ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

余話  10月の散歩、ほぼ目標達成

2017-10-31 18:34:23 |  ・コーヒーブレイク・余話

          10月の散歩(目標、11.000歩)

 10月の目標は11.000歩に設定しましたが、11月の目標は10.000に減らします。

 というのは、朝、自宅周辺を2~3000歩の散歩をします。そして、夕方、平荘湖周辺等を一周します。

 汗もかきます。「運動をした」という気分になります。

 そうすると、万歩計はだいたい10.000歩になっています。

 目標達成のためには、さらに1.000歩を歩くことが必要です。

 気分的にチョット負担。

 そのため、11月の目標を10.000歩とします。その分、週に何回か階段を上ったり、速足で歩く時間を少し加えたりしようと考えています。

     台風の日以外は、目標達成

  1日(日)  11.266歩     自宅周辺・ウェルネス周辺

  2日(月)  11.268〃     自宅周辺・新幹線下側道  

  3日(火)  12.241〃       自宅周辺・自宅~プラザホテル往復

  4日(水)  14.770〃   自宅~播州大橋~対岸(往復)

  5日(木)  12.931〃   自宅~紀伊国屋書店往復

  6日(金)  11.402〃   自宅周辺・新幹線下側道 

  7日(土)  12.252〃   自宅周辺・平荘湖一周

  8日(日)  13.362〃   自宅周辺・権現ダム(~野尻往 復)

  9日(月)  11.422〃   自宅周辺・天満大池一周

 10日(火)  12.250〃       自宅周辺・自宅~紀伊国屋書店往復

 11日(水)  11.411〃   自宅周辺・日岡山散策

 12日(木)  11.194〃       自宅周辺・宝殿山・伊保山周辺

 13日(金)  11.942〃   自宅周辺・平荘湖一周 

 14日(土)  13.225〃   新幹線下側道・自宅~今福八幡宮

 15日(日)  11.605〃   新幹線下側道・自宅~今福八幡宮

 16日(月)  11.527〃   新幹線下側道~播州大橋~自宅

 17日(火)      11.729〃   南粟津I氏宅~自宅~ピット

 18日(水)  12.364〃   自宅~尾上公民館・自宅周辺

 19日(木)  11.467〃   自宅周辺・自宅~ジョウシンデンキ

 20日(金)  11.958〃   自宅周辺・平荘湖一周

 21日(土)   2.439〃      (家の中)台風接近による雨のため

 22日(日)   1.299〃   (家の中)台風接近による雨のため

 23日(月)  11.505〃   自宅周辺・平荘湖一周

 24日(火)  12.934〃   日岡山(周辺~山頂~展望台)

 25日(水)  11.809〃     自宅周辺・自宅~紀伊国屋書店

 26日(木)  11.349〃   自宅周辺・平荘湖半周

 27日(金)  11.448〃     自宅周辺・天満大池一周

 28日(土)   6.548〃   氷丘公民館周辺・雨のため

 29日(日)  11.884〃       自宅周辺・平荘湖一周

 30日(月)  11.875〃       自宅周辺・ピット(喫茶店)往復

 31日(火)  12.080〃   自宅周辺・権現ダム周辺(no3767

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オマーン国王夫人物語(3) 鎖国時代から近代化へ

2017-10-31 07:22:43 | 江戸時代、高砂の商業活動

 前国王サイードの話から始めます。

 このシリーズ「オマーン国王夫人物語」の国王(アルサイド)とは、サイード王の父さんです。今日もまだ登場しません。お待ちください。

 *なお、前号の墓碑には国号を「オーマン」と刻まれていますが、現在はオマーンに変更されています。このシリーズでも国号をオマーンとして話を進めます。

    鎖国時代から近代化へ

 サイード国王は、外国で教育を受けた知識人でした。

 が、国民に「金を与えず、教育をあたえず、外の世界をみせない」ことが権力を保つただひとつの方法だと信じていました。

 そして、自分に批判的な息子のカーブース皇太子まで軟禁状態にしてしまったのです。

 このような、国民を貧困と、閉鎖状態のままにする生活に対して、オマーン国民は次第に不満をつのらせ、1963年、南部のドファール地方(地図をご覧ください)に烈しい反乱が爆発しました。

