ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(6):小寺の家臣に!

2012-11-30 08:37:10 | 黒田官兵衛

   黒田家、小寺の家臣に!

023くどくなるが、重隆は官兵衛の祖父であることを確かめて、話を続けたい。

重隆は「目薬」で金をつくった。その上に(竹森)新右衛が援助をするという。この時の重隆の心中を推し量ってみたい。

「やっと、念願が果たせるときがきた。黒田家の再興のときがきた」ということであろう。

備前福岡でも、商人にならなかった。姫路へ出てきたのも「武家としての黒田家の再興」があったのであろう。

数年がたった。重隆の被官(家来)は200名ばかりになった。戦乱の世である。

重隆は、当然のように御着城主・小寺への売り込みを考えた。

重隆は、息子の職隆(もとたか)にそのことを命じた。小寺氏への手配は、広峰からすでになされていた。

司馬遼太郎の職隆観を紹介しておきたい。

「気の優しい男で、自分の被官(家来)どもにつねに声をかけてやり、ひとびとも彼を慕っていた。寡黙で、考え深いたちだが、この時代の人らしく果断であった。

それに決すると行動が早く、段取りがいいために働き方に渋滞がない。

重隆(官兵衛の祖父)より大きな器だったかもしれない。重隆もそのことをよく見抜いている」

司馬氏の職隆(もとたか・官兵衛の父)の評価を読みながら、官兵衛の性格を考えている。官兵衛門の性格は、重隆・職隆のDNA多分に受け継いでいる。

話を戻す。御着城では領主・小寺政職(まさもと)が待っていた。

黒田家は、武士としてお家を再興したのである。

職隆は、武士の器量は大いにあったとしても、小寺家では外様である、彼は能力があったとしても、もとの小寺家臣たちにとって面白いはずがない。蔭で「目薬屋の分際で・・・」と悪口もあったであろう。

小寺家の家臣としての実力を示す必要があった。

そのため、手っ取り早い方法は、どこか近在の小寺氏の敵を圧倒的に負かすことである。格好の敵がいた。「香山(かぐやま)氏」である。

香山は、この近在では「やくざ者」として知られている。香山は、もともと地名であり山崎郷と新宮郷の間にある。

重隆は、大晦日に夜討ちをかけた。相手には明日は正月の気分で油断もあったのであろう、

香山氏の首をとった。

このあたりの詳細については『播磨灘物語』に詳しい。

そして、香山の影響のあった揖保川一帯に触れを出した。

「われわれは小寺の者である。今後、香山の無謀な支配はない。以後、小寺の殿の慈悲によって年貢を軽くする・・・」と。

いま、官兵衛の原形を捜している。

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官兵衛がゆく(5):目薬屋

2012-11-29 07:08:16 | 黒田官兵衛

013官兵衛の祖父・重隆の話に戻したい。

重隆は、備前福岡から姫路へ出た。もっとも状況から判断して、はじめから姫路を目指したのでないかもしれない。

大坂・堺を目指したのかもしれないが、なにせ家族は乞食同然の状態であり、生活も考えなくてはならなかった。

姫路では、(竹森)新右衛門の小屋にくらがりこむことができた。はじめから姫路を目指したのであれば、新右衛門家とも連絡もあったであろうが、それらしきようすはない。

ここで、新右衛門の話をしておきたい。

新右衛門は、この地方の大百姓の外にもう一つの顔を持っていた。

姫路地方では、信仰を集めていた神社があった。姫路駅から北へ4㎞、広峯山の中腹にある広峯神社である。

余話をしておくと、京都の八坂神社は姫路の広峯神社の分かれであるらしい。当然のこととして、京都八坂神社は、「わたしの方が本宮である」と主張されている。

    

   目薬屋

Hiromine_002_s2それはさておき、広峯神社には、「御師(おし)」がたくさんいた。御師とは神主につかえる一種の布教者である。御師は、伊勢神宮・春日大社・熊野三山等にもいた。

