ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(101):鶴林寺③

2013-06-13 07:07:04 |  ・加古川100選

 文献史料からみる鶴林寺

066鶴林寺は国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。

主要な建造物のほとんどすべてが国または県の文化財に指定されています。

建築物以外でも、その種類が多種多様であることは驚きです。

ところが、鶴林寺が伝えてきた文献史料は、中世(鎌倉・室町時代)に遡るものに限っていえばわずか37点しかありません。

そして、鶴林寺文書には著しい特色があります。

年代のもっとも古い文書は、鎌倉後期の文永五年(1268)の寄進状ですが、「縁起の伝える鶴林寺は聖徳太子建立」のことが出てきません。

ふつうですと鶴林寺ほどの大寺院に伝わる文書では、皇室をはじめとする中央の貴族層か、将軍家か管領・守護クラスの上層武士層との結びつきが何かあるはず               ですが、鶴林寺文書にはそれを示す文書は全くありません。

数の上で圧倒的に多いのは越生・梶原・菅野・舟橋・新野辺・長田など市の周辺部に本拠をもつ土豪武士たちによる寄進で、しかもその多くはそれほど広大な土地の寄進ではなく、せいぜい一段か二段という面積でした。

   鶴林寺・太子信仰により支えられた寺

塩田浄観が寄進した、合計一町八反二十代と珍しく大きな寄進があるぐらいです。

この塩田浄観は、印南郡の土豪と思われる人物です

 鶴林寺に残る文書や建築物などから鶴林寺が最も栄えたのは鎌倉・室町時代と思われます。

国宝の本堂も室町建築です。

前回も述べたくように、鎌倉・室町時代は飢饉・天変地異、それにうち続く戦争の時代でした。

この時代の人々は、観音の化身であるとする聖徳太子に救いを求めた。

『加古のながれ』(加古川市史編さん室)もこの時期、一方で強訴・逃散、土一揆をおこすような人びとが大勢いたと同時に一方では塩田浄観のような富裕な豪族がいたが、鶴林寺は、主に多くの庶民の「聖徳太子信仰」によって強力に支えられていた寺院であったのではないかと石田善人博士の意見を紹介している。

 *写真:国宝・本堂

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かこがわ100選(100):鶴林寺②

2013-06-12 07:26:07 |  ・加古川100選

鶴林寺は四天王寺から勧請

077「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書いた。

では、鶴林寺はいつ、だれが創建したのかということであるが。これも『加古川市史(第一巻)』から一部を引用したい。

・・・・

鶴林寺は、「四天王寺聖霊院」と称し、養老二年(718)には身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝える。

