ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

新野辺を歩く(60):新野辺大歳家④、村方騒動(1)・積立金の一件

2012-08-31 06:55:25 |  ・加古川市別府町新野辺

万延元年(1860)から文久二年(1862)にかけて、新野辺村でおきた村方騒動をみておきます。

   村方騒動

64996903「小百姓」が集まり、不作のため「積立金」の支払いを庄屋・宗四郎に求めました。この時は「支払期日になっていないのでできない」と、支払いを断りました。

「小百姓」達は、納得できません。

また、庄屋・宗四郎が取り集めた講の積立金も一部しか渡さず、残りを自ら預かっていながら、支払いを延ばしていました。

積立金の支払いに不安を感じた「小百姓」が、度々支払いを求めました。

この騒動は、万延元年の不作のため生活に困った「小百姓」が庄屋・宗四郎に対し、安政元年に取り決められた積立金の支払いと、宗四郎が預かっている講の加入金の支払い要求したものでした。

 騒動のはじまり (万延元年1128日~125)

11月末から「小百姓」は、積立金の不払いについて集まりました。

その時、「小百姓」の集まりとは別に住吉神社の氏子の主だった者(以下、頭分とする)と印形頭が村の会所で寄り合いをしていました。そこへ「小百姓」が多数押しかけました。

 そこで、小百姓たちは庄屋・宗四郎の積立金不払いを訴えました。

庄屋・宗四郎が講出資金の支払いを行わない中で、とりあえず、大歳藤七郎と梅谷三右衛門は、独自に三貫目の支払いを行っています。

② 庄屋・宗四郎の退役願いをめぐって

 「小百姓」たちが庄屋・宗四郎の糾弾を進める中で庄屋・宗四郎は病気を理由に庄屋の退役願いを提出しました。

 1226日、退役願いを受けて大庄屋・大歳藤七郎と頭分は話し合いました。

頭分たちは庄屋・宗四郎の退職を求めたのですが、大庄屋・大歳藤七郎は、庄屋・宗四郎をしばらく「病気養生中」として期限をつけながらも植田村庄屋・井上恵助の庄屋兼帯を藩へ上申し、井上が新野辺村の庄屋を兼ねることになりました。

 積立金支払いをめぐって (文久元年1月16日~230)

文久元年、116日から、いよいよ大庄屋大歳藤七郎らにより積立金の問題についての調停が行われました。

庄屋・宗四郎を立ち会わせて積立金の取調を行っています。

その中で、大歳家が豊後屋善兵衛家へ入れた銀15貫目の借用書を宗四郎が差し出し、積立金の内から銀15貫目を大歳家へ貸し付けていることが判明しました。

これをうけて大歳藤七郎が宗四郎の言い分を委細を取り調べているのですが、それ以上、何も記録が残されていません。

が、おそらく、宗四郎の主張は事実だったと思われます。

しかし、事はそれだけでは終わりませんでした。

214日になって「村方」が今度は講の積立金・二貫目の不足を主張し始め、再び調停が行われています。

この調停には、大庄屋大歳藤七郎、兼帯庄屋・井上恵助等が取り調べ、さらに大歳藤七郎と対時する「村方」の中心の頭分と判頭惣代(五入組頭の惣代)が含まれていました。

新野辺村は、もはや大歳家の一存では運営できない状態でした。

この件は、宗四郎の病気全快後に支払いを行うこととなり、頭分が積立金の一部を家別に割り渡して、230日に一応の決着を見ました。

 新野辺村の村方騒動についてもう少し続けます。

*『ヒストリア(193)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(59):新野辺大歳家③・たかまる小作百姓の不満

2012-08-30 07:05:05 |  ・加古川市別府町新野辺

   大歳家:新野辺村の小作人は77人

96b7ca2d安政元年(1854)当時、大歳家は新野辺村において分家を含め97石を所持していました。

新野辺以外の土地を拡大させつつも、新野辺村の所持地こそが、大歳家の経営の中心でした。

安政元年四月の大歳家に残る古文書によれば、大歳家は分家を含んだ村内の所持地と数石程度の池田村・別府村内の所持地とを一括して管理し、この年、田地から年貢米と小作米150石弱、畑地から1貫856匁余を得る予定でした。

そのうち大歳家の自作地からは米9石弱を得るに過ぎず、大半が小作地でした。

大歳家は、小作地では80人の小作人を抱え、うち77人が新野辺村の百姓でした。

所持地の大半を小作地とし、新野辺村の百姓を数多く小作人としてかかえていたのです。

おそらく梅谷家も大歳家と同様の地主経営を行っていたと考えられます。

    たまる下層農民の不満!

