は、戦後の運搬機械化の波に乗って、好調な売れ行きをみせ、半ば仮死状態だった大庫機械製作所も大きく息をふきかえした。
 
 コロコンのヒント
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 「こんなことで油断してはいかん。どんな不況が訪れてもびくともせんような新製品を開発しておかないと、また泣くような破目になる」
 
 源次郎は、創意をかたむけて真剣に構想をねっていた。
 
 ある日、彼の机の上に置いてあったソロバンの上を、ライターがわずかな傾斜ですべり落ちた。
 
 「こいつや」
 
 源次郎は思わずヒザを叩いた。エネルギーはゼロ。
 
 チョットの勾配がありさえすれば、ライターの重さが動力に代わりとなる。どこまでも、おっかけて行く」
 
 コロコンキャリヤー開発の糸口は、こうして開かれた。
 
 だが、当時は運搬の合理化などという言葉はまだ耳新しく、労働力も豊冨にあり、労賃も安い時代であったから、製品化するにはかなり勇気がいった。
 
 笛吹けど
 
 いよいよ試作の段階である。
 
 源次郎は、現場幹部たちを会議室に集め、完成した設計図を広げて見せた。ところが、現場の反応は意外に冷たかった。
 
 「社長、そんなものより、今までの製品に力を入れた方が得策と違いますか、業績もあがっているじゃないですか」
 
 これまで、どんな苦境の時で常に従ってきてくれた従業員も、こんどばかりは反対した。気持ちはよくわかった。が、源次郎は、計画を推し進めた。
 
 昭和20年の春、正月まで後わずかだった。
 
 *『創造の人・大庫源次郎の生涯』より
 
 *写真:コロコンキャリヤー開発のヒントになった長いソロバン<o:p></o:p>

 

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さんぽ(114):新野辺を歩く(二部)30 大庫源次郎(17)・やっと軌道に

2014-05-01 07:56:15 | 大庫源次郎

 やっと軌道に
 昭和24年から25年にかけ「ドッジ旋風」が吹き荒れた。
 
 目的は、超均衡財政の強力な実施で、一挙に戦後のインフレを根絶しようというものであった。
 
 こうして、24年度の国家予算は超均衡、超デフレ予算となり強いデフレ政策がひかれたのである。
 
 この荒療法ともいえるデフレ政策の強行で、中小企業の倒産が続いた。
 
 大庫機械製作所は、こうした経済情勢を乗り切った。むしろ安定した業績を残すことができた。
 
 この年、工場の機械設備を更新し、第一次合理化計画を完了した。
 
 線香花火の動乱ブーム
 
 昭和256月に起った朝鮮動乱は、まさに「干天の慈雨」であった。
 
 国連軍の大規模な軍需物資が日本に対して発注され、沈滞していた産業界は、にわかに活気づいた。
 
 源次郎のところにも好況の余波が現われた。大企業からの下請け事がどんどん舞い込んだ。三菱製紙の仕事だけでも月々200万から300万もあった。
 
 盆も正月も、なんの心配もない。こん気持はおそらく創業以来なかった。
 
 源次郎、加古川市会議員に
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 源次郎は、加古郡別府町の町会議員であったが、26年、土地の有力者に説得されて加古川の市会議員に立候補し当選した。
 
 都市計画特別委員長をはじめ、いくつかの常任特別副委員長の要職について、地方自治の進展にも力を入れた。
 
 翌27年には、加古川商工会議所の機械金属部会長にも選ばれた。
 
・・・・・
 
 動乱ブームは、そう長く続かなかった。
 
 昭和267月から休戦会談がはじまると軍需景気は目に見えて後退した。
 
 好景気は、線香花火のようにパッともえて、さっと消えた。
 
 その後、29年の緊縮政策は、またまた不景気を招来した。この不況を源次郎はまともに受けた。
 
 大庫機械製作所の仕事量はどんどん下がって、あっという間に十分の一ぐらいまで減ってしまった。
 
 加えて、これまで仕事を出してくれていた親企業へ出向させていた工員20人が帰ってきた。
 
 「仕事量はガタ落ち。人はふえる。これでは企業が成りたつはずがない。1ヵ月30万円ぐらいの売り上げで、どうやって50人の工員を養うんや・・」完全にお手あげ状態となった。
 
 集金にかけずり回ったり、在庫品を処分したり鋳物工場を鎖して、その中のクズ鉄をトラック一杯10万円で売り払って、支払い給与の足しにしたのもこのころのことであった。
 
 とにかく、これまで、なんとか切り抜けてきた源次郎も、このときかりは下請け企業の悲哀をいやというほど味わった。
 
 源次郎は「今後も下請け仕事に依存しとると、いつまたこんな事態が起るともからん。これを避けるためには自力で製品を開発し、販売しなければいかん。メーカーとして立つ以外生きる道はない・・・」という考えを実行する決意をした。
 