彼らは、お札を各地に配り信仰を広めた。各地に檀那がおり、そこを拠点として御師匠は活躍できた。新右衛門は、そんな檀那の一人であり、広峯神社との結びつきがあった。

新右衛門家に飛び込んできた重隆は、他の者と一味違うのである。黒田家の者はみなやわらかな物腰であり、なによりも教養人ぞろいであった。

新右衛門の小作でありながら、彼らは黒田家の者に一目置いて接するようになった。

そして、広峯神社の御師達に重隆の噂を広めたようである。当然、神主の耳にも達したと思える。

ある時、「御師が配るお札に付けるお土産のようなものはないか」という話になり、重隆が「目薬はどうであろうか」と提案した。この目薬の案が採用された。

その目薬ついて『播磨灘物語』は次のように説明している。

「黒田氏の本貫の地である北近江に伝わっている薬で、製法はごく簡単である。山に葉に毛の生えているカエデ科の木(写真)である。北近江では『目薬の木』というのだが、その樹皮をとってきて砕く。それを赤い絹の袋に包んで煎じ、その袋ごとを目にあてて煎じ汁を滴らせるのである」と。

この目薬を広峯神社の御師が、お札と一緒に各地に持ち歩いた。薬の効能の上に神様の御利益までついている。

なによりも販売努力が不要である。御師がセールス役をしてくれたのである。神社にも重隆にも相当な収益があった。

黒田家が、播州でひとかどの勢力を築けたのはこの目薬のおかげである。

後のちまで、黒田家を誹謗する時「たかが目薬屋・・」といわれているので、この話は、作り話ではない。

この目薬屋については、『黒田家譜』は何もかたっていない。

*写真上:目薬の木(姫路文学館の中庭で撮影)、写真下:広峯神社

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官兵衛がゆく(2):運は信長に味方す

2012-11-26 08:23:40 | 黒田官兵衛

   

武田軍の脅威消える

Takedasinngenn元亀(げんき)三年(1573)武田信玄は上洛を果たすべく、三万の軍を率いて三方ヶ原へ進軍した。そして、織田・徳川の連合軍をけちらした。

この時、信玄の労咳(ろうがい・肺結核)は悪化していた。翌、天正元年四月突然この世を去った。53才であった。

その後、勝頼が後継者となり、やがて武田軍と信長軍は一戦を交えた。世に言う「長篠の合戦」である。

長篠の合戦は、天正月三年(1575)五月、今の暦では梅雨の終わりの頃であった。この戦いは、鉄砲が威力を示したことで有名である。

当時の鉄砲は雨に弱く、湿気を極端にきらった。雨の場合、鉄砲はほとんど役に立たないのである。

長篠の合戦では、前日は雨。戦いが始まる朝も豪雨であったという。攻撃からしばらくすると雨は上がり鉄砲が威力を発揮することができた。

信長は信玄の死に続き、東の敵がひとつ消えた。偶然(運)は、信長軍に味方した。

  

上杉軍の脅威消える

当時、信長が脅威を感じていたもう一人は北の上杉謙信である。

そして、信長にとって残る大敵は、石山本願寺を中心とする真宗の門徒衆であった。

この段階で、播磨に押し入れば毛利軍、上杉軍、石山本願寺に囲まれ絶体絶命になる可能性があった。

しかし、天正五年(1577)、信長は秀吉に播磨攻めを命じた。

上杉軍と天下分け目の戦いが起こる前に、どうしても毛利軍を叩いて西の脅威を弱めておく必要があった。

信長は、毛利方を滅ぼせなくとも大打撃を与えておくぐらいなら不可能ではない。毛利が退けば石山本願寺の力は衰えると計算した。

予想通り、謙信は動こうとした。天正六年(1578)、信長討つべしと兵をあげることにしのである。しかし、出陣の前日、上杉謙信は厠(かわや)で倒れて、そのまま再び立ち上がれなかった。