万延元年(1860)も5月上旬と7月の台風によって安政4年と同じく不作となりました。

新野辺村も他村と同様に藩へ手当米(給付米)を出願しました。

921日、代官によって見分が行われ、庄屋・宗四郎へ手当米411斗が申し渡されました。

その翌日の事です。村役人・住吉神社の氏子代表・五人組頭により、手当米の披露が行われ、その後、大歳・梅谷家に対して小作料の減額について話し合われました。

新野辺村の百姓の多くが大歳・梅谷両家の小作人でした。

この話し合いでは、村役人(五人組頭)の惣十郎と久次兵衛が小作人の側にたって行動しています。

大歳家が庄屋就任後に新野辺村で所侍地を急速に拡大させています。

それにより村内では地主・小作関係が強まり、大歳家と住吉神社の氏子、五人組頭、そして下層小作人との間に対立が生まれていました。

そしえ、大歳家が金銭問題に絡み、大庄屋と兼任していた庄屋を退役させられ、その後、大歳家は村において大きな発言権を弱めました。

それは、大歳家とおなじ経営を行っていた梅谷家も同じで、村運営における発言権を弱めています。

このあたりの事情を次回でも、さらに検討することにします。

*『ヒストリア(193)』(大阪歴史学会)より「播州姫路藩における大庄屋と村」(羽田真也)参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(58):新野辺大庄屋②・新野辺村は三重構造

2012-08-29 08:34:51 |  ・加古川市別府町新野辺

*今日の報告は、「新野辺大歳家」についてまとめるため「新野辺を歩く⑬」と重なっています。後日、整理編集します。ご了承ください。

 大歳家は、多くの貴重な古文書が保存されていることでも知られています。

嘉永四年(1851)当時の古文書から村の様子を拾ってみます。

    新野辺村は三重構造の村

A4c6bdff羽田真也先生(関西学院大学)は、幕末の新野辺村の特色を「大歳家文書」から次の3点(①~③)を指摘されています

今日の報告は『ヒストリア(193)』の羽田先の「播州姫路藩における大庄屋と村」を参照させていただきました。

 新野辺村の土地は、ほぼ村内だけの所有

この件については③にみます。

 突出した大歳家・梅谷家の土地所有

当時、梅谷三右衛門家が143石弱、大歳慈父右衛門家が96石の所持高でした。

所持高第3位の善兵衛家が21石で、新野辺村では梅谷・大歳家が突出しています。

梅谷家は、近世初頭から18世紀後半まで大歳家と交替するまで庄屋を務めていました。

大歳家は、元文二年(1737)当時334石であったこと、文政10年(1827)前後に所持高が52石余であることなどから、梅谷家とは対照的に18世紀末の庄屋就任以降土地を集積しています。

 多い無高層・小高持層 

もうひとつの新野辺村の特色は、無高が61軒、所持高1石未満が56軒、1石以上3石未満の29軒を占めており、これだけで軒数の57%を占めていることでした。

このように、生産高から見ると梅谷家と大歳家が突出した所持高を有し、その対極に無高層・小高持層が多数存在する村でした。

しかし、村への村の必要経費の負担額から判断すると、土地の所持高からだけでは判断できません。

新野辺村では商業活動に励んでいる百姓が多数存在していたことです。

幕末期の新野辺村は、梅谷家と大歳家が突出した大百姓である一方では商業流通にかかわって成長を遂げる百姓も多数存在していました。

しかし、これらの対極に零細経営の百姓が分厚く存在するという状況でした。

大歳家・梅谷家を突出した大百姓と紹介しましたが、両家は自ら直接米の生産にたずさわったのではありません。

梅谷家・大歳家の土地は当然小作に出されました。

新野辺村には、零細経営の百姓が分厚く存在していました。かれらは、梅谷家・大歳家の土地を小作していました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(57):新野辺大歳家①・新野辺組大庄屋

