黒田家、小寺の家臣に!
くどくなるが、重隆は官兵衛の祖父であることを確かめて、話を続けたい。
重隆は「目薬」で金をつくった。その上に(竹森)新右衛が援助をするという。この時の重隆の心中を推し量ってみたい。
「やっと、念願が果たせるときがきた。黒田家の再興のときがきた」ということであろう。
備前福岡でも、商人にならなかった。姫路へ出てきたのも「武家としての黒田家の再興」があったのであろう。
数年がたった。重隆の被官(家来)は、200名ばかりになった。戦乱の世である。
重隆は、当然のように御着城主・小寺への売り込みを考えた。
重隆は、息子の職隆(もとたか)にそのことを命じた。小寺氏への手配は、広峰からすでになされていた。
司馬遼太郎の職隆観を紹介しておきたい。
「気の優しい男で、自分の被官(家来)どもにつねに声をかけてやり、ひとびとも彼を慕っていた。寡黙で、考え深いたちだが、この時代の人らしく果断であった。
それに決すると行動が早く、段取りがいいために働き方に渋滞がない。
重隆(官兵衛の祖父)より大きな器だったかもしれない。重隆もそのことをよく見抜いている」
司馬氏の職隆(もとたか・官兵衛の父)の評価を読みながら、官兵衛の性格を考えている。官兵衛門の性格は、重隆・職隆のDNAを多分に受け継いでいる。
話を戻す。御着城では領主・小寺政職(まさもと)が待っていた。
黒田家は、武士としてお家を再興したのである。
職隆は、武士の器量は大いにあったとしても、小寺家では外様である、彼は能力があったとしても、もとの小寺家臣たちにとって面白いはずがない。蔭で「目薬屋の分際で・・・」と悪口もあったであろう。
小寺家の家臣としての実力を示す必要があった。
そのため、手っ取り早い方法は、どこか近在の小寺氏の敵を圧倒的に負かすことである。格好の敵がいた。「香山(かぐやま)氏」である。
香山は、この近在では「やくざ者」として知られている。香山は、もともと地名であり山崎郷と新宮郷の間にある。
重隆は、大晦日に夜討ちをかけた。相手には明日は正月の気分で油断もあったのであろう、
香山氏の首をとった。
このあたりの詳細については『播磨灘物語』に詳しい。
そして、香山の影響のあった揖保川一帯に触れを出した。
「われわれは小寺の者である。今後、香山の無謀な支配はない。以後、小寺の殿の慈悲によって年貢を軽くする・・・」と。
いま、官兵衛の原形を捜している。