北からの脅威は消えた。運は信長に味方した。

信長は、毛利と石山本願寺に集中できる状況ができた。播磨は、にわかに騒がしくなってきたのである。

*絵:武田信玄画像(土佐光起筆・山梨県立博物館蔵)

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コーヒー・ブレイク:神戸新聞を読んで・記事の扱い、時には疑問も

2012-11-25 07:32:20 | 黒田官兵衛

「官兵衛がゆく」を始めましたが、さっそく「コーヒー・ブレイク」で申しわけありません。

きょうのブログは、今朝(1125日・日)の朝刊(5面)の「神戸新聞を読んで」の転載です。

   記事の扱い、ときには疑問も

288b02cf衆議院の突然の解散には、本当におどろきました。与党議員でさえ驚きだったようです。その後の離党騒動が、そのことを如実に物語っています。

選挙の期間中は政治に興味が集まる絶好の機会。そのため、読者が知り得ない、また気がつかないことを記事にしてもらいたい。納得できるまで記事を読んでみたいと思います。

20日の朝刊に載った衆議院選挙のトレンド調査によると、有権者は年金や医療、景気や雇用、消費等の税制に関心があり、原発問題、環太平洋連携協定(TPP)への関心は薄い、とありました。私には重大な問題と思える憲法改正に至っては2.4%の関心であると報じています。

選挙の時は、当然政治の話題が紙面を大きく飾ることは当然のことです。それも国政の選挙であるため国内の記事に関心が集まります。その分、国外に向けられる眼が弱くなりがちです。

例えば、いまイスラエルとパレスチナ自治区ガザをめぐる情勢は深刻です。しかし、実態は分かりにくく、その上に選挙の記事に押されて小さく扱われがちになります。

私たちは、「新聞記事が小さいと、あまり重要な問題でない」と考えてしまいます。いま国民の目は、内向きになり、外向きの事柄に関して無関心・不寛容になっているように思えてなりません。

選挙期間中、その他の大切な記事が小さく扱われがちです。21日の朝刊で、「関電値上げ27日申請へ・家庭向け1015%」の扱いは地味でした。すっきりしません。「私たちが値上げを納得できるように、もっと論議をしてください」「選挙の後にしてください」「原発は必要なんですか」-そんなことを言いたくなりました。

ところで、神戸新聞を読んでいて楽しい面は、やはり地域の話題です。身近で親しみが持てるということだけではく、慌ただしい生活の中でホッとした記事が多く拾えます。

自然の話題が多いのも地方版です。近場であっても、新聞で知る外には気付つかないことがあります。先日も、ある記事を読み、日曜日お寺に出かけました。紅葉を満喫してきました。半日のプチ・旅行になりました。

それから、私の関心ごとで申し訳ないのですが、毎火曜日の夕刊の「童謡の玉手箱」がとっても好きです。毎回知らなかったことがあり、そして何よりもすがすがしい読後感があります。私の宝物になっています。

政治の話題も地方版では、一味違って、具体的に考えることができます。

このたびは、日本の政治を地方の実情と重ね合わせ、だまされないように選挙公約を、じっくり読んでみます。

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官兵衛がゆく(1):ボーダーの地域、そして戦場になった

2012-11-24 07:58:59 | 黒田官兵衛

 きょうから「ひろかずのブログ」では、黒田官兵衛について書いてみます。テーマは、気取って「官兵衛がゆく」としました。

 最初のうちは、官兵衛は登場しません。少しお待ち願いたい。

ボーダーの地域

Kakogawawoyuku_023律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といった。

大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津がそれである。

播磨は摂津に接しているが、畿内ではない。播磨はボーダー(接点)の位置にあった。

さっそく蛇足を書いておきたい。「須磨」の地名のことである。「すま」には、どこか心地よい響きがある。

夢を壊すようであるが、本来の意味は「角(すみ)」の意味である。この地方ではでは、角(すみ)の事を「すま」と発音した。須磨は、まさに畿内の「すま」にあった。

須磨から播磨あたりは、まさにボーダーの地域であった。

律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっていた。

この時代は、播磨は畿内の勢力下にあり、地図の上では都から遠いボーダーの地域であった。

この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていた。自らを守るためには、湧き上がるエネルギーを必要としたのである。

