ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨町をゆく(8) 播磨町二子(1)・マップ

2019-06-21 12:34:06 | 播磨町をゆく

        播磨町をゆく(8)  播磨町二子(1)・マップ

 「ひろかずのブログ」では、いろんなことを無秩序に紹介してきました。

 お読みいただいている方にとって、「少し、しんどなってきたな・・・」と思われていることでしょう。

 たいした内容は書いていませんので、お疲れの時は飛ばしてお読みください。

 それにもう一つお詫び(白状)しておかなければならないことがあります。

 加古川市・高砂市・稲美町・播磨町の地域の歴史・地理といいながら、高砂市の西部および播磨町については非常に内容が薄くなっています。

 これは、私があまり知らないからです。これから、できるだけ播磨町(特に東部)・高砂市西部地域の歴史・地理を調べることにします。

 先日、東播磨地域の古民家の保存・研究をされている団体(兵庫ヘリテージ東播磨)の方から、小冊子「播磨町町歩きマップ」をいただきました。

 それを参考にしてしばらく、播磨町二子地区を歩いてみます。

 (『播磨町マップ』の途中から始めますのでマップは13~26になっています。ご了解ください)(no4673)

 *マップ:『播磨町町歩き、小宮・二子編(1)』(兵庫ヘリテージ東播磨)

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播磨町をゆく(7) 大中(6)、新井用水の逆サイホン

2019-05-31 08:58:56 | 播磨町をゆく

     新井用水は、播磨町の大池へ
 明暦2年(1656)3月に今里伝兵衛によって開発された新井用水は、約1年と言う短期間で完成させましたが、すべてが順調に進んだのではありません。

 加古川大堰(加古川市神野町西条)のところで取りこまれた水は、現在の播磨南中学のところの大池まで13キロ。難工事の連続でした。
 (加古川市)野口で東に向きを変えた新井は、播磨町の大池を目指し伸びています。

     新井用水の逆サイホン
 そうすると、途中、喜瀬川を越えなければなりません。

 そのため、当時としては驚くべき技術が採用されました。
 喜瀬川の下に樋を埋めて、水を対岸に流そうとするサイホンの技術です。
 大中遺跡から喜瀬川の右岸に沿って300メートルほど下ると、右側の土手下にフェンスに囲まれた見慣れない機械があります。
 ここが、新井(用水)が喜瀬川の下をくぐるところです。

 新井用水は、現在まで、350年間にわたって流域の田畑に恵みを与え続けています。
 新井の開削は、日岡山付近の山麓の岩盤掘など難工事の連続でした。
 喜瀬川の埋樋は、「新井の逆サイホン」と呼ばれています。
 新井は、ここで喜瀬川の下へ潜り込み、再び対岸で地上に出ます。
 現在のサイホンはコンクリート製で堅牢ですが、開通時は松の三寸(約10センチ)板製で、この松製のものは14・5年ごとに更新されていていました。
 石製に変わったのは天保元年(1830)頃ですから、11回ほど取り替えられています。(no4659)

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播磨町をゆく(6) 大中(5)、大中弥生遺跡

2019-05-30 06:14:49 | 播磨町をゆく

      大中(5) 大中弥生遺跡

 播磨町の歴史遺産はなんといっても、大中弥生遺跡です。

 『播磨町まちあるきマップ』(ヘリテージ加古)では次のように説明しています。

 ・・・大中遺跡は昭和37年(1962)年、中学生によって発見されました。

 弥生時代中期から古墳時代の中期の代表的な遺跡の一つで、国の史跡(しせな)に指定されています。

 様々な種類の住居跡が発見されています。出土品(しゅつどひんき)は郷土資料館保管展示されています。・・・

 

 大中弥生遺跡は、広く知られていますのでここでは詳しい説明は省かせていただきます。

 もう少し詳しい説明は「ひろかずのブログ」(「さんぽ171、播磨町を歩く52~55」)をお読みください。(no4658) 

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播磨町をゆく(5) 大中(4)、北向きの地蔵さん

2019-05-29 07:54:37 | 播磨町をゆく

     大中(4) 北向きの地蔵さん

 善福寺のすぐ北で、喜瀬川に架かる大中橋の東詰に地蔵堂がありあます。
 安置されているのは、「北向きのお地蔵さん」です。
 この「北向きの地蔵さん」のお堂に地蔵堂に、説明がありましたので、その一部をお借りします。(説明は、文を少し変えています)
      北向地蔵尊
 喜瀬川のほとりに、北向きにこのお地蔵さんはたたずみ、私たちを見守っておられます。
 多くの仏さまは、南面されています。このような北向きのお地蔵さんの数は少なく、一層より多くの功徳があると言われています。
 地蔵菩薩は、この大地と同じように、万物を成長せしめる偉大な効力を蔵しておられる仏様です。
 まさに「大地の母」であり、私たちに一番親しみを持って接してくださり、苦しいとき、悲しいとき、助けのほしいときに地蔵さんに、一心に帰依するならば、必ず、あらゆる苦しみからの救済に手をさしのべていただけます。
 この地蔵さんは、近在では、特に「子授け地蔵」または「子安地蔵」として昔から親しまれ、そのご利益(りやく)、霊験あらたかと言われてきました。(以下略)
 喜瀬川の堤を散歩されるとき、この「北向きのお地蔵」にもお参りください。
 きっと、いいことがありますよ。(no4657)
  *写真:地蔵堂

