明日、11月1日(日)は、「稲岡工業株式会社文書」
保存と活用についての報告・講演会
いよいよ明日、11月1日(日)、稲岡工業株式会社文書野保存と活用についての報告会が下記のように開催されます。
たくさんのご参加をお待ちします。
明日、11月1日(日)は、「稲岡工業株式会社文書」
保存と活用についての報告・講演会
いよいよ明日、11月1日(日)、稲岡工業株式会社文書野保存と活用についての報告会が下記のように開催されます。
たくさんのご参加をお待ちします。
鳥町の戦い(2)
鳥町の戦いについては、読み本として脚色されてはいますが、『播州太平記』に面白い話があります。
「加古川評定」の後、毛利側に味方した三木城に押しよせた羽柴秀吉は、鳥町(三木市鳥町)に陣を構え、三木城をせめました。
鳥町は、三木城の北西の集落です。
三木城の下を流れる美の川(みのがわ)が加古川に流れ込む中間あたりに山塊があり、その山すそと崖の上の集落が鳥町です。
夜 襲
天正六年(1578)四月五日戌の刻(午後八時)、三木城が他の領主、櫛橋(志方軍)、長井(野口軍)、神吉(神吉軍)、梶原(高砂軍)等が、ひそかに秀吉軍に忍び寄りました。
秀吉勢は、昼間の戦いの疲れと酒に酔って熟睡しているところでした。
どっと斬り込んだのです。
秀吉軍は、驚いて逃げまどい、総崩れになりました。
そこに、三木城からも約千人が討って出たので、秀吉勢は、大敗となりました。
以上が、『播州太平記』に描かれた「鳥町の戦い」の内容です。
秀吉軍は7500に対し、夜襲を敢行した播州勢は、たかだか1300人でした。
しかし、そのどよめきは、万を越す軍勢と思わせるに充分でした。
うろたえ、おののく秀吉勢は、疑心暗鬼に陥り、本陣は蜂の巣をつついたようになり、徐々に美の川に追い立てられるのでした。
ついに、追い詰められた秀吉軍は、たまらなく大久保、魚住方面へ潰走したのでした。
播州勢の大勝利でした。
三木城の支城をつぶせ
秀吉は、鳥町の大敗の後、作戦を練り直しました。
それは、三木城を取り巻く支城を先に潰し、三木城を裸にして攻め上げようとする作戦です。(no3002)
*挿絵:PCより
鳥町の戦い(1) 戦場は鳥町(三木)
上杉謙信の急死は、衝撃波となって日本国中をかけめぐりました。
さっそく、三木城が、秀吉勢に包囲されたという急報です。
神吉城では軍議が召集されました。
「謙信死す」との急変に、神吉城としても家臣の揺らぎの火種が、くすぶる怖れがありました。
城内が動揺する芽を素早く摘み取る必要があります。一時の猶予もありません。
神吉の軍議は、これまでは合議制を重んじていたのですが、この日の軍議は違っていました。
戦いは数ではない
頼定が、その決意を一気に意思統一をまくしたてたのです。
「秀吉に夜襲を掛ける、そこに勝ち目がある」「夜襲を仕掛ける兵の数は、さほど重要でない」「敵は大勢、味方は小勢だ。敵にはおごりと油断がある。我らは、そこを一気に突くのだ」ときっぱりと言い張るのでした。
さらに「なにも、神吉だけで夜襲をかけるのではない。東播磨の諸領主も夜襲に加わる」と、付け加えました。
