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ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

9月の散歩 風邪と手術で大変でした

2018-09-30 21:13:50 |  ・コーヒーブレイク・余話

 

     9月の散歩

   1日(土) 11.858歩  自宅~加古川東岸・自宅周辺

   2日(日) 15.239〃  自宅~長田公園・自宅~JR加古川駅

   3日(月) 12.694〃  自宅~長田公園・自宅~加古川東岸

   4日(火) 11.751〃  自宅~加古川市民病院往復

   5日(水) 10.644〃      自宅周辺・自宅~紀伊国屋書店往復 

   6日(木) 11.001〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

   7日(金) 12.316〃  自宅~長田公園・自宅~加古川東岸~大崎

   8日(土) 10.050〃      自宅周辺・ 自宅~加古川東岸~大崎

   9日(日) 11.437〃      自宅~加古川東岸~大崎~長田公園~自宅

  10日(月) 11.488〃  自宅~マックスバリュー・自宅~長田公園

  11日(火) 11.053〃  自宅~長田公園・平荘湖遊歩道

  12日(水) 14.085〃  自宅~長田公園・自宅~紀伊国屋書店   

  13日(木) 12.718〃  平荘湖一周・自宅周辺

  14日(金) 10.470〃  自宅~加古川東岸~大崎~自宅~自宅

  15日(土) 10.822〃  自宅~長田公園・自宅~M眼科

  16日(日) 13.917〃  高砂町内・自宅~紀伊国屋書店

  17日(月) 11.155〃  自宅周辺のみ

  18日(火)  2.611〃   風邪のため散歩できず

  19日(水)  3.152〃     〃

  20日(木)  2.345〃  風のため(少し良くなりました)  

  21日(金)  3.466〃     咳が少なくなりました

  22日(土)  5.419〃   自宅周辺(明日の目標は7000歩とします)

  23日(日)  7.658〃   自宅周辺・自宅~長田公園 

  24(月)  4.453〃    自宅周辺(熱が残っています)

  25(火)  5.287〃    自宅周辺(この度の風邪はひつこい)     

  26(水)  6.451〃    自宅~長田公園(しんどい)

  27(木)  1.773〃    眼の手術日 

  28(金)  6.515〃        自宅~長田公園・市民病院内

  29(土)  1.427〃    自宅周辺・イトーヨーカドー内

   30(日)        535〃     自宅内(no4606

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お爺さんが語る郷土の歴史(285) 近世の加印地域 高砂篇(83) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(34)・天下の御用でございます

2018-09-26 08:30:09 | お爺さんが語る郷土の歴史

             箱館港(2)

 (高田屋)嘉兵衛は、(工楽)松右衛門の説得のため、兵庫の港に帰りました。

 以下の兵庫港での二人の情景は、司馬遼太郎が小説の一場面として書いていますが、事実も、それに近かったのではないかと想像できます。

     天下の御用でございます

 嘉兵衛は、いつもの通り北風家にあいさつに行き、あと、松右衛門旦那の店に寄りました。

 彼自身、店の土間で荷ほどきの指図をしていて「嘉兵衛、あいにく、いまはこのとおりじゃ」

 角力(すもう)取りのような大きな体を荷のほうにむけたままいうのでした。

 「あすの晩、来んかい。お前はどうか知らんが、わしのほうは体があいている」

 嘉兵衛は、松右衛門に「御用」について簡単にのべました。

 「なんじゃ、公儀御用かい」

 松右衛門旦那は、いやな顔で反問しました。

 「ちがいます、天下のことでございます」

 「天下」

 松右衛門旦那のすきな言葉でした。

 すでにふれたように、松右衛門旦那はかねがね「人として天下の益ならん事を計らず、碌々(ろくろく・平凡に)として一生を過さんは、禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」と口癖のようにいってきました。

 ただし、かれのいう「天下」とは、公共ということであり、さらに彼のいう「益ならん事」とは、工夫と発明のことをさしています。

 「わかった」と、いいました。

 が、いま嘉兵衛を座敷にあげて、その話をきくということはせず、

 「明晩来い」と、いって、再び荷の中に頭をつっこんでしまいました。

 元来、船頭は作業をする人であり、みずから「船頭」という松右衛門旦那は、作業中はたれがきてもこの調子でした。(no4605)

 ◇きのう(9/25)の散歩(5.287歩)

 *あす(9/27)、眼の手術をしますので、しばらくは不定期の発行になります。ご了承ください。

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お爺さんが語る郷土の歴史(284) 近世の加印地域 高砂篇(82) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(53)・松右衛門は港づくりの名人