理由はこうである。

加古川地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にあった。

都にとって加古川地方は、自らの安全を守るための最前線の役割を持っていた。

加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、たえず強い者との結びつきを持っておく必要がある。

加古川は、鄙(ひな)の場所では決してなかった。

戦国時代も終わりの頃、織田信長勢力を広げるために、この地方へ侵入してきた。当然、中国地方を支配していた毛利勢とここでぶつかることになる。

司馬遼太郎の書く『播磨灘物語』の世界が展開された。

「ひろかずのブログ」では、できるだけ事実を書きたいが、想像も交えて書いてみたい。時には、暴走をするかもしれない。

*写真:春の加古川(加古川あたりがボーダーであった)

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コーヒー・ブレイク:「ひろかずのブログ」が1900号になりました

2012-11-22 07:32:31 |  ・まち歩き

 「ひろかずのブログ」が、きょうで1900

きょうで、なんとか「ひろかずのブログ」が1900号になりました。

「なんとか」と書いたのは、気づかれた方もあると思いますが、最近の「野口を歩く」では、「野口」について、ある事情でまとめる必要があり、今までバラバラに書いた文章の文体を統一し、少しだけ訂正して多くを繰り返し掲載しました。

そのため、を1900回というのは若干ごまかしがあります。

それに「野口を歩く」では、一番掲載しなければならない「賀古の駅(かこのうまや)」について紹介していません。

「賀古の駅」ついては、現在、加古川市観光協会のHP「かこがわ探求記・ぶらり野口編」で兵庫県立考古博物館の学芸員で、直接「賀古の駅」の発掘にあたられた中村広氏が今、楽しい文章で「賀古の駅」を紹介中です。

後日、ずうずうしくその研究のエッセンスをお借りしようとたくらんでいます。

ともかくも、今日で「ひろかずのブログ」1900号になりました。

夕食の時に「発泡酒」で乾杯をします。

「野口を歩く」は、中途半端になりますが、後日「賀古の駅」を付け加えることを約束して、次の話題に移ります。

 「官兵衛がゆく」をはじめます(24日・土から)

B3fed47aつぎの話題ですが、2014年のNHK大河ドラマは「黒田官兵衛」に決まりました。

NHKは、ドラマで九州をどのように扱うのかわかりませんが、その多くの舞台は姫路市・加古川市・三木市、そして西播地域になると考えられます。

官兵衛門については、知られているようで、案外知られていないのが実態です。私の知識も小説『播磨灘物語』(司馬遼太郎著)を出ません。

そこで、学生時代に戻ったつもりで、調べながら加古川市を中心に官兵衛と一緒に歩いてみようと考えています。

少しはボケ防止になるかもしれません。

テーマは、張り切って「官兵衛がゆく」としました。どんな風になるか分かりません。

とにかく、あす「官兵衛がゆく(1)」の原稿を書いてみます。明日のブログは、お休みとして、「官兵衛がゆく」は、24日(土)から始めます。

ご批判をお待ちします。

 *写真:黒田官兵衛(福岡市博物館蔵)

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野口を歩く(53):めずらしい青面金剛像(庚申信仰)

2012-11-21 07:12:17 |  ・加古川市野口町

庚申信仰(こうしんしんこう)

 004_2以前、稲美町で庚申信仰について調べたことがあります。

稲美町では、どの地区にも、かつて庚申信仰が盛んでした。

庚申信仰があったことをしめす青面金剛(しょうめんこんごう)と刻んだ石塔がたくさん残されています。

土地のお年寄りは、青面金剛を「コウシンさん・・・・」と呼んでおられます。

加古川でも庚申信仰の跡を見つけることができます。

しかし、江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。

庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われた信仰です。

「コウシンさん」は、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといい、そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

