ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

入ヶ池物語(21) 入ヶ池郷

2015-01-31 13:13:02 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 北山村と国岡新村の水争いについてみていますが、江戸時代、この二つの集落はともに入ヶ池郷(いけごう)です。

 現在の入ヶ池郷は江戸時代と少し異なっていますので、「入ヶ池郷」について、少し調べておきましょう。

      入ヶ池郷(いけごう)

 「・・・江戸時代には同じ川筋、あるいは水源を同じくする流れによって溜池をつくり、用水をとる村々を川郷(かわごう)といいます。

 一つの池を大きな用水源とする村々を池郷(いけごう)というのと同じです・・・

 太字のヵ所に注目ください。

 江戸時代、国岡村と北山村は同じ(入ヶ池の)池郷でした。

 明治時代周辺の開発が進み、新たに水を確保するために、長府池・満溜池がつくられました。

 菊徳(中村)・下沢(中村)・金守(北山)もこれらの水を使用するようになりました。

 ですから、現在、北山・国岡・菊徳・下沢・金守は同じ入ヶ池郷として、入ヶ池、長府池、満溜池、そして水路の維持管理を共同して行っています。

 長府池・満溜池については後に、もう少し説明をしましょう。

 現在、入ヶ池郷の内、緑に彩色したカ所の池および水路の管理は「入ヶ池郷土地改良区」が行っており、赤く彩色した地区は北山水利が単独で行っています。

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入ヶ池物語(20) 国岡新村との水争い(3)・話し合いで解決を

2015-01-31 08:57:17 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   国岡新村との水争い(3)話し合いで解決を

 北山村は、享保7年(1722)の新しい基準の「にらみ石」よりも下の水は北山村のものであり、国岡新村には、すこしも与えることができないと主張しました。

 それに対し、国岡新村は新しい「にらみ石」から「入が池」の元の分切石のところまでは、1尺3寸5分もあり「にらみ石」の位置は納得できないと主張しました。

 国岡新村は、この件について、代官所に現地の検分を行うよう求めました。

 以上が宝暦十三年(1763)の国岡新村側の訴状の内容です。

 この訴訟は何度も話し合われたのですが、双方の意見が合わず、解決は困難をきわめました。

 代官所は「近年は水不足が続き、生活は困難な状況が続いているが、水利問題はよく話し合い解決するように・・・」と命じるばかりでした。

 近隣の西条組野村および大野組の大野新村・六分一村の庄屋が中に入り、問題解決に当たりました。

 そして、水利問題が発生を経て宝暦13年8月ようやく目途がつき、代官所に関係代表者が呼び出され、詰めの話し合いが行われました。

 国岡新村の百姓代・平兵衛が差し出した文書からこのようすをみることにします。

   平兵衛の出した「差上申口上書之事」より

 入が池の水争いの一件について、一昨日19日、国岡新村の者からお呼び出しがあり、解決のための文書(済口証文)を見せていただきました。

 村に持ち帰り、村中で話し合いました。

 文面によると、草谷の新流(大溝用水のこと)を分水していないように読み取れますのですが納得できません。

 国岡新村の主張を取り入れて解決するように取りはかるようお願いします。

 やっと、宝暦十四年(1764)、関係村々との話し合いが成立し調印されました。

残念ながら、その解決内容の書かれた文書が残っていないのではっきりしませんが、国岡新村の意見が認められたようです。

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入ヶ池物語(19) 国岡新村との水争い(2)・国岡新村への分水を止める

2015-01-30 12:21:34 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  「にらみ石」が高い位置に据えられたので、享保十四年(1729)に国岡新村から申し立て、郡奉行の取調べが行われました。

 さすがに、この時は、元の分切石の通りにするよう仰せつけられ、以後、国岡新村と北山村は、この決まりを守っていました。

   国岡新村との水争い(2)・堰をして分水を中止

 ところが、宝暦十一年(1761)、5月のことでした。

 国岡新村と北山村の間で、入が池の水を分水していたところ、分ける水が残っていましたが、北山村は、堰をして分水を中止し、北山側のため池へ送水するために樋を抜いてしまいました。

 そこで、国岡新村側は、この樋を止め大庄屋へ届けましたが、あいにく大庄屋は姫路へ出張中で留守でした。

 国岡新村は、これを止めることはできませんでした。

 国岡新村は、村に水がこなくなってしまったので、堰を切るという実力行使にでました。

 北山村から大庄屋へ「国岡新村の不法」を大庄屋に訴え、訴訟に発展したのです。

 

