ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(483):蛸草を歩く(26)・水を求めて

2011-04-30 08:34:05 |  ・稲美町加古

  水をもとめて

Ce81b701印南野台地は、南と西に徐々に低くなっていいます。

その北東隅に雌岡山(めっこうさん)が聳えています。

雌岡山あたりに、十分な水があれば、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。

しかし、高さ249.5㍍の小山では、広い台地を潤す十分な水はありません。

「その向こうに長く連なる丹生山(たんじょうざん)、帝釈山(たいしゃくさん)やったらもっとぎょうさん水があるやろな・・・」と考えた人がいました。

明和八年(1771)年、神出東村の人でした。

名前は分からないのですが、測量図が残されていました。

国岡新村の福田嘉左衛門は、この計画のことを知りました。

淡河川・山田川から神出(かんで)の練部屋(ねりべや)にいたる水路を造ろうと考え姫路藩に申し出ました。

文政九年(1826)のことでした。

姫路藩としても工事の許可を出すわけにはいきません。

取水口やそこからの水路は他藩の領地を通ることになるからです。

そして、明治初年、打ち続く旱害の中で神出東村の藤本増右衛門が、またまた用水の計画をつくりましたが、この時は協力する者がいませんでした。

明治4年(1871)、廃藩置県で藩の壁がなくなり、工事を妨げていた大きな障害が一つなくなりました。

  夢の実現へ

この年、野寺村の魚住完治は国岡新村の福田厚七、花房権大夫、神出村の西村茂左衛門とはかり、藤本増右衛門を招いて測量のことを聞くことにしました。

増右衛門は、自信をもっていいきるのでした。

「でけます。ただ、工事費がかかります。一つや二つの村では、とてもやないがでけまへん・・・」

増右衛門は、工事のことを詳しく説明しました。

練部屋(ねりべや)から山田までは、そない難しい工事になりまへんが、ただ、シブレ山の北は谷が深うて、はかまの裾みたいになっとります。

そやから、そのヒダにそって水路をグニャ・グニャの曲げるか、ひだに穴あけ谷に橋かけないけまへん。

なんぼ田んぼつくっても、水がなかったらどうにもなりまへん。

印南野の百姓が、人なみに生きようと思うたら川から水引かなあきまへん。

・・・・・

魚住完治は、出入りの多い地形を幾度と測量しました。

そして、路線を変更し、見積もりを訂正しました。

完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。

練部屋(ねりべや)まで水が来れば、水路の完成はできたも同然です。

印南野台地は、適度の勾配を持つ地形です。水路をつくれば水は自然と印南野台地を流れてくれるはずです。

夢の計画は、産声をあげました。

*『赤い土』小野晴彦著参照

図:『わたしたちの稲美町(34年用)』(稲美町小学校社会科部会編集)より

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稲美町探訪(482):蛸草を歩く(25)・地租改正⑥

2011-04-29 12:53:38 |  ・稲美町加古

 蛸草新村の理解のために、しばらくは蛸草新村の近辺の村々の話になります。

地租は決まったが

翌朝、(最後まで新租税を認めようとしなかった印南新村の)茂平次は姫路の宿舎を出て、一人村へ向かいました。

夏の日差しは、容赦なく茂平次に照りつけました。

藁草履もボロボロになっていました。

村人たちは、祖額に反対した茂平次のことをよく知っていました。

百姓は「お国も県もひどいことをしよる」とつぶやいた後、沈黙が続くばかりでした。

茂平次は、考えていることを話しました。

「どないしても、地価(地租)の見直しをしてもらわなあきまへん・・・」

茂平次は一同の気持ちを確かめるように、あたりを見まわしました。

   薄明かり・用水(疎水)計画の話

Tax_in_takokusa 話は別やが、野寺村の魚住完治はんが力をいれてはる山田川からの引き水のことやけど、まだ、いまのところどないなるかわからへん・・・

そやから、地価をみなおしてもらって、水が来るまで村が潰れんようにがんばりましょう。

翌日、茂平次は村に新祖額を伝えました。

改正祖額が伝えられると、内容は広まっていたものの、村人は激怒しました。

「役人は人殺しや・・・」と国・県をののしる者もいました。

怒りをどこへぶつけてよいのかわかりません。

 ・・・・

数日後、茂平次は地租請印取り消し上申書を県令(知事)に親展で提出しました。

予期したこととはいえ、何の音沙汰もありませんでした。(「稲美町探訪・47」より)