2018-09-25 07:52:03 | お爺さんが語る郷土の歴史

      箱館港(1) 松右衛門は港づくりの名人

 ずいぶん、話は松右衛門から離れしまっています。時代を少し戻します。復習です。

 松前は、良港ではありません。

 松前藩は、アイヌに苛烈な支配を続けてました。常に、「アイヌの反抗があるかもしれない」と恐れていました。

 守備は十分ではありません。蝦夷地は野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかったのです。

 福山(松前)の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全が得られるのです。

 かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに便利でした。

 福山(松前)は山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけで、まことに不自由でした。

 松前藩は、守りやすいという一点だけで、松前を城下にしていました。

 つまり、蝦夷地の中心は箱館ではなかったのです。

    箱館に港を

 嘉兵衛はエトロフへの「三筋の潮」を発見して後、箱館へ帰りました。

 三橋藤右衛門と箱館の港の件に及びました。

一挙に具体的な話になりました。

 ・・・・・

 三橋藤右衛門が「嘉兵衛、箱館に築港はできるか」と、たずねました。

 「箱館の浦を、いまのままにしておけない。箱館がいかに綱知らずの良港であっても今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではない・・」と、三橋藤右衛門はいうのでした。

 当時、長碕港ですら荷を小舟に積みかえて揚陸していました。

 幕府が直接乗り出し、箱館が、長崎同様、幕府の直轄港になりました。とりあえず、港をつくらねばなりません。

 嘉兵衛は、とっさに御影屋松右衛門(工楽松右衛門)の名前を出してしまいました。

     松右衛門は港づくりの名人

 その日、話は続きました。嘉兵衛は、「御影屋松右衛門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衛門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることを述べました。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」と、三橋藤右衛門は聞きました。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、喜んで参りましょう」と答えました。 

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信があったのです。(no4804)

 *嘉兵衛は松右衛門以箱館港の建設を願います。

 ◇きのう(9/24)の散歩(4.453歩)、体に熱が残っています。

 

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お爺さんが語る郷土の歴史(283) 近世の加印地域 高砂篇(81)・工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(52)・幕末外交史を飾る

2018-09-24 08:31:29 | お爺さんが語る郷土の歴史

             幕末外交史を飾る

 リコルドは、人質として嘉兵衝とその配下をカムチャツカへ連れて行きました。

 カムチャツカ半島の当時の主要港は、ペトロパブロフスクでした。

 同港の背後のまちは、役所や官舎のほか、わずかな民家があるだけで、まことにさびしいところでした。

 しばらくして、嘉兵衛とリコルドは互いに信頼をするようになりました。

 そして、捕虜でありながら嘉兵衛は、ロシア語さえ勉強を始めたのです。

 ともに、この事件を解決することを誓い合いました。

 そして、嘉兵衛は幕府の役人、身内の者に手紙を書いています。

      嘉兵衛の手紙

 (その主旨は、)「この度のロシヤ行きは前世からの約束事であると思っている。

 ならぱ、この海域で繰り返されている争い事を御停すること、つまり日露和平に微力を尽くすことが、私の役目だと恩っています。

 幸い、私はご公儀の立場もよくわきまえているつもりなので、どんなことがあってもロシ側に寝返って、日本が不利になるような言動をすることは、決してしません。

 事件が解決したら、無事戻ってくるからどうか安心していてください」

 

 そして、麻のようにもつれた日ロ関係を一つ一つといていきました。見事な幕末の外交でした。

 やがて、リコルドと嘉兵衛は開放されました。この間の話は、別書にゆずります。(no4603)

 *挿絵:ペテロハバロフスックへの船中で

  (マンガ『海を翔ける男たち』、クニ・トシロウ著)より

 ◇きのう(9/23)の散歩(7.658歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(282) 近世の加印地域 高砂篇(80)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(51)・嘉兵衛の拿捕

2018-09-23 08:57:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    北方開拓史(6)・嘉兵衛の拿捕

 松右衛門から話題はどんどん流されています。

 このあたりで、元に戻さなければいけないのですが、ゴローニンの逮捕に次いで、嘉兵衛の拿捕の話を付け加えてから、話を松右衛門に戻します。

 ゴローニンの逮捕・嘉兵衛の拿捕の事件は、日本とロシアの戦争に発展しかねない大事件でした。

 幕末の外交史の重要な一頁を飾っています。多くの教科書や歴史書にも紹介されています。詳しくは、それらをご覧くさい。

     嘉兵衛の拿捕

 ゴローニン少佐は、(日本に)とらえられました。

 翌年(文化9年・1812)のことでした。代って艦長になったリコルド少佐は、ゴローニンをとりかえすため、クナシリ島の南方海上を航行中でした。

 たまたま、航行中の高田屋嘉兵衛の船を拿捕しました。

 日本風にいえば、雲をつくような大男どもが、日本人の平均身長よりも低い嘉兵衛にいっせいにのしかかったのです。

 嘉兵衛は、体のわりには腕力がつよく、一人を突きとばしました。

 が、背後から、のしかかってくるやつには、どう仕様もありません。やがて押し倒されてしまいました。

 いやなにおいがしました。後でわかったことだが、牛脂(ヘット)のにおいでした。

 自由をうばわれた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上に、この男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことでした。