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入ヶ池物語(18) 国岡新村との水争い(1)・にらみ石 

2015-01-30 10:02:00 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 以下の「国岡新村との水争い」の文章は、国岡新村に残る古文書を参考にしています。そのため、少し国岡新村に加担した記述になっているかもしれません。

    国岡新村との水争い(1)・にらみ石

 新しく水についての取り決めができあがると、すべての問題が片付いたわけではありません。

 水利の取り決めができた後は、藩の強力な水利権に対する指導は減少し、基本的には、当事者間で新しい水利秩序を守り、問題を解決するのが原則とされました。

 というのは、裁判となると訴訟費用、日数がかかり、それに当事者どうしの解決の方が、双方の納得が得られ、あとあと実際に効果があったためです。

 それに何よりも、藩が複雑な水利訴訟を解決するためには、担当役人は各地の細かな水利慣行に習熟する必要があります。

 役人に、それを求めることは無理でした。

 藩が判決を出しても、訴訟の再発がおこり藩は権威を失うこともおこります。

 そのために、水争いは当事者の話し合いを優先させました。

 このことも水争いがしばしばおきた原因です。

 当事者で解決できなくなることもしばしばおこりました。そんな時は、代官所に訴えました。

      にらみ石

 宝暦十三年(1763)7月、国岡新村から代官所に出された訴状の水争いの原因は、国岡新村と北山村が「入が池」の分水の目安として据えた新しい石(にらみ石)の位地にありました。

 先に説明したように、国岡新村は、地形の関係上、この用水を直接自分の村に引くことのできなく、北山村の「入が池」を改修し、この溜池を経由して自分の村に(大溝)用水の水を取り入れることにしました。

 そして、元の池の水の容量を示すところに「分切石(ぶきりいし)」と呼ばれる石を溜池の東に据え、この石より 下の水は北山村のもの、この石より上の水は国岡新村と北山村が5分5分に水を分けることが取り決められました。

 北山村としてもできるだけ多くの水を確保する必要がありました。

 北山村は、享保七年(1722)分切石より高い所に、新たに基準になる石(にらみ石)を据えました。

 大変です。国岡新村にとって、このままでは水は少なくなってしまいます。

 

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入ヶ池物語(17)  分切石(ぶきりいし)

2015-01-29 08:18:29 |  ・稲美町 入ヶ池物語

     分切石(ぶきりいし)

 国岡新村は地形の関係上、直接自分の村に水を引くことができません。

 やむなく北山村の「入が池」を改修し、この溜池を経由して自分の村に水を引くことにしました。

 それにより、「入が池」の堤を高くする工事費は国岡新村の負担です。

 そして「入が池」の水をめぐり、二村は取り決めをしましたが、水をめぐり国岡新村と北山村の水争いは絶えませんでした。

 例えば、宝暦13年(1763)7月、国岡新村から北山村に出された訴状には、水争いの原因は、国岡新村と北山村が「入が池」の分水の目安として据えた石(分切石)の位地にあったようです。

 分切石とは、入ヶ池の元の池の水の容量を示すところに据えた目印になる石のことです。

 この石より下の水は北山村のもの、この石より上の水は国岡新村と北山村が5分5分に水を分けることが取り決められていました。

 この分切石について『稲美町史』は「・・・このたびの池の改修工事の間、昭和53年2月、南堤中樋付近より分切石(写真)および敷石1個が発掘された。

 これは享保7年(1722)6月の古文書によれば、当時の18個、敷石9個を27名の村民が下西条(現在の加古川市神野町西条)より運び来って据えたという。その中の各一個であろうと推定される・・・」と書いています。

 また、別の古文書には「・・・大石のため運ぶのが難しく石は2つに変更した・・・」と補足しています。

 入が池の分切石(ぶきりいし)は、享保7年(1722)頃のものと推定され、「享保七寅年 御願申 忌之分切」と刻まれています。

 北山村と国岡新村の水争いについては後に、詳しくみることにします。

 *写真:入ヶ池の分切石(ぶきりいし)

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入ヶ池物語(16) 国岡新村の水は、入ヶ池から

2015-01-28 08:49:45 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   国岡新村の水