  Photo いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむ行事のようになりました。

庚申信仰が盛んであったことを示す青面金剛の石塔が残っていますが、「青面金剛」の文字を刻んだ石塔がほとんどで、正面金剛の像を刻んだ石像はこの地方では、ほとんど見ることはできません。

加古川市・高砂市・明石市の範囲に限ってみても、青面金剛像(写真)を刻んだ石像は、野口町北野の稲荷神社にみられる一基だけです。

その北野の稲荷神社ですが、分かりにくい場所にあります。北野地区を北へ抜けるとバイパスの穴門(バイパスを横切るトンネル)につきあたります。そこから道は北へ比較的広い道路・北野線が伸びています。

その穴門をくぐって、バイパスに沿って東へ20㍍ぐらいのところに稲荷神社があります。車では見落としてしまいそうな小さな稲荷社です。歩いてお出かけください。

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野口を歩く(52):小作争議

2012-11-20 07:40:02 |  ・加古川市野口町

野口の小作争議

Photo1924年(大正13)の調査があります。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%でした。

ものすごい小作率です。

大正1342日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われました。

「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」とたからかに宣言しました。

団結した農民のエネルギーは、地主に小作料の減免を要求しました。

大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開されました。

小作料の引き下げを求めました。これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗しました。

小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したのですが断られました。

ある朝、地主側が雇った人夫が稲の刈り取りをしているのを見つけ、こぜりあいとなり、突然、多数の警官があらわれ、多くの逮捕者を出しました。

逮捕された人々は、裁判にかけられました。

村人の要求は、ほとんど聞き入れられませんでした。

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野口を歩く(51):聖陵山古墳

2012-11-19 07:41:05 |  ・加古川市野口町

聖陵山古墳

 Photo 写真は、野口町長砂(加古川市野口町)の円長寺(昭和40年代の撮影か)です。

 この写真の右隅に少し高まった丘が半分写っているが、これが聖陵山古墳(せいりょうざんこふん)です。

 もともと、前方後円墳であったのですが、明治7年に前方部を平らにし、寺をここに移したため、現在の墳丘は円墳のようにみえます。

 また、寺伝は、天文12年(1544)に、この古墳から鏃(やじり)12本が出土した(今は7本が残っている)ことを伝えています。

 この鏃などから判断して、この古墳は4世紀後半の古墳と考えられています。

 また地形から、海とのかかわりを持つ豪族の墓と考えられています。ともかく、考古学では注目されている古墳です。

この古墳は、少なくとも2回の破壊を経験していますが、受難はさらにつづきました。

第二次世界大戦の末期、この古墳に横穴が掘られた。加古川飛行場の通信部隊が通信業務をおこなっていたといいます。

 なお、「加古川飛行場の飛行機が、この壕にかくされていた」という説があるのですが、これは間違いです。

いくらなんでも、この古墳の内部に飛行機は入りません。

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コーヒー・ブレイク:神戸新聞を読んで(7面)

2012-11-18 10:07:26 |  ・まち歩き

きょうの神戸新聞7面(社説のある面)に、私の113回目の拙文があります。ご批判ください。

難解用語、もっとわかりやすく

<「神戸新聞を読んで」より>

 B37c73f8最近、丁寧に記事を読んでいます。感度の鈍った頭でも理解できます。ただし「理解できます」というのも程度の問題で、新聞はやはり一般的に難しい内容や用語が多いようです。

 このところ「TPP」が記事によく登場します。12月16日投開票となる衆院選の選挙公約にもTPPへの対応が挙がるでしょう。一方で、TPP=環太平洋連携協定とは何か、知らない読者もいるのではないでしょうか。