 「何をするか」

 人間が、他の人間に縛られるということの屈辱感は、それを味わった者にしかわかりません。

 意識のどこかに、自分が鹿か猪といった野獣になってゆくような気がしたのです。(no4602)

 *挿絵:嘉兵衛拿捕される(『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(9/22)の散歩(5.419歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(281) 近世の加印地域 高砂篇(79)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(50)・ゴローニン事件

2018-09-22 09:09:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

     北方開拓史(5) ゴローニン事件

 フォストフのカラフト・千島列島襲撃事件は、その後、日本史を揺るがす出来事へと発展します。ゴローニン事件です。

 フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現しました。

 測量艦は、ディアナ号といいました。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮、観察力それに勇気に富んだ人物でした。

 ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことでした。

 ゴローニン少佐が海軍から命ぜられ、千島の測量をしていました。

 7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づいました。

 ゴローニンは、フォストフの一件を知っており、日本の側の反発も予想していました。

 そのため、こんどの測量航海にあたり、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたのですが、薪水が尽きたという事情があって、やむをえずこの島にやってきたのです。

 湾の奥は、泊村(とまりむら)です。

      ゴローニン、クナシリ島で捕虜に

 ゴローニンらは、薪水をもとめて、泊村に上陸すると、すぐさま日本の警備兵にとらえられてしまいました。

 ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少の発砲をしましたが、ゴロ一ニンと接触したとき、日本側の責任者の一人が、発砲をわび、「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。

 しかし、あなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意はまったく消えた」と言ったようです。  

 そして、ゴローニンは、エトロフ島の長官と会い、りっぱな昼食のもてなしを受けました。

 やがて、ゴローニンは艦に戻りたいといって海岸へ去ろうとしましたが、ゆるされませんでした。

 沖合のディアナ号には副長のリコルドが鑑を指揮していましたが、彼は「ゴローニンは、日本に捕らえられた」と判断しました。

 この間、リコルドはゴローニンを救助するあらゆる努力をはらいましたが、ゴローニンを奪還できず、いったんカムチャッカに引き返しました。

 ゴローニンは、松前へ護送され、入獄の身となってしまいました。(no4601)

 *『北海道の諸路・街道をゆく15(司馬遼太郎著)』朝日文芸文庫参照

 *挿絵:ゴローニン

◇きのう(9/21)の散歩(3.466歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(280) 近世の加印地域 高砂篇(78)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(49)・『私残記』

2018-09-21 09:07:06 | お爺さんが語る郷土の歴史

       北方開拓史(4)・『私残記』

 フォストフの紗那(シャナ)侵略により、南部藩の砲術師・大村治五平は捕虜になりました。彼は、後に『私残記』という著作を残こしています。

*現在『私残記』は、中央文庫から出版されています。

 『私残記』は、子孫のために私的に残すという目的で書きのこされたエトロフ島防戦願末記です。

 『私残記』の稿は、盛岡の大村家に伝えられていましたが、昭和18年、盛岡在住の作家により現代語訳されて公刊されました。

 紗那(シャナ)の戦場においては、大村治五平は、戦場をすてました。もちろん逃げたのは大村治五平だけではありません。

 彼の職務は戦闘を指導すべき砲術師であり、さらに、一時ロシアに捕虜になりました。そのため、後に南部藩は戻ってきた治五平に対し藩は冷たかったのです。

 かれは藩における吟味の席上、「たしかに逃げたことは相違ない」とみとめつつも、「しかし、その理由は、軽傷とはいえ敵弾を足にうけたためだ」という意味のことをのべています。

 大村治五平は「全員が逃げた、責任のがれに私の指揮が悪く、私一人を悪者に仕立てあげたのである」と言いたかったのでしょう。

     松右衛門澗(まつえもんま)