 *『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

  *加古川市会で演説する源次郎(昭和27年撮影)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(113):新野辺を歩く(二部)29 大庫源次郎(16)・ナベカマ時代

2014-04-30 07:58:47 | 大庫源次郎

 軍需省の監督工場に
 日中戦争から大平洋戦争へ。政府は国防国家体制を一段と強化する必要が生まれてきた。産業再編成のための企業整備であった。
 昭和18年「学徒戦時動員体制確立要綱」が発表されて、中学生、高専生、大学生は軍需工場や炭鉱などに動員されていった。
 こうした状況下の昭和18年、大庫機械製作所は、軍需省の監督工場に指定され、航空機整備工具の生産を手がけることになった。
 国から与えられた仕事だけを適確にやりあげていくことが使命となった。
 いままでのように注文取に走り廻るようなことはなくなった。
 その意味では、確かに経営は楽になったが、ただ国のために働く奉仕の一念でしか仕事はできなかった。
 緒戦の勝利が一段落した。19年にはサイパン島がアメリカ軍の手中に帰した。
ここを基地としたB29の日本本土爆撃が全国にわたって激烈に行われるようになった。
 昭和2086日、広島市が、9日には長崎市が原子爆弾の洗礼を受け、14日には、ついにポツダム宣言を受諾。日本の敗戦であった。
 工場の外は真夏の太陽がやけつくように照りつけていた。
 源次郎は、血と汗の浸み込んだ旋盤や機械類を馬力に一台ずつ積んで、付近の農家へ運び込んだ。自分の分身のような工場の設備が米軍に押収されるのはとても耐えられなかったのである。
 
終戦、ナベカマ時代
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 源次郎にとって敗戦のショックはあまりにも大きかった。
 創業以来、今日まで営々として築きあげてきたものは、すべて無に帰してしまった。
 激しい空襲との戦いは終わり、工場の被爆はまぬがれたものの、軍需省監督工場としての仕事は、この日を境になくなってしまった。
 源次郎は、50に近くなっていた。
 工場のこと、従業のこと、源次郎は迷いに迷った。
 かといって何もせず、手をこまわいているわけにもいかず、とにかく何か手がけて生計をたてねばならなかった。
 ひとまず、希望者を再雇用し、再出発の手はずをとった。
 そして、急場しのぎに作りはじめたのがフライパン、ナベ、カマ、パン焼き器、ワラ押し切り機類である。
 なにぶん鉄材の不足していた時代だけに、品物は飛ぶように売れた。
 どうにか大庫機械製作所を存続させることができたのである。
 若いころから鉄のことしかとりえがなかったことが、こうしてすぐさま仕事に帰れたわけである。
 戦後のインフレーシンはブレーキのない車のように進行していく。
 空襲との戦いがやっと終ったら、こんどは空腹との戦いであった。<o:p></o:p>

 このような日本に復員者がどんどん帰ってくる。
 荒廃した祖国を見る復員者の顔には、これからの生活に対する不安がただよっていた。
 事実、彼らの就職問題は深刻だった。
 世の中のどさくさにまぎれ、ひともうけをする人間も多かった。
 「信用第一」の項でふれたが、源次郎にも甘いもうけ話を持ちこんでくる連中もいた。
家族ぐるみで働いた。
 源次郎は、工場で真っ黒になって働き、勉強の合い間に典雄(前社長)も手伝った。
 はぎ能も結婚後長らく子供ができなかったので、毎日会社へ出て事務関係一切をきり回した。
 昭和22年、創立20周年を迎えるころには生計のメドもたってきた。
 *『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

 *写真:左より、パン焼き機・わら押切機・フライパン<o:p></o:p>

 

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さんぽ(112):新野辺を歩く(二部)28 大庫源次郎(15)・野口町へ工場移転

2014-04-29 07:16:46 | 大庫源次郎

 野口町へ工場移転
 昭和12年、77日、ついに戦火は全中国に拡大し、日本国中は「戦時体制」に突入した。
 国内物資は統制され、13年にはいると「国家総動員法」が4月に公布された。
 国民生活では綿製品の製造、販売の中止によって「木綿なし時代」となり、スフ、レーヨンがはばをきかすようになった。ガソリン、重油が割り当て切符制となった。
 もちろん兵器生産につながる鉄製品も当然統制下に置かれた。
 鉄びんもアイロンも自由に製造できなくなった。
   