2012-08-28 00:09:37 |  ・加古川市別府町新野辺

新野辺の大歳家について調べることにします。

新野辺村の大歳家は、天明八年(1788)~寛政二年(1795)頃に新野辺村の庄屋を務めていました。

 文化元年(1818)11月、大歳吉左衛門は大庄屋格となり、そして天保9(1838)大歳藤八郎は、新野辺組の大庄屋となりました。

大庄屋任命後も安政治九年(1854)まで新野辺村の庄屋を兼ねていました。

藤八郎が大庄屋に任命された理由は、はっきりとは分かっていません。

新野辺組大庄屋・大歳家

78s大庄屋と大歳家について「新野辺を歩く(3)」をご覧ください。復習をしておきます。

・・・・

江戸時代、各村には村を治めるために庄屋がおかれました。大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋のことです。

 庄屋の中の庄屋という存在で、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいます。その組の名は、ふつう大庄屋の住んでいる村名で呼ばれました。

ですから、大歳家のおさめる村々は、「新野辺組」でした。

新野辺組は、天保9~明治4年(183871)、新野辺村の他11ヶ村(北在家・植田・備後・別府・口里・長田・今福・養田・池田・小松原・高砂・荒井)と2新田からなる組でした。(新野辺組の村々については「新野辺を歩く・3」の地図をご覧ください)

 各村におかれた庄屋とちがい、大庄屋は苗字・帯刀をゆるされ、農民の代表というより、藩(姫路藩)のお役人のようでした。(以上「新野辺を歩く・3」より)

大庄屋は、藩が自らの意思で選び、庄屋などの意見は考慮されていません。

大庄屋の主な仕事をあげておきます。

  藩の代官から伝えられる法令・命令・お触れを各村の庄屋へ伝達すること。

  組内の百姓の訴訟を解決すること。

  藩への願いなどに奥印をすること。

*写真:大正7・8年頃の大歳家

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(56):二割打ちだし③・新野辺村の減税はなし

2012-08-27 08:44:25 |  ・加古川市別府町新野辺

増税:姫路城建設・家臣団の増収のため

D3d643c4池田輝政が藩主として姫路に入ったのは慶長5(1600)秋のことでした。

さっそく、増税を実施しています。

あの壮大な姫路城・姫路の町づくりに取り組まねばならなかったためです。

とにかく、石材や木材の運搬、石垣積み、堀の掘削、城下町づくりなどに巨費が必要になりました。

これらの巨費は、全て村高を基準として徴収されました。

そのため、輝政はその費用をひねり出すため村高を平均2割も高く設定しました。

慶長14年(1609)秋10月、あしかけ8年に及ぶ大工事で堂々とした姫路城は完成しました。

動員された人数は述べ2400万人。

他の増税の理由は、家臣団の増収でした。

播磨の百姓は、この重税に黙っていたのでしょうか。

史料がないために、詳細はわからないが、弾圧のために黙らざるを得なかったようです。

  

 新野辺村は減税なし

それにしても、百姓衆の疲弊はひどいものでした。

池田氏は、姫路城完成後、「ゆるみ検地」(減税)を実施しています。

その状況を、新野辺村にみてみましょう。

19世紀前半の新野辺村の年貢基準収穫高はおよそ928石でした。

これは、江戸時代の池田時代の「2割打ち出し」のままの数字です。

『加古のながれ』(加古川市)は、「(新野辺村は)池田時代の村高で幕末まで徴収うけたのです」と指摘している。

新野辺村では「ゆるみ検地」は実施されなかったようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(55):二割打ちだし②・もとは741石の村

2012-08-26 10:24:13 |  ・加古川市別府町新野辺

 今日の記事は前号の補足です。

厳しい年貢

26687f75_2寛延三年1750)年の新野辺村の明細帳の最初の部分を読んでおきます。

(解読文)

         加古郡高砂組

             新野辺村

 一 本高 九百弐拾八石斗弐升  本田畑

   此反別五十拾七町壱反八畝三歩

    