 江戸時代以前、加古新村も国岡新村も、まだ誕生していません。

 その時代、入ヶ池の水は、北山村が独占的に使うことができ、入ヶ池からの溝谷の周辺で耕地を拡大していました。

 しかし、江戸時代の初期は、戦国・織豊時代における土木技術の発達により、事態は一変しました。

 当初、新しくできた加古新村・国岡新村は、藩に願い出て風呂谷池(草谷)の水路の改修を行いました。この溝は「四百間溝(しひゃっけんみぞ)と呼ばれました。

 しかし、新田の開発が進むと、四百間溝の水だけでは灌漑用水は不足するようになり、「大溝用水」を完成させました。

   国岡新村の水は、入ヶ池の水で 

 北山村の地形は、北と東に高く、水は北からそして東から集まりました。

 が、北には加古新村が、東に国岡新村ができると、北山村に入ヶ池の水利権があるというものの十分な水とはいかなくなりました。

 特に、北山村にとって国岡新村の開発は、大きな問題となりました。

 国岡新村への水は、地形的に「入ヶ池」を越えなければ国岡新村に流れてくれません。

 国岡新田の開拓にあたり姫路藩は、「入ヶ池」の水の一部を国岡新村に分けることを許可しました。

 加古大池に流れる大溝用水の水を途中から国岡新村分として入ヶ池に取水し、その水を国岡新村に再度流すというのです。

 国岡新村は、姫路藩の命令(指導)で、北山村の所有の「入が池」から、用水の一部を得ることができるようになりました。

 北山村としても藩の命令となれば反対するわけには行きませんが、新しい水利秩序が必要です。問題は簡単に片づいたわけではありません。

 *写真:(旧)大溝用水の分水所(右:入ヶ池へ、左:加古大池へ)

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入ヶ池物語(15) 国岡新村誕生

2015-01-27 08:41:33 |  ・稲美町 入ヶ池物語

     国岡新村の誕生

 国岡新村(現:国岡)について見ておきます。

 国岡新村は、加古新村と、ほとんど同じ時期に開発された新田(村)です。
 国岡土地改良区には、寛保二年(1742)、寛延三年三月(1750)、そして寛延三年七月、それに宝暦拾四年(1764)四月の明細帳(控)の四種の国岡新村の明細帳が保存されています。

 その内、完全な形で残る寛延三年の明細帳を読んでみます。

 『明細帳』の表紙は、下記のようです。

   寛延庚午歳   中村組

   明細帳

   三月     国岡新村

 寛延庚牛歳とは、1750年のことです。

   国岡新村誕生・寛文二年(1662

 明細帳の最初の部分を読んでおきます。

  加古郡五ヶ所蛸草庄国岡新村

一 村之初り寛文二□歳 開発人  彦太夫

                   安右衛門

 この明細帳は、国岡新村ができてから88年後に書かれています。

 国岡新村のはじまりについて、『稲美町史』(p351~2)は「・・・国岡は寛文二年、国安村の彦太郎と岡村の安右衛門が開発した。国岡という名称は両者村の頭字をとって名づけられたという。・・・」と、国岡新村を紹介しています。

 村のはじまりが忘れ去れるほどの長い年月ではありません。

 国岡新村は、国安村の庄屋・彦太郎と岡村の庄屋・安右衛門が中心になり開発した村としてよいでしょう。

 そのため、国岡地区の祖先は、国安(村)・岡(村)出身の方が多かったと思われます。

 国岡は、北山の東で、現役場から西側の高台に広がる地域です。この地域に、水はありません。どうしたのでしょうか。

 次回の「入ヶ池物語」から入ヶ池・北山が登場します。

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入ヶ池物語(14) 水、沢山の時は構無御座候!

2015-01-26 12:13:25 |  ・稲美町 入ヶ池物語

        水沢山の時は構無御座候!

 大溝用水、加古新村で話がさまよっています。入ヶ池そして、北山の話に移らねばならないのですが、もう少しご辛抱ください。

 次の話題に注目をしておきます。やがて、国岡新村・入ヶ池・北山と関係してきます。

 加古土地改良区に古文書「仕ル手形之事」(つかまつるてがたのこと)があります。加古新村から、草谷川の村々(草谷郷)へ出した願いの返事です。

 (注)下記の史料「手形之事」は、飛ばして、内容からお読みください。

     仕ル手形之事

一 西条組加古新村数年旱損仕付、草谷川筋草谷之上より新溝掘り加古新村池々水取申度と御普請望申候付、構無之候哉と御尋被成候、冬春の儀少シも構無御座候、四月より七月之内は下流申様 願申候、四月より七月迄之内たり共水沢山の時は少シも構無御座候、右之内申分無之候、為後日仍件

  延宝八年申六月        

(内容)

 (加古新村から草谷郷へ大溝用水の工事の許可願に対する返事)