昭和131月、新野辺を離れる
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 こうした状況下に、源次郎は昭和13年の1月、新野辺にあった工場を野口村(現加古川市野口町)に移した。
 新野辺時代、工場敷地を拡張、機械設備も増強してきたが、もはや、こうしたつぎたし補強では間に合わなくなってきた。
 そのころ軍需景気もあって仕事量は急激に増大していた。
 残業、徹夜作業とフル回転しても、この手狭な工場ではとても追いつけなくなった。
 加えて上西製紙などへ納入するものは大きく、それを現有の小さな旋盤で削るのだから、その地響きと騒音だけでも大変で、当然のように工場周囲の住民からクレームがあった。
 源次郎は、現在地への移転に踏み切った。
 野口工場用地は、まだ人家もまばらで、田んぼの真中にポツンとあった。
 源次郎は、新工場に思い切って4000坪の土地を購入し設備を増強した。
 この新工場移転当時の工場建屋は、その後社業の発展につれて取りこわされ、移転時、事務所として作られた建物だけはいまなお記念館として保存されている。
 この記念館で人目をひくのは、コロコンキャリ発明の糸口となった五つ玉の長いソロバンである。
 昭和29年ごろの不況時、源次郎が会社再建に苦闘している時、ライターがこのソロバンの上をわずかな傾斜ですべり落ちた。
これが起死回生のコロコンを産んだいわくつきのものであった。
 太平洋戦争に突入
 職業軍人だった実弟・幸次は、昭和13516日、微山溝(フェンシャン湖)で戦死を遂げた。
 その後、日本軍の北部仏印進駐、日・独・伊三国同盟の締結と進む。
 町や村から毎日のように出征兵士が送られていった。
 大庫機械製作所の工員にも赤紙がきた。
 加古川の駅前は、日の丸の小旗や「祈武運長 のノボリで埋まり、軍歌で明け暮れた。そして、兵士たちは戦地に向った。
 加古川駅頭を出発していった出征兵士たちの中には、幸次と同じようにやがて白小箱に入れられて、加古川の駅頭に"無言の凱旋"をした。軍国主義一色に塗りつぶされた世の中であった。
 加印鉄工工業組合専務理事、兵庫県鉄工工業組合連合会理事などの公職を兼務していた源次郎には「聖戦完遂」のため、国からのすべての要求を業界に徹底、実行させる任務があった。
 昭和16128日。日本は太平洋戦争に突入した。その朝は霜が真っ白におりていた。
 その凍りついたような空気をふるわせてラジオの臨時ニュースがはじまった。
 源次郎は、放心状態になった。わが耳を疑った。
 *『創造の人・大庫源次郎』より

 *写真:野口町移転当時の工場全景(昭和13年撮影)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(111):新野辺を歩く(二部)27 大庫源次郎(14)・明るい陽ざし

2014-04-23 21:20:22 | 大庫源次郎

 暗い世相に明るい陽ざし
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 昭和5年ごろ仕事の量は徐々にふえ、事業にやや明るい陽ざしがさし込んできた。<o:p></o:p>