寛延三年、新野辺村の石高は928石は82升でした。

江戸時代の最初の頃の新野辺村の石高は925111合の村でした。

 あまり変わりません。

つまり、江戸時代中期も江戸時代の初めに設定された石高が続いています。

  もと、新野辺は石高741石の村

しかし、前号で紹介した幕府に提出された正保の郷帳(ごうちょう)に記された新野辺村の新野辺村の石高は741663合となっています。

 これは、どうしたことでしょうか。

 その事情をみてみよう。

 姫路藩は、もともと新野辺村の石高は、およそ741石の村であり、それを幕府に届けています。

が、実際は約925石の村として、それに対して税金を課しているのです。

 741石で税金を取られても多く農民の生活は楽ではありません。

 741石の新野辺村の石高は、太閤検地をもとにした石高であったと思えます。

太閤検地の実施された文禄のころと言えば、国をあげて朝鮮半島へ侵略が開始された時代でした。

戦費を調達するために、検地は厳しいものでした。

太閤検地に数値は、すでに相当の無理をしたものであったと思われます。

 新野辺村の収穫高741石がその数字なのです。

 しかし、江戸時代を通じて、他の村々も事情は同じであるが、姫路藩ではさらに約2割の上乗せをして各村の石高を決めています。

 新野辺村の場合、925石がその数字です。

 農民の悲鳴が聞こえてきそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(54):二割打ちだし①・緊急措置

2012-08-25 06:58:08 |  ・加古川市別府町新野辺

池田輝政、姫路へ入城

189639fe関ヶ原の戦で、加古川近辺の支配者はほとんど西軍側に属し敗北しました。

そのため、多くは領地を没収され、または削減されました。

論功行賞が、関ヶ原から1ヵ月後の1015日に発表され、姫路へは、徳川家康の女婿(家康の二女富子)の池田輝政が新しい支配者として封じられました。

前任の三河・吉田(現:豊橋市)152千石から播磨・姫路52万の大名としての入城でした。

時期は、ちょうど年貢徴収期に当たりました。

まだ、姫路での支配についての、詳細なきまりはできていません。

でも、さっそく年貢徴収の作業に取りかかりました。

姫路での最初の作業でした。

そこで、とりあえず前例に倣ったと思われる税の徴収を実施しています。

当時は、家臣に土地を与え、その支配する村々から家臣に年貢の徴収を任せていました。

新野辺村は、家臣・福田牛介の支配地となりました。

彼は、当時下に示すように、新野辺村の外、口里村・河原村の土地の租税徴収の役割を与えられました。

 慶長五年(1600)新野辺村の年貢:約47

一 2145斗 定納        加古郡

                               河原村

一 15375升 定納       同 口里村

一 354572合 定納      同 新野辺村

合 722822

姫路藩には太閤検地帳が残っていないため、当時の各村の村高(生産高)が分かりません。

しかし、「正保郷帳」(正保三年・1646)に記されている村高と大差がないと思われます。

「正保郷帳」による新野辺村の村高は759867合ですから慶長五年の新野辺村の年貢は354577合ですから、年貢率(免相・めんあい)は46.7%になります。

池田輝政の姫路への入城時の新野辺村の年貢は収穫の約47分ということです。

   慶長六年(1601)約2割の増税!

これに対して、慶長六年(1601)の村高は、河原村が58847升、口里村が48239升、新野辺村925111合となっており、慶長六年の村の収穫高の方が22分も多い数値をしめしています。

つまり、慶長六年は、太閤検地の村高を2割ほど増やし、増税を行っているのです。

 *『加古川市史(第三巻)』参照

 *各話題や時代に脈絡がなく申し訳ありません。後日整理します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(53):加古川市との合併④・合併なる

2012-08-24 00:11:19 |  ・加古川市別府町新野辺

 加古川市との合併決まる

高砂町との合併は、高砂町を中心にしたものであり、はじめから別府町としては気乗りがありませんでした。

 二見町は、袂をわかって明石市へ去ってしまいました。

 そして、阿閇村(現:播磨町)は孤立路線を選択しました。

別府町としては、孤立路線をとるか、加古川市との合併話を進めるかの選択肢が残されるだけとなりました。

  

  別府港改修問題

D5d74994  こうした中で、突然の転機が訪れました。

 別府町は、かねてから国や県に別府港の改修を陳情していました。それが認められたのです。

 しかし、総工費は三億円と見積もられ、地元負担は25分でした。

 別府町の負担は、7500万円となりました。別府町単独では至難の事業でした。

 この時、加古川市長から別府町に「・・・合併を考慮にいれずとも、地方発展のため相互援助を期し、税外収入の道を計り、極力協力したい・・・」との申し出がありました。

 この「別府港改修問題」をきっかけに、加古川市との合併問題は急展開しました。

 なお、両市町村は、阿閇村に対しても合併の話しかけを行ったのですが、阿閇村は加古川市との合併を選びませんでした。

 かくて、別府町は、加古郡の他の町村に遅れること1年余、昭和26年(1951)101日加古川市と合併しました。

 昭和26101日、別府町新野辺は、加古川市別府町新野辺となりました。

 整理しておきます。

 ・明治2241日 別府村・新野辺村・西脇村は合併して別府村となる。

 ・昭和3115日 別府村は別府町となる。

 ・昭和26101日 別府町は加古川市と合併する。

*写真:別府町・加古川市合併調印式(『加古川・高砂の100年』(郷土出版社)より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(52):加古川市との合併③・土山駅前問題