 1970年7月、サイード王の一人息子のカーブース皇太子はクーデターをおこし、父から王位を奪取しました。

 こうして、オマーンの暗黒政治の時代は終止符を打つことになりました。

 しかし、長い暗黒政治が終わったとき、明らかになった現実は、オマーンは近代化を推し進める近隣の諸国から、はるかに置き去られていたことでした。

 行政機構、資本もなく、学校も、病院も、そしてまともな道路もない状態でした。

 ただあるものは、王制を倒そうとするドファール地方のゲリラ活動とそれに伴う国内の不安だけでした。

 若いカーブースは、国民の支持を得ながらも失われた時代を取り戻すべく、今全力を挙げて近代化をという課題に取り組んでおられます。

 王位を奪われた父・サイードは、その後ロンドンに亡命しましたが、2年後の1971年に病気で亡くなりました。(no3766)

 *地図:ドファール地方

 ◇きのう(10/30)の散歩(11.875歩)

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オマーン国王夫人物語(2) オマーンの歩み

2017-10-30 07:59:51 | 江戸時代、高砂の商業活動

  

        『オマーン国王夫人物語』をはじめます

 オマーン国夫人(清子)は、稲美町出身の方です。

 墓碑も稲美町(県立東播磨高校正門前の墓地)にあります。

 でも、オマーン国王(タイム―ル)、夫人(清子)とその娘ブサイナ妃については、はっきりとしたことはあまり語られていません。

 そのため、簡単ですがオマーン国王夫人について紹介します。

 でも、詳しいことは知りません。

 知らないものが書くのですから間違った記事になっては大変です。

 先に、種明かしをしておきます。

 幸い、オマーン国王と夫人の説明は、『アラビの王様と王妃たちと(下村満子著)』(朝日新聞)と『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)、にすこし紹介されています。それに神戸新聞の記事等を参考にさせていただき紹介します。

 では、始めましょう。

     オマーンの歩み

 オマーンという国を地図で確認ください。

 オマーンは、アラビア半島の南東端にあり、オマーン湾・アラビア湾にのそんでいます。

 西はイエメンに、北西はサウジアラビアとアブダビ首長国連邦に接している国です。

 かつて、オマーンは古代文明の交易ルートであったため、アラビア人の進出が著しく、紀元前2世紀ごろ貿易の拠点として、大いにさかえていたようです。

 その後は、ヨーロッパと極東を結ぶ貿易ルートとしても繁栄しました。

 が、交易路の要所に位置にあったため、ヨーロッパ諸国の目のつけるところとなり、16世紀にポルトガルがいち早く現在の首都マスカットを占拠し、その後150間この王国を支配することになりました。

 1649年、オマーン国民は団結してポルトガル軍に立ち向かい、国外に追い出すことに成功しました。

 オマーン軍は、ポルトガルの植民地を占拠し、オマーンはアラビア湾岸の強力な王国として勢力をふるうことになりました。

 しかし、その後東インド会社を所有するイギリスの圧力に屈し、18世紀末イギリスの保護国になってしまいます。

 オマーンは、急速な衰退に向かいました。

      石油の発見

 しかし、オマーンの歴史は激変しました。

 1964年のことです。オマーンで石油が発見されたのです。

 67年、石油の輸出が始まりました。途方もない収入が入るようになりました。

 当時の王様のサイードは、その収入を国王(家)のため使い、国民には分配せず、国民には貧困を強制し、娯楽まで禁止する政策をとりました。

 学校にいたっては80万の人口に対し、わずかに3つの学校(それも小学校のみ)だけで、病院もアメリカ系とイギリス系のものがひとつずつあるだけの状態でした。(no3765

 *写真:オマーン国王夫人の墓碑

 ◇きのう(10/29)の散歩(11.884歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(24) 弥生時代(9)、今福弥生遺跡