 しかし、世の中は、昭和4年の世界恐慌の直後とて、産業活動はだ砥迷から抜け切っていなかった。
 
 就職難時代だった。「大学は出たけれど」の言葉が流行語となった。
 
 このように失業と生活難が、労働争議を生み出す母体となったとしても不思議ではなかった。
 
 しかし、暗い世相と反比例して、源次郎の仕事は軌道に乗ってきた。
 
 今の高砂市荒井にあるキッコマン醤油関西工場建設にあたって、付近に業者のなかったことも幸いして鉄工の注文がきた。
 
 前述の神田氏の縁故もあって高砂銀行本店(現神戸銀行高砂支店)社屋新築の際、鉄骨工事を請負うことができた。
 
 後年神戸銀行となり、「この建物は、私がしましてんで・・・」と説明するのが源次郎の自慢でもあった。
 
 また、加古川支流に架かる永楽橋を木橋から鉄筋コンクリートに改修することになり、源次郎は、その鉄骨工事を請負った。
 
 続いて尼崎市にある朝日化学肥料という会社からも声がかかった。
 
 これは、この会社にある得意先から転職された先輩がいた関係で、引立ててもらった。
 
 もう、今夜の米を心配することもなくなった。
 
 電気会社や新聞販売店の集金人もこわくはない。
 
 そんな源次郎に突然の不幸が見舞った。
 
 連れ添ってわずか五年、苦労ばかりかけた「かく」が、この世を去った。源次郎は、神をうらんだ。
 
   救いの神、大量受注
 昭和8年、死んだ「かく」の妹「はぎ能」をめとった。
 
 昭和10年ごろには、政治、経済、軍事面での国際緊張がはげしくなるなかで鉄鋼、機械、化学工業は急速な回復と、拡張をとげてきた。
 
 大庫鉄工所の仕事量は急ピッチでふえてきた。
 
 工場設備も創業時とは比較にならないほど強化された。
 
 工場の拡張、機械の増設によって工員もそれにつれてふえ、30人ぐらいの所帯にふくれてきた。
 
 源次郎は、朝早くから夜遅くまで、現場で作業衣を真っ黒にして立ち働いていた。
 
 昭和11年ごろ、大阪、西淀川の佃にある上西製紙から、工場新設にともなう設備のいっさいを受注した。
 
 大庫鉄工所創立以来の大量受注であり、源次郎はこれまでの苦労がみんなふっ飛んでしまうほどうれしかった。
 
   創立十年を迎える
 工場らしい工場になった。昭和12年は大庫鉄工所創立十周年を迎えた。
 
 源次郎は、これを機会にこれまでの個人経営から脱皮して会社組織とし、社名も改めた。源次郎は39才。
 
 組織と社名の変更は、創立十周年記念式の日に発表された。
 
 「合資会社大庫機械製作所」源次郎が将来の発展を期し、自信をもってつけた社名であった。
 
 創立十周年記念式は、土地の有力者、得意先、業者仲間、それに全従業員が源次郎を囲んでこの日を祝った。
 
 次郎のホオに知らぬ間に涙がこみあげていた。
 
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 
 *写真:はぎ能を迎えて家庭も落ち着きを取りもどした。(昭和9年撮影)
 
 ◇私用のため、しばらくブログを休みます。再開は来週430日(水)の予定

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さんぽ(110)新野辺を歩く(二部)26 大庫源次郎(13)、妻・かくの死亡

2014-04-23 07:59:24 | 大庫源次郎

 弱り目にたたり目
 とにかく工場も、設備も整った。ところが、かんじんの仕事がない。
 それもそのはず、創業の一ヵ月半前、世にいう金融恐慌が勃発したのであった。
 衆議院の予算総会の席上、片岡蔵相の軽卒な発言が口火となって、東京渡辺銀行などに取付け騒ぎが起り、休業にはいった。
 
 これを第一波として、第二波は台湾銀行と神戸の鈴木商店が破たんした。
 
 世の中は、不景気のどん底にあえいでいたのである。
 
 源次郎のところへ仕事が回ってこないのも当りまえだった。
 
 やがて初夏から、太陽のギラギラ照りつける真夏がやってきた。
 
 「そや、ここは田舎や。田舎におうた仕事をやったらええんや」
 
 こうして農業機械の改良修理や、脱穀機、ワラ打ち機を注文に応じて作りはじめた。
 
 そのうち、近所にある多木製肥所や、別府製紙所から「同じ仕事をよそへだすくらいなら大庫にやらしてやれ」ということで、ぼつぼつ仕事が舞い込んできた。
 
   台所は火の車
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 不景気風は、このように大庫鉄工所だけを圏外に置いてはくれなかった。
 
 そのころ(昭和三年)東神吉村から戸田龍士の長女「かく」を後添えに迎えた。新婚の思い出もないくらい働きに働いた。
 
 この年、典雄(前オークラ輸送機社長)が生まれた。
 
 仕事はあっても、金は会社にまわした。
 
 時には電気代、新間代を支払う金すらない日もあった。
 
 「よう払わんのやったら、あすから電気停めるで」、集金人は、無情であった。
 
 電気が停まれば、家の電灯はともかく、工場の機械が動かない。かくは隣、近所へ借金にはしらねばならなかった。
 
 数年後、こうした苦しい家計のやりくりの疲れが出たのかも知れない。
 
 昭和8530日、次女如子を生むと、腎孟炎(じんうえん)を病み亡くなった。
 
   自社製品は、失敗続き
 源次郎は、何か自社で開発した製品を出したいといろいろ考えた。
 
 田舎のことでもあり、農業に直接結びついたものを作ったらということでワラ打ち機械を作ることにした。
 
 食べていくだけがやっとの毎日では、まとまった金がある道理がない。
 
 家屋敷を担保に、銀行から大金の1500円を借り、これを元手にいよいよワラ打ち機百台をこしらえた。
 
 市販しているものを買ったら7080円するのが、自分が造れば30銭でできる。
 
 これは、儲かるぞと意気込んだ。が、一台も売れなかった。
 
 泣くに泣けない結果に終った。クズ屋に頼んで、少しでも高く引取ってもらった。
 
 つぎに殻物乾燥器を手がけた。これは時期遅れが原因で失敗。つぎは別府港に入港してくる貨物船や、漁船のエンジン修理の経験から、焼玉エンジンの製作を手がけたが、これも考えが甘かった。
 