蛸草新村の記録はありませんが、印南新村と同じように百姓の怒りは爆発したと想像されます。

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稲美町探訪(481):蛸草を歩く(24)・地租改正⑤

2011-04-28 11:20:08 |  ・稲美町加古

  蛸草新村の祖額・旧税の11.23倍(明治11年)
 新祖額の調査が遅れて、発表が明治11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、910年度の分が加算されました。 

印南東部6ヵ村の税は、平均すると旧税の実に6倍という常識を超える額となったのです。 

明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)

印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7倍、野寺村6.80倍、蛸草新村11.23倍、下草谷4.00倍でした。 

455164f6旧税も納められないことが、しばしばでした。 

それなのにこの数字はなんとしたことでしょう。

明治11年、蛸草新村は11.23倍 もの課税となりました。

悪い時には悪いことが重なるのが常のようです。 

明治910年は、またもやこの地方に旱魃が襲いました。母里地区は田の植え付けは例年の40%に減らしました。 

畑は3040%の植え付けとなりました。 

こんな年には、旧藩(姫路藩)なら減税の上、救助米が支給されました。 

地租改正は、凶作により税の減収をなくすことを目的にしていましたから、凶作でも減税はありません。 

お救い米もありません。 

その上、先に書いたように、当地方の経済を支えていた綿作が、神戸港開港にともない安い、良質な外国綿の増加で、綿作は急激に衰退します。 

待ったなしです。 

方法は2つしか考えられません。 

一つは地価の修正を県に嘆願すること、もう一つはこの地に水を引くことです。 

  北条直正、加古郡長に就任 

薄明かりがひとつできました。 

明治121月、制度が変わり、郡が復活し北条直正(ほうじょうなおまさ)が加古郡長として赴任したのです。 

北条は、役人でありながら当地方の窮乏にきわめて同情的で、水利事業を高く評価していた人物でした。

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稲美町探訪(480):蛸草を歩く(23)・地租改正④

2011-04-27 08:10:55 |  ・稲美町加古

県は、印南野東部6ヵ村(現:稲美町母里地区)に対し、とてつもない祖額を申し渡しました。

これは、綿作の畑地は収益が高く見積もられたことも一因でしたが、何よりも、この地域は水が少なく、収穫が少ないため、他の地域よりも年貢が少なかったのです。

それが他の地域なみに祖額が決められたら一挙に税が高くなるのは当然のことです。

新しく地価を決めるため、調査官が来た時は、水田を減らし、畑をふやしていました。

たまたま、例年であれば日照で、ひび割れする土地もこの年は、水気を失っていましたがくずれませんでした。

これが災いしました。

調査官たちは、被害の実際を見抜くことができなかったのです。

農民の訴えは、税金逃れしようとする態度にしか写りませんでした。

    税は金納で!