2017-10-29 07:37:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

       弥生時代(9) 近所に弥生遺跡があった

 今福弥生遺跡は、加古川市でも広く知られた弥生遺跡ではありません。

 今日の今福弥生遺跡の選択には、少し贔屓があります。

 というのは、私は今福に住んでいます。遺跡がみつかった場所は、私の家のすぐ近くです。

 それに、この遺跡の発掘に参加されたSさんとはよく話をします。

 今福遺跡は、とっても身近な遺跡です。

 そんなこともあり、弥生時代の最後に今福遺跡を紹介しておきます。

     今福弥生遺跡

 地図(『祖先のあしあと』神戸新聞より)に今福を見つけてください。

 地図の△が、弥生人の集落があったことが確認されている場所です。

 今福に△印(今福弥生遺跡)が記入されています。

 2000年ほど前の弥生時代の今福ようすを想像してみます。

 弥生時代に先立つ縄文時代、今福はまだ海の底でした。

 弥生時代になり、今福の地はやっと加古川が運ぶ大量の土砂により陸地化が進んで行きました。

 いったん陸地化が進むと、このあたりは川の幸、海の幸さらに稲作もはじまり、生活にはきわめて恵まれた土地であったようです。

 今福で弥生土器が出土したのは昭和住宅・神鋼鋼線のある一帯です。

 残念なことに詳しい調査もされることなく、遺跡は壊されてしまいました。

 当時青年であったSさんをはじめ、地区の青年たちの集めた多くの土器片から弥生時代後期(2~3世紀)の遺物の多いことがわかりました。

 タコツボ型土器が多く出土しました。

 やや小形のものであり、イイダコ捕りにつかわれていました。

 それに、棒状の土錘(土のおもり)等が多いことなどから考えて、今福弥生人は海に生きる比重が大きかったようです

 しかし、普段は住みよい今福の地も、加古川の河口付近に位地しています。しばしば洪水にも悩まされたことでしょう。(no3764)

 *地図:『祖先のあしあと』神戸新聞より

 ◇きのう(10/28)の散歩(6.548歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(23) 弥生時代(8)、銅鐸の出土地は?

2017-10-28 07:08:39 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

 

   望塚(ぼんづか):銅鐸の出土地は?

 2007年11月24日の東沢1号古墳の現地説明会で頂いた資料の最初の部分を読んでみます。

 「兵庫県立考古博物館では、東播磨南北道路の建設に先立ち、この10月から、東沢1号墳の発掘調査を行ってきました。

 東沢1号墳は、(加古川近辺で発見された唯一の銅鐸が発見された)望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たにみつかった古墳です。

 調査の結果、5世紀前半に造られた古墳であることが明らかになりました。

 古墳の斜面には、葺石(ふきいし)が比較的良好に残存するとともに、古墳の周りを囲む周溝内からはたくさんの埴輪(はにわ)や土器が出土しています。

 この他、弥生時代(約1800年前)の竪穴住居跡もみつかっています・・・」

 少し説明が必要のようです。

 上記の説明文の「東沢1号墳は、望塚(ぼんづか)があった水田の下の地層から新たに見つかった古墳です」のカ所に注目してください。

 望塚の場所から、加古川市内で唯一、弥生時代の祭器である銅鐸が発見されました。

 銅鐸は、弥生時代の青銅器です。

 東沢1号墳は、もちろん古墳時代の塚です。

 歴史は、弥生時代から古墳時代へと移行します。

 とすると、少しおかしなことになります。

 新しい古墳時代の遺跡の上に、古い弥生時代の望塚があることになります。

 『加古川市史(第一巻)』から、望塚についての記述を読んでみます。

 「・・・(望塚の)銅鐸の出土した年代については諸説があり、一致しない。

 大正二年、同三、四年、同七年、同十三、四年の五つの説がある。・・・・銅鐸出土に関しては、こうした基本的なことさえわからにことが多いのである・・・」

 塚の上に「大正十四年八月、末沢隆次建立」の文字がありますが、何らかの理由で当時すでに発見場所もはっきりしなくなっていたのでしょう。

 そして、場所の確定のないまま、「この辺にしておこう」と土盛りをして望塚としたのが真相に近いようです。

 東播磨南北道路が望塚の上を通過することになりました。遺跡の調査が行われ、このことが確かめられました。

 現在、銅鐸の出土地とされている望塚は、少し東へ移動しています。写真は移動後の新しい望塚です。(no3763)

