ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(192) 官兵衛が駆ける(8)、神吉評定(2)・神吉城は、信長方に

2018-05-31 08:42:22 | お爺さんが語る郷土の歴史

      神吉評定(2) 神吉城は、信長方に

    <城主の弟・頼之>

 私は<天下布武>を掲げる信長公の政治に時の勢いがあるとみます。

 気性の烈しい神吉頼之は、「信長公にお味方すべし」と、即座にこたえました。

    <定行:叔父>

 つらつら天下の晴勢を見るに、播州は、あまりにも小さく、比べて天下はあまりにも広く人材は多い。

 先に申した通り、信長公の仕置きには新しいものがみえる。

 これまで同様、神吉は信長公の陣営に加わる構えは崩さぬが上策である。

 定行の信長方に留まるべしの見解で、次の発言が途切れました。

 頼定は、長時間の論議を重ねた評定に結論を下しました。

 「神吉は、従来どおり信長公に味方したい」と、頼定は、毛利、織田からの干渉に惑わされることなく決断しました。

 神吉城が二派に分かれて争う事態だけは、何としても避けたかったのです。

  天正5年(1577)、毛利と織田が敵対したことで、藩州は、地政学的に畿内と中国の間にあって、否応なしに不利な状況に追い込まれようとしていました。

 この天正6年の早春、播州を取り巻く情勢は、あまりにも地殻変動が激しく、政情が不透明なだけに、その重圧が嵐のごとく播州諸領主にのしかかりました。

 加古川、野口、志方各城の城主も、それぞれ悩み、思惑をもちました。(no3473)

 *『信長の蛩(あしおと)・神吉修身著』(かんき出版)参照 

 ◇きのう(5/30)の散歩(11.018歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(191) 官兵衛が駆ける(7)・神吉評定(1)

2018-05-30 07:38:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    神吉評定(1)

   話の舞台はいよいよ加古川です。

 神吉城(かんきじょう)については、後で詳しくふれます。

 ここでは、城主は神吉頼定(よりさだ)であることだけを確認して話を進めます。

 神吉城の一室です。部屋には、はりつめた空氣が支配していました。

 神吉城主・頼定が席に着きました。

 ざわめきが収まるのを待って、頼定は言葉を継ぎました。

   <城主・神吉頼定>

 「すでに我らは、織田信長公に味方すると決している。しかし、情勢は、日々刻々、変転極まりない。この播州を境にして、東国の織田、西国の毛利が覇を競い、両者の合戦は、すでに避けがたい。

 さらには、別所氏の動きも考えねばならない。

 謙信は、石山本願寺を味方をし、上洛するという。あらためて評定をしたい」と部下に問いかけました。

 意見は、三木城の場合と同じく、二つに分裂しました。

  <(神吉)定行:頼定の叔父>

 別所が、毛利に寝返るなどは戯言(ざれごと)にすぎぬ、信長に味方すべきである。

  <(神吉)貞光:頼定の叔父>

 三木では賀相、重棟の両者には確執があり、意見の相違があると聞き及んでいるが慎重に物事を決めたい。

  <侍大将>

 越後の謙信が動くとなると事は重大でござる。

 その勢いは織田、毛利の比にあらず、戦うこと70戦。未だ負けを知らずという精強さは、織田軍をはるかに凌ぐと思われます。

 それに一旦は、織田方に味方した畿内の諸将も謙信上洛の報を得て、信長公に背を向けるやも知れませぬ。再び、畿内は 争乱状態となりましょう」

 侍大将は、謙信上洛がもたらす影響を述べました。(no3472)

 *挿絵:神吉城(木内内則作)

 ◇きのう(5/29)の散歩(11.721歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(190) 官兵衛が駆ける(6)・三木評定

