ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

「加古川市の歴史探訪」終了

2007-12-09 08:44:55 |  ・まち歩き

051

 ブログ『加古川市の歴史探訪』を終了します

 ご愛読ありがとうございました

◇きょうで歴史探訪を一段落させますが、時々思い出したように「加古川市歴史余話」を書きたいと考えていますので、時々このブログにお立ちよりください◇

  昨年の梅雨のころでした。『50代にもよくわかるブログ入門』(ベスト新書)を書店でみつけました。

  はじめは随想?のようなことを書きはじめたのですが、市内のある公民館から歴史講座を頼まれ、その資料づくりをかねて公民館エリアの歴史をブログで紹介することにした。これが、このシリーズのはじまりになりました。

  はじめてみると、反応が後押しになりました。

  当初は、一日に20ぐらいのアクセスが、回を重ねると100をこえ、最近では200をこえることが普通となっています。

  アクセスにつられて、きょうで499号になりました。500号で終にさせよと思ったのですが、あまりにも区切りがよすぎます。

  完全に終わってしまいそうです。 時々「余話」を書きたいので、ここで一段落しておきます。

  つまらない内容に付き合ってくださいました多くの方々にお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

  写真を撮るために、さまざまなところにお邪魔しました。目的の場所がなかなか探せないこともしばしばでした。

  地元の方もご存じないことの方が、むしろ普通でした。地域から歴史が、消えかかっているのでしょうね。

  途中で大雨にあいました。マムシにも出会いました。

  みんな楽しい思い出となっています。

  おかげさまで、加古川市がより好きになりました。

  ブログの感想等を聞かせていただけましたら幸いでございます。

  *なお、「英文加古川の歴史」を別のブログで始めましたので、お時間のある時にでもアクセスください。

  URLは、http://primitive-man.cocolog-nifty.com/blog/ です。

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志方町探訪:堂前の地蔵(広尾)

2007-12-08 08:39:45 |  ・加古川市志方全般

Shikata_045   この六地蔵(写真)は、志方町広尾のバス停のそばのお堂の前にある。

  ふつう六地蔵は、墓地の入り口に並んでいるが、ここは墓地でない。

  もちろん、もともとは墓地にあったものが移した可能性はある。

  六地蔵は、石棺の蓋に三体ずつ上下二段に分けて、舟形光背の中に浮き彫りされている。

  室町時代の作と推定され古いものである。

  不思議なことがある。よく見てほしい。

  六地蔵の左下にもう一体の小さな像がある。

  この一体は、何を意味しているのだろうか。

  供養される人物の像とも推測できるが、そばの説明板(加古川市教育委員会)は、願主の像としている。

  なお、写真右横に小さな、享保二年(1717)の銘のある「念仏講」と刻んだ石柱がある。

  この「念仏講」と彫られた石柱が作られた頃、きっと地蔵をお守りする念仏講がさかんだったのだろう。

  風のざわめきの中に念仏講の響きが聞こえてきそうだった・・・

*「連載・郷土の石彫⑨」(神戸新聞・昭和56年2月19日)参照

  「シリーズ・加古川市の歴史探訪」は、きょうで498号でになりました。明日で一度終了します。

  近いうちに新しい企画を考えようと思っていますが、その間しばらく「英文加古川の歴史」を連載します。(現在連載中)

 お時間のある時にでもアクセスください。

 URLは、http://primitive-man.cocolog-nifty.com/blog/ です。

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志方町探訪:志方村の人口(明治24年)

2007-12-07 10:50:22 |  ・加古川市志方全般

070   きょうも陸軍参謀本部の調査による『徴発物件一覧』(明治24年)からの志方村の人口です。

  11月4日の「志方町から志方村へ」を復習しておきたい。

  かつて、志方地域は商業・政治の中心地であり、村ではなく町(まち)と呼ばれていた。

  明治22年4月1日、三志方が合併して志方村が誕生したが、志方町は、志方村志方町という妙な形で今日に残っている。

 ◇志方村(明治24年)◇

   志方村  548戸     2.627人(男、1.370  女、1.257人)

    上富木   61戸     268人(男、139人  女、129人)

    志方町    283戸    1411人(男、722人  女、689人)

    投松     78戸    357人(男、187人  女、170人)

    西飯坂     65戸   274人(男、143人  女、131人)

    西中     61戸   317人(男、179人  女、138人)