 *写真:移動後の望塚(ぼんづか)と銅鐸

 ◇きのう(10/27)の散歩(11.448歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(22) 弥生時代(7)、東神吉弥生遺跡・昭和41年に発見

2017-10-27 06:33:22 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    弥生時代(7)東神吉弥生遺跡

   昭和41年に発見

 昭和41年、東神吉町西井ノ口で加古川バイパスの工事中、遺物を含んだ層が発見されました。
 *場所は、東神吉中学校の南のバイパスあたり。
 昭和42年の発掘調査により、弥生時代前期ならびに後期の弥生遺跡であることがわかりました。
 遺跡は、標高5メートルの古代の自然堤防上に位置しています。
 東神吉遺跡と砂部弥生遺跡について、『加古川市史(第一巻)』は、「・・・両遺跡は、もともと一つの村であったと考えてよいであろう」と結論づけています。
 さらに、加古川市史の文体を少し変えて紹介します。
 ・・・・二つの遺跡を合わせたムラの範囲を正確に算出できませんが、溝と付近の地 形からみて、おおよそ東西300メートル、南北500メートル、広さにして15ヘクタールの大きさと推定されます。
 遺跡のすぐ近くに広がる低地は、水田として利用されていたのでしょう。
 これらをあわせると、耕地面積は少なくとも約400ヘクタールに達したと考えられます。
 出土の木製の鍬(写真をご覧ください)は、柄を押し込む穴があいていないから、作りかけのものでしょうが、製作の工程を知る貴重な資料です。・・・

    暑い夏の調査でした

  東神吉弥生遺跡の発掘現場の写真を紹介します。

  東神吉弥生遺跡の調査は、昭和42年5月2日~8月11日の夏の暑い中で行われました。
 加古川バイパスの工事は着々と進んでおり、急がれた調査のようすが分かります。
 なお、これらの写真は、西井ノ口の柴田圓治さんが撮影された貴重な写真です。

 柴田さんは、生前発掘現場の写真だけでなく、西井ノ口のたくさんの写真を記録として残されています。現在、それらは西井ノ口の公会堂に保存されています。(no3762)

 *写真:東神吉弥生遺跡の調査風景その他。

 ◇きのう(10/26)の散歩(11.349歩)

コメント (1)
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お爺さんが語る郷土の歴史(21) 弥生時代(6)・砂部弥生遺跡

2017-10-26 07:00:14 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   弥生時代(6) 砂部(いさべ)弥生遺跡

 地図の太い線は、10メートルの等高線です。

 地図の黒丸は弥生遺跡であり、岸遺跡は縄文と弥生の複合遺跡です。

 この等高線から南の低地部は、加古川の運んだ土砂などの堆積物によりできた沖積平野です。
 「ここに、なんとか人が住めるようになったのは弥生時代からで、縄文時代は、まだ十分陸化が進んでおらず、定住できるような状態ではありませんでした。そのため、この平地部から縄文遺跡は発見されていません」と先に紹介しました。
    砂部弥生遺跡(1)

    縄文時代の土器が見つかっているが 

 しかし、砂部遺跡から縄文時代の最後の時期の土器が出土しています。
 これを、どう考えたらよいのでしょうか。
 これについて『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明しています。
 ・・・・現代の研究では、縄文時代の晩期後半には、既に稲作がはじまっていたと考えられています。
 砂部遺跡に住んだ縄文人は、この時期ここで稲作をはじめていました。
 しかし、砂部遺跡は加古川に近く、加古川の氾濫にいつも脅かされていました。
 加古川が増水する季節は、ここで住むことはできませんでした。
 そのため、危険な季節には近くの洪積台地上にある岸遺跡辺りに住み、低地が安定した季節に砂部遺跡に住むという二重生活をしていたのでしょう」と。 

    砂部弥生遺跡(2)