さらに、地租改正では、祖額は地価の3%(明治10年より2.5%)で金納になりました。

祖額は、天候には関係がありません。収穫のないときでも容赦なく決まった税が課せられたのです。

それに、母里地区は、たびたび旱魃に見舞われました。そんな年は、藩は年貢を減らしてくれました。時には見舞金さえありました。

新政府には、そんな配慮はありません。

それに地租改正により税は、米ではなく金納にかわったことも農民を苦しめました。

B81df26e_2百姓には、たくわえなんてありません。

収穫の秋に、米は暴落します。

安くても、この時期に米を売らなければ借金は払えません。

どこまでも、百姓は苦しめられました。

    茂平次、新祖額に調印す

印南新村の戸長(村長)の茂平次は「こんな祖額は、お受けできません」と、きっぱりと断わりました。

掛長はいらだったのですが、茂平次は動じませんでした。

 担当官は、どうしても調印させたかったのです。

茂平次の宿舎までおしかけました。

説得は深夜にまでおよび、茂平治の意識はもうろうとしてきました。

そして、とうとう調印を承諾してしまいました。

厳しい 祖額は、現実となり容赦なく蛸草新村をはじめ印南野東部6ヵ村に襲ってきました。

*『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)参照

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稲美町探訪(479):蛸草を歩く(22)・地租改正③

2011-04-26 13:59:45 |  ・稲美町加古

 明治11年、蛸草新村へ新祖額の通達がありました。

なんと、旧税の4.96倍もの厳しい税率の通達でした。

このままでは村がつぶれてしまう数字です。

『稲美町史』からその数字を読んでおきます。

史料としてお読みください。

   

   明治9年改租通達  

   播磨国加古郡蛸草新村

Fd58cb38  一 田反別45町2反3畝10

    収穫米489石1斗2

     平均反当1石8升1合3勺3才内

    地価金19.701円40銭1

     地租金591円4銭2厘

      平均反当1円36銭6厘7毛内

 一 畑反別81町3反3畝19歩

    収穫麦938石2斗7升8合

     平均反当1石1斗5升3合5勺8才内

    地価金23.832円38銭9厘

     地租金714円97銭2厘

      平均反当87銭9厘余

 一 宅地反別9町2畝20歩

    地価金4.752円64銭2厘

     地租金142円57銭9厘

      平均反当1円54銭5厘3毛内

   合計

  反当135町7反9畝19歩

   地価金48.286円43銭2厘

   地租金1.448円59銭3厘   100分の3

 右者該村祖額明治9年分前書の通確定候定此旨相達候事

(訳:以上が蛸草新村の祖額です。明治9年の通達の通り確定した旨を通達します)

  明治11年7月24日       兵庫県令 森岡昌純印

    

   蛸草の税は、なんと約5倍に!

 旧税金(改正前の税)は田で130円49銭3毛、畑宅地で161円76銭7厘、合計292円26銭でした。

改正税は旧税に比べて田で4.5倍、畑宅地で5・3倍の効率が言い渡されました。

旧税でも完納は大変なことでした。

それが何と約5倍もの税が確定したのです。

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稲美町探訪(478):蛸草を歩く(21)・地租改正②

2011-04-26 07:57:17 |  ・稲美町加古

(「稲美町探訪・45」と同じ内容です)

厳しい祖額

明治10年の春でした。

地価を調査するための調査員が印南台地の村へやってきました。

百姓は、村の苦しい様を必死で訴えました。でも、その実態は理解してもらえなかったようです。

地租の内示は、旧祖額(江戸時代年の貢率)の3倍を超えていました。

印南野東部6ヵ村の赤松治三郎・井沢重太郎・松田宇在門・丸尾茂平次・松尾宗十郎・赤松治郎三郎は祖額の不当なことを県令に願い出ました。

しかし、予想していたとおり、返事はありませんでした。

(印南野東部6ヵ村:蛸草新・草谷・下草谷・野寺新・印南新・野寺の6ヵ村。これら6ヵ村は明治22年4月1日合併して母里村となる)

   なんと、蛸草新村の祖額は旧祖額の4.96倍に!