 「加古新村から、数年水不足で困っています。草谷川の上流から新しい溝を掘り加古新村の池(加古大池)へ工事をしたい。つきましては、御了解願えますでしょうか」とお尋ねがありました。

 (草谷郷から加古新村へ次のような返事をしておきました)

 水を使わない春・冬は、かまいません。

 しかし、水を使う四月から七月前は、下(草谷川郷)へ流してください。

 ただし、四月から七月の間であっても水が十分にある時は、(草谷川から)大溝用水へ水を取り入れてもかまいません。

 以上です。後日の為、文章にしておきます。

      延宝八年(1680)申六月

 赤字の部分に注目ください。

 「四月から七月の灌漑期でも水が十分にある時は、大溝用水へ、つまり草谷川から加古大池に水を取水してもかまいません」という文言があります。

  「水が十分にある!」と判断するのは誰でしょうか。

 草谷郷の村々と加古新村の解釈は、当然異なります。

 加古新村が水は十分にあると判断しても、草谷郷はすんなりと同意するはずがありません。

 そのため、判断(解釈)の違いにより草谷郷村々と加古新村(国岡新村も含む)との水争いはしばしば発生しました。

 記録に残るものだけでも、明和元年(1764)、明和二年(1765)、文化元年(1804)、文化四年(1807)、文化五年(1808)、文化六年(1809)、文化八年(1011)と次々に発生しました。

 *古文書:「仕ル手形之事」(加古土地改良区蔵)

 

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入ヶ池物語(13) 大溝用水

2015-01-26 08:34:14 |  ・稲美町 入ヶ池物語

      草谷郷の村々

 草谷川は、雄岡山・雌岡山を源として、上流から、それぞれ広谷川、草谷川、八幡川と呼ばれています。

 草谷川は全長11,47m、流域14.6kmの余り大きくない川ですが、印南野台地の主要河川の一つです。

 草谷川流域には、山西村、広谷村(以上明石藩:現神戸市)、草谷村、下草谷村(以上現稲美町内)、野村、下村、宗佐村、船町村、上西条村、中西条村(以上現加古川市)の10ヵ村があります。

 草谷川の水利に関して、姫路藩に属した8ヵ村は草谷川の水を共用し「草谷郷」と呼ばれていました。

   大溝用水(おおみぞようすい)

 延宝八年(1680)、草谷川を水源とする画期的な計画が立てられ、草谷川下流の八ヵ郷へ、水をあまり使わない時期に草谷川から水を引き池に水をためておくという願い提出しました。

 もともと、水のきわめて不安定な草谷川からの取水が可能になったのは、加古新村の開拓の中心になったのは下村・上西条村・中西条村の有力者が中心にったこと、それに、なによりも姫路藩の新田開発の指導(命令)が大きかったと言えます。

 藩の命令となると、村々は反対できません。

 川郷8ヵ村(草谷村・下草谷村・野村・宗佐村・下村・船町・上西条村・中西条村)と加古新村との粘り強い話し合いがあったのは当然のことです。

 結果は、「田畑にあまり水を使わない7月から翌年4月までの期間に草谷川から加古大池や入ヶ池に水を貯蔵してもよい」との了解を得ることができました。

 ともかく、草谷川の上流に堰を造り、大池までの用水路の造成が始まりました。

 これが、図にある大溝用水です。

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入ヶ池物語(12) 水は草谷川から・・・

2015-01-25 08:21:04 |  ・稲美町 入ヶ池物語

       加古新村の水源は草谷川から

 加古新村は台地上の村で、しかも水源となる川がありません。加古新村が大きくなるにつれ、たちまちに水不足になりました。

 どうしても大きな池が必要です。

 加古新村の北に谷をつくり、その底を草谷川が流れています。

 草谷川から水を求めなければ、他に水はありません。

 しかし、加古新村の池(加古大池)の予定地は、土手を造るとの高さは59㍍となります。

 そして、加古大池をまっすぐに北へ進み草谷川とぶつかる辺りの高度は24㍍です。

 その差35㍍。

 近距離だからといっても、水は24㍍から59㍍の台池へ流れてくれません。

 加古新村の台地に池を造るとすると、当然、草谷川をさかのぼり59メートル以上の場所に取水口を造り、そこから加古新村まで溝(用水)を引く必要があります。

 しかし、草谷川流域の土質は、砂れき質のため地下水は地中深く潜り、梅雨・台風の雨の多い時期を除いて上流ではほとんど水の流れを見ることはできません。

 草谷川が、加古川市八幡町に入って流れが緩やかになり、やっと川らしい水量で西へ流れ、加古川本流に至ります。

 草谷川流域の村々にとっても、水の余裕がありません。

 そうであっても、加古新村は草谷川の上流に堰をつくり、加古新村まで水を引く以外に水を得る方法はないのです。

 何か良い方法はないでしょうか。

 *写真:雨の日の草谷川(昨年の梅雨の頃)