2018-05-29 08:02:48 | お爺さんが語る郷土の歴史

          三 木 評 定

 前号の補足です。「上杉謙信、上洛」の情報を受けて、三木城では評定がおこなわれました。

 東播磨の城主たちが、信長・秀吉に味方することを決めるはずの「加古川評定」に参加する態度を決める会議でした。 *「加古川評定」については、後に説明します。

   <賀相:毛利支持派>

 天正5年10月、筑前守(秀吉)は、播州に入国して、毛利と全面対決を決意したとして、我らに味方するようもとめた。

 筑前守は、「われらの領土を安堵するとともに、別所に毛利攻めの先鋒役を与え、さらには戦功によって厚く報いる」とも伝えてきた。

 赤松の流れをくむ武門の名家・別所家に対し余りにも奢った態度で無礼である。

   <三宅(三番家老):毛利支持派>

 拙者(三宅)は、この度の毛利攻めには、我らが先鋒とは言うものの、実は弾よけにされるであろう。

 そもそも、別所家は・元就公の時より、親しく誼(よしみ)を通じた間柄である。

 何処よりも毛利が信頼できる。

   <重棟:信長支持派>

 信長公の時勢を読む素早い動きは、稀有の武将である。

 今川義元も桶狭間で打ち取られた。

 日本各地に覇をなす武将は多いが、いずれもおのれ一国の防備に腐心するばかりである。

 昨年二月(天正5年)、我らは、信長公との約定に応え、神吉、淡河、志方とともに紀州雑賀攻めに参陣した。

 近年、信長公と播州は強い絆で結ばれている。

 先祖伝来の領土を守り、別所家を安堵するには信長公に味方する以外、別所の将来はない。  

    三木評定はおわったが・・・

 論議は、賀相と重棟とがぶつかり、感情をあらわにしての評定となりました。

 上杉謙信の勢力が加わるのですから、賀相の判断も間違いとはいえません。

 むしろ、毛利方につくことの選択が正しいとさえ思える情勢でした。

 この評定のあと、加古川評定には、三木城は「毛利支持」で臨むことを決めたようです。 (no3471)

 ◇きのう(5/28)の散歩(12.229歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(189) 官兵衛が駆ける(5)・分かれる意見、しかし

2018-05-28 06:14:16 | お爺さんが語る郷土の歴史

     分かれる意見、しかし

 「上杉謙信うごく」のニュースは、東播磨の城主・武士にとって大あらしを引き起こしました。

 とにかく、信長に味方する東播磨の諸勢力にとっては、考えたくないニュースでした。

 当然、このニュースは、東播磨を席巻しました。

    三木別所氏は、毛利方へ

 話の前に、三木・別所氏の内情に触れておきましょう。

 三木城主・別所長治(べっしょながはる)の父の別所安治(やすはる)は、若干39才で病没しました。

 その時、長治はまだ12才でした。

 そのため、三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と賀相の弟・重棟(しげむね)が長治の後見をします。

 しかし、この別所長治の二人の叔父は、ことごとく対立し、三木城にあって、それぞれの派閥をつくっていました。

 城主・別所長治のより近くにいたのは、一番家老の賀相です。

 二番家老の重棟は、早くから織田方に近づきました。

 城主長治は、信長に味方していました。

 が、賀相は、重棟と対立して毛利につくことを主張していました。

 そこえ、上杉謙信上洛のニュースが飛びこんできたのです。

 三木城では、あらためて別所家の安泰のために「信長方に味方するか、毛利に味方をするか」についての評定が行われたのです。

 二人の家老の意見は激突し、まとまる情勢にはありません。

 三木城の勢力図は、第一家老の賀相(よしすけ)が城主を巻き込んで勢力を強めていきました。 (no3470)

 ◇きのう(5/27)の散歩(10.325歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(188) 官兵衛が駆ける(4)・上杉謙信うごく(1)

2018-05-27 07:02:23 | お爺さんが語る郷土の歴史

        杉謙信うごく

 その後、驚くべきニュースが飛び込んできました。

 天正四年(1576)三月、本願寺の顕如より、上杉謙信に書状が届き、「本願寺は、毛利と共に信長攻めに立ち向かうことになったので、上杉と和睦したい」という要請でした。

 この顕如の呼びかけに謙信が同意しました。

 そして、謙信は、天正六年(1578)、信長のやり方に我慢が出来なくなり、信長討つべしということで兵を発することにしました。

 ここに本願寺・毛利・上杉による信長包囲網が成立しました。

     スワッ!大変

 東播磨の各城主・武将は信長・秀吉に従っているものの、心は揺れ動きます。

 私たちは、歴史の結果を知っていますが、当時の城主・武将たちにはわかりません。

 当時、本願寺と毛利軍が信長軍と敵対しておりなんとか、そのバランスが保たれている状態でした。

 ですから、それに「上杉謙信が、石山本願寺方に味方をするとなると、その力関係は一挙に崩れ、信長方は窮地に陥る」と想像するのは当然のことです。

 信長方に味方している三木・加古川地方の城主・武将たちの信長支持の方針もぐらつきました。

 この上杉謙信が石山本願寺方に味方するとなると、「本願寺・毛利方に鞍替えする方が自分たちの身を守ることができる」と考えるのが、むしろ正しい判断だったかもしれません。