Fd8dcb65そして、明治11724日、新祖額が申し渡される日をむかえました。

印南新村の丸尾茂平次等は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。

会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。

県の掛長は、はっきりした声で述べました。

「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」

新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。

茂平次は、体のふるえが止まりません。

内示の額とほとんど変わっていないのです。

印南野東部6ヵ村の代表は改正係を取り巻いて、その不当な祖額をなじりました。

印南野でも、この6ヵ村が特に厳しい祖額の申し渡しになりました。

祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。

比較的少ない草谷村でも1.76倍でした。

江戸時代の年貢を完納することさえ難しかったのです。

それが蛸草新村は、なんと江戸時代の4.46倍の祖額が言い渡されたのです。

掛長は、「新しい制度には不備があろうが、猶予のならぬときである。・・・・きょうの六か村の祖額が間違いであったとしても、いずれ正される。

だから、今日は、ひとまず調印されたい・・・」というのが精一杯でした。

6ヵ村の戸長(村長)は、「県令」の強引なやり口をしっていました。

どうしようもないことを知っていました。

「(間違いは)いずれ正される」ことに期待し、印南新村を除いてしぶしぶ調印しました。

丸尾茂平次だけは調印をことわりました。

*『赤い土(小野晴彦著)』(神戸新聞総合出版センター)より

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稲美町探訪(477):蛸草を歩く(20)・地租改正①

2011-04-25 07:29:05 |  ・稲美町加古

  現在、稲美町の中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、「地租改正」は次のように書かれています。

  「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。

次いで、1974(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。

土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。

これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした

その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

    

       県令・森岡昌純

E67ead84 森岡昌純(もりおかまさずみ)で、まさに官僚主義そのもののような人物でした。

地図をご覧ください。明治9年、兵庫県・豊岡県・名東県そして飾磨県が合併して現在の大兵庫県となりました。(飾磨県は、江戸時代の姫路藩を範囲としています)

森岡は、飾磨県令から大兵庫県の初代県令になると、官吏が政治談議することを禁止し、自由民権運動を警察の力で弾圧しました。

また、彼は徹底した新聞嫌いで、県庁への新聞記者の立ち入りを禁止し、教師や生徒が新聞を読むことを禁じたりしました。

 こんな森岡が兵庫県の地租改正の先頭にたって指導することになったのです。

富国強兵を急ぐ新政府にはこんな人物が必要でした。

   県令、早期の地租改正を迫る

森岡昌純は、自信と満足感でいっぱいで、心に「地租改正」の早期実施を誓うのでした。

以後、県令の意を受けて、地租改正の作業は急ピッチで進められました。

そして、明治11年、新地租(税率)が各村々に申しわたされたのです。

以後、印南野台地の村々は、この地租改正との闘いが展開されることになります。

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稲美町探訪(476):蛸草を歩く(19)・印南野台地の綿作②

2011-04-24 07:28:54 |  ・稲美町加古

  綿作の広がり 

354fc29f 19世紀前半の文化~天保期(180449)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。

姫路木綿は「姫玉」・「玉川晒(さらし)」として、江戸でも高い評価を得るようになりました。

印南野台地では、水が得にくく水田開発が困難であるため綿・大豆・タバコ等の生産が中心でした。

特に、綿作は水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物となりました。

蛸草の資料が見つからないため、近くの野谷新村・草谷新村の数字をみます。

文化12年(1815)、野谷新村においては、綿は作つけ面積の25.0%を占め、また、明治元年(1868)、草谷新村では、51.2%もの作付面積を占めていました。

水田が少なく畑作が多い、蛸草新村も綿作が盛んであったと思われます。

     綿作の衰え

やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。 

それに伴い、機械紡績が始まり、安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。

明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。

特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。

復習をしておきます。

・綿作は、急速に衰えました。

・印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。

天は無情でした。

江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて日照は、村人におかまいなく襲い、大飢饉をひきおこしました。

印南野台地の人々は、この旱魃の被害をまともに受けました。

飢えに苦しみました。

さらなる苦難が百姓をおそいました。

新しい税制(地租改正による大増税)です。

挿絵:綿の花・『水を求めて』(兵庫県東播県民局)より

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稲美町探訪(475):蛸草を歩く(18)・印南野台地の綿作①

2011-04-23 08:11:26 |  ・稲美町加古

     

    木綿は藩の専売品に!