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入ヶ池物語(11) 加古新田の開拓

2015-01-24 08:36:21 |  ・稲美町 入ヶ池物語

 加古新田と国岡新田の誕生は、北山の水と関係してきますので、話題が少し北山・入ヶ池から離れますが、加古新田と国岡新田について少し触れておきましょう。

   加古新田・開拓許可を願い出る

 江戸時代になり、平和な時代が到来しました。それに伴って人口は増加し、藩も新田の開発を奨励し、支援しました。

 加古新村の開発は万治元年(1658)加古沢兵衛の開発願いに始まりました。

 加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。

 「中西条村(現:加古川市八幡町)の沢兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 沢兵衛は、上西条(現:加古川市八幡町)の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。

 喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金を心配していました。

 沢兵衛は、資金のことを親類の下村(現:加古川市八幡町)の治兵衛にも相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合いました。

 姫路藩の奉行に開拓願いを提出しました。

 願いを請けた藩は、役人をさっそく現地に向かわせました。

 しかし、あまりの荒れ地に驚き、役人は「しかるところを上様に申し上げ候こと存じよらず。なんと不覚者か・・・」と三人をしかりつけました。

 それでも、沢兵衛たちはひるみませんでした。

 彼らには実績から得た自信がありました。水を得る方法等を熱っぽく役人に話しました

    開発許可なる(万治四年・1658)

 沢兵衛の努力が実りました。加古台地の開発許可がおりたのです。

 この間の事情は、史料によりまちまちですが、『稲美町史』の説をお借りします。

 「・・・この開発願は、万治元年(1658)であったと思われます。

 姫路藩がこれを許可した年については、万治四年(1661)です。・・・」

 とにかく、加古台地に開拓許可が下りたのです。

 次の問題は水をどうするかです。

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入ヶ池物語(10) 大開拓時代(江戸時代初期)

2015-01-23 08:18:22 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  戦国時代に発達した土木技術

  “天下分け目”といわれた関ヵ原の戦い(慶長五年=1600)を中心とし、その前後約60~70年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代将軍家綱の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史をとおしてみても、他の時代に類例がないほど上木技術が大きく発達した時代でした。

 土木技術を大別すれば次の三分野に分けることができます。

 (1)鉱山開発技術-その結果日本は世界有数の金銀産出国となった

 (2)築城技術-それは今日も残る日本の華麗な城郭建築および城下町建設工事に開花した。

 (3)用水土木技術。

 戦国時代の支配者は、すぐれた技術者を家臣に抱えていることも含めて、武勇・武略と同時に、治水土木にも有能でなければ、戦国時代を勝ち抜けませんでした。

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、すぐれた武人である同時に、またすぐれた治水土木家でもあったのです。

     日本の大開拓時代

 やがて、関ヶ原の戦いを最後に戦国時代は終わり世の中は戦争のない平和な時代(江戸時代)になりました。

 (1)~(3)の技術は、平和な事業に利用されました。一番大きかったのは用水土木技術が耕地開発に利用されたことです。

 江戸時代の初期は、ものすごい勢いで荒れ地が耕地に変えられた時代でした。

 日本の農村の原風景は、この時代に形づくられたといえます。

 この時期あまりにも多くの田畑が開発されたため、多くの地で水不足の問題が発生し、江戸時代中期以降からは、原則として新規の開拓制限されたほどでした。

 江戸時代の初期は、まさに日本の大開拓の時代といえます。

 北山集落の周辺でも、江戸時代の初めに加古新田、国岡新田の開拓がはじまりました。

 加古新田(現:加古)の開拓により、この方面から北山の田への水が少なくなります。

 国岡新田(現:国岡)からは、北山に「入ヶ池の水」を分けてほしいという願いが出されました。

 水は、百姓の命です。さあ、大変です・・・・。

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入ヶ池物語(9)  堤防がない

2015-01-22 08:49:23 |  ・稲美町 入ヶ池物語

   曇川(国安川との合流地点まで)