    稲作が早く始まった場所
 昭和49年県の建設局より、加古川平荘ダムの工業用水を、高砂市の工業地帯へ送る送水管の埋設工事が発表されました。
 遺跡の存在の可能性があり、加古川市教育委員会が調査を実施することになりました。
 場所は、神吉中学校の少し東で、加古川西岸から約1.4キロ、標高約5メートルの古代加古川西岸の自然堤防上に位置しています。
 この遺跡は、加古川下流を代表する集落遺跡で、弥生時代前期から古墳時代までの遺構であることが明らかになりました。
 弥生時代の砂部遺跡は、前期のものであり、加古川下流ではやく稲作が始まったことを示す遺跡であろうといわれています。

 砂部遺跡には幾筋もの溝が南北方向に通り、それより東は地形が一段と低くなっています。

 かつて加古川が、この辺りを流れていたようです。(no3761)
 *写真:砂部弥生遺跡『播磨の弥生土器とその周辺』(加古川文化センター)より
 ◇きのう(10/25)の散歩(11.809歩)

 

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オマーン国王夫人物語(1) 予告:ブサイナ、オーマン国王の夫人の物語をしよう

2017-10-25 10:15:02 | 江戸時代、高砂の商業活動

 

  オマーン国王夫人物語(1)

     オーマン国王の夫人の物語をしよう

 2010年4月1日のブロで「オマーン国王夫人・稲美町に眠る」の記事を紹介しました。

 この記事には、その後も思い出したようにアクセスは続きました。

 このオマーン夫人の話題は、稲美町のあることを調べている時に、地元の人(Oさん)と話している中で聞き出した話題でした。

 Oさんも、はっきりとはご存じありませんでしたが、夫人の墓碑は、たまたま近くでしたので、案内してくださいました。

 インターネットで調べてみると、確かにオマーン国王が稲美町出身の方と結婚をされ、お墓が稲美町にあると書いてあります。

 でも、詳しいことは分からないまま、この話はそのままになっていました。

     Fさんからのすばらしい贈り物

 先日のことです。オマーンに4年間駐在しておられ帰国されたFさんからメッセージをいただきました。

 それにくわえて、オマーン国王夫人のことをまとめた本『アラビアの王様と王妃たち(下村満子)著』(朝日新聞)の「数奇な運命に生きる姫」の項のコピーまで送ってくださいました。

 恐縮でした。一気に読みました。

 地元の者として、とっても興味ある内容です。

 加えて、彼女を紹介している『オマーン見聞録(遠藤晴男著)』(展望社)を読んでみました。

 ますます、オマーン国王夫人のことを知りたくなりました。

 そして、とりあえず、この二冊の著書によってオーマン国王夫人を紹介します。

 紹介していると、いろんなニュースが集まってくるかもしれません。

 今「ひろかずのブログ」では「お爺さんの語る郷土の歴史」で、私たちの地域の弥生時代について書いていますが、次の古墳時代の前に「オマーン夫人」の物語を紹介します。

 お楽しみにしてください。(no3760

 このシリーズの始まりは、今月の30日(月)になる予定です。

 「オマーン国王夫人物語」と題して紹介しましょう。

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お爺さんが語る郷土の歴史(20) 弥生時代(5)・溝ノ口遺跡(弥生~奈良時代の複合遺跡)

2017-10-25 07:13:19 | お爺さんが語る郷土の歴史

   弥生時代(5)

     溝ノ口遺跡(弥生~奈良時代の複合遺跡)

  「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。

 調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。

 多数の出土品がありました。

 これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されています。

 溝ノ口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあった集落と想像されます。

 また、調査により溝口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられました。

 市内最大の複合遺跡です。

 しかし、溝ノ口弥生遺跡は、調査後埋められ、その上に加古川バイパスとなり、現在はバイパスの下で眠っています。

 註:溝ノ口遺跡は弥生~奈良時代の複合遺跡のため、その時代の加古川地域を説明する時、再度紹介することにします。(no3759)

 *写真:溝ノ口遺跡出土の弥生土器(文化センターて展示されています)

 ◇きのう(10/24)の散歩(12.934歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(19) 弥生時代(4)、大中遺跡(4)・国史跡に

