高砂城の攻防
高砂城の話です。
『播州太平記』から高砂城の戦いを再現します。が、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れました。
・・・秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。高砂城がじゃまになります。
高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な関係にありました。
景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。
天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の攻撃が始まりました。
秀吉軍は、高砂城に火をつけました。
その時、毛利の援軍が波をけたててやって来ました。
秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津(現:加古川市尾上町)へ逃れたといいます。
高砂城落ちる
毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、「この勢いで、三木へ攻めよせ、秀吉軍をはさみうちにすればかならず勝てる」と、大将で藩主の毛利輝元に進言したが、輝元は「まず本国へ帰り・・・兵糧をととのえてから三木城へ運送する方がよかろう。守りの固い三木城のこと、やすやすと攻めおとされることはない」と、毛利軍は帰国してしまった。
平井山の陣でこの負け戦を聞いた秀吉は、三たび高砂城を攻めた。毛利軍が帰国した高砂城には余力はありません。
天正七年十月段階で秀吉側についたか?
梶原一族の墓石には「・・・天正七年、(高砂城の)最後の城主景秀公は、黒田官兵衛の紹介により羽柴秀吉に帰順した・・・」記しています。
高砂城は、現在の高砂神社の場所か!
さて、高砂城のあった場所ですが、松原(高砂市荒井町小松原、神社三社大神社境内・写真)に、梶原氏の城があったと言われています。
が、高砂神社に伝えられたている古文書に「輝政は、神社の北西にあった古い城跡(小松原城)が地の利が悪いので今の場所(高砂神社のある場所)に城を築いた・・・」とあります。はっきりとしません。 (完)・(no3016)
*写真:小松原の三社大神社境内にある旧・高砂城跡を示す石碑