 *写真は観音寺

  「シリーズ加古川市の歴史探訪」は500号で一度終了させたいと考えています。きょうは497号です。

  また、新しい企画を始めようと考えていますが、その間しばらく『英文加古川の歴史』を連載します。きょうはそのno6です。お時間のある時にでもアクセスください。

  ブログのURLは、http://primitive-man.cocolog-nifty.com/blog/です。

  ブログで「英文加古川市の歴史」の方が簡単にアクセスできます。

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志方町探訪:東志方村の人口(明治24年)

2007-12-06 11:21:18 |  ・加古川市志方全般

9cd5b5b3   きのうに引き続き、陸軍参謀本部の調査による『徴発物件一覧』(明治24年)から、東志方村の人口の状況です。

  ちなみに、東志方村の人口・3941人は、加古川町の人口・3089人より多く、東志方村は当時、現在の加古川市域で最も人口の多い地域だった。

  これは、農業を中心とした産業構造のようすをよくあらわしている。

  

◇東志方村の人口◇

   東志方村 780戸 3941人(男、1966人  女、1965人)

    大沢     111戸  549人(男、267人 女、282人)

    大宗      42戸  194人(男、106人 女、  88人)

    岡       35戸   201人(男、101人 女、100人)

    細工所    93戸   495人(男、198人 女、207人)

    雑郷新      9戸    36人(男、 18人 女、 18人)

    高畑     83戸    388人(男、197人 女、 191人)

    野尻新田  42戸    208人(男、102人 女、106人)

    畑       83戸   401人(男、212人 女、189人)

    東飯坂    48戸   272人(男、131人 女、141人)

    東中      44戸   174人(男、 97人 女、 95人)

    広尾     150戸   885人(男、456人 女、429人)

    行常      40戸   218人(男、 99人  )女、119人

*『シリーズ加古川歴史探訪』は、きょうでno.496になりました。不十分ですが500号で、一度、終わりにしようと思っています。

 また、新しい企画を始めようと思いますが。その間しばらくの間、『英文加古川市の歴史』を連載します。お時間のある時にでもアクセスをお願いします。

  ブログのURLは、http:// primitive-man.cocolog-nifty.com/blog/です。ブログで「英文加古川市の歴史」の方が簡単にアクセスできます。

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志方町探訪:西志方村の人口(明治24年)

2007-12-05 10:38:53 |  ・加古川市志方全般

78ed1aec    きのうのブログで、『取調物産書』から明治8年の横大路村の生産状況を見ました。

  きょうは、陸軍参謀本部による『徴発物件一覧表』(明治24年)から当時の志方町の人口を見てみたい。

  これらの数字から当時の志方町のようすを想像ください。

  3回(西志方村・志方村・東志方村)に分けて掲載します。

  ◇西志方村の人口◇

   西志方村  574戸  2769人(男、1436人  女、1333人)

   下原村(現:原)   120戸  563人(男、286人  女、275人)

   永室村        111戸  546人(男、288人  女、258人)

   成井村         49戸  238人(男、129人  女、109人)

   西牧村        100戸  518人(男、268人  女、250人)

   西山新村(現:西山)  25戸  122人(男、 61人  女、 61人)

     山中新村(現:山中)  31戸  158人(男、   83人    女、 75人)

     横大路村         138戸  624人(男、 319人  女、305人)