2017-10-24 10:31:52 | お爺さんが語る郷土の歴史

    弥生時代(4)、大中遺跡(4)・国史跡に

      多くの遺物が出土
 大中遣跡は、弥生時代中期から古墳時代中期にかけての遣跡であることが判明しました。
 約44.000平方メートルの範囲に、円形、方形長万形、五角形、六角形の住居跡が数多く発見されています。
 そして、そこからさまざまな用途や機能に応じた土器や鉄器、砥石など当時の人びとの生活を知る手がかりとなる遣物が多量に発見されました。
 また、当時から中国との交流があったことを示す青銅製の内行花文鏡片(分剖鏡)も出土しています。
    
国の史跡に(昭和42年)
 このように大中遺跡跡は、古代国家が形づくられようとする時期を今に伝える重要な遺跡で、昭和42年(1967)に国の史跡に指定されました。
 そして、兵庫県立歴史公園「大中古代の村」として全面的に保存、整備され、広く人々
 に親しまれる憩いの場となっています。
 公園内には、復元住居など野外展示物だけでなく、播磨町郷土資料館も併設され大中遺跡の出土品が数多く保存、展示されています。
 古代の村を散歩しましょう。

 竪穴住居の中から古代人の声が聞こえてきそうです。
    
大中は、大沢村と東中野村が合併して誕生
 蛇足です。「大中」の呼称のことです。
 この地は、昔から「大中」と呼ばれていたのではありません。
 明治9年、加古郡大沢(おおざわ)村と東中野村が合併して、それぞれの地区の名前の一字を取って大中村が誕生しました。(no3758)
 *写真上:復原された、弥生時代後期竪穴式住居
 ◇きのう(10/23)の散歩( 11.505歩)

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お爺さんの語る郷土の歴史(18) 弥生時代(3)、大中遺跡(3)・分割鏡

2017-10-23 07:56:58 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

    弥生時代(3)

      大中遺跡(3)・なぞの鏡(内行花文鏡)

 昭和38年年(1963)3月、犬中遺跡がある台地の中でも少し高くなっているところにある住居跡から出土しました。
 この住居跡は、弥生時代後期のもので、その住居跡は遺跡の中ほどに復元されています。
 出土したものとは、鏡片(写真)で、最大長6.2センチ、最大幅3センチで、重さは7.2グラムあり、他の遺跡から出土した鏡を参考に復元(写真下)すると直径が21.2センチになります。
 この鏡片は、鑑定の結果、中国の後漢代に製作された内行花文鏡(ないこうかもんきょう)であることが判明しました。
   
  分割鏡
 この鏡片は意図的に割った上に、片方を磨いて一直線にし、懸垂ができるように二つの穴があけられており、考古学上、分割鏡あるいは懸垂鏡と呼ばれています。
 このような分割鏡は、近年弥生時代の遣跡から時々発見されますが、昭和38年当時、大中遺跡のこの鏡片は、弥生時代の住居跡から発掘された鏡としては日本第一号で、考古学界で大きなセンセーションを巻きおこしました。
 この大中遺跡の分割鏡がどのようにして大中の地に運ばれてきたのでしょうか。なぜ分割され、他の破片はどこへ行ったのでしょう。
 また、どのような人が首に懸けていたのでしょうか、大きなロマンを感ぜずにはいられません。
 この鏡は弥生時代の歴史を調べる上で重要なカギをにぎっていそうです。
 というのは、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡より古く、日本統一前の時代の鏡であるからです。
 また、文様は数多くの鏡に用いられ、当時の人びとの心をとらえていたと考えられています。
 この内行花文鏡片は、平成10年(1998)に町の文化財に指定され、播磨町郷土資料館に展示されています。(no3757)
 *写真上:内行花文鏡片
 *写真下:内行花文鏡復原デプリカ

 ◇きのう(10/22)の散歩(1.299歩・台風接近による台風のため)

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お爺さんの語る郷土の歴史(17) 弥生時代(2)、大中遺跡(2)・タコツボ

2017-10-22 08:17:56 | お爺さんが語る郷土の歴史

                   (大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図)                