 その動きを、東播磨地方の中心であった三木城と加古川の神吉城に、その内部事情をみておきます。

 若干、小説風になることをお許しください。 (no3469)

*写真:上杉謙信(上杉神社蔵:山形県米沢市)

◇きのう(5/26)の散歩(11.145歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(187) 官兵衛が駆ける(3)・「雑賀川の戦い」再現

2018-05-26 15:38:53 | お爺さんが語る郷土の歴史

        「雑賀川の戦い」再現 

 雑賀川の戦いを再現してみます。

 雑賀川(現在の和歌川)の右岸が雑賀衆、織田軍は左岸に布陣しました。

 突如、川筋に法螺貝が鳴り渡りました。

 信長方の)先頭の騎馬武者(堀秀政)が大声をあげ、水しぶきを撒き散らして川へ突入しました。

 他の馬武者も続きま した。                            

 なんとしたことか、雑賀川に乗り入れた騎馬武者が、雑賀陣地から矢弾もないのに、つんのめり、横倒しになったのです。

 先を競った騎馬武者の横転は、雑賀衆が仕組んだ川底の仕掛けにありました。

 織田軍団の騎馬武者拒んだのは、雑賀衆が川底に仕掛けた「梁掛け・杭出し」や「壷埋け」のためでした。

 仕掛けは、川底に前後左右、半間置きに杭をうち、梁木をかけわたした柵で、また「壷埋け」という、川底に壷や桶を埋めるという、簡単な防御のせいで、これが恐るべき凶器となりました。

 そんなこととは知らず、この壺に踏みこんだ騎馬は、前につんのめり、梁に引っ掛かって横転してしまったのです。

この時とばかりに銃弾は雷のごとく織田群を襲いました。

 信長勢は、雑賀軍の銃弾をうけ、たちまち大混乱となり、川面はどす黒い縞模の血が流れました。

 信長側の記録である『信長公記(しんちょうこうき)』も、信長軍の劣勢を認めているような書き方です。

 この雑賀川の戦いで、神吉城主・神吉頼定は、信長に味方し大活躍をしました。

 そして、雑賀の戦法(とくにゲリラ戦)について学んだようです。

 *雑賀衆については紹介の著書に詳しい。(no3468)

 ◇きのう(5/25)の散歩(10.447歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(186) 官兵衛が駆ける(2)・雑賀川の戦い

2018-05-25 07:03:27 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

            信長、石山本願寺を攻める

 信長は、天下統一の拠点として、石山本願寺の地を要求しました。

 信長は、この要求は簡単に片付くものと考えていたようですが、本願寺は、元亀元年(1570)から天正八年(1580)まで、雑賀軍(さいかぐん)と一向宗の信仰に支えられ、頑強に信長に抵抗し続けました。

 とちゅう、二回の講和・休戦はあったものの、信長は、ほぼ10年間、本願寺との戦いに足を取られたことになります。

 これでは、天下統一のプログラムがくるってしまったのも当然でした。

     雑賀の戦い     

 石山本願寺との戦いは泥沼状態に陥りました。

 そこで、信長は、天正5年(1577)2月、10万人の大軍を率いて、石山本願寺軍の中心勢力の雑賀衆の本拠地・雑賀郷を攻撃することを計画します。

 雑賀郷(さいかごう)の場所については、地図で確認ください。

 (現在の和歌川が雑賀川で、丸印が現在の和歌山市の中心地です)

