「奥の池」が野尻集落をつくる
「志方町を歩く(130)」の一部を復習します。
玉田修斉(しゅうさい)が、正保二年(1645)に姫路は藩主・松平忠弘の命を受け野尻の開墾に取りかかりました。
寛文二年(1662)までの18年間をかけ開墾した村でした。
(その後も、小規模な農地拡大の努力は続きました)
寛永の末に父に代わり大庄屋となり、この開墾の命を受けたのは26才の時でした。
開墾当時は、10町歩ばかりであったといわれています。
開拓は、鍬とモッコぐらいしかありません。大変な労働でした。
が、明治10年(1878)田畑・宅地合わせて30町歩の村となりました。
修斉が藩主から新田開拓の命を受けた時、最初に考えたのは水ことでした。
どんなに広い土地があっても水がなければ、土地は田畑になりません。
未開の野尻の土地を幾日も歩き大きな水源となる場所を探しまわったことでしょう。
幸い、野尻は山の中です。幾筋もの谷からの水がありました。
そして、現在の奥の池の場所から南を眺めた時に、「これは開発できる土地である」と確信を持ったと想像します。
修斉が見た風景とは
写真をご覧ください。奥の池の堤から南の方を見た現在の風景です。
山陽自動車道が見えます。
山陽道自動車道の手前は野尻集落の一部です。
集落を西(写真右)へ行くと細工所です。
土地は南へ、そして西にだんだん低くなっています。
修斉が「ここに池を造り、北東部隅から水を流せば土地は美田に変わる」と考えたのは自然だったことでしょう。
奥の池の起源は分かりませんが、修斉が開拓の命を授かった正保二年(1645)から間もないころであったと思われます。
そして、修斉とその子・義道の時代で新田の基礎は造られたようです。
勿論、その後も小規模の開拓は続きました。
野尻集落は、東へそして南へも田畑は広がっていきました。
史料が少ないため若干想像で補っています。
*奥の池は、現在ゴルフ場の敷地となっています。そして、現在の農地はポンプで灌漑をしています