身人部は、播磨の在地土豪らしい。その時期を平安後期と推測している。

その理由は、当時の伽藍配置が平安中期以降あらわれる天台寺院に共通している。

復習である。

    元の鶴林てらは、養老二年(718)、身人部春則が建立した。

    その殿堂を刀田山四天王寺と寺号とした。

    鶴林寺の伽藍配置は平安後期のものである。

四天王寺について、少し思いきったことを書いてみたい。

「歴史はそこまで語っていない」といわれる方も多いと思うが、ついついそんなことを想像してしまう。

  四天王寺・救済事業・聖徳太子、そして太子信仰

 四天王寺は、もっぱら学問であった方隆寺と異なり、鎮護国家としての役割の外に、悩める人々の救済を展開(実践)することに力を注いだ寺院であった。

 四天王寺は、もちろん聖徳太子の建立になる寺で、その救済事業は聖徳太子への信仰と重なる。

 特に、承和年間(834~848)は、あい次ぐ疫病と転変地異による混迷の時代であった。人々は、救済者を求めた。

 このような状況下で四天王寺の救済のはたした役割は大きかった。人々を救う聖徳太子と観音菩薩を重ねたとしても不思議ではない。

「太子信仰」という場合いろいろに解釈されるが、ここでは聖徳太子は観音の化身であり、貧しい者を救う仏であるとする「太子信仰」の誕生としたい。

 四天王寺と救済事業が重なる時、観音菩薩の化身として太子が救済者として歴史に登場した。

太子は、まさに救世観音(ぐぜかんのん)と偶像化されたのである。

加古川に寺院が建立された。四天王寺から勧請された寺であった。

寺の中心として、当然のごとく「太子堂」が建立された。

こう考えるのは、飛躍だろうか。

時代は、鎌倉・室町時代へと続く。中世(鎌倉・室町時代)は飢饉・天変地異の時代であり戦乱の時代であった。

人々は、ますます太子に救済を願った。

鶴林寺は、この地方の「太子信仰」の中心となった。

きょうで「かこがわ100選」も100号になったが、「鶴林寺③」(101)」を加えておきたい。

 *写真:兵庫県下で最も古い木造建築・鶴林寺太子堂

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かこがわ100選(99):鶴林寺①

2013-06-11 05:48:30 |  ・加古川100選

   鶴林寺(その1)    *加古川町北在家

004「かこがわ100選」も99号になった。読者の方から「一番目に取り上げてよい鶴林寺がないではないか」との声が聞こえてきそうである。

別に「ひろかずのブログ」も2100号を超えが、鶴林寺について、まともに取り上げていない。

書くのを若干ためらっている。

鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうである。

加古川市史の一番よりどころは、『加古川市史』である。

『加古川市史』で鶴林寺か所を執筆されたのは神戸大学で長く教鞭をとられた(故)石田善人先生である。

鶴林寺について石田先生や歴史学会の説を「かこがわ100選(9910)」で若干紹介し、後日別に鶴林寺と鶴林寺が加古川地域にはたした役割を取り上げたいと考えている。

ここでは「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と始めるが、鎌倉時代以来、鶴林寺のはたした役割は、あまりにも大きかったことを最初に書いておきたい。

    鶴林寺は聖徳太子の創建ではない

鶴林寺は、その縁起によれば用明天皇二年(587)聖徳太子が秦河勝に命じて、ここに三間の精舎を建立し、高麗の僧恵便(えべん)を住持せしめ、百済の日羅(にちら)も当寺に住んだと伝える(鶴林寺縁起)。 *用明天皇:聖徳太子の父

「刀田山」という珍しい当寺の山号は、百済に帰国しょうとする日羅を聖徳太子が神通力で田に刀を林立させて妨げ、怖れをなした日羅に帰国を断念させたことによるという。 寺院の縁起にはあまり似つかわしくない説明をしている。

用明天皇二年といえば聖徳太子は十五歳ばかりのころだから、幼児から聡明をもって聞こえた太子にしても、大和から遠いこの地(加古川)に伽藍を建立させたとは思えない。

・・・中略・・・

現在の鶴林寺の寺域からは、飛鳥時代はおろか奈良時代にまで遡りえる古瓦は全く発見されていないが、このことは現在の寺域には奈良時代には寺院が存在しなかったことを示している。(『加古川市史・第一巻』より)

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かこがわ100選(98):一ツ橋公陣屋跡

2013-06-10 07:51:48 |  ・加古川100選

一ツ橋公陣屋跡     *志方町細工所

  東志方9ヵ村は、小田原藩領に

Photo宝永4年(17071123日(現暦:1216日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこし、南関東地方に大災害をもたらした。

ことに、富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃した。

当時、小田原藩の藩主・大久保忠増は幕府の老中であった。

小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまった。

そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきであったが、新たな領地を得た。

その一つが、東志方の9ヵ村(大沢・行常・細工所・野尻新・岡・柏尾・吉弘・高畑・大宗の各村)だった。

この状態が約40年、延享4年(1747)まで続いた。

    一ツ橋領(東志方9ヶ村)