 信長軍は、10万の勢力で雑賀郷を攻めたといいます。

 雑賀軍は、海辺や紀ノ川河口部の雑賀川(現:和歌川)にしかけた障害物、さらに鉄砲隊と海軍力で信長軍をさんざんに翻弄しました。

 2週間、持ちこたえ、そのまま和睦へと持ち込みました。

 雑賀川の戦いは、「毛利軍来る」の偽情報により、途中で信長は兵を引き、天正5年(1577)3月、雑賀川の戦いは終わりました。

 信長軍が撤退すると、本願寺方は、「仏の加護により信長軍に勝利した」と意気は大いに上がりました。

 この戦いに、東播磨から別所長治(三木城主)、別所重棟(三木城二番家老)、神吉頼定(神吉城主)、櫛橋政伊(志方城主)等が信長軍として参戦しました。

 この雑賀川の戦いは、鉄砲術にすぐれていたとはいえ雑賀軍は少数でした。

 当然、雑賀軍はゲリラ戦にならざるを得ません。(no3467)

  *地図:『戦国鉄砲・傭兵隊(鈴木眞哉著)』(平凡社新書)参照

◇きのう(5/24)の散歩(11.473歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(185) 官兵衛が駆ける(1)・官兵衛から見る播磨の中世 

2018-05-24 06:12:55 | お爺さんが語る郷土の歴史

    官兵衛から見る播磨の中世

 「赤松一族の興亡」の後、郷土の戦国時代を紹介しましょう。

 以前「黒田官兵衛」を108回シリーズで紹介しました。

 あらためて、その記事を纏めたり、内容を訂正したりして、「官兵衛画が駆ける」として再度紹介します。

 2004年放送のNHK大河ドラマが「軍師官兵衛」に決まりました。

 (2003年10月12日)の神戸新聞は、そのニュースを以下のように大きく取り上げました。

 以下は神戸新聞からの転載です。

   町おこしの起爆剤に

      妻や有力家臣が加古川出身

                       盛り上がり期待 

 官兵衛の妻・幸圓は志方城主・櫛橋氏の出身とされる。

 城の跡には現在、観音寺(加古川市志方町志方町)が立つ。

 一夫多妻が一般的だった戦国時代、官兵衛は生涯を通じてただ一人の妻を愛したと言う。「よほど魅力的な女性だったのだろう」。

 ブログで加古川の歴史を紹介する、郷土史家の飯沼博一さん(69:当時)は想像する。

 「官兵衛にとって、加古川が思い入れの強い地であったのは間違いない。

 この地を舞台に多くのドラマがあったはずで、どのように描かれるのかが楽しみ」官兵衛が24人の精鋭を選んだ「黒田二十四騎」は、大半が播磨出身者。

 うち野口左助は加古川市野口町、益田与助は同市東神吉の生まれとされる。

 郷土史家の久保一人さん(61:当時)は「官兵衛を支えた妻、家臣には加古川の人が多かった。

 記録に残りにくい部分も多いだろうが、そうした人たちの事も描いてほしい」と話した。

 石見利勝・姫路市長が会長を務める「NHK大河ドラマ『黒田官兵衛』を誘致する会」には加古川市も参画。

 会合に出席したことのある同市元地域振興部長の稲岡安則さん(62)は、大河ドラマの持つ力は大きい。

 加古川のまちおこしにもつながるのでは」と期待を寄せた。(武藤邦生・井上駿)(no3466)

 *写真:神戸新聞(2003年10月12日発行)

 ◇きのうの散歩(11.186歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(184) 阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

2018-05-23 07:48:58 | お爺さんが語る郷土の歴史

        阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)

 人が死ねばどうなるのでしょう。

 日本仏教説話では、初七日(しょなぬか)からはじまって33回忌までさまざまな冥界(めいかい)の王や仏に出会うといいます。

  かつて、死ねば閥魔王(えんまおう)の裁きを受けると信じました。

 あの世があるならば「地獄」より「極楽」を願うのが、みんなの願いです。

  阿弥陀信仰・西方浄土(さいほうじょうど)への願いは「あの世」にいくとき、来世を信じ、極楽に往生したいとの願いから生まれました。

     女性の往生を描く(日本初)

  東神吉町にある常楽寺で嫌倉時代末期から南北朝時代にかけてと推定される「女人往生図(にょにんおうじょうず)」が発見されました。

 右手下の建物に、いままさに死なんとする女人が手をあわせています。

 左上に阿弥陀仏、下に魂を入れる入れもの(うてな)を持った観音菩薩と勢至(せいしぼさつ)が迎えにきているところです。

 発見された当時、朝日新聞一面トップにカラーで掲載されました。

 女人往生図の発見は、日本で初めてのことでした。

 女人は、男子より穢れており、いったん男子に変じて極楽への往生が可能とされていたからです。

 常楽寺の「女人往生図」は、日本の思想史においても一大発見となりました。

上記の「女人来迎図」の説明は、伊賀なほゑ氏の『KAKOGAWA(かこがわとその周辺の歴史)』から、一部を書き直してお借りしました。(no3465)