   弥生時代(2) 大中遺跡(2)‣タコツボ

       大中は絶好の生活の場
 大中の集落は、絶好の場所に営まれていました。
 播磨平野のほぼ中央部で、北から張り出した低平な丘陵は、国道二号線のあたりで切れ、海岸線沿いの低地へとつながっています。大中の弥生集落はこの台地の南端部に築かれます。
 高台であるため加古川の氾濫の影響もあまりなかったようです。
 台地の南は低湿地で、米は十分な収穫があったことでしょう。
 さらに、すぐ近くを喜瀬川が流れ、伏流水も豊かで飲み水の心配もなかったようです。
 大中の人々は、こうしたすばらしい環境の中で生活していました。
   
  イイダコ漁
 大中の各住居跡から、小型の土器が百数十個出土しています。
 高さがせいぜい15センチで、口の部分または底部に小さな穴があいており、単なる貯蔵用の容器ではないことは確かです。
 この土器は大阪湾沿岸、播磨灘北九州の博多湾沿岸からも多数の出土例があり、用途不明の土器として長く放置されてきましたが、最近になってイイダコ漁のための土器であることがわかりました。
 今から1100年前、大中の人々はすでにイイダコの習性を知って、特殊な漁獲法を工夫し、そのうまさを味わっていたのです。
 イイダコは、体は小さいのに大きな卵を産みます。その味は絶品です。
 春から秋にかけてのイネ作りが終わった時期、大中の人々は、比較的ひまでした。
 この時期、彼らは北西の寒風に吹かれながらイイダコ漁していたに違いありません。
 *図:大阪湾・播磨灘沿岸のイイダコつぼ型土器分布図(『兵庫探検・歴史風土編(神戸新聞社)』)より(no3756)
 ◇きのうの散歩(2430歩) 台風接近による雨のため 

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コーヒー・ブレイク  「大中遺跡まつり」の歩み紹介・播磨町で特別展 

2017-10-21 12:30:16 |  ・コーヒーブレイク・余話

 今日から「ひろかずのブログ」では、弥生時代で弥生遺跡等の紹介をはじめます。

 大中遺跡の紹介は4回の予定です。

 偶然です。昨日(10/20)の神戸新聞に「大中遺跡まつり」の記事がありました。合わせてご覧ください。

 なお、「お爺さんの語る郷土の歴史(16)」で大中遺跡の発見者・浅原重利さんを紹介していますが、浅原さんの講演があるようです。お出かけください。

   「大中遺跡まつり」の歩み紹介・播磨町で特別展        

 兵庫県の播磨町郷土資料館(同町大中)は毎年秋に町内で開かれる「大中遺跡まつり」の歩みを振り返る特別展を同館で開いている。過去26回の取り組みを数多くの写真パネルで紹介しているほか、関連グッズや土器など計150点以上を展示している。12月3日まで。

 弥生後期から古墳時代前期の大規模集落跡である「大中遺跡」の発見と町制施行から、ともに55周年を迎えることに合わせて開催。大中遺跡まつりは、1990年に同町内の夏祭り「ふるさとまつり」の一部として始まった。96年から独立し、2005年からは収穫祭として秋開催に。古代体験や出店などを楽しめ、多くの入場者でにぎわう。今年は11月4日に開催予定。

 特別展は写真パネルの展示が中心で、土器の皿に海水を入れて塩を作る様子(02年)や、わらを巻いた建設用パイプで組んだやぐら(04年)、土器を焼くために高く積んだわらを燃やす様子(08年)などを紹介。古代人に扮する際に着る「貫頭衣」や、同遺跡から出土した「内行花文鏡」の復元品、土器なども展示した。

 同館は「町外の人にもまつりの存在を知ってもらい、会場の大中遺跡公園のさらなる利用につながれば」としている。午前9時半~午後5時。月曜休館。22日午後1時半から、同遺跡の発見者で、同まつりの実行委員長を長く務めた浅原重利さんが講演する。いずれも無料。同資料館TEL079・435・5000(伊丹昭史)(no3755)

 *写真:土器や写真などの並ぶ特別展(播磨郷土資料館)、神戸新聞より

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お爺さんの語る郷土の歴史(16) 弥生時代(1)、大中遺跡(1)・中学生により発見