 なすことがみんなこんな調子で、スタートからさんざんであった。1500円という金はアッという間に霧散して、もとに残ったのはわずか200円あまりになった。
 
*『創造の人・大蔵源次郎の生涯』より
 
*写真:源次郎と連れ添って5年、苦しいやりくりをした後添え「かく」(昭和3年)<o:p></o:p>

 

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さんぽ(109):新野辺を歩く(二部)25 大庫源次郎(12)・大庫鉄工所、新野辺で産声

2014-04-22 08:32:21 | 大庫源次郎

   バラック工場で産声
 
その年(昭和2年)の5月、別府町新野辺の地に大庫鉄工所が産声をあげた。
現在の「オークラ輸送機」の前身である。
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 独立当時の工場の姿は、一間に五間のバラック建の町工場であった。
 それは、田舎の街道筋で、おばあさんが一人細々と回転焼き屋をやっているような感じで、工場というより小屋のようなものあった。
 工場の設備は、「大阪で300円で買ってきた八尺ベルト掛け旋盤一台、70円のY型ボール盤一台、10円の一馬力モーター一台、そのほかグラインダー1台、ふいご1丁」と一応はなんでもこなせる機械が据え付けられた。
 この開業資金は、幸わい源次郎の遠縁にあたる神田勝次氏(故人)が、後の神戸銀行の専務をしていたので、融資を受けることができた。
 いままでは使われていた、こんとはそうはかない。
 「不始末すれは全部わが身にはね返ってくる。だれも責任はとってくんし、めんとうも見てくれない。借金も返さなくてはいけない。がんはらねばいかん・・・」
 源次郎は、真剣に取り組んだ。
 そして独立に際し銀行より借受け金は、その後九年間で返済した。
 なお、神田氏は以後資金面で、なにかと助力を仰いており創生期における恩人であった。
   借りたら返す、買うたら払う
 源次郎が修業時代を通じてもっとも大切なことだと肌で感じたことは「信用第一」と言うことであった。
 お得意との取引が成りたっているのもやは信用あってのことである。
 一軒のお得意先で信用を落とすことは、その一軒だけにとどまらない。いずれは伝え聞かれて全部のお得意先から信用をなくすることになる。
 「信用第一」、これをスローガンに大庫鉄工所はスターを切った。
 この信念は終生変らなかった。
 敗戦からの数年間、国民の生活内容は極めてみじめであった。
とくに食べ物に対しては、若い人たちには想像もできなほどである。
 とにかく、餓死をまぬがれているというだけの極限の時代であった。
 ところが、そんな社会にあって、ふしぎとどこからか物資が運び込まれる。
 旧日本軍の物資を横領して横流ししたり、日本のあちこちに残る物資を動かしたり、いわゆるヤミ取引が横行した。
 うまく立ち回れは面白いほどもうかる。
 「ヤミ屋三日すれはやめられん。堅気の会社で、こつこつ働くなど阿呆のするこっちゃ」といわれた。
 事実、小ざかしい連中は、ヤミ屋やヤミ金融でボロかせきをしていた。
 こういう人は源次郎の周囲にもいた。源次郎の前に現われては「どないや、一つこの話に乗らへんこお。のう。わけまえはこれでどなないや・・」
 そっと耳うちするその金額の大きさに源次郎は唖然とした。
 だが源次郎は、甘い話には乗らなかった。
 「信用第一や、ここで誘惑に乗って信用失ったら、今度それを取り戻すのに十倍かかる」
 事実、その当時、羽ぶりのよかったヤミ屋連中は、一時的には笑いがとまらぬほど稼いだが、世の中が落ちつくとともにあっけなく消えてしまった。
 *『創造の人・大庫源次郎』より
 *写真:創業当時の工場内風景・左端に立つのが源次郎(昭和3年頃)

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さんぽ(108):新野辺を歩く(二部)24 大庫源次郎(11)・独立と鶴林寺の師