なんとしても、秀吉との一戦で、戦いは数だけでないことを証明し、そして、なんとしてもこの一戦に勝利を勝ち取らねばなりません。
その勝利こそが、その後の士気になります。
秀吉が、天正六年三月二十九日に三木城を攻撃した日から、わずか六日後のことでした。
神吉の兵200、志方城160、高砂城150、野口城100が結集地の河合の庄をめざしました。
淡河城主の淡河定範勢200も北上して美の川を渡る手はずになっていました。
目指すは、三木城の東の鳥町でした。(『別所記』)(no3001)
*写真:現在の鳥町から南東を見た風景(戦場になったあたりか)
「ひろかずのブログ」が、3000号に
「ひろかずのブログ」が、きょうで3000号になりました。
ブログを、はじめて以来、約10年です。
退職(定年60歳)後、2年間は「大学」で学生生活をしました。「ひろかずのブログ」は、その後、スタートさせました。
第1号は、2006年6月14日、17:50分でした。
以来、大きな故障もなく続いています。
はじめは、「散歩しながら感じたことをエッセイ風に書こうかな」と始めましたが、すぐ書くことが無くなりました。
それに、なにより拙文が嫌になりました。
4000号までつづけます
そんな時に、どこかで司馬遼太郎さんは語っておられました。
内容は「歴史小説ならば、事実をならべて、その間を埋めれば出来上がります」と。
もちろん、司馬氏の謙遜ですが、大好きな司馬さんにならって、地域の歴史の事実をならべて、自分の思いを少しだけ混ぜて、文章にしています。
それが、きょうで3000号になります。
その間、いろんなところで、調べたことをお話させていただきました。楽しい思い出がいっぱい詰まりました。
とにかく、4000号まで続けることにします。
その時、私は76歳を超えています。
たぶん、「ボケ」ているでしょうね。
とにかく、できる間「善意の」押し売りを続けます。
お暇な時にでもお読みください。(no3000)
*「ひろかずのブログ」で検索ください。
11月1日(日)
「稲岡工業株式会社文書」
保存と活用についての報告・講演会のお知らせ
11月1日(日)、稲岡工業株式会社文書野保存と活用についての報告会が下記のように実施されます。
たくさんのご参加をお待ちします。
頼定、毛利方への味方を決める
神吉の重臣は、神吉城の広間に集められました。
頼定は、静かに結論から話し始めます。
「・・・我らは、本日をもって、織田の絆から離れ、毛利に寄騎(味方)する・・・」
家臣たちは、言葉を失いました。
頼定は、東播磨を取り巻く情勢を説明しました。
そして、秀吉らの、「土地を取り上げるという」という「たくらみ」を諄々と説きました。
家臣たちは、まんじりともせず聞き入りました。
評定は、続きましたが、やがて頼定と心を一つにすることができました。
はっきりと、信長・秀吉側に反旗を翻しました。もはや、後戻りはできません。
そうと決まれば、頼定は素早く行動を起こしました。
天正六年(1578)三月五日、芸州の毛利と大坂の石山本願寺へ急使をおくりました。
もちろん、内容は、「毛利・石山本願寺に味方したい。ついては、今後、援軍をお願いしたい」と言うことでした。
天正六年三月十三日、上杉謙信死す!