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播磨町をゆく(4) 大中(3)・大澤小学校(だいたくしょうがっこう)

2019-05-28 10:25:59 | 播磨町をゆく

       学制(がくせい)
 時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。

 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。
 そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。
 これが「学制」です。
 この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。
 しかし、就学率は3割程度であったといわれています。
    大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
 この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。

 大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。
 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。
 まさに、「明治版・寺子屋」です。
 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として多くの場合、寺が利用されました。
 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。
 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。
 明17年(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33年(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。
 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。
 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑(写真)が建てられています。(no4656)
 *『播磨町の歴史』(「歩いてみよう播磨町の歴史」を編集する会)参照

 *『播磨町町歩きマップ』(ヘリテージ加古)参照
 *写真:大澤小学校跡を記念する石碑(善福寺境内)

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播磨町をゆく(3) 大中(2)、善福寺 ・ 西国巡礼・郡西国二十番札所

2019-05-27 06:51:15 | 播磨町をゆく

     播磨町をゆく(3)  大中(2)

     善福寺  西国巡礼・郡西国二十番札所
 西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。
 人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。
 第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。
 それは、まさに苦行の旅でした。  
 江戸時代になり、治安もよくなりました。
 交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。
 それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありませんでした。
 苦しい生活の庶民にとって、三十三観音霊場巡りは現在の外国旅行よりも、ずっと縁の遠いものでした。
 そこで考えられたのが播磨の国に三十三か寺の観音霊場を定め、それらの寺を巡礼すれば、同じ功徳があるとしてはじまったのが「播磨西国三十三所霊場めぐり」です
 このような巡礼がはじまったのは、江戸時代の初めの頃です。
     郡西国三十三札所めぐり
       善福寺は二十番札所

 「播磨西国霊場めぐり」よりも簡単に、誰にでもできる巡礼として、加古郡内に三十三観音めぐりの霊場が定められました。

 これが「郡西国三十三札所(郡西国ともいう)」です。
 この郡西国の二十番札所が、大中村の善福寺でした。
 なお、善福寺の境内には三十三体の仏様が安置されています。(no4655)
  *写真上:善福寺(播磨町大中)
  *写真下:善福寺の33体のみ仏たち(善福寺境内)

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播磨町をゆく(2) 大中(1)・大中の村名

2019-05-26 06:46:35 | 播磨町をゆく

 *このシリーズ、「播磨町をゆく」は播磨町まちあるきマップ」(「ヘリテージ加古」編集・発行)たくさんお借りします。なお、転載等は発行・編集者の許可をいただいています。

   播磨町をゆく(2)、大中(1)・大中の村名

 大中村(おおなかむら)は明治10年、大澤村(おおざわむら)と東中野村が合併(がっぺい)して生まれた新村です。

 村名は大澤村(おおざわむら)の「大」と東中野村の「中」を合わせて「大中(おおなか)」となりました。

 大中地区北部(おおなかちくほくぶ)(旧大澤があり、古代の弥生時代から台地に集落が形成され、早くから人が住んでいたことがわかります。

  大正時代になると、別府港(べふこう)と国鉄土山駅間(こくてつつちやまえきかん)を結ぶ別府軽便鉄道(べふけいびんてつどう)が村の中を走っていました。

 昭和40年代前半には農地の土地改良(とちかいりょう-ほ場整備)が行われ、ため池、水路(すいろ)、及び道路も整備されました。

 昭和40年後半の高度経済成長期には、沿岸部(えんがんぶ)の工業化が進んだ結果、人口が急激に増え宅地化が進みました。(no4654)

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播磨町をゆく(1) もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

2019-05-25 05:30:00 | 播磨町をゆく

    播磨町をゆく(1)

    もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

 シリーズ「別府町をゆく」は、少しお休みにして、新しいシリーズ「播磨町をゆく」をはじめます。

 「別府町をゆく」は、原則「播磨町をゆく」と1週間ごとの交互の連載とします。

 とりあえず、来週の土曜日まで「播磨町をゆく」の連載です。

     播磨町の各地域の名称のこと

 時代は、江戸時代から明治時代にかわりました。
 時代は変わったのですが、明治の初めの集落名は江戸時時代のままでした。
 つまり、当地域の村々は、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村・東中野村・経田村・古向村・宮西村・二子村でした。
 が、明治5年から7年にかけて政府の町村費用の節約方針があり、当地域の村々も合併が進められました。
 その結果、明治8年から9年にかけて、東本庄村・西本庄村・宮北村が合併して「本庄村」に、大沢村・東中野村が「大中村」に、そして経田村と古向村が合併して「古田村」と名称を変えました。
 蛇足です。「古田村」の名称です。古向村の「古」と経田村の「田」をつなぎ合わせた名称としました。

     阿閇村(明治22年4月1日)誕生

 そして、22年4月1日、新しい町村制により、本庄村・野添村・古宮村・大中村・古田村・二子村が合併して阿閇村(あえむら)が誕生しました。
 「阿閇村(あえむら)」の名称ですが、播磨町の地区は、『播磨風土記』、『和妙抄』で、「阿閇津」「阿閇庄」と呼ばれていたようで、この古い土地名をとって「阿閇村」としました。

     播磨町(昭和37年4月1日)

 なお、昭和37年4月1日、新しい町村制で名前を「播磨町」として現代に至っています。(no4653)
 *図:『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県)参照

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