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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

工楽松衛門物語(67):船から鉄道の時代へ

2013-09-27 10:20:41 | 工楽松右衛門

きょうは「工楽松右衛門物語」とはいいながら全くの「余話」である。

明治21(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより高砂の海上輸送は、一挙に後退した。

東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

山陽鉄道の開通について「余話」として書いておきたい。

山陽鉄道(現JR山陽線)開通

E7e02266  明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではない。

 当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定であった。

 高砂は、当時海運業を中心に発展した町で、彼らを中心に「鉄道敷設」に反対した。理由は、鉄道が敷かれること海運が衰えるというのが主な理由である。

 その結果、海岸に予定されていた鉄道は、加古川の町を走ることになった。

 そして、大正2年(1913)加古川線・高砂線が開通し、今まで高砂に集まっていた物資が、加古川の町に集まるようになった。

 鉄道を拒否した高砂の町の商業の衰退は決定的になった。町は、工場誘致に活路を見つけることになる。

 ここで注目したいのは、「一般的に高砂への工場誘致の条件は企業側に有利に進められた」ということである。

 やがて、高砂の町からの浜は企業のものになっていった。

JR高砂線も廃線になった

私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃にあたる。

その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけた。高砂線は、子供の声であふれかえっていた。高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道であった。

高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線は客だけでなく、貨物も大いに利用されていた。

高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通したが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収された。

昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減した。

その後、膨大な赤字を抱え、高砂線は昭和591030日廃止になった。

*写真:加古川駅(大正8年に大阪の桜島駅舎を移築した建物であったが、平成1610月高架事業に伴い解体された)

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工楽松右衛門物語(66):高砂港③・繁栄の終焉

2013-09-26 06:42:20 | 工楽松右衛門

     高砂繁栄の終焉

Kakogawawoyuku_043高砂海岸の変遷の話である。

工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動いた。

天保四年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われた。

嘉永七年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築づいた。

当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を築いた。

討幕の動きも急雲を告げ、文久三年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺された。

高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)であった。

そして、数年ならずして慶応四年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新と歴史は続く。

それらは、姫路藩の年貢米や専売商品の独占的中継港としての高砂の終焉を意味した。『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)は、次のよう書く。

「明治元年(1868)一月十七日、姫路藩の高砂米蔵は長州軍の手によって封印されたが、これは、近世高砂の終末をつげる象徴的なできごとだった。

明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

さらに、明治21(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した」

東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。

山陽鉄道の開通については、次回「余話」として書いておきたい。

*写真:昔の面影を残す町並み(工楽家横の道沿い)

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工楽松右衛門物語(65):高砂港②・港の改修工事

2013-09-25 06:25:44 | 工楽松右衛門

  松右衛門、自費で高砂港浚渫

67才となった松右衛門は、ふるさと高砂港の改修工事にも着手した。

高砂港は、加古川と瀬戸内海の接点として栄えていたが、前回(64号)で述べたように、幕末の頃、高砂港は、土砂がたまり、港内が浅くなり、港として使いにくくなっていた。

松右衛門は、箱館港づくりでも使った、彼自身の開発した石船、砂船、ろくろ船、石釣船などを使って改修工事をおこなった。

港全域の土砂をさらい、風や波よけの堤を造ったのである。

   二代目・三代目松右衛門に引き継ぐ

Sikatahigannbana_011なお、工楽松右衛門の港づくりは、彼の死後も二代目・三代目と引き継がれた。

「この工事は、自費を投じて行われ、松右衛門の死後、二代目・三代目松右衛門が引きつがれた。文久三年(1863)に高砂港の改修を藩に願い出て湛保(たんぽ)という防波堤をめぐらした港の施設を築いたのは、三代目・松右衛門である。

着工から55年のさい月をかけて高砂港を完成した」と、工楽家文書「工楽家三世略伝」にある。

*高砂海浜公園に「三代目・工楽松衛門の名が刻まれた祠がある」(写真)