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志方町探訪:明治初期の横大路村

2007-12-04 20:52:11 |  ・加古川市志方全般

Eccb34e8     加古川市域の近代の歴史を見ていく場合、まず町や村の経済構造をつかんでおく必要がある。

  『加古川市史(第六巻上)、』は、横大路村(志方町横大路)に残る「横大路村物産取調書」(明治8年)を取り上げている。

   この取調書から当時の、横大路村のようすを見ておきたい。

  ◇横大路村◇

    米:835石          うるち米:19石5斗

    麦:148石          小麦:10石5斗

    大豆:9石6斗        小豆:1石9斗

    菜種:20石3斗       木綿:3200反

    綿:900貫          蘿蔔(大根):160貫

    干瓢:145貫       豆腐:650丁

    土火鉢:680本     清酒:310石

    醤油:36石       鮫(肝)油:8石

  以上の数字から、明治初期の横大路村のようすを想像して欲しい。

*『加古川市史(第6巻上)』参照

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志方町探訪:絵馬・奉天会戦

2007-12-03 07:36:40 |  ・加古川市志方全般

Shikata_033    奉天会戦(明治38年・1905)は、日露戦争最後の会戦であった。

  奉天は、現在のショエンヤン(瀋陽)である。

  ロシア陸軍は、40万にものぼる軍隊を奉天近くに結集し、世界に誇るバルチック艦隊も無傷で、ロシア側は徹底抗戦のかまえを崩していなかった。

  ロシア軍と日本軍は、満州を舞台に60万の将兵が18日間にもわたり激闘を繰り広げた。

  状況は、日本側に圧倒的に不利であった。

     両軍あわせて10万をこえる死傷者を出した。

  しかし、日本軍は奇跡としかいいようのない条件の下で、かろうじて勝利を勝ちとった。

  ロシア軍は退却した。

  日本軍は、さらに追いつめる余力はなかった。

Shikata_025   国内の事情は違っていた。

  国内では、日本軍の「はなばなしい大勝利」が宣伝された。

  国民は、狂喜の坩堝の中にあった。

  志方町の状況も想像できる。

  志方町の八幡社の拝殿(写真下)の左隅に「奉天大会戦」の絵馬(写真上)がかっている。

  投松村(ねじまつむら)青年が日露戦争後の明治42年に奉納している。

  投松(現:志方町投松)の青年たちの「熱気」が伝わってくるようである。

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志方町探訪:幕府領へ(慶安元年)

2007-12-02 08:06:39 |  ・加古川市志方全般

Shikata_040    江戸時代、加古川市域の村々のほとんどは姫路藩領であった。

  ただ、江戸初期において姫路領であった東志方の9ヵ村(大沢・大宗・岡・細工所・高畑・野尻新・行常・吉弘・柏尾の各村)だけは、その後姫路藩領から離れた。

  そして、延宝6年(1678)相模小田原領に、そして延享四年(1748)から121年間にわたり徳川一ツ橋領として明治時代まで続いた。

  小田原領・一ツ橋領については、既に述べた。

  11月9日のブログ「相模小田原藩領」・10日のブログ「一ツ橋領」をご覧ください。

  ここでは、それ以前の幕府領時代についてみておきたい。

  正保元年(1644)、姫路藩主・松平忠明が亡くなり、嫡子・忠弘が跡を継いだ。

  残された領地18万石のうち15万石が忠弘に譲られ、一万石が弟の清道に分けられ、残る2万石は没収された。

  この時、清道に与えられたのが東志方の9ヵ村であり、姫路藩の支配を離れた。

  ところが、清道はわずか7ヶ月で亡くなり嗣子がなかったため取り潰しになり、幕府直轄領となった。

  つまり、東志方9ヵ村は、幕府領となったのである。

  その後の経過は、繰り返しになるが相模小田原領・徳川一ツ橋領と続く。

*写真:細工所の浄土宗、中道山安楽寺

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志方町探訪:大池(志方町)の水争い

2007-12-01 09:05:07 |  ・加古川市志方全般

Shikata_031    志方町には130あまりの池がある。

  それぞれ歴史的な背景は異なるが、多くの池は旱魃や洪水の時になんらかの争いを経験している。

  大池(志方町原)の水争いをみたい。

  大池は、姫路へぬける「湯山街道」沿いにあり、東から行くと山中の入り口にある大きな池である。

  明治10年11月、「大池」の水をめぐって、大池から水を得ている成井村・西牧村・横大路村・原村・永室村が山中新村(志方町山中)を姫路支庁管内飾磨裁判所に訴えた。

  大池の水は、上流(大池の1kmほど姫路より)の中山新村の小さな焼山池に流れ込み、そこから大池に流れていた。

  天明三年(1783)には、双方が証文を取り交わし和解していた。

  弘化年間(1844~48)にいたり、改めて証文を取り交わしている。

  その中に「大池が満水の上は、焼山池へ水譲りもうすべし・・・」という文章があり、これをめぐって争い裁判に持ち込まれた。

  結果は「山中新村の焼山池は、下流の大池が満水でない時は、水を取り入れることはできない」ということになった。

  以上のように、明治時代の裁判でも農業用水は、江戸時代から続く水利慣行が守られている。

  他の志方町の水争いについては『加古川市史(第二巻)』(p492~495)をご覧ください。

 *大池(写真)の西の土手に小さな水神さんがあり、真っ赤な紅葉がみごとでした。

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