2012-08-23 11:17:37 |  ・加古川市別府町新野辺

 土山駅前問題

324cb1b 「世論調査の投票」(拘束力を持たない)の結果は、別府町と加古川町の合併は反対となりました。

 結果、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併の協議にはいりました。

 事態は、加古川市制実施予定の61日に向けてますますの緊迫してきました。

 町長・町議会とも最終的な態度を決めなければならなくなりました。

 そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めたのです。

 投票は、昭和2556日に実施され、結果は次のようでした。

    加古川町との合併賛成     1250 票

      〃     合併反対     1164 票 

 *この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがありました。

 結果は、加古川町との合併賛成が反対を上回ったのですが、その差はわずかに86票でした。

 一部の議員からは「町長リコール」・「分村してでも・・・」という言葉まで飛び出しました。

  土山駅前問題

 このようなもたつきの中、二見町は明石市との合併を決めてしまいました。

 そして、阿閇村(現:播磨町)では「土山駅前問題」が発生しました。

 土山駅前は加古川町・阿閇村・魚住村・二見村が入り組んでいます。

 その内、阿閇村に属している土山駅前商店街が、加古川町への合併を強力に推し進めようとしたのです。

 阿閇村はさまざまな思惑と利害が対立し、村内がまとまらなくなってしまいました。

 そのため、合併の是非を問う住民投票を実施しました。

 その結果は次のようで、はっきりと加古川町との合併を拒否しました。

      現状維持  2548 票

     合併賛成  1502 票

 二見村は明石市と合併し、阿閇村は明確に合併を拒否したのです。

 別府村は、投票の結果、加古川町との合併を決めたのですが、なにせ小差でした。

新たな情勢で別府町は、最終判断を迫られました。

*『加古川市史(第三巻)』参照、写真は土山駅前

 今「新野辺を歩く」で「新野辺の歴史」をまとめています。そのため以前書いた文章も再度取り上げますがご了承ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(51):加古川市との合併②・町長、木下収

2012-08-22 10:27:11 |  ・加古川市別府町新野辺

 加古川市との合併②  町長・木下収

   9499783d 三つの合併構想により別府町内の意見は分裂しました。

 そんな中にあって、町長・木下収は終始加古川市との合併を積極的に呼びかけ、町内の意見のとりまとめを図りました。

 彼は、「シャープ勧告、保健衛生、産業発達計画、教育文化に関す問題、住宅建設・失業対策等の社会問題、警察と消防、農業問題から見た合併問題、徴税方面から見て、総司令部の意見は・・・」と多方面にわたり町民に加古川市との合併の必要性を訴えました。

 彼の意見は『加古川市誌(第二巻)』・『加古川市史(第三巻)』に詳しく述べられているので参照ください。

 町内の合意形成を目指した木下町長でしたが、まとまらず、昭和25年(1950年)24日、町議会が開催され「(加古川市との合併に対する)世論調査の投票」を行うことが決定しました。

 昭和2529日、投票は実施され、結果は次のようでした。(投票率 87.11%)

    投票総数 2745票 (他に外国人 80票)

    有効投票 2723票 (他に外国人 71票)

          賛成  1165票

           反対  1558票 

 結果は、加古川市との合併反対が賛成を393票も上回るというショッキングな結果でした。

 木下町長は、即日辞職願を提出しました。

町議会で、彼の辞職願は留意され撤回されましたが、ここに加古川市との合併は一頓挫してしまいました。

*『加古川市史(第三巻)』参照

  写真:木下収氏(1956年撮影:当時54才)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(50):加古川市との合併①・三つの合併構想