 ふだんは、あまり気にしないのですが、稲美町は坂の町です。

 以前、雨あがりの日でした。入が池から北山集落(北山の真楽寺あたり)まで、曇川の堤防を散歩しました。

 曇川は、勢いを増し濁流でした。

 明治時代、九頭竜川(福井県)を見たオランダの土木技師・デレーケは、「これは滝である」といったといいますが、曇川は、まさにそのような流れでした。

 「曇った時だけ水があるから曇川である」と揶揄される曇川ですが、その日の曇川は違っていました。

   堤防がない

 入ヶ池から真楽寺あたりまでの曇川の堤防の話です。

 伝承はともかく、入ヶ池の水を利用し、北山の集落に人々が入植し、田畑を開墾したのは、ずいぶん昔のことです。

 農業技術が十分発達していない時期のことです。

 小さな川とはいいながら、水を利用するには、ふつう堤防を造り、流れを閉じ込めます。

 雨の時でもビクともしない堤防を造らねばなりません。

 そのためには、農業技術が必要でした。

 それに多くの人出が必要です。なによりも費用が膨大となります。

 曇川の事情は少し違っています。坂を流れ落ちる川です。

 ということは、川の急な流れが台地を削り、谷(溝川)をつくっています。

 つまり、堤防の必要のない川なのです。

 深い溝川といってよいのかもしれません。

 北山を開拓した人々は、そんな溝川の上流をせき止め、入ヶ池を造り、北山までの流れ使い、田畑を開墾したのです。

 少しずつ、耕地を広げてきました。

 が、長い間あまり大きな変化はなく生活を繰り返していました。

 しかし、やがてこの生活が一変する時代を迎えることになります。

 *写真:曇川の堤防(真楽寺の付近。現在見事な桜並木となっている)

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入ヶ池物語(8) 三筋の流れ

2015-01-21 08:03:07 |  ・稲美町 入ヶ池物語

    三筋の流れ

 印南野台地に降る雨は、まさに恵みの雨でした。

 雌岡山(めっこさん)辺りから小さな流れを集めて、南西に流れ下りました。

 挿絵をご覧ください。

 印南野台地を流れ下った水は、愛宕山辺りの山塊に妨げられ、水は北へ、そして南へと分かれて流れます。

 南に流れた水は、岡・国安の方に流れ、そこに堰を造り、水をせき止め天満大池がつくられました。

 一方、北に流れた水は、愛宕山の北辺りに集まり造られたのが入ヵ池です。

 ともに、ずいぶん昔に造られた池です。

 天満大池が造られたのは、伝承では白鳳三年(675)で、兵庫県で一番古い池といわれています。

 それはともかくとして、古い池です。

 ということは、水が少なく、人の侵入を拒み続けた稲美野台地ですが、天満大池・入ヶ池の水が利用できた集落は、昔から人が住みついていました。

 北山集落と入ヶ池の関係については、後に述べることにしましょう。

 ここでは、とりあえず印南台地を流れた大きな二筋の流れを確認しておきます。

   三番目の流れ

 タイトルには「三筋の流れ」としました。

 第三番目の流れとはどこでしょうか。

 地図を見ればすぐに気が付きますが、草谷川(広谷川)のことです。

 稲美町の北部に深い谷を作り、低いところを流れる草谷川です。

 後に、この草谷川の水が加古大池の水源となり、また一部は「入ヶ池」に流れ、国岡(新)村の水源ともなりました。

 「入ヶ池物語(4~8)」では印南野台地の少し長い説明になりましたが、水のすくない印南野台地に生活した人々の歴史の前に確かめておきたかったためです。

 それでは、入ヶ池・北山集落の話をはじめしょう。

 *印南野台地の三筋の流れ

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入ヶ池物語(7) 少ない雨

2015-01-20 07:59:37 |  ・稲美町 入ヶ池物語

  印南野台地は、水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。

 それに、水を集める範囲が狭く、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

 そのため、印南野台地の開発は、ずいぶん遅れました。

 印南野台地に降る雨についてみておきます。

     印南野台地の降水量

 図は、兵庫県の年間降水量を示しています。

 平均降水量は、日本海側で多く2.000~2.250mmで、印南野台地付近は1.250mm前後で、1.000mmの開きがあります。

 印南野は、きわめて雨の少ない地域です。

 一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の降水量しかありません。

 兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

 積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

 この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

 雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

 夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

    苦難に立ち向かった人々

 印南野台地には多くの溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

 雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な不利な条件でした。

 さらに「水利権」という社会的な条件が加わったのです。

 

 *図:兵庫県の降水量(県気象年報・S45‐54年)

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