 新聞記事を読むとき、ある程度の基礎知識が求められるのは当然と思います。とはいえ、もう少し広く読者層を巻き込むために、重要な用語が持つ意味・影響を、やさしく読める工夫があればいいのに、と考えます。

 というのは、ある所で若者に聞いてみました。驚きました。ほとんどの者が「新聞を読んでいない」のです。

 「パソコンやテレビがあるじゃないか」という声も聞こえてきます。しかし、新聞記事の速報性と内容の深み、そして、読むことで理解する能力を育てるという点は、ほかの手段に代えることができません。

 いま、さまざまな分野について、やさしく解説する池上彰氏の多くの著書がベストセラーになっています。ということは、知識・情報を求める要求は根強いという証しです。

 繰り返します。いま、新聞に求めたいのは「よくわかる報道記事」と「新聞社の主張」です。これらを合わせ持たせる紙面作りは難しいことになると思いますが、お願いしたい。

 ところで、アメリカの選挙のニュースに注目してきました。「医療保険制度は国民の自由を阻害する」といった金持ちの論理を、二大政党のうちの一方が主張し、まかり通っているアメリカ社会は納得できません。もっともアメリカ国民は、そういった主張のロムニー氏よりも、ちょっとだけではあるが、庶民の生活を重視するオバマ氏を予想よりも大差で選択しました。

 日本はといえば、急速に「アメリカ式の自由」を主張する社会へと進んでいます。しかし新聞で知る限り、アメリカには議論の風潮が伝統的にあります。日本の場合、アメリカ式格差社会が、議論のないまま定着するのではないかと心配してしまいます。ただ、原発の問題では、日本でも初めて手づくりの行動と議論が生まれています。

 衆院選が近づきます。選挙に向け、原発やTPP、経済格差などについて各地域(私の場合、東播)の実態に切り込んだ報道を期待します。そんな記事を読むとき、「なるほど…」と記事の内容を理解することができます。

 これが報道記事を「やさしく」するということかもしれません。地域から日本を、そして世界を読んでみたい。そう願っています。

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野口を歩く(50):寸倍石(ズンバイシ)

2012-11-17 10:01:37 |  ・加古川市野口町

寸倍石

Photo北野新田(加古川市野口町)の公民館の庭に、「寸倍石」(写真)と呼ばれている不思議な石があります。

「ズンバイシ」と読よみます。この石には、こんな話があります。

「・・・弁慶が高御座(たまみくら)で弁当を食べていたら、飯の中に小石が混じっていた。

ポイと投げたら鳥が岡の林の中に落ちた・・・」と云うものです。

そのうちの一個が北野新田の公民館に置かれ、もう一個は、村人が水足の墓地に運こび、ズンバイシの台の部分を石碑の土台に利用したといいます。

この石は、北条郷(神野村)との境界を示す境界石(膀示石-ぼうじいし)であろうと言われています。

石見完治氏も、「これをスエイシと呼び、境界点に据えられた石であろう」と考証されています。

播磨鑑(宝暦12年-1762)に、次の説明があります。

俗に「ずんばいし」と云う。これ北条の郷の堺也。形鞠の如し・・・

*写真は北野新田公民館の寸倍石

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野口を歩く(49):新井用水

2012-11-16 08:24:10 |  ・加古川市野口町

新井用水

025加古川大堰のところから野口を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。

承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。

溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

寺田池の水も完全に干上がってしまいました。

それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがありませんでした。

五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。

古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたいと考えました。

しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。

そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。

しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。

藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。

難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。

伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。

*写真:新井用水(野口町水足あたり)