 *図:阿弥陀三尊来迎図(兵庫県指定文化財・東神吉町常楽寺蔵)

 ◇きのう(5/22)の散歩(11.718歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(183) 余話として(2)、満祐山・円福寺

2018-05-22 05:53:37 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

           満祐山・円福寺

 きょうは、中道子山城の余話、その2です。

 志方町高畑に円福寺があります。

 そして、円福寺の山号は「満祐山(まんゆうさん)」といいます。

 ピンと来ましたか。

 「満祐」は歴史上「みつすけ」として登場する人物です。満祐の姓は赤松、つまり赤松満祐その人です。

 もうひとつ、満祐(まんゆう)が赤松満祐(みつすけ)である証拠があります。

 満祐の法号(戒名)は、「慈徳院殿性具円福大居士」といいます。

 なんと、高畑の「円福寺」は、満祐の法号(戒名)から付けられています。

 日本史上、満祐はあまりにも名高く「ウッソー!」と、つい叫んでしまいたくなります。

 赤松氏の話を付け加えます。

 赤松氏は、足利尊氏に忠誠を誓い、南北朝時代・北朝方として大きな役割を果たしました。

 建武三年(1336)、赤松氏の初代・円心(えんしん)は、播磨の守護につきます。

 室町時代の守護所は、円心から四代・満祐まで姫路書写の坂本城におかれ、播磨だけでなく備前国・美作(みまさか)にも大きな支配力を持っていました。

 そんな赤松の領地に自分たちの影響のある寺を建設するのは自然なことです。

    円福寺の創建は応永四年(1397)か?

 「志方郷(第48号)」の富永真光氏の研究をお借りします。

 ・・・当時、大豪族の習慣として後継者が元服すると同時に寺(寺領)をあてがうのが通例であったことから、円福寺創建は1397年(満祐15才・元服)当時であり、「円福寺護持ノ為寺領ハ高畑の田畑也」と寺伝に見えるのは事実であろう。・・・

  ・・・・・

 とすると、寺院創建のため、高畑の土地が満祐の名義として与えられ、満祐の戒名を「寺号」にしたのではないかと想像します。

 仏教では、戒名は生前に受戒式に出て、戒名を授かっておくのが本来のあり方としていますから、満祐が生前に戒名を授かっていても不思議ではありません。

 想像するしかないのですが、高畑は満祐にとって特別な地であったようです。

 山号・寺名は、満祐から土地と財をあてがわれ、高畑に寺を建造したことに対する高畑村の人々の感謝の気持ちからであったのかもしれません。

 印南郡と赤松の関係(歴史)は、学問的に明らかされているとは言えません。

 円福寺・高畑村を突破口にして赤松一族と志方町の関係を明らかにできないものでしょうか。(no3464)

 *『志方郷(第48号)』富永真光論文参照

 *写真:円福寺の扁額

 ◇きのう(5/21)の散歩(11.106歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(182) 余話として・中道子山城跡に無線塔建設

2018-05-21 06:59:38 | お爺さんが語る郷土の歴史

 このシリーズ(赤松一族の興亡)を、はっきりしないままに一端このあたりで終えます。その前に2つばかり余話をしておきます。

 きょうは、その1です。 

 去年の2月18日の「ひろかずのブログ」の一部を再度紹介します。残念なニュースでした。  

 (2月5日)の神戸新聞東播版の記事は「山城跡の無線塔建設、研究者反対、加古川市は適切」と大きく報じました。

 以下の記事はその一部です。

     中道子山城跡に無線塔建設

 兵庫県の加古川市が中道子(ちゅうどうし)山城跡(同市志方町広尾)のある城山山頂近くに建設中の無線塔について、研究者らでつくる日本考古学協会は「東播磨を代表する城跡の価値が損なわれる」として建設に反対している。これに対し、同市は「発掘調査し、協議を重ねて場所を選んだ」としている。