2012-08-21 07:59:57 |  ・加古川市別府町新野辺

話題をガラッと変えて、別府町つまり別府町新野辺の加古川市への合併の裏話を4回シリーズで取り上げます。

*「新野辺を歩く」は、まとまった内容・順序だった報告になっていません。読みづらいと思いますが、ご了承ください。

 加古川市との合併

Bd4e0317  別府町は、昭和26年(1951101日、難産の末、結果的には加古川市と合併しました。

 別府町は海運船舶業がさかんで、別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真でした。

そのため、別府町への合併の誘いは、加古川市だけではありませんでした。

  三つの合併構想

加古川市から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)でした。

 当時、加古川市との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。

 一つは、加古郡別府町、阿閇村・二見町が合併する東播臨海都市建設構想でした。

 神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和241117日)と報じました。

 今にも、別府と阿閇・二見との合併が実現しそうな雰囲気でした。

 もう一つは、加古郡別府町、高砂市、尾上村、荒井村、印南郡伊保村との合併構想です。

 高砂・尾上・荒井・伊保、そして別府を加えて一海岸都市を構想していました。

 高砂市長のこの構想は、高砂・伊保を中心とする構想であり、別府町にとっては少し面白くありませんでした。

 ともかく、合併の利害が対立し、別府町内は分裂状態となったのです。

*『加古川市史(第三巻)』参照

写真:別府町・加古川市の合併式

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(49):民話・ひし形池の豆だぬき

2012-08-20 07:20:17 |  ・加古川市別府町新野辺

前号で、「・・・五ヶ井郷の村々は水が豊かでほとんど池がありませんでした。

しかし、新野辺村だけは、少し事情が異なり五ヶ井用水の終点で、水が確実に届く保障がないので、五ヵ井用水の水を貯めておく池が必要でした。

寛延三年(1750)の明細帳に、新野辺村には大小あわせて41ものため池があったと記されています」と紹介しました。

おそらく、そのため池の一つが「ひし形池」だったのでしょう。

「ひし形池」に、こんな話がありました。

(民話)ひし形池の豆だぬき

2593e2f1むかしむかし、新野辺にひし形の小さな池がありました。

その池のまわりには、うるし、つばき、竹などが生いしげって、池の南がわには一本の大木がありました。

その大木の根もとに豆だぬきが住みついていました。

ま夜中のころでした。

ひし形の池の近くを通ると、大木の根もとから赤ん坊が泣いているような声が聞こえました。

悲しそうな声でした。

ある時、池の持ち主が、その大木を下から一間(いっけん・約180メートル)ぐらいのところを切りはじめました。

すると、切り口から水がタラタラと流れ出してとまりません。

そこで、高いところをから、やっと大木をきりたおしました。

ところが、一日がたってから、大木を切りたおした人は豆だぬきが、恨(うらみ)をもち復讐したのか急に体が痛くなって、暴れまわったと言うことです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(48):五ヶ井用水⑧・新野辺村のため池

2012-08-18 22:38:17 |  ・加古川市別府町新野辺

  

   新野辺村のため池

7f7dc13f_2新野辺村は、五ヶ井用水の村(五ヶ井郷)です。

五ヶ井の流れは、神野町西条の城山(じょやま)のところで加古川から水を取り入れています。水の豊かな用水です。

用水は、池を伴うのがふつうです。

旱魃の時などは、田植ができません。そんな時のために水をためておく、ため池がつくられました。

しかし、五ヶ井用水ばかりは、その心配がほとんどないほど水の豊かな水がありました。

そのために、五ヶ井用水の村々(五ヶ井郷)には池がありません。

しかし、新野辺村だけは少し事情が違います。五ヵ井郷の村ですが、五ヶ井用水の終点で、水が確実に届く保障はありません。

そのため、五ヵ井用水の水を貯めておく池が必要でした。

寛延三年(1750)の明細帳には新野辺の溜池についての記載があります。そのカ所を読んでおきます。

(解読)

田地植付之

一 溜池  長弐拾間より百九拾弐間迄 拾九ヶ所

       幅五間より三間迄  

  右は平松五ヶ井水之戸尻故植付之節例年水廻り遅ク御座候

   ニ付植付かゑ水ニ而御座候

右同断

 一 溜池  長六間より拾九間迄    弐拾弐ヶ所

       幅三間半より六間迄

 (文意)

 新野辺村は、五ヶ井用水の一番最後(戸尻)にあたり、例年水廻りが遅いため、田植えのため、また、かえ水のために、比較的大きな溜池が19ヶ所と小さな溜池が22ヶ所あります。