歴史は、時々非情な物語を準備します。
上杉謙信、天正六年三月十三日、享年四十九才で急死しました。
死因は脳卒中であったといいます。
この時、謙信は上洛の準備をしていました。
三月十八日に、謙信の死は石山本願寺にも、神吉にも伝えられました。
たちまち、このニュースは、日本国中を駈けめぐりました。
それにしても、神吉頼定が毛利方に味方することを決めたのが三月五日とすると、謙信の死の知らせは、その二週間後に届いたことになります。
神吉頼定は、愕然としました。
毛利に味方を決めた大きな理由は、「秀吉の土地を取り上げるという裏切り」ばかりでなく、上杉謙信、石山本願寺、そして毛利の信長包囲網があっての決断でした。
その一角が、ガラガラと音を立てて崩れ去ったのです。
しかし、神吉は、もはや後戻りはできません。(no2999)
*写真:上杉謙信
天正六年十二月四日、三木の別所の呼びかけに応じ、東播州の神吉頼定等、多くの領主が、三木城に集まり軍評定を持ちました。
評定は、当然のように毛利に味方する方向に進みました。
頼定の苦悩
頼定は、なやみました。神吉は、一貫して信長・秀吉に味方して行動してきました。
なによりも、神吉一族の存続を第一に考えて行動をしてきたのです。
神吉一族の団結を何よりも大切にして来ました。
しかし、上杉謙信が毛利、石山本願寺に味方することが確実になってきている情勢の中で、神吉城も一枚岩ではなくなりそうです。
神吉城ばかりでなく、東播磨の城主が二つに分かれては、毛利に味方するにしろ、信長に味方するにしろ、その後には、悲劇があるばかりです。
「秀吉の下知に従え」が意味すること
頼定は、どうしても納得がいかないことが絶えず頭を駈けめぐっていました。
加古川評定での「播州勢は、毛利攻めにおいて大将(秀吉)の下知に従え」と幕を引いた秀吉の態度のことです。
この言葉は、東播磨の多くの領主を、毛利方に追いやる決定的な言葉です。
毛利攻撃を決める評定では最もふさわしくない言葉です。
聡明な秀吉のことです。加古川評定で、いかに感情的になっていたとはいえ、絶対に言うはずのない言葉です。
「彼の言葉は、計算づくで、発せられた言葉」としか考えられません。
「なぜ!」・・・・
頼定には、「秀吉の下知に従え・・」の意味するところは、東播磨の領主たちを毛利方に追いやり、力で東播磨を、信長・秀吉の支配地とする」としか考えらません。
つまり、東播磨の土地の取り上げです。事実、忍びたちからも、それを裏づけられる情報が増えています。
頼定は、積んでは崩し、崩しては積み、さまざまに考え悩みました。
ついに、決心しました。
「神吉城(頼定)は、方針を変え別所、そして東播磨の領主と共に毛利方として戦う」と。(no2998)
「上杉謙信動く」の報が届く
天正六年(1578)、三月四日。
三木の別所長治は、神吉頼定ら東播磨の主だった領主を、三木城に招集しました。
別所が、織田陣営より、突如、西国の毛利へ大きく舵を切った策に、不審を持つ東播磨の領主が現れても何ら不思議ではありません。
別所を東播の盟主と自他共に認めてはいるものの、どれほどの領主が集まるか、長治には一抹の不安がありましたが、想像以上の領主が集まりました。
長治は続けました。
「さる(二月)二十四日の加古川表でござる。筑前守の申されようは常にあらず。筑前守は、(『別所長治記』)と公言してはばからなかった。この有様は、ご存じのとおりである」
この、筑前守の態度は、我々としては、とうてい許せるものではない。
・・・・
三木別所の考えを、後世の歴化家は信長の力を知らぬ田舎侍に映るかもしれませんが、当時の戦況をみると必ずしもそうとは言えません。
上杉謙信か上洛し、大坂の本願寺、そして毛利軍と共に信長軍に対抗するとなると、勝敗の行方は、読み切れない状況でした。むしろ、毛利軍に有利と読むのが当然かもしれませんでした。
(神吉)頼定は、心の隅に異論があるものの、この乱世にとの思いが根底にありました。
速報! 上杉謙信の出立つは、 (天正六年)3月15日
三木城での軍議の最中、緊急の情報がもたらされました。
「各々方、上杉殴の上洛の日取りが決まりましたぞ」と、賀相が告げました。
内容はこうである。
「顕如上人から緊急、且つ重大な知らせが届いた。十一日後の(天正六年)三月十五日、上杉の軍勢は、越後を発し、信長討伐に向かう」とのことである。
歓声が沸き起こり、異様な熱氣が充満しました。
神吉へも、石山本願寺より同内容の報らせが届きました。(no2997)
*写真:上杉謙信(新潟県上越市)
「稲岡工業株式会社文書」
保存と活用についての報告・講演会のお知らせ
11月1日(日)、稲岡工業株式会社文書野保存と活用についての報告会が下記のように実施されます。
たくさんのご参加をお待ちします。
神吉城の評定 続く激論
翌日の評定は、辰の刻(午前八時前後)に始まりました。
重臣たちは、それぞれの思いを胸に、城主の着座を待ちます。
やがて、小姓の声が流れ、城主か着座しました。
城主・頼定は、重臣へ情勢を「播州は、未曾有の回転的な情勢にある。織田に味方するも、毛利に寄騎するも、いずれにしても強国を敵とするに変わりはない。この渦中にあっては、神吉は、大波に翻弄される木の葉同然である」
「すでに我らは、信長公に味方すると決しているが、加古川評定の決裂で、播州は、再び鳴動を余儀なくされた。〝我の下知に従え”との筑前守の申されよう、尋常にあらず。この一言が播州に不穏な動きを引き起さ腹ともかぎらぬ」
三木の別所、御着の小寺、その旗幟は未だ鮮明ではないが、神吉はこの変転する状況に惑わされず、再び我らの領土を安堵する策を講じざるを得ない」と告げました。
さらに、「ただ、結論は領土を安堵する、この一点にある」「たかだか一万石、二千足らずの兵をもって力の対決は愚挙である。我らは謀を成し、相手の弱みを見抜き、神吉が生き抜く術を立てねぱならない。巳の弱みを自らが知るを以って、この難事を乗り切るを最とするものである。いたずらに軽挙妄動をせず、挑発に乗らぬことが肝要である」と、頼定は、評定の意義を強く述べ、力での対決を避けるように告げるのでした。
信長に味方 VS 毛利に味方
叔父の定光は、「時は、今が大事」と、別所への同心を主張しまた。
しかし、もう一人の叔父定行が反対しました。
「神吉が、毛利に味方するにしても,毛利は、元就公あっての毛利一族である。今や元就公の芸州ではない」
定行は、「毛利が天下を狙う時は、すでに失した」と主張しました。
「毛利は動く気配がない。一方、信長公は好機を逃さず、天下取りに徹している」と定光は、これに異議を唱えました。
「この先、筑前守に、時の運があり、天が味方しても、その前に神吉は同族より、裏切り者の賂印を押され、たちまち成敗されるやもしれぬ」と、 定光は、毛利への寄騎を必死に訴えました。評定は、続ききました。 (no2996)
三木は、毛利につくことを決める
賀相(よしすけ・三木城の筆頭家老)は、加古川評定から三木に帰えりました。
賀相は、評定の報告を城主にし、しばらくして、会議を開きました。
会議は、まずは、<播磨勢は(秀吉の)命に従え>という秀吉の不遜な態度の報告から始まりました。会は紛糾しましたが、信長に味方した重棟(第二家老)はその場にはおらず、大きな異論もなく、三木城は毛利に味方することが決定的になりました。
神吉城の復命
三木城の軍議が紛糾していたそのころ、神吉城でも重臣たちが集まり、城主の加古川評定の報告を待ちました。
頼定は、「この度の評定は不首尾となった」と、きっぱりと報告しました。