 興味があるのは、この『私残記』は、彼が紗那(シャナ)に勤務していたということであり、紗那についての自然や風景が描かれています。

 紗那を次のように書いています。

 「・・・紗那の港は美しい湾とは決して言えない。海岸は砂ではなく。

 大小の荒あらしい石でできていて、しかも遠浅である。

 遠浅であるために、大きな船が奥深く入って錨(いかり)をおろすことができない。

 ここに、船が停泊できるように工事をしたのは、嘉兵衛が、松右衛門旦那とよんで、尊敬している工楽松右衛門である・・・」と松右衛門について述べています。

 また、「・・船頭松右衛門という者が石船という舟をこしらえて、金毘羅(こんぴら)の前の海底の石を取り払って、船着き場をつくった。・・・・・また、この澗(ま:船が繋留できる場所)は、松右衛門澗(まつえもんま)と呼ばれた」とあります。

 金毘羅とあるのは海岸近くにたてられた金毘羅社のことで、嘉兵衛が建てたものでづす。

 紗那にはその他の宗教施設がたくさんあったが、すべてフォストフ隊の侵略により焼かれてしまいました。(no4600)

 ◇きのう(9/20)の散歩(2.345歩)・・・風邪がまだ残っています。

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お爺さんが語る郷土の歴史(279) 近世の加印地域 高砂篇(77)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(48)・フォストフ、シャナにあらわれる

2018-09-20 09:49:27 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    北方開拓史(3)・フォストフ、シャナにあらわれる

 フォストフの侵略に、幕府は大いにあわて、とりあえず南部・津軽の両藩に命じ、カラフト・エトロフへ出兵させました。

 文化4年(1807)4月、フォストフ船長は、ユノ号の外にいま一隻の武装商船を加え、艦隊を組んで、エトロフ島にまで入ってきました。

 4月24日、突然、ナイホの沖に現れました。

 (当時、エトロフの中心はナイホからシャナに移っていました)

       間宮林蔵、激怒

 29日の朝、2隻のロシア船が紗那(シャナ)沖に現れました。

 フォストフの艦隊には、60人ほどの人員がいました。

 そのうち、フォストフ以下17人が三隻のボートに分乗して浜にむかってきたのです。

 それを陸上から、シャナ駐留の200余人の南部・津軽藩のサムライどもが、ぼんやり見物していました。

 「なぜ機先を制して射撃しないのか」と、たまたま地理調査のために来島していた幕府の役人の間宮林蔵(まみやりんぞう)が、この島の会所の役人等に狂気のような声で怒鳴りました。が、彼等は動こうとはしません。

     江戸時代の武士は、軍人にあらず

 反対に、フォストフが選んだ16人の兵士というのは、勇敢でした。

 それだけの人数で200余人に戦いを仕掛け、射撃、突撃をくりかえしました。

 津軽藩は、よほどあわてたらしく、自らの陣屋に火をはなって焼いきました。

 夜に入って、紗那の役所の備品・物資をすべて捨て、全員山中に逃げ出してしまいました。

 紗那(シャナ)の筆頭の役人・戸田又太夫は責任を感じ、山中で自害しました。

 江戸期の武士というのは、組織が戦闘をするようにできていません。

 藩組織では命令系統があいまいな上に、西洋の軍隊のように常時戦闘の訓練がなされていないのでした。

     フォストフは有罪に

 フォストフの軍隊は、千島・カラフトの各地を荒しまわりました。

 しかし、この行為は、ロシア政府に認められた行動ではなかったのです。

 後に「フォストフらは、ロシアの国益に反する行動をおこなった」とされ、軍法会議にかけられました。

 というのは、「フォストフらの行動は、政府が認めたものではないし、もし、日本が報復のためにオランダ・フランスの援助を求めれば、ロシアとしては、北方に三隻の武装船しか持っていないので危険にされられた」というのです。

 フォストフは、軍法会議にかけられ、投獄されました。

 その後、彼は、監獄を脱出して逃走。途中あやまってネバァ川に落ち溺死しています。(no4599)

 *挿絵:フォストフ、シャナを攻撃

 ◇きのう(9/19)の散歩(3152歩)・・風邪のため散歩できず

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お爺さんが語る郷土の歴史(278) 近世の加印地域 高砂篇(76)、工楽松右衛門と高田屋嘉衛(47)・レザノフ