この工事の結果、高砂町の海岸は、昭和36年に埋たて工事の始まる前の姿にほぼ、近いものとなった。

すなわち港や海岸は高砂神杜の南方約50メートルへと遠のき、その間は新田として開発されて、俗に「工楽新田」と呼ばれた。

  <補足>

 以下は補足である。二代目松右衛門は、文化十年(1813)幕府の軍艦の設計をしている。

また、文政二年(1819)には高砂海岸に、「工楽新田」を開拓した。

「工楽新田」は、現在カネカの工場敷地となっている。

*二代目・松右衛門(天明四年・1784~嘉永三年・1850

 三代目・松右衛門(文化十一年・1814~明治十四年・1881

*写真:三代目工楽松右衛門の銘が刻まれている祠(高砂海浜公園)

*『帆布発明者 工楽松右衛門』・『風を編む、海をつなぐ』(高砂市教委員会)

 『渚と日本人(高崎裕士)』(NHKブックス)参照

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工楽松右衛門物語(64):高砂港①

2013-09-24 07:21:17 | 工楽松右衛門

 加古川は猛烈な土砂を流した

江戸時代、高砂港は姫路藩の重要な港として大いに栄えるが、大きな欠点を持っていた。

加古川が運ぶ土砂が多く、すぐに浅くなってしまうことである。

高砂港の話の前に、次の話を紹介しておきたい。

   高砂町今津のルーツは加古川市尾上町「今津」

 Sitennnou_tenple_010中世の頃、加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていた。そこに、今津村という集落があった。

 その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝正)から通達があった。

 内容は、「今津村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものであった。

 中世に栄えた今津村も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあった。それも、予想を超える砂の堆積であった。

 藩主は、途中で方針をかえ、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにした。その時、今津村の住民は高砂に移住させられたのである。

 結果、尾上町の今津村は慶長・元和の頃に消滅した。代わって、高砂の町に「今津村」が誕生した。

 これは、加古川の堆積の大きさを示すエピソードのひとつである。

   幕末の頃、高砂港は土砂に困る

播州平野を流れて播磨灘にそそぐあたりに洲をつくり、やがてこの白い砂上に浦ができた。これが高砂である。

時が経ち、その河口近くに形成した中洲が成長して、加古川から分離して高砂川という支流をつくった。

その高砂州の河口にある高砂港は、初期には波戸などの特別な施設はなかぅた。そのめ風波の影響も大きかった。

江戸後期になると長年にわたる土砂の堆積で浅くなり、船舶の碇泊に支障をきたす状況になっていた。

そこで、松右衛門は普請棟梁になり、文化七年(1810)に、先の箱館でも使った、彼が開発した石船、砂船、ロクロ船、石釣船などを駆使し、風波対策として、東風請(おちうけ・土堤)と石塘、南口には一文字提、西に西波戸を築造し、あわせて港全域にわたって浚渫を行った。

*写真:現在の高砂川

*『帆布発明者・工楽松右衛門』参照

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工楽松右衛門物語(63):箱館港④・箱館に港・ドックをつくる

2013-09-23 06:55:19 | 工楽松右衛門

 箱館港の基礎は、工楽松右衛門

(高田屋)嘉兵衛は、小船でも渡れるエトロフ航路を開くが、これを契機として幕府は蝦夷地(北海道)経営に深くかかわっていくことになる。

蝦夷地経営の拠点としての箱館の港が重要になった。

松右衛門は、嘉兵衛からの要請もあり、箱館の港づくりに応じた。

この時、彼は既に61才になっていた。

松右衛門、箱館に港・ドックを最初に造る

Photoそして、享和三年(1803)、箱館は、松右衛門の設計によって、地蔵町の浜に築港し、文化元年(1804)に巨大な船作業場をつくった。

その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝をいぶして駆除し、同時に損傷しているカ所を補修するところで、現在のドックであたる。

船底をいぶしたり、修理するのに船を引き揚げなければならない。そのために比較的軟らかな石畳が必要であった。

松右衛門は、播州高砂の「石の宝殿」に産する耐火力もある竜山石(たつやまいし)を、大量に箱館に運び船たで場を造成した。

現在の函館の町づくりのはじまりは嘉兵衛が、そして、港をつくりは松右衛門が最初に手がけた。

船食い虫については『菜の花の沖』で、司馬遼太郎は次のように説明している。

「舟の敵は船食い虫という白い紐状の虫である。(中略)管から海水を飲んだり吐いたりして、酸素を摂取しながら、船底の木を食べ続ける。ともかく、すべて退治するしかない」と。