その後、東志方のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになる。

八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設した。

東志方の9ヶ村は、相模小田原藩の領土であったが、延享4年(1747)から今度は、そっくり御三卿の一つの「一ツ橋領」に組み込まれた。

つまり、東志方9ヶ村は天領となった。

そして、東志方の9ヶ村は、一ツ橋領として江戸時代の終わりまで続いた。

     一ツ橋公陣屋跡

印南郡では、東志方の9ヶ村の外に曽根村・今市村・中嶋村(以上は現、高砂市)が一ツ橋領となり、陣屋(役所)は、細工所に置かれた。

しかし、現在陣屋の遺構は、何も残っていない。

ただ、細工所公会堂の庭に「細工所陣屋跡」の碑(写真)が、陣屋があったことを物語っているばかりである。

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かこがわ100選(97):中津権現社

2013-06-09 07:20:28 |  ・加古川100選

 中津権現社      *加古川町中津

中津権現社に、説明板があるので読んでおきたい。

   中津構居跡

播磨鑑(宝暦二年)に

梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成

鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス

とあり、播州古城記には

 中津城 中津村 鎌倉権五郎景政ノ末葉 梶原十右衛門の居城也

 天正中神吉式部貞範に従いて討死す

と記されている。

               平成三年三月

                  加古川市教育委員会

 援軍は来らず 

 Asaza_011三木城の戦いで三木側についた加古川地方の諸城は当然毛利軍の援軍を頭に描いていた。そして、三木城の援軍を思っていた。

 瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景があった。

 三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにあった。

 最後まで、強烈な毛利からの援軍はなかった。

 神吉城の戦い(天正6年・1567)は、当地方では最大の戦いであった。しかし、この戦いでも三木城方からの支援はほとんどなかった。

   梶原冬庵

梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきたいが、多分に伝承の域を出ない。

三木方からはわずかに梶原冬庵(かじはらとうあん)等数名の援軍があっただけである。 

冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大男で、13才の時に親の仇討ちで大力の者を組み討ちして以来武勇が知れわたったという。
 冬庵の館は、加古川市大野の中津居構跡がそれだと言われ、現在はそこに権現神社が建っている。

 *写真:中津権現社 

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かこがわ100選(96):泊神社

2013-06-08 06:21:51 |  ・加古川100選

泊神社         *加古川町木村

 009 『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺で僧と神人(みこ)一人がいた」とある。

かなりの大社であったようだ。

泊神社の氏子に注目したい。

泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていた。

木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していた。泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸(東岸)にあったのであろう。

「泊」は港(水門・みなと)

『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという。

研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、そのあたりまで海が迫っていたと推定している。

泊神社は地域の氏神であり、古代の港(水門)の守護神であったと考えられる。

014 さらに、 『加古川市史(第一巻)』は、「・・・紀伊の国懸(くにかかす)大神を勧請したり、境内社に熊野神社・住吉神社・島姫神などを祀っていることからも、当社が熊野衆、その他海賊たちと深い関わりを持っていたことが暗示していると思われる」と記している。

松林、港そして神社の風景が目に浮かぶ。泊神社は潮風のにあう神社であった・・

    宮本伊織と泊神社

話を変える。

宮本武蔵は米田町の誕生とする説がある。単なる伝承ではなく、記録も残っている。

宮本武蔵には子どもがなかったので、伊織(いおり)を養子とした。伊織は、小倉藩で家老にまで上りつめた。

 武蔵の死後8年目の承応二年(1653)、伊織は武蔵の出身地・米田の氏神である泊神社の老朽化がひどく、田原家の祖先供養のために社殿を新しくし、灯ろうを奉納した。

*写真上:泊神社  写真下:宮本伊織寄進の灯ろう

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コーヒーブレイク:「ひろかずのブログ」2100号

2013-06-07 05:23:40 |  ・加古川100選

2000 きょうで「ひろかずのブログ」が2100号になりました。

はじめのうちは100号・200号と楽しんでいたのですが、号数は時間とともに勝手に増えるものです。

年齢と一緒ですね。

そうそう、私もこの6月(30日)で70歳になります。退職してから10年、時間は台風のように猛烈に過ぎていきました。

数字を重ねることは、本来寂しいことなんです。

    でも、がんばろう

ところで、先日神戸新聞で「大字史(おおあざし)」に取り組んでおられる姫路の方の記事がありました。興味を持って読みました。

「大字史」というのは、私のばあい、住所は加古川市尾上町今福ですから、「今福の歴史」のことです。昔の村単位の歴史です。

今、別府町新野辺の歴史をまとめていますが。これも大字史です。

7月初旬に発行の予定)

大字の歴史には、地域の方の思い出がいっぱい詰まっています。

一昔前、大字は生活の場所でした。匂がありました。音がありました。

そして温もりがありました。

そんな事を記録として残したと考えています。もう少し「ひろかずのブログ」を続けます。

しばらくお付き合いください。

    不思議なつながり

先日、和歌山の方から電話がありました。あるお寺の檀家総代の方のようでした。

内容は「お寺を建て替えるために、整理していたら、写真がいっぱい出てきたんです。

住職に聞くと、亡くなった先代の住職が、加古川の通信隊にいた時の写真ということが分かりました。よかたら、CDに焼いて送りますから「ブログ」で使ってください」との内容でした。

