水をもとめて
その北東隅に雌岡山(めっこうさん)が聳えています。
雌岡山あたりに、十分な水があれば、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。
しかし、高さ249.5㍍の小山では、広い台地を潤す十分な水はありません。
「その向こうに長く連なる丹生山(たんじょうざん)、帝釈山(たいしゃくさん)やったらもっとぎょうさん水があるやろな・・・」と考えた人がいました。
明和八年(1771)年、神出東村の人でした。
名前は分からないのですが、測量図が残されていました。
国岡新村の福田嘉左衛門は、この計画のことを知りました。
淡河川・山田川から神出(かんで)の練部屋(ねりべや)にいたる水路を造ろうと考え姫路藩に申し出ました。
文政九年(1826)のことでした。
姫路藩としても工事の許可を出すわけにはいきません。
取水口やそこからの水路は他藩の領地を通ることになるからです。
そして、明治初年、打ち続く旱害の中で神出東村の藤本増右衛門が、またまた用水の計画をつくりましたが、この時は協力する者がいませんでした。
明治4年(1871)、廃藩置県で藩の壁がなくなり、工事を妨げていた大きな障害が一つなくなりました。
夢の実現へ
この年、野寺村の魚住完治は国岡新村の福田厚七、花房権大夫、神出村の西村茂左衛門とはかり、藤本増右衛門を招いて測量のことを聞くことにしました。
増右衛門は、自信をもっていいきるのでした。
「でけます。ただ、工事費がかかります。一つや二つの村では、とてもやないがでけまへん・・・」
増右衛門は、工事のことを詳しく説明しました。
練部屋(ねりべや)から山田までは、そない難しい工事になりまへんが、ただ、シブレ山の北は谷が深うて、はかまの裾みたいになっとります。
そやから、そのヒダにそって水路をグニャ・グニャの曲げるか、ひだに穴あけ谷に橋かけないけまへん。
なんぼ田んぼつくっても、水がなかったらどうにもなりまへん。
印南野の百姓が、人なみに生きようと思うたら川から水引かなあきまへん。
・・・・・
魚住完治は、出入りの多い地形を幾度と測量しました。
そして、路線を変更し、見積もりを訂正しました。
完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。
練部屋(ねりべや)まで水が来れば、水路の完成はできたも同然です。
印南野台地は、適度の勾配を持つ地形です。水路をつくれば水は自然と印南野台地を流れてくれるはずです。
夢の計画は、産声をあげました。
*『赤い土』小野晴彦著参照
図:『わたしたちの稲美町(3・4年用)』(稲美町小学校社会科部会編集)より