一船食い虫は海水の中にいて、キリのように船底の奥まで入ってくる。

舟底の紙一重のところでとまる。

そのため、船底を焼いて殺すより方法がなかった。

高砂の工楽家の壁には、高瀬舟(川を登り下りする舟)の船板が使われているが、一部、海の船板が使われている。

それには、船板に船食い虫のあけた穴のあとが残っている。

*『(港づくりの名人)帆布の発明者 工楽松右衛門』参照

*写真:現在の函館港

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工楽松右衛門物語(62):箱館港③・箱館に行こう

2013-09-22 09:06:37 | 工楽松右衛門

      公儀のための話なら断るぞ・・・

91b342db明夜、食事どきにゆくと、松右衛門旦那は奥座敷に燭台を二基すえ、大坂の書店でもとめた蝦夷地の地図を鴨居(かもい)から垂らし、かれにとって何よりの好物である酒を用意して待っていてくれた。

ただ早々に、「嘉兵衛、わしを大公儀(幕府の仕事)に深入りさせるという話ならば、ことわるぞ」と、釘をさした。

     箱館に行こう

 松右衛門旦那は、すでに、ほろよいで、「嘉兵衛、わしがつねづね天下の益ならんことを計る、という天下は、大公儀のことではないぞ」と、いった。

嘉兵衛は、蝦夷地のこと、アイヌのこと、エトロフのこと、そして箱館港のことを話した。

石を海中に釣りさげて運ぶ船、水底の土砂をとる便利なジョレン、後世の西洋帆布に匹敵する松右衛門帆などを工夫することが、ふつう言われる「天下」とはつながらない。

世の労働や暮らしに益をあたえるということで、かれの仕事は天下に続いた。

松右衛門には、幕府の仕事であれ、「蝦夷地のひとびとのためになる」仕事は、天下の話であった。

「わしを公儀にひきこむな」 と、松右衛門旦那は言いつつ、来年、松前へ船を出すときには、わしも乗ってゆこう、といってくれた。

かれは、来年あたり息子に兵庫の店をゆずって、生家のある播州高砂に隠居するつもりでいる。

とはいえ、高砂で帆布の製造、販売だけはやる。

その収益をあげて、「世を益する工事につかうのを楽しみにしているのである。

まず、第一に、故郷の高砂の運河を浚渫し、湊を深くして船の出入りをよくしたかった。

のちのことになるが、かれはこの自費による工事をやってのけた。

*『菜の花の沖(四)』(文春文庫)参照

*絵:工楽松右衛門

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工楽松右衛門物語(61):箱館港②・天下の御用でございます

2013-09-21 06:20:55 | 工楽松右衛門

(高田屋)嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰った。

以下の兵庫港での二人の情景は、司馬遼太郎が小説の一場面として書いているが、事実も、それに近かったのではないかと想像してしまう。

   

   松右衛門の説得に

Photo嘉兵衛は、いつもの通り北風家にあいさつに行った。

あと、松右衛門旦那の店に寄った。

「おかげさまにて、このように達者で戻りましてござります」と、店さきであいさつをした。

「奥へあがれ」と、松右衛門はいわなかった。

彼自身、店の土間で荷ほどきの指図をしていて「嘉兵衛、あいにく、いまはこのとおりじゃ」

角力(すもう)取りのような大きな体を荷のほうにむけたままいった。

「あすの晩、来んかい。お前はどうか知らんが、わしのほうは体があいている」

    

   天下の御用でございます

  嘉兵衛は、松右衛門に続けた。「御用」について簡単にのべた。

「なんじゃ、公儀御用かい」

松右衛門旦那は、いやな顔で反問した。

「ちがいます、天下のことでございます」

「天下」

 松右衛門旦那のすきなことばだった。

すでにふれたように、松右衛門旦那はかねがね「人として天下の益ならん事を計らず、碌々(ろくろく・平凡に)として一生を過さんは、禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」と口癖のようにいってきた。

ただし、かれのいう「天下」とは、公共ということであり、さらにかれのいう「益ならん事」とは、工夫と発明のことをさしている。

「わかった」と、いった。

が、いま嘉兵衛を座敷にあげて、その話をきくということはせず、

「明晩来い」と、いって、再び荷の中に頭をつっこんだ。

元来、船頭は作業をする人であり、みずから「船頭」という松右衛門旦那は、作業中はたれがきてもこの調子なのである。

*絵:『兵庫名所図巻』(松右衛門の家は佐比江にあった)