今、CDが送られてくるのを楽しみしています。

号数が増えると、こんな事もあります。

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かこがわ100選(95):上部井用水

2013-06-06 07:05:23 |  ・加古川100選

 004加古川は、昔から暴れ川だった。

下流に広がる平野部は、しばしば洪水にみまわれ、幾度となく川筋をかえた。

現在の流路であるが、左岸(東岸)は、右岸(西岸)より高く、そのため東岸は、西岸より洪水の被害が少なく右岸より早く発達した。

幾多の歴史を経て、加古川は現在の流路に定まったが、旧流路跡は農業用水路として大切な役割を果してきた。

東岸の「五か井用水」は、良く知られている。 

上部井用水

西岸の開発は、東岸より若干遅れるが、旧流路は加古川西岸一帯の農業用水として利用された。

加古川西岸の旧流路は、平野部を大きく蛇行しながら南南西方向に流れくだり、現在の伊保港辺りから播磨灘へ流れこんだ。すなわち、旧河川は升田から南南西に流れ、東神吉あたりから南東に向きを変え、船頭(加古川市米田町)付近から再び二筋の流路をとり、南南西に流れていた。

Uebe 戦国時代以前、土木技術は、あまり発達していなかった。

従って、それまで大規模な土木工事は不可能であった。

右岸の農業用水も、戦国時代以前、加古川の旧流路を一部手直しして、利用されていたと思われる。

これら加古川右岸の農業用水のうち代表する用水が、「上部井用水」である。

ただ、上部井堰の成立年代は、それを記録した古文書がないので、はっきりしない。

寛保ニ年(1742年の)神吉村明細帳によると、「往古は、上荘村井ノ口にせきがあり」とあり、その取水口をやや下流の上部(加古川市平荘町)に移し、現在のようになったのは、中世末期から慶長年間(15691614)の頃と想定されている。

江戸時代の初期、「上部用水」の灌漑範囲は、図のように広大な地域を含んでいた。

上部井堰は、平荘村の中にある里村からはじまり、その面積は730町あまりである。

関係する村は、神吉村・米田村・砂部村・西井ノ口村・大国村・岸村・中西村・平津村I(以上加古川市)、島村・塩市村・神爪村(かづめむら)・中筋村・南池村(みなみけむら)・北池村・伊保崎村・曾根村(以上高砂市)の16か村を含む広大な地域である。

*写真:上部井用水取水口付近、図:上部井用水灌漑地域

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かこがわ100選(94):水管橋

2013-06-05 09:54:56 |  ・加古川100選

水管橋 

  *東神吉升田・加古川町中津

Eye_medison_025加古川観光協会の「水管橋」の説明をお借りします。

「昭和55年に完成した、直径1.2m、全長426mの送水管2条を渡している工業用水送水管の橋です。

平荘湖や権現ダムの工業用水を右岸の東神吉町から左岸の加古川町へ渡し、臨海部の工業地帯へ1日に約2万トンを配水しています。

上は歩道橋になっていて自転車・歩行者専用の市道としても役立っています。

清流が美しい加古川の景観の中で、鮮やかなセルリアンブルーのアーチ型をしたこの橋は独特の存在感があります」

一般的に的に人工物はその風景を壊すが、この水管橋ばかりは風景を引き立たせている。

 水管橋の説明はこれだけにし、きょうは、タイトルと中身が少々違っていが、升田堤の話をしたい。江戸時代のこの辺りの風景を考えながら水管橋を見るのも一興である。

      