 同山城跡について、兵庫大学の金子哲教授(55)=日本中世史=は「国指定史跡になり得るほど、歴史的に重要な価値を持つ遺産」と指摘。中世後期から戦国時代に築城された同山城は土塁の基底部に石垣が設けられており「城郭に石垣が用いられる初期の事例として、学術的価値も高い」とする。・・・・

 また、播磨地域に勢力を持っていた赤松氏が、東播磨を見渡せる「遠見の城」として築城した説もあるという。市によると、無線塔の高さは26・8メートルの予定。同協会は1月中旬に職員が現地を視察した上で、「塔により城跡から北・西部分への眺望は遮られ、城の存在の根幹をなす意義が大きく失われる」と反発。建設撤回や保存を求める要望書を2日付で文化庁と兵庫県、同市にそれぞれ郵送した。

  研究者(団体)らが、文化庁と兵庫県、同市にそれぞれ郵送しているにもかかわらず、工事は進められようとしています。

 加古川市からの回答は、「日本考古学会協会からの要望書は確認しておりますが工事に際しては事前の文化財調査もおこない、・・・工事の中断させることは考えておらず、現時点での工事を中断させる等の対応は考えておらず、現時点で報道機関報道機関を通じての広報も予定しておりません・・・」とは、「あなた方(市民)の声を聞く耳は持ちませんよ・・・」と突き放したような冷たい声に聞こえます。・・・(神戸新聞より)

 以後、加古川市は問答無用で計画をすすめました。

 建設反対の声は、聞き入れられず中道氏山山頂の城跡の真ん中に無線塔は建設されてしまいました。

 確かに中道子山城の詳細(歴史)は、はっきりしませんが、中世の貴重な歴史遺産です。

 金子先生が指摘するように「国指定史跡になり得るほど、歴史的に重要な価値を持つ遺産」です。

 文化都市を標榜する加古川市の態度は愚行でした。(no3463)

 ◇きのう(5/20)の散歩(11.976歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(181) 赤松一族の盛衰(11)・中道子山城の築城者、築城の時代は謎

2018-05-20 05:54:46 | お爺さんが語る郷土の歴史

   中道子山城の築城者、築城の時代は謎

 再度、『志方町史』を読んでみます。

 「・・・日本城郭全集には、嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍義教を殺して播磨に逃げ帰った時、集まった武士のなかに『中道子山城主・志方弾正ェ門顕茂』のみえることから、この頃すでにこの城ができていたことは確かであるが、規模を広くし、地形を整えたのは応仁の乱後に入城した孝橋新五郎であろう」としています。

 

 また、『中道子山城発掘調査報告書』は、「永正・大永(1504~28)に築城され、その後享録年間の焼失後、すぐに再築城されたのが確実になった」と書いています。

 

 『加古川市史(第一巻)』では、中世史を専門とする学者は「・・・中道山城の方は不確実で、赤松氏則(円心の四男)あるいは孝橋新五郎(繁広)が城主だったとするが、いずれも伝承にすぎない・・・」とバッサリ切り捨てています。

 ただ、はっきりしていることは、当時の情勢から判断して確実なことは、赤松一族につながる城であることだけです。

 最近、赤松一族の歴史の見直しが行われています。

 そして、円心から満祐までの「前期赤松氏」の赤松一族の歴史はともかく、政則から則房の時代の「後期赤松氏」についての従来の説は大きく書きかえられそうです。

 しかし、現在までのところ、中道子山城の築城者、その築城の時代についての確実なことは分からないのが真相です。

 これ以上書くとなると、裏付けのない独断になり、お叱りを受けそうです。

 今のところ「謎」としておきます。

 研究は進んでいます。中道子山城の詳細については、今後の研究を待つことにします。(no3462)

 ◇きのう(5/19)の散歩(10.428歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(180) 赤松一族の興亡(10)・大河内満直改め孝橋新五郎説