*『菜の花の沖(四)』参照

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工楽松衛門物語(60):箱館港①・松右衛門は港づくりの名人

2013-09-20 07:06:33 | 工楽松右衛門

ずいぶん、話は松右衛門から離れただよってしまった。時代を少し戻したい。今回は復習である。

松前は、良港ではない

松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けていた。常に、「アイヌの反抗があるかもしれない」と恐れていた。

守備は十分でない。蝦夷地は野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかった。

福山(松前)の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのである。

かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに便利であった。

福山(松前)は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由ったらしい。

松前藩は、守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていた。

つまり、松前藩の中心は箱館ではなかった。

   箱館に港を

1fa52cd9 嘉兵衛はエトロフへの「三筋の潮」を発見して後、箱館へ帰った。

三橋藤右衛門と箱館の港の件に及んだ。一挙に具体的な話になった。

・・・・・

三橋藤右衛門が「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねた。

「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに綱知らずの良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と、三橋藤右衛門はいった。

当時、長碕港ですら荷を小舟に積みかえて揚陸していた。

幕府が直接乗り出し、箱館が、長崎同様、幕府の直轄港になった。とりあえず、港をつくらねばならない。

嘉兵衛は、御影屋松右衛門(工楽松右衛門)の名前を出してしまった。

     (御影屋)松右衛門が港づくりの名人

その日、話は、続いた。「嘉兵衛は、御影屋松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることを述べた。

・・・・

「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、三橋藤右衛門はきいた。

嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えた。 

嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があった。

 *『菜の花の沖(五)・司馬遼太郎著』(文春文庫)参照

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工楽松右衛門物語(59):北方開拓史⑥・嘉兵衛の拿捕

2013-09-19 08:02:17 | 工楽松右衛門

「松右衛門物語」は波の上を漂っているようである。

松右衛門から話題がどんどん流されている。

このあたりで、元に戻さなければいけないのであるが、ゴローニンの逮捕に次いで、嘉兵衛の拿捕の話を付け加えてから、はなしを元に戻したい。

ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件であった。

幕末の外交史の重要な一頁を飾っている。多くの歴史書にも紹介されているので、詳しくは、それらをご覧願いたい。

     

    嘉兵衛の拿捕

3916b405ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられた。

翌年(文化9年・1812)である。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中であった。

たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船を拿捕した。

日本風にいえば、雲をつくような大男どもが、日本人の平均身長よりも低い嘉兵衛にいっせいにのしかかった。

嘉兵衛は、体のわりには腕力がつよく、一人を突きとばした。

が、背後から、のしかかってくるやつには、どう仕様もない。やがて押し倒された。

いやなにおいがした。あとでわかったことだが、牛脂(ヘット)のにおいだった。

自由をうばわれた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上に、この男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。

「何をするか」

人間が、他の人間に縛られるということの屈辱感は、それを味わった者にしかわから           ない。

意識のどこかに、自分が鹿か猪といった野獣になってゆくような気がした。

    

    幕末外交史を飾る

しかるのち、人質として嘉兵衝とその配下をカムチャツカへ連れて行った。

カムチャツカ半島の当時の主要港は、ペトロパブロフスクであった。

同港の背後のまちは、役所や官舎のほか、わずかな民家があるだけで、まことにさびしいところだった。

以後の話は、別書にゆずるが、嘉兵衛とリコルドは互いに信頼で結びつき、麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つといていった。見事な幕末の外交であった。

*『ロシアについて(司馬遼太郎著)』・『菜の花の沖(司馬遼太郎)著』文春文庫参照。

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工楽松右衛門物語(58):北方開拓史⑤・ゴローニン

2013-09-18 07:31:57 | 工楽松右衛門

フォストフのカラフト・千島列島襲撃事件は、その後、日本史を揺るがす出来事へと発展する。今回はゴローニン事件を紹介したい。

    ゴローニン事件

B49e9872フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現した。

測量艦は、ディアナ号といった。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮、観察力それに勇気に富んだ人物であった。

ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことである。

ゴローニン少佐が海軍から命ぜられ、千島の測量をしていた。

7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づいた。

ゴローニンは、フォストフの一件を知っており、日本の側の反発も予想していた。

そのため、こんどの測量航海にあたり、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたが、薪水が尽きたという事情があって、やむをえずこの島にやってきたのである。

湾の奥は、泊村(とまりむら)であった。

    ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

ゴローニンらは、薪水の供給をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられた。

さいわい、日本側も緊張していたとはいえ、ヒステリーの発作をおこす者はいなかった。

ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少発砲したが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったらしい。

そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けた。

やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしたが、長官はそれをゆるさなかった。

沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕らえられた」と判断した。

この間、リコルドはゴローニンを救助するあらゆる努力をはらったが、ゴローニンを奪還できる条件になかった。いったんカムチャッカに引き返した。

ゴローニンは、松前へ護送され、入獄の身となった。
*『北海道の諸路・街道をゆく15(司馬遼太郎著)』朝日文芸文庫参照

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工楽松右衛門物語(57):北方開拓史④・『私残記』

2013-09-17 06:39:16 | 工楽松右衛門

  私残記

513zewjsl__sl500_aa300_フォストフの紗那(シャナ)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になった。彼は、後に『私残記』という著作を残すことになる。                

『私残記』は、公刊されたものではなく、子孫のために私かに残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記である。

『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊された。いま、「中公文庫」(写真)に入れられて、容易に入手することができる。

紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてた。もちろん逃げたのは大村治五平だけではない。

彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になった。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかった。

かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」とみとめつつも、「しかし、その理由は、軽傷とはいえ敵弾を足にうけたためだ」という意味のことをのべている。

大村治五平は「全員が逃げた、責任のがれに私の指揮が悪く、私一人を悪者に仕立てあげたのである」と言いたかったのであろう。

紗那での完敗は、治五平だけの責任ではない。

ここでは、大村治五平のことを紹介したいのではない。

  

   松右衛門澗(まつえもんま)

興味があるのは、この『私残記』は、彼が紗那に勤務していたということであり、紗那についての自然や風景が描かれている。

紗那を次のように書く。

・・・紗那の港は美しい湾とは決して言えない。海岸は砂ではなく。

大小の荒あらしい石でできていて、しかも遠浅である。

遠浅であるために、大きな船が奥深く入って錨(いかり)をおろすことができない。

ここに、「船が停泊できるように工事をしたのは、嘉兵衛が、松右衛門旦那とよんで、尊敬している工楽松右衛門である」と松右衛門を紹介している。

また、「・・船頭松右衛門という者が石船という舟をこしらえて、金毘羅(こんぴら)の前の海底の石を取り払って、船着き場をつくった。・・・・・また、この澗(ま:船が繋留できる場所)は、松右衛門澗(まつえもんま)と呼ばれた」とある。

金毘羅とあるのは海岸近くにたてられた金毘羅社のことで、嘉兵衛が建てたものであり、紗那にはその他の宗教施設がたくさんあったが、すべてフォストフ隊の侵略により焼かれた。

*『菜の花の沖(五)』参照

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工楽松右衛門物語(56):北方開拓史③・フォストフ、紗那にあらわる

2013-09-16 07:26:54 | 工楽松右衛門

E0b954e6フォストフの侵略に、幕府は大いにあわてた。とりあえず南部・津軽の両藩に命じ、カラフト・エトロフへ出兵させた。

文化四年(1807)四月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、艦隊を組んで、当時、日本の本土そのものだったエトロフ島にまで入ってきた。

四月二十四日、突然、ナイホの沖に現れた。

(当時、エトロフの中心はナイホからシャナに移っていた)

     

    間宮林蔵、激怒す

二十九日の朝、二隻のロシア船が紗那(シャナ)沖に現れた。

フォストフの艦隊には、60人ほどの人員がいた。

そのうち、フォストフ以下17人が三隻のポートに分乗して浜にむかってきた。

それを陸上から、シャナ駐留の200余人の南部・津軽藩のサムライどもが、ぼんやり見物していた。

「なぜ機先を制して射撃しないのか」と、たまたま地理調査のために来島していた幕府の役人の間宮林蔵(まみやりんぞう)が、この島の会所の役人等に狂気のような声でいったが、彼は動こうとはしなかった。