会場は、一瞬ざわめきに包まれました。
「兄上、筑前守かまことに、<播州勢は、秀吉の下知に従え>と申されたのですか、某(それがし)には信じられません」
気色ばんだ頼之が兄に問い返しました。
頼定は、別所の軍略を事細かに話して聞かせました。
「筑前守は、何をもって不足となされたか合点が参りませぬ、それにしても筑前守の「下知に従え」とは、いかにも一方的な申され様、何か含むところがあるのかも知れぬが、某(それがし)も、しかとげせませぬ」
不満(不安)の度合いが、会議の間に、さらに高まりました。
筑前守か「播州勢は、秀吉の命令に従え」と加古川評定の幕を引いたのは、どう考えても不審なものが残こる。
なぜ、賀相や(三宅)治忠が評定半ばにして席を立ったのか、これも解せぬ。
が、重臣への説明が、一通り終わったのをみて、頼定は「明日、あらためて「評定」を開く。明日の評定で我らの策を決する」と会議の終わりを告げました。
頼定は、緊急事態とはいえ、急いて結論を出すのを嫌ったのでしたが、冷静に一晩考えたかったのでした。(no2995)
*『信長の跫(あしおと)・神吉修身著』(かんき出版)参照
*写真:神吉城後に建つ常楽寺
加古川評定(4)
加古川評定は、三木の裏切りを確かめる儀式だったのか
秀吉・官兵衛は、「三木方が毛利に味方すること」を、加古川評定ではじめて知ったということはないはずです。
秀吉のことです。情報をいっぱい集めて、三木城が毛利につくことは前もって分かっていたはずです。
一般的に、加古川評定で、秀吉がことさらに別所氏の戦法を侮辱したのは、「今のうちに反抗させて、それをたたき漬して、後の憂を断ってから毛利討伐に備えよう」ともいわれています。
しかし、信長は、なんとしても、三木城そして、それに続く東播磨の諸城を無傷でちょう略し、来たるべき毛利戦に備えたかったのです。
そのため、秀吉は、一応加古川評定という儀式を開催し「三木の態度はかたくなであった」との理由づくりをしたのではないかと、勘ぐりたくなります。
なせか、『信長公記』は、「加古川評定」については、触れていません。はっきり書けない何らかの事情があったのでしょう。
三木別所氏の裏切り
三木城の裏切りの理由について、神吉修身氏は、自著『信長の跫』(かんき出版)で、次のように述べておられます。
(1)別所は、以前より信長の非情な政治に疑いを持っていた。
(2)別所の離反は、官兵衛の謀略で、別所を先鋒にした信長が決めていた毛利攻めの陣立てを変更し、毛利の自尊心を砕き、不満を誘発させて毛利側に寝返らせ、これを<裏切り>として攻撃しようとした。
(3)秀吉が、わざと別所の戦法を侮辱し、挑発したのは、別所の反抗の意思の「ある、なし」を読み取ろうとした。
(4)名門の別所の自慢話に、秀吉が思わず感情に走り<我の下知に従え>と暴言を吐いた。これも予定の暴言であったのかもしれない。
(5)毛利の外交憎、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の裏工作(外交)が成功し、別所を裏切らせた。
ともかく、三木・別所氏は、毛利に味方することが決定的になりました。(no2994)
*地図:加古川城跡の位置(『加古川市史(第二巻)』より)
加古川評定(3)
それぞれの思惑
播州最大の勢力を持つ別所氏は、評定に先だって毛利への加担を決めていたようです。信長は、何としても播磨地方を無傷で抱き込みたかった。そして、毛利に対抗したかったのです。
が、秀吉は「別所が信長にそむくのなら、それもよし、力で播磨をねじ伏せるまで・・・」と、考えたのかもしれません。
来るべき毛利軍との戦いの途中で態度を急変させられてはかないません。
加古川評定、決裂!