2018-05-19 08:34:31 | お爺さんが語る郷土の歴史

 中道子山城の築城者は、いろいろな説はありますが謎のままです。

 きょうの説はど素人の私の妄想としてお読みください。

 「火のないところに煙は立たない」といいます。地元に伝わる、孝橋新五郎(たかはししんごろう)説を考えてみました。

    大河内満直改め孝橋新五郎説

 赤松の本流(本家)は、円心・則祐・義則・満祐と続き、満祐のおこした嘉吉の乱でいったん消滅しました。

 この時、誰もが赤松の再興を考えられませんでした。

 しかし、赤松一族の再興に立ち上った赤松一族がいました。

 赤松一族の支流、大河内家です。

 大河内家は、天神山城を拠点としたため「天神山系」と呼ばれています。

 大河内家は、初代・満則が神崎軍の大河内庄をもらって姓を大河内と変えました。大河内家の初代は、円心の三男・則祐の三男です。

 ですから、赤松本流と非常に近い家柄です。

 その大河内家は、嘉吉の乱の後でした。

 あろうことか、満祐と近い家柄にかかわらず、幕府軍とともに満祐討伐軍に加わったのです。

 理由は、このまますべての赤松一族が敗れてしまう。完全な赤松一族の消滅となる。

 「一部でも赤松一族が残っておれば、赤松再興の可能性はある」と考えた末の苦しい行動だったようです。

 事実、その後の大河内家は、赤松家の再興を秘めた行動でした。

 大河内家は、初代満則、二代目友則、三代目満則、四代目満直と続きます。

 大河内家は衰微します。四代目満直の時(享徳3年:1454)に、志方へ移っています。

 天神山の三代城主・大河内満政は、幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わったことが認められて、明石・加古・印南の播磨東三郡(別の場所の説もある)を与えられていまから、志方へ移ったのは息子の満直ですが、東播磨に経済的基盤があったのでしょう。

 志方へ移り住んで、名前を考橋新五郎と変えたらしいのです。

 中道子山城を築いた一つの説は(赤松)満直だと考えます。

 播磨三郡を抑える拠点として、城山を築いたのでしょう。

 いかがですか・・・(no3461)

 ◇きのうの散歩(11.346歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(179) 赤松一族の興亡(9)・後期の赤松一族

2018-05-18 08:23:51 | お爺さんが語る郷土の歴史

 城山(中道子山城)の歴史はいろいろな説があります。

 しかし。嘉吉の乱の後の赤松一族の歴史を見ていると、赤松一族は本格的な中道子山城を築城する余力があったとは考えられないのです。

 今日は嘉吉の乱以後の赤松の歴史を簡単にたどっておきます。

   後期赤松一族 

    *赤松円心~満祐までを前期赤松一族と呼んでいます

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。

 それを確かめて、満祐は自害しました。

 この時、赤松氏が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。

    赤松政則の誕生、そして赤松家復活

 しかし、偶然にもその年、満祐につながる子供(次郎法師丸)がかくまわれていたのです。

 彼は、後の赤松政則です。

 家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

 南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

 この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は奇跡的な復活を遂げます。

      そして、赤松家没落

 赤松は、置塩城を拠点に政則を柱として、勢い回復しました。

 しかし、山名が赤松に襲いかかりました。(「置塩」の場所を図で確認しておいてください)

 真弓峠の戦い(1477)では惨敗で、播磨は山名に占領されてしまいました。

 その後の播磨は、しばらく血なまぐさい戦場と化しました。

 その後、長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づき、再婚相手として細川家の洞松院(どうしょういん)を迎えました。

 そして、政則の娘・松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)四月二十五日でした。

 政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 こうなると、お決まりの一族内での下剋上が始まりました。

 紙面の関係上、年表を追うことにします。

       赤松家、没落の年譜 

 ・明応八年(1499)   赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正四年(1507)   義村と洞松院(妻の松は洞松院と共謀)の対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永二年(1522)   義村は室津の寺に幽閉され殺害される。

       則房の代で赤松惣領家消滅

 復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。

 そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。

 赤松惣領家は播磨を離れます。阿波に移って13年目の慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。

 歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。

 この後、赤松総領家は廃絶同然となりました。

 これが、「赤松一族の盛衰記」です。(no3460)

 *写真:「置塩城への登り口」

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お爺さんが語る郷土の歴史(178) 赤松一族の興亡(8)・中道子山城復元図

2018-05-17 07:46:05 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   中道子山城復元図

 きょうの「ひろかずのブログ」に説明はありません。

 木内内則氏が描かれた中道子山城の復元図(1994年作製)をご覧ください。  

 本格的な中世の山城です。(no3459)

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