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野口を歩く(48):弾丸列車計画

2012-11-15 08:02:33 |  ・加古川市野口町

25481041戦前、壮大な計画がありました。

東京から大阪・神戸を経て、そして朝鮮海峡を越え、朝鮮半島に鉄道をつなげようとする、とてつもない計画でした。

まさに、軍備増強・植民地経営のための鉄道計画でした。

昭和13年、この弾丸列車の計画は国会で承認されました。

そして、用地の買収が始められ、昭和16年に一部建設工事がはじまりました。

しかし、戦局の悪化のため、この弾丸列車計画は、つかの間の夢と消えたのです。

用地買収も、東京~大阪間は96キロ、大阪以西は64キロにとどまっていました。

加古川地域は、用地の買収が比較的進んでいた地域でした。

東京~大阪間の用地は、昭和34年に着工した東海道新幹線の用地として、そのまま使用されました。

兵庫以西の土地はいったん売却されましたが、昭和35年、加古川バイパスの用地として再び買収され、10年後の昭和45年から国道2号線との暫定使用がはじまりました。

加古川バイパスが、このように短期間に、しかもまっすぐな道路になったのにはこんな裏話があったのです。

*写真:加古川バイパス予定地(加古川左岸・東岸)

*『加古のながれ(市史余話)』(加古川市史編纂室)参照

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野口を歩く(47):平木橋

2012-11-14 00:05:25 |  ・加古川市野口町

平木橋(ひらきばし)

017淡河川(おうごがわ)・山田川から分水された水は、各地を潤しながら、やがて練部屋(ねりべや・神戸市西区神出町)に集められ、さらに分水され、特に印南野台地(いなみのだいち)潤しました。

練部屋から分かれた一つの支流は稲美町の池に流れ、凱旋池(現在、埋め立てられ県立東播磨高校になっています)・万歳池(稲美町)・鳥が丘池に流れ、そして最後に平木池に到達しました。

しかし、平木池は山田疎水の末端に位置していたため十分な水が得られませんでした。

昭和24年頃には放置されたままになり、昭和40年頃に埋め立てられました。

平木池に水を運んだ平木橋も、やがて人々から忘れ去られて、雑木林の中にひっそりとたたずんでいました。

突然のことでした。

この平木橋のある場所に、東播磨南北道路が計画され、にわかに平木橋が注目を集めるようになりました。

平木橋には「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEP. 1915」、裏には『平木橋大正四年九月架之」、とありレンガの赤と御影石のコントラストが美しい橋です。

土木工学的にも貴重であることが分かり、平木橋は専門誌にも紹介され、訪問する人も増えました。

保存運動がたかまり、兵庫県と加古川市は、橋の移設保存工事に着手し、水足の公民館横の前ノ池(まえのいけ)に移転され保存されることになり、平成223月、工事は無事完了しました。
 *写真:現在(移転後)平木橋

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野口を歩く(46):空 襲

2012-11-13 08:32:46 |  ・加古川市野口町

空襲

011戦争も終わりの頃です。神戸・明石は大規模な空襲を受けました。

そして、73日(昭和20)、姫路が空襲を受け、加古川町も空襲が近いとの流説が飛び交い、疎開が続出しました。

ついに、723日にグラマン戦闘機が加古川駅を機銃掃射しました。

続いて、翌24日アメリカ機三機が、古門口(加古川町)に爆弾を投下し、加古川駅に停車中の急行列車を銃撃し、死者1名、負傷者3名の犠牲者がでました。しかし、実際の被害はさらに大きかったようです。

写真は、水足の集落の中心部にある歌碑です。注意してご覧ください。上部が欠けています。

この欠けた部分は、昭和20730日、連合軍の戦闘機が加古川地域を機銃掃射した時、弾丸が当たり欠けたものです。

この日の加古川小学校の沿革誌には、「加古川町に第二回目の米機の来襲あり被害軽微」と記していますが、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾十数個が落下し、死者2名・負傷者数名がでたといいます。

ともかく、加古川は神戸・明石・姫路等に比べ、幸いにも大規模な空襲を免れることができました。

加古川の空襲の詳細については『加古川市史(第三巻)』を参照ください。

*写真:(加古川市野口町水足)の米谷十三郎の歌碑。

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