 Photo江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。

 家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。

 道臣は姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。

 しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。

 (オオサカに「大阪」の文字が当てられたのは明治以降のことで、江戸時代は「大坂」の文字がつかわれました)

そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできませんでした。

 江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。

 しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつもなかなか道臣の案に協力しませんでした。と、言うよりも協力できなかったのです。

    

     江戸へ綿布の販路を求める

しかし、それを押して姫路藩は江戸への綿(布)の販売をはじめました。

大坂の問屋筋は、さっそく反応しました。

 姫路藩への新たな借財への金利があがりました。

 道臣は、藩内の木綿業者に粘り強く協力を求めました。

 やがて大坂商人に対する不満が出るようになりました。

 さらに、風は姫路藩に味方しました。

 十一代将軍・家斉には一妻二十妾(しょう)の間に、五十五人の子どもをもうけましたが、四十三人目の喜代姫が、姫路藩の忠学(ただひろ)との結婚の儀がなったのです。

 姫路藩は、徳川家と親戚になりました。

 姫路木綿を専売品として直接江戸へ卸す話は一気に進みました。

姫路藩の綿布の専売制度は軌道に乗りました。

 この綿の専売制にともなって木綿の栽培は、水の少ない印南野台地の村々で盛んに栽培されるようになりました。

 蛸草新村もそんな村の一つでした。

 しかし、・・・

*『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(東洋経済新報社)参照

 写真:河合寸翁像(姫路神社)

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稲美町探訪(474):蛸草を歩く(17)・母里村蛸草誕生

2011-04-22 07:57:34 |  ・稲美町加古

ここで「お詫び」をしておかねばなりません。

シリーズ「蛸草をあるく」では順序として、次に江戸時代の蛸草新村を紹介しなければならないのですが、先に江戸時代末期から明治時代の蛸草を歩きます。

「蛸草を歩く」は、調べながら蛸草を紹介しています。理由は、江戸時代の蛸草新村について私が知らないだけのことです。調べてみます。

そのため、蛸草については時代・内容ともに順序だった紹介にならないと思います。このシリーズが終わった段階で蛸草の全体像をつかむことにします。

   母里村蛸草誕生(明治2241日)

D32f2cba 右の地図をご覧ください。

蛸草新村・草谷村・下草谷新村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヶ村が、明治2241日合併して母里村(もりむら)となりました。

そのとき、江戸時代の新田村をあらわした「新村」の名称はなくなり、それぞれ母里村蛸草・下草谷・野谷・印南となりました。

母里村のあたりは、印南野台地の中央部に位置し、『播磨風土記』の「望理の里(まがりのさと)」が地名の由来とされています。

つまり、望理を「もり」と音読して母里の字を当てたといいます。

そして、母里村初代村長として蛸草新村の岩本須三郎が就任しました。

幕末から母里村草谷誕生の間は、まさに母里村そして蛸草にとっては激動の時代でした。

しばらくは、この時代の蛸草を散策することにします。

*図は、『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課)(昭和37より)

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稲美町探訪(473):蛸草を歩く(16)・蛸草は稲美町天満にあらず

2011-04-21 15:30:54 |  ・稲美町加古

  

   蛸草は天満神社の氏子

115今『兵庫県神社誌』で「郷社 天満神社」の項を読んでいます。

その最後に、「寺社明細帳・宝暦10(1760)」の氏子の記載があります。

それによると、天満神社の氏子は、国安村・六分一村・森安村・中村・北山村・岡村・岡一色村・幸竹新村・国岡新村・蛸草新村とあります。

国岡新村と蛸草新村を除けば旧蛸草荘の地域に属していた村々です。

蛸草荘(郷)の村々は、もともと天満神社が氏神でした。

国岡新村は、寛文2年(1662)、国安村の庄屋・彦太夫と岡村の庄屋・安右衛門が中心となり開発した新田村です。

これまた、当然のごとく天満神社を氏神としました。

蛸草新村は、中村の小山五郎右衛門が中心となり、また蛸草郷から多く百姓が蛸草新田の開拓に当たり移住しています。

そのため、蛸草新村もまた天満神社を氏神としました。

現在も蛸草の氏神は天満神社です。

なお、現在の蛸草の旧家の多くが中村の円光寺や北山の常泉寺の檀家であるのも、祖先の出身地によるものです。

    