    升田堤

江戸時代の初めのころの頃の水管橋あたりの風景について書いておきたい。

池尻から下流に二つの大きな流れがあった。

 西を流れるのが「西加古川」で、東は今日の加古川で「東加古川」と呼ばれていた。

 加古川の平野部の地形は、若干東に高く西に低い勾配をつくっている。

 加古川は暴れ川であった。とくに、西加古川沿いの人々は洪水で苦しんだ。

 姫路藩は、ここを美田に変え、藩の収入をはかった。

 藩主・榊原忠次は、升田で西加古川への流れの堰きとめと堤の補強工事を命じた。

 万治二年(16596月中旬より、藩の御入用(いりよう)普請として工事を始めた。

  *御入用普請:費用は藩の負担で行われる工事

 升田から升田新村(現:出河原)間での1000メートルは特に重要で、堤も太く、その土台は60メートルほどにした。

 ・・・八月上旬、工事はほぼ完成した。暴風雨が襲った。升田の堤は、一夜のうちに潰れ、元の河原になってしまった。

工事にあたった奉行・役人は肝を潰した。

 庄屋たちは、工事の不可能なことを訴えた。

 しかし、お上から「この工事は重要であり、人足が不足なら1560才までのもの全てを出せ。異議を唱える者は追放せよ・・・」との厳しい命令が出た。

 水が引くと前の二倍の人足を動員し、役人は鞭(むち)で、油断している者を打ちすえた。

 町場に住む者には、松明をつくらせた。夜の工事にも動員した。

 さすがの流れも一ヶ月で堰きとめられた。

 升田堤の完成により、ほぼ現在の加古川の流れの川になった。

 升田堤により洪水は少なくなったが、その後もいくたびか切れ、大きな被害をもたらしている。

 

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かこがわ100選(93):投松の石棺の身

2013-06-04 07:37:24 |  ・加古川100選

投松の石棺の身      *志方町投松

稚児ヶ窟古墳の超大型石棺

  Photo平荘湖の湖底の中ほどに、かつて稚児ヶ窟古墳(ちごがくつこふん)と呼ばれた池尻16号墳があった。

 その外にも多くの古墳が、平荘湖の建設に伴い水没した。

 稚児ヶ窟古墳の石棺は、市内最大の石棺で、蓋と身がそろうめずらしい例である。

 身は、志方町投松(ねじまつ)の公会堂の庭に置かれている。

 長さ228㌢、幅142㌢、高さ95㌢の超大型の石棺である。

 石棺の前に立つと、その大きさに圧倒される。

 この石棺に身の部分について、石棺の横に次の加古川市教育委員会の説明がある。

   <石棺の身>

 この石棺の身は、かつて平荘ダムに水没した、稚児ヶ窟古墳にあったものを姫路藩主、榊原式部太夫が泉水に使うため運ぼうとしたが、重くて投松峠に放置したという記録がある。

 昭和11年、県道拡張の時、ここに運んできたと言われている。

    昭和11年・投松へ運ぶ

この石棺について池本寅男氏は『志方郷(第16号)』に、おもしろいエピソードを寄せておられるので紹介したい。

「・・・この大きな石棺は、姫路藩城主の榊原式部大輔の所望により、投松峠まで持ってこられてから約280年余り、道端の土の中に埋っていた。

昭和11年の県の拡張工事中に、裏向きの状態で発見された。

初めは、何か宝物でも入っているかも知れないと、みんな緊張したが、掘り進むにつれ、何もないことがわかり、がっかりして一度に力が抜けてしまったとのことである。

小畑町内会(加古川市平荘町)とも話し合い、当村(投松)が引き取ることになり、村中総出でコロを並べ、その上を移動させることにした。・・・」 

なお、この蓋は、平荘湖畔の弁天社の広場に置かれている。

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かこがわ100選(92):聖陵山古墳

2013-06-03 07:08:17 |  ・加古川100選

聖陵山古墳       *野口町長砂

 Photo 写真の寺は、野口町長砂(加古川市野口町)の円長寺であるが、今の円長寺ではない。建てかえる前の寺で、昭和40年代の撮影と思われる。珍しい写真なので掲載しておきたい。

 この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っているが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)である。

 もともと、前方後円墳であったが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえる。

 また、寺伝は、天文12年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えている。

 この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられている。

 また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられている。ともかく、考古学では注目されている古墳である。

この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験しているが、受難はさらに続いた。

第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られ、加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいう。

 なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるが、これは間違いで、いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入らない。

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かこがわ100選(91):高射砲隊の門

2013-06-02 08:19:51 |  ・加古川100選

高射砲隊の門        

*野口町水足

001_2 右の二枚の写真をご覧いただきたい。

上は播磨化成(野口町水足)の正門()であり、下は裏門(西)である。

これらの門は、ここに高射砲隊があったことを物語っている。

   