以下、『播磨灘物語』から引用します。
・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまった。当然ながら秀吉は正面にいる。
播州者は、みな秀吉をあるじであるがごとくに秀吉にむかい、はるかに下がって居ならんでいる。
「なぜ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(よしすけ)のごときは「ちょっと、厠に・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。
評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる座にすわっておるのか・・・」と言いたかったところであろう。
長い会議となった。賀相は、重臣の三宅(三番家老)に長々と戦法を講釈させた。
たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させ、「・・・戦のかけひきは、大将である自分(秀吉のこと)がそれを仕る。各々方は、わが指図のとおり動いて下さればよい」・・・(『播磨灘物語』より・一部文章を変えています)
賀相は、この評定のようすを城主・長治や重臣たちに伝えた。「・・・秀吉の態度は、まことに無礼であった・・」と。
三木(別所)の、毛利への味方は決定的になりました。
加古川評定は、一般的にこのように語られています。
しかし、加古川評定は若干疑問が残る評定と思えるのです。次回検討することにしましょう。(no2993)
加古川評定(2)
別所長治(三木城主)・小寺政職(御着城主)参加せず
天正6年(1578)2月23日、秀吉は、評定のために 7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)に向かいました。
この加古川評定は、毛利攻めの方策を論じる軍評定のはずでした。
別所は、長治の名代として、叔父の賀相と三番家老の三宅治忠、を評定へ送り込みます。
その他、東播磨の主だった城主、神吉城(神吉頼定)、野口城(長井艮重)、英賀城(三木通秋)、石守城(中村重房)、瑞谷城(衣笠範景)、魚住城(魚住頼治)・阿形城(油井勝利)、高砂城(梶原景行)、志方城の輝橋伊定、淡河城(淡河定範)らは、加古川評定に加わりました。
しかし、播州の二大勢力の当主・三木城主(別所長治)、御着城主(小寺政職)の姿はありませんでした。
三木・別所氏が信長方に味方すれば、他の領主もそれに倣ったかもしれません。
しかし、三木城は、この加古川評定前に、毛利氏への加担を決めていたようです。
会場からの実況(『播磨灘物語』から)
・・・重棟(三木城二番家老)は、兄の賀相(三木城筆頭家老)とは違い、早くから(織田)信長に接近し、今度の「加古川評定」においても、秀吉のそばにあって、その支度方(したくがた)をつとめている。
ほとんど秀吉の家来のようであるといってよい。 ・・・(略)・・・「あの馬鹿が」と賀相(よしすけ)は重棟のことをいう。
織田の天下になれば、当然、早くから織田に接近している重棟の方が別所家における大勢力をつくることになり、賀相の勢力は転落せざるをえない。
「たれが織田につくものか」という賀相の肚の中で黒煙りを立てて渦巻いている感情は、打算的には家中の一向宗(浄土真宗)を抱き入れておかねばならないという理由の外に、その理由を凌ぐほどの、重棟に対する感情があった。
賀相に露骨にいわせるとするならば、「自分の目の黒いうちは別所の家を織田に味方させぬぞ」ということであったであろう。・・・・(以上『播磨灘物語』より) (no2992)
加古川評定(1) 加古川城に集まれ・・
天正5年(1577)秀吉は、毛利に味方した岡山との境の上月・福原の小さな山城を陥落させました。
陥落させた上月城には、毛利に攻められ、お家再興を目指す尼子衆700人を入れました。
秀吉は、信長への報告のために、12月の中旬、いったん近江安土に帰えります。
秀吉が播州を留守にしている間に、播州の諸豪族の間に不穏な動きが生じたのです。
年が明けてしばらくすると、播州勢のほとんどが毛利方に翻るという事態になってしまいました。
その最大の要因は、なによりも上杉謙信・石山本願寺・毛利軍の信長の包囲網です。
そして、毛利の強力な播磨工作のためでした。
その他に、播州という土地柄にも原因があったようです。
播州は、浄土真宗の影響が強く、本願寺に敵する信長を「仏敵」として、門徒衆が信長方に味方することを許さない地盤でした。
また、播州の多くの諸豪族は、家門の上下・家柄という意識に縛られていました。信長・秀吉という筋目のない者の下に着くことをよしとしなかったのです。
この情勢に官兵衛は、秀吉に早期の播磨入りを要請しました。
秀吉は、急ぎ播磨入りを決め、加古川で評定(会議)を開くことの触れを出しました。
司馬遼太郎は、加古川評定の行われた加古川を『播磨灘物語』で、加古川を次のように書いています。
「・・・場所は、姫路ではない。姫路では西に寄りすぎる。加古川ということにした。加古川は播州の海岸線のほぼ中所(なかどころ)にあり、どの地方からやって来るにしても便利であった・・・」と地理的な利便性をその第一の理由として挙げています。(no2991)
*写真:称名寺(もと、加古川城があった場所・加古川西高校から東へ約500メートル)