2014-04-21 00:12:07 | 大庫源次郎

 戦い終って
 昭和25月、誠和会もついに分裂する日がきた。
 当時、繊維産業の組合は現実主義の総同盟か、共産主義の評議会のいずれかによって指導を受けていたのだが、評議会派の過激な従業員たちは、会社の施策に反抗した。
 誠和会員の中には、組合幹部の態度を嫌って脱会する者が相次ぎ、ついに革新同盟という別の組織を結成した。
 源次郎は、若いが誠和会の幹部である。家にも帰らず、組合活動に熱中した。
 ついに、517日。分裂派革新同盟の解消と主唱者の解雇要求を会社側に拒絶された組合は、ゼネストに突入した。
 争議団は、加古川町に本部を置いて籠城し、42日間の長期戦となった。
 しかし、闘争が長びくにつれ、争議団員に疲労の色が濃くなり、誠和会の足並みが乱れてきた。
 財政を両工場に依存していた加古川町と米田村にとっては、経済的に影響が大きく、両町村長らが調停に立ち、両者の間をあっせんするにいたった。
 この争議終結により、誠和会の解体で、退職者、解雇者は続出した。
 第一次5名、第二次27名、第三次には大量35名の解雇者が発表され、この第三次には大庫源次郎の名前もあった。
 この間、440日、妻しもは、長女豊子を残して病死した。
   鶴林寺の師と独立
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 「源さん。これからどうするんじゃ」
 
 「この不景気に札つきを雇ってくれる会社もないやろがい」
 
 ブラブラする毎日が続いた。
 
 「よし。自分でやったろ。独立するときはいまや。りっぱな鍛冶屋になったるで」
 
 苦しい修業時代を通じて鍛えた根性と、腕に対する自信は、源次郎を独立へとかりたてた。
 
 「独立」とう決心はついたものの、やはり、不安はつきまとった。
 
 「(鶴林寺の)茂渡師に相談してみょう」
 
 鶴林寺内にある浄心院の住職・茂渡恵寛、その人であった。
 
 源次郎はこれまで、よくこの門をくくった。
 
 くちびるを噛みしめ、寺の門をくぐる源次郎の顔は緊張に引きしまっていた。
 
 境内の桜は、ふくらみかけている。
 
 茂渡師の前に正座した源次郎は「ご存知のように日木毛織を労働争議で整理され、目下失業中です。私は私なりに独立ということを考えてみたのですが、このご時世では、考えるほど甘くないと思います。といって、いまさら他人のメシを食うわけにもいかず困っています。・・・」心の迷いをうちあけた。
 
 「あなたの宝はなにか」
 
 住職は、ずばり心の迷いの中に切り込んできた。
 
 「長年、苦労して鍛えあげた腕一本だけです・・・」
 
 「では、その腕を頼りに生きなされ。誠意をもって仕事にあたりなさい。他人の力を頼ってはいけません。高望みさえしなければ、将来必ず道は開けてきます。
 
 真面目にさえやっていけば、人さまは放っておかれません。腕だけで金もうけを考えなさい」
 
 心の暗雲は、この対話で晴れあがった。「独立するんだ。わしはやるぞ・・・」同じ言葉を何べんも、心の中で繰りかえしながら鶴林寺の門を出た。
 
 ふりかえる源次郎の目に、夕陽に映える本堂のイラカが美しかった。
 
 *『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(107):新野辺を歩く(二部)23 大庫源次郎(10)・ニッケの争議

2014-04-20 09:12:26 | 大庫源次郎

 米騒動のころ
 大正7年7月22日夜、・富山県下新川郡魚津町で漁民の妻たちが井戸端会議を開き、不漁のうえ、米価がこう天井知らずにあがっては、もうたまらない。あすからは米の県外積み出しはやめてもらおうと話し合った・・・・「越中女一撥」米騒動の発端である。
 米価は、さらにはねあがり、騒動は、またたくまに全国に拡がって激しさをましていった。<o:p></o:p>

 源次郎のいた神戸の米騒動も11日にははじまった。
 12日、三菱造船所の労働者が社内で暴動を起こし、その夜一般市民を触発して数万人の群衆があふれる大騒動となった。
 喚声と怒号と、真っ赤な炎が一晩中、神戸の町をぬりつぶした。
 その夜、源次郎の若い血は騒いだ。。
 結局、この争議は官憲の弾圧では労働者がわの敗北に終わった。
 
帰郷、「大庫」と改姓
 大正10年5月25日、源次郎の養子縁組と結婚式が行われた。
 甥の源次郎を早くからその候補にあげていた伯母の「大庫家」は、小西家と違い、多少資産はあった。
 「あの源次郎なら、うちの跡を継いでりっぱにやっていくええ息子になるやろ」と、父母たちも源次郎のために賛成してくれ、ここに小西源次郎は、大庫源次郎と姓を改めた。
 そして、近在の石工の娘、山下しもと結婚。
 加古川の日本毛織加古川工場の鉄工部に就職した。24歳になった。日毛加古川工場は、彼の最後の勤め先となった。
 長女豊子が生まれ、妻と養母に送られての工場勤めは、播州のきれいな空気とともに落ち着いた生活だったが、運命はひにくだった。妻が死亡した。
   