    

    江戸時代の武士は、軍人にあらず

反対に、フォストフが選んだ16人の兵士というのは、勇敢というほかない。

それだけの人数で200余人に戦いを仕掛け、射撃、突撃をくりかえした。

津軽藩は、よほどあわてたらしく、自らの陣屋に火をはなって焼いた。

夜に入って、紗那の役所の備品・物資をすべて捨て、全員山中にげることを決めた。

紗那(シャナ)の筆頭の役人・戸田又太夫は責任を感じ、山中で自害した。

江戸期の武士というのは、組織が戦闘をするようにできていなかった。

藩組織では命令系統があいまいな上に、西洋の軍隊のように常時戦闘の訓練がなされていないのである。

   

   フォストフは有罪に

フォストフの軍隊は、千島・カラフトの各地を荒しまわった。

しかし、この行為は、ロシア政府に認めら行動ではなかった。

後に「フォストフらは、ロシアの国益に反する行動をおこなった」とされ、軍法会議にかけられた。

というのは、「フォストフらの行動は、政府が認めたものではないし、もし、日本が報復のためにオランダ・フランスの援助を求めれば、ロシアとしては、北方に三隻の武装船しか持っていないので危険にされられた」というのである。

フォストフは、軍法会議にかけられ、投獄された。

その後、彼はあやまってネバァ川に落ち溺死している。

*『菜の花の沖(五)』(司馬遼太郎)参照

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工楽松右衛門物語(55):北方開拓史②・レザノフ

2013-09-15 08:19:18 | 工楽松右衛門

     食料を求めて

18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫した。

ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることにあった。

彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的であった。

彼らはいつも餓えていた。

野采も少なく、病気も多かった。

ロシアは、とにかく広く、人家もまばらである。本国から食料を運ぶとすると、とてつもなく高くついた。

何としても、食料は現地で調達しなければならない。そのためにロシアは日本に開国を求めたのである。

    

     レザノフ来航

Photo日本への通商を求めてレザノフ(写真)が長崎に来た。

中学校の社会科・歴史の教科書では、わずかに挿絵に「1804、(レザノフ)が通商を求め来航。幕府は拒否」とだけ書いている。

レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来たが、鎖国を盾に交渉は、はねつけられた。

レザノフは、これを侮辱と感じ、帰路、部下のフォストフ大尉に、「日本にロシアの武力を見せてやれ。そうすれば修好する気になるのではないか」と相談を持ちかけた。

レザノフという若い貴族は、力ムチャッカ、その他に根拠地をもつ巨大な毛皮会社を経営したことで知られる人物である。

レザノフの日本との交渉は、まさに自分の会社の利益確保を目的としていたようなものであった。

レザノフは、長崎での交渉の後、一端カムチャッカに行き、フォストフ大尉らと別れて陸路、シベリアにかえった。

以下は、余話である。

レザノフは、橇で西へ向かううちにシベリアは冬になった。これをおかして進むうち、ついにアルダン川の河畔でたおれ、クラスノヤルスクまでたどりついたが、18073月病没した。43才であった。

   フォストフは官制の海賊に

フォストフは、官制の海賊になった。本国の命令のないままに日本を攻めた。

フォストフは、帆船ユソ号を操って1806六年(文化三年)9月、カムチャツカを出、11月に樺太のオフイトマリに上陸し、小銃を放ってアイスのをおそった。

二日後、クシュンコタンに上睦し、日本の運上屋を襲い、倉庫を破って米六百俵外多くの多くの物品をうばい、弁天の祠を焼き、番人四人を捕らえて連れ去った。ただ、人は殺していない。

次いで、フォストフの一団は、エトロフの松右衛門が港を築いた紗那(シャナ)へ押し寄せてきたのである。

*『北海道の諸路(街道をゆく・15)司馬遼太郎著』(朝日文芸文庫)参照

*写真:レザノフ 

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工楽松右衛門物語(54):北方開拓史①・大日本恵登呂府

2013-09-14 08:08:55 | 工楽松右衛門

高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門について書いているが、この辺で、北方開拓の歴史的背景とその経緯について簡単にまとめておきたい。

  