蛸草は現在、稲美町天満にあらず

とすると少しおかしなことに気付きます。

蛸草荘(郷)の村々は、蛸草を除き現在稲美町天満に属しています。

現在の蛸草の祖先の多くが、そのルーツを蛸草荘(郷)に持ちながら、現在稲美町天満ではなく、稲美町母里(もり)に属しています。

なぜ?・・・

*写真・天満神社

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稲美町探訪(472):蛸草を歩く(15)・神になった五郎右衛門

2011-04-20 10:22:53 |  ・稲美町加古

元禄10年(1697)のことです。

開発当時は畑のみでしたが、元禄15年(1702)に、村づくりをはじめ、翌16年(1703)には村の最も高い場所に広沢池・広谷池(明治24年拡張)を築き、水田2町歩を開きました。

蛸草大池(天満)大池の上流に池を築くことは、天満大池の水が少なくなり蛸草郷の反対があり難しい問題を抱えるのがふつうですが、五郎右衛門の強引な政治力がそれを可能にしたようです。

五郎右衛門が蛸草に残した足跡をとどめるための碑が残されています。

Tqakokusa2_014 その一つが蛸草中条墓地の碑です。

(「稲美町探訪(464)」より)

   

  神になった五郎右衛門

『稲美町史』には、もう一基、五郎右衛門の建てた碑を紹介しています。

その碑は、草谷天満神社の境内にある戎神社内にあります。

『稲美町史』の説明によれば、「蛸草開発人・小山五郎右衛門の碑はもと露天であったのを戎神社に合祀した」とあります。

なんと、現在、小山五郎右衛門はここに神として鎮座されています。

五郎右衛門の碑文は次のようです。  

   

豊岡弥兵衛殿     開発人へ

  本多中務大輔様     小山五郎右衛門

   木津半兵衛殿

 左の三人は、蛸草の開発にあたり直接関係した姫路藩の3人の役人でしょう。

そして、その他開発に当たった人々へ小山五郎右衛門が書き残しています。

戎神社の碑は、拝見できていません。『稲美町史』を参考に書いています。

後日、五郎右衛門の石碑を確かめ、写真もさしかえることにします。

*写真:写真は、草谷天満神社です。本殿に向かって右の境内社が戎神社。

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稲美町探訪(471):蛸草を歩く(14)・蛸草の開発

2011-04-19 07:21:39 |  ・稲美町加古

    水がない・・・

江戸時代初期は、戦国・織豊政時代に土木・築城・鉱山技術は大きく発達しました。時代は平和な江戸時代となり、初期のころこれらの技術は農業に利用され、新田開発はさかんに行われました。

17世紀の間に、表高15万石の姫路藩では、じつに13.000石もの新田が開発されました。

その中心となった場所は、東は明石川、西は加古川、北は美の川に挟まれた印南野台地でした。

この時期、全国的に川の上流部で堰を造り、分水し、それを水利のとぼしかった台地に引いて行う方法がとられました。

この方法が加古台地にも応用されました。

草谷川から分水した加古新村(現:稲美町加古)は、その代表的な例です。

詳しくは、「(稲美町探訪)加古を歩く」をご覧ください。

しかし、蛸草新村には、上流に堰を造り、水を引く川がありません。

     蛸草新村の開発・藩の援助なし!