2018-09-19 07:19:33 | お爺さんが語る郷土の歴史

     北方開拓史(2)  レザノフ

            食料を求めて

 18世紀、ロシアの南下政策が千島を圧迫しました。

 ロシアの南下政策は、本音のところでは、日本から食料を得ることでした。

 彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的でした。

 彼らはいつも餓えていました。

 野菜も少なく、病気も多かったのです。

 ロシアは、とにかく広く、人家もまばらで、本国から食料を運ぶとすると、とてつもなく高くつきました。

 何としても、食料は現地が必要でした。そのためにロシアは日本に開国を求めたのです。

        レザノフ来航

 日本への通商を求めてレザノフ(写真)が長崎に来ました。

 中学校の社会科・歴史の教科書では、わずかに挿絵に「1804、(レザノフ)が通商を求め来航。幕府は拒否」とだけ書いています。

 レザノフが、日本を開国させるべく、文化元年(1804)長崎に来ましたがあ、鎖国を盾に交渉は、はねつけられました。

 レザノフは、これを侮辱と感じ、帰路、部下のフォストフ大尉に、「日本にロシアの武力を見せてやれ。そうすれば修好する気になるのではないか」と相談を持ちかけました。

 レザノフという若い貴族は、力ムチャッカ、その他に根拠地をもつ巨大な毛皮会社を経営したことで知られる人物です。

 レザノフの日本との交渉は、まさに自分の会社の利益確保を目的としていたようなものでした。

レザノフは、長崎での交渉の後、一端カムチャッカに行き、フォストフ大尉らと別れて陸路、シベリアにかえりました。

 以下は、余話です。

 レザノフは、橇で西へ向かううちにシベリアは冬になりました。これをおかして進むうち、ついにアルダン川の河畔でたおれ、クラスノヤルスクまでたどりついたが、1807年3月病没しました。43才でした。

       フォストフは海賊に

 フォストフは、官制の海賊になりました。本国の命令のないままに日本を攻めました。

 フォストフは、帆船ユソ号を操って文化3年(1806)9月、カムチャツカを出、11月に樺太のオフイトマリに上陸し、小銃を放ってアイヌのをおそったのです。

 二日後、クシュンコタンに上睦し、日本の運上屋を襲い、倉庫を破って米六百俵外、多く物品をうばい、弁天の祠を焼き、番人4人を捕らえて連れ去りました。ただ、人は殺していません。

 次いで、フォストフの一団は、エトロフの松右衛門が港を築いた紗那(シャナ)へ押し寄せてきたのです。(no4598) 

 *絵:レザノフ 

 ◇きのう(9/18)の散歩(2111歩)・・・・風邪(咳が激しく)、散歩はできませんでした。

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オマーン国王夫人物語(19) 元オマーン国王妃・きょうの神戸新聞で紹介

2018-09-18 10:02:48 | 江戸時代、高砂の商業活動

 以前、「ひろかずのブログ」で「オマーン国王夫人物語」を18回シリーズで掲載しました。

 今日(9/18)の神戸新聞にオーマン国王妃・清子さんのことが掲載(24面)されています。嬉しくなりました。

 新聞記事を「オーマン国王夫人物語(19)」として掲載させていただきました。

 よろしかったら「ひろかずのブログ」のカテゴリー「オマーン国王夫人物語」をお読みください。新聞では紹介できてないことも知ることができると思います。

 新聞では貴重な写真も紹介されていますが、ここでは1枚だけの掲載になっています。

 

      オマーン元国王と結婚の邦人

             稲美町に墓所、親戚が守る

 約80年前、神戸で中東・アラビア半島のオマーンの元国王と結ばれた清子・アルサイドさん(旧姓大山)は結婚後まもなく、一人娘を残したまま亡くなった。その墓は兵庫県稲美町にあり、今も親戚が守り続ける。一人娘のブサイナ王女(80)は幼いころに日本を離れ、母の墓参りに訪れたのは40年前。その日、一緒に墓参りをした親戚、杉本浜子さん(73)=稲美町=は「代わりにお母さんのお墓を守っているよ、と伝えたい」と遠く離れた王女に思いを寄せた。(切貫滋巨)

 同国と日本の関わりなどを書いた遠藤晴男さん著「オマーン見聞録」(展望社)などによると、カブース現国王の祖父、タイムール元国王が、退位後に神戸に立ち寄ったのは1935(昭和10)年。ダンスホールで出会った当時19歳の清子さんと恋に落ち、翌年に結婚式を挙げた。

 2人は神戸で暮らし、程なくしてまな娘のブサイナ王女(日本名は節子)が生まれた。だが家族の幸せは長くは続かず、39(昭和14)年に清子さんが病没。元国王は墓を稲美町に建てた後、王女を連れて日本を離れた。それ以降、王女はオマーンで王族の一員として育てられたという。

 同町は、清子さんの母親の出身地。清子さん自身も生まれて数年を稲美で過ごしたとも言われる。

 その後、ブサイナ王女が来日したのは確認できる限り、たった1度だけ。父と日本を離れて約40年後の78年9月のことだった。

 王女のまたいとこに当たる杉本千明さん(故人)の妻、浜子さんら親戚一同が、墓参りのために同町を訪れた王女を出迎えた。「背が高く、とても優しそうだった」。浜子さんは今でもその様子を覚えている。