2017-10-21 07:54:55 | お爺さんが語る郷土の歴史

 「お爺さんが語る郷土の歴史(8)・加古川三角州」で弥生時代について少し説明していますが、私たちの地域で弥生遺跡というと、まず、大中遺跡を最初に紹介しなければなりません。

    大中遺跡(1)・中学生により発見
 大中遺跡は、昭和37年6月、地元播磨中学の三人の生徒によって発見されました。
 古くから「大増(おおぞ)の畑では土器が出るとか、大増には貝殻の山が三つもあり、じゃまになるので車で捨てに行った」とかいう話がありました。
しかし、公にはなっていませんでした。
 古代の歴史に興味を持っていた播磨中学校の三年生の浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一(おつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)らは、大正時代にこの地に別府鉄道が敷設された時、多くタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞き、調査したところ、多くの土器片を発見しました。
 これが、大中遺跡が世に出るきっかけとなりました。
     
県下最大の集落遺跡(弥生~古墳時代)
 昭和37年12月25日、上田哲也氏(東洋大付属姫路高教諭)を中心に発掘が始まりました。
 翌日には、さっそく住居跡の遺構を掘り当てました。続いて27日に第二号住居跡。

 正月も休まずに掘り進むという熱意が実を結んだのか、三日には3つめの住居跡を発見しました。
 そのため、考古学者のほかに古建築の専門家も加わって、本格的な調査が続けられ、昭和47年の春まで11回の発掘が行われました。
 この間に「出た住居跡は合計43基」といってもこれはほんの一部でした。
 遣跡の総面積は四万平方㍍にも達するのですが、発掘区域は十分の一にも満たない3000平方㍍で、全域を掘れば300基近くになると推定されました。
 また、住居跡は円形、方形、長方形、六角形などそれぞれ違うタイプのものばかりで考古学的に高い評価を受けるとともに、大中遺跡は広く世に知られるようになりました。
 この遺跡は弥生時代後期(2世紀)から古墳時代中期(5世紀)にかけての遺跡ですが、当時県下ではもちろん最大、全国でもAクラスの規模を持つ集落でした。(no3754)
 *写真:大中遺跡から発見された大量のタコツボ群(昭和38年2月撮影)、『兵庫探検・歴史風土編』(神戸新聞社参照)

 ◇きのう(10/20)の散歩(11.958歩)

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お爺さんが語る郷土の歴史(15) 縄文時代(3)・岸遺跡(加古川市西神吉町)

2017-10-20 08:37:59 | お爺さんが語る郷土の歴史

 

   縄文時代(3)  岸縄文遺跡(加古川市西神吉町)

 加古川市西神吉町の岸・大国の集落の南の端、つまり県道平荘・魚橋線辺りは、段丘となっています。

 その段丘の南は、加古川が運んだ土砂がつくった平地が海岸まで続きます。

 この平地部から、弥生時代の遺跡が発見されているのですが、縄文遺跡(土器)が発見されていません。

 このことは、弥生時代(BC2.3世紀~AD23世紀)に陸化が進み、やっと人が住める状態になったと考えられます。

 それに先立つ縄文時代、ボーリング調査でも確認されていますが、そこは海で人が住める状態ではなかったのです。

 現在、岸の集落の北側は大きな団地になっていますが、この辺りで弥生土器が出土することは知られていました。

 周辺一帯は、良質の粘土を利用してレンガが生産されていました。

 このままでは、「岸の弥生遺跡が消滅する」と昭和34年、加古川市教育委員会は、発掘調査を実施しました。

 この発掘調査により、縄文晩期の土器が多数発見され、縄文遺跡であることが確認されました。

 なお、この遺跡から縄文土器の他、弥生土器・土師器・須恵器なども出土しています。

 これらの遺物は、加古川市郷土資料館に保存されています。(no3753

 *『加古川市の文化財』(加古川市教育委員会)・『考史遊記(永江幾久二著)』(兵庫タイムス)参照

 *写真:岸遺跡発掘遠景(昭和34年撮影)

 ◇きのう(10/19)の散歩(11.467歩)

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