     高射砲隊

昭和11年のことである。ここに高射砲隊の施設が、設置することに決定した。村人にとっては寝耳に水であった。

しかし、住民の意見などが認められる時代ではなかった。相手は、なく子も黙る陸軍である。

形ばかりの話し合いがもたれた。この場では、地元から水足村に決まった説明を求めている。主な理由は、次の3点であった。

(1)既に活動している尾上飛行場との距離が近い。

001_4 (2)工事が行いやすく、国道に近い。

(3)土地の買収が一つの村で好都合である。

土地の買い上げについては、軍も村の実情をくみとったのか若干高く買い上げている。しかし、これは地主に対しての配慮であり、小作には何の保障もなかった。

水足経由で、加古川駅と神野倉庫(弾薬庫:今の加古川刑務所はその跡地)とを結ぶ鉄道も敷設され、村人も利用できるとのことであったが、その事実はなかった。

注:高射砲隊が設置された場所に、現在、播磨化成・陵南中学校・大規模スーパーマーケットがある。

播磨化成の裏門(西)の前の道は、当時「高射砲道路」と呼ばれ、南の尾上飛行場(加古川飛行場)と結んでいた。

*『水足史誌』参照、

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かこがわ100選(90):加古川バイパス

2013-06-01 07:44:14 |  ・加古川100選

   加古川バイパス

Photo_2 写真は、平岡北小学校の南の歩道橋から西方向の加古川バイパスを撮っている。

きょうは、このバイパスに関係する話である。

でも、バイパスの話ではないが、こんな話を知って、この道をドライブする時、違った風景に見えてくる

弾丸列車計画

戦前、壮大な計画があった。

東京から大阪・神戸を経て、そして朝鮮海峡を越え、朝鮮半島に鉄道をつなげようとする、とてつもない計画であった。

まさに、軍備増強・植民地経営のための鉄道計画であった。

昭和13年、この弾丸列車の計画は国会で承認された。そして、用地の買収が始められ、昭和16年に一部建設工事がはじまった。

しかし、戦局の悪化のため、この弾丸列車計画は、つかの間の夢と消えた。

用地買収は、東京~大阪間は96キロ、大阪以西は64キロにとどまっていた。

加古川地域は、用地の買収が進んでいた。

東京~大阪間の用地は、昭和34年に着工した東海道新幹線の用地として、そのまま使用された。

兵庫以西の土地はいったん売却されたが、昭和35年、加古川バイパスの用地として再び買収され、10年後の昭和45年から国道2号線との暫定使用がはじまった。

加古川バイパスが、このように短期間に、しかもまっすぐな道路になったのにはこんな裏話があった。

*「加古のながれ(市史余話)」(加古川市史編纂室)参照

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かこがわ100選(89):加古の松

2013-05-31 05:57:46 |  ・加古川100選

常住寺・加古の松   

*加古川町西本町

954613c5『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみたい。

「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(12257)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。

ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。この松が、加古の松である」

縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(写真上)が描かれている。絵図の常住寺の境内の大きな松がそれである。よほど立派な松であったようだ。

『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられる。

 Kokonomatu二代目の「加古の松」のあった常住寺は、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにあった。

それが、昭和26年「日本毛織」の拡張に伴い、現在のプラザ・ホテルの場所に移り、三代目の松が植えられた。

その後、昭和59年、加古川駅前の再開発に伴い、現在の場所(加古川市加古川町本町・加古川消防署の近く)に移転した。

常住寺は、曹洞宗の堂々とした寺院である。

山門の横に「鹿兒?」(加古の松)の石柱(写真下)がある。その横に枝振りのよい四代目の「加古の松」が育っている。

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かこがわ100選(89):西条廃寺

2013-05-30 06:32:29 |  ・加古川100選

西条廃寺      *西条山手二町目

016神野町では、古代(白鳳時代)の寺院跡が石守(いしもり)と、ここ西条に残されている。

神野町の城山(じょやま)から南東方に伸びる標高30メートルばかりの台地のほぼ中央部に西条廃寺(写真・塔跡)はある。

1936年(昭和38)から翌年にかけて神野団地造成工事にともなって発掘調査がおこなわれ、塔・金堂・講堂等の主要な伽藍配置が判明した。

この構造は、法隆寺式伽藍配置に通じるものであることが確認された。

塔の心礎は、移動して、城山の公園墓地内に置かれていたが、現在もとの写真の場所に戻っている。

西条廃寺は、7世紀末頃に建設されて、おそらく9世紀頃まで続いたと想像されている。

なお、西条廃寺は西条古墳群の中にある。

特に、ひときわ大きな人塚古墳の東に接している。

古墳の側に廃寺があることが多い。

これは、「古墳の有力な被葬者が、仏教文化を取り入れ寺院を造ったことをあらわしているのであろう」と言われている。

*『加古川市史(第一巻)』参照

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