 王女は母親の墓の前で涙をぽろぽろと流し、通訳を通じて「母の記憶はほとんどないが、お墓という形が残っていてうれしかった」などと話したという。涙をティッシュペーパーで拭っていたため、浜子さんがハンカチを手渡した。見送りに行った新神戸駅で抱擁され、「ハンカチをもらってもいいか」と聞かれたという。

 比較的年齢が近いこともあってか、「顔を合わせるのは初めてだったが、何か通じ合うものがあった」と浜子さん。それ以来、杉本家の墓とともに、お盆や正月の墓参りを欠かさないという。

 浜子さんは今年も8月16日に、孫ら家族とともに清子さんの墓に手を合わせた。「『もう一度、ここに来たい』と言っていたが、かなえられていないのは残念」。でも「ブサイナさんと会ってからは、代わりにお墓参りをしている気持ち。元気でいる限りは続けたい」と話していた。

 駐日オマーン国大使館(東京)などによると、ブサイナ王女は健在で、首都マスカットで暮らしているという。公の場に出ることはほとんどない。(no4597)

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お爺さんが語る郷土の歴史(277) 近世の加印地域 高砂篇(75)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(46)・大日本恵登呂府

2018-09-18 07:35:18 | お爺さんが語る郷土の歴史

      北方開拓史(1)・大日本恵登呂府

 高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門について書いていますが、この辺で、北方開拓の歴史的背景とその経緯について簡単にまとめておきます。

     エトロフの最初の探検者は、

                最上徳内(天明六年・1786)

 日本人が、最初にエトロフ島を探検したのは、天明6年(1786)の最上徳内(もがみとくない)です。

 徳内が、エトロフ島に上陸したとき、そこには三名のロシア人が居住し、島民の中にはロシア正教を信仰するものもいました。

 そして、寛政3年(1791)、松右衛門は幕府の命により、エトロフ島の有萌(ありもえ)の紗那(しゃな)に築港します。

      大日本恵登呂府(エトロフ)

 寛政6年(1794)にロシアは、エトロフの北の島、ウルップ島に基地をつくり、日本のエトロフ島以北への進出を牽制しています。

 幕府は、寛政10年(1798)、対ロ関係の緊張に伴い、蝦夷地に調査隊を派遣しました。

 幕臣の近藤重蔵は、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、エトロフ島の最南端のベルタルベ岬から沿岸伝いに、すこし東北方にいったタンネモイ(丹根萌)の入江に上陸し「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。

 このとき、彼らは「大日本領恵登呂府」とはしていない。(「領」の文字を使っていません)

 理由は、徳内の考えでは「カムチャツカ半島までが日本領である」という領土論を持っていたようです。

 「南千島のエトロフ島あたりまでが日本の領土とすれば、ここが日本領の北限であると解釈されて、よくないと考えたからでしょう」と、歴史学者の島谷良吉氏は、その著『最上徳内』(吉川弘文館)のなかで述べています。

 その翌年、幕府は、松前藩からエトロフ島、クナシリ島などを含む東蝦夷地の支配権を松前藩から取り上げ、7ヵ年の直轄地とし、高田屋嘉兵衛に航路を開かせたのです。

 そして、文化4年(1807)歴史上、歴史上よく知られているエトロフ事件が発生します。(エトロフ事件については、後に説明します)(no4596)

 *挿絵:「大日本恵登呂府」の標柱(エトロフ島カムイワッカ)

 ◇きのう(9/17)の散歩(11.155歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(276) 近世の加印地域 高砂篇(74) 工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(45)・ある夜の会話

2018-09-17 07:33:11 | お爺さんが語る郷土の歴史

 松右衛門は、寛政2年(1790)から寛政7年(1795)にかけて、彼の持ち船の八幡丸で、数回にわたって、エトロフ島の紗那(しゃな)の有萌湾(ありもえわん)まで航海しています。

 したがって、松右衛門は当然、魔の海峡・クナシリ水道の航海技術をすでに心得ていました。

 以下の話は、記録にはない、勝手な想像です。 でも、きっとそんな会話があったことでしょう。

 この話を冬の夜で場所を兵庫の松右衛門の家と設定しておきます。嘉兵衛がエトロフ航路を見つける以前です。

      ある夜の会話

 ・・・・ 松右衡門は、嘉兵衛と一献交えていました。

 酒はお互いに嗜んだが、二人共飲みつぶれるような飲み方はありません。

 話は、エトロフへの航路、つまりクナシリ水道の潮になりました。


 松右衛門:嘉兵衛よ。わしがクナシリ水道を初めて渡った時は、ここは地獄の入口かとおもえたゾ!