B664d885蛸草の新田開発には、他にも不利な条件がありました。

17世紀に開発されたこの台地上の新田についてみておきます。

1660年代(明暦・万治・寛文期)に一つのピークを迎えます。

図の赤い地域がこの時期に開発された新田村です。

この時期、姫路藩は年貢を増やすために、新田開発について手厚い援助をしています。

特に、加古新村の開発では、姫路藩の熱の入れようは大変なものでした。

国岡新村についても、水の少ない高台にあったため、水がありませんでした。

が、藩は、北山所有の入ヵ池からの水を国岡新村に分けることを北山村に命令しています。

つまり、国岡新田の開発にも藩は加古新田のような財政的な援助はないものの、何かと援助を惜しみませんでした。

しかし、遅れて開発された緑色に彩色した地域の新田開発には藩の援助はありませんでした。

蛸草はこの時期に開発された新田村です。

開発には、必ず「水利権」の問題が発生します。

しかし、藩は「願があれば新田開発は許可するが、それらの問題解決に藩は関与しない」「開発に伴う問題は自分たちで解決しなさい」という姿勢でした。

蛸草新村には、先に紹介した当地域で絶大な政治力を持った小山五郎右衛門の活躍で開発は進められました。

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稲美町探訪(470):蛸草を歩く(13)・降水量

2011-04-18 06:17:18 |  ・稲美町加古

前号でも紹介したように、印南野台地は水を貯めにくいジャリまじりの土からできています。 

その上に、雨が少ない地域で、農業にとってまさに、三重苦を背負ったような地域です。

印南野台地の降水量のようすを見ておきましょう。

   稲美町の降水量

B833342f図で、兵庫県の年間降水量を確かめてください。

 平均降水量は、日本海側で多く20002250mmで、印南野台地付近は1250mm前後で、1000mmの開きがあります。

印南野は、きわめて雨の少ない地域です。

一月にいたっては、北部が250mmの降水量に対して、50mmと日本海側の1/4~1/5の程度の量しかありません。

兵庫県北部の冬の降水量は、もちろん雪です。

積もった雪は、地上に長くとどまり、徐々に土地に浸み込み、地下の水源となります。

この地下水が、灌漑用水として稲を育ててきました。

雪が、交通の妨げになり邪魔者扱いされるようになったのは最近のことです。

夏の降水量は、北部も瀬戸内地方もあまり大きな差はありません。

   苦難に立ち向かった人々

印南野台地には多くの多く溜池がありますが、水利権のために、水源からの水は、農閑期にしか溜池に引き、貯めることができませんでした。

雨が少ないことは、台地の農業にとって決定的な条件でした。

つまり、印南野台地は、地質的な、地形的な、そして少ない降水量と言う不利な条件の中で農業をいとまなければならなかったのです。

さらに水利権という社会的な条件が加わります。

そのため、厳しい歴史を刻んでいます。

蛸草は、そんな印南野台地上の典型的な村でした。

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稲美町探訪(469):蛸草を歩く(12)・蛸草の地形②

2011-04-17 09:27:04 |  ・稲美町加古

 蛸草の地形②

つて、蛸草の地は海の底

1f0fa697 地図をご覧ください。

印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。

この図は50~60万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

現在の印南野台地はありません。もちろん、蛸草の地もありません。

そこは海の底でした。

この海に川を中心として周辺から土砂が猛烈に流れ込みました。

土砂は、海底では比較的平に堆積します。

今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。

そして、一段高い平らな土地をつくりました。

これが印南野台地です。 その中央部に蛸草があります。

ここに降った雨はたちまちに地中に吸い込まれる構造となっています。

そのため、印南野台地は水が得にくい土地で、長い間住む人を遠ざけてきました。

ほぼ平坦な台地ですが、東が若干高く、西に行くにつれ徐々に低い地形を形成しています。

これは六甲変動に伴う地形です。

     豊富な地下水

この一段高い地形は、かつて海底であったため、積もった砂や小石まじりの地層でできており、水はたちまち復流水となり地表に大きな川をつくりません。 

『稲美町史』(17)をご覧ください。

草谷の分はないのですが、稲美町のボーリングで確かめられた「地質柱状図」があります。地中の構造図です。

土地の表面から水を通さない粘土層までの間は礫層・砂礫層です。

それでは、蛸草の地には水がないかというと答えは「ノー」で、礫層・砂礫層を通り抜けた豊富な地下水があります。

稲美町の酒造り、特に蛸草の酒造業については後に紹介しますが、稲美町は江戸時代から酒造りが大変盛んでした。

酒造りのための水は、この豊富な地下水が利用されました。

でも、農業のためには地表水が必要なんです。

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