日本毛織の争議
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 「東京は大変なことになったらしい。大地震で全滅したらしいぞ」、日毛加古川工場の昼休み。職長が息せき切って飛び込んできた。
 大正129月1日、午前1158分。関東地方南部をはげしい大地震が襲った。中央気象台の地震計は、すべて針がふっとんで、役に立たなかったほどの激震であった。
 この関東大震災を契機として不景気の波が急速に迫ってきた。
 全国各地、各企業に人員整理をもたらし、激しい労働争議が続発する。源次郎は、義憤に燃えた。
 ひたすら"いい職人になるためには辛抱だけ"と思っていた少年時代にくらべ、想像もできない成長ぶりだが、涙と汗で働いてきた源次郎は、一労働者として正義感から立ち上がった。苦闘している同僚たちを見捨てるわけにはいかなかった。
 『加古川市誌』には、日毛のストライキについて次のように記している。(要約)
 ・・・大正13年5月、加古川・印南両工場工手間に労働組合設立運動起り、ついに同盟罷業の挙に出で、加古川町官民をさわがせたが、川西社長が親しく代表者と会見した結果、労資協調主義の工手組合を容認し、日毛誠和会の設立となった。
 源次郎は誠和会に属した。
 そして、大正151225日、大正天皇崩御。摂政裕仁親王の即位で昭和と改元。世は「昭和」となった。
 *『創造の人・大庫源次郎』より<o:p></o:p>

 

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さんぽ(106):新野辺を歩く(二部)22 大庫源次郎(9)・神戸川崎造船所へ

2014-04-19 07:26:23 | 大庫源次郎

   大砲の弾丸づくり・・・
 
 夜学をやめて、そのぶんだけ残業を続けて給金を稼ぎ、少しでも多く家へ送金することにした。
 しかし、好景気といっても、工場で働く職工たちには仕事の量がふえるだけで、賃金の率はしだいに下がって、朝から夜遅くまで働き、残業料を入れても、請負いの単価が下落したものだから月給は以前と変わらなくなってきた。
 砲兵工廠に二年いて、賃金がいいといわれる同じ大阪の兵器製造会社、マツダ製作所に転じた。
 ここはロシアの砲弾を作っている工場だった。
 大戦も終盤にきて注文が殺到、寝る暇もないほど忙しい職工暮しだった。
 率こそ下がったとはいえ、職工の賃金ブームは続いていた。
 源次郎は、暇があれば工業講義録を読んだ。つつましやかな青春の大阪暮しだった。
 大戦景気で急速に興ってきた事業のなかでも、ボロい儲けを誇ったのは造船、海運業だった。
   鉄のことしか知らぬ
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 「源次郎、まあ立派になって」めっきり白髪のふえた母とめは、成人した彼の手をとって、もう涙を流した。
 父の与茂蔵も、日焼けした顔をほころばせて、息子の帰郷を喜んだ。
 「田んぼも昔のままやなあ・・・」
 源次郎は、大阪の薄汚れた工場街の灰色の空にくらべて、故郷の澄み切った夏の青空を見上げ、播州のよさをしみじみと感じた。
 父母は、最近めっきり年老いた。「乞食しても頭になれよ」と繰り返していた父の顔もしわがふえ、何となく年寄りじみてきている。
 やさしい母もずいぶん年をとった。
 「源ちゃんが帰ってきたんやて・・・・」話を聞いて、幼な友だちが、次々に訪れてきた。
 もうみんな徴兵検査すませた若者たちばかり。もう嫁をとって、子供のできた連中もいる。
 彼の歓迎会と、クラスの同窓会を兼ねて、仲のよかった連中が、加古川の料理屋へ集った。
 吟を吟じたり、仲居の三味線に合わせて、小唄の一ふしを渋いのどで聞せる、いっぱしの商人もいる。
 源次郎は、酒も飲めなかった、歌も歌えなかった。
   神戸の川崎造船所へ
 大正6年、ロシア革命。ソビエト政府樹立。日本のシベリア出兵。そして翌7(1918)ドイツの屈服で、世界を動かした第一次大戦は終わった。
 大戦は、日本に未曽有の好景気をもたらしたが、源次郎たち工員が、高賃金をもらって生活が楽になったと思ったのは、ほんの一時期だけだった。
 諸物価は急テンポで上昇しはじめ、賃金は日に日に抵下する一方、労働者には深刻な問題となってきた。
 当然、源次郎が朝夕出入する近所の一膳飯屋の料金もぴんとはね上がった。
 「なんでこんなに物が高うなるんやろ・・・・」
源次郎はマツタ製作所をやめ、神戸の川崎造船所に入った。
 思えば播州を出て、京都、大阪、神戸と流転の人生だった。
 故郷の播州は隣合わせになった。
*『創造の人・大庫源次郎』より