 潮は早いし、急に流れを変えるかと思ったら、次には霧が出てくる。

 まさに、「地獄の入口」ようじゃった。

 幸いなことに、その時は大きな船だったので乗り切ることができたが、アイヌの小さい船ではあの潮に飲み込まれたか、転覆したか、それとも、どこぞ知らぬ土地に流されてしまっていことであろう。

 嘉兵衛:クナシリ水道とは、そんな恐ろしい所でございますか。

 松右衛門:恐ろしい。わしは、大きな船をつかったが、潮はすさましいばかりじゃった。だが、決まった流れがあるのではないかとおもうた・・・それを見つけることが大切じゃ・・・

 それに、エトロフのアイヌは貧しい生活をしとる。クナシリ水道の潮は彼らの子船じゃ渡れない。

 小さい船でも渡れる潮の流れを見つけることが大切じゃ。

 そうしたら、エトロフの魚もクナシリ・蝦夷地へ運べるし、蝦夷地の物もエトロフに運ぶことができる。アイヌの生活は、ずっとましになるし・・・

 その夜、松右衛門の話は、いつ果てるともなくつづいきました。

 嘉兵衛は、すべての話を、ただ驚きをもって聞いていました。

 この夜の話が、後の嘉兵衛の「三筋の潮」の発見に繋がったのかもしれません。

     松右衛門は、嘉兵衛の師

 松右衛門は、師弟関係でもなく、しかも同業者で、本来ライバルでもある26才年下の嘉兵衛を、あたかも自分の息子のように支援しました。

 歴史に名前をとどめたという点については、松右衛門の名は、嘉兵衛の長年にわたる北方における華々しい活躍のかげで薄れただけです。(no4595)

 *挿絵:ある夜の会話

 ◇きのうの散歩(13.917歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(275) 近世の加印地域 高砂篇(73)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(44)・松右衛門、紗那港を造る

2018-09-16 08:58:36 | お爺さんが語る郷土の歴史

            工楽松右衛門、紗那(シャナ)港をつくる

 寛政2年(1790)5月、松右衛門は、自分の持ち船・八幡丸でエトロフへ出発ました。エトロフの冬は早く、10月いったん兵庫港へ引き返しました。

 翌、寛政三年(1791)三月、十分な準備をして再びエトロフ島に向けて出航しました。

 その年は、天侯にも恵まれ、工事は順調に進みました。

 あらかた紗那(シャナ)港は完成させ、10月に帰航しました。

 以後も、松右衛門は数回にわたってエトロフ島に渡航し、寛政7(1795)に工事を終了させています。

 なお、松右衛門が築港したこの場所は、江戸時代には恵登呂府島(エトロフ島)といい、戦前のエトロフ島西北部紗那郡の有萌湾(現:ナヨカ湾)です。

    松右衛門は、エンジニア

 松右衛門は、湾底に散らばる大きな岩を取り除き、船舶の接岸、碇泊に支障のないよう、船の澗(ま)をこしらえて大船を繋留するようにしました。

 埠頭をつくったのです。

 のち島民は松右衛門の徳をたたえて、ながく「松右衛門澗(港)」と呼んだといいます。

 なお、澗(ま)とは小さな錨地の意味です。

 その「松右衛門澗」のことは、ロシア船がエトロフ島に来航して、幕府会所を襲撃するという、「エトロフ事件」があった文化4年(1807)当時、エトロフ鳥の警備をしていた南部藩の火業師(砲術)・大村治五兵が書きのこした『私残記』に記されています。

 それには、「このシヤナ(紗那)の港は、石があらく、その上遠浅で、大船が入るには、実に危険なところです。

 そこで船頭・松右衛門が石船をいう船をこしらえて、海底の石を取り払って、船の係留する所をつくった・・・・」と書きのこしています。

 松右衛門の技術がいかんなく発揮されています。

 そして、エトロフでは、予想をはるかに超えた鮭の豊漁がありました。 

 「工楽」の姓をたまわる

 後に、幕府は、この松右衛門のこの紗那港づくりに対し、享和2年(1802)、三十石三人扶持を与え、松右衛門は「工楽」の姓をたまわり、帯刀を許されました。(no4594)

*挿絵:エトロフでの豊漁

◇きのう(9/15)の散歩(10.822歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(274) 近世の加印地域 高砂篇(72)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(43)・松右衛門、エトロフへ