 エトロフ、最初の探検者は最上徳内(天明六年・1786

日本人が、最初にエトロフ島を探検したのは、天明六年(1786)の最上徳内(もがみとくない)である。

徳内が、エトロフ島に上陸したとき、そこには三名のロシア人が居住し、島民の中にはロシア正教を信仰するものもいた。

そして、寛政三年(1791)、松右衛門は幕府の命により、エトロフ島の有萌(ありもえ)の紗那(しゃな)に築港する。

    

大日本恵登呂府(エトロフ)

706c4a29寛政六年(1794)にロシアは、エトロフの北の島、ウルップ島に基地をつくり、日本のエトロフ島以北への進出を牽制している。

幕府は、寛政十年(1798)、対ロ関係の緊張に伴い、蝦夷地に調査隊を派遣した。

幕臣・近藤重蔵は、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、エトロフ島の最南端のベルタルベ岬から沿岸伝いに、すこし東北方にいったタンネモイ(丹根萌)の入江に上陸し「大日本恵登呂府」(写真)の標柱を建てた。

このとき、彼らは「大日本領恵登呂府」とはしていない。(「領」の文字を使っていない)

理由は、徳内の考えでは「カムチャツカ半島までが日本領である」という領土論を持っていた。

「南千島のエトロフ島あたりまでが日本の領土とすれば、ここが日本領の北限であると解釈されて、よくないと考えたからだろう」と、歴史学者の島谷良吉氏は、その著『最上徳内』(吉川弘文館)のなかで述べておられる。

その翌年、幕府は、松前藩からエトロフ島、クナシリ島などを含む東蝦夷地の支配権を松前藩から取り上げ、七ヵ年の直轄地とし、高田屋嘉兵衛に航路を開かせた。

そして、文化四年(1807)歴史上、歴史上よく知られているエトロフ事件が発生する。

 ・・・・

エトロフ事件については、次回紹介したい。

*『(港づくりの天才)帆布の発明者 工楽松右衛門』参照

 *写真:「大日本恵登呂府」の標柱(エトロフ島カムイワッカ)

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工楽松右衛門物語(53):ある日の話し合い(仮想)

2013-09-13 06:35:24 | 工楽松右衛門

松右衛門は、寛政二年(1790)から寛政七年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海している。

したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていた。

  

  ある夜の話し合い

86a69d5a以下の話は、記録にはない。勝手な想像である。でも、きっとそんなことがあったことであろう。

この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきます。

・・・・

松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていた。

酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はしなかった。

話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になった。

(松右衛門)

嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄の入口かとおもえた。

潮は早いし、急に流れを変えるかと思ったら、次には霧が出てくる。

まさに、「地獄の入口」ようだった。

幸いなことに、その時は大きな船だったので乗り切ることができたが、アイヌの小さい船ではあの潮に飲み込まれたか、転覆したか、それとも、どこぞ知らぬ土地に流されてしまっていたに違いない。

(嘉兵衛)

 クナシリ水道とは、そんな恐ろしい所でございますか。

(松右衛門)

恐ろしい。わしは、大きな船をつかったが、潮はすさましいばかりじゃった。

だが、決まった流れがあるのではないかと思う。それを見つけることが大切じゃ・・・

・・・・

それに、エトロフのアイヌは貧しい生活をしとる。クナシリ水道の潮は彼らの子船じゃ渡れない。

小さい船でも渡れる潮の流れを見つけることが大切じゃ。

そうしたら、エトロフの魚もクナシリ・蝦夷地へ運べるし、蝦夷地の物もエトロフに運ぶことができる。アイヌの生活は、ずっとましになる。

・・・・

松右衛門の話は、いつ果てるともつづいた。

嘉兵衛は、すべての話を、ただ驚きをもって聞いた。

この夜の話は、後の嘉兵衛門の「三筋の潮」の発見に繋がったのかもしれない。

   

   松右衛門は、嘉兵門の師ではないが

松右衛門は、師弟関係でもなく、しかも同業者で、本来ライバルでもある16才年下の嘉兵衛を、あたかも自分の息子のように支援した。これほどの人物は稀有である。

歴史に名前をとどめたという点については、松右衛門の名は、嘉兵衛の長年にわたる北方における華々しい活躍のかげで薄れた。

*『(港づくりの天才)帆布の発明者 工楽松右衛門』参照

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