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さんぽ(105):新野辺を歩く(二部)21 大庫源次郎(8)・向学心に燃えて

2014-04-18 09:43:19 | 大庫源次郎

 大戦景気と大阪
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 大正5年。源次郎は19歳。大阪砲兵工廠へ旋盤工として入った。
 大正3(1914)に始まった第一次世界大戦は、当初の短期決戦の予想を裏切って泥沼化した。
 翌年末ごろになると、輸出の急増で好況に転じてきた。
 というのは、交戦国のロシアやイギリスから軍需品の注文が殺到し、大戦景気のアメリカへは、生糸輸出が増大した。
 さらに、大戦でストップしたヨーロッパ商品にかわり、日本商品が、中国や東南アジア、アフリカ諸国へどんどん輸出されはじめたためである。
 大戦景気で砲兵工廠も残業、夜業で活気に満ちあふれていた。
 源次郎は、兵器をつくるこの大工場機械の豊富なのにおどろいた。
 とにかく、ここでは見るもの、触れるもの、すべてが新鮮であり、驚異だった。
 この時期は、働けば働くほど金の入る職人の時代だった。
 大戦の軍需ブームを背景に、源次郎は眠い眼をこすりながら砲弾仕上げに明け暮れた。
 丁稚奉公で月、20銭の給金に大喜びしていた彼も、ついに残業手当をふくめ、月30円の給料を取るようになった。
 同僚たちから食事・遊びに誘われた。笑って断り、下宿~工場と往復するだけの毎日だった。
 播州の家には幼い弟妹や、出世を楽しみ待っている貧しい父母がいる。
 徹夜で稼いだ夜勤料は、そつくり家へ送金した。
 
向学心に燃えて
 旋盤を動かす程度の知識では、ドイツ・クルップ社やイギリス・シーメンス社製の高級な工作機械を操作することはできない。
 経験と勘だけで覚えた技術は、大きな舞台では役立たない。源次郎は、機械のことを一から勉強する必要があると痛感した。
 「何か機械のことを勉強したいんやけど、働きながら行ける学校はないやろか」と、ある日、同僚に聞いてみた。
 「あほくさ。職人が何でいまさら学校に行かなならんのや。わいらは、腕一本で月、何10円も稼ぐんやで。学校へ行く暇があったら、その間、工場で儲けな損や」
 でも、側にいた年長の職工は、「こないな戦争景気も、そう長くはないわい」学校で基礎からしっかり勉強して腕のええ職工にならんと、もうすく首切りの時代がきて、皆おしまいやで・・・」
 源次郎は、この言葉を聞いて決心した。
 
手放さぬ講義録
 こうして当時、福島にあった関西商工学校に入学した源次郎は、歯を食いしばって勉強した。
 学校と薄暗い電灯の下、機械や製図を、年下の少年たちといっしょに学んだ。
 夜学の三時間だけでは不足だと、学校から帰ると、下宿の三畳間のフトンにもぐり込んで、夜中の2時、3時まで勉強した。
 長い丁稚奉公に慣れてきた源次郎にとって、英語や化学方程式、物理用語の並んでいる分厚い工業講義録は、かなり難解であった。
 工業講義録の表紙が、ボロボロになってきたころ、源次郎は同じ福島にある関西英学校に興味を覚えた。
 この英語を教える夜学にも入学した。
 工廠の機械にも全部横文字の説明書がついているし、機械専門書にも、英語が出てくる。
 やがて、英学校での英語の勉強は、挫折する時がきた。
 長兄が兵隊に取られ、働き手を失った播州の家は、彼の送金が必要になってきた。
 9時まで残業すれば月30円の収入がある。英語の夜学はやめ、その時間残業して給金を稼ぐことにした。
 こういうことで英語を学ぶという彼の夢の一つは消えてしまった。
 だが、働きながら学ぶこの苦しみは、いままでの経験だけが頼りの職人だった彼の技術に大きな改革をもたらした。
*『創造の人・大庫源次郎の生涯』より<o:p></o:p>

 

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