2018-09-15 07:36:13 | お爺さんが語る郷土の歴史

 嘉兵衛がクナシリ水道の「三筋の潮」を発見し、クナシリからエトロフへの安全な航行を可能にしました。

 その後嘉兵衛のすすめにより、工楽松右衛門は箱館・エトロフの港の建設に当たると話が進みました。

 この時のエトロフ港をつくった功績により、松右衛門は享和2年(1802)に幕府から「工楽(くらく)」の姓をもらっています。

 この辺りの事情を若干整理しておきます。

      松右衛門エトロフヘ

 その頃、ロシアの南下があり、蝦夷地はにわかに騒がしくなってきました。幕府は危険なものとして警戒に当たるようになりました。

 寛政2年(1790)2月、幕府は国防のためエトロフ島に築港を計画しました。

 そして、「択捉島(エトロフ島)ニ廻船緊場ヲ検定シ、築港スヘシ」と兵庫問屋衆に幕命が下りました。

 兵庫湊の北風荘右衛門は、優れた航海技術と築港技術を持つ松右衛門を推挙しました。

 この時、松右衛門は既に50才に近かったが、荘右衛門の要請に応じた。

 エトロフへの船は、松右衛門の持ち船・八幡丸をあてた。

 準備を整え、その年(寛政2年・1790)の五月、乗員20人と共に、兵庫津を出ました。

 八幡丸に、多くの日章旗をはためかした華やかな船出でした。

 八幡丸は順調に、東蝦夷まで航海し、エトロフ島のほぼ中央で、オホーツク海側の有萌湾(ありもえわん)に上陸し、さっそく湾底の大石除去工事に着手したが、10月になり急に寒気がきびしくなってきました。

 これ以上の継続は不可能となり、松右衛門は、一旦兵庫港に帰ることにしました。

 その年の12月、幕府は松右衛門の労を慰するため、30両をあたえました。

 その文書が残っています。

  申渡

  一 金参拾両  兵庫佐比恵町 松右衛門

     右其方儀恵登呂府波戸築立為御用彼地

     迄モ罷越骨折相勤候二付書面通為取之

    戌 十二月

 (意味)

  申し渡し

  一つ、金三十両 兵庫サビエまち 松右衛門

   右、その方の儀、エトロフ港築のため、かの地迄もまかりこし、骨折り、あい勤候に付き、書面の通りこれをとりなす

      戌(いぬどし) 十二月

 慰労金として、金30両は少ないようですが、松右衛門にとっては不足を感じませんでした。

 むしろ、幕府からの仕事に誇りを感じました。(no4593)

   *地図:エトロフ島

 ◇きのう(9/14)の散歩(10.470歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(263) 近世の加印地域 高砂篇(71)、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛(42)・松右衛門が港を造りましょう

2018-09-14 09:40:07 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

     松右衛門が港を造りましょう

 箱館の港の話になり、話は、一挙に具体的になりました。

 ・・・・・

 三橋藤右衛門が「嘉兵衛、築港はできるか」と、たずねたのです。

 「箱館の浦をいまのままにしておけない」と、三橋藤右衛門はいいました。

 箱館がいかに「綱知らず」といわれたほどの天然の良港であっても、今後、三十艘、五十艘という大船を碇泊させるには十分ではありません。

 「港」は、長碕ですら荷を小舟に積みかえて荷揚げしていました。

 箱館が、長崎と同じように、幕府の直轄港になった以上、とりあえずそれをつくる必要があります。

 その時、嘉兵衛は、御影屋松右衛門(後の工楽松右衛門)の名前を出してしまいました。

 その日、話は、続きました。

 ・・・・

 「ナイホ(エトロフ中西部の地名)にも港をつくらねばならんな」と、三橋藤右衛門はいいました。

 ナイホの築港の必要については、嘉兵衛がすでに近藤董蔵に上申していました。

 それらについて、「嘉兵衛は、御影屋松右衡門を御用にお召し遊ばせば非常な功をなすと存じます」と言い、この「松右衡門帆」の発明者が、あらゆる工学的分野で異能の人であることもあわせて述べました。

 ・・・・

 「その松右衛門とやらは、箱館に来てくれるのか」 と三橋藤右衛門は尋ねました。

 嘉兵衛は、「松右衛門が蝦夷地と松前を往来する廻船業の人だから、名を指しておよびくだされば、やや齢はとっているとはいえ、よろこんで参りましょう」と答えたのでした。

 ・・・・

 嘉兵衛は、松右衛門はこの話を、きっと引き受けてくれる自信がありました。

 松右衛門は、新しいことに挑戦する人、子供の心を持つ人でした。(no4592)

 *挿絵:箱館にて(マンガ)『北海を翔ける男(クニ・トシロウ著)』(実業之日本社)より

 ◇きのう(9/13)の散歩(11.718歩)

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