 新野辺村には、大小あわせて溜池が41もあったといいます。現在は、ほとんど姿を消しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(47):五ヶ井用水⑦・新野辺村と長砂村の水争い

2012-08-18 06:44:41 |  ・加古川市別府町新野辺

「新野辺を歩く(45)」で、延宝四年に起きた長砂との水争いを紹介しましたが、同じ様な水争いは、しばしばありました。

寛政九年(1797)にも新野辺村と長砂村の水争いがおきました。

そのようすを、『加古川市史(第二巻)』(p489)に見ておきます。

  長砂村と新野辺村の水争い

Cd42e2d長砂村のいい分は次のようでした。そして、新野辺村を相手取って姫路藩に訴え出ました。

「・・・五ケ井用水の余り水を受けている長砂村の者が、日照りで水が入りにくくなったため、認められている余り水を受けている水筋の取水口から桶・抱え桶・踏車・龍骨車などで、水をかえ取り長砂村の田地に水を入れただけでした。

そこへ、新野辺村から庄屋以下大勢の人足がやって来て悪口をはきながら熊手やとび口・唐鍬などで寵骨車などの道具を破壊し、さらに村の者をなぐる等の争いになりました」と。

この訴えをうけた新野辺村は、次のように答えています。

「・・・長砂村が(認められた)川筋だといっているのは、新野辺村への五ケ井用水の川筋で、安田村から坂井村まで達する川のうちの、長砂村と新野辺村の境を流れる溝の事です。

番水の立て札を立てるために10人が出向いたところ、長砂村の者が水をかえ取っているので中止させたのです。

新野辺村が水をとっている取水口の上手南側の新野辺村壱丁田に堰が二つあり、そこから長砂村の田65(87枚とも)、高1059斗余に余水を流している。

そのため、年々ニヵ所に堰をするときには長砂村から人足2人が出、俵20を出している。長砂村の訴えは心得違いである」と返答しまた。

   新野辺村の主張が認められる

この水争いは、新野辺村の主張が全面的に認められ、長砂村に次の条件を確認する一札を入れました。

  長砂村の105石余の田地への水については、新野辺村の指図に従い、余水をもらうので、水料として米6升を渡す。

  壱丁田にある両堰をするさいには、長砂村は人足二人、明き俵20表差し出す。

  水入れの世話料として米一斗を新野辺村に渡す。

  今後は、取水口の用水について新野辺に差しさわりになるようなことはしない。

 *図:踏車(『加古川市・第二巻』より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新野辺を歩く(46):五ヶ井用水⑥・干ばつ後、大雨

2012-08-17 16:34:33 |  ・加古川市別府町新野辺

一転して大雨に(寛政元年・1789)

前号の続きで、旱魃の後日談です。

今回の話題は「五ヶ井用水」と関係ないのですが、続きとしておきます。

寛政元年の旱魃は、とにかくすごいものでした。当然のように雨乞いが行われました。

新野辺村では68日日(太陽暦:630日)三夜続きで半鐘、太鼓、ほら貝を鳴らし、棒や杭で作った松明を持っての行列でした。

610日にはやっと雨となりました。

旱魃が一転して大雨に(寛政元年・1789)

4178c472『今里傳兵衛と新井の歴史』(新井水利組合連合会)に、後日談があるのでおかりします。

ひにくにも、雨乞いの後、日照続きが一転して大水となりました。

「・・・・少し遅れの田植をやっと済ませた4日後の79日(太陽暦)の夕方から大雨となり、翌朝までに大樋に一尺もの水がたまったほどでした。

別府川堤防にあがって川上を見ると、一面池のようになっていました。

村役人たちは相談のうえ、緊急措置として高潮の流入を防ぐ「ウテミ」を切放ちました。

村中男一人残らず人足を出してのことです。

10日朝、近くの村々から急を知らせる早鐘、早太鼓、ほら貝が鳴り渡ったので、若者四人を養田へ遣わしました。

途中、船に乗って養田・長田へ渡り、刀田山(鶴林寺)へ行ったところ、今福、安田、尾上神社の一帯は、みんな池のようになっていました。

その光景に肝を冷やして帰ってきました」(大歳家文書より意訳)

以上の文章は、『今里傳兵衛と新井の歴史』からお借りしました。(少し文体を変えています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする